働かない者の幸いなるかな
                                                1999/5/27.






     働かない者は、サイテーでクズだというのがおおかたの人の考えのようである。

    そんな怠け者は人間失格で、価値のない人間だというのが世間の見方である。


     一方では価値があるサイコーの人間になろうとしてみんな会社人間になって、朝から

    晩まで働いて過労死や自殺に追い込まれたり、家庭を崩壊させ、社会を崩壊させたり

    してそれでも働くのがヤメられない人生もある。家族のためだとか、食っていくためには

    しょうがないんだ、といって働きつづける価値ある「まとも」な生き方である。


     世間で通用する価値ある生き方というのはどうしてこんなにも悲惨なのだろうか。

    価値ある生き方というのはどうも市場や企業において価値があるということであり、

    つまり生産や交換において価値があるということであり、あまり人間自体の幸福や

    価値について考えられてないようである。生産の価値が人間そのものの価値だと

    カン違いされている。


     また生きるためや幸福になるための生産や仕事なのに、目的になってしまったという

    ヒサンな本末転倒もある。手段が目的になってしまったわけである。なんでこんな

    愚かなことになってしまったかというと、手段を目的化したり、幸福と思わせたりすること

    がお得だった産業界や政府の策略もあるのだろう。福祉や社会保障によってもうまく

    ツラれてきた。社会主義的理想はそういう馬車馬的労働にまことにうまく貢献してきたようだ。


     こういう仕事中心の愚かな生き方がいつまでもつづくなら、目の仇にされる働かない

    人間や行為に対する価値を改めてみる必要がある。働かないという要素に人間の幸福

    があるかもしれないからだ。


     先ほどもいったように価値があるということは生産や交換においてであって、人間の

    幸福や価値はかならずしもそこにあるとは限らない。生産のなかだけに人間の価値や

    幸福があるというのは勘違いというものだ。人間の価値というのはおそらくよく勘違い

    されるのだろうが、社会や市場のみに測られるのではない。市場に測られない人間の

    幸福や価値というものがあるはずである。ただそういうものは社会にとっても有用や

    有益でない分だけ、人々の口にのぼることもなく、だからそういう価値はなかなか

    見つけにくい。だからわれわれは市場や社会の価値にだまされるというわけだ。


     市場や社会において求められるものが価値あるものだという見方にわれわれは

    縛られてきた。そのほかに価値あるものなんかあるか、というのがおおかたの人の見方

    だろう。でもこういう考え方に縛られていると、価値ある人間になろうとして競争や仕事に

    囚われつづけてたぶんあまり幸福にはなれないだろう。価値がないときにはソートーの

    苦痛や苦悩を味わわなければならないだろうから。


     働かない者は、社会的に無用であり無益であるから、だからこそ、自分自身の幸福や

    価値を見つけやすい。自分自身に充足する価値や幸福というものである。つまりカネで

    買えない幸福や価値というものである。生きているだけで幸せという価値感はこういう人

    だけにしか感じられないものなのだろう。


     人に利用されたり、役に立ったりする必要のないポジションにいるから、働かない者は

    人間ほんらいの価値や幸福に出会うことができる。われわれは社会的に有用な存在に

    ならなくともじゅうぶん幸福を感じられるはずである。またそこにはいちばん安定した、

    安心できる心の充足というものがある。なぜなら役に立ったり、価値あるものにならなければ、

    受け入れられないといった心配や恐れはないからである。


     よく人は勘違いする。他人の役に立ったり、価値あるものにならなければ、人から

    受け入れられないと思ったりする。しかしこういうふうに思いこむのは不幸なことだ。

    なぜならそういう関係は役に立つときだけしか求められないからだ。役に立たないとわかるや

    いなや捨てられる。人を道具としか見ていない薄ら寒い関係がそこにあるだけである。

    利用し、利用されるといった関係にしか価値がないと思い込む人にはおそらく人をほんとうに

    愛するといったことはできないのだろう。利益や損得だけで人を判断し、利用しようとする

