つまんない生き方しかない
            世の中をどう生きてゆくか


                                                  1999/6/11.







    齢31にしてもまだ、どうやって生きていこうかと迷うばかりである。どんな生き方をすれば

   いちばんいいのかてんでわからない。もう迷ったり、迷うことすら許されない年代なのかも

   しれないけど、どうも満足ゆく生き方がどうしても見えてこない。不平不満をたらたら並べて

   生きてきたわたしには職業生活における選択の自由などほとんどないに等しいのだが、

   それでもやっぱり未練がましく迷いつづけている。


    やりたい仕事などてんでないのだ。満足のゆく仕事なんててんで見つけられない。おもしろ

   そうな仕事を見つけても経験や業績が必要だし、自分にはできそうにもないと不安になって

   すぐあきらめてしまうし、だれでもできる仕事もおもしろみがない。問題があるのは自分自身

   じゃないかといわれそうだが、たぶんそうなのだろう。自分自身を問いつめたり、厳しくしたり

   することができずに甘えているだけなのだろう。不満たらたらと自信のない自分というものと

   しっかり向きあわなければならない。


    この作業を一方で課しながら、やっぱり時代についての不満も無視するわけにはゆかない。

   自分にも問題があるのはたしかだろうが、しかし確実に時代にも問題がある。どっちなのか

   といってもたぶん解決はできはしないだろう。両方の問題と責任を問うことが必要だろう。


    サラリーマンとして生きてゆく生涯はほんとうにつまらない。いろいろ理由は考えられるだ

   ろうが、やはりカネを少しでもたくさん得ようとして、ドレイになってしまったからだろう。カネや

   保障、保身、安定のためにみんなはドレイになってしまった。カネや安定がほしい人には

   そういう側面の卑屈さや屈辱がみえない。カネか貧困かという単純なモノサシでしか測れず、

   あとのことはバカになってしまった。至上価値というのはほかのことをまったく見えなくさせるか、

   麻痺させるかのどちらかのようだ。新しい世代はそのバカさ加減がたまらなくムカつく。


    安定とか保障とかはだれでもほしいものである。しかしその欲望だけに盲目になってしまう

   とドレイになり下がるしかない。カネもわれわれをドレイにする。機械技術とか電化製品とか、

   車とかブランドといったものにもイカレてしまうとわれわれはドレイになる。他人との比較競争

   や虚栄とか見栄とかにもイレあげるとドレイになる。人間というのはいつの世もひとつのことに

   イレあげて、それに隷属してしまうのが習い性のようである。まことに皮肉なことであるが、

   ほしいものをどこまでも追いかけるとわれわれはそのドレイとなるのである。う〜ん、たしかに

   欲望とか希望、理想というものはコワイものだ、仏教僧がいってきたように。


    戦後の人たちはカネや安定を盲目的にもとめた。おかげで会社にぶら下がり、カネをやみくも

   に信仰する醜い人たちを大量増殖させてしまった。なんだろうな、この世の中は。自分たちの

   生き方が卑しいとか醜いとか反省しないものなのだろうか。とはいってもたしかに現実問題と

   としてはカネや安定はほしいものである。企業社会や転職市場のなかで自分の貪欲な生き方

   を反省してしまったら、メシも明日の住み処も事欠くことになりかねない。求めるもののドレイと

   ならないていどに時代に順応することも必要なようである。


    がむしゃらにカネと安定をもとめた戦後の人たちはツマラナイ社会をのこしてしまった。

   なにがツマラナイかというと決められた人生コースほどツマラナイものはない。よい大学、よい

   会社、よい家庭、よい出世といったエリートコースほどツマラナイものはない。これはアウト

   サイダーの目から見るとドレイ街道まっしぐらでしかないからだ。安定やカネのために人生や

