陶淵明の隠遁と脱俗について思う


                                              1998/11/15.




    慌ただしさと忙しさに追われ、漂泊や隠遁に心の癒しをもとめたわたしは、

   たまたま書店でぱらぱらとめくってみた陶淵明の書物に心惹かれた。

    東洋的諦観というか、心を鎮めるような言葉がたくさんつづられており、

   いまのわたしの心境にとても心地よく溶けこんできた。


    漢詩を味わうような高邁な趣味をわたしはもっていないが、さいわいなことに、

   岩波文庫の『陶淵明全集(上下)』(松枝茂夫・和田武司訳注)には現代語訳がついていた。


     


    漢詩の味わいかたといったものはどういうものかよく知らないが、

   現代語訳を読んでいるだけでも心綻び、心あたたかになる。


    この随想では隠遁と脱俗という生き方を、この現代語訳から受ける印象の範囲で、

   語ってみたいと思う。


    陶淵明は脱俗と隠遁の人である。

    生活のためにいやいやながら官僚社会に仕官していたが、「帰りなんいざ」といって、

   たびたび嘆くことになる田園での清貧な生活に戻った。


    「帰りなんいざ――役人をやめた現在こそ正しく、かつての生活があやまりだったことに

   やっと気づいた」というあたりは、ふっと一瞬泣きそうになった。

    現代のわれわれはサラリーマンとして企業社会に呑みこまれてゆくしか仕方がないが、

   わたしはいつもそのような毎日に疑問と虚無感を抱いてきたから、

   この詩は泣きそうになるくらいわたしの心に染みこんできた。


    われわれはあやまった生活を送っているのだろうか。


    田畑を耕し、自然とともに生き、俗世界から解き放れた生き方こそ、

   ほんらいの人としての在り方なのだろうか。


    われわれはあまりにも自然とともに在る生き方から正反対のものになっている。


    都会のアスファルトとコンクリート、車の排気ガスと騒音といったものは、

   まるで自然ではないし、働く環境も機械やコンピューターに囲まれ、自然の環境と

   ほど遠いし、他人や世間の評価や虚栄心ばかりに振り回されている。


    どれもこれもが陶淵明が愛した自然と程遠いものだ。


    人工のものや人為のものばかりに追い立てられている。


    「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす」というのは環境だけではなく、

   われわれの内なる自然――心についてもまさに当てはまる。


    といっても現代のわれわれは自然からあまりにも程遠いところに来過ぎてしまった。

    自然とともに生きる農村の暮らしといったものは、われわれの記憶自体にはもうない。

    だいたい祖父母の世代で農村生活の記憶は途絶えている。

    帰るところはすでにもう、ない。


    生まれたときから都会に住んでいるものにはもう自然には帰れないのだろうか。


    せめて心のなかだけでも自然に帰りたいものだ。

    心のなかの自然とは心の安らかさである。


    こころとはほんらいそのような安らかな自然を内にもっているのではないだろうか。


    しかしじっさいのわれわれは人為や人工の汚濁や汚染で心乱されて生きている。

    欲望、虚栄心、名誉心、金銭欲、エゴイズム、安定、保身……。

    おかげでわれわれの腹の中はまっ黒だ。


    そしてその欲望の裏面には心配や苦悩、悲しみ、不安、恐れが必ず張りついている。

    「欲望をお買い上げのあなたにはもれなく苦悩もセットでついてきます」という具合だ。


    このような世俗との絆を断ち切ろうとしたのが陶淵明だ。

    かれは世俗との縁を切って、超然とした田園生活に戻ろうとした。


    世俗の名誉や地位などとは縁を切ろうとした。

    千年や万年後にはどんなに名をなしたところでだれも覚えていないし、

   墓場の中の死者はもう体も名も消え去ってしまい、そんなことを露とも知らない。

    この世の心残りといえばただひとつ、思う存分酒を呑めなかったことだといっている。


    そうである。

    名誉やカネをめざしたところで100年後にはだれもかれもが棺桶の中だし、

