社会的劣位を怖れる心

                                             1999/3/31.







    このエッセーでは社会的ランクについて語ろうと思っているのだが、このランクについて

   語れば、おそらく傷ついたり、不快に思ったりする人が少なからずいると思う。われわれは

   この社会的ランクにひじょうに過敏になっているが、同時にそれを隠蔽・抹殺しようとする

   気持ちもかなり高い。これは承知のとおり「平等」の要求として表われる。


    あえてタブーに踏み込もうとするのは、この社会的優劣・ランクという問題を正面から

   捉えないとわれわれはこの恐れにやみくもに囚われたまま、自由になれないと思うからだ。

    恐れや痛みはなぜおこるのか、その原因をつきとめないとわれわれは盲目的に

   逃げ回って「罠」にかかる愚かな群集になるだけである。



    わたしはこれまでの中流階級的な生き方なんか満足できないと思ってきたのだが、

   その生き方から外れようとすると、いつも社会的劣位とされる環境に追い込まれる。

    「よい大学よい会社」という選択を拒否すると中小企業や零細企業に入ることになるし、

   ネクタイとスーツ姿を拒否すると肉体労働ばかりになる。出世や金儲けを否定すれば、

   ヒラのままさげずまれたり、保障のないアルバイトどまりだし、ビンボーになる。


    社会的優位をめざす競争から降りると、必ず社会的劣位に追いやられている。


    まいったなと思う。社会的優位をめざす競争を否定すると、いつも社会的劣者だ。

    うまいことできているなと思う。世間や社会の言いつけどおり、がむしゃらに「よい子と

   デキル人間」を演じなければ、いつでも「負け犬」と「社会的弱者」だ。やられたなと思う。

   世間というのはわれわれの「怖れる心」というのものをうまく利用してわれわれを操るのだ。


    世間はそれに従う者と従わない者をちゃんとうまいこと選り分けている。そしてそれに

   「優劣」のレッテルを貼りつけ、社会のあらゆるものに優劣秩序を張りめぐらせ、

   人々の進む方向、禁止される場所といったものを位置づけている。「禁断地帯」に近づくと

   人々のざけずみや非難するまなざしが降りかかり、そして心のブザーが鳴りだす。

   心のブザーというのは「劣等感」であったり「社会的劣者」の意識であったりする。

   まあたいていの人はその心が恐ろしいから、やみくもに優越や競争をめざす終わりなき

   「徒労レース」に参加させられる。


    哀れな優越をめざす競争と劣等感から逃れようとする逃避は世間のあちこちで見られる。

   ある人は自分が優越したいがために人をけなし、辱め、すべて他者を「負け犬」にしたがる。

   ある人は劣者を怖れ、やみくもに世間に同調し、同じような「みんな」の中に隠れようとする。

   またある人は優劣競争に参加できず、ほんらいなら競争のバネとなるエネルギーを

   自分の精神のなかで内攻させ、みずからを責めさいなむ。


    ほとんどは社会的劣位を怖れる心から生みだされる。それが過剰であればあるほど、

   また目立てば目立つほど、無理を重ねていることが見透かされる。


    われわれはこんな無益な競争や虚栄心、見栄から逃れたいと思っている。しかし、

   だめなのだ。「社会的劣者」に自分がなってしまうことが、あるいは他人にそう見られることが

   恐ろしくてたまらないのだ。競争は逃れたいと思っている、だが劣者にはなりたくない。

   だから優越をめざす競争はいつまでも終わることはないのだ。


    「怖れる心」がわれわれを釘づけにして離さない。


    「社会的劣者」はダイレクトである。反射的にわれわれの心は「あわれだな」とか

   「みじめだな」とか「恐ろしい」と思う。しっかりとわれわれの心の奥底につなぎとめられている。

   視覚の映像と怖れる心は見事に緊縛されている。それはホームレスであったり、きたない、

   薄汚れた破れた服であったり、小さな汚れた家であったり、低い立場におかれている社内の

   人であったり、職業につく人であったり、または学校のイジメられる子であったりする。

   われわれは恐いのである――自分がそうなることが。


    だからわれわれは走りつづけるしかない。


    方法はある。恐ろしさのバリアーを破ることだ。社会的劣位の価値観を転倒することだ。

    社会的劣位の価値に積極的な意味や価値を付与すればいい。


    劣位と見られる状態や様相は「絶対的」なものではない。われわれの認識というのは、

   あるひとつの観点ができあがるとそれを「絶対」だと思いこみ、後生大事にかかえこみ――

   というよりかまったく無意識に反射的になってしまうのだが――その認識以外を知りようも

   なくなる。

    われわれの認識というのはすべてひとつの「解釈」にしか過ぎないのだが、そんなことを

   露とも知らず、その認識のみがただひとつの「絶対」となってしまう。

    とくにそれが社会的に無意識・習慣的に植えつけられた常識や社会的通念ならなおさらだ。

    世間一般の常識というのもあくまでもひとつの時代の「解釈」にしか過ぎないのだが、

   時代の落とし子であるわれわれはなかなかその解釈から抜け出せない。

    そしてわれわれは時代や世間の奴隷となり、あわれな暴徒と化す。

    世間の常識というのはわれわれを無意識のうちに操作するのである。


    心理療法では認知療法というセラピーがあり、それは非合理や無意識におこなわれる

   思考の内容を合理的・楽観的なものに書き替えるものだ。思考こそがわれわれの不幸な

   行動ややむことのない憂うつをもたらすのであり、このセラピーは無意識におこなわれる

   思考内容を検討することからはじまる。

    世間的に植えつけられた「劣者の恐怖」というものはこのような思考内容の気づきと、

   書き替えによって可能になるだろう。

    われわれの行為というのは、意外なものであるが、世間の常識というすでに無意識に

   それらを規定する解釈内容に行動づけられているのである。


    しかし社会的劣者を怖れる心というのはかんたんには拭い去られないだろう。

    世間的常識というのはひじょうに動きにくいものだ。多くの人はこのパラダイム・世界観から

   なかなか脱け出されないだろうし、それが植えこんだ恐怖や行動規範のくび木からは

   かんたんには逃れ去ることはできないだろう。世間的常識というのはすでに無意識に自分の

   行動を規定する基盤になっており、おそらく意識することすらできなくなっているだろうから。


    ただわたしは時代の怖れる心というものにやみくもに捕えられたなら、きっと自由な精神も

   自由な生き方も得られないと思うのだ。これは人生のおおきな損失だと思う。

    だから「怖れる心」というものに打ち克たなければならないと思うのだ。


    これはひじょうに難しいことだと思う。世間のたいがいの人はその恐れる心で他人を見て、

   ランクづけ、評価づけている。そのようなランクづけの下位に押し込められることに

   耐えられるだろうか。あわれやみじめだという人々のまなざしに打ち克てるだろうか。


    価値観をひっくりかえしてゆくほかない。すべての劣位にはそのほかの面からみた積極的な

   面が必ずある。ときにはその劣位はある時代の最高の価値であったこともあるだろう。

   たとえば貧乏なんてものは仏教や中国の古代では心の平安をうるものとして

   ほめたたえられてきた。現代の劣位は人類の全歴史においてもそうだったとは限らない。


    現代のわれわれはあまりにも社会的劣位を怖れる気持ちが強すぎ、そしてそれは

   盲目的であり、暴走した牛のようにとどまりようがないように思える。

    あまりにも恐怖が強すぎるのだ。

    そしていっこうにブレーキはかからないように見える。

    だから社会的劣位を怖れる気持ちというものを点検してみる必要があると思うのだ。


    これに捕らえられているかぎり、われわれの精神に自由はない。





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