「よい人」になりたかったことと、エラソーになること


                                              1999/9/23.




   たいへんお恥ずかしい話だが、また自己申告なのでたいへん怪しいが、子供のころ「善い人」

  になりたいと思っていた。チャップリンの映画やTVの『池中玄太80キロ』、映画の『エアポート'XX』

  なんかを見ていて、これらのなかにはたいへん「よい人たち」が出ていて、わたしはぜひともこう

  いうよい人たちになりたいと思っていた。「よい人たち」というのはひじょうに感動的だった。おそ

  らくわたしはそういうふうに自己形成をしていったように思うし、「セルフ・イメージ」もじっさいは

  どうだかはたいへん怪しいが、そういうイメージをもってきた。


   でも「よい人」というのはいろいろやり切れなかったり、そのイメージが自分とズレてきたり、

  反抗期の自分が出てきたりして、もうこのイメージが維持できなくなってきたのだろう、わたしは

  ペシミスティックな道徳批判の本をむさぼり読むことになる。


   「すべて社交界というのはまず第一に必然的に、人間が互いに順応しあい抑制しあうことを

  要求する。……精神的な優越は、それが目の前にあるというだけで、べつだん何の意志も発動

  させなくても、人の気に障るからである。……すなわち普通の社交界で人の気に入るには、どう

  しても平凡で頭の悪い人間であることが必要なのだ」――ショーペンハウアー『幸福について』


   「もともと非利己的な行為は、それを示され、従ってそれによって利益を受けた人々の側から

  賞賛され、『よい』と呼ばれた。後にはこの起源が忘れられ、そして非利己的な行為は、ただ

  習慣的に常に『よい』として賞賛されたというだけの理由で、実際また『よい』と感じられるように

  なった」――フリードリッヒ・ニーチェ『道徳の系譜』


   「われわれは、すべてが次第に下へ下へと向かって行き、より希薄なもの、より善良なもの、

  より怜悧なもの、より気楽なもの、より凡庸なもの、より冷淡なもの、よりシナ的なもの、より

  キリスト教的なものへ下って行くのを予感する――疑いもなく、人間は次第に「より善く」なって

  行くのだ」


   「公共に対して危険なものが多いか少ないか、平等を脅かすものがあるかないか――が、

  いまや道徳的規準である。ここでもまた恐怖が道徳の母である。……独立した孤高の精神性・

  独りたたんとする意志・大いなる理性すらが、危険と感ぜられる。かくして、個人を畜群以上に

  引き上げ隣人に恐怖を与えるいっさいのものが、悪といわれ、反対に、控え目に卑しく服従して

  おのれを他とひとしく置く性情が、欲求の中庸が、道徳の名と誉れを僭するにいたる」

  ――フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』


   けっきょくのところ、「よい人」というのは、人より劣った人間になることであったのだ。人よりグズ

  でのろまで、だれにも優らない人間が、じつは人から「よい人」と思われ、感動的であるのである。

  映画のチャップリンはいつも貧乏で、ドジで、のろまで、ヘマばかりしている。池中玄太だって

  太っていて、すぐ感情的になってケンカをする必ずしも優れた男ではなかった。『釣りバカ日誌』の

  ハマちゃんだって「よい人」ではあるけれど、やっぱり仕事のできない劣った人間である。スタイ

  ンベックの『ハツカネズミと人間』に出てくる主人公もとてもよい人間だが、やはり頭が悪くてマヌケ

  である。ドストエフスキーは無条件に美しい人間を描こうとして、『白痴』を描かなければならなか

  った。


   「よい人」というのはわたしより劣っていて、わたしの自尊心を傷つけないがゆえに「よい人」

  なのである。わたしはこれらの言葉に出会うまで漠然と「善い人」は「よい」という同語反復の

  イメージしかもっていなかったのだが、不満が高まっていたからか、やっと化けの皮がはがされ

  たという感じがした。


   しかしこういう認識を得ても、それまでの行動様式や染み込んだ感情形態というのはちょっとや

  そっとでは変わるものではない。いきなり、冷酷な人間や非情な人間になれるわけではない。

  人より優れていたり、優秀な人間であることを宣伝したり、またみずからのイメージとしてとりこむ

  ことも急にできない。「よい」という言葉に特別な意味をもとめなくなっただけで、人から「よい人」

  に見られたいという行動様式はたぶん自分から抜け切らなかったように思う。


   人より劣った人間になること――わたしの中にはこういった「人生脚本」がいまだにわたしの

  行動を支配しているのかもしれない。「人生脚本」というのは交流分析の言葉で、子供のときに

  親から「優れた人間になりなさい」とか「劣った人間になりなさい」とか無意識下に発せられた