   歴史に名を残したところで、自分の体も心も消滅してしまっている。

    どうせ死んでしまう人生、世間との気兼ねなど捨ててしまって、

   ほんらいの自分――日常の生活のなかに平穏をもとめるほうがいいのではないか。

    名誉や地位、聖なんてものは求めず、ただ毎日の平安のみに満たされるのが、

   人間としての自然の在りかたではないのだろうか。

    それを陶淵明は平生の酒に象徴しているのではないだろうか。


    なぜなんだろうか。

    なぜわれわれはこんなに世間に繋がれて生きているのだろうか。


    なぜ人は世間での名誉や栄誉をそんなに欲しがるのだろう。
   
    世俗や世間はそれほどまでに大きな見返りを与えてくれるというのだろうか。


    わたしの子どものころを思い出せば、歴史の中に名を残さず、

   無に消えていった多くの人たちに怖れを抱いた。

    歴史には多くの名を残した英雄や賢者がいるが、それに比べてまったく歴史にも残らない

   多くの人たちの生はあまりにもはかなく、空恐ろしいものだった。   

    死の恐怖を、歴史に名を残すことで解消できるようにぼんやりと思っていたのだ。


    このように思うのは名前と自己を混同してしまっている。

    自分が死んでしまったら、名前が残ろうが残らまいが、自分は消滅してしまっている。

    死は名を残すことによっても解消されない。


    歴史についての知識はそのような死の払拭を可能にさせるように思い込ませてしまう。

    この世になにか残すことが、死から逃れようとする自我が望みを託す唯一の頼みになる。

    われわれ人間は写真であるとか、創作物であるとか詩であるとか、墓であるとか、

   さまざまなものをこの世に残しておこうとするが、それはやはり無に帰す自己の存在を

   この世に刻印したいがためになされるのだろう。


    歴史は歴史に名を残す人物たちを羅列するがゆえに、意味なく無に消えていった

   おおぜいの人たちを逆に浮き彫りにする。

    自我は名前の存続により、自己の存続を図るのである。

    歴史は人物の名を残すために死を恐れた自我はそのことに望みを託すのである。


    だけどけっきょくのところ、無に帰した自己にはそのことはなんの関係もない。

    自己は体も心も消滅してしまっているのだから知りようもない。

    心、意識、思考というのはそのような愚かな希望を夢想してたくらむのである。


    われわれの名誉や名声への欲望は死の恐怖がなせるものなのだろうか。


    こういう恐怖は死について考えないことに限る。

    考えないことは存在しないことであり、怖れは考えなければ存在しない。

    死の恐怖は考えることによって呼び覚まされるものだ。


    陶淵明のいうように人生の大きな変化に身をまかせてただよい、喜ばず恐れず、

   この生命が尽きるなら尽きるでよい、と諦観するのが心の平安にはいちばんよい。

    へたに死についてこねくりまわすと恐怖を増大させるのみである。


    世間や世俗に釘つけられるのもまた死の恐怖からだろうか。

    われわれはとかく世間やまわりの人たちに認められようとする。

    忘れ去られたり、世間から孤立したり、嫌われたり、評価されなかったりするのを

   とかく避けようとする。

    だからこそゆえに、おおいに世俗の毎日は苦しいのだが、

   それでも人はこの世俗の中に突き進んでゆく。


    自我は他人の頭の中に印象を残そうとやっきになっている。

    人に認知されないことはこの人間社会では極端な場合は死にもつながるわけだから、

   ましてや子どもの場合なら親に認知されなかったらなおさらだから、

   われわれは人に認められようとやっきになるのだろうか。

    「死ぬのなら死ねばいいだけじゃないか」といったような東洋的諦観を身につければ、

   名誉も評価もどうでもよいものになるのではないだろうか。


    陶淵明のように隠遁と孤高の境地に生きられれば羨ましいなと思う。

    世間の価値基準や貴賎、優劣、上下なんてどーでもいいじゃないか。

    そんな他人のつくりだした基準なんて、しょせんは他人の気性に合った規格にしかすぎない。

