階級意識と恐れ
                                                     1999/4/5.






     階級というのがいまもあるのかわからない。多くの人が中流階級意識をもっているという人や

    格差が増大しているという人もいる。過敏にそれに反応する人もいるだろうし、

    まったく意に介さない人もいるだろう。


     わたし個人は「下層階級」になるということを心の底ではけっこう怖れてきた。漠然と

    ブルーカラーや肉体労働の仕事を避けようとしてきた。だけどなにが下層階級なのか

    よくわからないので、よけいに階級というものに敏感になってきたような気もする。

     ルカーチの『歴史と階級意識』という本を読んだり、ピエール・ブルデューの

    『ディスタンクシォン(差別化)』という本に魅かれたりしてきたが(高い本なので買えなかった)、

    いまでも階級というのものがまだあるのか、それはいったい何なのかもよくわからない。


     階級というのは厳然とあるような気もするし、あるいはひじょうに主観的なものであったりも

    するようだ。あやふやなものであるが、しかし、一流大学や一流企業への受験戦争や、

    朝から晩までの働き過ぎや労働主義の社会、マイホーム主義、ブランドものの消費熱と

    いったものを見ていたら、おそらく階級意識というものは、平等をめざす社会にあっても、

    厳然と存在するように思える。学歴というのは階級意識をつちかってきた。

    またブランドものや海外旅行というのは消費による階級格差の顕示であるようにも思える。

    これらは社会的劣位から逃れようとする「強迫観念」に思えてならない。


     階級というのはその基準となるモノサシ自体があまり強固なものではない。

     それをカネにとるか、消費量にとるか、武力や支配力にとるか、知識力や政治力にとるか、

    ということで位階秩序はかなり混乱してくる。現在は金持ちであることが圧倒的に優位に

    立つ条件であるが、一般的な中流階級は昨今ではかなり金をもっているし、またその目印

    となる高級品というのは多くの人がかんたんに手にいれられるものになった。

     階級を明確に表示するような目印が最近ではどうも失われてきたようなのだ。


     宮廷や貴族、領主による位階秩序から、資本家や経営者が力を握るブルジョアジーの時代、

    そしてプロレタリアが選挙権や法的保護を手に入れるようになった民主化の時代を経て、

    階級というのはかなり明確な格差をなくしてきた。フランシス・フクヤマはこれを「歴史の終わり」

    とよんだが、それは階級格差のつき崩されてゆく歴史でもあった。


     でもこのような歴史の見方というのはマルクス主義による「プロパガンダ(大衆宣伝)」の

    脚色であって、じっさいにその時代に生きていた人たちがどう捉えていたかはわからない。

     変革をもくろむ人たちは歴史を必要以上に誇大に圧制や搾取、不平等の世の中だったと

    宣伝する必要がある。現代のわれわれはそのような歪んだマルクス主義の歴史観の影響を

    ものすごく色濃く受けている。


     階級が厳然とあり、圧制と搾取をくりかえしていたという歴史観は疑わしいものである。

     当時の民衆たちは社会の全貌や明確な社会観をもち得ただろうか、そんな広い展望を

    もてただろうか。現代のわれわれからみると不平等や差別にしか見えないものでも、

    当時の彼らは未来を知らないわけだから、平気だったかもしれない。


     なぜそんなことをいうかというと、そういう見方をもたないと、必要以上に階級を怖れるのは、

    その歴史観をもつあわれな現代のわれわれだけだった、ということになりかねないからだ。

     われわれは学校の歴史の授業によって、数々の残虐な歴史や悲惨な過去を

    心の中に強烈に刻印づけられるわけだが、それをいちばん怖れるのは、

    当時の人たちではなく、そういう歴史観をもった愚かなわれわれだけかもしれないのだ。


     階級というのものが客観的に強固にあるものだという考えに囚われると、われわれは

    暗黙のうちにそのヒエラルキーの元となった価値観を信奉してしまうことになる。

    つまりいちばん上位にランクされた価値観を盲目的に至上なものと思い込んでしまうわけだ。


     階級であれヒエラルキーであれ、それはひとつの価値観で順位づけられている。

     たとえば資産や消費能力があるとか、社会的地位が高いだとか、頭脳が優れているだとか、

    そういったものに至上の価値をおかないと、優劣基準は位置づけられない。

     至上価値が順位をつくっているわけだ。逆にいえば、その価値をぜんぜん認めなかったら、

