年齢差別について考える


                                                  1999/7/31.




    求人の年齢制限はほとんどが25才か30才くらいまでである。これって、いったいなんなのだ

   ろう、と思う。30才以上、40才以上の募集はひたすら少ない。いま、この年代のリストラや失業

   がかなり多い時代なのにこの募集ミスマッチはいったいなんなのだろう? 自殺やホームレスが

   増えてゆくのも当たり前というものだ。


    年齢制限はなぜなされるのだろうか。これって考えてみたらヘンなものだ。20代しかウチの

   会社にいらない、というのはどういう理屈によるものなのだろうか。20代の若者にしか仕事を

   覚える柔軟性や能力がないと思うからなのか、それとも年功序列のわが社では新入社員は

   20代でなければならないと思っているからなのか、逆にいえば、中高年者はもう仕事が覚え

   られないカタイ頭をしていると思っているからなのか、また新入社員が年上だったら扱いにく

   いと感じるからなのだろうか。


    おいおい、そうだとしたら実力主義・能力主義という宣伝は全部ウソっぱちなのか、サギ商法

   なのか? 実力が年齢で測れないのは当たり前であり、年齢制限を設けている会社はウチは

   旧態依然とした年功序列でやってゆきますと宣言しているようなものだ。そしてほとんどの企業

   が年齢制限を設けているというわけである。


    日本の社会では年をとるごとにエラくなるという常識がなんとなくあった。年上や先輩には

   従順にという不文律があった。学校やクラブ活動なんかでは先輩と後輩の上下関係がもの

   すごくキビシーところもあった。年が上だけでなんでそんなにエラくできるんだとだれでも疑問

   とか不条理に思っただろうが、そういうジョーシキが日本にまかりとおっていた。先輩にイジメ

   られた下級生は下級生イジメという遺伝性質をうけついで成長していった。幼児虐待の無意識

   的な遺伝とまったく同じ構造である。


    これを日本文化の歴史だとか中国の儒教の影響だとかほざく輩もいたが、これはまったく

   日本経済のある時代の特異な性質でしかない。高度成長には年功を遇するほうがマッチして

   いたというだけの理由だ。高齢になれば、体よく引退や定年だとかいって経済社会から

   捨てられてきたではないか。また昨今では高給の中高年から先にリストラされているというの

   は文化や歴史からは説明できない。


    われわれはこの日本社会において年齢制限という圧力をあちこちで感じる。20才になったら

   なになにをしなければならない、25才になったから結婚や家庭をもつことを考えなければなら

   ない、中高年には部下や部署をもつ地位にならなければならない、といっただいたい何歳に

   なったからなになにをしなければならないといった圧力や常識としょっちゅうぶつかる。


    そしてそういう判断や基準を与えているのはいつも企業であるということに気づいているだ

   ろうか。30才くらいまでには定職を定めていないと転職できなくなる、女性は25才や30才と

   いう大台にのるごとに社内にいづらくなる、といった年齢差別を与えるのはいつも企業だ。

   そしてそういう制限や圧力を与えるのは、企業の人事を構成する人たちやエライさん――つま

   りオヤジたちがわれわれの年齢行程を勝手に決め、基準づけ、牛耳ってきたというわけだ。


    かれらはいったいどういう判断基準をもって年齢ふりわけをおこなってきたのだろうか。

   おそらく自分たちの時代の旧弊な価値判断で測ってきたのだろう。かれらは社会や時代の

   常識や規範によって判断したと思っているかもしれないが、独断と偏見のなにものでもないと

   というのは時代の変化の速さからうかがわれるというものだ。そしてわれわれはそれによって

   転職状況や市場価値が決まってしまうから、しかたなくそれに従わざるを得なかったとという

   わけである。


    年齢基準というのはわれわれの人生を自分で組み立てるさいにはかなり重要である。

   そういう年齢判断をかれら企業に握られてきたわけである。なんとなく不快だなとか、自分で

   自分の人生を決められない閉塞感、年を経るごとに年齢的プレッシャーが強まってゆくのは、

   そういうところにあったというわけである。


    年齢制限とか年齢差別というのは軽視すれば痛い目に会う。われわれはこれらの年齢に

   達するごとに社会的プレッシャーを味わう。何歳までに職を固めろ、何歳までに結婚しろ、

   家庭に入れ、何歳までにうんぬんという選択基準は見事に企業に握られてきたわけだ。

   企業はここまで個人の自由や選択に侵入してもよいものだろうか。年齢で人をふりわけると

   いうことはものすごい独裁権力ではないのか。企業は年齢選別という巨大な暗黙の権力を

   もっているわけである。


    アメリカでは「年齢差別禁止法」という法律が30年も前からあるそうである。就職面接のさい、

   能力や業績以外の年齢などの質問をしてはならないという法律である。年齢は能力といっさい

   関わりないと割り切るのがすばらしい。日本に必要なのはいうまでもないことだ。年齢差別と

   いうのは能力を測っているわけではないので、人種や性別、家族によって差別することとなんら

   変わりはない。日本の企業はべっちょりねっちょりと個人の人生選択を縛りつけるべきではなく、

   あくまでも業務を中心としたドライで大人の関係になるべきだ。


    それにしてもなぜ日本では年齢差別に反対する声は上がってこなかったのだろうか。女性

   差別にたいする雇用機会均等法は施行されたのに、年齢差別反対はぽつぽつ聞くにしても、

   法律にまではならなかった。年齢差別によってトクをしてきた人が(年功賃金などで)おおぜい

   いたからだろうか。年上を偉くするのが当たり前だという意識が根強いからだろうか。でもそう

   いう旧い意識のままでは、中高年がおおぜいリストラされる現状において大迷惑な思いこみ

   でしかないだろう。大きな変化が起こっているのに旧態依然のままでは救いがないというものだ。


    日本にも年齢差別禁止法を導入するべきである。中高年の再就職先を確保するためには

   ぜひ必要というか、緊急に求められるものだ。雇用促進には短期的な雇用創出をおこなうよりか、

   構造転換が必要である。また年齢差別が撤廃されれば、われわれ個人も企業に人生の選択を

   牛耳られない自由を手に入れられるというものだ。


    これまで日本の企業はわれわれ個人の手とり足とり人生行路の選択を強制してきたわけ

   だが、これは大迷惑というものだ。企業が暗黙のうちに転職の禁止や結婚の強制などをまち

   がってもしてはならない。また定年制を年齢差別だとして撤廃できたなら、個人の働く/働か

   ないの自由な選択も可能になるかもしれない。もちろんいろいろ問題はあるかもしれないが、

   年齢差別禁止法とそれにたいする意識を高めることがわれわれに必要なのだろう。


    もし現在の求人が30才までという枠組みがなくなって40才や50才になってもいくらでも

   転職先があるのなら、われわれの人生ももっと自由になるというものだ。バラ色だけでは

   ないだろうが、将来に希望はもてる未来になる。少子化・高齢化社会にも対応できるという

   ものである。






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