仕事と将来の不安についての断想集



       自由と企業の地位序列      99/12/31.

 自由には憧れるのだが、職場での地位が低い人を軽蔑して見てしまう。サラリーマンにはなりたくないと思っていたのだが、まじめにきちんと働いてきた人を評価してしまう。服従や隷従する人たちを軽蔑してきたのに、まじめな勤め人はエライと思ってしまう。過去になにをしてきたかわからない人や仕事があまりできない人は低く見てしまう価値基準が自分のなかにはある。

 つまり自由な生き方の基準より、企業の人間評価のほうが優っているということである。企業のなかで人と出会うと決まって企業内評価と同じまなざしで人を評価し、見下してしまう目が自分のなかに根をおろしているというわけだ。

 愕然としてしまう。自由な生き方をしてきた人はとうぜん企業内では評価も低く、劣等な地位におかれることになるのだが、自由に憧れる自分もそういう企業内評価のまなざしで人を序列づけているのである。自由な人というのは、きちんとした企業ではとうぜん軽蔑して見られる。そういうまなざしが抜きんがたく自分のなかに定着している。

 わたしは服従や隷属を嫌い、自由な生き方をのぞんできたはずなのだが、サラリーマンの人物評価がしっかりと自分のなかに根をおろしてしまっている。企業内評価の低い人を軽蔑して見てしまう自分には驚くと同時に自分のモノサシの甘さには愕然としてしまう。

 軽蔑するのは自由なのである。そしてそれは仕事ができないことや、あるいは仕事に定着しないこと、社内で低く見られることなのである。裏返せば、これは人間としての自由をもちあわせていることになるのだが、そういう自由を軽蔑してしまっている自分がいるわけだ。

 これでは自由の息の根をとめているのと同じだ。企業での低い立場の人を軽蔑して見るということは、自由を抹殺していることと同じだ。一方では自由をほめ、その裏では自由の首を絞めているようでは、とうぜん自由なんかにはなれない。

 こういうまなざし、評価基準には警戒することにしよう。自由と地位の低さはコインの表裏なのである。地位の低い人を軽蔑して見れば、自由を否定することになる。企業での低い立場にいる人を軽蔑して見るようなまなざしに訓化されるようなことは避けたいと思う。そのような評価基準で人々を判断してしまう反射性を警戒しよう。

 自由のモノサシは企業のモノサシとまったくひっくり返るものだ。企業での低い評価は、自由のモノサシでは高い価値をもつものである。この転倒を忘れるようでは、みずからの自由の首を絞めているようなものだ。

 ただ企業の集団の力というのは強い。弱いところにはいじめのような構造がかかる。だから人はそれを恐れて集団内での価値基準を自分のものにしてしまう。こういう力の構造があるから、人はこぞって企業の評価をみずからの内にとりこんでしまう。自由というのは、集団の力との闘いかもしれない。




        あ〜あ、仕事はしんどいなぁ   99/12/30.

 仕事が終わって帰ってくるとだいたい8時や9時だ。コンビニ弁当をかっ食らって、ふとんに入りながらTVを見ていると今日一日無事に終ったことにほっとする。仕事終わりにTVが見れるのは幸せだと思う。(なんせいままで帰って寝るだけの残業地獄の職場ばかりだったから)

 ということで、とてもじゃないけどホームページの更新にはなかなか手が回せません。書くテーマについてもぜんぜん頭に浮かばないし、からだを休めるのにせいいっぱいである。みなさんにはたいへん申し訳ないですが、どうやらしばらくは遅筆になるのは確実のようです。あまりのぞきにきても更新はされていないと思うので、ゆっくりめに見に来てくれるか、この機会にバックナンバーを読んでくれれば、ありがたいです。

 ところで今回の職場はいろいろなことでしんどいようである。体力的にも人間関係的にもひじょうにしんどそうである。人間関係は集団行動をかなり要求されて窮屈だし、休憩室では胃をやられそうになるし、仲間内での分裂とか対立がほの見えていたり、部署内のリーダーのさじ加減がかなり強そうだし、これはヤバソーである。カンベンしてよ、まったく。。。

 まあ、とりあえずは通常の生活レートに戻るくらいまでがんばって、貯金をためて、さあそれからどうしようかな、というふうに考えようと思っている。(あいかわらずいきあたりばったりだ。このキビシー世の中をこれで乗り切れるのか)

 ひさびさに電車にのるといろいろな人を見かけるようになる。なんか世間の人とかなり疎遠になっていて、みんなと違う世界からやってきたような気がするし、世間さまの人たちにカルチャーギャップを感じるというか、この人たちはいったいどういう人なんだ?とまるでわからない感じがする。電車やホームで見かける人がますます自分とかけ離れてゆく気がする。

