Thinking Essays



        利己心・道徳・経済的繁栄


                                            1998/1/25.






       この日本では経済活動にたいして道徳を問われることはほとんどない。

       犯罪や公害、環境破壊などがおこったときには、それらはおおいに問題になる。


       だが、ふだんの経済活動にそれが問われることは、まずない。

       だれひとりとして、経済活動を道徳面から考えようともしない。

       この国では、金儲けや利益至上主義、会社拡大主義などを、

      無条件に肯定してしまっている。


       それが私利私欲な活動ではないのか、といった懐疑をだれも抱きはしない。


       多くの人は個人的には懐疑を抱き、金儲けは無条件に肯定しない、

      と心のなかで思っているのかもしれないが、表面的にはぜんぜん現れてこない。

       私利私欲と金儲け主義の企業活動が蔓延している。


       もちろんわたしもそれを道徳面から非難して善行をなせだとかは言わないし、

      みずからの麻痺してしまった個人主義的生活を捨て去るようなことはしないだろう。


       わたしが問いたいのは――自分でもその問いがまだよくわからないが――

      道徳面から金儲けをどう考えればいいのか、といったことではないかと思う。


       わたしのなかには、金儲けや会社の儲け至上主義などにたいする、

      ぬぐいがたい懐疑が巣食っている。

       だから会社勤めに熱を入れることはできないのだが、

      しかし働かないことにはメシを食えない。

       この矛盾のなかで、経済の道徳的側面を考えてみたいのだ。


       経済を道徳から考えようとした人は驚くほど少ない。

       この日本にはだれも経済の道徳を考えようとした人はいないみたいだ。


       まだ探しはじめたばかりなので、たぶん多くはもれていると思うが、

      経済を道徳から探った人には、やはりアダム・スミスやマンデヴィルといった、

      利己心を称揚した人たちがひっかかってくる。

       日本では経済倫理学というジャンルの竹内靖雄という人がいるみたいだ。


       経済学の多くは、富をいかに大きくするか、富をどのように分配するか、

      あるいは景気はどうすれば浮揚するかといった問題を考えているようだ。

       道徳から考えようとした人はほとんどいないみたいだ。

       だいたい、げんざいの経済学は国の政策という面から、

      考えることが多い――それがあたり前のことのようになっているようだ。

       わたしが問いたいのは、個人的な身のまわりの世界の、

      やりたい放題になっている経済の道徳性といったものではないかと思う。


       おそらく社会主義思想というのは経済学であるけれども、

     人間の道徳的感情から、おおいに人を魅きつけるものになっていったのだと思う。

      たびかさなる恐慌や貧困の悲惨さなどによって、

     道徳的側面から社会主義思想は力をもっていったのだと思うが、

     長い実験の結果、それは計画の失敗や官僚や権力の腐敗をもたらしてしまった。


      いまは自由主義の流れが、ハイエクやフリードマンの思想、

     もしくは計画経済の失敗から、ふたたびもり返そうとしている。

      わたしもビジネス書などをいくらか読み、そうだ、

     保護主義政策はひとびとに財貨をもたらすよりか、腐敗と無気力をもたらしただけだ、

     と思うようになってきたが、だけど無条件の金儲け主義にはやはり懐疑的だ。


      ビジネス書は経済のじっさいや歴史を学ぶために参考にさせてもらっているが、

     たいがいの著者はその前提になっている金儲けになんの疑問ももっていない。

      ときには金儲け主義の考えにどっぷりつかることもあるが、

     わたしはそのような前提を無条件に肯定する気はぜんぜんない。


      なぜかれらはこのことに疑問を抱かないのかと思うこともあるが、

     たぶんかれらは貧困に陥らないための処方箋で頭がいっぱいなのだろう。

      かれらにとって振興策は、道徳的価値をもつものなのだと思う。


      しかしそれらの経済政策、むじょうけんの経済至上主義の追求は、

     昨今、顕著になってきた官僚・経営者などのトップ・エリートたちの腐敗をもたらした。


      わたしは勉強不足でよくわからないのだが、

     かれらはいまになって、なぜこれまでもおこなわれてきたと思われる行為によって、

     逮捕されるようになってきたのだろうか。

      業界からの官僚の接待や賄賂、企業からの総会屋への賄賂といったものは、

