孤独への疾走――ショーペンハウアーの社交論


                                                1998/8/24.


       


      「われわれがしたことのある気兼ねや心配のほとんど半分までが、

     他人の思惑に対する配慮から生じる」

      ショーペンハウアーは『幸福について――人生論』(新潮社)のなかでこういっている。

      つまり「人間は終始一貫、他人の意見、他人の思惑の奴隷となっているのである」


       ショーペンハウアー『幸福について』 新潮文庫  


      だから「他人の思惑にはあまり重きを置かぬよう忠告すべきである」といっている。

      「この名誉欲という動機を理性的に見て妥当と肯かれる程度まで抑制し引き下げること、

     すなわち不断に責めさいなます棘をわれわれの生身から抜き取るのがいちばん

     よいことは明らかである」

      「名誉というものにしたところで結局は間接的な価値をもつだけで直接的な価値を

     もつものではない」


      人間関係は正直にいってメンドくさいし、じゃまくさいし、しんどい。

      気を使うことも多いし、嫌われていないかとか悪く思われていないかとか、

     いろいろ気を回すことが多くてツライ。

      わたしは中学生のころからそういった関係から早く逃れたいと思っていた。

      「会話」なんてぜんぶムダだと気づいてとても驚きもした。


      しかし学校というところは友達がいないと「居場所」がなくなる。

      意地でも友達をつくり、しがみついていないと、

     そこに存在すること自体がひじょうにむずかしくなってくる。

      そうして毎日毎日、同じ「仲の良い」友達と顔をつき合せなくてはならない。

      鎖のような関係である。

      どんなヒマつぶしの話をしようかとか、どんな気分の面持ちをするべきだとか、

     どうやって友達と合せようだとか、話題づくりをどうしようだとか、

     関係を悪くしないようにするにはどうしたらいいのかとか、気に病むことばかりだ。

      だから早くそんな鎖のような関係から逃れたいと思っていた。


      大人になればこんな毎日顔をつき合せたような付き合いから逃れられるのだと思っていた。

      高校の電車通学で、高校のグループ通学とちがって大人たちはひとりで

     通勤している人がほとんどだったからだ。

      この窮屈な関係からどうやって逃れるかということが、

     わたしが大人になるにしたがってつちかっていったテーマだった。


      そういったときに仲の良い友達とちょっとショックをうける経験をしてから、

     わたしは人生にたいするエネルギーを一挙にパワー・ダウンした。

      人からいいように思われることの衝動がいっきょにブッちぎれてしまった。

      それまではカッコよく見られようとDCブランドで着飾ったり、楽しい思いをしようとか、

     若いころの血気盛んな時期を過ごしていたのだが、いっきにそんなことをしても

     ムダじゃないかという気分に落ち込んだ。

      心理学や哲学書のような読書をするようになったのはそれがきっかけだった。


      そういった落ち込んでいた時期にもっと厭世的でペシミスティックなショーペンハウアーの

     思想にひきつけられていったのは当然の帰結である。


      いまから10年近く前にこの本を読んだと思うのだが、あらためて読み直してみると

     ひじょうに自分の捉え方や行動様式にしみついていることにびっくりしてしまった。

      群れることにたいする批判的なみかたや、拒絶感、拒否感といったものが、

     拭いがたく自分の中に沈殿している。

      そのために仕事での集団、グループの付き合いや距離感にひじょうにツライ思いを

     しなければならなかった。

      群れることの拒否感は人一倍強いのだが、一方では集団からぽつんと外れることや

     仲間外れになることがことのほか苦手で不安でもあったのだ。

      毎日鎖のようにつながれた関係、集団というのはなんとか逃れたいと思っているのだが、

     一方では集団から疎外されるさみしさや孤立感というのもひとしお感じる。

      その微妙なバランス感覚がひじょうに心苦しいのである。


      ショーペンハウアーは群れから離れることと自立する幸福を説くのだが、

     集団から疎外されることの恐ろしさにはあまり言及していない。