    ヒエラルキーも順位もまったく成り立たない。


     階級やヒエラルキーを怖れるようになると、逆にその位階秩序を強固なものに

    してしまうことになる。なぜなら低い順位を選びとるということはそのヒエラルキーを新たに

    つくりなおしてしまうということになるからだ。暗黙のうちにその至上価値を再生産してしまう

    ことになる。

     これは言葉の作用によるものだが、つまり「上」をつくるためには「下」がなければならない、

    「下」がなければ「上」は成り立たない、という言葉の性質によるものだ。


     われわれは階級を怖れるがゆえに逆にその階級を堅固なものにしてしまうのである。

     あるいはみずからつくり出してしまうことだってあるのだ。みずからの怖れが、

    階級やヒエラルキーの至上価値をより高めてしまうのである。怖れはやみくもな上昇志向と

    競争意識を高めてしまう。かれらの「おみこし」を高く持ち上げることに加担するだけなのだ。


     われわれは階級や順位をまったくないものとして生きることもできるし、

    階級の怖れに囚われて、やみくもにその価値観を信奉してしまうこともできる。

     まずその階級の上位に位置される価値というものをいま一度検討してみる必要が

    あるのではないだろうか。階級の下位におとしめられるのがいやでがむしゃらに上昇を

    めざしてきたが、はて、いちばん上の価値観ってなんだったんだろうな、とマヌケなことには

    なりたくないものだ。



     階級というものはなんとなく漠然と不安なものだ。自分が知らないあいだに下層階級に

    落とされているのではないかと不安である。

     なぜわれわれは低い地位に落とされることが恐いのだろうか。


     低い立場になるとヒドイ目や暴力、あざけりや軽蔑に目にさらされるかもしれないという

    実際的な脅威がある。これが国家間になると侵略や戦争という脅威に発展することもある。

    そういう国際状勢は社会内の成員同士にもそういう脅威を人間間において与え合うだろう。

    これが人間の本性なのだから仕方がないともいえるかもしれない。


     しかし現代のわれわれは過剰に優劣競争をおこなっているように見受けられる。

     物質的多寡による際限のないほどまでの苛烈な見せびらかし競争がおこなわれている。

     いったいなんなのだろうかと思う。でも実際の暴力や殺戮なんて方向にエネルギーが

    注がれていないわけだから、まだマシかもしれないが。


     平和な現代のわれわれは劣位による怖れになんらかの歯止めが必要なんだと思う。

    劣位を怖れるからどこまでいっても地位や消費の競争はとどまりようがないのだと思う。

    われわれはこのような怖れをもったがゆえに目に見えるものでの優越競争をくり広げている。


     劣位の怖れはなにによって止むことができるのだろうか。

     怖れというのはモノや地位によっていくら障壁をつくっても去ることはない。

     その優越によって今度はまわりの人が怖れに囚われて、また優越を編み出し……

    切りがない。


     怖れというのはけっきょくのところ、心だけの問題である。怖れという感情はまったく

    一瞬のうちに感じるものでしかないのだが、現代人はそれを永続化し、モノや地位などの

    外側にあるものによってその怖れをとりのぞこうとする。つまり復讐する心と同じだ。

    相手から受けた屈辱や怒りを同じように相手にも返そうとする復讐は、一瞬にしか

    感じられない感情をいつまでも記憶しておくわけだが、そのために自らはずっと自虐的な

    目にみずから陥れつづけるということになる。

     われわれの怖れと優越の欲求というのはこれとまったく同じ愚かなものだ。


     この怖れから解放される方法は、怖れをいつまでも記憶に銘記しておかないことだ。

     忘れたり、捨ててしまえば、その怖れは存在しなくなる。そして自らを害することも――

    無限報復に陥りかねない他者をも害することはなくなる。


     理想論的過ぎるかもしれない。他人や社会との関係を自分の心の中だけの問題に

    還元してしまうのはあまりにもムリがあり過ぎるかもしれない。社会的関係は圧倒的な

    「現実感」や「事実」として迫ってくる。抗いようがないかもしれない。


     まあとりあえずはそういう方法が過剰な怖れと競争から解放されるための

    ひとつの方法でもあるということにしておこう。





     階級の怖れについてのご意見をお待ちしております。      ues@leo.interq.or.jp 



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