目的なき時代の働く意欲



                                           1997/8.






     ほしいモノもめざすべき目標も、大きなグランド・デザインも、

    ほとんどない時代に突入してしまった。

     アメリカ的消費生活をするとか、経済大国になるとか、科学技術社会になるとか、

    あるいは老後や雇用が確保される計画経済社会を実現するとか、

    そのような目標がことごとく終焉するか、破綻するかになってしまった。

     世界はいったいどこに行こうとしているのだろうか。


     現在の社会はそのような目標をなくして、維持できるのだろうか。

     目標や目的があれば、人々は少々の苦痛や悲惨には耐えてゆける。

     だがそれらがいっさいなくなったとき、人々はなにを支えに生きてゆくのだろうか。

     ほしいモノがないのに、人々はこれまでのように勤勉に働きつづけるだろうか。


     人間というのは愚かなもので、かつて先人たちが築いてきた、

    社会的なインフラというのは、もともと自然にあったものだと思いがちだ。

     つまり人々の苦労と歴史のうえに成り立っているということに気づかない。

     そのような礎の上に立ちながら、その礎をなきものとして感じる。


     そして現在さらに社会を担うべき若者たちの前に、

    なにひとつ魅力ある未来や社会を呈示できずにいる。

     ほしいモノがなにひとつなくなった若者に働く意欲は湧くだろうか。

     働く意欲をなくした社会に、これまでどおりのインフラを維持できるだろうか。


     なによりもこの日本はこれまで嬉々として、この経済大国を運営してきたのではない。

     一般の民衆は、飢餓の恐怖や世間体の恐怖などにより、

    経済を発展させてきたにすぎない。

     食いっぱぐれる恐怖と、少々魅力的なアメリカ的生活にあこがれて、

    勤勉に働いてきたにすぎない。

     わけもわからなく、頭ごなしに政府や世間に、

    勤勉に働くことを強要されてきたのではないだろうか。


     経済成長が急な分だけ、それだけその反動はもっと強いものになるのではないか。

     わけもわからなく、がむしゃらに働いてきた分、目標がなくなれば、

    目を覆わんばかりになるのではないだろうか。

     目標を失った経済は、その基盤をクラッシュさせてしまうのではないだろうか。

     はたして魅力ある未来を描けなくなった社会は、

    これまでのインフラを維持・補修するだけの仕組みを維持しつづけることができるだろうか。


     老朽化した橋を思い浮かべてほしい。

     橋をつくる前は、向こう岸に陸続きの道をつくるのだから、とても楽しいだろう。

     だがそれが完成し、何十年もたち、人々の日常のなかのあたり前の橋として定着し、

    ただ老朽化だけが目立ち、管理や補修だけにやたら手のかかる橋に

    なってしまったらどうだろう。

     若い世代はこの老朽化した橋を維持しつづけるだろうか。

     現在の社会はこのような状態になりかかろうとしているように思われる。

     成熟化社会というよりか、老朽化社会だ。


     自動車や電化製品のような国民をすべてひっぱってゆくような魅力ある商品が

    どんどんなくなりつつある。

     現在では個別的な趣味やオタク的な趣味にひとびとは閉じこもり、

    社会全体をひっぱってゆくようなヴィジョンは失われてしまった。

     最近のヒットといえば、インターネットや携帯電話、「女子高生」といったものだけで、

    国民すべてを吸引するような力をもっていない。


     ほしいモノがなくなった時代に、はたしてこれまでどおりの

    高度生産優位社会を維持しつづけることはできるだろうか。

     勤勉な労働力を確保しつづけることはできるのだろうか。


     単純にいってしまえば、ほしいモノがなくなった人たちに、働く意欲はあるのか。

     テレビや自動車があたり前に手に入る時代に、

    われわれは勤勉な労働意欲をもちつづけることができるだろうか。


     インド人を日本人のように働かせようとしてもむりである。

     それ以上、ほしいモノがもうないからだ。

     ほしいモノがなければ、それ以上働く必要はない。

     日本人もこのような考え方になってゆくのではないだろうか。


     あれもこれもほしい時代は終わってしまった。

     勤勉に働いて給料が増えれば、その分だけほしいモノが増えるような時代は、

