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2003年全断想集


 専門家の恐怖と個人の無能 2003/2/11
 いやなことは見ないほうがいい/商業化がもたらした個人の零落と孤立/専門家は恐怖を煽って市場を拡大する/心の時代は少年犯罪者を生み出しただけ/専門家はわれわれからなにを奪ったか/専門家は「恐怖症」産業である/

 知識を批判してみる 2003/3/22
 学校があるからこそ学習しない/知識は損害か、有益か/知識批判は知を愛する者の義務だろう/知識の影響と弊害を考えてみる/知識と欲望とモラル/教養のカンチガイ/

 知識害悪論 2003/5/7
 知識人の野心と権力欲/権力のために知識はもとめられるのか?/知識の危険な部分/知識人は没落すべきである/批判は世の中を生きやすくしたか?/学問・マスコミは悪口商社なのか?/ポジティヴ社会観、ネガティヴ社会観/読書人の陥穽/

 030517断想集 2003/7/7
 反抗することと近代主義/欲望の否定主義は幸福か/精神的な愛と肉体的な欲/人格愛なんていらない?/性を汚らしいと思うのはなぜか/性と愛の現在はどうなっているのか/

 030716断想集 2003/7/28
 誘惑する女/発情と同意/子育て、生活、快楽のためのセックス/

 030922断想集 2003/11/12
 男は恋愛をするものではない?/恋愛依存症とは経済役割の結果?/人の恋愛パターンは決まっている?/恋愛と幼少期・愛の妄想・嫉妬について/

  031122断想集 2003/12/23
 もし愛した人が嫉妬狂と復讐魔だったら/赤面と男女の上下関係/女性は非難しているのではなく、感情を共有したいだけ/さいきん思うこと、つらつら/



■030118断想集
 専門家の恐怖と個人の無能




   いやなことは見ないほうがいい    2003/1/18


 心配事や不安なことはとことん考えつめるべきだとだれがいっていたのだろう。さいきんの心理学では、心配事や不安なことはさっぱり忘れたほうが精神的には健康だといっている。

 考えつづけることに価値をおいていた私はほんとうにそうだと思う。心配事や不安なことを考えつづけると、うつ状態になる。不安や恐れにとらわれつづけることになる。しまいには自分からその恐れをとりのぞけないようになってしまう。

 不安や恐れをシャットアウトするという知恵はちまたでもよく交わされる言葉のはずである。でも私は問題をとことん解決しなければ、問題はのこったままだから、どうするんだ、と思っていた。そうしていつまで考えつづけて、不安や恐れから抜け出せないようになっていた。

 フロイト以降の精神分析も、つらいことを抑圧すると無意識がいつまでも覚えていて、神経症的な病理をひきおこすといってきた。つらい記憶を避けないで直視することが精神的な健康をもたらすといった。

 しかしさいきんの研究では、事実はまったく逆らしい。いやなことやつらいことから目をそらすタイプのほうが精神的には健康的なのだそうである。「精神の健康の主たる機能はポジティヴに歪曲された世界像と自己像を保証することにあると言えよう」というのである。(ロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』文春文庫)

 「ふつうの人間は幻想と自己欺瞞という「鎮痛剤」を使って自分の欠点や不完全さをやり過ごしているが、彼ら(うつ病)の脳はいわばこの「鎮痛剤」を作り出す能力を失った状態なのである」

 われわれは事実から目をそらすなとよくいわれる。現実逃避もよくないといわれる。問題があれば、解決するまで考えつづけるべきだといわれる。しかしこれではうつ病患者をつくりだすだけになってしまう。不安や恐れというのは考えれば考えるほど雪だるま式に増えるものなのである。

 不安なことや恐ろしいことはできるだけ考えないほうがいい。つらいことやいやなことも避けたほうがいい。こっちのほうが精神の健康にはぜったいにいい。

 現実逃避がよくないとは思わない。つらい現実からどこまでも目をそらさないことこそ、精神の健康にもっとも悪いことだ。ただし、いやなことは避けつづけろということではなくて、いやなことをしているときは、精神はよそ見をするべきだということである。不安や恐れを見つづけるということは、それを倍加してしまうということなのである。

 精神というのは出来事の後におこるものではなくて、現実をつくりだすものである。現実の後に不安や恐れがわきあがるのではなく、精神こそが不安や恐れに色づけされた現実をつくりだすのである。不安や恐れを見つづけるということは、それをいままさにつくりつづけるということなのだ。

 精神の健康のためには、われわれの精神は不安や恐れからできるだけ目をそらすべきなのである。そうすると、不安や恐れに色づけされた世界は自分から遠いものになる。さらにはいやなこと、つらいことも、できるだけ私の世界から排出してしまうべきなのだ。

 現実というのは私の見方、捉え方ひとつでころりと変わってしまうものだ。さらには頭を空っぽにしたり、まっ白にすることで、不安やネガティヴな感情からも遮断される。私はしごく平穏で、恐れも不安もない満ち足りた気分になる。

 それをウソや欺瞞だというかもしれない。しかし精神の健康というのはそれでしか得られないものである。また現実を無視しているというわけでもない。現実というのはたんにひとつの解釈、ひとつの捉え方にしか過ぎないのだから、精神は最大限に自分に健康をもらたす認識をすべきなのである。正義感に満ちて自分を責めさいなますような行為はおおよそ愚かなことだ。

 フロイト以降の精神分析はつらいことやいなことはとことん直視しないと心の病をもたらすといってきた。しかしこれこそが心の病をひきおこすのではないのか。精神は幻想と自己欺瞞によってしか救われないと開き直るべきだ。

 ニーチェは現実は虚構にすぎないのだから自分の権力意識をもたらす認識をつくるべきだといったが、そこまで極端にいわなくても、不安や恐れ、悲しみをもたらす認識はできるだけ心の世界から排除すべきだと私は思う。正確な現実というものを信じて、わざわざ自分を犠牲にするような認識をもつことは愚かすぎるというものだ。







    商業化がもたらす個人の零落と孤立      2003/1/21


 さまざまなモノやサービスがお金で買えることはラクで便利なことである。しかしこの商業化や分業化が、進歩や繁栄ばかりではなく、深刻な病をもたらすことを見逃してはならない。

 人々のつながりをお金やビジネスだけの関係にしてしまい、非情でドライなものにし、人々を孤立にみちびていることを忘れてはならない。われわれは人とのつながり、絆、愛情や思いやり、助け合い、といったものをますますまわりから消し去ろうとしているのである。それらをカネに売り払おうとしている。

 われわれはカネさえあればなんでも手に入る社会にいるが、カネさえなければまったく救いようがない社会に生きている。ことばどおりのカネの切れ目が縁の切れ目の社会に生きている。安心ややすらぎはあるだろうか。

 ぎゃくに、経済や商業が発達していない社会は人々とのつながりが密であり、助け合いや思いやり、といったものがはるかに多い。カネがなく、貧乏であるけれども、人々にかこまれて安心ややすらぎは、豊かな国よりはるかに満ちているという逆説がある。

 人々のつながりが分断されて不安だからますますカネとモノにしがみつくという悪循環にわれわれは囚われている。カネと商売が掘り崩す地点というのは、人々が密につながり、助け合い、思いやるといった人々の絆や連帯にほかならないのである。人々の紐帯を切り崩すものこそ商業や経済といったものなのだ。

 たとえば家族はすでに孤立化しているが、これを進めたのは、家事や育児の外注化、サービス化ではなかったのか。食べ物がコンビニやファミレスですませられるのなら母親の役割は希薄なものにならざるをえないし、教育が学校にすべて委託されるようになれば親が教えることもなくなるし、このように家族のさまざまな機能は商業化されて、その絆は立ち消えになっている。

 親子は無条件のつながりに結びつけられているが、商業化されたつながりはカネだけのつながりである。カネがなくなればそれらのサービスに見向きもされない。家族はそんなことに関わりなく助けてくれる。われわれは家族という無条件のやすらぎの舟さえ見捨てようとしているのである。近隣や地域のつながりといったものもいうまでもない。

 商業化やカネのつながりだけにおきかえるということは、われわれのカネではない親密さや人情、恩情、といったものをすべて切り捨ててゆくことである。人々は商業化によって孤立し、人としてのつながり、絆、あたたかみ、といったものをますます失ってしまったのである。

 また商業化を進めるということは専門家をうみだし、個人の無力さを増大させることである。医者はわれわれの身体の知恵といったものを忘れさせたし、教師や学者はわれわれの自前の知識や知恵といったものを駆逐させてきたし、マスコミはわれわれのまわりの情報や噂のネットワークの力を奪いとり、個人のパフォーマンス能力や話すことの楽しみといったものなどを小さなものにした。

 むかしはひとりひとりにさまざまな生きてゆく力や知恵があり、それぞれの発想や工夫があり、独特の人格やたちふるまいがあったはずである。そのような個人の歴史や知恵の蓄積があり、われわれはそれを求めて人に会いに行ったり、話を楽しみにしたものだと思うのである。商業化や、とくにマスコミの力は、個人の価値といったものをそうとう零落させたにちがいないのである。個人の価値というものは風前の灯火である。

 われわれはまわりの身近な人とのつながりからますます分断され、企業やメーカー、ショップ、マスコミ、専門家、モノやサービスとつながるようになっている。個人は重要性やおもしろみ、つながりの必要性を零落させ、知識や伝聞、伝承といったものは個人間でつたわらず、人々はますます孤立し、閉じこめられるようになっている。

 商業化や経済が発達することはたいへん好ましいことだと思われてきたが、商業化やカネは家族や人間関係まで解体してゆくことになるのである。はたしてわれわれはそんな社会にやすらぎや安心、人々のあたたかなつながりといったものを感じられるだろうか。孤立し、閉じこ込められ、恐れや不安が増大してゆくばかりで、ますます商業化や専門家に依存してゆくことにならないだろうか。

 商業化の進展に希望ばかり見るのではなく、その害悪部分にも目を向けてゆく必要があるようである。失ったものは目に見えにくく、それだけ被害は深甚だといえそうである。







   専門家は恐怖を煽って市場を拡大する    2003/1/25


 いかなる知識や学問といえども商売である。客のいない商売はつぶれるだけである。知識が商売で儲けるためには人々の恐怖を煽るのがいちばんである。人々は競って教えを乞いにくる。

 ある分野の専門家が大活躍している時代というのはその分野が恐怖に満ちているか、あるいは専門家がうまく恐怖を喧伝したかのどちらかだ。恐怖は知識のスポンジとなる。そして専門家は大活躍し、大儲けする。

 かれらは真実を捉えているのだろうか、あるいは金儲けのため、みずからの社会的地位向上や名誉心のために、われわれを恐怖におとしいれる知識をでっちあげるのだろうか。

 専門家であるから疑うのも意をとなえるのもむずかしいが、かれらも名誉がほしい人間であるし(とくに)、専門分野がひっぱりだこになってほしい商売人であること、かれらの活躍とわれわれの恐怖には相関関係があることを覚えておくべきだ。権威ある学説やみんなに信じられている知識だからといってうのみにするのはやっぱりキケンである。

 心理学者やセラピストは90年代になってどこからもひっぱりだこになり、アダルト・チルドレンやトラウマなどの言葉がふつうの人の耳にも聞こえるようになったが、私たちは90年代に入ってとつぜん心の病を発症するようになったのだろうか。やっぱり心理学者の宣伝や啓蒙が大きかったのだろう。

 とくにTVによる犯罪者の心理分析がよく効いた。われわれは犯罪者の心理傾向に自分の性格を見ないわけにはゆかなかった。自分の異常さに脅えるわれわれは心理学者のことばへと誘い込まれていったのである。

 心理学者が儲ける方法はすべての人をマーケットの客にすることである。だれもが病者であり、異常であると喧伝すれば、お客は倍増する。

 とくに原因の帰結をほかの分野にわたさず、自分の分野に限定すれば、より多くの顧客がみこめる。専門家はそんな貪欲な下心ははもたない見識ある人たちだと思うが、現代の限定された学問分野のなかでは、原因を自分たちの分野にしか見つけられないのである。

 犯罪を貧しさのせいにできた時代は終わった。心理学が犯罪を個人の心のせいに押しこめるようになった。社会や経済、文化が原因でおこる犯罪はこの時代になっていっきょに消滅したのだろうか。ある専門分野は自分たちの分野にしかその原因を見いだせないのである。心理学者は社会や経済のなかに犯罪の原因を見つけだせない。

 こんにちの心理学者のような躍進を、経済学者も1930年代以降に経験したようである。それまで経済学はなにを問われても「わからない」と答えていた謙虚な学問だったそうだが、大恐慌に応えてとつぜん答えを見出したようだ。それからは経済学者は政府のお抱えブレーンとなった。世界大恐慌という恐怖が経済学者の大躍進をもたらしたのである。

 恐慌の再来や景気の悪化、生計の見通しが立たなくなると予測されれば、人は恐怖から経済学にその状況に耳をかたむけ、あるいは振興策をさぐろうとするだろう。こうして経済学者は1300年代のキリスト教神学者なみに増加したのである。

 経済学者がそれだけ食い扶持を稼げる時代というのは、われわれの常識もかなり経済学に染め上げられていること、およびなんでもかんでも経済の原因に帰する考え方ができあがっていることだろう。われわれが不幸なのは経済のせい、治安が悪いのは経済のせい、家庭の不和は経済のせい、夫が出世しないのは経済のせい、すべて経済が悪いとなる。社会学者や心理学者の出る幕がないということは、原因がそれらに属するとは考えられないということだ。

 現代の心理学者の大躍進はすべて個人の心のせいにされる時代であり、社会変革や経済変革の希望が断たれた時代であるということだ。みんな個人の心が悪く、社会の現状は正しく、聖化されて、個人はそこに適応するか、さもなくば矯正されるしかなくなった。権力にたてつくまえにその根をつみとられるという専制君主制より恐ろしい時代になったともいえるだろう。

 専門家は自分たちの分野に地雷をみつけ、お客にほうりこんで大躍進し、人々の常識や知識をその分野よりにゆがめる。かつての宗教は死後の恐怖をうえこみ、大躍進し、仏教は怨霊の恐怖により世にひろがった。常識や世界観はその専門家の色にまったく染め上げられるのである。

 一般の人が専門家に伍してその真偽をたしかめるのはむずかしいし、ものの見方がその還元分野に傾いてゆくことを自覚するのも困難だろう。われわれは権威や常識といったものにひじょうに弱く、社会の知識のゆがみに自覚的であるのもたいへんにむずかしい。

 医者ももちろん商売である。われわれは病気の恐怖をもって医者に駆けつける。TVや雑誌などで病気の恐怖を感じたことがない人はいないだろう。恐怖を煽ることが医者の大躍進に結びつくのである。もちろん医学は良心的であるという神話、あるいは信頼を抜きにすることなんかできないが、医学も商売であり、それがなりたつには病気の恐怖と予防策をいくぶんかは注射しないと、お客は遠い存在になるだけである。

 保険業界はわれわれにどんな恐怖や常識をうえつけたのだろうか。将来、病気になること、夫が亡くなること、老後の生活がなりたたくなること、業界はこのような恐怖を煽り、そしてその将来像をわれわれの頭のなかに固定的なものにしたのである。

 専門家は恐怖なしにはなりたたないのだろう。知識にかかわる商売は恐怖の座席のうえに立つ。汚染されないよう気をつけるためにはわれわれはせいぜい専門家も商売人であること、自分の分野に問題をぜんぶ帰してしまうクセがあることを覚えておくほかないだろう。「そんなのおかしい」といった常識的判断もけっこう頼りになるのかもしれない。






   「心の時代」は少年犯罪者を生み出しただけ    03/2/2


 90年代は心理学者が大儲けした時代であり、商売のヒケツはお客の恐怖心を煽ることである。心理学はもともと病者を癒す学問であり、業界用語は異常心理に満ちている。それが一般人にも拡大されるとふつうの人も恐怖心を煽られないわけにはゆかず、そして心理学者も大儲けできるというわけである。

 そういう目で見ると、90年代の心理学ブームというのは異常者カテゴリーの拡大であり、異常者探しのゲームだったとも見なせるだろう。心理学者の大躍進とはふつうの人の異常者恐怖と一体だったのである。

 心理学が流行るようになりだしたのはいつのことだろうか。かつて精神病といえば狂人のイメージであり、実態は精神病院の壁の向こうに隠されていた。人々の心が内面に向かい出したのは80年代に「ネアカ/ネクラ」のブームがあり、非社交性の不安が煽られたことがブームの下地になったのだろうか。このときに儲けたのはいまにつづくたけしやさんま、タモリなどの漫才師たちである。

 89年の連続幼女殺人事件の宮崎被告はオタク少年たちの恐怖心を煽った。いぜんからオタクは気持ち悪がられていたが、この事件は決定打になった。オタクは犯罪者同然になった。しかしマンガのマーケットは拡大をつづけており、少年の心にこの事件はどのような影を落としたのだろうか。

 犯罪者の心に心理分析がおこなわれるようになったのはいつのことだったのだろうか。異常な犯罪がおこるたび、心理学者のコメントが付されるようになった。オウム真理教事件はふつうの人にはわからない異常な心理の人たちがこの日本にいることを知らしめたし、このことからワイドショー的好奇心に火がついた。福島章や小田晋、町沢静夫といったタレント精神科医が生まれる。その影響からか、猟奇殺人者の心理分析や多重人格者、快楽殺人者の耽美的物語が流行ったりした。『羊たちの沈黙』や「冬彦さん」が話題になった。