    観点しかもっていないわけだ。役に立たない、価値のない部分にもあたたかい目をそそげる

    人は幸せなんだろう。そのまなざしは自分にもふりむけられるわけである。


     近代の立身出世主義というのは社会的・経済的に有用で有益な人間になることが

    価値あることだと思い込ませてきた。社会的に名をなした者だけが価値あると吹聴してきた

    わけである。人間を損得や利益という、利用する観点からしか判断しないわけである。

    それ以外の人間は価値も意味もないクズで役立たずといった具合だ。この強迫観念が

    われわれをやみくもな価値競争に駆り立ててきたのだろう。


     市場や商業において価値あるものだけが人間のめざすべき何かだと思いこむのは

    不幸なことなのだろう。売り買いや交換できるものしか価値を認められないからだ。

    そういう関係の網から外れるものはすべて捨てられる。われわれ人間の価値や意味も

    それに依存するといったわけだ。幸福や価値は、市場の道具や利益になってはじめて

    存在するということである。こういうふうにしか考えられないわれわれはとても不幸なの

    だろう。人間の幸福や意味をそれらにしか求められないからである。


     市場の価値と人間の価値はまたべつのものである。べつの物差しがあるはずである。

    この勘違いが近代の人間を不幸にしてきたのだろう。価値ある人間になろうとする競争が

    ますます激しくなる一方で、われわれの価値や幸福はますます削りとられてゆくのである。

    道具的関係だけがわれわれを律してゆく。経済的価値のあることがほんとうに幸福なのか、

    という問いかけをたえずしてゆく必要があるのではないだろうか。


     だから働かない、社会に役の立たない人間は、人間ほんらいの幸福や価値を見出す

    ことのできる近い場所にいるのだろう。市場や社会にとっては意味や価値のない幸福で

    ある。利益や損得とは関係のない価値がそこに見出せるはずである。それは社会的有用さ

    をめざさなくてもいいこと、価値ある人間になろうとする悲哀を捨てたところにあるのだろう。

    そんなものを追い求めなくても、われわれは存在しているだけでもじゅうぶん幸せで価値が

    あるということに気づけたら幸いだ。そういう気持ちになれてはじめて人を愛することができる

    のだろう。また自分の幸福にも気づけるのだろう。


                          *


     ちょうど、ここでエッセーを終えたいところだが、ひとことお断りしておかなければならない

    ことがある。働かないことのなかに幸福や価値があるといっても、じっさいにわれわれは

    食べるために働かなければならないし、人の役にも立たなければならない。なにもわたしは

    仕事をやめろだとか、役に立たない人間になれと推奨するわけではない。あくまでも人間の

    幸福や価値はほかのところにあるといいたかっただけで、そのような想像力をめぐらすための

    洞察力の訓練としてこのようなことをいったまでだ。人の役にならないところに幸福はあるかも

    しれないが、積極的に人に迷惑をかけるようなことは考えものだ。


     われわれは働かない者や怠け者を目の仇にしてきた。でもそのような価値のない人間に

    対する怒りは自分への無価値さの怖れを駆り立てるだけであり、道具的・利用的関係の

    観点をますます増長するだけだと思う。われわれはこうしてますます市場的価値に幸福を

    見出すようになり、ますます価値のない悲嘆や苦悩から離れられないといった悲しみと出会う

    ことになる。われわれの不幸はこういったことに端を発しているのではないだろうか。


     社会に有用・有益にならなくとも、われわれはじゅうぶん幸せで価値があるということに

    気づけたのなら、われわれはいまよりもずっと楽で幸せになれるのではないだろうか。

    




    ご意見ご感想お待ちしております!     ues@leo.interq.or.jp 




    読書案内

     社会的に無用な存在について語ったものでは、つげ義春の『無能の人』というマンガがある。

     種田山頭火の俳句や日記はそういう地点からの幸福や価値をうたっているのだろう。

     隠遁者や漂泊者の系譜はそういうことの表白である。



     |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system