Thinking Essays



     「有閑立国」――時間をたのしむ国への転換


                                                1998/1/13.





     いまの若者たちは子どものときからテレビや映画、マンガ、

    音楽、ゲームといった娯楽のシャワーに囲まれて育っている。

     その熱中度は勉強とはくらべようもないくらい強く、

    子どもたちはその世界にどっぷり浸かり、手放せないくらいのめりこむ。

     学生のころは比較的、それらを楽しむ時間がある。


     だが社会人になれば、早朝から夜遅くまで拘束される会社勤めに驚く。

     これまで浸かってきた娯楽の世界についやす時間がまったくもてないのだ。


     このギャップはそうとうのものがある。

     これまで多くの時間を割いてきた大好きなものに、

    まったく時間を費やせなくなってしまうのである。

     長時間労働の職場に不満をいだくのはとうぜんだ。


     このギャップはいったいなんだろうか。

     子どものころさんざん遊ぶにまかせておいて、

    オトナになったらいきなりすべてをひきはなすのだ。

     会社にも社会にも不満を抱くだろう。

     おおくの若者たちが会社の言いなりになっているのがふしぎなくらいだ。


     この社会はなぜこんなに労働時間が長いのだろうか。

     なぜ、われわれの好きな娯楽の時間をもっと与えようとしないのだろうか。

     なぜこんなにも会社に拘束される時間が長いのだろうか。

     なぜこの社会はわれわれの好みの方向に進むことができないのだろうか。


     まるでこの社会はわれわれ人間が主役ではないようである。

     われわれはだれかにひっぱられて、ただひきずりまわされる奴隷のようなものだ。

     われわれ人間が主役になって、この社会を自分たちの好む方向に

    もってゆくことはできないのだろうか。


     この社会はいったいだれのための社会だろうか。

     われわれの社会ではないのか。

     われわれが楽しく、幸福に、いきいきと生きるための社会ではないのか。


     でもこの社会はそうではない。

     どうもわれわれ人間ののぞむ方向に社会はまるで進んでいない。


     社会を変えるような手段をわれわれはなにひとつもっていない。

     ただ会社や社会のなすがまま、言われるがままに従うしかない。

     またわれわれ日本人は自分の属する集団や会社にたいして、

    批判や改善を口に出せば、その場にいてはならないような気もちにさせられてしまう。

     われわれは集団の敵対者になりたくないがために、

    たとえ不満があっても、その集団の戒律になびいていってしまう。

     ホントーのところは敵対者の不満がイタイほどわかるのに、

    集団の論理を尊重して、かれをつまはじきにするような言動、態度に走る、

    あるいは傍観者になってしまう。


     政治がまるで存在していない。

     政治が個人を守るようにまったく機能していない。

     法律も、日常の生活空間にはまったく浸透していない。

     まるでわたしにはなんの憲法保証もないようである。

     個人がこのような状態だったら、社会はまず自分たちののぞむ方向に進まないだろう。

     だれも変えられない――ましてや声すらあげられない。

     こうして長時間労働の「生産マシーン国家」はその異様さをさらす時代遅れになっても、

    いつまでもやめることも、とめることもできない。

     いま、ホンネのところで日本人はだれもこの「生産マシーン・システム」を

    支持なんかしてはないのではないだろうか。

     だれがこの「女工哀史」のような毎日の状態を支持するというのだろうか。


     経営者や管理者側はどう思っているのだろうか。

     かれらも国が豊かになった現在、いままでどおりの「労働時間」でいいと

    思っているのだろうか。

     かれら自身も自分の時間とかゆとり、趣味の時間をもちたいと思わないのだろうか。

     かれらはアナクロで、勤勉を極上の道徳と思っているのかもしれないし、

    あるいは立場上、勤勉なフリをしていないとその座がアヤういか、

    あるいは人間のように血が通っていないのかもしれない。


     労働に囲いこまれてゆとりをもてない人たちは娯楽についやす時間がない。

     これはサービス業などの商売にとっては死活問題だ。

     そして日本はますますそのサービス業に頼るようになっている。

     日本がこの方向に進んでゆくとしたら、サービス業の利益や繁栄という観点からも、

    われわれ消費者にもっとゆとりある時間を与えるべきではないだろうか。


     「日本を休もう」といったJRだけの問題ではない。

     旅行代理店や観光業の人たちも、日本人の休む時間がもっと多くなれば、

    利益を得られるだろうし、それは旅行全般の質的向上をもたらすだろう。

     ゴルフ場であれ、スキー場であれ、休みが増えれば、おおいに潤うだろう。

     ただ、日本人のいっせいが休み、同じところに殺到すれば、

    楽しいどころか幻滅してしまうので、分散型の休日が好ましいだろう。

     百貨店も小売店も、囲いこまれてショッピングに訪れる時間もなかった、

    男性の消費者をとりもどす機会になるかもしれない。


     いちばん大事なのは、若者たちが多くの時間を割き、

    魅力を感じてきたメディアを享受する時間を与えることだ。

     このメディアの産業はインターネットやデジタル・テレビ、ゲーム、マンガなど、

    われわれ日本人の未来の産業や可能性を切り開いてゆくものだ。

     このメディア産業が発達するためには、仕事ではない、

    娯楽や楽しみに熱中する多くの時間がなければならない。

     まだ発展中のこれらの産業は多くの時間という土壌から、

    たくさんの可能性を増殖させてゆくだろうし、

    それは蒸気機関がのちの社会にさまざまな可能性をもたらしたような、

    変革の契機を秘めているものだ。