  メッセージを忠実に証明してしまうようなプログラムのことである。「グズな子になりなさい」と

  発せられた子どもは無意識に自分がグズであることをいつも証明してしまうようになるそうだ。


   よい人というのは人より優れてしまって人の心を傷つけてしまったりはしない人のことである。

  よい人というのは人より劣ったバカでなければならないわけである。それでこそ、人にとって、

  「よい!」人なわけだ。TVの『裸の大将放浪記』はバカだったからこそ、よい人であるわけだ。


   さてこの世は競争社会である。そして身分や階層、位階秩序といったものが幾重にも重なる

  世の中である。まちがっても学校民主主義が教えこんだような平等社会ではない。虐待や非情

  な身分制度のようなものが歴然と存在する社会である。われわれはそういった差別や非情を

  恐れてがむしゃらに働き、またはがむしゃらに受験勉強に励む。こういう差別的仕組みによって

  こそ、人はがんばり、産業は儲かり、国家は繁栄するというのが競争社会のからくりである。

  差別されること――つまり落ちこぼれることを恐れて人はがむしゃらに努力・向上しようとする。


   こういう世の中で「よい人」であろうとする人はいったいどのような運命に出会うのだろうか。

  かれは劣等、劣悪な環境、差別的な待遇に落ちて行くのだろうか、それとも非情で打算的な

  成功的・商業的人格を身につけてゆくのだろうか。かれは人を搾取したり、扱き使ったり、差別的

  待遇に処したり、人をバカよばわりするのだろうか。かれは人より劣っていなければならないと

  いう「よい人」の役割をどうやって脱ぎ捨てるのだろうか。


   戦後の社会は人の上に立つことを究極の目的にしてきた。出世すること、社長になること、

  金持ちになること、地位を得ること、つまり人より優れたり、エラくなることが戦後日本の目標で

  あった。人の上にのさばり、エラソーにし、人を差別し、おとしめ、人に命令し、人をこき使うことが、

  われわれの賞賛の的であったわけだ。立身出世とはそういう非情なものではなかったのか。

  戦後の日本人はよくも無邪気にこんな人生コースを賞賛したものだ。


   よい人であろうとした人はこういう世の中でどうなっていったのだろうか。ビジネス的な人格を

  身につけて行ったか、それとも低空飛行やドロップアウトに落ちついたか。しょせん、よい人なんて

  いう願望はただの子供向けの童話にしか過ぎないのかもしれない。この世の中はそんなキレイ

  ゴトがまかり通る世の中なんかではないし、力と権力で動いているというのが現実だ。そういう

  論理の中で、臆面もなく、エラソーになろうとするしかないのかもしれないな。


   しかしだいたいこういう単純な二元論自体がたいへん怪しい。人より劣っている人間がエラく

  て、人より露骨に優ろうとする人間がよくないという思い込みをもっている。つまりよい人はよい

  という、ショーペンハウアーやニーチェに指摘された過ちをまだ抱えもっているということだ。わたし

  はニーチェの思想や大衆社会批判といった本をたくさん読んだが、必ずしも深く理解しているとは

  言い難いし、頭の中ではよく整理されていないし、時間がたつごとにその毒の部分を薄めてきた

  ような気がする。よい人と、社会的に優れることを同一上に並べる発想もおかしいのかもしれない。

  まったくべつのことなのか、それとも同列に論じられることなのか。


   「よい人」というのはたぶん戦後民主主義の平等的な考え方も入っているのだろう。天は人の

  上に人をつくらず、下にもつくらずといった平等観も、よい人の構成要素に入っているのだろう。

  こういう理想的な平等観の正義――非現実的な理想を抱えもった人間はこの現実の競争、階層

  社会になにを思うのだろうか。理想をもつのはいいだろうが、現実の世界というのは非情なまでの

  優越、差別によってかたちづくられる社会である。へたな理想なんかもっていても、差別的待遇・

  劣等的待遇に押しつぶされるのみである。そのへんの二重舌社会をしっかりとわきまえておくべ

  きだ。


   「よい人」になりたいというのは、じつは「劣った人」になるということなのである。そして現実の

  競争社会では差別的・劣悪的レッテルに押しこめられることでもある。そうではないのか……。

  この人より優れたり、エラソーになることが推奨される社会では、かれは劣った人間であることを

  証明しつづけ、落ちこぼれてゆくばかりではないのだろうか。それでもよい人になりたいのなら、

  劣って人からよいといわれたいのなら、そういう運命を享受するしかないだろう。






  参考文献

   ショーペンハウアー『幸福について』 新潮文庫
   ニーチェ『道徳の系譜』 岩波文庫
   ニーチェ『善悪の彼岸』 新潮文庫
   ミュリエル・ジェイムス/ドロシー・ジョングウォード『自己実現への道』 社会思想社




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