 このブームを支えたのは女性たちだったと思うが、なぜ女性たちは異常心理に心をひかれるようになったのだろうか。彼女たちが犯罪をおかす確率はかなり低いと思われるが、自分たちの心の奥底に異常な部分を見つけたのだろうか。それだけ異常者の心理が広範に見出されるようになったのだろう。

 アダルト・チルドレンやトラウマのことばが話題になり、犯罪者の心理分析は日増しにふえ、「ストーカー」とよばれるマスコミ先行型と思われるような犯罪まであらわれた。じっさいに殺人までおこなわれたが、この事件はマスコミが煽ったために生まれたとしか私には見えなかった。人々やマスコミは異常な犯罪をいまかいまかと待ち構えるようになった。

 神戸の小学生殺傷事件をきっかけに少年犯罪に火がついた。このころ異常犯罪者にはかならず生い立ちからエピソード、心理分析がおこなわれるのは当たり前になっており、一種のマスコミがうみだす「成功者」のようになっていた。

 まるでニュースの「話題賞」に応募するようなものである。犯罪という高い代価を払いながら、かれらは異常心理部門に採用されたのである。入賞者には過去の履歴と心理分析が、うやうやしく紹介された。

 異常者の心理分析という好奇心がマスコミや人々にあるために、少年たちはそのスポットライトのなかで踊らされたようなものである。この前にはずっと「女子高生ブーム」というものがあり、マスコミやファッション誌に女子高生たちがたえずとりあげられる時代があり、その影に隠れて男子高校生は影の薄い存在だった。そのルサンチマンからか、かれらは「犯罪少年ブーム」をつくりだしてゆく。17歳が中心的存在である。

 げんざいのところはウソのように沈静化している。思えば心理学ブームというのは異常者をあぶり出し、ついにはマスコミと結託するような犯罪少年ブームを生み出して終わったという感がする。皮肉なことに「心の時代」とよばれる時代は異常犯罪者を扇動しただけともいえるのである。

 心理学者はなぜそのような趨勢を生み出すことに加担したのだろうか。心への興味が異常心理へ水路づけられるのは、病者のための学問である心理学の必然だろう。異常者のレッテル貼りの乱発は、狂気のロマンティシズムを誘発したのである。犯罪をおかせば、かれはマスコミと心理学者が待ち構えている心理分析の格好の材料となってくれる。心への興味は皮肉なことに異常犯罪者というマスコミの幻影とパフォーマンスをつくりだして終わったのである。

 心理学者の大躍進はわれわれの心理学的知識を深め賢明にしたというよりか、異常犯罪者とその分析される材料を必要とし、その猿芝居の役者をじっさいに生み出しただけなのである。そして心理学者はスクール・カウンセラーなどで採用されることとなり、その活躍の場をおおいに広げたのである。 

 心理学者の拡大と活躍はわれわれの知識を悲惨なまでに歪めたようである。心の賢明な知識を得たのではなく、たんに異常心理者の「ショータイム」を演出しただけのようである。心理学者はわたしたちにはたして賢明な知恵や健康な心身を授ける役割をはたしたのだろうか、それとも世情を撹乱し、人間観や世界観をゆがめただけなのだろうか。

 われわれは心理学という専門家のゆがんだフィルターを拡大した世界観のなかに生きている。経済変革も政治変革も望みが断たれた現在、われわれは心理変革に望みを託すほか希望がなくっている。これから心理学知識が躍進してゆくのはまちがいがないだろう。

 つぎの時代には心理学者たちは異常者探索という危ないわだちをもう一度くりかえすことになるのだろうか。それともマスコミのセンセーショナリズムに煽られない冷静で批判的な判断をおこなうことができるようになっているだろうか。心理学者たちはこの心理至上主義の時代を批判的におおいに反省すべきなのである。

 そしてわれわれ一般の人間も専門家信仰をゆるやかなものにし、かれらの異常者煽情主義をおおいに警戒すべきなのである。かれらは恐怖を煽り、それでみずからの知識と生計の道をひろげる。専門家は絶対ではない。かれらは異常者がふえればふえるほど社会的地位も儲けもふえる商売の世界に生きている。つまりみんな病者にしてしまえば、マーケットは極大化できる。意図しないでも、そういう商売の世界に生きている以上、かれらはそのような道に踏み入れてゆくことだろう。カウンセラーになりたい人がふえるということは、おのずと病者をひろげる活動をもよおすことになる。

 だからわれわれはかれらの病者の線を割り引いて考えなければならない。自分が異常者であると思われようと、その心配はなるべく弱いものにしなければならない。人間の心というのはほとんどプラシーボ(自己暗示)の世界だ。悪いと思えば悪くなる。専門家依存の道にひきいれられるまえに、かれらの商売のロジックにおおいに警戒すべきなのである。







  専門家はわれわれからなにを奪ったか    2003/2/9


 専門家は個人や共同体の無能力を強化する。われわれの自前でやる能力、知恵や知識の蓄積、行動力や行為力といったものを奪った。専門家が成立するためには、われわれはその能力にたいして「無能」でなければならない。そして専門家に依存すれば、その能力を得られたように勘違いし、ますます依存の度合は高まる。

 専門家が社会で浸透するためには、恐怖が煽られる。90年代の心理学のように、だれもかれもが「異常者」であると煽られると、専門家の知識に頼らざるをえなくなる。心を安らげる知恵は個人やまわりの人たち、家族から奪われ、専門家はその必要性を高め、ますます個人や共同体の力は失われる。

 現代は経済学の時代である。経済学はもはや宗教である。経済さえよくなれば幸福になれると人は思っている。老後や医療の経済的保障さえあれば人生は安泰だと思っている。ぎゃくに経済が悪化し、企業が倒産し、将来の計画が立てれなくなると、人生はもうおしまいだと思う。宗教はアヘンである。経済に人生の全幸福を賭けるようになったのは、やはり専門家の活躍以外に考えられないだろう。専門家は世界観をその色に染めあげてしまう。

 現代の経済学者は中世の神学者なみにいるそうだが、かつて宗教は死後や霊魂の恐怖を煽り、その活躍の場をひろげ、死後と現世の幸福と安泰を約束した。そのことによって宗教者は強力な権力と支配の力を握ることになった。宗教は医療や政治や経済、教育などのさまざまな独占の力をもったのだろう。

 現代の教育は学校がになっているが、学校は人々から教える権利を奪い、自分で学ぶ機会を奪い、学校に行くことで教育が完了したと勘違いするようになった。教え、学ぶという個人の力を学校が奪ったのである。学校制度以外の学習や知識は信用されなくなった。ハコものと証書のみが重要になり、人々の評価力や学習力はどんどん無能になってゆく。

 専門化は人々を賢明にするよりか、個人や共同体の力を骨抜きにしてゆくばかりである。専門化はいちばん重要な中身を奪いとり、かたちや外側の充実のみをめざす逆転がおこり、その機能や内実低下をもたらす。

 病院もそこに行くことによって健康になれると勘違いする逆転がおこっているが、ほんらいは自分の健康管理や健康の知恵、自然治癒力といったものがもっと重要であったはずだ。医療の専門充実化はハコものの重要性を増し、個人の健康知識を警戒させ、無能力と専門家依存を増しただけなのである。

 専門化は個人の自前でやりぬく能力をどんどん奪ってゆく。制度や学問に頼れば能力が上がると思っているが、その中身より制度に頼ることが重要になり、必要とした能力はますます失われる悪循環におちいる。

 専門家はまた個人と共同体の能力の破壊も促進する。かれらが活躍するためは、個人や家族、共同体が無能でなければならないわけで、専門家はそれらの機能を批判し、ヤリ玉にあげることによって、みずからの必要性を増す。個人や家族、共同体の能力や絆は解体してゆくばかりなのである。

 生活や健康、老後の福祉が政府にになわれるにつれ、家族や共同体の解体はすすんでゆく。個人が孤立してゆくのは、福祉を家族やまわりの人たちから奪っていったからである。福祉を個人や家族から奪えば、その強力な絆はかんたんにほころびる。政府が福祉をになうことは果たしてわれわれに幸福や安泰をもたらしたのだろうか。

 現代は専門分業化の時代であり、個人の自前でやる能力はどんどん失われてゆく。家を建てたり修繕したり、服をつくったり繕ったり、料理をつくったり、自分たちで娯楽をつくったり、といった自分でやる能力はどんどん専門家に奪われてゆく。個人はどんどん骨抜きや丸裸にされてゆくばかりである。個人の生活能力の解体はわれわれにどんな危機をもたらすのだろうか。

 能力も知恵も、行為力も専門家に奪われてゆく。専門家は恐怖を煽り、われわれの無能力をあげつらい、自分たちの重要性や必要性をとなえ、われわれの知識や世界観をゆがめてゆく。解体されてゆくのは個人や共同体の能力、絆である。

 われわれに必要なのは専門家をチェックする判断力や選択力なのだろう。専門家を盲目的に信仰すれば、われわれは中世の宗教信仰者となんら変わりはなくなるだろう。専門家は商売や人の常として恐怖を煽り、その支配力や権力を強めようとするだろう。われわれはその知識を盲目に信仰するのではなく、恐怖を割り引いて考えなければならない。専門家を判断する力がわれわれには必要とされるのである。







   専門家は「恐怖症」産業である     2003/2/11


 専門家は恐怖を煽って市場を拡大する。不安に煽られたわれわれはまるで「恐怖症」のようになる。「創られた」恐怖のためにわれわれは専門家にすがりつくよりほかなくなっている。

 90年代は心理学が恐怖を煽った時代のサンプルになる。心理学者は犯罪報道と手を結び、人々の異常不安と排斥恐怖を煽り、そのマーケットと知識を広げた。専門家が活躍するときには恐怖が煽られるのは常套手段のようである。

 そういう目で見てみると、医者の恐怖煽情というのも長い歴史を誇っていてことに気づく。病気というのはたいへん恐ろしいものである。病気の恐怖を煽られれば、だれだって医者と健康の渇望を抱くだろう。

 さいきん「健康ブーム」というものが問い直されているが、異常に健康に固執する人というのは、医者によって「恐怖症」にされてしまった人たちなのだろう。マスコミにガンや生活習慣病に効くと報道されるとたちまち専門家の処方箋や健康法が飛ぶように売れる。まるで催眠術にかかった人か、パニック行動みたいなものである。

 ほんらいは病気を治す人たちが病気の恐怖を過剰宣伝し、その必要性と儲けを増やすというのは皮肉なものである。医者が「病気恐怖症」やさまざまな「病名」をつくりだしているのである。さらには恐怖はプラシーボ(自己暗示)を誘発し、じっさいに病気になる人もいることだろう。医者は病気を治すより、「つくる」ほうが多いんじゃないかと勘ぐりたくなる。情報化社会では結果が原因を誘発するのである。

 子育てや育児も専門家によって不安を煽られているのだろう。「育児ノイローゼ」とよばれたものは、じつはその専門家こそが基準や落第点を設け、ノイローゼをつくりだした張本人ではないのかと思う。

 学校は当たり前の存在になっているが、この教育専門家も人々の恐怖を煽り、その必要性を高めた歴史があったのだろうか。学歴がなければどの企業も雇ってくれない、浮浪者になると宣伝されれば、多くの親を脅かすに足るだろう。じじつ、いまでは高学歴がないと雇い入れない大企業も多い。

 しかしもはや学校は学習の機能をもたず、選別の機能しかもたず、個人の学習能力の無能を高めるだけになっている。ハコモノの滞在期間だけで学習能力が測られるようになり、ほんらいの目的である学習はまるで問われなくなった。学校は教育資格の独占をもつがゆえに親と大人の教育能力を奪い、学習能力の無能化を増した。ハコモノに依存するほど個人は無能になる。

 病院もそこに通えば健康になったと思い、自分の健康の知恵や経験が無能な人たちを生み出したが、専門家は制度の依存を目的の完成と勘違いし、中身をすっとばしてしまうのが、法則のようである。

 健康の不安をもつ人も多いが、老後の不安をもつ人はもっと多いだろう。この「老後恐怖症」とよばれてもよいものはいったいだれがつくりだしたのだろうと思う。保険業界や政府の年金システム、あるいは保障を与えて見返りを期待する企業なのだろうか。おかげで人生は老後の備えと計画のために大きく束縛されることになったが、歴史上の大半の人類は今日の糧を確保するだけで精いっぱいだったはずだ。いわんや野生動物が老後の備えをたくわえたりするだろうか。

 老後だけでなく、経済の将来の不安も大きい。ほかの国にくらべてかなり豊かな国のはずだが、それでもわれわれの不安は去らない。リストラ、倒産、不況、大恐慌と、恐怖を煽って儲けるのはだれだろうか。やはりわれわれは経済学者の恐怖煽情にかなり煽られているのだろう。大恐慌が再来すると脅かされるとわれわれは経済学者にすがりつかざるをえなくなる。処方箋があるといわれればなおさらだ。不況と恐慌のたびに経済学者の地位と儲けは増え、ウハウハだったのではないだろうか。

 経済学者の活躍とともにわれわれの頭も経済化されて、人生の幸福も安泰もすべて経済に帰結すると「信仰」するようになってしまった。現代の不幸は景気が悪いからではなくて、人生の幸福を経済にすべて還元する結果ではないのかと思う。原因をひとつの専門分野に帰結させてしまうのは、大きな過ちである。

 専門家は恐怖を煽って儲ける。恐怖や不安は際限がない。どこまでも膨らむから専門家はいくらでも儲けられるし、新しい不安を専門家はいくらでもつくれる。想像力の産業であり、「クリエイティヴ」な産業なのだから、恐怖の創造と展開はいくらでも可能である。

 われわれはそういう消費社会に生きている。欲望と不安は広告によっていくらでもクリエイティヴされる。だからわれわれはその法則をあらかじめ理解したうえで、恐怖を緩和するなり、割り引いて考えるレッスンをほどこす必要がある。

 専門家が煽る不安は信用しないことだ。新しい商売の手だと見なすことだ。さもないとわれわれは苦労の労働の成果をむしりとられるうえ、心身の健康を損われ、人生の大半を砂上の楼閣のために狂わされるかもしれないのだ。専門家はオオカミ少年か、恐怖の宣伝屋くらいに見なすのがいいのかもしれない。そのくらい警戒しないと、権威あり学識ある専門家にわれわれはころりと騙されてしまうものである。不安や恐怖にかんたんに煽られない心をもつ必要があるのだろう。





 ■心理学者・専門家を批判した本
 『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーケン 文春文庫
 『心の専門家はいらない』 小沢牧子 洋泉社新書
 『自己コントロールの檻』 森真一 講談社メチエ
 『ナルシシズムの時代』 クリストファー・ラッシュ ナツメ社
 『脱学校の社会』 イヴァン・イリイチ 東京創元社


■030216断想集
 知識を批判してみる



   学校があるからこそ学習しない      2003/2/16


 専門家がいることは便利で効率的に思えるが、逆説的に個人からその専門能力を奪ってしまう。学校があるから、教師に教えてもらうまで学習しなかったり、学校に行かないと学習できないと思ったり、また学校に行かないと学習は完了しないと思ったり。学校はいちばん個人の学習能力を奪ったのである。

 学習というのは自発的に興味をもったものを追究することにいちばんの楽しみと実りがあると思う。学校や教師の存在というのは、いちばんさいしょの興味と自発性を奪うがゆえに、ただのデータを教えるだけのつまらない存在になってしまう。

 知識というのは与えられるだけならつまらない。自分で夢中になって掘らなければおもしろくない。これはネットでも知りたいと思うキーワードを自分で探し出したときにもあてはまるものだと思う。宝探しに通ずるものがある。

 私の読書とエッセイもまさに自分から知りたいと思い、自分から読みたいと思う本を見つけることによって、楽しみや喜びを増していると思う。学校で教えられて与えられる知識ならたぶんこんなにはおもしろくもなく、興味もつづかなかったと思う。

 また学校はイリイチがいっているように人生論や古典をテキストの一部にしてしまい、人生観をゆさぶられることになったかもしれない書物も、ただの味けない教科書にしてしまう。ドストエフスキーもトルストイも、吉田兼好も鴨長明もテストに出る記号だけになってしまい、人生を生きる糧になりえない。

 学校で教えられることは遠い世界の出来事、自分と関係のない外部の出来事に、みごとに化してしまう。これはなんでだろうと思う。当事者としての興味をそそらない、遠い出来事としてその事物を切り離してしまうのである。教師と生徒という役割分担が、教師の独占物は教師しか理解できず、ふれてはならないという不文律をうみだすのだろうか。教師という役割は生徒に無能さを演じさせ、越えてはならない柵をはりめぐらすのだろうか。

 興味が失われると「当事者意識」が欠如してしまう。学習というのはこれがあるかないかで大違いである。書物に書かれてあることを「当事者」のように読むと、その物事は自分の身にしみてわかるようになる。納得して手を打つようになる。しかし当事者意識がない「お客意識」で読むと、その書物はただの意味のない記号の羅列になる。学校というのはこの当事者意識をみごとに打ち砕いてしまうのである。