      集団から外れると、そこにいてはならないような気持ちや存在してはならないような

     気持ちにさいなまされる。

      だいたい学校でも会社でも、人とのつながりだけが存在の許可や容認を

     下しているようである。

      つながりがなければ、そこにいてはならない、存在してはいけないという気分になる。

      人はそういう恐ろしさに蹴落とされて、毎日どうでもよいツマらないおしゃべりを

     まくしたてたり、いつも集団で群れようとするのだろう。

      そういうことに腹を立てているわたしはますます黙り込み、集団から離れ、

     そしてその場にいてはならないような疎外感に恐れおののくことになる。


      わたしはあまり会話を楽しみに思ったり、人付き合いが好きだというわけではない。

      たぶんわたしはマンガや映画、音楽などのマス・メディアが好きだったから、

     人付き合いの魅力がことさら乏しいものに思えたのだろう。


      しゃべることのなにが楽しいんだろうと思ったりする。

      そういう人間は会話する目的がないから、いきおい会話の内容は

     人に合わせ勝ちになり、だからよけいに気苦労がたまり、会話がつまらなくなる。

      また会話自体にもうがった見方が出てきて、みんなは楽しいふりやおもしろいふり、

     会話のムードに合せようとしたり、たいへんだなと思ったりする。

      上下関係のある会話も気まずくてタマんない。

      みんな媚びとか調子合せで会話したりするなんてよくやるなと思う。


      しかし会話だけが人とのつながりなので、会話しなければ集団から

     疎外されていってしまう。

      会話することしか人とのつながりがないと気づいたとき、わたしはとても驚いた。

      こんなムダなことでしか人とのつながりは得られないのかと。


      集団から外れてしまえば、会社でも学校でもそこにいることがむずかしくなる。

      みんな仲良しゴッコとか楽しい会話ゴッコとかよくやるなと思いつつも、

     集団から疎外されることも恐ろしい。

      だからゲンキよくみんなと愉快にしゃべらなければならない。

      これはシンドイ。


      そういったわたしの捉え方にさらに追い討ちをかけたのがショーペンハウアーの

     社交界の洞察と孤独へのススメである。

      「すべて社交界というのものはまず第一に必然的に、人間が互いに順応しあい

     抑制しあうことを要求する。

      強制ということが、およそ社交には切っても切れないつきものである。

      社交は犠牲を要求するが、自己の個性が強ければ、それだけ犠牲が重くなる」


      「ふつうの社交界で人の気に入るには、どうしても平凡で頭の悪い人間であることが

     必要なのだ。

      だからこうした社交界では、われわれはほかの人たちと似たり寄ったりの人間に

     なるために、大いに自己を否認し、自己の四分の三を捨てなければならない」


      「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に

     耐えられないからである。

      内面の空虚と倦怠とに駆られるためである」

      「自分自身に耐えるよりも、他人に耐えるほうが楽だからである」


      「全く自分自身のあり方に生きていて差し支えないのは、独りでいる間だけである。

      だから孤独を愛さない者は、自由を愛さないというべきだ。

      人は独りでいる間だけが自由だからである」


      みんながやるからやらなければならないこと、みんながやっているから

     あまり好きでないことでもことさら好きであるようなふりをすること、

     人に合せるために趣味や好みを合せること――そういったことに反発を抱いていたわたしは

     このショーペンハウアーの考え方がつよく染みわたった。

      ただショーペンハウアーの考え方にはちょっとひがみ過ぎではないかとか、

     他人を卑下したり軽蔑したりする傾向もところどころ見受けられるので、

     そういうところになびくつもりはあまりなかった。


      正月とかゴールデン・ウィーク、盆休みの集団同調行動、

     あるいはマスメディアのいうことは正しいといった暴力に腹を立てていたわたしは

     このショペンハウアーの考え方を身に携えて、孤独の道へと進んだ。