 また、ふつうの仕事勤めの生活に戻ってきた。出勤日はほとんど仕事だけでつぶれることになる。こんな生活ってなんだろうな、と思う。働くだけの毎日はほんとツライ。不満がたまっているわけだが、しばらくすれば慣れるか、つもってゆく一方かもしれない。ほんまにソーローみたいに自給自足の自分のためだけの生活をしてやろうかなとたまに思ったりするのだが、早まるなと自分に言い聞かせるしかないだろう。

 仕事が忙しかったので今年は年末だとか正月気分といったものがまるでない。年が暮れるとか、年が押し迫っている、明けるとかの感覚が自分にまったくない。もともと年末とか正月にはわれ関せずの主義だったからべつにそんなことはどーでもいいけど、今年はとくにそんな感覚がまるで麻痺している。1900年代の終わりだとか2000年のはじまりの年だとかいうが、ほんとうにわたしの中にはそんな感覚が欠如している。べつに虚構をたてまつらなくてもいいけど、なにかのしめくくりとしてものを考えるには適していることについては残念だけど、ただそれだけのこと。




        学校の集団と社会人の孤独   99/12/26.

 学校にいっているときはたくさんの同じような知人や友人が多くいた。近所に出かければ、近くの家には知り合いや友人が住んでいて、いくらかの知人に出会い、地域全体が知り合いに満ちあふれていた。だいたい同じような学年、環境にいる人たちが集団として認識されていた。

 それが社会に出るとみんなばらばらになる。どこでなにをしているのかもわからなくなるし、ほとんど存在もしていないと同然になる。まるでこの世界にひとりで生きている感じがするようになる。学生のときのような集団の一体感といったものはまったく吹き飛ばされてしまう。

 生き方や考え方、通う場所がみんなばらばらになり、かつての集団者はこの世界にひとりで投げ出されたような状態になる。会社の人間関係は学生のときのようには緊密ではないし、住む地域に知り合いだらけといった状態はもはやなくなる。

 ほんとうのところ、人間のあり方というのはこういうものだと思う。みんなばらばらで、働き方、生き方がまったく違っていて、一体感とか同一感というものがまるで感じられないのが社会人のあり方だと思う。仕事や生業が違っていたら、まったく違う人種のように思えるのがふつうなのである。

 それが生まれ落ちて物心ついたころに人為的な学校という集団に放り込まれる。そのために地域社会に知り合いや友人がたくさんいるという状態が当たり前でふつうのことだと思い込むようになる。こういう集団のあり方がふつうのことだと思うようになる。

 でも社会に出るとそういった集団意識はこっぱみじんに吹き飛ばされてしまう。みんなばらばらで、どこでなにをしているのかまったくわからなくなる。同じような年齢集団といったものは存在しなくなる。

 社会に出たころ、わたしはこの孤独を強く感じた。集団として存在していたわたしは世界にひとりで投げ出されているような気がした。この孤独に慣れるのにけっこうわたしは時間がかかった。むしょうに哀しい時期というのをわたしは通り過ごさなければならなかった。

 近所に知り合いばかりがいて、ちょっと出掛ければ知り合いがいるような地域というのはひじょうに窮屈で、たえずどこで知り合いに見られているかもしれないと思って、すこしでも早くこんなところから脱け出したいと思っていたが、いまから考えればそういった集団の同一感といったものが懐かしく思う。

 もういまはこの世界にひとりで生きているといった状態に慣れたからだ。孤独がつらいだとか、さみしいだとか、なんとも思わない。ただひとりで生きることに快適さと自由さを感じている。知り合いの世間体やしがらみに縛られないで、自由に過ごせるからだ。

 忘れる前に、学生から社会人になれば、こういう段差や落差があるといいたかっただけだ。




     将来の経済に希望がもてない時代  99/12/25.

 これから生活苦におちいる人たちが増加することだろう。将来の経済や生活にも希望ももてない。悲観的状況の連鎖が起こっている。

 どうにもならない悲観的状況が長くつづくと人々の精神状況も変わってくる。日本が戦前に日中戦争や太平洋戦争にのりだしていったのも、こういう経済困窮という非常事態という土台があったからだと考えればひじょうに納得できる。戦争でもしなければ、こっちが死んでしまうといった背戸際の状態だったのかもしれない。

 日本経済というのは戦争に多くの恩恵をおっている。第一次世界大戦では海の向こうの戦争だったからおかげで「○○成金」という人々がたくさん生まれたし、戦後の復興も朝鮮特需におっている。日本は戦争成金のようなところがある。

 人々の生活ができない、支払いができない、といったどうしようもない状況におちいる人たちが続出し、しかもこの先大不況の出口も容易に見えない、こうなると人々の思考形態にどのような変化が起こるかわからないというものだ。強盗や誘拐などの犯罪もこういう精神状態のうえでなされるわけだ。

 経済が問題だ。貨幣経済という、個々人が収入を得なければ生きてゆけないという市場経済に問題の根底があると思う。貨幣経済についてもう一度哲学的に考え直さなければならないのかではないかと思う。



       1999年、今年読んでよかった本   99/12/25.