 教師や学校という存在は、知識を商品として与えるがゆえに、生徒たちをお客様に変えてしまう。お客様は商品から疎外されてしまう。知識を探したり、つくったりといった創造的喜びを独り占めされたお客様は、ただ燃え尽きた興味の残りかすを与えられるだけである。知識は探しているときや謎を解いているときがいちばんおもしろい。

 この社会も専門化や分業化がすすみ、どんどん当事者意識が消え、お客様意識が進行している。当事者として社会や人生を切り開き、生きようとするのではなく、あくまでも会社や政治が切り開いてくれる世界にお客様として身をゆだねようとしている。サラリーマンなんかはお客様意識の代表である。

 お客様はすべての専門産業から疎外されてゆく。学習するのも、モノをつくるのも、料理をするのも、政治をするのも、事業をおこなうこともすべて他人任せになり、自分ひとりで自分だけの力ではなにもできなくなる。

 専門化は個人の無能力を増し、当事者意識も粉砕する。自分で人生を切り開き、生きてゆくという人生の当事者意識もそうとう失われていったのだろう。自分で考え、自分でつくり、判断し、自分のことの多くは自分でまかなうことによる人生の充実感や満足度、大人になったという感覚はわれわれからどんどん失われていっているのだろう。

 人生というのは、数々の問題や難問の連続みたいなものである。そのような問題の解決法を、専門家は商品としていつも用意してくれているわけではない。自前にひとつひとつ解いていかなければならないものが人生というものである。知識や学習というのは、その解き方の一例を学ぶ方法でもあるはずである。知識もお客様意識のまま学ぶなら、問題解決の一手段にもなりえないだろう。

 人々は哲学や人生論の問題を考えないようになった。学問や研究に興味をもつ人も少なくなった。もともとそのような奇特な人たちは社会の少数の人たちだけだったのだろうが、現代はいちじるしい高学歴社会になったはずなのに、そのような人たちが増えた実感は一向にない。

 人々は学校に学習しにいっているのではなくて、ただ企業に入るためのパスポートを欲しているだけで、学問はその道具に利用されているだけである。学校が欲したのか知らないが、学問がその興味のない人たちに満たされるのは残念である。

 学問というのは勉強やおカタイものではなくて、ほんらいは趣味や娯楽ではないのかと私は思う。映画をみたり、情報番組をみたりする知的好奇心となんらは変わりはないと思う。そういう楽しみを教えることに学校はてんで貢献していないばかりか、ぎゃくに楽しみを奪っているように思える。

 たぶん問う楽しみより、楽しみの終わってしまった解決を与えてしまうから、おもしろくなくなるのだろう。知識というのは完成品より、未完のほうがおもしろい。解けないナゾだからこそ説く楽しみがあるのであり、ナゾのないところに人の興味は向かない。UFOや心霊現象はナゾだから人々の興味をひくのである。ナゾを解く楽しみをみいだしたとき、人は知識の楽しみを知るのである。そういうことを学校にいく人たちに知ってもらいたいものである。







   知識は損害か、有益か     2003/2/23


 心理学者や医者は人々の恐怖を煽れば儲かることができる。経済学や政治学もその例にもれないだろうし、宗教者も死後や怨霊の恐怖を煽って自分たちの地位を向上させてきた歴史がある。

 知識とはオオカミ少年のようなところがあり、その不安に煽られる私たちは専門知識を無条件に信頼してよいものだろうかという懐疑をもたなければならないと思う。専門知識の権威に従ってそれを無条件に信じてしまえば、われわれは暗闇の中を恐怖に駆られて走り回らなければならくなる。

 私もこの十数年、自分の好奇心にしたがって読書をずっとつづけてきたが、自分のうちでもこの読書経験はよいことだったのか、悪いことだったのかよくわからずじまいである。役にたったような気もするし、まるで役に立っていないような気もする。

 私は思想を読みはじめたころ、大衆社会論にとりわけ感銘したのだが、これらの書は画一化する集団を批判しており、私は心の奥深くに集団忌避の感情をもったのだが、おかげで会社集団に適応するのにずいぶん骨を折らなければならなかった。生きづらさを増したように思うのだ。

 批判は知識の真骨頂である。批判がなければ知識はおもしろくないだろうし、だいいち現状維持では学ぶ必要もない。しかし批判は社会順応をむずかしくする。自分が適応しなければならない社会をたえず批判の目で見るからだ。

 現代思想や政治学、社会学、経済学などは批判の学問である。だれかが悪い、社会が悪い、階層が悪いと、外部を責める学問である。ジャーナリズムもそうだろう。批判してだから直さなければならないと口やかましくいい、それはそれで納得できて同感の気持ちを強くするのだが、社会というのはテコでも動かないように堅く、その社会に適応しなければならない無力な個人は批判と適応の板ばさみの中で苦しい思いをしなければならない。

 批判の知識を知らなければ人生もっとラクにむじゃ気に生きられたのになという正直な気持ちがないわけでもない。近代の思想というのは権力に服従しない自立した個人がひじょうに理想とされてきたが、こういう知識をそそぎこまれた無力な個人は、権力にのみこまれて生きるしかない現実のなかで、かなりの矛盾に苦しむことになる。

 賢い小市民たちはそういう批判的知識をさっさと捨てて、家族的幸福にさっさとひきこもってしまった。TVやマンガ、パチンコに競馬にうつつを抜かす人たちというのはある意味では賢明な選択だといえるかもしれない。無力な個人が社会や政治に批判的意識をもって挑もうとしても、この社会はテコでも動かないことをおそらく知り抜いているのだろう。

 政治イデオロギーや学問知識の批判性の危険性も知っているから、活字教養の放棄も自覚的におこなってきたのかもしれない。思想や社会学などを読めば、知らず知らずのうちに批判的知識を増し、社会順応はむずかしいものになる。危険な知識は知らないほうが身のためというものだ。

 といっても批判的知識はジャーナリズムを通して知らず知らずのうちに私たちに蓄積されて、批判的生き方はカッコイイとされて、社会順応はむずかしくなることもあるのだろう。マスコミはなぜ批判をそんなに好むのだろう。その批判される当の歪んだ社会に順応しなければならない私たちに生きやすさを提供してくれたのだろうか。

 私は心理学も好んで読んできたが、精神分析系の知識というのは自分の「異常者意識」の不安を強く煽られることが強かったのではないかと今では思っている。精神分析は病者を選別したり、排除しようとする闇の力をもっている。不安を煽られれば、その知識は必要不可欠のものになる。さっこんの心理学ブームは犯罪報道と手を結んで人々の恐怖を煽り、専門家の地位と儲けを増やした。この社会排斥の不安を煽られるような知識はあまり信用しないほうがいいと思う。

 といっても心理学のなかでも私はトランスパーソナル心理学や自己啓発などの怪しかったり、エセ心理学とよばれるものには強く心を癒されたと思っている。これらに学んだのは一言で言うと、思考や心を消す技術――つまり忘れることだが、こんなカンタンなことに気づくのにずいぶん遠回りをしたものだと思う。

 考えること、知識を増やすことに価値をおいていた私は、情報をマイナスにしてゆく意味をまったくつかめなかったのである。情報をプラスにしてゆくことはある意味では苦しみを増やすことでもある。さっぱり引き算にしてしまえば、苦しみはなにもなくなる。情報や言葉というのはいらぬ心配や不安をなにもないところに「創造」してしまうのである。こういった情報の引き算に安らかさを見出してきたのは、ローマのストア哲学や仏教、禅、老荘などである。知識の無益さに気づく必要があるのかもしれないと私に思わせる契機になった。

 でもこのようなことはやはり多くの知識に当たってから気づいたことであり、まったく知識の森に分け入らなければ知り得なかったことでもある。だから知識はまったく損害や有害だけとは見なせない。

 知識とはむずかしいのである。損害を与えると思えば、有益なものになり、損害の解消に役立つことになると思えば、あらたに損害をつくっているばあいもあるだろう。

 遮断できる情報や知識もあるし、放っておいても耳に入ってくる情報も知識もある。本を読まないで遮断できた有害な情報も、TVや新聞、人の口によって知らされることもあるだろうし、その汚染された情報を解毒する意味でも、学問の批判性が必要になるばあいもあるだろう。まったく情報や知識というのは入り組んでいる。

 まあ、かんたんにはどちらかに断罪するのはむずかしいということだ。情報が少なければ愚かな目に会うかもしれず、知識が多ければよけいな労苦を背負うことになるかもしれない。いまのところいえるのは、情報をマイナスにする幸せもあること、恐怖や不安を煽る専門家の知識に警戒しろということだけだろうか。







   知識批判は知を愛する者の義務だろう
   03/3/8.


 知識を貯めこむことが無条件に善であるかのような一般的な見解があるが、知識が無条件に善であるわけがない。人間のもろもろの性質とおなじく――たとえば戦争や犯罪、いざこざが人間にあるように、多くの欠点や危険性をもっているはずだ。

 知識人が知識批判の本をあまり出していないことが気にかかる。政治や社会を批判する度合いとおなじくらいに自分たちの知を批判、反省するべきだと思われるのに。かれらは知を無条件に善だと信じているのだろうか。

 ありきたりになるが、科学の進歩では大量殺戮兵器や環境破壊をひきおこしてきた。科学はけっこう目に見える被害を残すからわかりやすいが、知識というのものは目に見えるものでも、さわれるものでもないから、その影響や結果はあまり測られることがない。だからといって無責任に知の垂れ流しが許されていいわけがない。

 知識はわれわれに多大な損害や被害をもたらしてきたはずである。マルクス主義や民主主義運動は人々のいさかいや殺戮をもたらしてきたし、優生思想なんかもそれにひと役買ってきたし、精神病の知識は人々の差別と排除の意識をつちかってきたことだろう。

 知識は発見されるのはよいことかもしれないが、その影響や結果の配慮があまりにも欠け過ぎていたのかもしれない。知識は知られたときから、人々にいさかいや対立、抗争、差別や排除の「権力」を身につけはじめるものであると考えるべきなのだ。

 知識はその影響や結果があまりにも考慮されなさすぎる。知識があまりにも無条件に善だと信じられている結果なのだろう。知識が独占されるのは権力面からして問題にされるのだろうが、かといって知識の無条件の公開が社会に善と幸福をもたらす場合ばかりとはいえないだろう。新しい知によって困った事態に追われる人も多数いると思われるのである。

 知識の無条件の信頼は反省すべきなのである。知識もけっきょくはこの社会において所有の欲望や進歩主義、優越や権力の欲望を色濃く染み込ませているのだろう。あるいはその原動力や根底にあるものなのかもしれない。知を断てば、これら人間のあやまちも少なくなるものだったりするのだろうか。

 カネがほしいカネがほしいモノがほしいモノがほしいという欲望社会は、知識がほしい知識がほしいという欲望と同じものなのだろう。知識や情報が優越や権力、進歩や競争へと人間を駆り立てる根本のものかもしれない。知をこのような側面から見るとき、はたして無条件で善とよべるものなのだろうか。

 歯止めや放棄はどこでおこなわれるべきなのだろうか。知識はどこからが善で、どこからが悪だと線を引けるものなのだろうか。知識の善悪論は考えてゆくべきなのだろう。

 ニュースやワイドショーといったものは人々のプライバシーを暴く。暴かれる人にとってはとてつもない悪だろうが、知を欲する人には知の歯止めはなく際限なく知りたがる。このような知識にタブーや道徳はさしはさめないものなのだろうか。

 心理学や社会学といったものも人々の行動や内面の意味を暴き、裸にするような側面のある学問である。「高級なワイドショー」といったたぐいのものといっていいかもしれない。人々の心をえぐりだすような知が果たして無条件に善なのかあらためて考えてみるべきなのだろう。

 人文社会科学の知識というのは道徳や倫理と抵触するものなのだろう。知識は道徳面からその暴走性の歯止めを考えるべきである。しかし学問は科学の客観主義に影響されて主観的な道徳や倫理がどんどん語れなくなっている。こんな歯止めのない知識は人間にとってほんとうに善なのだろうか。

 知識を全面的に悪だと見なす気はないし、これからも私は知識の追究をおこなうだろうが、反省なき知識もまた危険だと思うのである。知の暗黒面を見つめることは知を愛する者の義務にするべきだと考えたいと思うのである。








  知識の影響と弊害を考えてみる     2003/3/15


 知識はものごとの捉え方や考え方を変え、行動を変える。そのことがよいことなのか、悪いことに転がるのか、あまり考えたことがなかった。視野狭窄的に知識の狩猟だけに満足するのはおおいに問題だろう。知の結果も知識の責任の一端をになうものである。

 知識というものはけっこう視野が狭くなる。断片的な知識でものごとを決めがちになる。ほかの連関やつながりがどうも断ち切られるような気がするし、反対意見も希薄になり、学者の権威もてつだって思い込みや決めつけが激しくなりがちだ。世界はもっと流動的で、固定的ではないはずだ。

 私の読書の経験のなかで、ある知識がどのような影響を与えたのか批判的に考えてみたいと思う。

 大衆社会論は画一化、規格化する大衆を批判しているのだが、おかげで私は集団やグループというものが嫌いになり、孤立したり集団になじむのがかなり難しくなった。またこの知識はインテリの優越心をそそるものだが、私はそんな高慢な自我はもてなかった。けっきょくのところ、画一化の批判は高級消費の論理をつくるだけではないのか。

 共同幻想論は認識の虚構性を理解させてくれて、「絶対」を信じなくなったのはよいことだったと思う。「絶対」を信じる人はマルクス主義やナショナリズムのように危険になる。ただ絶対を信じれない人間は主義主張が声高に発せられなくなるから弱くなるとは思うけど。

 心理学や精神分析は差別と排除の権力を暗黙に支持しているものだと思う。精神異常者の排除の力は私の心を不安におとしいれたと思う。また交流分析などの親への批判は現在の問題を過去になすりつける問題の多いものだと思う。

 これらは人間の理解を助けてくれたが、精神の健康にはあまり役にたつものではなくて、自己啓発やトランスパーソナル心理学などの思考を捨てる知恵のほうが心の安定には役立った。心の知識には「理解」よりか、「How To」のほうが必要なのだと思う。

 トランスパーソナルやニューエイジ、仏教などの知識は、神や霊、信仰という現代ではタブーの領域にもふれているが、そういう世界を信じることはもはや私にはできなかった。癒しや心の安定の原理をそこから抽出するのみにとどめた。この世界を信じ、知人たちに話すと、かれは社会への適応を拒まれることになるのだろう。知識の受容と選別は社会適応の条件である。

 精神分析や社会学は人の心の内面を暴く「高級なワイドショー」のようなところがある。私はこれらの知識に「やましさ」を感じていたが、人の心を暴いてしまう後ろめたさがあったからだろう。人間の深層を暴いてゆくということは、モラルや道徳面としては許されてよいものなのだろうか。だから知識には教養への敬遠があるというよりか、暗黙のタブーがあるのかもしれない。

 ひところ私はビジネス書をよく読んだが、大恐慌再来論という恐怖にあおられたからである。大恐慌という恐怖は経済や文明への興味と「逃走」させたのである。いまではこのオオカミ少年はほとんど信じていない。ビジネス書は「理解」を助けてくれたが、経済的なことで実践的に活かせたということはほとんどなかった。私がHow Toモノを読まなかったということもあるが。

 西欧の知識には全般に権力を批判して自立した個人になることが理想とされているが、これは新聞やメディアによってしょっちゅう頭に叩きこまれるが、はたして批判や自立が世の中の生きやすさを加えてくれたかは疑問である。

 「反」適応をめざした知識が、たとえ進歩や向上をめざすという「大義名分」があるにせよ、社会に適応しなければならない無力な個人にそそぎこまれるのはあまりよい薬ではないのかもしれない。無力な民衆には高邁すぎる理想であり、分をわきまえた知が必要とされるかもしれない。メディアという安全地帯にいる人たちだけの特権だといえるのである。

 情報や知識を商売にする人たちは知識に責任を負わされるということほとんどない。知の弊害や汚染といったものは目に見えない。人を裁くという大それたことも報道機関では当たり前におこなわれるようになっている。メディアの人たちはなぜ自分がそこまで偉いのか、人や社会を批判する自分はそこまで優れているのか、責任を負えるのか、といったことにまったく無反省のように思える。たしかに言葉や知識という目に見えないものは神の地点から見下ろすことができるのかもしれないが、現実の関係のなかではそこまで強大な権力と裁く力をもった個人は存在しないだろう。

 知識や言葉というのは後にはなにも残さないからその影響や結果が反省されるということがほとんどない。しかし人の考え方や行動を変える力はかなり大きいのである。ある知識が人々にどのような行動の結果をもたらすのか、ということまで知識は考慮にいれるべきではないかと思う。そうしてその知識、説明体系は優れているものなのか、劣っているものなのか、人々によい影響よい行動、あるいはその逆をもたらしたものなのか、も考えてみるべきなのだと思う。知識の拡大や蓄積が無条件に善だなどという盲信はもうやめるべきなのだろう。








   知識と欲望とモラル      2003/3/21


 知識は無条件に善であるわけがなくて、やはり欲望の塊である。人より優れたい、勝ちたいという欲望と同じものである。金持ちや権力者になりたい、モノをもっともちたいという競争をひきだす欲望となんら変わりはしない。ただ学歴、頭脳信仰というべきものがあるから、批判の表舞台から隠れていられるだけである。

