幸福のパラドックス――欠乏なくして幸福はない


                                                   1999/8/9.





    「一切の不幸は欠乏から来るのではなくてむしろ過剰から来る」

    これはトルストイの言葉だが、まさに現代社会にぴったりの言葉だ。豊かになって過剰に

   モノがあふれる現代は幸福になってしかるべきなのだが、まったくそういう実感がない。逆に

   むなしさややり切れなさ、鬱積というのはどんどん貯まってゆく感じがする。


    この言葉をうけて中野孝次はこういっている。「苦痛があって不安があり、窮乏があって満足

   があり、病いの苦しさがあって健康の有難味がわかるというパラドックス。苦悩なくして幸福は

   ない」(人生を励ます言葉』講談社現代新書)


    つまり欠乏があるうちは幸福や満足を感じられるのだが、過剰になるとたちまちそれらは失

   われ、目的感の喪失と行き場のない不満が蓄積されることになる。不思議なことだが、過剰は

   不幸をもたらし、欠乏は幸福を生み出す母であるようだ。胸に刻んでおくべきだろう。


    われわれは一応豊かな社会に行き着いたのだが、幸福感も満足も目的感も失われてしまった。

   欠乏が満たされると逆に幸福や満足がまったく感じられなくなってしまう。われわれはこういう

   状態のなかでたまらないやり切れなさを感じている。もうここから降りることも逃げることもほかの

   生き方を選択することもできなくなってしまった。ただただ、過去の亡霊に呪縛されたかのよう

   にもっともっと富を蓄積しようとしている。


    インディアンのポトラッチのように蓄積された富を破壊、蕩尽してしまうような人類の知恵や

   制度といったものをわれわれは持ち合わせていない。祭りやカーニバルのような蕩尽の機会も

   ない。われわれはせいぜいギャンブルや消費によって富を散財できるのみだ。社会的・制度的

   に本能や衝動を解き放つ方法を知らないとわれわれはまたもや戦火による富の一掃を無意識

   に望むようになるのかもしれない。昨今のバブル崩壊や経済の下り坂はわれわれのそういう

   本能が無意識に望んで引き寄せたものなのかもしれない。破壊することによって欠乏を生み出し、

   そのことによって幸福感や目的感が与えられるというわけだ。


    われわれの社会は食べ物やモノの窮乏を補うことから、社会レベル全体のアップをめざして

   きた。みんなや隣近所がもっているからもたなければ、という欠乏感に押されて生活レベルの

   アップを図ってきた。つまり平均やみんなのレベルから落ちることをたまらなく恐れてきて、その

   原動力がたぐいまれなる経済成長をもたらしてきたわけだ。欠乏の基準はいつも平均であった。

   こういう競争をしているうちに生活レベルはかなり上がっていったのだが、維持することやコスト

   はたいへんなものである。


    しかしそこからだれも降りることはできない。なぜなら平均より落ちることをだれもが恐れる

   からだ。軽蔑や劣等のラベルを貼られることをだれもが恐れる。そうして維持費やコスト、疲労

   はどんどん高まってゆくばかりなのに、この競争からいつまでも降りられず、やめることもでき

   ない。われわれはこのような地獄の滑車に囚われたまま、苦しみつづけている。べつにありが

   たみも喜びもさして感じられないカネやモノ、仕事に縛られつづけている。


    われわれがふたたび幸福をとりもどそうとするのなら、全体的に社会の富を破壊することが

   必要なのだろうか。あるいは個々人がもたない生活、またはもてない生活へと脱落してゆく

   しか方法はないのだろうか。欠乏のなかにこそ、幸福と目的はおおいにあるというわけだ。

   さいきん、貧窮旅行やヒッチハイク旅行が流行しているのは、欠乏のなかには明確な目標が

   あるからなのだろう。


    過剰と富は人間に目隠しをしてしまう。なにをしたいのか、どこに行きたいのか、なにがほしい

   のか、まったく目標を見失わせてしまう。富や生活を維持することがなによりもの目標なのだ

   が、それだけは不満や鬱積がたまる一方で、知らず知らずのうちに破滅的な事件や自害を

   ひきおこしてしまう。欠乏なくしては本能が働かないわけだ。不況や経済的脱落というのは

