人間の比較序列を超える断想集                                           新しい日付が上にきます。




      社会保障はどれだけアテになるのか  99/10/30.

   退職金に年金に健康保険といった社会保障はどれだけアテになるのだろうか。これらが全部
  アテにならないとはっきりするのなら、しんどい思いをする正社員よりアルバイトで平気になれる
  のだが。

   先行きがわからないからとりあえず、これまでどおりの終身雇用的な正社員の仕事を探して、
  不採用通知を何通もうけとり、失業を長引かせる。社会保障が中途半端だから、われわれは
  立場を決めにくい。

   退職金は団塊世代の退職前になくなると考えろという人もいる。年金なんか若くなるにしたがっ
  て危険度が増すし、いまの市場原理優勢の流れからして見捨てられるかもしれない。将来の社
  会保障がどんどんなくなれば、そもそも正社員とはなんだ?ということになる。

   ウィリアム・ブリッジス『ジョブ・シフト』によるとこれまで前提としてきた終身雇用的な「ジョブ」と
  いったものが消滅し、臨時雇いか、自営業者のようにならなければならないという。もう消滅しは
  じめている過去のジョブにしがみついても始まらないということだ。墓場まで丸抱えのジョブが企
  業の採用意欲を制限させているそうだ。

   スーパーのお株がディスカウント・ショップに奪われたようにわれわれの値段もディスカウントされ
  るというわけだ。叩き売られた正社員は過去の郷愁を捨てて、自営業者のスピリットをもたなけ
  ればならないということだ。

   まあ、こんな社会保障の待遇がどうのこうのと悩むより、どうやって儲けたり、新しい仕事をつく
  りだすかということに頭を悩ませなければならない時代になったということだ。頭を切り換えられる
  か。これまでのアテがはっきりしないから、どれだけコストをかけても回収可能なのか予測できな
  い。




         自由の逆説?    99/10/29.

   ホームレスはしばしば犬を飼っている。マンションの住人は飼いたくても飼えないのにである。
  路上に出ると犬が飼えるというのは皮肉なことだ。



       こんな未来がやってくるのか?    99/10/29.

   「とどまることを知らない守銭奴の強欲さが、一度は両手をあげてこの守銭奴システムを受け
  入れた軍人と有識者、だが今や労役者の貧困レベルまで落ちてしまったその軍人と有識者に
  率いられた群集による暴動を、最期に引き起こすことになるのである。

   守銭奴の時代の末期に起こり、その社会の崩壊を早める革命は、不満が積もり積もった軍人
  と有識者によって引き起こされる。

   なぜか? 守銭奴によって彼らのすべての時間が生活費をかせぐためのみに向けられ、冒険
  や芸術といった活動、本来は軍人や有識者の心を揺さぶるような活動に向ける余裕がまったく
  ない状態に追い込まれているからである」         ――ラビ・バトラ『世界経済大崩壊』 


   スラム化しはじめているホームレスの住み処、あふれ出す失業者を見ていると、この予測が
  真に迫ったものに思えてくる。



         未来への禍根      99/10/28.

   いま、進んでいる経済状況がこのままひきつがれていったら、この社会は将来どうなってしまう
  のだろうかと心配になる。とくに未来に禍根を残しそうな三点について考えてみる。

     1.ホームレス問題 
     2.中高年の失業増
     3.若者の就職難・フリーター化

   ホームレス増加は職業観や社会観、人生観などさまざまなものに影響をあたえるだろう。この
  経済社会に恨みを抱く人、あきらめる人、自分の運命を見る人、さまざまだろう。その雑然とした
  雰囲気から将来にどんな騒乱をひきおこすことになるかわからない。革命思想や国家転覆の思
  想すら現われてくるかもしれない。

   中高年の失業増は若者たちに将来の不安とあきらめを植えつけるだろう。企業に不信や憎悪
  を抱く人が増えるだろうし、生活苦や借金苦にまきこまれた世帯の子どもたちは学業からはじき
  飛ばされたり、とんでもない非行化に走るかもしれない。この傷痕は長く人々の心のなかに刻み
  こまれてゆくことになるだろう。