     これまでも公然とではないが、暗黙の慣行として認められるものではなかったのか。

      新しく入ってきた自由主義の流れによって、

     かれらは急激な方向転換をはたせず、悪役に祭り上げられたのだろうか。


      まるで終戦後におこなわれたパージ(公職追放)みたいなものだ。

      これによって戦後の日本は公職や企業のトップ層の若返りが可能になり、

     生き返ることができたといわれているが、いま、同じことが行われているのだろうか。

      でもGHQがあるわけではないし、だれが指示を出しているのだろうか。

      腐敗や談合の体質があらたまるのはいいことだし、

     これまでの成功体験はもう通用しないというよい例にはなるが。


      トップ・エリートたちの腐敗・失政はどうも経済がうまく回らなくなると、

     たちまち露見してくるようだ。

      経済的な失敗はかれらの無能ぶりや醜態をさらけだすことになったが、

     かれらも人間なのだから、経済の大きな転換期にはすぐに対応できないだろう。

      ぜんぜんうまくいかない経済にあたふたしていると、

     たちまち悪役に祭り上げられるのは――仕方はないかもしれないが、

     そんなに人間に完璧なまでの万能策をもとめてもムリだと思うのだが。

      感情的に非難するのはかわいそうだ。

      もちろん仕事での失敗や犯罪行為ではきちっと責任をとるべきだ。


      官僚や役人たちの公費のムダ使いにもそれなりのワケがある。

      自分の部や課の必要性は、どれだけカネを使ったかということで測られる。

      かれらはカネを使わないことにはその存在理由を認められないわけだから、

     どうしてもムダ使いでもしてカネをしこたま浪費しなければならない。

      そういうことでカラ出張などのムダ使いはおこなわれるのだと思う。


      かれらは医者と同じように、みずからの仕事を終わらせるための仕事に従事している。

      医者は病気を治すことによって、みずからを失業においこむ運命に立たされている。

      でも人間から永久に病気を追放することはできないのであるが。

      お役人の仕事もそういう性質をもつものであるが、

     それを悟らせないためには、カネをおおいに使い切ることが必要になる。

      お役所にとってのカネのムダ使いはみずからの存在価値のアピールなのである。

      カラ出張とか接待とか、感覚がマヒしてとうぜんの制度に縛られている。


      さっこんのトップ・エリートたちの腐敗や暴走は、

     集団や企業の独特の利益構造にその根があるようである。

      ほかの社会の成員たちにはそのような利益のつながりかたが見えない。


      どうもこの企業社会は、無数の集団がそれぞれの利益を追求していて、

     ほかの社会から没交渉になっているような面がある。

      ある集団内での利益構造――つまり損得勘定や慣習が絶対になっていて、

     そこに属する個人はそこから逃れられない。

      つまりある国で善であるものがほかの国ではまったくそうでないことを、

     かれらはまったく気づかないような状況におかれているわけだ。

      われわれだって自分の国で善と思われていることが、

     よその国では悪でもあることに、思いもおよばないだろう。

      われわれもひとつの会社集団のなかで、同じ環境におかれているはずだ。

      うしろに縄がまわってはじめて、この社会との感覚がズレていたことに気づく。


      われわれのたいがいの人は、この会社集団という世界だけが、

     ゆいいつの世界になってしまっている。

      ほかの社会や世界とのつながりは希薄になっているし、

     社会全体の利益や道徳、または国全体のことに考えがほぼ及ばないようになっている。

      このような状況では、企業集団の感覚がマヒしてもおかしくない。

      社会全体からのたえざるチェック機能といったものが、

     なんらかのかたちで必要だ。


      そういうチェック機能をもっていたのが、政治や官僚であったわけだが、

     業界との癒着や利益の同一化などによって、信頼するに足りないものになり、

     赤サビた船のようにいっしょに沈んでしまった。

      テレビや新聞がげんざいのひじょうに強力なチェック機関になっているわけだが、

     テレビはおもにスポンサー企業からの収益によってなりたっているため、

     どこまで信頼してもよいものか疑問だし、

     みずからもつにいたった権力のあつかいにも注意が払われていないように思われる。

      あとはインターネットからの個人の声が、利益や損得勘定にしばられない、