 今年は8ヶ月にわたるロング・ヴァケーションをとっていたために金銭的な節約をしなければならず、あまりたくさん本が読めたとはいいがたい。ひとつの深く掘り下げるテーマを見つけたわけでもない。ちょっとわたしにとっての読書の収穫は不作のほうだった。

 98年は漂泊者というテーマを追求するのがおもしろかった。おかげで山奥や山村などを散策するのが楽しみになった。今年はそういったひとつのテーマを見つけられなかったが、今年のうちに読んでよかった本を7冊だけあげることにする。

 ■『老子・荘子』中公バックス もちろん中国の古典である。逆説的な論理、無為自然など、たいへん多く学ぶことのあった人生の名著である。これからも深くかみしめたい本だ。

 ■トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫 『聖書』につぐ世界第二位のベストセラー。宗教書というよりか、世俗的・一般的なセラピー書といったほうがふさわしい。ためにひじょうに有益な本だ。

 ■日下公人『新しい幸福の12章』PHP 古本でしか手に入らない古い本だが、あらためて日下公人のすごさを再認識した。ビジネスから日本を読みとくと社会がよく見えるし、立身出世やビジネス主義から降りることも考慮に入れている点がすばらしい。

 ■『だめ連宣言!』作品社 働かない生き方を実践している人たちの集まりで、わたしも内心ではやりたいのだが、じっさいにやっているとは驚きだ。クソ働き社会に一石も二石も投じつづけてほしいと思う。

 ■宮本常一『生業の歴史』未来社 民衆の働き方=生き方を紹介したすばらしい本だ。学校の歴史では政治屋の歴史で、民衆の存在はまったく抹殺されていた。われわれ民衆にとっていちばん大事なのはご先祖さまの生きて、働いてきた姿だ。たくましくも立派なご先祖さまのリアルな姿が見える。

 ■櫻木健古『捨てて強くなる』ワニ文庫 人間の勝ち負けや価値観を超えるというたいへんすばらしい本。人間の上下や地位を気にしているようではまだまだだ。そんな価値観を超えたところに人間の成長と平安がある。

 ■ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫 イギリス労働者階級の労働から身をかわす方法がひじょうに感銘をうけた。日本ではそういった反抗文化は学校どまりで、社会に出るとみんな中流階級幻想とともに働きキチガイになる。まちがっているって。われわれは使い捨ての労働者なのだ、勘違いすんな。




      人生ののりかえ――TVドラマ『危険な関係』の感想―― 99/12/23.

 ボロ・アパートに住むタクシー運転手が社長にすりかわるというTVドラマ『危険な関係』を見ていた。はじめは社長にすりかわるというストーリー展開が破綻しそうで、バレないかということより、物語りが破綻しないかとはらはらしながら見ていた。

 人生をのりかえたいという気持ちは32才を過ぎたわたしにはとてもよくわかる気持ちだ。あ〜、この先どうもこれからぱっとしない人生を送るんだなとなんとなくわかる。だから大会社の社長にすりかわるというテーマはひじょうに興味をひかれた。男が哀れだった。

 テーマはもちろん主人公の豊川悦司がいってたように「たしかめたかっただけ」ということになるのだけれど、やはりお決まりの社長やランクが上の人間でもなくても、人間はじゅうぶんにしあわせなんだといったメッセージをもっていたと思うのだが、そんなのはだれだって口では言える。ほんとうに心の底から自信をもってそう言えるのかは難しいところだ。この物語りでも社長であることの不幸や不遇をじゅうぶん示されていたわけではない。毎回テーマはなんだと探しながら見ていたが、いまいち強いメッセージの回はなかったようにわたしには感じられた。

 ランクが上の人間にならなくても、いまの人生をのりかえたいという気持ちは強い。もうすこし違った人生、生き方ができたらいいのになと思う。こういう気持ちをこのドラマは垣間見させた。だから人生をのりかえようとした男は哀れで、かわいそうだった。

 着古したジージャンのよさを知るためにカシミアのコートを着たのだといっていたが、そういうテーマより、人生をのりかえたいと願ってしまう人間の悲しさ――自分自身の閉塞状況のほうが思い知らされて、なんとも哀しい気持ちになったドラマだった。

 もう人生はひきかえせない。一方通行のUターンもバックもできない直進道路である。人生をのりかえもひきかえせもできないのなら、いまの人生のよさやささいな満足といったものを愛惜するようにしようということである。失ってはじめてわかる人生の良さもあるということである。




        休憩時間と職場    99/12/21.

