身体感覚についての暗中模索


                                                  1999/1/26.





     身体感覚について知りたいというあやふやな問いがわたしのなかにある。

     それを知りたいと思うのは仏教やキリスト教でいう悟りや神がみずからの身体に

    宿るといわれているからであり、また制御できない身体の緊張や感情などの気分に

    ふりまわされないための方法を身につけたいと思うからである。

     そういったことで漠然と身体感覚について知りたいと思っている。

     ただなにを問えばいいのか、どのように問えばいいのかもよくわからない。

     ということで身体の感覚についての模索である。



 1 身体感覚の集中と逸らし


     身体の感覚というのはふだんほとんど眠っている。

     たいがいの人は身体が存在していることすら忘れている。

     われわれの感覚はほとんど頭や視覚に集中している。


     身体感覚はその集中する感覚のみが前景に現われる。

     視界に集中しているときは身体の存在は忘れているし、

    考えごとやもの思いにふけっているときには視界すら目に入らない。

     注目している感覚のみが存在するという状態になる。


     現代人の感覚はほとんど頭と視覚に集中している。

     身体に感覚の焦点が合わされるということはほとんどない。

     身体に感覚がいくときというのは痛みやかゆみ、不快感、快感があったときだけであり、

    われわれは身体や全体を生きていないということになるだろう。


     感覚のよくいつくところは、その感覚をますます鋭敏にひんぱんにする。

     自動的な回路ができあがるわけだ。

     困ったことにある部所に固執した感覚はなかなかそこからはひきはなせない、

    自分からひきはがせないということである。

     注意はますますその感覚を鋭敏にする。


     痛みや不快感、筋肉の緊張といったものが現われると、

    われわれはもう手のほどこしようがない。

     とりのぞこうとして、ますますその感覚を鋭敏にし、感覚の増大を招く。

     とりのぞこうとする意志が逆にその神経を増強するという皮肉な結果を導く。

     現代人は意志の力を過剰に信じるあまり、こういう状態に陥ることがことのほか多い。


     ここに思考のはたらきがひと役買っている。

     思考は「不快」や「悪いもの」、あるいは「社会的・体裁的に不都合なもの」と

    判断するやいなやその感覚に注目し、とりのぞこうとする。

     そのような思考のはたらきがますますその感覚の度合いを強めてしまう。


     思考はまた頭のなかで最悪なことや悲惨なことの想像をふくらませ、

    気分を最悪・最低なものにし、そのためにますますその感覚の度合い・意味合いが強まる。

     アルコール中毒というのは酒をやめれないという罪悪感の思考が、

    気分を最悪なものにし、そのために呑まざるをえない状況にするようである。


     痛みも考えることとつながることによって起こるとスワミ・シバナンダはいう。

     なぜなら麻酔をかけられて心が眠っているとき痛みは感じないからだという。

     ゆえに痛みから感覚を離れることが痛みをなくす方法である。

     痛みにたいする処方としてもうひとつジョン・カバットジンは痛みの感覚に

    集中することによってその感覚が軽減されるということをいっている。


     痛みというのはたいていその思考がますますその度合いを深める。

     痛み自身ではなく、いろいろ痛みに対する良からぬこと――もうだめだとか

    治らないとか最悪だとか妄想をふくらますゆえにますます痛みと最悪の気分が

    相乗効果を増す。