     チェック機能になればいいと思う。


      さて、もとの道徳の話にもどりたいと思うが、なにからはじめればよいのか、

     わからないが、身近なところから出発しよう。


      セールスマンから考えよう。

      わたしはこちらの都合も考えずにドアをノックするセールスマンが大きらいだが、

     それは自社の利益のために自分がカモにされているような気分になるからだ。

      営業活動というのは、金儲けのエゴイズムにしか思えないのだ。

      だからホントに営業マンというのを信頼していないし、きらいだ。

      その人間性まで疑ってしまう。


      だけど、そこまで営業活動をきらったら、自分の仕事すらできない。

      営業活動というのは、ほんとに私利私欲を追求する手段でしかないのだろうか。


      なぜわたしはここまで営業活動というのを嫌ってしまったのだろうか。

      まずはこちらがまったくほしくないものでも、求めているものでもない商品やサービスを

     むりやり押しつけてくるからだろう。

      こちらがひとつも望んでいないものだから、ただ向こうの都合ばかりが見えてしまう。

      向こうの都合と私利私欲だけを押しつけられている気分になる。

      一方的な都合のうえだけにセールスはなりたつから、気に食わないのだ。

      だからセールスが嫌いなのだろう。

      ドアをとつぜんノックされても、わたしは出ないし、ドアを蹴りたくなる。


      それにたいして、店はあくまでも商品をならべて、客の好きなように選ばせる。

      選択は自由だし、冷やかしも自由だし、店員の押しつけがましい態度もない。

      そういった意味で、コンビニやスーパーは繁盛するのだろう。


      百貨店やときに小さな店などは、すぐに店員が張りついてくるから、

     わたしはあまり好ましく思っていないし、ときにはゆっくり選ばせろと腹がたつ。

      多くの商品を確かめた上で選択したいのだが、それさえ許さない。

      向こうの売り上げを伸ばそうとするエゴイズムしか見えないわけだ。

      客の自主性を尊重しない店は、守銭奴のガードマンを店に立たせているようなものだ。


      相手からむりやり押しつけられるセールスに、わたしはたいそう不快感をもっている。

      それは金儲けのエゴイズムや利己主義を感じるからだろう。

      もちろんかれらだって会社から蹴飛ばされてきたのだろうし、

     生活もかかっているわけだから、その人格を疑うのはかわいそうだが、

     ほんとうにセールスなんて嫌いだ。


      むりやり商品を売りつけるなんて、道徳的に許されるものではない。

      だが、この企業社会では、そういった営業活動で多くがなりたっている。

      会社というのはすべてが営業活動のようなものであり、

     つまりドアをノックするセールスマンのようなものである。

      このように斜に構えているわたしはなかなか仕事に熱中することはできないし、

     でもそれでは自分のおまんまも食えなくなってしまう。

      企業活動は私利私欲なエゴイズムの追求ではないのだろうか。


      だけど、ふしぎなことに、この社会では自己の利己心を追求しておれば、

     社会の富の拡大や富の繁栄に結びつくようである。

      人間は自己の利己心を自由に追求しているときにだけ、

     かなりの力を発揮するようである。


      自由な利己心の追求は、社会の富と繁栄をもたらす。

      これは多くの歴史が証明している。

      アメリカの繁栄もやはり自由な経済活動のおかげだし、

     日本でも規制の少ない業界は世界的な競争力をつけ、

     ぎゃくに保護され、規制された産業は、

     競争力も発展力もない赤字産業に落ち込んでしまっている。


      自由が抑圧された社会主義国はソ連であれ、北朝鮮であれ、

     経済危機と貧困を招来しているし、競争力を欠いている。

      またたとえば、アメリカのコミック界は多くの暴力・性描写の規制をうけ、

     そのために比較的自由であった日本のマンガ界に大きく水をあけられた。

      手塚治虫はアメリカのディズニーのマンガを見習ったが、

     のちの日本のマンガ家たちは世界のいたるところにそのマンガを輸出するようになった。


      社会の道徳が力をもつようになれば――それは表面的にはたいそうすばらしそうだが、

     経済や文化の発展を阻害してしまう。

      道徳や宗教が力強く社会を覆っているような国は、

     ――たとえばイスラムやインドのような国では経済発展は見こまれない。


      社会の道徳が力をもつことはすばらしいことのように思える。

      自由経済の貧富の格差の拡大や貧困の悲惨さに、