 まあ、かろうじて仕事が見つかったが、長くつづけられるかはわからない。ひさびさの労働だから体はものすごくしんどいし、腰は痛いわ、足は痛いわでたいへんである。ふっと、もう仕事なんかしんどいものはしたくないと思ったりするのだが、こういう考えはやめておこう。(ということでホームページの更新はたぶん遅れがちになると思いますので、すいません。)

 ところでこの職場の人間関係はちょっとしんどそうである。いつも職場仲間といっしょに行動しなければならないところのようだからだ。こういうのはいちばん神経にこたえる。「あ〜、しんどいな〜」と思ったら、休憩時間はみんな仲良しゴッコではなくて、狭い休憩室でなぜかみんな押し黙っているようなところだった。ある意味ではラクなんだけど、ちょっと胃が重苦しいし、これはなんだろうな?と思う。

 職場の休憩時間というのは、まあ、わたしにとってはいろいろツライものがある。どちらかといえば、ひとりで行動するのが好みのわたしは、仲間とのつきあい関係はいろいろストレスを感じることが多い。ひとりが好きだからといって、いつもひとりでいれば、仲間から孤立してひじょうにツライ立場に立たされるし。。。 どっちもどっちでひじょ〜につらいところだ。

 休憩時間はやっぱりみんながいっせいに集まってとるより、順番制のほうがひじょうにラクだ。ひとりでいても、浮き上がることはないからだ。思い思いの時間を過ごせる。

 でもみんながいっせいに休憩をとる職場は災難である。まわりでみんなグループをつくってわいわい談笑しているから孤立するわけにはいかないし、かといってだれかとぺちゃくちゃしゃべりつづけるのはたいへんシンドイし。みんながぽつんぽつんとひとりで食事をとったり、テレビを見たりしている休憩室はラクなのだが、そういう職場は多いわけではないし、まあ少しは寂しいが、良い方の部類に入るだろう。

 職場の休憩時間というのは所によってはひじょうにしんどいものである。みんながギャーギャー、グループをつくっているような職場はわたしのワーストである。たまんない。まあ、人間の集団やグループというのはたいへんに難しいものである。集団でなければ孤立するし、集団になればこれまたシンドイ。

 まあ、テキトーにその風土に順応するしかないようである。いったん職場に入れば、そこのルールや風土が絶対になってしまう。郷に従えというやつである。適当に順応して、適当にほどよく仲間と仲良くなるというのが職場の渡世術というものである。まあ、しっかりとした核をもつ人格より、ふにゃふにゃとまわりに流される人間のほうが職場には合っている。

 わたしはふにゃふにゃでいい。物事を考えたり、つきつめたりするとどうもうまくいかない。バカになったほうがラクのようである。わたしは思考をつきすすめる生きかたをしてきたが、思考を捨てる生き方をしたほうがよいのではないかと最近思うようになってきた。「ケ・セラ・セラ なるようになる」でいいさ。




      偉くなる人生より、楽しめる人生を   99/12/17.

 戦後の教育の最大の失敗は、だれでもかれでも「偉くなれ」といってきたことにあると思う。「偉くなる」人生はいつも目的を先送りにし、多くの人を競争にまきこみ、偉くなれなかった百人中の99人を不幸と不遇に落としこんでしまう。

 人生の価値と目的を狭いものにしたら、とうぜん多くの人はそこから漏れることになるのは当たり前のことだ。偉くなることを刷り込まれた多くの人たちは自らを慰める術をみいだせずに人生を不遇に過ごすことになる。

 偉くなる必要なんかないのである。人生を楽しみ、大過なく過ごせれば、それで人生はハッピーというものだ。エリートになれなくたって、落ちこぼれたって、貧乏であれ、劣位や下層階級とよばれるものであっても、ただ生きていることだけ、存在していることだけに自分の価値があると思えれば、ほとんどの人はハッピーである。

 しかし偉くならなければ生きている価値がないと教え込んだ教育と社会はとうぜんのことに大半の人の生きる価値を削ぎ落としてしまうことになる。はじめから人生の価値を局限してしまうわけである。こんな社会はとうぜんのこと、みずからの生きている価値も意味も慰めもみいだせない大量の人を生み出すだけだろう。

 だから社会はただ生きていることだけに価値を見出せるのなら、多くの人は救われるだろうし、ハッピーになることだろう。偉くなれない自分を責めたり、苛んだりすることはないだろう。そういうふうになると社会はもっと生きやすくなる。



       なんのために本を読むのか    99/12/16.