     たぶんこれからの人間はかつて大洋という空間にのりだしていったように、

    知識や情報といった世界にこれから乗り入れようとしてゆくだろう。

     子どもたちのメディアののめりこみ具合は、未来を予告しているといえるだろう。


     日本はこの産業が発展してゆくための、

    ゆとりの時間という土壌を養う必要があるのだ。

     これはひとり生産者ががんばればいいという問題ではない。

     消費者がそれを享受し、可能性を見つけ、改善や改良を加え、

    それが生産にフィードバックしてゆくかたちで発展してゆくものだ。

     時間もゆとりもない消費者が、進歩して洗練されたサービスを、

    そんなに必要とするわけがないのだ。

     現在のホテルなどの料金が高いのは、やはり休日が少ないからだろう。

     固まった休日にいっせいに客がつめかけ、あとのシーズンはがらがらといった客は、

    あまり上等な客ではないし、客自身も洗練されたサービスをうける資格もない。


     この日本の未来をひらいてゆく情報関連産業には、

    それを享受するに値する消費者を育てるための時間が必要なのだ。

     これまでの長時間労働に拘束されていれば、

    そのような洗練された、またその業界を発展させるような消費者は育たない。


     これまで日本人には独創性、創造性がないとひとつ覚えのように

    言われてきた非難も、それを育む時間という土壌がなかったからかもしれない。

     なにか新しい、未知の可能性を秘めたものを育てるには、

    無目的な時間が必要なのである。


     これまでの主要な産業――オールド・ジャパンをひっぱってきた自動車、電化製品、

    といった産業は、フレデリック・テイラーの科学的管理法のように一分一秒でも、

    労働にもちいたほうが効率がよかった。

     大量の製品を規格どおりにつくるためにはそのような効率化が有利だった。


     また消費者にしても、冷蔵庫や洗濯機、テレビ、車といったものは、

    使いこなすのにたいして時間はかからない。

     それらのモノを購入して所有してもらうためには、べつに時間は必要ないのだ。

     だから労働者に時間がなくてもかまわなかった。


     しかしこれからの創造化社会においては、アイデアや発想は、

    ベルト・コンベアにのせるほどの効率化をはかれるわけなどない。

     ましてやどのような方向に発展してゆくかもわからない未知なものにたいして、

    一分一秒を競う効率化など意味がないし、ときには阻害してしまう。

     作家や作曲家がウミガメのように卵を産みつづけることはできない。


     時間にたいする考え方を変えなければならない。

     タイム・カードで管理するような時間拘束はますます意味をなさなくなるだろう。


     サービス化や情報産業化への移行といった点からも、

    若者たちの不満といった点からも、この社会は時間的なゆとりを必要としている。

     いちおう、金持ちといわれる国になったのだから――いまはドツボだが、

    後進国からは憧れられ、先進国からは一目おかれる存在になった。

     日本は世界から憧れられる金持ちの国、

    憧れられるライフ・スタイルの国に転換しなければならない。


     世界は金持ちの国の文化を模倣する。

     これはイスラムにしろ、イギリスにしろ、アメリカにしろ、古今東西変わらない。

     日本はそのような方向に転換するべきであり、もうそのような段階なのだ。


     日本のアニメ・マンガは世界中を席巻しているし、

    カラオケもかなり浸透しているし、東南アジアでは日本の歌手は人気者だ。

     あとはライフ・スタイルを輸出できるようになるべきだ。

     もうそのようなブランドで影響力を与えられるようになっているのではないだろうか。

     だがいまの日本人の労働時間はロシア革命以前の「プロレタリア」なみとも

    いえるレベルと思われるので、だれも憧れはしないだろう。

     憧れられているのは、トヨタとかホンダとかソニーなどの商品名であって、

    個人ではないし、ましてやわれわれのライフスタイルなんかではまるでない。


     ほかの国にたいするイメージという点からも、

    われわれのライフスタイルは変更を迫られている。

     世界中から憧れられれば、それだけ輸出はおこないやすいだろうし、

    おおくの特典も与えられるだろうし、だいいちわれわれの誇りをくすぐる。

     ネズミのようにちぢこまってせこせこしていた日本人は、

    プライドをもって、ゆったりどっしりとかまえることができるのだ。


     ただ昨今のアメリカのように繁栄のあとには没落が待っている。

     だが古今東西、繁栄のあとにはかならず没落が襲ってくるのであり、

    それは多くの条件からいって、あらがいがたいものなのだろう。

     それはしかたがないものし、その道を選択しなくてもどっちみち没落が待っている。

     状況とその段階に合せて、日本人は変わってゆかなければならない。


     ともかくゆとりある時間を創出することが大切ではないだろうか。

     それを「有閑階級」からその名をとって、「有閑立国」とよぼう。

     われわれはゆとりと暇のある「有閑立国」をめざそうではないか。


     もうじゅうぶん働いてきたのだし、物質的にはかなり豊かになったし、

    あとは生活時間、労働時間といった時間の貧困さに目を向けるべきではないだろうか。

     この貧困さは、ほかの後進国なみ、あるいはそれ以上に、

    目をおおうばかりだという現実に気づいてほしい。

     われわれはバラック街からまだ抜け出せていないのかもしれない。


     われわれは時間的なゆとりをもった「有閑大国」をめざそうではないか。

     いまよりは生きやすく、また子どもを育てやすい環境になれるかもしれない。




                             (――終わり――)


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