      むりに人に合せたり、同調しなければならないのなら、

     孤独なほうがいいと考えるようになった。


      20代の前半というのは孤独がつらい時期でもある。

      学生のころの友達づき合いがまだ残っており、ほかの若者はみんな遊び回って、

     楽しんでいるものだという思いこみがあるから、そこから外れることはことさら孤独感を誘う。

      孤独自体がつらいのではなくて、ほかの人から外れている、とりのこされている、

     といった気持ちがつらいのである。

      これは孤独感というより、劣等感や異質感といったものだな。


      20代後半になると学生のときの友達付き合いはだいぶ減り、

     会社での人付き合いはある程度距離をおけるから、かなり孤独に慣れる。

      おかげでわたしは自分の好きなことに没頭することができた。

      学生時代なら哲学とか読書なんかやっていたら、そんなクライことをするな、

     とかみんなに言われて、自分の好きな嗜好をあきらめざるを得なかったかもしれない。

      オタク的な趣味をもっていたり、マニアックな嗜好をもっている人も同じだ。

      だいたいふつうの人は「一般受け」することばかり目指すから、

     ひとつのことにのめり込まさせてくれない。

      妨害したり干渉したり、よってたかって凡庸な人間として角を削ごうとするから、

     なにか自分の好きなことがある人は孤独になったほうがよいかもしれない。
     

      わたしは自分の好きなことを選んで、友達付き合いをだいぶ捨てた。

      もういまでは孤独は平気すぎるくらい平気だし、たまにこんな孤独にしていて、

     いいのかなとふっと思ったりもするが、これが当たり前になったからなんとも思わない。

      たまに失業期間中の「バケーション」では何週間も人と口をきかないこともあるが、

     ドーでもいいことだ。

      まるで「都会の仙人」みたいな生活だが、都会ではそういう暮らしも可能なのである。


      ただそういうわたしも会社に属してそこの人間関係、集団との関係を

     渡っていかなければならないので、それはそれは疲れる。

      会社というところもやはり集団の輪といったものがあって、

     そこに入らなければ、疎外感を感じたりものすごく居心地が悪くなったりする。

      とくに仲の良い集団のばあいではなおさらだ。


      社会学者のウィリアム・ホワイトは『組織のなかの人間』(東京創元社)でいっている。

      「まことに集団は参加を促し、参加を要求するが、集団はある種の参加――

     その集団独特なやり方での参加――を要求するのである。

     集団とよりよく統合すればするほど、そのメンバーは自分自身をほかの方法で

     表現する自由をそれだけ制約される」

      「より多くの参加ということは画一性と不可分に結びついている。

      (関係が)うまくいっているがゆえに悩んでいるのである」


      ひじょうに薄ら寒い洞察である。

      仲がよくなればなるほど、自分らくしあることができなくなるのである。

      だからわたしは人や集団とある程度の距離感をおきたいと思っている。

      そうしたら今度は集団からの疎外や冷たい関係に悩まなければならなくなる。

      ヒジョ〜に難しいところである。


      まあいまではわたしも人と適当に仲良くしたり、集団に参加することも覚えていった。

      ショーペンハウアーや大衆社会論を読んだあとあたりは、

     集団に参加することの反発というものがものすごく強くて、

     集団からの疎外感というものをかなり強く味わわなければならなかったが、

     いまはそういった反発もかなり薄らいだ。

      集団になんか勝ち目はないのだ。

      そんなに反発しないで適当に同調するしかないのである。

      自分がなくなる、自分自身らしくなくなるといっていても、

     集団から疎外されることの恐ろしさもひとしおではないのである。

      テキトーな同調技術というものも集団のなかではやはりどうしても必要になるものだ。

      そんなに片意地はって、ヤマアラシになる必要はないだろう。

      肩の力を抜けばいいのである。


      ――以上、集団からの自立と依存に関してのわたしの変遷である。





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