なぜ個人はだれにも守られないのか

                                                  1998/2/17.






       個人は企業からぜんぜん守られていない。

       残業時間の増加をへらすすべももたないし、高密度の疲弊する労働にも

      不満をぶつけることもできないし、上下関係の屈辱的な横暴からも守られていない。

       リストラなどでさらに職の安定すら危ぶまれるようになったし、

      激務のための過労死で一生をムダに終わらされるかもしれない。


       われわれ日本の個人はなぜこれほどまでにだれにも守られていないのだろうか。


       官僚と金融・大企業の構造的癒着、大企業の総会屋との癒着――、

      この国は「ルールなき資本主義」の様相をますます露呈してきた。

       資本主義にルールがないということは、われわれ働く個人にとっても、

      守られるべきルールがまったくないということなのだ。


       カネと権力のある者にはなんでもありの、したい放題がまかり通る、

      恐ろしいほどのルールなき、気まぐれ権力構造社会なのである。


       このような戦後日本社会において、サラリーマンはものすごくおとなしく過ごしてきた。

       社会や会社に従っておれば、生活と老後はとりあえず安定するし、

      給料も地位も上昇してゆくし、マイホームも家電も少々の贅沢も手に入れることができた。

       だからサラリーマンはものも言わずにおとなしく従ってきたのだろうか。

       これらにひきかえ、少々酷な労働条件も、人権も権利もない企業との関係も、

      まあしかたがないとガマンしてきたのだろうか。


       しかしそのためにこの社会は人権も魂も売り払った無力な個人のあつまりになった。

       「生産マシーン国家」とよばれるまで異様な産業ロボット社会になった。

       ヨーロッパ・アメリカ諸国はこの異様さを「エコノミック・アニマル」とあきれ返り、

      学生たちはこの悲惨な人権なき社会に自分の将来を悲観するしかない。


       われわれは不満と憤りをもっているはずだ。

       だが、それを現わす手段も方法もまるでないことに呆然とするしかない。

       自分の手にはなんの道具もない。

       無力さにうちひしがれるしかない。


       声をあげる個人も団体もある。

       だがほとんどの日本人の反応は、アブナイ人には近づかないほうがいい、

      といった逃避的な感情のみだ。

       われわれは多くの人がこのような感情をもつのを知っているから、

      不満も憤りも、ましてや批判すらも口に出せないようになった。

       「アブナイ人」に思われたくないと思って、われわれは道具のつぎに口を失う。

       ヒサンだ。


       この日本的社会性質はどのようにつちかわれたのか。

       アブナイ人は社会から抹殺されるという権力装置は、

      みんながみんな日々このような態度をとることによってますます拘束力が強くなる。

       われわれの「アブナイ人には思われたくない」という気持ちが、

      ますますこの社会に無力な個人を増産させてゆく。


       「アブナイ人」というステレオ・タイプはどこで生産されたか。

       マス・メディア――とくにTVにほかならないだろう。

       浅間山荘事件やいくたもの過激派テロ、学生運動、

      そういった恐ろしいダイレクトな映像を見て、

      かれらは「アブナイ」、一般市民に危害を与える「オソロシイ」人たちになった。


       そしてわれわれの中で、批判や懐疑をとなえる人ですら同様になった。

       政治や思想、宗教にかかわることは「タブー」、「アブナイ」ことになった。

       そしてわれわれから、すべての批判的思考がいっさい排斥され、

      TVとマンガ、日々のうさ晴らしとブランド消費に流れ込む、

      享楽と欲望のときはなれた刹那的な時代の下地をつくりだすことになった。


       このようなことが70年代以降のここ30年内に起こったことだ。

       そしてそのあいだに起こったことは政治家のカネと汚職にまみれた事件と、

      大企業と総会屋の癒着、官僚と大企業との構造的腐敗だ。

       それでもわれわれ個人は批判的精神も、それを現わす口もまったく

      失ってしまっていて、かれらのやりたい放題の体質に手を打てなくなっていた。

       われわれ個人は、批判と改善の手段をまったく失っていたのだ。


       そしてそれは企業のなかでも同じことだ。

       われわれ個人はまったく無力の、なんの力も改善もできない奴隷の群れになった。


       国家は、国民が反抗的になったあの時代に、

      その根をつみとることにまったく成功したのだ。

       わたしはその時代の人たちがなぜ市民をまきこむ無差別テロのような方向に

      進んでいったのかわからないが、それは結果的にのちの市民や学生たちの、

      批判や懐疑の精神や言動を根こそぎにするのに役立った。

       血を流す暴力的な手段は、ぎゃくに市民と敵対するイメージをつくりだしたのだ。

       そしてわれわれ個人はまったく無力の無害な享楽的な群れになった。


       そのあいだになにが起こったか。

       政治はやりたい放題のカネと汚職にまみれ、大企業は闇の力と結託し、

      土地と株の投機的経済を加速させ、国家経済を破綻させ、