     自分自身の経験からいって、歯痛の場合だが、痛みの感覚に集中するとかの

    いろいろの方法をためしてみて、からだのほかの感覚にそらせば、

    ウソのように歯痛の感覚がなくなっていたことがある。


     からだの感覚というのは、その感覚への集中とそれにまつわる思考内容によって、

    その度合い・深みを変えるようである。

     ほかの感覚にそらしたり、好きなことに没頭したりすることが痛みを避ける方法としては

    よいみたいだが、そうかんたんにはコトはすすまないことが多いが、

    まあ眠るのがいちばんの特効薬だろう。


     からだのコントロールに関してわれわれは身体のはたらき自身を制御することは

    できないが、どの感覚に焦点を合せるかというコントロールはできる。

     たとえば足先に感覚を集中させたり、腰や腕、頭と感覚を自由にコントロールできる。

     とりぞきたい感覚はますますその感覚に集中するのがつねだが、

    ためにその度合いを強めるということがことのほか多く、その感覚を身体自身の

    不随意のはたらきに任せるのがいちばんのようである。

     感覚のないところはリラックスしているということであり、不随意の身体に任せておれば、

    完璧にはたらいているということであり、思考や意識はそのはたらきを阻害してしまう。

     からだに困難な箇所が発生したばあいは不安な妄想やよからぬ考えを捨てて、

    感覚をほかに逸らし、からだ自身の自浄作用に任せるのがよいようである。



 2 身体感情の原因


     感情や気分というのは胸のあたりでつくられる。

     胸のあたりの状態――息苦しいとか胃のあたりが締め付けられるとか、

    不安な感じが胸の下あたりからわきあがるとかという感覚が気分や感情である。


     気分や感情が足のあたりにあるということは聞いたことがないし、

    腕や手にあるということもまずだれもいわないだろう。

     頭の中にはありそうだが、そこにあるのは記憶や想起、思考の論理だけであり、

    顔は感情を如実にあらわすが、そこに気分や感情があるわけではないだろう。


     胸や腹のあたりの状態がわれわれのいう感情や気分を規定している。


     デカルトは『情念論』(中公文庫)のなかで感情や気分が身体の心臓や血液の流れで

    どのようにできるあがるかという詳細な考察をおこなっているが、

    われわれの感情や気分はそういう器官的な身体のはたらきで説明できるというのは

    おもしろいし、感情をそのように客観的にながめられるということは感情のコントロールをも

    容易にするのではないだろうか。

     自分のいまの気分は心臓や血液のこういうはたらきによってつくられているのだと

    知ることは、感情にふりまわされないためのひとつの方法でもある。


     自分の感情や気分はそのようにひきおこされていると知ることは大事である。

     感情はどこからともなくやってくるのではなく、身体がそのように規定するから

    わきおこるのである。

     感情というのはただ身体自身のはたらきにほかならない。


     しかしわれわれはその感情や気分を出発点にしてしまう。

     そのような感情を起点にしてどうにかしなくてはとあせる。

     身体に原因を求めなく、外界の人間関係や物事にその感情の原因を求める。

     そして自分の思い通りになるわけがない他人や物事を変えつづけようと

    実ることのない望みに駆られつづける。


     感情の原因をデカルトのように身体に求めなく、外界の他人や物事に求めたからだ。

     感情の原因を見誤った人の対処法は苦難と苦渋に満ちているのは目に見えている。

     他人や物事がすべて自分の思い通りに動いてくれるわけなど絶対に絶対にない!