   若者の就職難は若者から将来の希望や期待を奪いとり、絶望を植えつけるだろう。経済的およ
  び社会的な希望をまるで抱けなくなる。未来を背負うべき青年たちに出番がまるでないとなったら
  、かれらはどういう行動に走るのだろう? 未来の日本がいまここに醸成されつつあるということだ。

   いささか悲観的だが、何年か前の暗い予測がつぎつぎと現実になっている世の中だ。憂慮しす
  ぎということはない。未来はいま、ここにある。

   市場原理導入のまえにこれらの増加を防ぐ政策が緊急に必要だ。会社を守るより先に人を守
  らなければ経済の底が抜けてしまう。リストラよりワークシェアリングや給料カットなどで、雇用を
  守るべきではないのだろうか。あるいは優先的に中高年を採用するとか。かなり難しいかもしれ
  けど。少々の出血はやむえないどころか、ほんと出血多量でみんな死んでしまっても、後悔先に
  たたずだ。

   市場原理導入の優先順位がまちがっているのではないか。いまおこなわれていることはこの
  社会に深く大きな傷痕を残すのみになるだろう。





      「インターネット悪玉説」を刷り込まれるぅ……  99/10/25.

   さいきんHPのコンテンツをとりあげる事件や報道が多くなってきた。ニュースがとりあげるのは
  決まって「悪い」HPである。ニュースがとりあげるのは「悪い」事件ばかりだから仕方がないとも
  いえるけど、マスコミは「インターネット悪玉説」を刷り込みたいのだろうかと勘ぐりたくなる。

   今日は児童虐待のHPがとりあげられていた。逆ギレして開き直って児童虐待を肯定したHPだ
  ったということだが、マスコミに騒がれてすぐ閉鎖したそうだ。児童虐待については下記に記した
  ようにアルコール中毒と似たようなところがあり、児童虐待はいけないという戒めが逆に女性を
  追い込んでしまう作用があると思うから、ある種の開き直りは治癒の一過程になる可能性もある
  と思うのだが、そのHPは徹底的な虐待嗜好者だったとしたら同情の余地もないが。

   薬物販売や猥褻物販売はインターネット犯罪の定番のようになった。これはインターネットが悪
  いのではなく、インターネットが普及したら当然出てくる人間性の問題だ。

   告発HPを特集した番組もあったのだが、どちらかといえばネガティヴな部分で捉えていたように
  記憶している。和歌山の小学生いじめ事件を告発したHP、コンビニの解雇を告発したHP、欠陥
  住宅を告発したHP、といったものが紹介されていた。

   インターネットという個人も発信できるメディアができなかったら、これらの告発はマスコミにも
  とりあげられず、世間の知らないところで泣き寝入りで終わっていたのが関の山だろう。問題を
  個人の力で世間に知らしめることができるのはインターネットの重要な力だ。そういう情報の力を
  ネガティヴ一面だけで捉えるのはどうかと思うが。

   たしかに誹謗中傷や個人のプライバシー暴露が無秩序におこなわれるようになるのはおおいに
  問題だし、トイレの落書き程度で終わっていたことが衆目にさらされるというのは恐ろしいことだが、
  これはインターネットのすべての面ではなくて、ある一面にしかすぎない。日常の生活にもある部
  分である。

   犯罪や悪いことが多発しているからといってインターネットが悪いと考えるのは違うと思う。個人
  が世の中の不正や歪みを、マスコミに頼らなくとも発信できるというポジティヴな役割があると思
  う。マスコミはやはり狭いし、一部の人の偏見や先入観でつくられているともいえるし、マスコミの
  強制的な力にはわたしも辟易してきたから、マスコミの規制を外されるというのは社会の片隅に
  生きてきてどうしようもなく強いマスコミの力に翻弄されてきた個人には朗報だ。

   でもインターネットの個人の力というのは、わたしのHPのようにひっそりと影響力もなく開設し
  ているような者にとって、どこにそんな力があるのかと疑うくらいだ。まあ、マスコミの騒ぎに巻き
  込まれるなんて恐ろしいから、ひっそりとぶつぶつインターネットの片隅でささやいている程度が
  ちょうどいい。

   マスコミはインターネットの脅威にとまどっているのかもしれない。HPはこれからどれだけ影響
  力をもち、社会に波風を立てるかも未知数だから、牽制しているのだろうか。世の中はこの情報
  革命によっていったいどれくらい変わるのだろう。わたしはできるだけインターネットにポジティヴ
  な面を見てゆきたいと思う。




        バカになればいい    99/10/25.