 知識ももちろん商品である。商品は売らなければならない。売れるためにはいろいろな仕掛けや戦略が必要になる。知識は不安や恐れを煽ったところにいちばん需要がある。

 医者は病気の恐怖を煽り、心理学者は正常と異常の選別不安を煽り、経済学者は大恐慌の不安を煽り、政治学者は奴隷の不安を煽り、教育者は無学歴の不安を煽る。不安にとりつかれた人たちは専門家に盲信するというわけである。知識産業は恐怖で儲ける「恐怖症産業」なのである。

 知識人は社会や政治の批判は山のようにするが、みずからの知識に対しての批判は驚くほどしない。商品は決してけなさない。かわりに「もたない者」の恐怖や侮蔑は煽りまくる。自社製品の批判を決して許さない企業と同じである。立派な産業者である。知識は絶対的な正義でも、公平中立の立場に立っているわけなどない。

 学校はよく自分たちの判断基準を国民に押しつけ、みごとに自分たちの支配力を強めたものだと思う。国語や数学や社会といった教科知識で、人の基準や価値を選別するという暴挙を、国民に納得させて浸透させたものだと思う。知識は神棚に祭り上げられるものだったからなのか。

 知識崇拝社会では知識がまっこうから批判されることはない。知識の蓄積が無条件の善である。金儲けやモノの欲望と変わりはしない。知識を批判することは表現や言論の自由を奪うことであり、つまり商売の邪魔を妨げるなということである。

 知識に制限を加えてはならないというのは欲望の無制限主義――自由主義と同じものであり、つまり産業主義と市場主義のことである。金儲けに歯止めをつけくわえるなという欲望の自由主義である。

 知識の無条件な信仰というのは、欲望の自由主義と競争、そして産業社会の下支えをしているのである。知識は広告に端的にあらわれるように欠如と欠陥の不安を煽ることにより、欲望と市場の拡大を喚起する基礎となっているものである。

 知識の無制限主義というのは欲望の自由主義と同じものである。欲望に歯止めをかけてしまえば、商売が成り立たなくなる。ということで社会から欲望を阻害する道徳や倫理、宗教というものがとりはらわれ、それらは煙たいもの、ウソっぽいもの、隷属させるもの、というレッテルが貼られるようになった。それらはおもに政治、権力の地平からの見方である。

 知識の新商品開発というのは批判にあたるのだろう。古いものを批判することにより「新商品」を開発する。そうして知識はモデル・チェンジをくりかえし、ただひとつの「真理」という中古品を捨て去ってきたのだろう。新商品は早くポンコツにすればするほど儲かる。

 知識の欲望が開花し、知識の蓄積や進歩が進むことは、われわれにとってより多くの幸福をもたらしたのだろうか。欠如と欠陥の不安を煽られて知識にすがりつき、知識の優劣や所有の競争を強いられ、また不安にさらされるという循環におちいったわれわれは果たして前時代より平安や幸福になれたといえるだろうか。

 また欲望が煽られることは幸福だといえるのだろうか。知識やモノを所有することは幸福といえるかもしれないが、欠如を知らない無知のほうが幸福のばあいもあるだろう。知識は「存在しない不幸」を新たに何度でも「創造」できるのである。

 欲望の自由主義だといっても、社会のモラルや倫理と衝突しないわけはない。ポルノ、暴力描写、殺人報道、芸能人のゴシップ、事件、事故を知ることはわれわれの興味をそそるが、暴走した知識欲は多くの人を傷つけ、暴力にさらしてきたことだろう。知識は善のみであらず、暴力でもある。道徳なき欲望の自由社会であっても、全面的に欲望が肯定されることは絶対にないのである。

 欲望の自由主義は人としての道徳や倫理と衝突するものである。それはとりわけ、フィクションやジャーナリズムでは顕著に目立つようになっている。知識というものは人々の倫理と抵触するものであるという自覚が必要なのだろう。また欠如や欠陥を煽る産業としての面にも、知識のモラルが問われるべきなのだろう。

 知識の無条件信仰という無邪気な態度はやめにして、倫理面から考えてゆく必要があるのだろう。もちろん幸福と平安という面からも考えなおされるべきである。反省なき知識信仰は知を愛する者の自己否定である。








    教養のカンチガイ      2003/3/22


 この高学歴の日本において教養がないことは恥かしいことでも、恐ろしいことでもなくなった。教養がないのはふつうのことで、教養をふりまわす人もいないし、教養がなければ友人の話題についていけないということもない。教養はほとんど権威も、権力もなくなった。

 過去や歴史と断ち切られたサブ・カルチャーがうけいれられるばかりである。新製品や進歩がもてはやされる社会では、歴史や伝統の重みをもった教養はひとむかしは先進的だった団地みたいに古ぼけたものに映るのだろう。

 この日本では教養は記憶力やものしりのことだとカンチガイする人がじつに多い。クイズ番組の答えなんかなんの役に立つ? これは学校教育の受験テスト方式にによるものだろう。暗記や記憶力の優れたことが頭のいいことだと思っている人がじつに多いが、そんなものは電話帳を丸暗記しているようなものでまるで役に立たない。

 このカンチガイがまだ学生だけならいいが、いいトシをした大人までが暗記力を教養だとカンチガイしているのはマズイ。教養というのは文化や歴史など生きた知識や経験を現実のなかで生かせることではないのかと思うのだが。電話帳みたいな記憶は社会や文化のなかでなんの役にもたたない。

 新聞やニュースの時事問題を教養だと思っている人も多いが、あれは教養だとは思わない。たんなるヤジウマ根性と烏合の衆にすぎないと思う。事件事故がおこれば下世話な興味で見物しにきて、終わればさーっと蜘蛛の子みたいに散ってしまう。これは教養というよりか、サーカスや大道芸の見物人にちかい。

 しまいにはニュースに新奇性をもとめて、人の不幸や事件を期待するようになり、センセーショナルで衝撃的な事件を待ちのぞむようになってしまう。大きく衝撃的であればあるほどうれしい、楽しい、興奮するという転倒した事態になってしまう。新聞やニュースが教養な社会は、事件事故をお祭りとスペクタルにしてしまう恐ろしく転倒した社会である。

 私はもっと日常や毎日の社会のなかに疑問や問題を感じることが教養の力だと思いたいが、これはあくまでも私の個人的な興味の方向にすぎなく、教養のすべてとはいえないだろう。私の興味の範囲はかなり狭く、芸術も物理学も数学も国際情勢も歴史も入ってこないから、私の教養はかなり欠けたものである。

 世間一般の人がもっと学問や研究に興味をもつことが教養のあることだと思うが、この日本では学問の暗記は賛美されるが、学問研究を実践することはほぼ称賛も関心も集めることはない。学問は人々の視界から消え去り、学校での暗記能力を測る基準とのみ使用され、学問は世間一般に知られることはほぼなくなった。

 学問はほんらい教養の中核をなすもので、社会での知恵や実践に役だたされることが学問の使命ではないのかと思うのだが。学問と世間の分断はなにによってひきおこされたのだろうか。世間が暗記力を教養だとカンチガイしたためか、それとも学問が世間の役にもたたない無用の産物になってしまったからだろうか。

 ドゥルーズやデリダ、フーコー、サルトルなどの思想家はカッコイイが、あまり世間で生きるための知恵にはなりえない。これはどちらかというと、舶来モノを見せびらかす人や輸入高級ブランドをもてはやす人とあまり違いはないのだろう。高級消費の流行である。しかも一般大衆には難解すぎて馬に念仏になってしまうから、むかしの外国語を唱えた坊さんみたいに役に立たない。

 一般の人たちが好きなものといえば、映画にJ-POPにマンガにテレビというサブ・カルチャーになるのだろうけど、これらももちろん教養である。今日的な教養である。生きる知恵や勇気、癒し、伝統や文化を教えたり、情報を伝えたり、といった教養の役割をまるで果たしていないというわけではない。

 ただこれらの教養には批判能力や言語構築能力が決定的に不足していると思う。社会を全体的に批判的に見るという能力はつちかわれないし、言葉や思考を強靭に粘り強くつなげてゆくという能力もつくれない。

 映像文化にはそれなりの魅力と必要性はあると思うのたが、言語−思考能力が欠けてしまうのは否めない事実である。教養は言語・思考能力に多くを負っているものである。やはり思考能力は読書と文章作成からうまれるものである。また映像文化には物語が多いが、物語と演技の陶酔性をつくってしまい、客観性の養成には問題があると思う。

 批判や思考能力を養うことは、消費産業にだまされたり、踊らされたりしない堅実な人をつくるのに役立つ。サブ・カルチャーの一方的享受になるだけなら、無批判の踊らされる愚かな人になるだけである。産業の戦略に乗せられていい気になる人を生むだけである。教養はそういうことを峻別できる能力を人々につちかってほしいものである。

 教養というのはただ物知りなだけではなく、やはり倫理や道徳、人格の優れた者になることが理想であってほしいと思う。教養は人格を磨くためにあると考えたいものである。

 ただこういう教養主義はウソっぼくて、欺瞞である懐疑がつきまとう。人格の優れた人は名誉や称賛がほしい強欲な人であることが見抜かれてしまうからだ。そういった名誉欲をのりこえられることに教養は役立ってほしいものである。




■030329断想集
 知識害悪論





   知識人の野心と権力欲     2003/3/29


 知識人は真理がほしいのだろうか、それとも権力がほしいのだろうか。また人類の進歩や幸福のために尽くそうと思っているのか、それとも自分の名誉や権力のために知をもとめようとしているのだろうか。

 知識人による二十世紀までの暴虐と殺戮の結果をみると、人間の知性と知識人を好意的に崇めるのは甘すぎるといわざるをえない。

 かれらはたしかに人類の進歩や幸福の大義のためにおおいに尽くしたのかもしれないが、その結果をながめてみると惨澹たるものである。実行者が悪かったではすまされず、知識に内在する論理の結果と考えるべきである。

 知識人はこれまでの社会を否定し、自分の奉じる思想は社会を変革できると信じていた。ものすごく放漫で、不遜な考えともいえる。そんな資格や権利はだれから与えたのだろうか。自己の知性にいっさいの懐疑をもたない尊大な自己と権力欲からうみだされたのではないか。

 自己の思想を信奉しきっていたのである。知性の万能を信じていたのである。そんな過信をうみださせるものといえば、やはり自己に対する過剰な自尊心と権力欲ではないのか。

 偉大な思想をうみだす原動力となるのは、やはりその個人の権力欲や名誉欲だろう。自己にその資格や権利があると考える。だから権威ある思想はうみだされる。自己にその資格があると思わないものはそんな大それた思想はうみださない。知識人の権力欲を疑ってみるべきである。

 もちろん偉大な思想というのは本人の思想よりか後世の人たちの評価により部分が大きい。ただそれは後世の知識人がみずからの権力欲の必要性から崇めたてるものである。みずからの権威を強めるために旧時代の先駆者を狩り出してきた科学みたいに。

 知識人は社会の支配をめざしてきた。軍人や富裕者による支配を転覆しようとこころみてきた。ルソーやマルクスは知識人による社会支配をおしすすめた。知性の万能を信じて理想社会は設計できると考えたのだが、その社会で暴虐と殺戮は大量におこなわれた。人間の知性に内在する結果だと考えるべきである。またはその思想家に内在した暴力性がうみだしたものだとも考えられる。

 知識は暴力や競争をうみだすものである。自分の考えが正しいと思えば、ほかのそれぞれの正しいと思う人との衝突や論争、いさかいが必ずうみだされるし、それに国家や軍隊の権力が付与されれば、弾圧や殺戮に結びつくのは容易なことである。

 正義はそうでない正義をうみだしてしまうためにたえず暴力をうむ。知識よりか、言葉にそなわった性質である。言葉はひとつのことをさししめすと、ほかのことを必ず排斥してしまうから、たえず敵対の契機をうむ。

 また知識は記憶力や独創力の優劣や序列をうみだすから、競争をひきだす。自分のほうがエライ、物知りだ思い、他人を軽蔑し、見下す。競争はあらそいやいさかいの火種となる。この知識の階層序列は今世紀の人間評価のシステムになっている。知識人の序列システムが一般大衆まで敷衍されたわけである。

 知識の正義と競争の論理のうえにさらに個人のはてしない権力欲が加われば、知識ははげしい権力争いへとなだれこんでゆく。われわれが手にすることになる知識にはどんな強欲や貪欲さの垢がついているか知れたものではない。

 近代の知識人というのは、科学による客観的知識信奉のためみずからの倫理性や道徳性を問われることはほとんどない。ヨーロッパ中世の聖職者のような禁欲さは要求されない。それでも聖職者はさいごには権力欲や強欲を露呈させていたのだから、近代の知識人ははるかに貪欲さの歯止めをもたないだろう。

 われわれは知識人の思想の陰に権力欲や強欲さをみいだし、その思想を警戒したり、割り引く考えをもつべきなのだろう。強い権力欲をしみこませたものほど既存社会との衝突ははげしくなるだろうし、また人々を強烈に熱中させるものはないだろう。だから危険だといえるのである。

 知識はその人と成りからうまれたものである。その人の性格や権力欲、嗜好などがまったくしみこんでいない知識などやはり不可能だというべきだろう。その知識に影響を受けたものはその欲望や無意識に応じた復讐や報復をうける。知性や知識人の信奉は警戒すべきなのである。







   権力のために知識はもとめられるのか?      2003/3/30


 知識には権威と権力がそなわっている。デカルトやカント、ルソー、ニーチェという名前に権威がないわけがないし、かれらが発した言葉や引用する言葉に権威がそなわっていないわけがない。

 人は権力が欲しいからかれらを崇めたてるのか、真理が欲しいからなのか、どちらなのだろうか。目的が真理で、のちに権力があつまるのか、それとも権力がまず先にありきなのだろうか。

 私が本を選ぶさいもやはり権威を先にみる。正しいとか論理的に納得できるということよりか、権威のあるなしで本を選ぶ。人がある考えを認めるさいも、正しいかそうでないかを検証するまえに、権威だからという理由でその見方をとったり、信じたりするのがふつうだろう。論理は権威のまえでは風前の灯火である。

 自分のことをかえりみれば、私はずいぶん権威に弱い。権威ある思想家、学説に飛びつく。フーコー、ドゥルーズ、デリダなどの流行思想家は権威の塊である。もちろんかれらは人々に認められているからこそ権威がある。それでも真理や鋭い見方を手に入れたいというよりか、権威や権力がほしいとの見方はできる。知識を手に入れたいというのは権力欲のことなのだろうか。

 世界の「正しい」見方を手に入れたいのか、それともただ「権力の安心」を得たいだけなのだろうか。権力を身にまとうことにより、自己の安定や優越心を得たいだけなのか。

 これでは官公庁や大企業の権力に入ってぶら下がりたい人の心理とかわりはない。ヴィトンやエルメスのブランドをもちたがる人の心理とかわりはない。ただ知識は財界やファッション・ブランドより格が上だということで、それはつまり、より格段な権力欲の発露ということになる。

 私はむかしから実際的な経済や政治の権力にはほとんど興味がなかった。かわりに映画や音楽、マンガなどの権威には弱かった。こういうサブカルチャーの高級品を志向することにより、私は商品としての権威を買い求めていたのだと思う。それが昂じていまでは思想や知識の権威という商品を買いあさっている。経済や政治の権力は商品として売っていないから、実行力のとぼしい私はそれらで代替するのだろう。

 知識欲というのは権力欲のことなのだろうか。知識がほしいというよりか、権力がほしいのだろうか。

 人間はだれもが権力がほしいのだと開き直ることもできる。大企業に入ったり、ブランド品を手に入れるのも、権威や権力というカサのしたで安心を手に入れるためだ。知識もそのひとつにすぎないのだろうか。だとしたら知識という欲望に手放しの称賛を送ることはできない。それが人の不安や恐れをかきたてるような欲望ならなおさらだ。

 知識の権威は人を強烈なヒエラルキーに位置づける。学歴もそうだし、頭のよい悪いという基準、知識のあるなしで人は評価されたり、見下されたり、軽蔑されたりする。権威や権力のしたには侮蔑や差別が必ずある。知識はそのような選別の権力を身につけさせたり、行動の自由や嗜好を奪うこともできる。

 だから私は読書がやましい。私は人を見下したり、批判したりする対人関係をとりむすびたいとは思わない。しかし読書や知識の優越心は人を序列におき、見下す関係をつくってしまう。私は自分の知識による権力欲というツメを隠したいのである。

 なるほど権力欲や名誉欲というのはよけいな心配や不安をつくってしまうものである。老荘や仏教が知識の無用さを説いたのもわかる。人より勝とうとしたり、強くなろうとしたり、見下そうとしたりしようとすると、人との衝突やいさかいがはげしくなる。心の平安にこれらの欲望は障害になるばかりである。勝つことより、負けることに平安をもとめたほうがよいだろう。

 ただ現代は心の平安より、社会の進歩や競争に価値が認められ、それが人類の発展に貢献すると思われている時代である。権力欲や欲望はどんどん開花させることが進歩だと思われている。そういった時代というのはまるで人々の心の平安を無視して、争いや競争を推奨しているかのような社会である。人類の進歩より、人々の関係と心の平安のほうが重要だという時代はそうかんたんにはやってこないだろう。争いの原動力が断たれることはないだろう。

