60年代対抗文化への郷愁

                                                1999/7/23.





    現代のわれわれには抜け道がない。ビジネスや金儲け主義にいや気がさしたと

   しても、ほかに頼る生き方や集団がない。既成宗教や新興宗教にもあまり親近感が

   ない。しかたがないから会社組織に属するしかなく、不満が蓄積されるいっぽうだ。


    そういった不満からわたしはいろいろな本を読むようになったのだが、いつもひきつ

   けられたのが、だいたい60年代あたりのカウンター・カルチャーの本だ。このころの本

   というのは、既成社会にたいする批判やアンチ・テーゼの宝庫のようなもので、わたし

   の興味のそそる本がごろごろと出てきた。


    あまりくわしくはわからないが、ヘルベルト・マルクーゼやエーリッヒ・フロムなどの

   社会学者、アドルノやホルクハイマーといったドイツ・フランクフルトの哲学者、そのころ

   によく読まれたカール・マルクスといった人たち。また、ビート・ジェネレーションやヒッピ

   ーなどのジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、リチャード

   ・ブローティガンといった人たちもいた。ボブ・ディランも入るのかな。


    わたしは60年代の後半に生まれたのでそれらの時代のことはまったくわからないの

   だが、とくにこれらの時代に魅きつけられた。多くの文学者や哲学者、若者たちが反体

   制文化を標榜し、既成社会にたいする反抗や攻撃をくわえた。わたしが育った超保守的、

   体制順応的な社会や若者からはとうてい信じられないくらいの批判精神をもっていた。

   だからそういった批判精神を学ぼうと思えば、この時代の本を読むしかなかったわけだ。


    なぜこの時代の人たちや若者はこれほど反抗的になることができ、そして現代の

   われわれ若者はこれほどまでに体制順応的になってしまったのだろうか。不満や不快

   でならない。現在の若者はこの社会に対する不快感や矛盾、反抗心といったものを

   まったくもたないのだろうか。それとも60年代の青年たちの革命や運動がわれわれの

   時代を超保守的なものにしてしまったのだろうか。


    60年代にどのようなことが目指されたのかよくわからない。それらの時代に書かれた

   本を読んでみても、なんだか内実的なことがよくわからないというのが正直なところだ。

   社会主義的な革命がめざされたのだろうか。この日本においては、官僚主導型の計画

   経済や会社が福祉をうけもつ会社主義がおこなわれたわけだから、そういった意味では

   成功といえるのだろうか。それにしても現代の人たちはなぜこう超堅実・保守的・体制

   順応的になってしまったのだろうか。


    ジャック・ケルアックはビート・ジェネレーションの中心人物だが、『路上』という本は

   わたしにとってはおもろしくもないし、あまり意味のわからないロード・ノベルにしか

   思えなかった。ギンズバーグは読んでいない。論理的な説明にひざをぽんとたたくよう

   な明晰な文章を好む私にとっては詩というのは相性が悪い。ウィリアム・バロウズは

   支離滅裂、奇想天外、エグイという形容しかできない一冊を読んだのみだ。ブローティ

   ガンはほんわりとした小説を読んだ。


    この年代の文学というのは魅かれるのだが、あまり意味もわからないし、おもしろい

   という代物ではない。ただ反抗や対抗というカルチャーがバックボーンにあるから、とて

   もひきつけられる年代ではあるが。アメリカの文学全体というのにも魅かれるのだが、

   そりゃあ、アメリカが日本の先を行っているからだと思うが、60年代あたりのアメリカ

   文学というのは意味のわからないのがつぶぞろいだ。トマス・ピンチョン、ジョン・バース、

   ジョン・アップダイク、ドナルド・バーセルミ、その他もろもろ。


    アメリカ文学ではわたしはほかにヘミングウェイやスタインベック、アンダースンと

   いった人たちが気に入ったが、とくに30年代の大不況を生きたオーキーたちを描いた

   スタインベックの『怒りのぶどう』が好きだというのは、いまの日本がその恐慌時代に

   近いというのはひじょうに皮肉なことである。


    アメリカのビート・ジェネレーションやヒッピーといった反体制、反物質文明といった

   ムーヴメントはもうほとんど姿を消し、いまではかろうじて文学や詩にその痕跡をのこす

   くらいだ。インターネットにはいくらかHPがあるらしいが、大きな社会現象になるまでに

   いたっていないことはだれでも知っている。かれらはどうして消えてしまったのだろうか。

   また、さしてビジネス・消費文化に影響を与えなかったのだろうか。ヒッピーというのは

   いったいどんな文化的遺産をわれわれに残してくれたのだろうか。


    ビートやヒッピーはたしかにアメリカ西海岸に禅や仏教、東洋宗教をひきいれ、いま

   ではトランス・パーソナル心理学といった成果をうみだした。鈴木大拙やインドのグル

   たちがたくさんカリフォルニアに流れ込み、そのおかげでいまではケン・ウィルバーや

   スタニスラフ・グロフ、ラジニーシ、クルシュナムルティといった人たちの優れたセラピー