   無意識のうちにわれわれが欲してしまうものなのかしれない。それらは頭で捉えると失敗や

   挫折のなにものでもないのだが、幸福や喜びをもう一度見つけるための試みなのだろうか。


    われわれはもう一度欠乏のなかに見を置くことが必要なのだろうか。そうしなければ、自分

   のやりたいことやほしいものがてんで見えてこない。われわれは仏教者や老荘思想、キリスト

   教者のような清貧の生き方をめざす必要があるのだろうか。ただ現代では劣等者になることや

   脱落することへの批判や軽蔑、タブーといったものはものすごく強い。われわれはこのような

   閉塞社会のなかでどのような道を選びとるべきなのだろうか。


    欠乏自体はかならずしも幸福ではない。それはやはり不幸なことであるし、みじめで悲しい

   ことでもある。だが、そこにはよいモノを手に入れたり、たくさん食べ物を食べたいという明確な

   目的、そして手に入れたときの喜びがあっただろう。わたしにはわからないのだが、昔の人たち

   がテレビや自動車、クーラーを買えたときのうれしさはひとしおでないものがあっただろう。


    社会の活力や文明のパワーといったものもやはり欠乏にさらされているときにはいちばん

   力と魅力をもつものである。そして富に囲まれ、都市化が進展するうちにしだいに人々は貧弱

   化してゆき、周辺のパワーある「野蛮人」たちに滅ぼされてゆくのが文明の運命といったもの

   のようである。


    われわれは過剰にみたされた社会でどのような道を選びとるべきなのだろうか。いきなり

   戦後の焼け野原のようなカタストロフィを再現することはもうできない。でも昨今のバブル崩壊

   による1000兆円にものぼる富の消滅や個人の自己破産などを見ていると、われわれは無意

   識下に欠乏状態=カタストロフィをのぞんでいるように思えてならない。われわれはほんとうの

   ところ、富の破壊=ポトラッチをのぞんでいるのだろうか。欠乏のなかのイキイキとした活動や

   明確の目標がふたたび戻ってくることをのぞんでいるのかもしれない。


    欠乏はほんとうにどうってこともない、つまらないことでも、ものすごくありがたい、うれしい

   喜びに変えてしまうものである。食べる金がないときの焼き肉やフルーツなんてものはもの

   すごくおいしく感じられるし、金がないのには一生懸命働いて貯めた金でほしいモノを買うとき

   の喜びもひとしおではない。しかし現代のようになんでもかんでもかんたんに手に入るような

   時代になれば、ちっともうれしくもありがたくもない。


    欠乏をどんどん削ぎ落してゆけば、ただ健康であること、五体満足でること、生きているだけ

   でものすごい感動とありがたみを感じられるようである。じつのところ、そういった感動が人間に

   とっていちばん大切であることを古今の宗教家たちは語ってきた。なんにも過剰にモノがなくて

   も生きているだけで幸せであるというのは、なんと手軽なことか。人はこういう身近で基本的な

   ことにはいちばん気づきにくいものである。これが不幸のはじまりというものである。モノがあふ

   れた機能的で効率的な社会をのぞむというのは、みずから不幸をのぞんだもののようだ。


    最後に究極の欠乏からの幸福を詠った詩を引用して終わりにします。

    電車の窓の外は
    光にみち
    喜びにみち
    いきいきといきづいている
    この世ともうお別れかと思うと
    見なれた景色が
    急に新鮮に見えてきた

    この世が
    人間も自然も
    幸福にみちみちている
    だのに私は死ななければならぬ
    だのにこの世は実にしあわせそうだ
    それが私の心を悲しませないで
    かえって私の悲しみを慰めてくれる
    私の胸に感動があふれ
    胸がつまって涙が出そうになる
                                高見順『詩集 死の淵より』





   参考文献(というよりか、ほとんど引用文献です)

     中野孝次『人生を励ます言葉』 講談社現代新書

   ほかに破壊や蕩尽の快楽のために秩序やタブーはあるという栗本慎一郎の『パンツを
   はいたサル』(光文社カッパサイエンス)も参考になります。


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