500万貯まったら、
         なぜ遊んで暮らさないのですか?


                                                  1999/7/2.





   人類のナゾである。500万貯まったら――ライフスタイルによって違うだろうが――少なくとも

  一、二年有余の生活には困らないはずである。それなのに現代の日本人は遊んで暮らさず、

  一生働きつづけ、もっともっとカネと叫びつづけている。一年もの遊ぶ金があるのにいっこうに

  仕事をやめようとしない。フシギである。インド人や近代以前の人たちなら、おおいに人生を

  楽しんだことだろう。


   しかも稼いだ金の半分ちかくはいわゆる雑費――生活費ではない消費や娯楽、教育費に

  つぎこまれている。逆転してしまったのである。生活をするための仕事から遊びや娯楽のための

  仕事へと。この転換はバブル時代にはじまり、高級品やレジャーに狂騒する人たちを見ていて、

  こいつらアホかいな、とわたしは思った。遊ぶカネがあるのなら、なにも働かなくてもいいじゃ

  ないか、と疑問に思ったものだ。


   ところがどっこい、一度生活レベルを上げてしまうとそのレベルから降りられないようである。

  そしてもっともっと働くことが必要になる。家賃にローンに電気代にガソリン代に旅行費にレジャー

  費に教育費に熟通いに保険に年金に……。もっともっと金が必要だ、稼ぎが足らない、もっと

  もっと働かなければ……というふうに地獄!の滑車が廻りはじめる。


   「働けども働けどもわが暮らし楽にならざる」と石川啄木(?)は嘆いたが、現代のわれわれも

  まったく同じ苦しみをなめている。働いても働いても労働から解放されないではないか……。

  いくら働いてもいくらモノをかき集めてきても貧乏という思いは拭い去らないし、将来や老後の

  不安はネズミ講的に爆増するし、教育やキャリアは何十年かかってやっと手に入るというありさ

  まだし……。いったいわれわれはどこから道を誤ってしまったのだろうか。


   かつて労働は苦痛や苦悩ではなかったのか。労働はできればやりたくなかったし、やらなけ

  ればならないとしたら、できるだけ早く解放されたいなにかではなかったのではないか。われわれ

  が一生懸命働くのは労働から解放された余暇を楽しむためであり、だからこそ効率や利便性を

  われわれは追求してきたのではないか。労働の先には働かなくてもよいユートピア!が夢想

  されたこそ、われわれはがむしゃらに働いてきたのではないのか。


   ところがどうもこの国の人たちはどこかで頭をしこたま打ちつけたようだ。働くためだけの仕事

  に終始し、カネを貯め、老後に備え、それでもまだ働き足りないようだ。労働が好きなのだろうか。

  かつてのように禁欲的な労働が神聖であり、神にいたる道であるといった宗教観がまるでない

  のはだれもが実感できることだ。ではなんのために働くのか。


   高圧的な労働強制の雰囲気が社会に充満しているからだ。働かなければ、たちまち食いっぱ

  ぐれてしまう、空白があったりキャリアがなければ不安といった恐れと、それを強制する企業社会

  があるからだろう。つまりクソまじめな24時間労働人間以外は人間と認めない、わが社には

  受け入れないといった暗黙の了解があったからだ。そういう社会の規範は経営者のみならず、

  ふつうの労働者や子どもを育てる主婦層にもあったことが、この国の異常さにつながっていた。


   この規範はいったいなんなのだろう? 経営者ならそういう発想をするのは当たり前かもしれ

  ないが、一般の労働者や主婦といった人たちまでそんな非人間的な発想を抱くようになったのは

  なぜなのか。おそらくそれがこの国の成功し過ぎた社会主義的洗脳なのだろう。みんながみんな

  みずからを労働ロボットになることを強制しあった。自由がなかった。ほんらいならもっと自由な

  生き方を求めるはずなのに、人々はまるでスターリンのように強制労働の精神を叩きこみあった。

  経済大国になるという夢、失業者のいない完全雇用の世界、健康や老後が保障された社会シス

  テム、そういった目的のためにこの国の国民たちはひとりひとりの精神や生き方を管理統制

  されたわけだ。ヒジョ〜に嘆かわしい、哀しい時代であったとわたしは思う。なぜなら自分の好き

  なように生きられない社会というのは強制収容所となんら代わりはないと思うからだ。


   こういう社会はまだ終わっていない。まだまだみんな、働くだけが人生であり、一生であり、

  そのために生きてきたのが人間だというふうに思い込んでいるようだ。自分たちが非人間的な

  生き方をしてきて、それを他人に強制しているなどとは露とも思わないらしい。哀れな、まことに

  哀れな、嘆かわしい国民である。いったいなんのために生きているのかわからない哀しい国民

  である。


   さあ、90年代からはこういった仕組みが崩壊をはじめた。稼げる人はもっと稼ぎ、稼げない

  人は落ちてゆくというシステムに変わりはじめようとしている。アメリカやドイツなどでは中流階級

  の没落がはじまっている。日本にそのような波が押し寄せてくるのは、成熟化社会の必然の

  ようである。多くの人がいまより貧乏に、恵まれない境遇に陥ることが増えるかもしれない。


   ただ、われわれはもう知ってしまっている。カネやモノがいくらあっても満ち足りないし、稼ごう

  と思えば、もっと忙しく立ち働かなければならない豊かさという現実をである。このような経験を

  へたわれわれが貧乏になるからといって、みんなが嘆き悲しむとは限らない。貧乏には貧乏を

  正当化する思想だってちゃんとあるし、そこにこそ心の平安や美徳があるとおおくの宗教は教え

  さとしてきた。マルキシストからは貧乏に順応させるイデオロギーだと叱られるかもしれないが、

  そこから逃れられない人たちにはおおいに慰められる思想ともいえるのではないだろうか。


   経済は成熟化してしまったので、これからは経済的に不遇を迎える人はおそらく多くなること

  だろう。どちらかといえば、これまでの成長時代が異常で、これからの循環的経済のほうが

  ふつうなのだろう。こういう時代には人から勤勉を強制されない、放っておいてくれる寛容な

  社会が訪れるだろうか。そこに労働から解放された生は芽生えるのだろうか。でもそこには

  貧乏や将来の計画のない刹那的な生き方を享受しなければならないという側面もあることは

  たしかである。こういう浮草稼業こそが、よい意味でも悪い意味でも人間らしい(?)生き方、

  なのだろうか……?


   労働というのは恐ろしいパラドックスがついて回る。働けば働くほどカネが必要になり、

  のぞんだ休暇やゆとりはますます遠のいてしまう。われわれはこういう悪循環に囚われて、

  まったく抜け出せなくなってしまった。なにを手放し、なにを得るべきなのか、われわれは労働

  がもたらすものについて考え直してみる必要があるだろう。




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   関連エッセイ
   「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.

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