   バカになれないから人間は苦しむ。賢さや正しさを捨てられないから苦しい。きっちりした服装
  やよそ行きの服装を脱げないから、人間は悩む。

   そんなものを捨て去ってしまってバカになれば、たいそうラクだ。憑きものが落ちたようにラクに
  なれる。

   たとえばアルコール中毒症には酒を飲む罪悪感があり、それを忘れるために酒を飲んでしまう
  という悪循環があるそうだ。酒から離れられないのは、酒から離れようと悩む心なのである。悪い
  ことをやめようとして、逆に悩む心が悪いことをくり返してしまう。賢さやまじめさが逆に自分を追い
  こんでしまうというのは、人間のよくある(ほんとによくある)逆説なのである。

   これは思考や記憶を捨てるという方法と連なる。かつてわたしはこの思考を捨てるという方法を、
  リチャード・カールソンに学んでショックを受けたのだが、いつの間にか思考や知識の重荷をかつ
  ぐ迷路にふたたび迷いこんでしまったみたいだ。

   思考や知識を重んじたり、価値をおく考え方が抜け切られないからだろう。だから思考を掘り下
  げてみずから苦しんだり、痛い目に会う過ちにおちいっている。老子にいわせれば、「お前はあく
  せくとして疑問を追い求め、まるで父母を見失った子が、竿をおし立てて広い海の上を血眼で捜し
  ているように見えるよ。あわれなやつだ」ということになる。

   「わかっちゃいるけど、やめられない」というやつだ。思考や知識にまだなんらかの価値や重要
  性を感じているから、まだ完全には捨てられないのだ。愚かであるのはわかっているのだが、わ
  たしにはまだ思考や知識の価値を捨て切れないようである。

   どこまで思考や知識が有効で、どこからがバカが有益なのか、線引きを探しているのかもしれ
  ない。また思考を掘り下げていって限界や苦しみを知ることによってバカのありがたさを身にしみ
  て味わおうとしていることになるかもしれない。もう少しバカとマチガイをくり返して試行錯誤しない
  と、わたしは「ほんとう」のバカにはなれないようである。「あわれなやつだ」




      ひきこもりと自由     99/10/24.

   家にひきこもる人たちが増えているそうだが、これってある一面では自由だなと思う。もしかして
  戦後社会がめざしてきた自由の究極の姿なのかもしれない。ただ社会的接触がなくなっているが
  ゆえの不自由の一面もあるが。

   戦後の市場社会というのは家にたくさんの楽しみやモノを集めることに熱中してきた。おかげで
  いまでは家の中にテレビやコンポ、ファミコンにパソコンと遊ぶのに困らない機種がそろっている。

   かつては家の中にぜんぜん楽しみがなかったから子どもたちは屋外で遊ばざるを得なかったし、
  大人にとっても会社のほうが快適で楽しいことが多かったそうだ。だから子どもたちは集団生活や
  社交になじむことができたし、大人だって一生懸命働けたのだろう。

   いまはそれが逆転してしまった。家の中のほうが楽しいし、学校や会社は苦悩や苦痛しかない
  ような要素も強くなった。このような時代に登校拒否やひきこもりなどの反応が起るのはとうぜんだ
  といえるし、こういう環境の変化に気づかない大人の現実認識も問題だ。

   われわれは自分の身の回りにいくつもの小さな自由を集めた。市場経済がそれを加速させた。
  子どもたちをマーケット・ターゲットにしたのは周知のとおりだ。

   つぎに変化が必要なのはつまらない学校や会社だろう。立場が逆転してしまっているのだ。
  むかしの楽しみのない殺風景な家のように、学校や会社はなってしまっている。ひきこもりの人
  たちに合うように社会は変わってゆくべきなのか、それとも消費のありかたを変える?