    もう終わってしまった。

     80年代は、あたかもほしいモノが増えたように、

    広告やCMに踊らされた時代であった。

     90年代は確実にひとびとのほしいモノがなくなってしまった時代である。


     なぜほしいモノがなくなったこの社会が、これまでどおり維持されているのか、

    ふしぎであるが、もちろん社会はそんなヤワなものではないだろう。

     共通してひとびとをひっぱるような商品や魅力はなくなったかもしれないが、

    個別的な趣味が、ひとびとの牽引力になっている。

     海外旅行やファッション、ゴルフ、オタク的な趣味、車、パソコンなど、

    ひとびとは個人的な趣味を楽しもうとしている。

     社会をひとくくりにして、ひっぱるような時代はもう終わった。


     わたしがふしぎでならないのは、なぜこのような時代に、

    働く時間や勤勉さを、もっと減らそうとする人が現われないのかということだ。

     ほしいモノがなければ、働く必要なんかあまりない。

     極端にいえば、インド人的発想になってもおかしくない。

     それなのになぜ、ほしいモノがたくさんあった時代のように、

    勤勉に働きつづけるのだろうか。


     もちろんこれまでの生活を維持しなければならない。

     家をもったり、電気代を払いつづけたり、テレビや車を維持しつづけるためには、

    これまでどおりの給与が必要である。

     これまでの生活水準を維持するためには、これまでどおり働かなければならない。


     だが新しい魅力あるモノが生まれてこなければ、

    社会は確実にペースダウンしてゆくだろう。

     それは確実に社会を蝕んでゆく。

     このような状態が長く続けば、これまでの生活水準すら維持できないような時代が

    やってくるのではないだろうか。


     ほしいモノがない人のなかには、積極的に捨てる人も現われるかもしれない。

     自動車もテレビなんかべつにいらない、酒さえ飲めればそれでいいという人も

    現れてくるだろう。

     とくにこの日本は、企業社会や労働時間拘束などがあまりにも厳しすぎる。

     そのためにこれを嫌って、これまでの生活水準を捨てる人がたくさん現れるかもしれない。

     そもそもこれまでの生活はあたり前すぎて、もう魅力的ではないからだ。

     その魅力のない生活のために、人々はいやな会社勤めをつづけられるだろうか。


     日本人はなぜこのような極端にはかんたんには走らないのだろうか。

     人なみ志向や横ならび志向、指示待ち体質といったものが強いからだろうか。

     だれかがこうしなさいと言うまで、行儀よく待てをしているのだろうか。

     働くのをやめたら、たちまちホームレスになるからだろうか。

     これまでの生活を手放すことはもうやっぱりできないし、

    世間体といったものを気にするからだろう。


     仕事に関する意識のありかたも、石頭のように固い。

     社会や世界がまるで変わったという象徴的なできごとがまだ起こっていないからだろう。

     いくつかの銀行や証券、保険の倒産だけでは、

    まだあまり一般の人たちにそう強い印象を与えないのだろう。

     これまでの日本を支えてきたトップ企業が倒産でもすれば、

    人々は時代の風向きが変わったことをようやく認識するのかもしれない。


     戦後の日本は幸せだったのかもしれない。

     アメリカ的消費生活だとか、ヨーロッパ近代社会だとか、

    いろいろめざすものがたくさんあった。

     その目標のためにこれまでの社会は精密にかたちづくられた。

     だがその目標が到達されたとき、社会はどこに行こうとするのだろうか。

     これまでの分業社会や生活水準を維持しつづけることはできるのだろうか。


     明確な目標があり、その目標が比較的短期間に達成されるような社会のばあい、

    目標が達成されたあとが問題だ。

     目的追求型社会は、それを達してしまったら、たちまちその根幹が崩壊してしまう。

     戦前の明治以降の日本社会も、二度の戦争に勝ち、

    それまでの目標を失ってしまったのではないだろうか。


     それにたいして、宗教に律せられる社会というのは、

    目標を現世におかなく、容易にそれを達成できない。

     社会は長期において、その制度を維持できる。

     もちろん権力腐敗や支配の暴力化など、さまざまな問題はあるが。


     資本主義につきものとされる恐慌や不況というのは、

