投げ銭システムから開けてくる個人の文化

                                                  1999/7/7.





    投げ銭システムというのは、ホームページのコンテンツにたいして大道芸人のように価値

   あるとみなしたものに金を投げるというものである。これなら読者の方に判断する余地が

   与えられるし、アクセス即課金のような「恐ろしさ」もない。インターネットのすべてのコンテンツ

   が有料に値するとはとても思われないし、ペイする価値があると判断したものだけ、投げ銭する

   というのはひじょうによい仕組みだと思う。


    現在のところ、HPのほとんどは無料である。チラシや広報誌のような状態になっているわけ

   だが、投げ銭システムのような仕組みができれば、HP作成者はとても助かると思うし、励みに

   なる。インターネットのなかで個人も稼げるようになったら、コンテンツはもっと充実・拡大して

   ゆくはずである。雑誌や書籍、ビデオや個展といった形あるものを通さなくても、稼げる機会が

   できるというのは革命的なものになるだろう。


    もちろんわたしもHPを開設したときには少しでも稼げたらいいのだがと思っていたのだが、

   そういう仕組みはないし、ほかのHPのほとんどは無料でやっている。メール・マガジンという

   少々手間のかかるものでも無料でやっているというのは、正直なところよくそこまで無償で

   やれるものだとわたしはちょっとビビっている。これは趣味の交流であるから無料でいこう、

   というのが現在の趨勢なのだろうか。ということで開設以降、みんなにならえして無料でやっ

   てきたし、またアクセス数もめちゃくちゃ多いというわけではないので、分をわきまえて謙虚に

   やってゆくことにした。声をあげてHPを有料にすると宣言するほど、わたしのHPは優れたもの

   ではないと思うし、読者の方々の判断もわからない。


   その点、投げ銭システムなら読者の方々に判断の余地があたえられるわけだ。こんなの

  払う価値がないと思えば無視すればいいわけだし、これは払う価値があるとか、ビール代とか

  図書券代くらい払ってやってもいいとか、励ましに恵んでやろうとか、哀れだから金をやろうとか、

  そういった支払い価値を選択できるわけだ。価値に応じて後払いするわけだ。これはよいと思う。

  これくらいの金の流れる市場をつくったほうがインターネットは繁栄するというものだし、みんなの

  モチベーションになるだろう。趣味で稼げるというのは、たとえこづかい程度であっても、夢の

  ような話である。


   インターネットは是が非でも無料でなければならない、という人はいるかもしれない。趣味の

  交流であり、ボランティアであるというのがインターネットの基本だと思う人がいるかもしれない。

  そういう交流や側面は残しておいたほうがいいには越したことがない。ただこの電脳世界に

  少しでも金を混入すれば、とても活性化すると思うのだが。


   知識とか情報に金銭価値をつけるのはわれわれはあまり慣れていない。書籍とか雑誌とか

  ビデオというパッケージされたモノを通してでしか知識を買ったことがないからだ。しかし考えて

  みたら、書籍とか雑誌の中にある情報というのは無形のものである。われわれはこの情報と

  いう無形のものを書籍とかのパッケージされたモノで買うわけである。モノで買うときには抵抗は

  ないのだが、インターネット上の無形で流れる情報にたいしてかなり抵抗がある。ハコものだった

  らそれを手に入れるしか情報を仕入れる仕組みがないわけだが、インターネットは違う。どこまで

  いっても「無形」の情報であるし、水のようにいくらでも情報を得ることができる。


   これは難しい。われわれは無形のものは無料であるという観念に慣れ切っている。投資する

  とかの気持ちの転換が必要なのかもしれない。そのような投資の観念が情報の貨幣市場を

  回していったらしめたものだ。のちのちには自分に金が回ってくるかもしれないし、情報や知識

  の価値は磨かれ、いっそうの充実ぶりが見込まれるようになるかもしれないからだ。われわれは

  このような金の回り方を促進したほうが、趣味や芸術といった好ましい市場社会を産み出せる

  かもしれないのだ。


   演劇や音楽、映画、講演といった知識・情報は、空間の中に閉じ込めることによって見料を

  とってきた。これらも無形のもので水のようなものだったのだが、壁という遮断するものを利用

  して、知識にたいして金を払わせてきたわけである。場所代というかたちである。もし建物の

  ような障害やチケット規制といったものがなければ、だれでも遠くからでもタダで見ることが

  できる。以前、神社で「ヘビ女」とかいう催しをやっていて、あまりのくだらなさに「金返せ」と

  思ったものだが、こういう場所代をとる見世物の場合、先払いというリスクがあるわけだ。

  その中身にたいして払う価値があるのかどうか、入る前にはわからない。有料コンテンツの

  場合にはこういう危うさがあるわけである。


   TVやラジオは水のように知識や情報が流れている。支払う人にたいしてだけ映像や音楽を

  流すのはむずかしいわけだから、企業の広告費によって収入を得ている。これはとても不思議な

  仕組みだなとわたしはときどき思うわけだが、なぜならTVやラジオの大半は広告とは関わりない

  からである。スポンサーは太っ腹なのか、情報の大切さを認識しているからか、それともわれわれ

  は情報ではなく、その名を借りた広告に浸かり切っているだけなのだろうか。ケーブル・テレビ

  や衛星放送は専用チューナーによって制限している。テレビやラジオはタダだという感覚にすっ

  かり慣れ切っているけど、「ただほどコワイものはない」という言葉を忘れないようにしたい。


   ところで投げ銭といえば神社や寺院のお賽銭箱を思い浮かべるが、あれはいったいなんの

  ためにカネを払うのかなと思う。仏や神が守ってくれるためなのか、それとも自分の願を自分自身