     それなら自分自身の身体をコントロールしたほうがよほど望みがある。


     感情の原因を他人や物事に求めるのは赤ん坊のようなものだ。

     自他の境界がなく、感情の原因はすべて外界や他人にあると思いこむ。

     感情の解消はそれらに求めるのではなく、身体自身に求めるのが妥当だ。

     感情を規定しているのは外界の物事でなく、身体なのだから。


     感情や気分は身体がつくっている。

     そしてそのような身体に仕向けたのは自分自身の捉え方・認識そのものである。

     認識や思考が身体のありようを決定している。

     今度は逆にその身体のありかたに自身は規定されてしまう。

     すべては自分が仕向けたことであるのだが、今度はこの檻の中に閉じ込められてしまう。

     そしてその感情という檻から出ようとして、他人や外界を変えようとする。


     思考や気分という根本をつくりだしたのは自分自身であるのだが、

    われわれはすべてそれらを外界や他人のせいにしてしまう。

     感情をつくりだしたのは自分自身の思考という捉え方であり、感情や気分を

    規定しているのは自分自身の身体にほかならない。

     この自分が認識や感情を創造しているという段階をすべてすっとばしているから、

    ひとはただ外界や他人の変化のみに感情の解消を求めてしまう。


     感情は思考にその原因があり、身体にその原因がある。

     ということはその認識を書き替えればいいのであり、また捨て去れば、

    自分を悩ませる感情はすべてなくなるのであり、また身体感情の鎮め方を知れば、

    爽快で平安な境地にもどれるだろう。


     思考を捨てるのがいちばんの方法である。

     感情や気分のいちばんの根本は思考である。


     身体の気分の変え方はわたしにはよくわからない。

     深呼吸や丹田からの呼吸をおこなえばいいというのは伝統的な知恵であるし、

    感情には身体のどこかの筋肉の緊張がたぶん関わっていると思うから、

    その緊張をゆるませればいいだろうし、気分は器官によってつくられ、一時的なものである

    という認識をもっておれば、やりすごすことができるだろう。

     また身体の感覚をその気分におかなく、ほかの感覚――たとえば足やもも、腰や腹などの

    まったく関係のない箇所におくのも身体を安らかにするひとつの方法である。



 3 視覚のない身体感覚へ


     身体感覚のみに深く潜ってゆけば、いったいなにがあるのだろうか。


     われわれは視覚に頼り過ぎる。

     そして風景や空間のなかに自己が含まれると思い込んでいるが、

    視覚に映る光景というのは自己がつくりだした仮像にほかならないはずである。

     自己は世界に含まれているのでなく、わたしに見える世界はわたしに含まれる。

     世界はわたしの外側にあるのではなく、内側に含まれる。

     自分の知覚・認識する世界以外はいっさい自分には認識できない。

     世界とはわたしである。


     視覚は「わたし」と「わたしでないもの」とを区別するはたらきをするが、

    わたしに認識される世界に起こる出来事はすべて「わたし」のことである。

     世界はわたしの感覚に収斂される。

     そこに「わたし」と「わたしでないもの」の境界も区別もない。

     視覚はそのような区切りをつくってしまう。


     視覚や聴覚を捨てて瞑想によって身体感覚のみに深く潜ってみる。

     自己の外側に空間が広がっているという印象を捨てるのが必要かもしれない。

     顔や鼻のあたりに感覚を集中しておれば、息の通りがすごく清涼に感じられるときがある。

     頭の芯あたりに感覚を集中していれば、頭から下の感覚がものすごく遠くに

    ひきのばされたような感じになることがある。


     瞑想でよくいわれる息の通りを見ることや丹田に感覚を合せることなどの方法を

    おこなってもわたしにはたいして進展がなかった。

     横になりながらそのようにするとすぐに眠れるようになったくらいだ。

     (以前の思考思索好きのわたしは考えごとのためなかなか寝つけなく、

    ふとんに入るとすぐにいびきをかきはじめる弟を見ていてバカだと思っていた。)


     身体感覚はわからない。

     身体感覚のみに焦点を合せていれば、いったいなにがあるのだろうか。

     視覚をとりのぞいた身体感覚ということにわたしの関心はあるのだが、

    だからといってそこになんの意味があるのかよくわからない。

     とにかくなにかありそうだという感じはしているのでこの暗中模索はつづけるつもりだ。


     以前一、二年前にもこの身体感覚についての関心があって、ボデイワークやヨーガなどの

    本を少しだけ読んだのだが、それいじょうの進展はのぞめず、挫折したままだった。

     今回またそれについての興味がわきあがってきたのだが、

     あいかわらずこれらの領域についての良著が少ないのは変わらないようである。

     仏教の身体論というのでもあればいいのですけれどね。


     尻つぼみになってごめんなさい――。

     身体感覚について教えてくれる人がいるのならぜひメールをください、

    また本や仏教経典を教えてくれるとありがたいです。

    


     ご意見お待ちしています。   ues@leo.interq.or.jp


    
     参考文献

      スワミ・シバナンダ『ヨーガとこころの科学』 東宣出版

       心に関するものすごい名著です。

      ジョン・カバットジン『生命力がよみがえる瞑想健康法』 実務教育出版

      ルネ・デカルト『方法序説・情念論』 中公文庫


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