 げんざい、わたしはたいへん金欠で、この二、三ヶ月、ほとんど本を読めない状態にある。本好きなわたしは新刊が読めないのはひじょーにツライ。しゃーないからテレビばっかり見ている。

 書店にはたまには寄るのだが、金がなかったらみんなよそよそしい、手の届かない高価品に思えてくる。読む気もなくしてしまう。知識というのはカネがあってはじめて得られるものであり、知識というのはカネと同じものであるという気がしてくる。知的欲求心はカネによって煽られるという仕組みだ。

 ここいらで反省。書物というのはただの消費商品ではないのか。本をたくさん読めば、本棚からあふれ出して置き場所に困ることになるし、ただ出版社や書店を儲けさせるためだけにカネを使いこんでいるということになってはいないだろうか。ささいなデザインのちがいとかブランドの差異によってたくさん買わされるファッション品とたいして違いはないのではないか。

 知識や情報はたしかにファッション商品やデザイン用品とたしかに違う。知恵や賢明さ、才能などをつけくわえるとされている。でもどれだけ自分自身の知恵や賢明さとして身についたかちょっと怪しくなるし、ただ書籍産業を儲けさせるために本を買っているという感も否めない。

 知的虚栄心を満足させるためだけに本を買っているのなら、産業に煽られているだけである。自分にとってほんとうに必要な知恵と知識を身につけるためだけに本を読みたいと、カネがなくて本が読めないいまの状況から思う。自分の身にのこるものでないと、カネが切れると効用をなくしてしまう。

 でも自分にとってほんとうに必要な知識というのはウソっぽいキャッチ・コピーみたいに聞こえる。わたしなりに必要な知識の基準は、自分の日常生活を生きるについて役に立つか、糧になるか、ということである。趣味だけで読書するわたしにとっていちばん大切なことは、日常生活に役に立つか、使えるか、ということだけである。

 日常生活を生きるにあたって問題を発見したり、解決する能力をつちかってくれる書物がわたしにとって必要な本である。知識というのはそもそも人生を生きるにあたって、困難や問題をのりこえるために、おおいに役に立つなにかでなければならないのではないか。どんな知識も日常生活ととり結べるものでなければならない。

 いまの学校の学問はそういう日常生活にとってなにが役立つのかという問いかけを忘れている。どんな知識も日常生活にどれだけ役立つものか、関係あるものかと知らせれば、学生だって興味津々になるものである。自分たちとつながりのないものと思うから、興味を失うのである。

 事実羅列なんていらない。日常生活に役立てて、解決する能力をつちかってくれる知識をわたしは欲したい。いぜん心理学を読んでいたとき日常生活にはほとんど役に立たなかったけど、自己啓発とかセラピーを読むと問題の解決方法が紹介されていて、おおいに役に立った。ほかの知識もすべてこういうものであってほしい。わたしはこういう本を、カネに煽られないで、これから読みたいと思う。




       仕事が見つからない!生活苦   99/12/15.

 ぶっちゃけた話――たいへんお恥ずかしいお話だが、あとわずかの貯金しかないのにいまだに仕事が見つからない。たいへんである。みなさんはこういう経験をしたことがあるのだろうか。

 まあ、わたしは転職ばかりしているフリーターでひとり暮らしだから、こういう経験は毎度のことだ。「うわぁ、どうしよう!、貯金がなくなったら食いっぱぐれだ〜っ」という修羅場をいつも経験してきた。給料の締めと支払日ばかり気にしている。どうしてもあせるから、いつも不本意な仕事先につかなければならないわけだ。

 今回も貯金の余裕があるころは正社員を探していたのだが、あれもこれもいやといって思いつづけてきて、貯金が切れかけてまたもやバイトの仕事に舞い戻ってきた。まあ、みなさんはこれを悪い転職例として、同じ過ちに陥らないように銘記しておいてください。

 もう何社も派遣会社の人たちと会ってきた。バイトで給料がいいとなったら物流関係になるのだが、せっかく免許をとったフォークリフトの仕事はどこもかしこも残業地獄だ。なんで物流関係は日付が変わるまでの残業地獄ばかりなのだろう……? 訴えてやる!

 ほんとうにあせる。こういうときには胸をわしづかみにされたような気分になる。ただ、心のテクニックとしては心配事ばかり考えない、忘れる、ほかのことに熱中するという知識を身につけているので、今年はだいぶマシな気分だが、逆にこれが落ち着いてしまうからますますおっとりとしてしまうという欠点もあるけど。。。

 実家に帰ることも考えているが、空部屋もない。十年近く住んできたこのアパートを出るのもいやだし、本とか家財道具を持ち運びするのもたいへんだ。あ〜あ、どうしよ〜。。。

 消費者ローンをつまんでいる人なんかは支払い期日がきたら、いつもこんな気持ちを味わっているんだろうな。年の暮れが近づくと毎年強盗が増えるのもこういうせっぱつまった心理状態だからだろう。まだわたしはマシかもしれないな。。。

 なさけない話をみなさんに披露するのはお恥ずかしいが、まあこのホームページのヌシはこういう情けないヤツだと笑ってやってください。ついでにはやく仕事が見つかるように願をかけてやってください。あ〜あ、早く仕事を見つけなければっ!