    なにが良くてなにが悪い、なにが偉くてなにが低い、なにに価値をおかれて

   どの価値が低いか、そういったものは世間の人たちがつくりだした価値基準でしかなく、

   絶対でもなく、超自然的に決定づけられたものでもなく、時代時代でうつり変わってゆくものだ。


    自分の価値観とそっくり重なり合うことなんてまずない。

    ましてや自分の価値基準も年齢や考え方によって転変変化する。

    世間に合せるより自分に合せるほうがよほど幸せだ。


    現代では大企業に入社するとか、エリートコースにのっかるとか、

   金持ちになるとか、豪邸に住むとか、そんな価値観がよいものとされている。

    しかしわたしはそんな価値観がこれっぽっちもよいとは思わない。

    どーでもいいことだし、羨ましいとも思わない。

    だるいだけである。

    わたしがそんなものをめざそうとするとよけいな労苦をしょいこむだけだ。


    メディアや読書に心惹かれてきたわたしはそれだけで満足なのであって、

   金持ちになることや地位が高くなることなんてまるでどうでもいいことだ。

    世間の価値なんてどうでもいいし、社会的慣習や多数者の画一的な奔流に

   押し流されるだけなんて、腹立たしくていやだ。

    世間は世間で勝手にやっていたらいいのだ。


    陶淵明は名誉や地位を捨て困窮の生活を送った清貧の先人たちに憧れを抱き、

   官から身を引き、迷ったり、ときには悟りの境地に到ったりいろいろしながら、

   隠遁の生活を送った。

    世俗から離れることは心の平安をもたらす。

    世間の価値観というのはそういう心の平安を決してもたらしてくれないものなのだろう。

    さっさと見切りをつけたほうが自分のためにはよいのかもしれない。


    カネや名誉を求める生き方と、心の平安をめざす生き方。

    どちらがいいのだろうか。


    カネや名誉の欲望をどこまでも拡充する生き方はそれなりに体験や経験ができ、

   いろいろおもしろい人生かもしれない。

    それはそれなりに楽しいのかもしれない。

    ただそれにはやはり苦労と苦痛はついて回る。


    心の平安をめざす生き方はカネや名誉、地位といった欲望を捨てたところから、

   そのような安らかな境地がはじまる。

    心の豊かさとは外界に欲望を求める生き方を降りる地点にある。

    恐れたり、不安になったりといった心乱される平生からおさらばすることが、

   心の平安を求める生き方である。


    どちらがいいなんかはわたしには一刀両断はできやしないが、

   欲を満たそうとする生き方より、はじめからそれを望まない生き方のほうが、

   心安らかに生きられるのは当然のことである。


    陶淵明のように隠遁と脱俗に生きられればいいなと思う。

    陶淵明が生きた時代からもう1500年もたち、現代では隠遁といった生き方が

   あまり見かけられなくなった。

    隠遁に生きる現代人といったものがイメージしにくくなった。

    仏教寺院にはそのようなものはさっぱりない。

    あえていうなら現代では田舎暮らしがそのようなことを志向しているのだろうか。


    わたしは都会の中でサラリーマンやら中流階級やらそういった生き方しか知らず、

   そのようにしか生きられないと思い込んできて、

   なんかとかこの拘束や閉塞から逃れ出たいと思ってきた。

    1500年も前に生きた陶淵明からその手かがりはつかめられるのだろうか。

    現代でも隠遁や脱俗に生きる人たちは山林や海浜の中に数多くいるのだろうか。

    このような生き方はどこにも行くあてを失った閉塞現代人のひとつの道標を

   与えてくれるのだろうか。


    でもそんな人知れない生き方はちょっとわたしには淋しすぎるかしもれない。

    都会育ちのわたしは人家のない林間地帯の恐ろしいまでの沈黙と闇に

   圧倒されたことがあるから(街灯のない心細さ)、ちょっと恐ろし過ぎる。


    とりあえずはこの陶淵明の詩集をなんども読み返し、心の渇きが癒されればいい。






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