     社会の多くの人は心を痛めて、かれらを救済する策にのりだす。

      しかしあまりかんばしい成果を得られないようだ。


      競争や優劣の差をつけるのはよくないといって、

     保護政策や関税、規制などでその業界なり産業なりを(人間もそうみたいだが)、

     守ろうとすれば、結果的にそれらの産業は衰退し、自立できなくなる。


      道徳的な思いやりは、表面的にはとてもすばらしいことのように思えるが、

     長い目でみれば、いずれもよい結果をのこさない。

      ふしぎなものである。


      人を助けたり、思いやったりする高貴ですぐれた行為や思いが、

     社会や人によい結果をもたらさないのだ。


      ただこれは経済発展や文化的繁栄に価値をおくばあいだ。

      もしそれらがどうでもよい、価値のないことと思うのなら、

     そのような結果はべつに重要でなくなるだろう。


      われわれの時代は経済にひじょうに価値をおいている。

      経済的に富むことや繁栄すること、また社会の成員が失業せずにメシを食えること、

     あるいは文化的・社会的に繁栄することにものすごく価値がおかれている。

      このようなモノサシが善や正義そのものになっているのなら、

     われわれはこの目的になんの懐疑も疑問も抱かないだろう。


      ただそれだけが人間や社会のすべての目的かどうかは疑問である。

      人類にとって経済の発達がどんな意味をもつのか、

     文化の繁栄が人間にとってなんの必要があるのか、

     といった疑問も考えてみなければならない。

      これらはわれわれにとってとても魅力的なものであるが、

     大きな目で見てみて、ほんとうに必要なのかといった問いも必要だと思う。


      経済的繁栄だけに価値をおくようになると、

     人間の私利私欲な利己心だけを称揚してしまうことになるからだ。

      こんにちの物質的繁栄の裏には、利己心の正当化という歴史が必要であった。


      なぜ産業革命がイギリスやヨーロッパからはじまったのかは、

     いろいろ理由が考えられるが、科学や技術の発展の前には、

     社会の価値観や意識の転換が必要だった。

      それを用意したのは、利己心が社会全体の利益になるという考え方なのである。


      金儲けなどの利己心が道徳的・宗教的に軽蔑されている社会では、

     経済的発展はみこめない。

      だが、ヨーロッパにおいては、利己心を正当化する思想があらわれた。

      マンデヴィルやアダム・スミスの『国富論』などである。

      個人の利己心の追求が結果的には社会に富をもたらすというこれらの思想が、

     社会に受け入れられたとき、社会は意識の大きな転換を迎えることになる。

      ドラッカーがいうには、これは1720年から1770年のあいだのどこかで、

     おこったということだ。

      こうしてヨーロッパはこんにちの物質的繁栄の時代を築くことになったのである。


      たしかにそうなのである。

      利己心の追求が、社会に富をもたらす。


      だが、無条件に利己心や金儲けだけを肯定する社会は、

     ほんとに居心地のいい社会なんだろうか。

      すばらしい、豊かな社会なのだろうか。


      街に出れば、だれもが自分の金儲けという利己心に腐心していて、

     店に入れば、売り上げを伸ばすことだけを考えている人間に出会うし、

     だれもが自分の好き勝手に行動し、追求していて、

     街の人たちはみな無関心で、共同体のつながりは失われてしまった。

      家族はとっくにばらばらになり、絆すら存在しない。


      政治家や官僚たちは自分の利益だけを追求し、犯罪を犯し、

     企業集団も同じように自社利益のために犯罪行為を犯し、

     若者たちは自己の欲望を満たすために人を殺す。

      社会からモラルは失われ、崩壊してしまった。


      経済的繁栄だけがすべての目標にして考えるのは、

     ほんとうにこの社会にとって、よいことなのだろうか。

      それだけを目標にすえれば、利己心の正当化は目的に適っているが、

     社会はそれだけを目的にしてよいものだろうか。


      ただ、だからといってわたしはかんたんに道徳の復活をもちだすような、

     軽はずみなことを言いたいとは思わない。

      道徳的なすばらしさのなかには、どうもわたしには信頼できないなにかがあるし、

     また、自分の好きなように自由に生きる生き方もとてもすばらしいことだと思うので、

     おせっかいな道徳家たちにつべこべ言われるのはタマらない。