      メディア・リテラシーは必要である   99/12/14.

 われわれはたぶんテレビや映画を批判的に見るということはまずだれからも教わらなかったはずである。テレビ・コマーシャルとか雑誌広告にかんしてもそうだろう。たぶんわれわれは2、3才の子どもと変わらないくらいメディアを無垢にながめているのではないかと思う。

 カナダかどこかではメディアを批判的に分析するというメディア・リテラシーの授業があるそうである。「えっ、マジ? こんなのがあるのか」とわたしはびっくりした。われわれの国ではメディアを批判的に分析するのは御法度みたいな感覚があるし、生産者を敵に回すような教育なんてこの国ではまずおこなわるべくもないと思っていたからだ。

 わたしがメディアを批判的に分析するという知識に出会ったのは社会学とか社会思想の専門書だけである。一般の人たちはまずこういう本に目を通さない。純粋無垢にメディアのシャワーをうけて、おそらくあまり疑問に思ったり、批判することはないのだろう。

 批判の観点というのはやっぱりある程度学習しないと身につかない。たまに二、三言、親や知人から批判めいた片言を聞くことはあるが、それが多くに適用されることはまずないだろう。批判的な知識に触れることがないとやっぱりそういう見方はなかなか育みにくい。

 メディア・リテラシーというのは必要だと思う。メディアだけではなく、教育や社会、企業にたいしても、この国の人たちはものごとを批判的に見るという訓練もうけていないし、知識もない。学校から与えられる古い知識をうのみにして、丸覚えするのが、この国のならわしであり、常識である。これではだれもがバカになる。

 批判や疑問の意識をもってこそはじめて学問は意味があるものになり、楽しいものになる。新しいものや新しい学問が生み出されるのも、批判や疑問があってこそはじめて生み出される。むかしの学問をただ無垢に覚え込むだけだったら、そこから発達することも進歩することも絶対ありえない。こんなにはサルでもわかる。ニュートンに疑問をもたなかったらアインシュタインは生まれなかったということだ。

 疑問や批判を大切にしなかった国の行く末は考えてみたら恐ろしい。なにものも新しいものも生み出されないし、新しい事態や変化に対応できるわけなどないのだ。

 為政者や経済団体にとってはまことに都合がよい、工場生産などの規格生産にはぴったりなわけだが、これはたぶん短期の繁栄をもたらすだけで、長期の繁栄をまずのぞむべくもないのだろう。なぜなら批判や疑問のない人たちの集まりは、過去の機械反復しか知らないからである。

 批判や疑問を自由に発する社会にしてこなかったツケは、あとあと巡ってくる。東洋的停滞といったものもアジア的専制政治にその根があったのだろう。おとなしく、従順な国民はそのときにはたいへん好都合だが、あとあとたいへん恐ろしい。

 こういう意味でメディア・リテラシーは必要である。ならびに物事や社会を批判的に分析したり、疑問に思ったりする社会の土壌といったものも必要である。いまの支配者たちは人々の批判精神をうけいれる寛容さをはたしてもてるだろうか。さもなければ、社会は無垢のままみんなで仲良く沈むだけ。




     お子ちゃまマーケットが減るということ  99/12/13.

 SPEEDという中学生のグループが出てきたとき、「うわぁ、子どもじゃないか」と思った。しかも「あなただけを愛す」みたいな超純愛ラブソングを唄っている。思わず吹き出しそうになったが、30前後のわたしは音楽市場のターゲットではもうないんだなと思った。

 しかし20才人口は92年から94年の団塊ジュニアのピークを過ぎると減ってゆくいっぽうだ。これから幼稚園や学校の入学者減の現象に苦しむことになるだろう。また子ども向けのマーケットも拡大してゆくいっぽうだとはいえなくなる。

 思えば、わたしたちが熱中したマンガとか音楽、映画といったものはあとの子どもの世代になるごとに手に入れやすくなっていった。古本のマンガなんかわたしのころにはなかった郊外巨大店ができているし、ステレオが高かったときと違ってCDラジカセなんかほんとに安いし、レンタル・ショップもどこにでもある。ファッションのショップはたぶんわたしのときの時代でもじゅうぶん充実していたと思うが。

 だいたい団塊世代あたりからアメリカ文化の輸入をはじめて、のちの世代はそのレールにのってきたわけだが、その拡充はめざましいものがある。

 しかしこれからその拡大はピークを迎え、少子化の時代にほんとうに突入した。これはつまり人口重心が変わるということであり、もてはやされたり、人気になったりする年代の年齢が変わるということだ。子どもを相手にするマーケットが拡大してゆく一方ではないからだ。