  に言い聞かすためなのか、それとも神社寺院の運営費・維持費のためなのか。これも信仰なき

  者からしてみれば、無色透明の何もないものにたいしてカネを払っているように思えてならない。


   インターネットでは場所代もパッケージ代も頂くことはできない。それで知識や情報は水のよう

  に無料ということになっている。利用する側にしてみれば、これほどありがたいものはないのだ

  けれど、提供する側としてはいくらかの収入を見込めるということほどありがたいものはない。

  われわれは価値あると見なした知識や感動や喜び、興奮、有益、有用であると見なした情報に

  かんしては少しでも提供者になにがしかのお礼を差し上げるほうがよいと思う。情報や知識が

  どこまでいってもタダで手に入るというのは、かれらの労力、蓄積、貢献に対してあまりにも

  無頓着すぎるのかもしれない。


   投げ銭するに値するかしないかの判断はたしかにむずかしい。金をとるほどでもない個人

  HPや読んでも仕方がないという情報もネット上にはたしかにたくさんある。これらすべてに課金

  されるというのはサギというものだ。HPにだれも寄りつかなくなる。たとえば個人日記や個人の

  日常や趣味にたいして金を払う必要や価値があるとはあまり思われない。ただ、そういったもの

  でもプロ並みの情報価値や娯楽の価値もありうることもあるわけで、そこらへんの線引きはたし

  かにむずかしい。見る側の識別能力や金銭感覚、貢献意識やパトロン感覚といったものが

  必要になるのだろう。


   ネットに小額でも金が支払われるようになるとこの社会はとてもおもしろくなると思う。なにか

  おもしろい知識や情報を得たり提供することができれば、小額の稼ぎやまたは莫大な収入が

  見込めるような社会になるというのはとても期待できるものである。インターネットというのは

  もともと個人が企業や工場、流通機構といった大掛かりな仕組みを通さなくても、知識や情報を

  発信できるメディアであったわけで、小額でも金銭が得られるような仕組みをつくらないと

  てんで個人の暮らしや生活に貢献できない。ここからしっかりと収入を得られるようになって

  はじめて、インターネットは正規のメディアとなりうるわけだし、個人のおもしろみややりがい、

  社会の活性化や発展も見込まれるというものだ。


   新聞だってもともと道端やパブや喫茶店などで伝えられた事件や情報を紙面にまとめたもの

  である。口で伝えられる情報が金を支払わなければ得られなくなるというのは当時の人たちに

  とってはショックであり、信じられない話に思えたかもしれない。こんなので儲けやがってと思った

  かもしれない。だけどそのうち新聞は個人ではとても得られない、幅広い情報をもたらすように

  なった。小説や物語もはじめは人づてに伝えられていたものが、書籍というかたちで流通する

  ようになって金銭的価値が生まれたのではないだろうか。


   口づてに伝えられていたものが貨幣価値を獲得する。そしてそのことによって、その知識や

  情報は変貌をとげ、そのパッケージや場所に似合った内容のものへと磨かれてゆく。逆に金に

  なるからということで形式や内容はどんどんふくらんでいったのではないだろうか。たとえば、

  レコードは最初は人の声を録音していたらしいが、のちに音楽を録音するようになり、それが

  こんにちの巨大な音楽の遺産やマーケットを生み出すようになった。印刷機だってはじめは

  聖書とか論語とか崇高な目的に利用しようと思っていたのだが、人々の娯楽や情報のための

  道具となり、マーケットとなった。情報や知識はそれを大量に伝える機器とカネがくっつくことに

  よって巨大な文化現象や遺産をつくりだすのである。まあ、カネはその世界をひろげるための

  巨大な起爆剤になりうるといいたいわけだ。


   投げ銭システムというのはこれから多くのHPに用いられたらいいと思う。それがHP作成者の

  励みになり、ときには生活費になり、研究費や実験費になり、そしてもっと大きな業績と成果を

  のこすことになるだろう。だからわたしは投げ銭システムはこれからのインターネットと個人の

  文化や芸術的な才能や貢献をもたらすための重要なステップになると思う。個人にとっても、

  とてもおもしろい世界が開けてくるものだと思う。


   料金も百円とか五百円とか安く設定できるのではないか。新聞や書籍、ビデオのような

  大掛かりなパッケージ作製代とか流通費がてんでかからないのがインターネットの強みだ。

  新聞でだいたい百円ちょっとだ。あの情報にわれわれはそれだけの価値があると認めて買って

  いる。どちらかといえば、買わなければ情報を手に入れられないので印刷物を買っていると

  いっていいかもしれない。そういう情報の入手の仕方に慣れているわけだ。中身は同じ情報

  なのに、印刷物とかパッケージされたものには平気に金を払うというのは不思議なものだ。

  ただ、新聞や書籍にはそれだけの価値や評価が与えられているという事実はあるが。出版物

  でも編集者が商品価値があると見なしたものが売られているわけで、だからわれわれは

  安心してそれを買う。ネット上にもそういう選別装置が必要なのかもしれない。


   まあ、いまのところわたしは様子見だ。投げ銭システムをいきなり導入するのは時期尚早だと

  思うし、わたしごときのシロウトのHPにだれかがカネを払ってくれるというのか。もう少し人々が

  情報や知識にたいしての金銭価値を認めるようになるまで待っておいたほうがよいのだと思う。

  そういう時期がこれからの創造的な個人のために、早くきてくれたらいいんですけど……。
  



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   リンク 投げ銭システム推進準備委員会 
        これは書評ホームページのひつじ書房というところでおこなわれている。

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