 私は心の平安のほうを目標にしたいが、知識欲をかんたんに捨てられるかはわからないし、おそらくまだ捨てる気もないだろう。知識欲にひそんだ権力欲というものから、知識欲の原動力を再検討したいだけである。もしそれが権力欲のなにものでもないとしたのなら、あつかいかたはそれなりにかわるだろう。 

 ただ権力欲というのは自分の心には権力がほしいというすがたをとらないからやっかいなものだ。真理を知りたい、世の中や人を変えたい、いいモノをもちたいというかたちをとり、それが権力への意志だとは気づかない。もし知識欲も権力欲のすがたをかえたものだとしたら、私は知識への信頼と興味のありかたを変えなければならないだろう。







   知識の危険な部分       2003/4/6


 知識には危険な一面がたくさんある。一般の人たちの無教養さにはそういう知識への警戒心があるのだろう。

 一般の人たちのあいだでは右翼や軍国主義、天皇制の話題には触れたがらないし、社会主義運動や過激派の活動の影響から政治の話さえ近づきたがらない人も多いし、新興宗教にハマるのもタブーである。人々はそういう知識の危険な面から逃げたがっているのだろう。思想的な危険な人物に思われたくないのである。

 しかし無教養が正義であり善であるというのは行き過ぎである。知識を超越したうえでの無知ならりっぱなのだろうが、無知の無垢さを信じた戦略はただの愚かさの正当化にしかならない。知識の無条件の信仰も危険だが、知識のない無知蒙昧も同じように危険である。

 知識にはリテラシー能力や倫理が必要なのだろう。触らぬ神に崇りなしではなくて、知識の取捨選択能力がもとめられるのだろう。ある見解や解釈をとったおかげで、どのような影響や結果がおこるのかを見越した上での知識選択がもとめられるのだろう。むずかしいことだが。

 人々に危険な知識と思われている代表は政治思想だろう。街宣者は走るし、敵対者は刺されるし、爆破テロ、数々の闘争や大量殺戮で知られる社会主義運動などが、人々の警戒心を誘う。まあ、権力の階層とはそういうものなのだろう。

 政治思想が危険になるのは、支配をめぐる権力争いだからだろう。民主主義や社会主義思想のおかげで一般国民もその桧舞台に上がれる幻想が訪れた。争いは熾烈を極め、貴族や武士の内輪もめで終わっていたそれは国民全体にまで拡大された。

 民主主義や社会主義は知識人がうみだした思想である。地位も低く、食うにも困っていた知識人が、カネと権力を握ろうとした野心のおかげでうみだされたともいえる。政治や経済や国民、旧来の権力層もコントロールできるとしたその知性万能主義は、数々の犠牲者や大量殺戮をうみだしながら、二十世紀末に終焉をむかえた。しかしその残滓はまだまだ多く残っており、知識屋の反省はどれほど深くおこなわれるのだろうか。

 人権、平等、民主、福祉などの博愛主義はたいそうすばらしい言葉だが、保守主義が批判するように全体主義をもたらしてしまうものである。国家権力があまりにも肥大しすぎるためである。人間の社会を支配するには人間の知性はあまりにも貧弱すぎて、人為より自然にまかせたほうが賢明である。まるで老荘思想みたいである。知識人はおのれの知性の限界を悟り、過信を戒めるべきなのだろう。

 教育はどうなのだろう。教育は知識自体を目的にするのではなく、知識を人物評価の道具にしてしまった。選抜、断罪システムとなり、人々の階層と差別体系をせっせとつくりだしてしまうのみになっている。人々の無教養主義に一役買うようになっている。このような教育知識は、知識の名を汚している。

 精神分析は人間心理の深い闇を照らすものと思われているが、これも断罪や差別システムに一役買うようになっている。精神科医はその存在ゆえに病名をふやし、病気の範疇と患者のマーケットをひろげてしまう悪作用もつきまとうものである。またすべての問題を個人の心理のみに押し込めてしまうがゆえに社会順応主義のテクノロジーにもなりうるので、精神分析には強い警戒が必要だと思う。

 危険といえば進化論もずいぶん冷酷無比な理論である。適者生存、弱肉強食、自然淘汰という説はビジネスの過酷さを正当化させる。それが社会ダーウィニズムみたいにひろがりを見せれば、優生思想などもうみだされる。この思想に救いや憐れみはあるのかと思うが、福祉や計画経済の限界が露呈したように、人間の限界もあらわしているのだろう。

 知識といえばテレビもショービジネスになったり、センセーショナリズムになり過激化したり、断罪の権力を手に入れたりといろいろ問題があるし、アニメは少女への性的幻想へとたえず吸引されているし、ポルノも性の商品化をひきおこしたりとさまざまな問題がある。

 テレビや雑誌の多くは企業の宣伝・広告屋であり、政治、権力批判はくりひろげても、企業社会や消費社会への批判能力はおそろしく劣る。消費社会への肯定・礼賛思想にあふれており、この批判能力欠如はキケンな域に達しているといえるだろう。批判、悪口を口走ることのみが正義だとは思わないし、社会肯定は人間の長所をひきのばすことに貢献すると思うが、この無反省ぶりは頭をなくした人間みたいで不気味ある。

 知識は人類の貢献や遺産といった善的な面ばかりではなく、やはり悪や危険な面もたくさんあるというのが事実である。知識人も無私無欲の貢献者ではなく、やはり野心や権力欲、名誉心の強い強欲で貪欲な性質がひそんでいないともいえないだろう。職業人、商売人としての性格がないわけもない。知識の環境汚染チェックや品質・欠陥評価、倫理がおおいにもとめられるといえるだろう。







    知識人は没落すべきである        2003/4/12


 本を読まないとダメだとよくいわれるが、本にはたいして実益がない。だからみんな本を読まなくなって、ロックや映画やマンガ、テレビのほうをおおいに楽しんでいる。こちらのほうが多くの人にとって有益なのである。

 本を読まないとバカになるというのは知識人の商売道具が売れなくなるのは困るということである。著作者や出版社、新聞社、教育者の価値が下がり、食っていけなくなるから、無知な人をバカにして不安を煽って、活字の価値を高めようという商業戦略なのである。

 書物や活字に権威があったのは、民主主義や社会主義、経済管理などに知識人の手腕が期待されたからである。知識人は政治や経済のユートピアを自分たちがつくれると豪語し、食えない自分たちの職業を花形産業にし、権力の中枢にすえることに成功し、知識の先兵である教育者を社会に充満させたのである。

 知識人と教育者は近代の大躍進産業である。政治、経済、教育と社会のすべてにわたっての商業独占権を獲得した。しかしかれらの大成功は社会主義の大量虐殺、民主制の総力戦戦争、経済統制・福祉主義の破綻などのさまざまな惨劇や失敗をもたらし、その壮大な空想の産物と知性万能主義は音を立てて崩れた。

 もはや活字による知識産業は没落した。人は過大な知性支配の夢を捨て去った。書物や学問に過大な夢をもたなくなった。おそらく昔の人がそうであったように人々は日常の生き方や楽しみを教えるロックやマンガ、映画などの狭い世界に帰ることになった。

 本を読まない、世界情勢を知らないと嘆くのは知識産業者の最期のあがきである。権威の失われた活字・学問産業の攻撃宣伝である。多くの人にって本を読まなくとも、世界を知らなくとも、いっこうに平気だし、困ることもないし、人生が楽しめないということでもない。

 もはや知識人の壮大な大風呂敷きにはだれもついてゆかなくなった。かわりにサブ・カルチャーや車、恋愛、ファッション、グルメなどの楽しみはいくらでもある(それに付随して持たない脅迫力は激しいが)。知識が欠けていたところで人にバカにされることはないし、ぎゃくにクライ、アブナイとバカにされるだけである。人生の価値や目標はさまざまで、知識人が格付けるヒエラルキーなどほぼ脅迫力がない。

 だからといって知識人が没落しきったわけではない。教育者という知識人が全国隈なく存在し、人々を学問知識によって選別、差別づける体制をつづけている。知識人はいまでも人の選別と人生コースを支配している。この巨大な知識人の恐竜は今後倒れることがあるのだろうか。

 私個人は読書と学問の楽しみは知っているつもりである。しかしこの知識がどれほど実益に結びつくのかは疑問だし、知識を追究する楽しみのみに終わってもよいと思っている。つまり愛知者は社会を知性で支配する夢を手放して、奇特で変人的な学問の趣味に帰るべきではないのかと思うのである。そのほうが安全で謙虚で自然な学問・知識のすがたではないのか。

 学問に興味のない学生に資格取得のためのムダな知識を教えるより、知識は少数の変人の楽しみに帰ったほうが健全ではないかと思うのである。オタクの領分に帰るほうがマトモではないかと思う。知識は権力欲や商業欲などによってあまりにも大風呂敷きを広げ過ぎて、ムダなものをとり込み過ぎではないのか。謙虚に、知性とおのれの限界と害悪を自覚すべきではないだろうか。







   批判は世の中を生きやすくしたか?       2003/4/20


 思想書や学術書の多くは批判でなりたっている。マスコミもジャーナリズムも多くが批判を語る。批判は権力や現状社会の改善や向上に役立つし、目からうろこが落ちるような視点を与えられるので私も好きだが、批判に問題がないわけでもない。

 恨みつらみや不平不満をかこちつづける人間がしあわせなわけがないし、現実や適応を拒否しつづける人間をつくってしまうし、また社会や人々を批判することでヘンな優越感をもたせたりするし、批判することが知識の役割だと思いこんだりしてしまう。

 人の悪口や陰口をしじゅう叩く人はあまり気持ちよいものではないし、褒められたものでもないし、自身が不幸で悲惨で壮絶である。しかし学問やマスコミにかんしてはそれが正義や義務だと思われてきた。そんな陰口叩きがわれわれの知識の指導者であってよいものだろうか。

 自分が毎日顔をつきあわなければならない人たちの批判や非難をしじゅう抱きつづける人間はずいぶんと苦しい毎日を過ごさなければならないだろう。息苦しい毎日がしあわせなわけがないし、適応や順応がむずかしくなり、環境から滑り落ちて、落ちこぼれてゆくばかりだ。

 学問やマスコミが批判をおもな仕事とするのは改善や向上、進歩をめざしているからだろう。欠陥や欠点をあぶりだすことはたいへんに重要な仕事だ。しかし現実を拒否し、拒絶し、否定する心性をただつくりだすとしたら、こんなにメイワクでつらい仕打ちはない。

 批判は改善と結びつくときのみ効用があるのだろうが、それが不平不満と恨みつらみの日々を蓄積するのみとなるのなら、批判の効用はかなり疑わしい、というよりか害悪のみである。

 西欧に遅れて近代化をめざした日本は西欧と比較しての後進ぶりをしじゅう宣伝してきた。知識人やマスコミはそれを指摘するだけでりっぱな仕事をしていると思いこむようになっている。知識人は西欧の輸入品の絶賛を広告し、日本品を叩く輸入商社の役割ばかりしてきたことになる。車や家電の世界的レベルにくらべて知識はかなり劣っているのだろう。

 谷沢永一はそういう進歩的文化人を国賊だとか売国人だとか悪魔の思想だとか罵っている。西欧との比較において日本と国民を罵り、侮蔑し、軽蔑する知識人は許せないということだ。(『反日的日本人の思想』『人間通でなければ生きられない』PHP文庫)

 たしかに批判ばかりする学問やマスコミの話ばかり聞いていると、日本はとんでもない遅れた国で、非近代的で非合理的で呪術的で村社会的で権力迎合的で、国民は無知で無力で自由がなく平等がなく搾取抑圧されている悲惨な人民ということになる。知識人の言説は救いがない気持ちにさせる。

 ただそれを谷沢永一のように国賊だとか売国奴とか罵ったり、一方的にそういう面からしか解釈しないのは行き過ぎのように感じる。批判は近代化の改善や進歩のためになされるのは常識や自明の理であり、国を破壊したり売るためのものでないことはだれもが了解しているだろう。

 しかし知識人の批判はずいぶんとこの国を暗い、陰鬱なものにしたことだろう。いくら改善や進歩をめざしてのことだといえ、現実や社会をそのようにかたどるということは、われわれの社会観はおおよそそれらによって決定される。批判は改善より現実の醜い姿をわれわれの頭に刻印するばかりである。震え上がり、絶望し、諦めるしかないだろう。

 人間はずいぶんと批判がお好きのようである。劣悪視し、侮蔑し、軽蔑するのが大好きである。それによって優越感がめばえたり、知的に感じたり、正義や公正の感情が満足させられるからだろうか。商業としての学問やマスコミはそういう国民の心情に徹底的に迎合したといえるだろう。知識産業は怒りや恨み、不平不満のカタルシスを売る商売なのだろうか。恨み産業。

 批判が正義で知的なのなら、この世を肯定する姿勢はかなり育ちにくくなる。社会や世界を肯定することは、自分を認めること同様、人生の幸福と安寧にとってかなり重要というか、必要不可欠のものである。自分を認めることによって人生も世界も幸福なものになる。自身や他者、世界を批判、否定しているようなら幸福になれるわけがない。

 しかしそこが進歩史観とひっかかるところなのだ。肯定すれば、欠点や弱点からの改善や向上がのぞめなくなる。だから自分も社会も世界も認めてはならないのである。欠点や欠陥を見つけ、改善することが進歩と幸福の道なのだと考える。現状肯定はこの世界や自分を低いままにとどめると考えられているのである。

 ただ人間というのは欠点を叩いてもあまり進歩はのぞめないものである。長所をのばさないと伸びるところもない。こういう長所をのばすという志向が知識産業には劣っていたといえるのである。

 しかし長所を肯定するということは、敗戦によって罪悪史観に染まった日本にとっては危険なナショナリズムに結びつくということで御法度になった。日本を自慢してはならないのである。そうすると右翼や軍国主義になると怖れる。この警戒はもちろん必要であるし、自慢や増長する人にたいする不快感もわれわれには強い。

 でも批判や否定ばかりでは人はしあわせになれないし、醜悪な世界観をつくりだすばかりである。批判は割り引いて捉えなければならない。批判の世界とはまたべつに肯定する世界もつくらなければならない。人生を楽しみたいと思っている人は批判や否定ばかりに心をわずらわされないだろう。かんたんな人生のコツである。あまり批判ばかりに心が奪われないようにしたほうが賢明というものである。







   学問・マスコミは悪口商社なのか?      2003/4/24


 人の悪口ばかりいう人は醜い。人の悪い面しか見れないし、自分はそんなに聖人君子なのかと思うし、人を悪し様に罵る様だけで性格の悪さがもろ見えである。だから私は人の批判は嫌いである。

 だけど現代思想や社会学を好んでおれば、知らず知らずのうちに社会批判の知識ばかり頭に入ることになる。いく年かの読書のうちに私の頭は社会や人々の悪口や陰口ばっかりでいっぱいになっている。社会科学というのはたんなる人の悪口の高級品にしか過ぎないのかと思える。

 権威ある知識は批判ばっかりである。マスメディアも批判ばっかりしている。権威ある知識をありがたがっていると、批判ばかりの恨みつらみの不平不満家になってしまう。

 知識人が批判をおこなうのは改善や反省、よい社会よい生き方をめざしているからだと表向きには考えられる。しかし言葉や本は行動でも実践でもない。結果も責任も問われないたんなる垂れ流しである。だれかから嫌われたり、険悪になったりすることもない。

 批判というのは人を高みに立たせる。優越感を満足させるものである。自分は人と違うんだぞ、愚かな大衆ではない、愚昧な行動はおこさない、物事を高所からより冷静に鋭利に見られる、と人の自尊心をくすぐる。社会批判の根底にはこのような人をけなして下位に置くことで得られる優越感がある。

 人をけなして得られる優越感には欠点がある。自分はなにもできなくなってしまう。自縄自縛になってしまうのである。あれもこれもしてはならない、できないと自らを縛りつけてお地蔵さんになってしまうのである。なるほど書斎の賢者は一歩も外に出れない。理性の賢者も同じである。

 大衆社会をけなして消費社会をバカにして管理社会を批判して権力を煙たがれば、自分はその圏内に属さない優越心は得られるかもしれないが、社会に適応することも人生を楽しむことも無邪気に生きることもがむしゃらに邁進することもできなくなる。

 批判というのは拒否であり拒絶であり否定である。ありのままを受けいれて肯定的に生き、人生や世界を愛することの拒否である。かれはこの世界の楽しみも喜びも愛も拒否するのである。世界を嫌い、否定し、呪い、不満の塊になるのである。

 かれは改善や進歩がいつかやってくればいいと考えるだろう。しかし完成までにはタイムラグがある。おそらく永遠にその時はこないだろう。批判は世界の拒否だからである。世界の否定なのである。現在を拒否すれば永遠に肯定できる世界は手に入らない。

 批判から得られる優越心や自尊心にはとんでもない代償が必要である。自己と人生と世界の拒否である。かれは世界を楽しめない。世界を受け入れられない。呪いと恨みと憤りのなかで人生を生きることになる。

 学問やマスコミは批判ばかりをわれわれに植えつける。その知識をうのみにし、そういう見方こそが正しいと思い込むようになれば、われわれは呪いと恨みの塊と化してしまう。アンチや反対、NOばかりを唱えることにしか自分の存在価値を見出せなくなってしまう。

 「正しい、あるべき」世界を目の前にぶらさげているのかもしれないが、いま現在のかれのすがたは罵り、文句ばかりいうたんなる不満家のみである。人の悪口や陰口ばかりたたく人と同じように醜く、信頼できない。