 おのずから拡大してゆくマーケットを探さなければならない。カネをよく使う世代、消費をよくする年齢層を見つけなければならない。これまでの消費層というのは親がマイホーム・ローンや生活費でてんでカネを使わず、子どもたちがいろいろなものに手を出すといったパターンだった。大人たちはカネを使わず、子どもたちだけが派手に使っていたわけだ。

 子どもが減るとだれがいちばんカネを使うだろうか。やっぱり大人になった人たちを視野に入れていかなければならない。大人の消費市場というものをつくらなければならないのだろう。もうすこし大人をターゲットにした音楽やらマンガやら、あるいは学校などが必要になるのだろう。

 人口重心が変わったということはかなり重要な転換である。やはり数の多い年齢層がもてはされるし、力をもつものである。老人が多くなれば、老人がたいせつにされたり、尊敬される時代もやってくるかもしれない。子どもが増える時代が終わったという意味はひじょうに重要である。子どもから大人へと風向きは変わった。




    コンクリート崩落と老朽化社会   99/12/12.

 新幹線などのコンクリートがあちこち崩落しているが、皮肉に思うことは社会の精神状況も崩壊しかかっているときと同時にタイミングよくこういう事件が頻出することだ。物質と精神はどこかで歩調がつながっているかのようだ。(人の住まない家は崩壊が早まるというし)

 高度成長期にラッシュになった公共事業は早くもその老朽化を迎えることになった。社会や文明のインフラというのは早くも寿命を迎えるみたいだ。

 トンネルや鉄道、道路をひくときは大きな期待があるのだけれど、それが完成し、あとは維持と補修だけになったとき、文明はひとつの曲がり角を迎える。社会精神の崩壊をひきおこしてしまう。未来への大きな希望や期待が失われてしまうのである。

 あとは老朽化社会として維持費とその苦労だけが重くのしかかることになる。人々の精神はたいへん倦みつかれ、やる気をなくしてしまう。社会の心の老朽化も起こってしまうのである。

 文明の維持費というのはとてつもなくかかるようである。新しい希望や期待がないぶん、その過重もひとしおではない。歴史上の数々の文明も、エジプト文明とかメソポタミア文明とかインダス文明といったものも、文明機能の維持過重と社会精神の崩壊によって滅んでいったのだろう。

 文明というのはもともと虚構の産物である。ビルや鉄道、道路があちこちにひかれた都市ができあがれば夢のような生活が送れると想って門出するわけだが、それが完了するとあとは文明の維持と補修という莫大な債務を負ってしまうことになる。それは人々の精神の崩壊も意味する。

 そうやってゆっくりと文明は衰退もしくは崩壊に向かってゆくのだろう。文明というのはあまりにも大きな夢と、あまりにも大きな失望に終わってしまうのだろう。




    子育てというカネにならない事業   99/12/12.

 経済論理だけでは子育てはできない。家庭のなかでは子育ては一銭にもならないからだ。戦後の経済主義社会は主婦という経済社会から隔絶した単位に子育てを押しつけてきた。そのぶん男はどこまでも仕事と企業に奉仕せざるを得ず、効率的な経済奉仕をひきだせた。

 そういった経済効率の隅に放っておかれた主婦や子どもたちの世界で崩壊が起こりつつある。幼児虐待や子育ての孤立化、学級崩壊、といった現象が噴出し出した。

 これは経済効率化に走り過ぎた社会の帰結だと思う。企業論理だけに特化させると子育てというのはジャマものになる。なんの利益も利潤もうまない。したがって少子化がどこまでも進んでゆくことになる。

 企業論理だけでは子どもを増やすことはできない。社会はまたべつの論理で考えないと子どもを増やすことはできない。そういった社会の生態系といったものを企業論理に特化した社会は考慮のなかに入れることができない。国家や政府も企業論理を押しすすめるだけだったから、子育てをますます厳しいものにした。

 社会の活力は子どもの増加によって生まれる。企業論理だけに特化すると人々の生命力は失われ、子どもの数は減少してゆくばかりである。

 企業論理をもっとゆるめる社会にしなければならない。社会全体で子育てができるような余裕ある社会にしなければ、子どもが増えることはないし、子育ての崩壊が起こるばかりである。

 企業論理だけでは子育てを促進することは絶対にできない。社会や共同体としての論理で考えないと子どもの数を増やすことはできないだろう。そういった社会全体の論理というものがぽっかりと抜け落ちている。もしかして国家全体という理念かもしれないな。

 人々が企業利益しか考えられないのなら、社会全体の継続と繁栄はとうぜん難しくなることだろう。




     「見殺し」にされる高齢労働者    99/12/12.