     人間の相対的な価値観を超える   99/10/24.

   ちかごろ、人間の相対的な価値観を超えるという知恵と奮闘しているのだが、どうもいまいち
  ぴったりとした言葉、表現が心に浮かばない。

   この発想は櫻木健古の『捨てて強くなる』(ワニ文庫)から得たのだが、ほかに価値観を超える
  といったような本はなかなか見つけられないし、もっと深く掘り下げようと思っていても思うように
  ゆかない。

    

   人間の価値観というのは勝ち負けに彩られていて、負けても平気だったり、最初から競争をおり
  るのならその価値観を超えられるというわけなのだが、もっと頭にガーンと刻印づける表現がどう
  もうまく浮かばない。とりあえずは最低の価値観から競争を超えるという通路しか示されない。

   この知恵はほんとうに大切だと思う。人間のちっぽけな競争的価値観から解放されれば、ほん
  とうに楽になる。

   人間の競争や価値観をアリの競争でも見るように雄大な視点からながめられれば、いちいち
  つまらないことで悩まなくともすむというわけだ。たえずこういう大きな視点、自然現象的な視点
  からものごとを捉えられるのなら、人間の辛さ悲しみも飛び越えられてしまうというものだ。その点
  からいえば、「天」という言葉を比較に使えば、ひじょうに便利だ。

   でもそういう価値観を超えた視点はいつの間にか流されていて、いつものせせこましい価値
  意識に戻っている自分に気づくというわけだ。ついさっきの大きな視点はいったいどこにいって
  しまったんだろうという具合だ。人間の心はまことに移り変わりやすい。水洗トイレのようだ。

   だから頭によく残るキャッチ・コピーを考え中なのだが、トイレの水はいつまでもきれいには保た
  れない。まあ、人間のせせこましい価値観に惑わされない、ということを忘れないようにしよう。





     「栄光」のない人生   99/10/23.

   どうやらこの先、「栄光」のある人生は送れないだろうなとある程度の年をへるとわかってくる。
  この事実に愕然となるが、逆にいえば、われわれはたいそうな期待や希望を背負って生きてきた
  ということがわかる。

   われわれは「栄光」のある人生を知らず知らずのうちにめざしてきた。そして社会に出ると信じ
  られないくらいの社会の片隅に「はめこまれる」。「栄光」ある人生の漠然とした夢ががらがらと
  音をたてて崩れる。

   われわれがこんなに「栄光」ある人生を信じてきたのは学歴競争やマスコミがふりまく幻想と
  いったものと関係があるのだろう。将来にはなにか漠然とした「栄光」ある人生が開けているよう
  に思う。学校がそのような夢を見させ、マスコミが「栄光」ある人たちを喧伝し、CMがそれに与か
  れると宣伝する。

   現実は違う。社会の片隅の意味なき仕事と日常が待っているだけであり、栄光とはほど遠い。
  うちのめられそうになる。

   だが、これがほんとうの人間のすがたというものなのだろう。社会的に成功したとしても、栄光
  を手に入れた者も、いつかはこういうもとの姿に戻り、あるいは幻想とのギャップを痛感するのだ
  ろう。

   人間にはもともとなにもない。希望や期待という幻想があるだけである。いつか必ずその姿に
  直面することになる。自分はいままでなにをしてきたのだろう、なにもない、と思い悩むことになる。

   しかしこれに落ち込んだり、悲しんだりするのではなく、これが人間のほんとうの姿だとして
  認めることである。「なにもない」自分に平気になり、気にしないで生きるというのが、人としての
  ほんとうのありかたではないだろうか。

   「なにか」があると思うからあわてふためき、競争し、生き急ぎ、自分を傷めつけるのではない
  だろうか。「なにもない」ことに平気になれれば、自分を許せるのだろう。





      フリーター急増の理由は社会保障の失敗だ    99/10/20.