      そのあと始末に官僚と金融は自由市場のルールを踏みにじり放題だ。

       金儲けのためにはモラルもルールも虫ケラ同然だ。


       われわれ個人や市民は政治的な手段をもつことに失敗したのだ。

       そしてこの国はカネとチカラのある者たちのしたい放題、やりたい放題の、

      放逸と腐敗と無秩序の権力者天国になったのだ。


       もうこの国は終わっている。

       民主主義国家、資本主義国家というタテマエはまったく機能していない。

       ソ連とまったく同じような権力者が統制する「国家社会主義」になってしまった。

       もともとそのような封建国家だったのだが、

      やっとその暴れる獅子の正体が白日のもとにさらけ出されるようになってきたのだ。


       わたしはこの民主主義国家のしくみがどのようになっているか知らない。

       選挙もいちども行ったことがない。

       金権政治と腐敗によってあきれ返って政治家に投票する気にもなれないし、

      自分がまったく無力であり、なんの改善もできないことを知っているからだろう。

       投票してもムダだというあきらめが、国民の半数の棄権率をうむのだ。


       民主主義がどのように運営されているのかもよくわからない。

       たしか学校では行政、立法、司法の三権分立だとかの話は聞いたことはあるが、

      どうもこの国はそのようなもので動いているようにはとても思えない。

       民主主義国家の市民がここまでなにも知らないくらい、

      政治は国民の要望や要求からかけ離れたものになっているのが実態だ。


       この国はどのような実態や権力構造になっているのだろうか。

       わたしにはまったくわからない。


       司法がまったく機能していない。

       われわれの日常の生活の中に、法律という市民の味方は存在しない。

       法律に守られているなどという実感を一度ももったことがない。

       法に訴えても、企業組織などにたいしてまったく無力であることを知っている。

       訴えれば、この日本の組織社会においてその居場所がなくなるのを知っている。

       だから、横暴な企業論理に従うしかないのだ。

       われわれ個人はまるで手も足も出せない。

       ここはアウシュヴィッツなのか、極東の強制労働収容所なのか。


       大企業がものすごく力をもっているのは知っている。

       この社会のいちばんの権力者は大企業なのだろうか。

       政治家や官僚、裁判官たちはこの大企業のカネの力に買われ、

      かれらのやりたい放題の道具になっているのだろうか。


       現代に力をもっているのは政府とか政治ではなくて、

      じつはカネのある大企業だけなのだろうか。

       これではとても政治は機能しないし、企業から個人も守られない。

       このとおりの社会が実現しているということは、いくぶんは正解しているのだろう。

       個人はまったく守られていない。


       この国はカネの力をもつ「企業専制国家」なのだろうか。

       そしてその横暴な暴虐を矯正する手段も方法も個人はもたないし、

      あるいはカネの力にねじまげられたマス・メディアが煙幕をはり、

      その実態が市民から見えないようになっているのかもしれない。


       われわれはカネがこの社会の権力をもち、

      そしてヒエラルキーを形成しているという事実にしっかりと目を見開くべきだ。

       政治や官僚がほんとうに権力をもち、そして機能しているのだろうか。

       かれらは企業のカネの力に買われ、それに奉仕しているだけではないのか。

       政治が無力だったのは、これまでの歴史から充分わかることだ。

       人間ではなく、カネが権力者であることを忘れてはならない。


       この暴力に歯止めをかけるすべはないのか。

       げんざいの政治体制・政治のしくみは、こんにちのように企業が巨大化した時代に

      生み出されたのではないだろう。

       近代政治はなにに歯止めをかけるためにうみだされたのか。

       すくなくとも、企業の権力肥大化の抑制に失敗していることは確実だ。

       政治や官僚はともにその肥大化に貢献し、その権力とカネにタカるだけだ。

       つまり個人や市民を守る方向にまったく向いていない。


       権力化した企業から個人や市民を守る、

      あらたな手段の確立が必要なのではないだろうか。

       このままでは政治は企業と結託して、ますます個人はあわれに暴虐の波に

      さらされるだけだ。


       この暴走に歯止めをかける方法はどのようなものだろうか。

       げんざいの政治や官僚、法律の中にまったくそのようなものがないことは、

      われわれ自身がいちばんよく知っている。


       われわれ個人が政治や司法に守られるためにどうすればいいのだろうか。

       絶対化した大企業組織は利益と金儲けの目的を絶対化してしまい、

      モラルや社会規範はいともかんたんにふみにじられ、消え入ってしまう。

       一刻も早く、戦時経済体制のしくみを解体しなければならない。

       このままではこの社会は大きな対立と惨劇を将来に譲り渡すだけになるだろう。





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