      道徳も、もしかして利己心の追求にしか過ぎないのかもしれない。

      利他行動も自己犠牲も、社会から名誉を受けるための利己心から、

     出ているものなのかもしれない。

      称賛されることがわかっていることをなすことは、利己心ではないのか。

      名誉や称賛を得ようとする利己心が、それをなさせるのではないか。


      道徳的な人がわたしのなかで信用できないのは、

     かれらが批判している利己心は、それこそかれらの行動の動機に

     ほかならないのではないか、と勘ぐるからだと思う。

      善行や自己犠牲も、利己心がその動機ではないのか。


      けっきょく、人間は利己心の追求につき動かされているのだ、

     という懐疑が、わたしのなかにあるわけだ。

      だから利己心を批判するような、すばらしい人間にうさんくささを感じるわけだ。

      どんなきれいごとをいっても、どんなすばらしいことをおこなっても、

     やはりそれは利己心から出たものだ。

      極端に反対なことをなそうとするから、よけいに目立ってしまうのだ。

      わたしはあまりにも無私の善といったものを信頼しすぎていたのかもしれない。


      道徳的な、すばらしい人間というのも信頼できない、

     しかし金儲けの利己心だけで動いている人間も、社会も、信頼できない。

      いったいどのような社会が、わたしはよいというのだろうか。


      金儲けのエゴイズムがどこまでも許され、

     またそれに歯止めをかける社会の道徳や機関がほとんどないに等しい。

      強引な訪問販売や、友人をカモにするようなねずみ講、

     損を承知で客に商品を買わせたり、また返せない客に借金をさせたり、

     下請けにむりな受注や値段の引き下げ要求をするなど、

     この社会、企業のなかには道徳をないがしろにした行為がまかりとおっている。


      個人として、人間として、こんなヒドイことができるだろうか。

      われわれはほんとうのところ、個人としてはこんなことをやりたくない、

     と思っているのではないだろうか。

      しかし会社に入れば、そういった非情で非人間的な行為をおこなわざる状況に、

     追い込まれる。

      売り上げを伸ばさなければクビになってたちまち生活ができなくなるし、

     上司から怒られたり、侮辱される言動には耐えられないだろう。

      そうして社会人になった者たちは、個人的な道徳観をかなぐり捨てながら、

     企業や市場の非情な論理を身につけてゆく。

      そしてかれは部下をもつようになれば、

     同じようにかれらを非情な論理でけしかけるようになる。


      道徳なんか守ってられない。

      人を傷つけたくないとか、苦しめたくないとか、いやな目に合わせたくないとか、

     道具のようにあつかいたくないだとか、そんな他人の思いやりなんか、

     まず保ちつづけることはムリだ。

      企業や市場の論理でそうせざるを得なくなるのだ。

      企業や市場で生き残るのにはそうするしかないのだ。


      人間的な道徳観は、この市場の原理にまるで太刀打ちができない。


      犯罪行為におよべば、警察なり裁判所などが介入できる。

      強引な勧誘などになれば、消費者センターなどが(微力であるが)、守ってくれる。


      だが、われわれから道徳観を守ってくれるものはなにもない。

      思いやりややさしさを守ってくれる道徳律、社会的強制力といったものは、

     この企業社会のどこを探してもない。

      われわれはまるで無力で、立ち尽すしかない赤ん坊のようなものだ。


      会社のだれかが解雇されたり、ミスをおかして叱責されても、

     わたしはだれも助けることはできない。

      ただかれらと同じ立場でしかない自分を憐れんだり、おびえたりするか、

     あるいは管理者と同じようにかれが無能であるから仕方がないと思うか、

     もしくは同じように叱責し、非難するような言動に出るかだ。


      企業社会では、われわれが育ててきた道徳観はなぎ倒されるしかない。


      この社会では道徳観を守ってくれる社会的合意や暗黙の慣習、

     といったものは存在しないし、歯止めをかけるものはなにもない。

      ただ企業がその横暴な力をふるいつづけているだけだ。


      どこかにこの企業の論理に歯止めをかけるものがなにかないのか、

     市場の論理を超える社会の合意や慣習といったものが存在しないのだろうか。

      世論や社会的意識といったものが大きな奔流となれば、

     その非情な論理にも歯止めをかけられるようになるだろうが、

     そんなものはこの日本のどこを探してもない。