   魂を売り払ってしまうドレイ以外のなにものでもない。しかし親たちにはそういう認識はなぜか

   まるでなく、ドレイになれドレイがいちばん、と子どもたちの耳に洗脳しつづける。親というのは

   子どもの自由や気概といったものを育まさせてやりたいとは思わないのだろうか。ツマラナイ、

   味気のない、楽しみや喜びのないドレイの人生をそんなに歩ませたいものなのだろうか。

   そんな親たちは子どもの信頼できる味方ではなく、ドレイの売買人かなにかなのだろう。


    われわれはこのつまんない世の中をどう生きていけばいいのか。カネや安定を求めるのは

   当然のことである。ただし、あまりにも盲目的になり過ぎれば、ドレイとなってしまう。その

   ワナにひっかからずに自由に生きられることをめざすべきだ。ひじょうにバランスをとるのが

   むずかしいところだが、ひとつひとつ新しい生き方を模索してゆくしかないだろう。実験して

   ゆかないとツマンナイ生き方と社会はいつまでもわれわれを拘束しつづけるだろう。


    ツマンナイ生き方を打ち壊すには、これまでの価値体系を脱ぎ捨てることだ。たとえばカネ

   や保障、モノがたくさんあれば幸福であるといった思いこみ、貧乏や保障なしの生活、

   不安定な人生は、みじめやあわれであるといった怖れを捨てることである。われわれは

   こういった価値体系、イデオロギー、人生観といったものに囚われてドレイの道につきすすむ。

   この常識や感情に囚われないことである。そのためにはほんとうにそうなのかと問い直して

   みる必要があるだろうし、劣等感や落ちこぼれといった弱者意識や負け犬根性を開き直って

   肯定してみることが大切である。さもないとツマンナイ生き方とぐじゅぐじゅの負け犬意識、

   ドレイ街道が待ちかまえているだけである。


    しかしはたしてわれわれはこの優劣価値観をどれだけ捨てられるだろうか。この幸不幸感

   の思いこみは根強く、またいくらかの現実を言い当てているかもしれない。社会や世間の人

   はそのモノサシで人々を判断し、賞賛し、用いようとするだろう。他人とっては自由奔放に

   生きる人間より、ドレイのような人間が使いやすいのはいうまでもない。自由や人間らしい

   生き方を求めようとすると世間や企業の論理と衝突するのはいつの時代でも変わらない真理

   のようである。この不安定さに脅え、怖れをなした人はやはり世間の人たちと同じような

   隷属の道を歩んでいるように見せかけることに熱心になるのだろう。いたしかたがないと

   いえるが、ツマンナイ生き方で人生を終えても後悔はしないのだろうか。


    経済的なもので幸福を得ようとする人生をもう捨てたほうがいい。そういう生き方がこれまで

   の社会や人々をツマラナイものにしてきたのだ。では、おもしろい生き方というのはどういう

   ものかというと、各人がカンや本能といったものに耳を傾けるべきなのだろう。各人それぞれ

   によっておもしろい生き方や目標が違ってくるはずである。たとえば海外放浪するのもいいし、

   国内放浪でもいいし、ストリートミュージシャンになってもいいし、趣味に没頭するのもいいし、

   哲学や思索にふけるのもいいし、芸術作品を生み出すのもいいし、べつだんなにもしなくて海や

   野でぼーっとしてみるのもオツだ。自分の胸に聞いて好きなことをやればいいのだ。だれかが

   フロンティア的にこういう生き方をしないと絶対に新しい生き方は生まれない。企業や世間の

   論理に耳を奪われれば、こんなことは即できなくなる。将来の不安に囚われたら、それで即

   オシマイだ。たいていの人はそうなるだろうが、少数の人が勇気と度胸をもって新しい生き方を

   切り開いてゆくしかない。そうすることでしか、つぎの時代のおもしろい生き方は広がってゆか

   ないのだろう。だれかが切り開いてやらないと、ツマラナイ経済価値だけの世界はわれわれの

   ドアを閉ざしつづけるだろう。


    経済的価値しかない世の中はほんとにツマンナイ。もっと新しいフロンティアを開いてゆく