   NHK『クローズアップ現代』で急増する高卒者のフリーターについてとりあげられていた。統計の
  数字は参考になるにしても、山田洋次監督の歯切れの悪いコメントは参考にはならなかった。か
  つてのフーテンの寅さんは自分のことを棚にあげて昨今の若者を肯定しないそうだ。

   13万人、五人に一人が就職も進学も決めないで卒業するそうである。全国で9.3%である。
  東京23区では22%、大学進学者と同数である。番組にとりあげられた高校では54%を越える
  そうだ。ちなみに大卒のプータローは10万人。

   フリーターになる第一の理由は「もう少し自由でいたい」ということだった。戦後の企業と労働者
  は雇用の確保と保障の増加をおたがい結託してきてから、ものすごく不自由と拘束の方向につっ
  走ってしまった。ここに違った方向の自由を求めようとする動きがフリーターとして現われたわけだ。

   また若者がフリーターに走る背景には企業側のアルバイト需要の増加がある。正社員では社会
  保障もろもろでコストがかかり過ぎる。ということで企業側が欲し、若者側もその自由さを求めて
  アルバイトになる。おたがいにコストを払い過ぎるのはカンベンだということだ。

   よくオヤジは定職につけという。その明確な違いはどこにあるのだろう? 正社員には社会保障
  があり、年功賃金や退職金があり、因習的な身分保証があると思われている。ただし、昨今のマ
  スコミのいうことが正しいとしたら、終身雇用も年功賃金もオダブツになることになる。労働者側の
  高いコストを払うだけに見合うペイを企業側は与えられるのか怪しくなってきている。

   ペイし合わないコストを払い合うのはいやだということだ。ただの因習的な社会常識だけで
  「定職」につけといっていると経済観念のまるでない取引きをしてしまう難しい時代になった。たと
  えば高いコストを払った会社人間がリストラに会えば、コストの割には保証がなかったということだ。

   これから社会保障をどう考えればよいのだろう? 企業も払いたくないし、労働者もその代償と
  してのコストがあまりにもかかり過ぎる。国民年金も企業年金も健康保険もかなりアブナイ。だれ
  が社会保障を払い、だれが支えるのだろうか。

   資本主義の原点に戻り、その日暮らし、明日の生計は立てられない生活と家族福祉制度に
  戻るか、あるいは定年のない高齢者も働ける社会をつくりだすか。社会主義や福祉国家の流れ
  が社畜化や高コスト化の100年近くをへて、大きく変わろうとしているということだ。





      他人のための活動と自分主義    99/10/19.

   戦後の社会は他人のために役立ったり、社会に貢献したり、社会的にすばらしい業績や評価
  を残した者を褒め称えてきて、多くの人たちもそれを目標にしてきた。

   しかし現在の若者は(わたしも含めて)あまりにも「自分主義」的だ。自分の時間、自分の満足、
  自分の生きがいばかりを求めている。

   社会貢献と自分主義が見事に拮抗し、ぶつかり合おうとしている。自分主義を貫こうにも、社会
  があまりにも他人貢献的なしくみになっており、生活水準や社会保障を維持しようとすれば、若者
  は自分たちが得たいと思う生活や時間を捨てなければならなくなっている。

   このきしみがどんどん大きく、静かに進行している。

   社会学者のダニエル・ベルがいった資本主義の文化的矛盾――勤勉主義と享楽主義の衝突
  と一面通じるところがある。仕事では勤勉が求められ、消費では享楽が求められ、分裂が激しく
  なるということだ。

   時計の針は戻せないのだし、若者の願望は未来の先取りなのだから、社会はこういった若者
  に合うようなしくみに変えてゆくべきである。まずは社会や企業、大人たちがそういう現実をしっ
  かりと認識することが必要である。社会の中身がすっかり変わってしまったのに、大昔のやり方
  がいまだまかり通っている。





       ちっぽけな自尊心      99/10/19.

