言葉と想像力の虚無


                                            1999/1/1.






    言葉は想像であり、空想なのであるが、われわれはふだんそのことをさっぱり忘れている。

    言葉というのはたんに頭の中でこねくり回した虚構でしかないのだが、

   いつの間にやら「実体化」や「現実」の地位に祭り上げられていってしまう。


    言葉が虚構でしかないとするのなら、その語る内容も語られる対象もすべて虚構である、

   ということが容易に悟られるのだが、ついつい人間は近視眼的になってしまう。

    物事の事実か事実でないかという問題に目が行ってしまい、

   そもそも語っている言葉自体が虚構の道具ではないのかということさえ問題にならない。


    言葉は虚構であり、想像である。

    言葉は便宜的な頭の道具でしかない。

    言葉と結びつけられる対象はその言葉となんのつながりもなく、

   ただ人々の頭の中で結びつけているだけである。


    そうするとわれわれの語る内容も語られる対象もすべて虚構になる。

    頭の中で考えたり、言ったりする言葉はすべて虚構の絵空事である。


    けれどもわれわれは考えたり、思ったりすることを「現実」のことと見なす。

    それらはすべて「虚構」でしかないのだが、われわれは考え、思い、捉えた物事を、

   すべて「現実」の物事として捉える。


    虚構でしかない言葉や思考を「実体化」し、「現実化」してしまうのである。


    そしてその「捉え方」「解釈」によってわれわれの日常は悲しんだり、怒ったり、

   苦しんだりして、さまざまな辛酸をなめるというヒドイ目に会う。

    それはあくまでもひとつの「捉え方」「見方」でしかないのだが、

   当人にとってはただひとつの動かしがたい「現実」になってしまっている。


    「解釈」「判別」しているというステップが忘れられ、そのほかの無数の解釈が可能なのに、

   それはただひとつの現実として自分の前に立ちふさがってしまう。

    たとえば苦境を「ピンチ」と捉えるか、「チャンス」と捉えるのかの違いだ。

    「解釈」「判別」するという心の動きの段階がまったく忘れられている。


    それは「ものの見方」というものが習慣やらパターンによって固定化されてしまっているから、

   そのほかのものの見方の可能性というものがまったくシャットアウトされてしまうからだろう。


    たとえば人はだれかに殴られたら腹を立てる。

    これは「殴られたら殴りかえせ」とか「人は他人を殴るべきではない」という思考や

   捉え方があるから憤激するのであり、もしキリストのように「左の頬を殴られたら、

   右の頬を差し出せ」というような解釈をもっていたのなら立腹もしないだろう。


    現実は解釈によって無数の「現実」が存在するのである。


    われわれのいくたもの問題は現実をどう解釈するかに関わっている。

    とすれば怒りや悲しみ、悩みといった苦しみをなくそうとするのなら、

   そのような感情を生じさせない現実の捉え方をどのように選ぶべきかは容易にわかるだろう。


    物事のありようになるべく逆らったり、抵抗したりしないような解釈が

   とうぜん必要になるだろう。

    「すべてを許す」「運命に従う」「なすがままに、あるがままに」といった処世訓は

   物事にいちいちひっかからないための賢明な方法なのである。


    われわれは出来事に抗おうとするから苦しむのである。

    物事の流れに怒らず悲しまず、すべて川のように流すようにすれば、

   われわれを苦しませるものはなにもなくなるだろう。


    だいたい過ぎてしまった終わってしまったことは二度ととり返すことができないのだ。

    いまさっき終わってしまったことや過ぎ去ってしまった時間にどうやって戻れるというのか?

    そんな無謀な試みを起こそうとするのは、言葉という愚かな想像力しかない。


    もうひとつ言葉の性質をとりあげるとするのなら、言葉というのはものごとを二つに

   切り分けないと言葉にならないということである。

    「上」には「下」がなければ意味がないし、「左」も「右」がなければその境界もないし、

   「高い」には「低い」が、「大きい」には「小さい」が、「好き」には「嫌い」が、

   「優」には「劣」が、「有」には「無」が、「生」には「死」がといったふうに

   対立差別がないとその言葉は成り立たない。


    でもそんな区分はかんたんにできない。

    もともと世界はきっぱりと区切られているものなんかなにひとつないし、

   たとえば「手」と「腕」は千切られてあるものではないし、「水」と「湯」の境界は

   くっきりと区切られるものでもないし、「青」と「緑」の区分けはかなりあいまいだ。


    世界なんか区切られなんかはしない。

    そして言葉というのは空想である。


    われわれはこの区切りのない世界において、言葉という虚構の区切りによって、

   「高低」や「好き嫌い」、「尊卑」、「上下身分」といった砂上の楼閣をつくりだし、

   みずからをみずからによって苦しめているといえる。


    そんな世界はないのに言葉は世界をまっ二つに切り裂き、「好悪」や「尊卑」といった

   苦海をつくりだし、一方を尊重するがゆえに失う恐れに責め立てられ、

   一方を失ったがゆえに悲しみに苛まされる。


    世界には「私」と「私でないもの」の区別すらないのだろうか。

    わたしにはこの「私は存在しない」という実感がなかなかつかみにくい。

    言葉でそんな疑問を発すること自体、区分をはじめることになるので、

   そんな問いは愚かなのかもしれない。


    こう考えてくると言葉というのはまったく災厄でしかないのではないかと思う。


    難しいところである。

    言葉がなければ伝達もできないし、見聞もない。

    せいぜい言葉の虚無性をあまり忘れないことだ。



    言葉のない世界はとても安楽なところなのだろうか。

    われわれは言葉を失うと理性や知性を失った白痴になると恐れる。


    でも言葉の誤用というものは白痴になるより恐ろしいほどの害悪を招くようである。


    言葉という便宜的な分別の道具にあまりふり回されないよう戒めるようにしたいと思う。






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