   ことが必要である。経済はわれわれの生活の基盤となる大切なものであるが、それだけの

   価値観、それだけの社会だけではとてもツマラナイ。生きている甲斐もないし、人間らしい

   生き方もできない。こういうカンオケをブッつぶしてゆかないと、われわれのおもしろい生は

   広がってゆかない。


    たいへん難しいところである。経済的基盤を確保するために全生涯をそれに費やさなければ

   生きてゆけない生もあるかもしれない。しかしそういう怖れのために高度成長以降の日本人

   たちはエコノミック・アニマルとなり、世の中をひじょうにツマラナイ、カネと企業だけの世界に

   してしまった。われわれはゆっくりとこの価値観を脱ぎ捨ててゆくべきなのだろう。こういう人生

   というのはほんとうに生きている価値がない、絶望すべきものである。人間を幸福にしない

   日本というシステムである。われわれひとりひとりがそういうシステムに否をつきつける生き方

   をするしかこの日本は変わってゆかないのかもしれない。政府や企業がわざわざそういう

   自由や幸福など与えてくれるわけなどないのだ。かれらはわれわれをうまく利用して最大の

   利益や納税を得ることにしか関心はないのだから。


    世間や親たちがよってたかって将来の不安を植えつけてくるだろう。でもどう考えたって

   かれらの姿が憧憬や尊敬される生き方に見えない。経済的な安定を得ようとしてかれらは

   まるで使い古されたぞうきんのようである。しかも最近では安定の象徴であった中高年たちは

   リストラの憂き目に会い、かれらの忠告はまったく説得力を失ってしまった。かれらは経済的な

   安定という生き方で見事に失敗したのである。守りに守っていたものが壊れてしまったり、

   失われてしまったりするのは、いつの世も変わらないようである。「怖れているものがわが身に

   ふりかかる」とキリストはいったそうである。


    これからおもしろい生き方はできるだろうか。経済的価値や条件ばかりに縛られない自由な

   生き方ができるだろうか。高度成長以後の人たちは経済的価値だけにしがみつき、そして

   その目算もみごとに破産したようである。かれらは教訓をのこしたのだと思う。われわれは

   その忠告に耳を傾けるべきなのだろう。経済的価値ばかり追っていても幸せなんかなれな

   いんだ、ということである。


    新しい生き方は生まれるだろうか。現在の20代の勤労意欲はアメリカの定年退職者なみに

   落ちているそうである。勤勉のタガが外れたのではない、勤勉のウソっぱちと非人間性に

   やり切れなくなっただけなのだ。これからも若者たちが勤勉意欲を失い、もっと積極的に

   新しい生き方を模索するようになれば、この世の中はもっとおもしろくなると思うのだが。


    さてわたしはどうやって生きていこうか。たぶんわたしは腰がひけて、安定と保障を得よう

   ともくろみはじめるだろう。ウシのように働いているかもしれない。わたしの年代ではまだ

   みんな会社人間の最後尾をついていこうとする連中ばかりだ。根性がなくてそういう生き方に

   しがみつこうと、わたしはするだろう。あるいはもう手後れで仕方なく、安定や保障の得られない

   人生を送っているかもしれない。時代もそういうことの後押しをしているのは周知のことだろう。


    最近ふっと田舎暮らしのことを考えるようになった。なんで都会に住んでいるかと問うて

   みたら、ただ都会に住んでいたからだということに気づいた。山や海、農村に住んでみる

   なんていいかもしんない。ほんの思いつきだけど、都会の会社ってほんとに窮屈で、居心地

   が悪く、おもしろみがない。田舎暮らしの対比としてそういうことが見えてきた。軽はずみな

   理想には警戒したいが、将来の選択のひとつとしてあたためてゆきたいと思っている。

   さらばじゃ〜。






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