 12月11日の『ザ・スクープ』で大阪西成・釜ヶ崎の日雇い労働者の特集をやっていた。この不況でどこよりもしわ寄せをうけるのはかれらである。ホームレスの青テントがどこまでも広がっており、この大阪市内は「西成化」していっている状況だ。

 この特集でわかったことは、高齢労働者はどこにも働き口を見つけられず、「見殺し」にされているということだ。その労働者が簡易宿泊所からも追い出され、公園や河川などに青テントを張るというわけだ。

 これはつまり高齢化社会の一面がここに現れ出ているということだ。もう年寄り社会の弊害がここに端的に現われ出したわけである。現代の「姥捨て状況」を目の当たりにしているというわけだ。

 福祉サービスをうけられるのは公的機関に支払いをできるものたちだけである。そういったものと一切かかわりのない者たちは働き口を失い、見殺しにされて路上に出るしかない。福祉社会の失敗がみごとに現われ出ているわけだ。

 かれら日雇い労働者が従事する建築とか土木の仕事は、受注の性質上、継続的に仕事があるとはかぎらない。仕事が発生すれば、そのつど人を集めてくることになる。ほかの仕事は継続的に作業があるから、社員をストックしておくため定期的な収入や安定が見込めるが、建築や土木は仕事が終われば、御役ごめんだ。

 かれらは大阪万博や公共事業などの高度成長期にかきあつめられ、そういった人たちがいま高齢者になり、働き口を見つけられなくなった。日雇い労働者はわれわれとは違うとはいえず、この経済社会の性質が端的に現われているだけであり、ふつうのサラリーマンも大なり小なり同じ影響をうけている。他人事ではなく、これがわれわれの社会の性質なのである。

 この社会は高度成長の若者増加時期から、とうとう低成長の高齢化社会にほんとうに突入してしまったわけだ。若者が大量にいる時代の発想のままでいるから、高齢労働者は見殺しにされる。若者はもう昭和46年から49年にかけての第二次ベビーブームのあとは減る一方だ。つまり新卒者の減少は97年ころからすでに始まっている。

 これから高齢者を活用する社会でないと、労働者と消費者をますます失ってゆくことだろう。若者があとからあとからうじゃうじゃ増えてくる時代はもう終ったのであり、高齢者を活用し、かれらもできるような仕事とテンポの社会にしてゆかないと、もう先はないことだろう。




    あ〜あ、将来どうやってメシを食っていこう。。。  99/12/11.

 現在のところ求人の年齢制限はだいたい35才くらいである。わたしもあと2、3年後くらいに迫ってしまった。このトシまでなんとか将来性のある仕事についていなければならないのだが、たぶんなかなか難しいだろう。

 流されるまま、わたしはフリーターをやってきた。いろいろ世間を見るためと、正社員の仕事もそのつど探していたのだが、なにしろ貯金で食いつなげず、すぐに見つかるバイトばかりに流れてきた。しかも最近は残業地獄の職場ばかりで、おかげで何ヶ月分かの貯金は貯まったのだが、そのせいで怠けてしまって長期のヴァケーションを楽しむことになった。

 いまの求人は経験者や即戦力ばかり求めている。完全に買い手市場である。これならぜんぜん新しい仕事にもつけないし、経験もスキルも身につかない。どうやったら新しい職種に変わることができるのだろうか。

 新しい技術を手につけるために訓練校とか専門学校に行くという手があるのだが、わたしの場合、貯金もないから行くことができない。仕事帰りに通えるところでも探そうか。資格なんてものはすぐに転職や実践的な即戦力に結びつくとはちょっと考えられず、ふみとどまってしまう。

 いつも思っていたのが、さまざまな職種のやり方とか作業マニュアルみたいな本でも売りに出されていたら、職業スキルみたいなものが身につくと思うのだが、そういう本はほとんどない。転職市場が開かれるためにはそういう仕事方法の規格書みたいなものがあったら、職種替えもかんたんだと思うのだが。

 経済状勢はどんどん変わってゆくのに、人間というのはあるひとつの仕事をやりつづけるとなかなかほかの職業に変わりにくくなる。その職業が自分のアイデンティティになってしまう。たとえば、わたしは自動車工だから、ほかの仕事なんかできないといったように。とくに日本企業の場合は終身雇用と転職嫌いの体質をつくってきたから、よけいに変化や職種替えに対処できない。

 そういう体質に耐え切れず、いまはリストラ流行りになり、就職はよけいに難しくなる。転職先のない中高年がリストラされる現在では、若者は将来の希望をいだけないだろう。すべて悪循環の環が回っている。どこまで落ちてゆくことだろう。。。

 こういう将来に備えて技能やスキルを磨いてゆくべきだといわれるが、はたしてそれはなにを指すのかよくわからない。専門職ならともかく、ふつうの仕事でそんな大したスキルなんか身につかないし、求められもしないし、ずるずると月日がたってゆくだけである。

 まあ、なんらかの方策をいろいろ考えながら、また同時にあまり将来を気に病まないようにしよう。欠けているところばかり心配しないで、いま「ある」ことを楽しむことにするとしよう。



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 つぶやき断想集 第四集

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