   の著作を読むことができる。ベストセラーのリチャード・カールソンはこれらの影響をうけ

   ている。思考や理性を信奉するのではなく、それらを捨てたところに平安や幸福を見い

   だすというのは、心の健康にとってはものすごく効果的なものである。


    ビートやヒッピーは30年ほどかかってこのような成果を生み出したが、主流のビジネ

   ス・経済社会にはほとんどカウンター・パンチを食らわせられなかったようだ。そのことが

   わたしには無念でならない。かれらがもう少し反物質主義、反経済主義を実らしていた

   ら、わたしたちはもう少し幸福に生きられていたかもしれない。パーソナル・コンピュータ

   はカウンターカルチャーによって生み出されたという話も聞いたことがあるが、これらを

   結びつけるのはちょっと強引な気がしないでもない。


    エーリッヒ・フロムは産業社会の人間の病理というものを鋭く抉り出していて、『自由

   からの逃走』『人間における自由』の二著作はわたしにとても衝撃を与えた。日本では

   よく読まれているらしいが、社会の主流になにがしかの影響を与えているようには思わ

   れないのが残念だ。マルクーゼは新刊書を手に入れるのはすこし難しく、残念ながらわ

   たしはまだ読んでいない。ホルクハイマーは『理性の腐蝕』だけが手に入ったが、あま

   り印象にのこっていない。アドルノは読んでいない。


    60年代というのはよい時代だったと思う。多くの人たちが自分たちの社会にたいする

   批判精神や反骨精神を燃やしていた。それがこんにちではだれもが超堅実・保守的に

   なってしまっている。いっぱんの人たちの不満や鬱憤が世論にまでのぼってくるという

   ことはほとんどない。ただただ、会社にこきつかわれ、この企業社会のなかに順応して

   ゆき、埋没しているばかりだ。いったいどうしてここまでおとなしくなってしまったのだろ

   うか。われわれにはこの社会に対するいら立ちや不快感をまったくもたないのだろうか。

   働きづくめのただ労働と企業だけの人生になんの矛盾も不満も感じないのだろうか。

   消費やマス・カルチャーのうわっつらで欺瞞的な世界になんの違和感もストレスも感じ

   ないものだろうか。


    ここまでおとなしくなった日本人の対比として60年代はとても人間らしい時代だった

   と思う。現代の日本人は信じられないくらい、従順で奴隷的である。かつての日本人は

   もっと反抗的であり、正直に生きていた。愛しき怠け者であった。江戸時代には一揆や

   打ち壊し、伊勢参りやええじゃないかといった運動を再三おこし、自らの怒りや衝動に

   正直な心をもっていたはずだ。ある程度の反抗や反省があるほうが人間らしいという

   ものであり、社会の矛盾や病理も是正されたというものだ。


    60年代の精神と人々はいったいどこに行ってしまったのだろう? 混乱や騒乱に陥れ

   るだけが60年代としたらおおいに問題ではあるが、健全な批判精神、懐疑といったもの

   は誤った道に踏み外しがちな社会にとってはおおいに必要なものであると思う。


    アメリカにとって60年代は黄金の繁栄期という40〜50年代を通り越したあとだったが、

   日本にとってはまだ上り坂の時代であった。ゆえに人々にとっては気分だけがやってき

   て、ファッションとしての反体制文化が花開いたように思われる。しかしいまの日本は

   80年代の繁栄とバブルという狂騒の時代を通り越した。はじめて頂点を経験したわけだ。

   だからそういった体験からはじめてあの時代の批判精神の意味がわかるというもので

   はないだろうか。


    それにしても日本の人々および若者は信じ難いほど、おとなしく、順応的である。

   このふ抜けぶりはいったいなんなのだろう。


    しかしこれから時代は変わる。企業は人々を放り出し、終身雇用という約束は会社

   さんの一方的な都合で遺棄、政府も会社や人々を守らない時代に入った。自由に生き

   ろ、そのかわりハイリスク・ハイリターンですよ、知恵の時代ですよ、と危機感ゼロの

   日本人の耳に馬の念仏の呪文をとなえている。日本人はあいかわらず、ぽか〜んと

   これまでどおり変わらないだろう、いままでどおりの生き方でいいやと思っているよう

   である。


    官僚と企業と学校ががっちりと手を結んで、日本人をそのように訓育してきたのだ

   から、日本人が急に独創的に生きられるわけがない。みんなと同じ、みんなに習え、

   という強迫観念が社会のすみずみまで巣食うこの日本社会に、独創的な勇気をもて

   る人がいったいどのくらいいるというのだろうか。人と違えば、組織や集団から受けい

   れられないというこの社会にどれだけ独創的で創造的な生き方がのぞめるというの

   だろうか。


    まずはあの60年代の批判精神を学ばなければ、変わるものも変わらない。現状に

   満足しているもの、違和感も感じないものは、なにも新しいものを生み出さない。批判

   や懐疑が草の根にあって、はじめて社会は変わるというものである。これまでの成功者

   や権力者、多数者といった人たちはみずからに向けられる批判の刃をうけとめられるだ

   ろうか。






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