ああ、無情! 芸能界の消えていった人たち


                                                 1999/9/17.






    芸能界というところは流行りすたりがとても激しいわけだが、以前は新しかったり流行ったり

   するものを楽しんでいただけなのだが、最近なぜか「あの人を見かけなくなった」とか「なにして

   いるんだろう」と思うようになるのが多くなった。トシなのだろうか? 


    10代のころは無我夢中で流行り者や流行を吸収するのに精いっぱいだったのだが、30を過ぎ

   ると、というよりか20代過ぎから、あんなに人気だったタレントも潮がひいたように消えてゆくと

   いうことを学習するようになった。なんだか同じことのくりかえしじゃないかと、新しくは出て消えて

   ゆく芸能界や音楽シーンに興醒めするようになった。


    一時は永遠と思われたものは、終わってみると一時の熱中でしかないことに気づく。そういう

   ことを何度も経験すると新しいものに斜に構えるようになり、情熱もそそげなくなってくる。こうい

   うふうに新しいものをだんだん信用しなくなって流行にさっぱりうとくなり、若者や子どもにバカ

   にされるオジサンになってゆくのだろうな。わたしのおかんもオヤジも芸能界にぜんぜん興味が

   なさそうだったが、かつて若いころにはそれぞれの時代の芸能人に熱中していた時期があった

   のかもしれない。団塊世代以降の母親は子どもといっしょにキャーキャー言っているようだけど。


    そういう醒めた時期を通り過ぎるとこんどは出てきては消えてゆく芸能人やミュージシャン

   本人の行方や事情が心配になってくる。「あれ、どこに行ったのかな」「なにをしてメシを食って

   いるんだろう」とちょっとかわいそうになってくる。一時は猫も杓子もみんな自分に向かってきた

   のに人気が冷めやるとみんないっせいに走り去ってゆく、そんなタレントの気持ちとはどんなも

   のなんだろう……。


    栄光の絶頂と転落の辛酸を短期間になめなければいけないのが芸能人の宿命である。

   それにくらべてサラリーマンの一生はもう少し長持ちする庇護を会社から与えてもらっていた

   わけだが、最近の事情はちょっと変わってきているようである。もちろん人気商売とは比べよ

   うもないほど安泰だろうけど。


    人気のなくなった芸能人はなにを思うのだろうか? かつてあんなに応援してくれたファンは

   そっぽを向いてしまっている。テレビや芸能関係者の人もぜんぜん呼んでくれない。世の中

   から見捨てられたような気持ちを味わうのだろうか。栄光の時代の記憶にいつまでもしがみ

   ついてゆこうとするのだろうか、それとも栄光のはかなさをかみしめているのだろうか。


    アイドルの寿命なんてほんと短い。十代から二十代のあいだをあっという間に駆けて消えて

   ゆく。自分の人気は若さと美貌だけだったのか、ファンたちはその魅力を食いつくだけ食いつい

   てどこともなく消えていってしまった。自分の魅力とはなんだっただろうかとため息をつきたくな

   るものではないだろうか。もう自分にはかつての人気も魅力もないということを知ることはかなり

   キツイ事実ではないだろうか。


    かれらはそういう結末を知りつつ人気商売を楽しめたのか、それとも自分の人気凋落に

   たいへんの驚きと自信喪失をもたらしたのだろうか。あれよあれよという間に人気が爆発し、

   あれよあれよという間に人気がさーっと引いてゆく。このような経験に人はなにを思うのだろ

   うか。こういう運命はどの芸能人も逃れうることはできないだろうし、長い人気を保つ人でも

   一度は経験することがあるだろう。


    人気というのはふしぎなものである。あんなに超人気だとか安泰だとか思われた人もあっ

   という間に人気が凋落したり、消えてしまっている。どちらかといえば、すべての芸能人に運命

   づけられているもののようだ。人気とか繁栄いうものはほんとうに一時の権勢といったものの

   ようだ。


    それは町についてもいえるし、かつて栄えた町がいまは凋落しているさまをあちこちで見る

   ことができるし、いま繁栄が不動と思われている町だって、いつかは同じ運命にあうことになる

   のだろう。ここ大阪でもチンチン電車の界隈なんかはかつての繁栄ぶりがしのばれるのだが、

   いまはやっぱり鉄道や中心部のほうが断然栄えている。または鉄道周辺の繁栄からロードサ

   イド・ショップへの繁栄へと移り変わっているところもある。


    産業や会社にもこの繁栄と衰退は必ずあり、かつては鉄鋼や造船が国をよって立つといった

   ような時代もあったし、生糸や繊維の業界が日本の発展を支えたこともあったし、日本のほとん

   どの人が農業に従事していたこともあったし、米問屋や廻船といったものが栄えていたこともあ

   った。


    これはやっぱり国や世界の地域にもいえて、歴史の中に繁栄と衰退の刻印をしっかりと刻み

   こんでいる。ポルトガルが繁栄したころには日本にカステラとか蘭学をもたらしたし、いまはアメリ

   カ文化の総輸出攻勢に合っているというわけだ。日本の繁栄も高度成長期とバブルのわずか

   20年のはかない夢だったのかもしれない。国家の繁栄も栄枯盛衰を絶対にまぬがれ得ない。

   スパンが長いぶん、われわれにはなかなかそのことは自覚しにくいが。国家の上り調子のとき

   より衰退するときのほうがはるかに自覚しやすいようである。


    人間のかかわるすべてに栄枯盛衰はあり、芸能界というのはそのさまが見事に凝縮されて

   いるわけだ。それも人気という、ときにはかわいらしさや美貌、若さといった、まったく天然資源

   に依存する人気もあるわけで、衰退凋落もはなはだしい。人間の必要度や要請度といったもの

   が見事に透けて見えてくるものである。


    繁栄と衰退はどんな人もまぬがれ得ない。人は必ず社会からも人からも見向きも、必要も

   されない不遇の時期がやってくる。いまは定年後の老人たちやリストラの嵐が襲う中高年

   たち、および新卒の就職希望者たちにそういったしわ寄せがやってきているようである。


    こういったときに挫折や消沈にただ沈み込むだけか、あるいはその状態を受け入れて自然

   にあるがままにやってゆくか、あるいはそれをバネにして奮起してゆこうとするか、それぞれ

   の違いが出てくるわけである。これはどんな人もまぬがれ得ないものであるから、われわれは

   こういう心の準備や訓練といったものを必要とするのだろう。繁栄や栄光ばかりが人生ではなく、

   やはり不遇や挫折が長く人生を覆うものである。芸能界や流行から消え去った人たちに目を

   向ければ、そういったことが見えてくる。


    栄光や繁栄ばかり見ていてはだめだ。繁栄ばかり見ているとそうでない自分になさけなく

   なったり、くやしさばかりに満たされてしまう。繁栄から遠ざかることによって逆にゆとりや自分

   らしさ、自分のペースやポジションを見つけられることだってあるだろう。繁栄の中心から離れる

   ことによって逆にスペインやイタリアのように人間らしい生きかたを見つける国だってある。繁栄

   中心のものの見方しかできなかったら、そういう良さについて気づくこともなかっただろう。


    芸能界というところは栄光と繁栄の場であるのだが、ほとんどの人はあっという間に表舞台

   から退場していってしまう。その変わり身の速さは驚くばかりである。われわれ一般の人間も

   そういう運命とまったく無縁ではない。衰退や凋落のときがいつか来ることを自覚して、日々を

   生きることが大切なのかもしれない。栄光や繁栄に酔っていたら、凋落の痛みはとり返しのつ

   かないものになるかもしれない。







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