 学問やマスコミは人を罵り、バカにし、蔑む人ばかりである。そしてこういう人たちがエラクて、ありがたがられて、ふんぞりがえっているというのは、なんともヘンな社会である。悪口をいって「すっきりさわやか」恨み呪い解消産業なのか。「あるべき、正しい」社会というお題目がなくなれば、かれはたんなる罵詈雑言の輩にしか過ぎない。

 人生の姿勢としては罵らず、恨まず、怒らず、悲しまず、この世界を受け入れ、肯定的に楽しみ、積極的に喜びを見いだす人のほうがよりよき人生を生きられるのではないか。拒否よりこの世界を受け入れ、よきところを伸ばす姿勢のほうがはるかに人生としては好ましい方向ではないのか。

 批判や改善の必要性がないわけではない。ただオリの中からだれかの悪口をヒーヒーいいつづけるのはよき人生からほど遠い。批判しても世の中は変わらない。言葉は空回り、虚空に消えるだけである。恨んでいるうちに人生は終わる。世界を肯定することから出発する知識のほうがもっとも重要なのではないかと思う。

 学問やマスコミはなにを売ってきたのだろうか。恨み呪いの解消や発散、解毒剤、またはけなすことの優越心、自尊心? こんな商品ばかり買いあさっておれば、醜い不平不満の中毒者になるだけである。世界を肯定的に受け入れる姿勢の商品のほうがよほどよい。






  ポジティヴ社会観、ネガティヴ社会観     2003/4/29


 一時期、ポジティヴ思考という考え方が流行ったが、その考えにならえば学問やマスコミはネガティヴ思考一辺倒ということになる。悪いこと、劣ったこと、醜いこと、そんなことばかりほじくり出している。

 学問やマスコミはネガティヴ思考の病魔にさいなまされているのだろうか。重症である。というか、それが正義であり、義務であり、仕事と思い込んでいるようだから、重症の自覚もない。自分たちが悪口、陰口、罵倒ばかりしている不満家という自覚もない。

 改善や進歩、正義をめざしての言論であることにはウソいつわりはないのだろうが、それによって世界観、社会観を形成される私たちはずいぶんと陰惨な世界観を植えつけられるものである。

 人殺しはあちこちに起こるし、政治家や官僚は腐りきっているし、大企業も不祥事だらけだし、西欧にはいつまでたっても遅れているし、企業には希望がないし、学生の学力は低下しているし、日本経済はがたがたである。

 事実であるのだろうが、これらもものの見方を変えればポジティヴな解釈を描くことはいくらでも可能である。悪いことは無視したり、矮小化したり、よいことばかり拡大解釈することもできる。

 戦後のマスコミや学問はずいぶんとこの社会をネガティヴ一色に染めあげたものである。マスコミや学問が世界をネガティヴ色に塗りつぶしたから、われわれには希望も夢もなくなったとも考えるのは拡大解釈しすぎか。もしそれが知識産業の仕事と必然的な帰結とするのなら、情報社会の功罪も大きいというものだ。

 知識産業がネガティヴ思考に染まるのは改善と進歩をめざしてのことである。目はそちらを向いているはずなのだが、じっさいは悪口と罵倒のみに完結する醜い人に堕している。

 知識人は行動や実践をまったく伴なわず、責任も問われないから、文句や裁きはいくらでも安全地帯からおこなえる。当事者でないから部外者の特権としていくらでも文句と講釈はたれられる。卑怯で放漫な人たちである。かれらがもし当事者として行動したのなら、同じ過ちはおこなわないと保証できるのだろうか。この点には反省が必要である。

 知識界がネガティヴになるもうひとつの理由はポジティヴ社会観の危険性を戦時中に経験したからだろう。社会がポジティヴに表象されれば、軍国主義や侵略主義、民族主義などの自文化優越主義があらわれて手がつけられなくなる。現代でいえば北朝鮮のプロパガンダやスターリン主義のような全体主義に究極のポジティヴ社会観があらわれているといえるのだろう。

 ポジティヴな社会観というのは、意外や他国や国民を危機に陥れる危険なものである。その反省から戦後の日本は国家や権力のネガティヴ・キャンペーンに必死になり、ポジティヴ・キャンペーンを厳重に警戒してきた。

 社会のネガティヴ観は向上や改善の意欲や原動力をうむ。しかしその反面、怒りや恨み、嫉妬だけの人間や世界観をうみ、不平不満の人生と毎日になってしまうという悪い面もある。劣った部分、悪い面、いたらない点、醜悪な部分しか見えなくなり、世の中を嘆き、呪う悲惨な人ばかりをうみだしてしまう。ネガティヴが正義の世の中は、不平不満家の繁栄と増殖をほめたたえる社会である。

 人生において不平不満をかこちつづけることは不幸で悲惨なことである。世の中のよい面、すばらしいこと、楽しいことに目を向けられない人間はやはり悲惨な人生である。拒否と否定、拒絶の人生は、みずからの人生の破壊といえるものである。

 しかし知識界というのはどうも批判や否定、ネガティヴがお好きなようである。それが正義や権威、真理、正統なものとまかり通っている。正義や権威を信じると、それが実現されないからと、われわれはずっと世界を呪うことになる。正義や理想を信じることは、究極的には不平不満家になることともいえるのである。

 知識を選択する基準が必要なのかもしれない。その情報を仕入れたとき、不快になるか、快になるかの基準をもったほうがよいのかもしれない。正義や理想を基準にするのではない。その知識を抱いた結果、現時点において自分の心情は晴れやかになるか、不快になるか、を基準にするのである。

 ネガティヴな面ばかりに目を向けるのは人生の破壊であり、損失である。怒りや呪いに縛られた人生ほど苦痛に満ちたものはない。賢明な人生の選択としては、そんなつまらないことに人生の時間を費やしてはならないのである。それは人生観だけではなくて、社会観にもいえるものである。

 思えば私もずいぶんとネガティヴな世界観を身につけてきたものである。たぶんネガティヴが正義であり、賢明であり、正統であると思い込んできたのだろう。しかしネガティヴは自虐的であるし、自分の人生や幸福を阻害する経験をいくつか重ねてきたような気がするし、ひるがえってみるのなら自分の人生の幸福や楽しみをひとつひとつつぶしてきたように思える。

 極端にポジティヴに行き過ぎるのはまちがいだろう。ネガティヴな知識がもたしらた姿勢と態度を客観的に反省してみる必要があるのだろう。正義や権威の知識ではなく、態度や気分が重要なのである。世の中を呪い、恨むようになる知識ははたして正当な知恵といえるのだろうか。

 ただポジティヴ社会観にはやはり警戒心がある。愛国心、民族主義、ナショナリズム、自文化優越主義――ポジティヴ社会観の結末がこれしかないとするのなら、かなりの注意が必要である。極端から極端に揺れ過ぎるのはよくない。いまはネガティヴ社会観のおぞましさを察知できるような目をつちかえればよいと思っている。自分の人生の幸福と楽しさという点から社会像は捉えられるべきだと私は思うのである。






    読書人の陥穽       2003/5/7


 権威ある知識というのはけっこう悪口の高級品が多い。人をバカにして優越感を抱くというものだ。人をけなすことが高級な知識と思い込むようになるのなら、とんでもない転倒というものだ。品性の低い、下劣な人間になるだけである。

 読書というのはいい面ばかりではなく、やはり悪い面もたくさんある。その面も警戒しないと、知識の蓄積はたんなる悪業のつみかさねになるだけだ。

 知識の蓄積が思い上がりやうぬぼれ、ごう慢さを生みだすとしたら、読書はあまりほめられたものではない。それが人をけなしたうえでの優越感から派生するのなら、なおさらである。読書人はこういう陥穽に気をつけなければならない。

 知識のない者からすれば、知者はたえず自分の無知を告発し、不安にさらし、羞恥をもよわし、恐れを呼び覚ますものである。人間の知識欲にはじつはこの人を見下す欲望があり、人を劣位におき、序列にはめこむ願望があるのかもしれない。このような優越願望の陥穽には警戒すべきである。

 人間の知性の限界もわきまえるべきだ。人間の知性がなんでもかんでも支配・制御できると思い上がるのは、社会主義の無残な失敗から学ぶべきだ。絶対や真理を主張するのも対立を生み、人間社会においては危険だとみなすべきなのかもしれない。

 読書は人を賢明にしてくれるのかもしれないが、他人の醜くて悪い行いを反省すれば自分はなにもできなくなる。他人の行いの批判や否定は自分の自由や自然さの否定のようなものである。言葉はほんとうに賢明さをかたちづくるのか疑わしく思える。

 人間行動の分析や観察はなぜか拒否や否定に傾きがちだ。分析した人間行動を読めば、それを拒否する気持ちがわきあがった。愚かさを拒否すれば、自分はほんとうに賢明になれるのだろうか。ただ自分の束縛や拘束にしかなっていないのではないかという気がする。

 人間の愚かさははじめから否定するのではなく、その愚かさを容認したり肯定しなければならないのではないか。拒否から生まれる賢明さは、行動と実行のない虚偽のものではないかと思う。概念による自己の抑制はほんとうに賢明なことなんだろうか。

 他人の欲望を否定するということは自分の欲望も否定するということだ。自分のことも肯定できなくなる。自己や世界を否定した人間ははたして賢明な生き方をしているといえるのだろうか。

 読書は孤独を好ませる。概念や観念は愛するようになるが、生身の個人や目の前の人の軽視を導く。マンガ・オタクと同じようなものである。読書人は元祖オタクである。紙や言葉のような虚構のどこにも存在しないものに強く執着することは、人間の生としてはやはり不自然なものではないか。書物や知識を愛し過ぎることはどこか不自然であることを頭の片隅にとどめておくべきである。

 さてこれまで知識の批判や弊害について考えてみたが、私はもちろんこれからも知識や読書をいままでどおり楽しんでゆきたいと思っている。知識を全否定するために知識批判をおこなったのではない。知識の悪い面を認識した上で知識はとりあつかわなければならないと思うのだ。知識は副作用が思いのほか大きいから使用上の注意が必要というわけである。

 知識批判をおこなった書物が驚くほど少なかったのは意外というか、批判精神の強い知識界の大きな欠陥であると思う。ほかのことには激辛なのに自分の足元だけはひたすら甘い。自社製品を絶対に批判しない商業広告と変わりはしない。個別批判は感情的になりがちだから、一般的で普遍的な知識批判が適合的だと思うのだが、知識にたずさわる者はその欠陥や弊害もちゃんと紹介すべきだと思うのである。





■知識批判に役立った本
 『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子 洋泉社新書
 『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーケン 文春文庫
 『脱学校の社会』 イヴァン・イリイチ 東京創元社
 『知識人の生態』 西部邁 PHP新書
 『気流の鳴る音』 真木悠介 ちくま文庫
 『科学者とは何か』 村上陽一郎 新潮選書
 『インテレクチュアルズ』 ポール・ジョンソン 講談社学術文庫
 『人間通でなければ生きられない』 谷沢永一 PHP文庫
 『反日的日本人の思想』 谷沢永一 PHP文庫
 『ブッダのことば』 岩波文庫
 『老子・荘子』 中公バックス



■0305017断想集





   反抗することと近代主義       2003/5/17


 若いときには大人のすることなすことに関して反抗や否定の怒りに燃えていたのだが、いまからして思えばどうしてこう大人のことが気に食わなかったのだろうかと思う。

 サラリーマンなんかなりたくなかったし、かれらの好きな俗っぽい野球とかゴルフなんかも嫌いだったし、酔っ払いサラリーマンも軽蔑していたし、寅さんとかサザエさんとかみんなが好むものも嫌いだった。いろんなものに反抗していた。

 私は人にたいして怒りっぽかったり、グチったりするタイプではなかったのだが、大人やみんなのすることにたいしての反抗心だけはやたら強かった。なぜこんなにいろんなものにたいして反抗していたのだろうか。

 これは流行のメカニズムと似ていると思う。流行というのはだいたい前の世代の流行を否定することによってあらたな流行がつくられる。ファッションではトラディショナルな格好が流行れば、つぎにはカジュアルが流行るといったふうに。前の世代の反抗や否定があたらしい流行をうみだすのである。

 反抗や否定というのは新商品開発のテクニックと同じである。既製品の短所を否定することにより新商品をうみだす。つまり大人への反抗というのは新商品開発意識のめばえであったということだ。

 大きな時代の流れにかんしてもそうで、過去を否定することにより近代主義や進歩主義は進んできたといえる。反抗や否定というのは近代主義の原動力・エンジンなのである。

 ただ、私のばあい、反抗のための反抗、否定のための否定、あるいは反抗や否定こそが自分のアイデンティティと思いこむようなきらいもあった。みんなに反逆することによって「自分は違う。自分は特別だ。みんなとは同じではない」と得意になっていたように思う。まるでコマーシャルみたいな世界だ。反抗は優越感を満足させる。ついでに新商品の購買欲を燃やさせる。

 反抗こそが自分のアイデンティティというのはあまり大人の態度ではないのだろう。主流や大方の人から逸れることが特別というのは、おおぜいの人たちが存在しないと成立しない。永遠の片割れみたいなもので、主流に依存している。自分が特別なのはおおぜいの比較して軽蔑できる順応主義者がいてくれるおかげである。

 子どもは中学くらいになると教師や親に対して反抗をはじめ、不良や非行に走る。従順なほかの生徒にたいして反逆する自分の特別さをアピールする。反逆は自分の優越性のコマーシャルである。ヤンキーは結婚するのが早い。

 青年の反抗期というのは親や家庭からの自立や独立のためには役立つのだろうが、市場のコマーシャリズムにいくぶんかあおられている部分も冷静にながめればあるのだろう。マスコミは大人を叩く。バカにする。子どもはそんな大人になりたくないと思う。そして親よりもっとよい消費を、新商品を購買しようと思う。反抗とはよい商売戦略なのである。近代というのは永遠の反抗期といってもよいのかもしれない。

 近代がとりわけ目の仇にするのは模倣や隷属、服従に屈することである。順応主義や迎合主義は許せないのである。反逆や反抗してくれないと消費も新商品購買意欲もふるわないというわけなのか。

 近代はなぜこうもすべてを政治的見解に収斂させてしまうのだろうか。尊敬や崇拝、権威や畏怖はすべて隷属として忌避される。これも流行や新商品開発の商業戦略なのだろうか。隷属や服従する者はあまりにも消費意欲が低いのか。親や大人、権威に反抗してくれないと、新商品は売れないということなのか。

 反抗や否定というのは他者にたいする態度のみではなくて、自己に対する態度でもある。反抗するものは自分の欠けているところ、悪いところばかりほじくりだし、責めさいなみ、その面ばかりに固着する。つまりはネガティヴ思考や悲観的思考というもののとりこになるわけである。社会や政治にたいする思考の枠組みは自分の上にもとうぜん適用される。かれは自己も拷問にかけつづけるのである。

 反抗や否定というのは自己を呪い、世界を怨むことである。対象に対する態度というのは自己に対する態度である。それは自己固有の世界像であり、自己のことである。反抗する者は自己を受け入れることができず、愛することもできない。かれはなにごとも許すことができず、受け入れられないのである。

 世界をありのまま受容する者は近代の反逆者にとっては盲従や服従の敗北の烙印を押される者である。屈辱的な者なのである。そういうふうに宣告された者は自己の欠如感を新商品購買によっておぎなおうとし、そして世界の欠点ばかりを見つめるようになり、りっぱな不満たらたらの近代消費主義者、ネガティヴィストとなる。

 幸福なことなのだろうか。世の中を怨まず、嘆かず、悲しまず、ただ受け入れる態度というのはこの近代経済社会にとっては育ててはいけないのだろうか。反抗と否定のイデオロギー、いやコマーシャリズムは私たちを幸せにするのか警戒すべきである。







   欲望の否定主義は幸福か       2003/6/1


 知識人やとくに聖人とよばれる人は他人の欲望が嫌いである。欲望を否定し、非難し、蔑視し、壊滅させようとする。

 他人の性欲や金銭欲、消費欲、名誉欲、支配欲、同調欲などをとにかく徹底的にたたく。それらを否定すればたしかに賢者になれるのかもしれないが、本人は幸せになれるのかなと思う。

 たしかにそれらは幻滅や不幸を最終的にもたらすものかもしれない。しかしハナから人間の欲望や自然さを否定することは虚構の理想論にしか過ぎないのではないか。

 人間の愚かさや醜さを否定することはたんなる個人の好悪感情ではないのか。もし他人の憎悪や嫌悪から理想がうみだされているとしたのなら、あまり立派な賢者とはいえないだろう。怒りに凝り固まった潔癖主義者にしか過ぎない。

 人間は他人の欲望が嫌いなんだろう。とくに成就した欲望が。そこに他人の醜さをみた私は自分の欲望を否定して愚かさから脱却しようとする。人からは評価されるかもしれないが、自己の自然さを排斥しようとする私は幸せなのだろうか。

 道徳は他人の欲望嫌いからうみだされるものなのだろうか。醜い他人の欲望を抑えなければならないということなのか。

 他人の欲望を否定した者は自分の欲望も否定する。愚かさや醜さからは超越して名誉欲は満足させられるかもしれないが、かれはみずからの醜さや愚かさ、欲望という自然さも排斥しなければならない。自己の否定がおこなわれるわけだ。