    こういう社会目標が一時的に立ち消えになることから起こるのではないだろうか。

     50年周期のコンドラチェフの波などは、

    社会目標のいちおうの終焉から起こるのではないだろうか。

     19世紀は鉄道の敷設、20世紀は自動車といった具合だ。


     今回の社会目標は、自動車や電化製品といったものの大衆化だった。

     アメリカでは50年代の黄金期にそれを達成してしまい、

    日本ではだいたい70年代に終わり、

    社会目標の根幹の腐蝕がゆっくりと進行している。

     大恐慌や戦争などが起こるのは、やはり社会目標の消滅によるのだろう。


     社会目標のタネが尽きてしまうのは、

    あまりにも目標に応じた社会システムが完成されてしまうからだろう。

     つまり目標追求に合致しすぎたシステムがつくられるため、

    ほかの魅力ある目標をつくられなくなったり、余裕がなくなるからだろう。

     システムがうまく働き、力や安定を得られるポジションが固まり、

    人々がそのようなところに向かってしまい、社会の活力を失わせるということもあるのだろう。


     80年代や90年代の若者の特徴はかなり保守化したことであり、

    大企業やブランド企業志向がとくに強くなったことだ。

     かれらはなにか新しいことをつくるより、上から指示される安定した組織に

    好んで入っていったのだ。

     新しい社会目標や魅力をつくる仕事をみずから放棄した。

     社会が安定してしまえば、たしかにそのような道を選ばざるを得ないだろう。


     こうして社会は活力を失い、古い、終わってしまった目標にしがみつくことになり、

    カネが行く場を失うという恐慌のようなひどい目にあうのだろう。

     大不況や戦争のような既成産業が壊滅的になってはじめて、

    新しい社会目標の創造にひとびとの目は向けられるのだろう。


     安定や保守化を多くの若者たちがのぞみ、またそれを与えられるとする社会組織が

    できあがったとき、すでに社会目標は終わってしまっているのだろう。

     ピークは衰退のはじまりなのだが、だれもそれを見抜けない。

     そして社会は新しい目標を立てられないまま、

    これまでの絶頂期の経済からは考えられない経済の故障や失速を経験しながら、

    社会はメルト・ダウンしてゆくのだろう。


     いま現在、若者たちの前にはかつてのような目標やほしいモノは

    ほとんどない。

     目標がないのに、将来のコースや拘束だけが、生涯にわたって待ちつづけている。

     企業社会にたいする批判や軽蔑もなみなみならないものをもっていると思う。

     かれらの家庭には、父親は存在しなかった。

     そんな無の存在である父親に、子どもたちはとてもなりたいとは思わないだろう。

     ブラック・ホールのように父親を呑みこんだ企業に、

    畏怖や憎悪を抱いている。

     企業社会を信用していないのだ。


     しかも最近のエリートや一流企業の不祥事などで、

    これまで目的とされてきた一流のコースがみごとに崩壊してしまった。

     めざすべきものがまったくなくなってしまった。

     社会全体の目標はなくなり、エリートの優秀さの神話も消え去ってしまい、

    それにもとづいてつくられた社会のピラミッドも崩れ去ろうとしている。

     社会全体の構造がいま、未曾有の危機に立たされているのだ。


     目標なき社会、そして優劣価値、あるいはヒエラルキーの崩壊、

    この社会は根本の秩序が溶解してゆこうとしている。

     このままでは、社会秩序は溶けてなくなってしまうのではないだろうか。


     歴史の中にこのような優劣価値や至上価値といったものが、

    ことごとく溶解した社会や国家はあっただろうか。

     ひとつの目標を設定し、それに向かってすべてがヒエラルキーづけられるような社会が、

    崩壊してしまうような時代はあっただろうか。

     おそらく歴史とはこのような社会秩序の崩壊と構築のくり返しであったと思う。

     歴史のなかの戦国時代というのは、そういう時代だったのかもしれない。


     これからこの社会はどのように溶けてゆき、

    そして騒乱のなかから、どのような社会秩序を打ち立ててゆくのだろうか。


     だが、この社会はそんなにかんたんには溶け去ってはしまわないだろう。

     社会のたいていの人は、目標や目的がなくとも、

    働きつづけるだろうし、その虚しさに耐えながら生きてゆく。

