消費マインドの落ち込み



                                           1997/10/19.





     自動車やパソコン、電化製品、百貨店、スーパーなどのモノが

    ぜんぜん売れなくなっているようである。


     わたしは「ざまあみろ!」とほくそえんでいる。

     なぜなら、バブル時代に強迫的な「高級品志向」とか「ブランド品志向」を

    押しつけられた経験をもっているからだ。

     だからいまの消費低迷は、好ましく思っている。

     マスコミやまわりの人にむりやり押しつけられて、

    モノを買わなければならないのはたまらない。


     これは案外、わたしひとりだけの心情ではなく、

    バブル時代に購買意欲をそそのかされた多くの人たちの気持ちではないだろうか。

     だから、いまの人は消費にそっぽを向いてしまっているのである。


     ほしいモノがなくなったというのが、いちばん大きな要因だ。

     自動車やら電化製品やら、ブランド品などもうほとんどの家庭に行き渡ってしまった。

     消費が低迷するのはとうぜんである。


     消費市場が大きな転換に立たされているのである。

     だが、これまでのような製品のなかから、高度成長期のときのテレビや車のような、

    人々をわくわく、うきうきさせるような商品が生まれ出てくるとはとても思えない。

     もうほしいモノがなにもない。


     ほしいモノがなければ、なにもモノを買う必要はないのだが、

    それで商売をしている者たちにとっては、ひと事ではない。

     なにかを売らなければ、メシを食えないのだから、たまらない。


     でも、ほしいモノがなにもない。

     わたしの場合、本さえ買えればよいのであって、ほかはほとんどなにもいらない。

     自動車もいらないし、ブランド品の服もバッグもいらないし、旅行にはあまり興味がないし、

    酒もそんなに飲まなくてもいいし、レジャーもあまりしなくていい。

     これでは経済が回らない。


     一時期、わたしもブランド品などを買っていた時期もあったが、

    そんなものに大金をはたくのはアホらしいと思って、買うのをやめてしまった。

     それからバブルが崩壊して、消費低迷がつづいているわけだが、

    ショッピング街のモノにあふれた店を見ていると、

    まだこんなにたくさんのモノを買う人がいるのかと驚いてしまう。


     わたしにとっては、モノやファッションの魅力というものの、

    化けの皮がはがれてしまって、なんの魅力も感じないから、

    あいかわらずモノにあふれた店を見ていると、げんなりしてしまう。


     モノやらブランド品などが、「ステータス」や「優越」を表わされる時代は、

    もう終わってしまった。

     もう、モノにそのような「物語」が付与されなくなってしまった。

     これまでのモノにはさまざまな良いシンボルが象徴されていたわけだが、

    そのようなシンボルはありふれて、手に届くものになり、そして魅力を失った。

     物語のあるモノは脱色されて、ただの機能的道具に戻ってしまったのだ。


     モノがあいかわらず魅力的で、ステータスや物語が付与されているように感じられるのは、

    世間知らずの高校生やら若者たちだけであって、バカみたいである。

     モノや消費に踊らされるのは、OLやら女子大生と年齢が下がってきて、

    とうとう女子高生だけになってしまった。

     さいきんでは、中学生のロック・グループなんかが出ているが、

    なんだか、大人たちの操り人形のようで、かわいそうだ。

     もうバカな子どもから搾取するしかないほど、

    生産者側の魂胆は見抜かれているのだろうか。


     物質消費の時代は終わってしまった。

     では、どうすれば、経済は回り、

    どうやれば、われわれは生活の糧を得られるのだろうか。


     一時期、インターネットによる未来社会がやってくると喧伝されていた。

     わたしは多くの人が作家や画家、映像家、音楽家などの芸術家になり、

    それでメシが食えるような夢ある社会になるのではないかと思っていたが、

    いまのところそのような動きは現実にはない。

     どこか企業に勤めるしか、生活の糧を得ることはできない。


     その企業もいまはもうボロボロである。

     10月の株価なんか見ていると200円割れの上場企業がぼろぼろあるし、

    さいきん、わたしの身の回りの店も閉店が目立ってきた。

     政府の景気対策で減税とかいろいろ言われているようだが、

    わたしは勉強不足でよくわからないのだが、このような景気対策が

    ほんとうに景気をよくすることができるのか疑問に思う。

     消費が落ち込んでいるのは、ほしいモノがもうあまりないということだから、

    いくらフトコロが暖かくなったとしても、さして購買意欲がわくとは思えない。


     もっと商品や消費を魅力あるものにしなければならないと思うのだが、

    だけど、アメリカン・ライフ・スタイルが完成した現在、

    これから魅力ある商品や生活スタイルを創造するのはなみたいていではないだろう。


     これまでの時代は終わってしまったのである。

     新しい時代の、新しい魅力や目的を創出することができるだろうか。

     いまのところ、な〜んにもない。

     せいぜい、インターネットがかすかな光を投げかけているが、

    それも遠い先の話のようである。


     なんだか絶望的である。

     将来の光がぜんぜん射してこないし、

    将来のヴィジョンや夢がぜんぜん見えてこない。

     もう後は落ちてゆくしかないのだろうか。


     ただ、こういう大きな展望にたいして希望がないとしても、

    社会はなんだかんだいっても、堅実に継続してゆく部分ももっている。

     カタストロフィーやハルマゲドンのような状況はたんに観念的なものであって、

    実際どのようなことがあろうと、共同体は堅実に継続してゆくものだ。


     それに人間の場合、そのような絶望的観測が、ぎゃくに契機となって、

    思わぬ底力を垣間見せたりするものだ。

     絶望的観測が、新しい未来や社会を創造してゆくのだ。


     でもそうなるにはかなりの辛酸と、長い時間を経なければならないのかもしれない。


     このわたしの悲観的な予測がはずれ、

    けろっとしてふたたび消費の意欲がわき、景気が回復するとも、なきにしもあらずだ。

     正直なところ、わたしの中にはいままでの物質消費や企業中心社会にたいする、

    嫌悪感やら不快感をもっているから、この社会が壊滅的状況に陥ってほしいという願望を、

    もっていないとはいえない。

     だからこの不況が長引き、物質消費社会がぼろぼろになってしまえという破滅願望がある。

     もしかしてほかの多くの人もこういう心情を潜在的にもっていて、

    だから、これほど景気が悪くなっても消費を盛り上げようとしないのかもしれない。

     生活者、あるいは人間としての不買行動という側面があるのだろうか。

     モノを買わないということは、その後ろに控えている企業にたいする、

    無言の抵抗や反乱が潜んでいるのかもしれない。


     現在の不況は、企業社会や消費社会にたいする人々の嫌悪感や不快感が、

    ひきおこしているとするのなら、社会はこの方向転換を迫られるまで、困窮することだろう。


     われわれは物質消費や企業社会にたいする反省を迫られているのかもしれない。


     この社会から脱け出すにはいったいどうしたらいいのだろうか。

     現代のだれかがこれを考え出さなければならないのではないだろうか。


     モノをつくって人々の欲望を煽ることによってしか、生活の糧を得られない社会から、

    なんとか脱け出さなければならないのかもしれない。

     あるいは、貨幣経済からの脱出だろうか。


     わたしにはこれ以上のことは考えられない。




                              (終わり)



  |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system