 かれは自分を嫌いにならないか。自分に憎悪を燃やせないか。欲望や醜さ、愚かさをもった自分に愛想をつかさないか。ありのままや自然さの否定は自己への憎しみを生むのである。

 憎しみに満ちた人間は賢者とよばれるものだろうか。欲望や自然さを否定した人間は幸せなのだろうか。

 世界はありのままで肯定し、受容することが大切である。認め、許し、うけいれることでわれわれは自分を愛することができ、容認することができる。自己の否定は幸福の破壊である。

 ハナから欲望や醜さを否定するのはよくないのだろう。それらの存在を自分にもあることを認めることが大切である。

 ただそのあと欲望を無条件に肯定するほうがよいのか私にはよくわからない。他者や自己の欲望を否定しないことが肝要としかいえない。それは世界への憎悪を生み出すだけだからだ。

 私は他者の欲望嫌悪から自己への憎悪に向かわないことを願うだけである。

 欲望の否定は人を賢人にみせかけるかもしれないが、欲望のまったくの拒絶は自己や世界の憎悪に転化してしまうかもしれないのである。自分を愛せず、他人の欲望に憎悪を燃やす人が幸福になれるのだろうか。







    精神的な愛と肉体的な欲      2003/6/7


 精神的な愛が称揚され、肉体的な欲が軽蔑されているが、精神的な愛とはそんなにすばらしいもので、肉欲は人間のあるまじき欲望なのか。

 愛と性欲の分け方は近代西洋のお得意ワザである。文明と野蛮、理性と本能、知性と無知、その他もろもろ。近代西洋はそうやって知性や文明を肯定し、本能や性を否定して侮蔑してきた。そういう二元論にひれふすのが後進国日本の文明開化だったわけだ。

 知性や言葉というのはとにかく肯定するものと否定するものを分節化するのが好きらしい。文明と動物的なものを分け、未分化なものを貶める。そういうヒエラルキーの中で尻をたたかれる。

 精神的な愛、ひとりの人を愛しつづける終身愛がすばらしいものだとされているが、人間の性欲や欲望というのはそんなキレイ事ですむものかと思う。精神的な愛とか恋愛というのはウソっぽくて、欺瞞ぽくはないか。

 人間はただやりたいだけとはいえないか。精神的な愛とか恋愛というのは性欲の欺瞞ぽいオブラートではないのか。性欲や性にそんな理屈や物語は必要なのだろうか。性はなぜ否定され、愛という物語が必要になったのだろうか。

 精神的な愛というのは肉体的な欲望の否定である。セックスの禁止である。文明や知性というのは制御・管理の拡大だから、動物的・本能的なものを排除しなければならない。言葉や知性のコントロール欲の延長に精神愛の肯定と性の否定があるのだろう。

 おそらく経済的要因もあるはずである。性の快楽や相手も所有されることになった。有料化になったのである。子どもが直接労働力にならない生業がふえるにしたがって産児制限の必要から性は所有化や有料化されていったのだろうか。

 女性は処女が価値あるものになり、貞節を誓うものになった。性は所有されるものになり、男に扶養義務がともなうことから、有料のものになった。精神的な愛というのは、おそらく処女と貞操のための商品装備なのだろう。

 ちかごろの女性は処女であることを恥かしいと思い、経験人数を競うようになってきたが、人気のバロメーター表示を欲しているようである。マスコミに「脅迫」されたり、恋愛産業に煽情されたりして、貞操は風前の灯火である。文明は「進歩」したのだろうか、「退歩」したのだろうか、あるいは崩壊寸前?

 処女の商品価値はどうなったのだろう? 精神的な愛や終身愛のイデオロギーは女性市場のなかでまだ盛んに流されているはずである。終身婚をのぞむ女性も多い。貞操のタガのはずれた女性という表象はマスコミの煽情なのか。分明と野蛮は二極分化しているのか。

 ぎゃくに男のほうが貞操にこだわる者が多かったりする。処女願望は男の貞操を守らせるのである。また男には経済的負担や責任がともない、男はますます性交渉相手から遠ざかりそうである。文明の砦は男に保守されるのみになるのか。

 男には文明の問い直しが必要なのかもしれない。精神の愛や人格の思慕、経済的責任といった文明の至上のイデオロギーを投げ捨てて、貶めてきた性欲や野蛮の肯定からはじめなければならないのかもしれない。女はとっくにポスト・モダンし、男だけが幻想の文明の砦にとりのこされているのかもしれない。







   人格愛なんていらない?       2003/6/21


 ひとりの人を愛し、人格を深く思慕することがよいことだとされているが、これはあまり性欲と結びつかない。人格愛というのは性の対象となりにくい。「神」になってしまう。触れてはならないもの、壊れやすいもの、汚してはならないものとなってしまう。

 ひとりの人を愛すればするほど性的な対象から遠ざかる。十代のころといえば性衝動のかたまりみたいなものだが、人格愛はその水路を遮断してしまう。人格愛という恋愛観は不自然なイデオロギーだと思う。

 男には責任がつきまとう。経済的責任や生活保障、ときには幸福の責任まで背負わされる。ひとりの女を愛すれば愛するほどその責任の重さに男は恐れをなして女から逃げる。

 いまの男は人格愛や経済的責任を背負えば背負うほど、性のハケ口を見出せなくなっているのではないかと思う。人に対してまじめであればあるほど性欲を満たされないのである。

 男は人格愛と結婚によってかなりの重荷に縛られているのではないか。女ばかりではない。男は精神とカネの重みでつぶされようとしている。もちろん男の中にはそれをバネにがんばる者もいるし、そんなことに拘泥しない者も多いのだろう。

 男にとって人格愛と経済的責任のくびきから解放されればどんなにラクなことだろう。こんなイデオロギーや道徳感、責任感を守らせているものとはいったいなんなのだろう?

 人格愛というのは幼少のころからのマンガやドラマ、映画、音楽の刷り込みの影響がかなり大きい。なぜどいつもこいつもバカのひとつ覚えみたいに「恋愛教」を流布するのだろう。人間の強い性衝動を排他的な私的所有のワクに押し込めるためなのだろうか。要は所有権の大切さをうたっているのか。

 人格愛というのは経済保障のことである。愛のないセックスは快楽の充足があるだけで経済的見返りがない。つまり愛というのは長期的なカネの見返りがあるのかないのかということである。恋愛教はカネの関係を否定するが、残念ながらカネの関係が貫徹しているのは丸見えである。

 近代のシステムは性交の相手を経済保障というカネのある者だけに限定した。通勤電車と企業の誕生のおかげで、女性は生産の現場から切りはなされ、男の所有物になるしか生活の糧がなくなった。それで女性の性は夫専門に限定され、愛はその関係の増強神話なのだろう。

 女性の性は受動的なものとなり、夫婦に限定される近代的な規範がつづいたが、近年ではその逆転や崩壊がおこりだしている。もちろんこれは女性が収入の格差はかなり大きいにしろいくらかは稼げるようになったことと関係しているのだろう。

 女性は不自由で窮屈な性規範から、性の主体となりはじめている。つまりカネの関係で性が縛られる必要がなくなってきたということだ。性的自由を謳歌したい女性にはけっこうなことであろうし、経済的重荷にあえぐ男にとっても同じことだ。ただ経済的縛りを必要とする専業主婦的な性関係にとっては大きな脅威にうつることだろうが。

 人格愛という観念の虚構は消え去るだろうか? これはカネのない本能的性向は否定するという思想である。つまり性関係は売春にしろ夫婦にしろカネのかかわらない欲望充足の性関係は否定されるということである。このカネが関わることによって、われわれの性や愛といったものはどんなに歪み、迂遠されたものだろうか?

 もし近代的な意味での人格愛がなくなったとしても、性は暴力だけで満たされるわけではないだろう。愛がなくても性交自体にもいたわりや思いやりがあり、相手へのそれなしの快楽はないだろうからだ。

 カネの関係がしっかりと貫徹する人格愛より、快楽充足の性関係のほうがまだまともで自然なことではないかと思う。性や肉体、愛は経済的取引の手段であってはあまりにも下劣なことである。だから人格愛なんて信用できない。だがすべての女性に経済的自立がそなわっているわけなどないので、人格愛は早急に否定されるべきものでもないのだろう。






   性を汚らしいと思うのはなぜか     2003/6/29


 性は汚らしく、恥かしいもので、隠すものだと思われている。性欲のない人間は存在しないのに性はずいぶんと日陰者の存在だ。なぜ性は汚らしいものと刷り込みされているのか。

 子どものときに汚い物は手を触らないように教えられる。汚い物は自分と他人を分ける境界になる。たとえば他人の食器とか下着を使うことに汚らしさを感じるように自他の区別は汚さからうまれる。汚いという感情は所有の意識の原初である。

 性は他人との混交であり、融合である。所有が入り交じり、自他の区別ができなくなってしまう。汚いという感情を喚起することによって、性の所有の明確化を図らなければならないのだろう。とくに一夫一婦制の所有関係では他人の性を汚く思わなければならない。

 また性欲というのは強い衝動であり、利己的なものである。利己的なものは金儲けにしろ出世にしろ世間や他人から嫌われるものである。汚いやつと世間からののしられる。富にしろ地位にしろ性にしろ強欲なやつは他のものの利害や利益まで奪ってしまうと考えられるのだろう。性には汚らしさの網がかけられる。

 性欲のままにっ走る人間にはエロオヤジやパンパン(売女)、淫乱、公衆便所などの蔑称によって非難される。本能的なもの、利己的なものの突出が批判され、抑制が求められるのである。

 といっても人間の性は皮肉なことに禁止されたものを破ることによりおおくの快楽を感じるようになっている。禁断の愛、不倫、タブー。逆に禁止があるから性欲がある、燃え上がるといったほうがいいくらいだ。新たな禁止は快楽の塀を高くするのである。

 汚らしい性にも快楽はあるわけだ。隠すこと、羞恥心を暴くことにもずいぶん快楽がある。人間は禁止や隠蔽、蔑視により、よりおおくの観念の性の快楽を手に入れたのである。禁欲の果ての快楽に人類は痺れるようになったのだ。

 でもわれわれの意識にそういう回りくどい快楽の図式は目にみえない。性は汚く、恥かしいものという意識はどこかにあるし、羞恥や禁止の恐れにとらわれている。そういう禁断の網にはりめぐらされた性を救い出すのは愛という概念である。

 汚くいやらしい性に対して愛は神聖ですばらしいものと考えられている。していることは同じなのにである。特定の人とだけの性交は神聖なものになり、不特定の性交は貶められるものとなった。一組のカップルでいつづけてくれることは私有財産とぶつからない安全なルールなのだろう。

 しかし昨今では愛という観念は多数との性交の免罪符となっている。愛があるからセックスしてもよいというふうに性的快楽の論理に転化している。愛という名のもとの性は汚らしい性を駆逐したのである。しかし直情的な肉体関係は禁断の観念の快楽を増したとは思えないが。

 といっても性に汚らしさのイメージや羞恥がなくなったわけではない。われわれは社会での人格から性の面貌を拭い去らなければならない。性ばかり追いかけていたら物質的生産性が上がらなくなってしまうのだろう。文明というのは性や動物的なものを貶めたいものなのである。

 ただ性を否定するということは人間の生や命、人生を肯定していないといえる。性の侮蔑は人間性や生命の否定でもある。知性や頭脳は観念の帝国をつくりたがるものかもしれないが、生命や自然性を否定するのは幸福な考え方とはいえない。性を肯定して救い出す必要があるのかもしれない。







  性と愛の現在はどうなっているのか     2003/7/7


 さいきんセクシュアリティ関係の本ばかり読んでいるが、なにを問いたいのかも自分でもよくわからない。フェミニズム関係の本は多いが、社会学的分析の本はいまいち少ないのが呆気にとられる。てんで自分でも確信はもてないのだが、性愛の現在について暗中模索してみようと思う。

 マスメディアでは恋愛至上主義が席巻していると思うのだが、いっぽうでは処女嫌悪の風潮もあり、援助交際もあり、レディースコミックなど女性のポルノもふえてきた。プラトニックラブとか貞操とか一夫一婦制はどうなったのかと思う。

 困ったことに性に関する情報というのはAVやポルノばかりで、これらの産業は欲望を煽ることにあるのだからおおよそ冷静でも客観的でもない。それを標準だとか基準だか見なす人も出てくるわけで混乱もはなはだしい。

 欲望や基準が棚上げされれば、そこに劣等感や落ちこぼれ感が巣食うから人は意地でも上に行こうとする。AVやポルノのような淫乱女が現実の人の基準になるわけだ。ついでにファッション産業や化粧産業ももてない恐怖を煽れば儲かるわけだからそこに便乗する。メディアや広告に底上げされた女は淫乱街道まっしぐらに落ちる。

 ただ性的自由を享楽したいのは男女双方変わりはないだろう。男も女も性欲には違いはない。経済的格差による抑圧と神話があっただけだ。しかし双方が性欲の主体となったとき、これまでの男が買い、女が売る性関係はどうなるんだろうと思う。

 女の欲望が開花するのなら、男が養うという図式も崩れなければならない。性欲のない乙女だったからこそ男は欲望の代償を支払わなければならなかったからだ。女が欲望を解き放ち、なおかつプレゼントと扶養の義務を強要するというのは虫がよすぎる話だ。女が欲望を解放するということは、扶養される特権を捨て去ることだ。

 女はほんとうにこの特権を捨ててもよいと思っているのだろうか。女の結婚と主婦の願望はまだまだ根強いと思うのだが。いっぽうでは性的享楽の道も進んでおり、このあたりの倫理とか道徳はどうなっているのかと思う。

 男は愛と性を分けられるといわれてきたが、女もそのようになるのだろうか。愛する人と性欲をべつべつに捉えるわけである。そうすれば愛する人への思いと、性的欲望を割り切って考えることができる。結婚の安定と性的快楽が、旧来の男とおなじように両方手に入れることができる。

 女のこれまでの愛というのは生活保障のとりひきのことだった。愛や性的快楽のかわりに生活を養ってもらうという経済交換のことだった。これは愛ではない。経済取引である。

 なぜこれが愛とよばれ、信じることができたのだろう。おたがいの利益と受益が同等と錯覚できた幸福な時期があったのだろう。バブルのときには女のプレゼント高騰がおこり、露骨な金銭関係が露呈した。援助交際の女子高生も親がしているようにカネで買われてなぜ悪いと思ったのだろう。彼女たちのほうが正直であるともいえる。

 この交換が可能だったのは女が貞操を守ろうとし、社会の規範も厳しかったからだ。規範が厳しく、抑圧された欲望があるということは、商売のニーズがあるということだ。ポルノやAVというのはその間隙にうまれたものだろう。禁止や抑圧はまことに商売の生みの親である。

 ボルノやAVはすべて虚構の媒体である。つまり実体験や体感ではなく、観念や頭脳による興奮を売っている。本や社会計画、都市建造物のような観念や頭脳が重要になる文明では、性欲動すら脳みそを迂回しなければならないのである。セックスは五感や体感で感じるものではなく、脳で観念するものになった。知性に価値をおいた文明では観念によるセックス、またはオナニーのほうに価値がおかれるのである。

 抑圧された欲望はポルノ産業を生み、性欲は解放されてゆき、禁欲されたそれはふたたび解放されたものになってゆく。性が解放されたものになれば、観念の欲望はおしまいになるのか。いや、やはり観念の欲望は生身の快楽を上回ったままと考えるべきだろう。

 ポルノやAVの消費が膨大なものになるということはじっさいの性体験が疎外されているか、あるいは観念の快楽が優るということである。性は思われているほどそんなに解放されたものではないのだろう。

 恋愛至上主義は性の抑圧でもあるし、性を隠し立てし、恥かしいものとして斥ける風潮もあいかわらず強い。なによりも異性の所有の観念は強いものであるし、都市での見知らぬ人への接触はかなり強いタブーである。欲情させるためのポルノ産業が実態を覆い隠しているのだろうか。

 われわれの社会は性を全面的に公式に肯定しているわけではない。いつでも蔑視され、隠蔽され、羞恥されている。知性が肯定される社会では性は貶められる。性を人生や生命の肯定と捉える社会意識もない。そういった社会の中で欲情を煽るポルノ情報が実態を覆い隠している。私には現在の性関係は解放されているのか、保守化しているのか、男女の地位、金銭関係はどうなっているのか、かなりわからない。




■英文の迷惑メールが一週間に70通も入るようになりました。アメリカのネットビジネスはお盛んだなと思いますが、即削除するだけからどうにかならないかな〜、ホント。


■030716断想集





    誘惑する女       2003/7/16


 私が高校のときにはオヤジが女子高生のナマ足に興奮するというのがよくわからなかったが、私も年をとるごとに女性への視線が顔から下に降りてゆくのがわかるようになった。

 若いときにはオッサンみたいに女性の体をじろじろとなめまわすように見つめるのは失礼だと思って身体への視線は控え目にしていたが、いまではオッサンになった私はついつい女性のからだをながめまわすようになったし、女性のほうもそういう視線にはけっこう敏感で、女として認められることにはそんなに不快感をもっていないのではないかと思う。

 いまでは女性のファッションはずいぶんと解放されているようになったと思う。昨今ではチビTで胸のふくらみをぴっちりと強調しているし、おしりもぴったりしたジーンズでその丸々しさをうきあがらせている。性的誇示というものがずいぶんおおっぴらになったものだ。