     たいがいの人は、これまでどおりの生活や社会を維持してゆくだろう。

     これまでの社会の動きのなさを見ていて、わたしはそう思う。


     しかしこれから、社会の表面はそうとうの変動を経験するのではないかとわたしは思う。

     社会が目標や目的をもたなくなり、エリートや至上価値の崩壊や魅力のなさは、

    それに代わるなにかを見つけないかぎり、社会秩序の崩壊をもたらすだろう。

     社会が優劣の価値をもたず、それにヒエラルキーづけられた社会を形成できないと

    するのなら、社会の根幹はぐらぐらと揺れつづけるだろう。

     社会の背骨になる価値観がなくなれば、さまざまな価値観が相争うことになり、

    収拾がつかなくなるのではないだろうか。


     社会とはそんなに極端に変わるものではないと、

    これまでの安定してきた社会を見ていて、自然に思い込むようになっている。

     わたしのまわりの社会を見ていても、

    そんな大きな変動がやってくるようにはとても思えないほど、ふだんどおりである。

     社会は、わたしのいくぶん大げさな予測を裏切って、

    これまでとほぼ変わらない社会を維持しつづけるのだろうか。


     予測というのは、たいがい当たらない。

     とくにバブル期の未来予測はバラ色一色で、

    ものすごく楽観的な未来を描いていたものだ。

     平成不況になるとがらりと変わって、大恐慌がやってくるだとか、

    超悲観論が目白押しだ。

     予測というのは、その時代の気分を少しくらい差し引かなければならないのかもしれない。


     願望としては、この経済社会はあまりにも経済価値に偏りすぎたので、

    大きな反省を迫られるような転機を迎えてほしいとわたしは思っている。

     これまで富や安定を築いてきた人にはたまらないことかもしれないが、

    この社会はあまりにも歪みや偏りが大きくなりすぎ、

    若者や子どもたちに多大な犠牲を押しつけすぎている。

     それを是正することもできなかった社会に問題があるのだ。


     今世紀というのは、政府や官僚にあまりにも期待しすぎたと思う。

     年金やら健康保険制度、産業保護など、あまりにも政府の力を過信しすぎた。

     そのために企業や個人は活力を失ってしまい、

    未来への希望を創造するより、未来への安定のために拘束されるようになってしまった。

     自由や活力より、奴隷の安定をのぞんだのである。


     未来をつくるより、時間がとまることを期待したもののようだ。

     新しい未来を夢見ることができなくなってしまったのだ。

     そして中古品の安全な人生を送ろうとしたが、

    そのような試みはぎゃくに、未来の先細りを招いてしまった。

     振り子は極端にふれすぎたので、すこし戻らなければならない。


     社会は新しい目標をつくれるだろうか。

     車や電化製品を国民レベルで求めたり、ヨーロッパの近代国家をめざしたり、

    そんな大きな目標をふたたびみいだすことができるだろうか。


     いまのところ、そんな目標はとんとないように思える。

     科学技術はもうかつてのような夢を描けなくなっている。

     コンピュータやインターネットがこれからの社会のすべての人の目標になるような、

    なにかを提供してくれるとは、いまのところ思えない。


     あるいはけっきょくは、技術や科学の問題ではなく、

    人々の活力や冒険心の問題なのかもしれない。

     このようなフロンティア精神があってはじめて、技術や科学は、

    魅力ある未来を創造するのかもしれない。


     現在の社会はあまりにも新しいことや創造力にたいする渇望を失ってしまった。

     若者は安定と、マスコミやだれかからの指示や命令だけを待っている。

     これでは社会は活力を失い、迷走してしまうだろう。


     活力や冒険心が生まれる世の中――それは皮肉なことに、

    かなりの惨劇や壊滅が起こらないと、生まれ出てこないのかもしれない。

     安定や保身の確保できる社会には、そんなものは必要ないからだ。

     こんな世の中はそんなに望みたいものではないが、

    そこから船出しないことには、未来はないのかもしれない。




                                      (終わり)



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