      テレビなどのマスコミはこのような力をもちそうだが、

     スポンサー企業が後ろ盾しているためにどこまで信頼できるかわからない。


      この市場原理の非情さがただひとつ、ゆるめられる方法としては、

     われわれ一般の人たちの、経済的繁栄の価値観を崩すことだ。

      GNP信仰や、経済大国の夢、先進国のトップ争い、

     経済的・物資的な繁栄を最上の価値におくこと――そういった意識に疑問を

     抱くようになると、おのずとわれわれの道徳観が市場原理を上回るのでないだろうか。


      経済的繁栄に最高の価値観をおく社会意識に慣らされていると、

     われわれは金儲けの利己心や市場原理に、

     なんの歯止めをかけるすべをもたないだろう。

      われわれ自身がのぞんだ目的のために、

     非情な市場原理は、それに到達する「手段」として必要となるのだ。


      さてわれわれは、経済的繁栄の渇望という夢を捨てられるだろうか。


      この経済的繁栄の夢を捨てるということは、

     この機能的で便利な物質消費社会を失うということであり、

     ときには経済的貧困、あるいは飢餓状態すら招来してしまう可能性もある。

      道徳が力をもつようになれば、われわれの自由な生き方・生活も阻害されてしまう

     可能性もあるし、文化や芸術の自由な発展も阻害されてしまうかもしれない。


      世界はもうすでに自由主義の競争のなかにふたたび入った。

      一方ではそれは経済的・文化的発展と繁栄をもたらすだろうが、

     一方では失業や貧困の増大をもたらすだろう。

      日本もその道を選ばざるを得ない。

      どっちみち護送船団の官僚統制経済のなかにとどまっていれば、

     競争力低下と貧困を招来してしまうからだ。


      このような未来というのは、これまで以上のますますの市場原理の徹底が

     待っているということだ。

      われわれはこの非情な原理のなかで生きてゆかざるを得ない。

      そしてその非情さが耐えがたくなると、さまざまな道徳的原理が復活してくるだろう。


      道徳的原理は、人間の経済的繁栄をおしとどめてしまう。

      それでもわれわれは温情的な道徳原理に守られて、

     社会的・心理的には豊かな人生を生きられるかもしれない。


      あるいは戦後のこれまでというのは、

     道徳原理が幅をきかせていたのかもしれない。

      終身雇用や年功序列、社会保障、年金制度、護送船団といったものは、

     道徳的要請から得られてきたものではないだろうか。

      これらの政策が影響をうけたと考えられるマルクス主義は、

     まさに自由主義に拮抗する道徳的原理ではなかったのではないか。


      しかしふしぎなことにこの道徳原理は、

     その意図とはべつにちがう原理を働かせてしまった。

      それは「権力」や「権威」を争奪するような原理ではなかったのではないか。

      市場原理に向かって競争するというよりか、

     権力や権威に向かっての壮絶な競争原理が働いたのではないだろうか。

      それは一流企業や一流大学、国家公務員といった権威への、

     壮絶な競争をもたらした。

      国が経済を統制しておれば、権力にむらがるのは当然かもしれない。


      競争の原理が変わるのではないだろうか。

      ほんとうの意味での市場競争がはじまるのではないだろうか。


      市場というのは、これまでの権威のように一定のものではない。

      なにが売れ、なにが力をもち、どんな方向に向かうのかもまるで未知数だ。


      この社会はどのようになってゆくのだろうか。




                   (終わり)





       経済と道徳の問題はこれからも考えたいと思っています。

       この問題に関して、心ゆくまで追求できたとはぜんぜん思っていません。

       そもそもなにを考えたいのかすら、自分でもわからないといった状態です。

       参考にする文献が少ないといったこともなかなか進まない原因です。


         参考文献

        『アダム・スミスの失敗』 ケネス・ラックス 草思社

        『経済思想の巨人たち』 竹内靖雄 新潮選書

        『歴史の鉄則』 渡辺昇一 PHP文庫

         くわしいことは、「98春に読んだ本」で。


        参考文献やご意見など、アドバイスをしてくれれば、うれしいです。

                   



         |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system