   たいがいの人にとっての自尊心というのは他人との比較である。他人より優って人から恨みを
  買ったり、他人より劣って自虐の念や嫉妬心を抱く。あまり褒められたものではない。

   人の一生というのはこの他人との比較の牢獄なのだろう。勝っては恨まれ、負けては憎み、
  ほんのわずかな違いに血まなこになり、その無益な活動によって人生を費やすことになる。

   こういう無益な競争から降りる自尊心もあるはずである。人間の価値競争から抜ける自尊心を
  もつこともできるはずである。

   負けても平気、落ちぶれても劣っても気にならない、みじめやあわれだと思われてもちっとも
  気にならない、そういう人間の価値観から超越した自尊心というのもある。これがほんとうの自尊
  心とはいえないだろうか。

   人間の価値観というのは相対的なもので一方がなければ他方も成立しない。また、「オレが
  オレが」という自己顕示欲いっぱいの人に出会ったり、人に勝つことばかりを証明しようとする
  人を見ていて、なさけなく哀しい思いをしたことはないだろうか。

   まあ、わたしたちの心の中というのはたいがいそういうもので、負けたり、劣ったりしたとしても、
  内心ぜんぜん平気ではなく、あせったり、嫉妬心や復讐心を抱いたり、自虐心に陥ったりする。

   せっかくそこまで落ちたのなら、つぎはそういう価値観を超越して平気になったり、気にならない
  ようにするべきではないだろうか。人間同士のちっぽけな価値観にクギづけられるより、そういう
  価値観を笑いとばしでもできたら、心は平和になるし、一段上の自尊心をもつことができるだろう
  し、さらに自尊心すら捨てられたら幸いというものである。





       落ちこぼれろ!     99/10/18.

   落ちこぼれというのは、ある価値尺度での上の落ちこぼれである。現在でのだいたいの意味は
  学歴や社会生活が劣る人のことである。価値観というのはある一面を測れても、あとの無数の
  価値観は測れない。

   われわれは人より劣ることが恐ろしいから必死に「がんばる」。その価値尺度の上で一喜一憂
  したり、落ち込んだり、他人をけなしたりする。そういう活動に追いまくられてたいがいの人は一生
  をムダに費やす。

   落ちこぼれというのは、ある意味ではこういう無益な競争やメンツにこだわらない位置にいる。
  ひらき直って見れば、たいへん幸福なポジションだ。ここから人間の自由な境地が広がっている。

   しかしたいがいの人は落ちこぼれたり、劣った地位にいることに嘆き悲しんだり、責め立てたり
  して、みずからを地獄につき落とす。あるいはそのポジションから上に這い上がろうと必死になっ
  て世の大半の人と同じように人生をつまらない価値競争に費やす。

   人に勝とうとしたり、人よりよい体裁や名誉を飾ろうとするためにたいがいの人間は自分の人生
  や喜び、平安を失い、みずからちっぽけな競争に駆り立てる。そして浅ましくも小ざかしい人間の
  群れでせせこましい闘いに終始する。

   マスコミがいつも価値序列を教え、たたきこみ、劣者や敗者の嘆きと哀しみを伝える。だがこの
  価値観に囚われるとその価値観を強化し、みずからを不幸に陥れるだけではないだろうか。

   人間界の価値序列を超え出たとき、はじめてほんとうの自分になれる。




     愚か者に堕ちる    99/10/17.


   愚か者になれないから、われわれは苦しみ、一生を必死になって駆けずり回る。愚かである
  ことに平気になれば、安らかに暮らすことができる。

   人は愚か者になれないから、金銭を求め、名誉を求め、権力を求め、心身をすり減らし、忙しく
  駆けずり回り、必死になって自分の自尊心や名誉を傷つけないように守る。

   人は自尊心やプライド、優越欲を捨てられない。それを捨てたと思っても、他人の蔑視や軽蔑、
  あざけりから自由になれない。そしてがむしゃらに上に走り出すか、自分を切り刻む結果に陥る。

   愚か者はこれらの価値観から自由である。人間の価値観から解き放たれ、それを笑いとばすこと
  ができる。ちっぽけで、卑小で、ドングリの背比べの人間の価値観にわずらわされることもない。

   人はこざかしい自尊心や価値観に釘づけられるから、優越するために人を見下して人から恨ま
  れたり、あるいは劣等感や自虐の念から自由になれない。

   愚か者になるということはこれらの価値観を超越することである。人間のちっぽけな競争的価値
  観からとき放たれることである。だから愚か者は心の平安に生きる。

   あなたは愚か者になれますか。



    ご意見ご感想お待ちしております!    ues@leo.interq.or.jp



   つぶやき断想集 第一集 労働と自由について――。

    |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system