 男としては女性は自分の女らしいからだを強調するのは恥ずかしくて隠したがるものだと思い込みたいものだから、女性のスカートからのぞく素足やブラウスから透けて見えるブラジャーの線に興奮したのである。性的身体、性的欲望は隠されるこそ少しでもそれがのぞけば、男の興奮を誘ったのである。

 いまは隠そうとしない。かなりおおっぴらに強調している。Tシャツもジーンズも胸とおしりのふくらみをぴっちりと誇示している。もちろんこれらも服によって隠されているわけだから、男の欲望を誘う。いぜんは女性の羞恥心に男は興奮していたが、いまは女性の欲望に欲望するのである。

 女性の夏のファッションがこれほどセクシーに解放されたのはやはりここ十年の話ではないかと思う。バブル期にはからだの線を強調したボディコンのファッションが流行ったが、なんだかあのころの格好は男を誘惑するというよりか、女性同士が肩肘はって競争しているイカツい感じがしたものだ。

 ひところ女性のタンクトップ姿をよく見かけたが、これもけっこう大胆だったと思う。ただまだゆるめだったと思う。キャミソールはいまいち子どもっぽかったっけ。しかし去年はチビTで胸のふくらみがしっかりと誇示されるようになり、スカートは減ってナマ足より、ジーンズのおしりのほうが強調されるようになった。素肌を見せるより女性らしいふくらみが服に隠されつつ薄い素材で強調されている。

 ただこれは女性の性的身体が誇示されているといっても、直接的な男性への性的行為のお誘いというわけではない。ファッションである。カッコよく、洗練された流行のファッションに身を包んでいたいということだけなのだろう。性的欲望というより、社会的承認欲がなせるものなのだろう。

 街中でセクシーな格好をするのはひとりの愛する男だけに見せるわけではなく、不特定多数の人に見られるわけだから、女性として見られる存在になりたい、女として認められたいという気持ちのあらわれなのだろう。女として魅力的な欲望される対象になりたいというわけである。女性は性的快楽よりこちらの欲望が強いのだろうか。

 これだけからだを強調したファッションが流行れば、女性の欲望が解放されたと思いがちだが、ファッションと性欲はちがう。肌をあらわにした女性がすぐにからだを許すわけではないし、イタリアやどこかの外国のように見知らぬ男が女性の美しさに声をかけるわけではもない。日本は愛には解放的でも性ではまだまだ禁欲的なのである。素肌や身体の解放は性の解放ではない。性とはまだまだ経済であり、資産であり、財産であり、所有なのである。

 女性は女としての社会的価値を街なかで誇示している。女の競争は徒党を組んで同じファッションとしての性的競争をくりひろげる。男は女性のそういう身体露出を目で楽しむのだが、グラビア・ページの女性のように手を触れることもできない。

 私たちの社会は欲望を煽る社会である。人々が叶わない欲望に欲求不満になればなるほど経済や社会は活力と成長力にあふれる。女性は消費社会の広告塔みたいなものだ。男は所有できない女のハダカにそそらされて経済の歯車を走りつづける。幸せな社会なのかなあと思う。女たちは娼婦たちよりお高いのである。







    発情と同意      2003/7/21


 発情というのは一方的で個人的なものである。異性のからだを見たり、エロティックな雑誌や物語を見たり、あるいはしぜんにからだが熱くなったりして発情するが、対象や相手がいつも同時に発情するわけではない。

 その性欲を満たすためには相手の同意や合意が必要なわけだが、人間の性欲というのはどうもそれを形成する前に完結することが多い。

 性犯罪はそういう一方的な発情と合意のなさから起こる。痴漢、盗撮、下着泥棒、セクシャル・ハラスメント、レイプ、幼児性愛といったものは相手の同意が無視か蹂躪されている。同意があれば犯罪ではなくなるものもあるのだが、幼児性愛は性的同意を求めるのは不可能である。

 どうも人間は求愛のダンスを踊るのがへたなようである。もっといえば、相手の意志や合意を蹂躪することに快楽を覚える向きがあるようだ。拒まれているもの、隠されているもの、秘せられているもの、を蹂躪するのが好きなようである。性自体に相手の意志を尊重しない「犯罪的」なものがふくまれているといえるのかもしれない。

 だれもがご存知と思うが発情を解消する相手を見つけるのはかんたんなことではない。規範もあるし、相手の好き嫌いもあるし、羞恥心や自己体裁もあり、ふさわしくない時と場所もある。

 満たされない性欲はそもそも相手の同意をまったく考慮に入れない盗撮や下着泥棒のような間接的なものに固着するかもしれない。一方的な実力行使におよぶレイプやセクハラに走るかもしれない。

 同意があればいいというわけではない。これらの行為は同意があればその快楽はかなり落ちるだろうからだ。隠れてイケナイことをしたり、禁止された行為を犯すからこそ快楽がある。意志や同意をハナから考慮に入れない快楽なのである。

 性欲とは強いものである。相手の同意や合意をいくつもの段階や方法をへて性欲の解消を得るのはかなりわずらわしいものである。つきあげてくる性欲をどうするか。相手の合意や同意を無視することになったり、相手の尊重を剥奪することに快楽をみいだようになるかもしれない。

 人間はなんでも自分の好きなときに好きなものを手に入れ、自由にし、支配したいものである。モノを買うという行為もそうである。性対象も相手に意志や心があるというよりか、モノや手段であったほうがよりかんたんに手に入れやすい。性欲というのは一方的で個人的なものなのである。

 人間の社会はこの一方的な発情を規範や道徳で抑えようとしてきた。相手の尊重のないものを非難したり犯罪としてきた。しかし発情は個人的なもので相手の発情とかかわりなく発動するもので、発情自体が他者を尊重したものではないのである。

 合意のえたセックスでさえ不倫や禁止された快楽が好まれる。社会規範の尊重の無視や掟破りというのが、性の快楽を増すみたいである。性欲というのは社会の尊重を蹴破ることに快楽があり、それだけ性欲を増すことができ、愛の強さを証明することができるのである。

 社会で尊重されるものが、ぎゃくに快楽を呼び誘うとは皮肉なものである。性欲というのは道徳的たりえるのか。







   子育て、生活、快楽のためのセックス    2003/7/28


 ほぼ推測の域を出ないのだが、セックスを目的別に分けると、子育てのためのセックス、生活のためのセックス、快楽のためのセックスに分けられるのではないかとしよう。

 子育てのセックスは子育ての期間中男をつなぎとめておくためのセックス、生活のためのセックスは扶養されるためのセックス、快楽のためのセックスはただ快楽のみを目的としたセックス。子育てと生活のためのセックスは結婚として重なり合うものである。

 現代日本のセックスは子育てと扶養のための交換条件がおもなものとなっている。セックスは目的ではなく、養われるための手段である。セックスは売買もしくは取り引きされるものとなっている。

 重要なのは子育である。子どもがとても大事になり、男女関係の中心になっている。男と女は子どものために父親と母親になり、男と女でなくなる。エロスを失い、性的匂いを消去した家庭がよいものとされている。

 子育てと子どもが中心になると、男と女はエロスを失わざるをえない。女がほかの男に色目を使っているようでは子育てから目が削がれるし、男はほかの女に目がくらめば家庭に稼ぎを入れなくなる。マジメでまっとうな家庭にはエロスの匂いはあってはならないのである。

 男と女のエロスより子育てが重要になったのは、教育が重要になったからだろう。社会で大人になるためには高等な教育が必要である。子どもが成人するまで親たちは関係をつづけなければならない。一夫一婦制をキマジメに守りながら長い間に男と女であることをやめてゆく。異性に魅せることをやめたオバサン・オヤジが大量に生産されることになる。

 むかしの早くから子どもが働く社会では男と女は現代のように貞操を守り、エロスを失いながらもともに暮らしつづける必要はあまりなかっただろう。魅力のない異性につなぎとめられる必要はなかったからだ。江戸時代より前の日本は処女も貞操もまるで重んじられなかったそうだが、現代のようにセックスがなんらかの交換条件ではなく、快楽や楽しみとして独立していたからだろう。農作豊穣の意味もあっただろうが。

 国家も他国と経済力や軍事力を競おうとすれば、国民の教育と管理に力を入れようとするものである。子どもにさまざまな負担がかかるようになれば、男と女も長く協力せざるをえない。貞操と一夫一婦制、または近代以前の放埓な性の禁止はそのような理由によって強力に奨励されたのだろう。

 子育てと生活のためのセックスは「愛」とよばれている。快楽のためのセックスは「淫乱」や「「変態」とよばれている。われわれは性欲を恋人や夫婦にしか感じてはならず、街で出会う魅力的な異性には欲情してはならないのである。性は子育てと生活、つまり金と愛が結びついていないと発情してはならないものとなった。

 現代のセックスというのは子育てや生活、金や愛などといろいろ結びついており、交換される財となっている。セックスは金や愛から独立した純粋な快楽や楽しみとして味わわれることはない。セックスは商品であり、取り引きされる財である。セックスとはひじょうに資本主義的であり、市場経済そのものである。

 セックスは金の成る木である。カネである。だれもが性を売り渡し、買い、利益や便益を得ている。それは愛というすばらしい名のもとになぜか実態を隠されている。われわれは強欲になるカネを軽蔑しているから、聖なるオブラートでうやむやにしたいのだろう。

 カネや交換の貫徹した関係が汚いと思うのなら、正直な性欲の関係のほうがよほど純粋に思える。快楽のためのセックスは金も愛も見返りもなにも要求しない。ただ性の快楽を求めるためだけにある。性のモラルというのはほんとうに道徳的なのかわからなくなる。






  重要なお知らせ 2003/7/10
 プロバイダが8/10に終了することになりました。
 よってこのHPも消滅することになりました。
 引っ越し先を探すつもりですが、プロバイダ選びはかなりややこしいようになっているようなので、いつ決まるかもわかりません。データ送信も一からやり直すのはたいへん難作業です。
 でもなるべく早く復活するつもりです。
 もし引っ越し先を知りたい方がおられましたら、メールをいただければ、決まりしだいお知らせすることもできます。
 もちろんサーチ・エンジンで検索することも可能ですよ。





 みなさん、さようなら。
 当HPを永らくご愛顧いただきありかとうございました。

 しばらくブランクをいただきます。
 いつか復活するつもりですが、予定はまだ未定です。
 HPの移転先の連絡を待ってくださる何名かの心優しき人たちのためにも必ず復活したいと思います。

 それまではこのHPはみなさんともお別れです。
 ほんとうに長い間、私の拙い思索につきあってくださいまして、どうもありがとうございました。

                      2003/8/7 うえしん




■030922断想集





  男は恋愛をするものではない?     2003/9/22


 世は「恋愛をしなければ人間ではない」といったような恋愛至上主義が席巻しているが、それによって脅えている男たちも多いと思うが、男ってけっこう恋愛を軽蔑する価値観を刷り込まれてきたのではないかと思う。

 「恋愛に溺れるのは女々しいことだ」「恋愛物語を男が読むのは恥かしい」「愛だの恋だのを男が口にするな」といった硬派な価値観は男の中にしずかに根づいている。

 そういう男のルールが女を煽てあげる消費とマスコミの中で見えなくなっているのではないかと思う。おかげで女の価値観、女の人生のルールが、すべての人のルールであるかのように思わされ、恋愛のできない男は脅かされることになる。

 男は恋愛ができないのではなくて、恋愛をしてはならないのである。

 少女コミックを男が手にとるのは恥かしいように、恋愛は女性の専門のジャンルに近いのではないのか。恋愛は男の専門ジャンルではないのである。

 それが女性煽情のマスコミのなかでは恋愛のしない男はヒエラルキーの落第生に位置づけられる。女性の論理の世界に価値観の違う男は都合のいいようにスティグマを烙印されるのである。

 女性の恋愛強迫観念が男の論理をのみこんでしまったのである。たんに消費の王者は女性であるから、女性の恋愛の論理が王手をふっているにすぎないのだろう。

 ミュージシャンは恋愛ソングばかり歌うし、ドラマは恋愛ものばかりだし、マンガも小説も恋愛ばかりだ。世の中は恋愛だけが人生だみたいな様相を呈しているが、消費は女性が主導しているからそうなるのだろう。このカラクリに男はだまされてはならない。

 恋愛は女性にとって強迫観念となっている。彼氏がいなかったり、彼氏いない歴が長ければ、たいそう恐ろしいことである。商業はそういう落ちこぼれる恐怖を利用して消費を煽情する。商業の儲け話に女性たちは脅かされつづけているというわけだ。

 おかげでおそらく女性たちはたくさんの男たちとつきあい、貞操や愛といった倫理観や男の心の痛みといったものを平気でなぎ倒してゆくことになるのだろう。ひとりの男との心のつながりより、愛は消費の選択のような性能や機能を競うものに変化してゆくだろう。男は食いものにされてゆく。

 こういうなかでも男はやはり恋愛は女々しいもの、女の専門ジャンルと思いつづけるだろう。恋愛に没入する男を社会規範はけっして甘くは見ないと思うのだ。男はこれまでの女性がそうであったように「うぶ」になるのではないかと思う。男と女の逆転現象はおこるのだろうか。しかしそれがおこりうるのは経済関係が対等か、逆転するまでは真実にはなりえないのだろう。








   恋愛依存症とは経済役割の結果?         03/10/12


 ひどい相手でも別れられないといった人たちのことを恋愛依存症というそうだ。典型的にはアルコール依存症の相手とか暴力依存の人とかから離れられないのである。

 依存症といえばドラッグとかアルコールがおもいうかぶが、さいきんでは買い物とか人間関係とかにも依存症の範囲がひろげられてきたみたいだ。正常との線引きがひじょうにむずかしい概念だと思うが、違いはその依存によって本人が苦しんでいるかどうかであるそうだ。

 でも恋愛というのは病的や異常であることがほめたたえられる社会風土があるものだ。屈辱や虐待を耐えたり、忍んだりすることがりっぱで深い愛と思われていたりする。愛という言葉は搾取や虐待の正当化に使われたりする。だからそれを依存症という心理概念にのみ押し込められるとひじょうに混乱してしまうが。

 恋愛依存症になってしまうのは幼少期の親からの分離・独立の失敗があるからだという。親に愛されなかった経験を現在のひどい恋人に重ねてしまうから、そのとりかえのきかない相手から離れられなくなってしまうのだそうだ。トラウマを二度と経験したくないのだ。

 われわれは心理学的には恋人に幼少期の親との関係を重ねてしまうのである。親から失われた愛情を恋人からとりもどそうとするのである。親との未消化な関係は恋人に再現されることになる。

 親から愛されなかった人は、親のように愛してくれないひどい人を選び、必要されることにのみに喜びをみいだし、親から要求や期待のみで愛された人は、その束縛の恐怖からひたすら親密な関係を避けるようになる。前者は恋愛依存症になり、後者は回避依存者となる。両者はおたがいのニーズに合うからひきつけあう。

 しかしこの関係は現代の男と女の関係にもすっぽりあてはまる。家事や育児で必要とされる女性、仕事だけで家族とかかわろうとしない男性。まるで経済関係のためにそれぞれの役割になるためのトラウマが埋め込まれるみたいだ。

 男に依存する女、仕事に依存する男。こうなるためにはまずそれぞれ男女に期待の重責と愛の拒否があたえられるのだろうか。男は親密さから逃れ、女は親密さをもとめる。そして男は仕事にのめりこみ、女はむくわれない男にのめりこむ。親密さは拒否されつづけ、それは子どもにゆずりわたされ、かれらは経済の役割分担におさまってゆく。

 依存症という概念はかなりむづかしいものだ。社会や文化、経済の結果ともとれるものが多くふくまれているからだ。本人の心理構造の問題のみに還元してもよいものか疑問がかなりのこるし、適用判断もむづかしい。ましてや心理学用語なんて非難の意味でつかわれやすいものだ。

 恋愛依存症というのは病気なのだろうか。だれかを愛したり、親密になろうという欲求は度を越したり、依存の形態に見えたりしがちだと思うが、これを病気だとジャッジするまなざしというのはますます人とのつながりの遮断や孤立をうながしてはしまわないかと思う。依存症という概念が人間関係の破壊に向かうとするのなら問題である。







   人の恋愛パターンは決まっている?       2003/10/13


 恋愛のかたちは千差万別にみえるものだが、いくつかの基本的なパターンにおさまってしまうとしたらどうだろう。自分の恋愛タイプやめざしているものがより見えやすくなるのではないだろうか。

 ということで恋愛パターンの基本型を提示した三冊の本からぬきだしてみよう。マルシア・ミルマン『セブン・ラブ・アディクション』、秋月菜央『娘の恋愛タイプは母親で決まる』、倉田真由美『だめ恋愛脱出講座』からである。

                     *

 まずは『セブン・ラブ・アディクション』(実業之日本社)からで、著者のマルシア・ミルマンは映画や小説、リポートから七つの基本型をとりだしてみせた。恋愛の目的はパートナーと幸せに暮らすことではなくて、幼少期の親とのトラウマや喪失感を克服する願望がこめられているという。

 初恋型ラブストーリーは親からの自立をめざし、ために親の反対にあう人をわざと選んだりする。ヤンキーの恋愛タイプかもしれない。

 師弟愛型は映画『マイ・フェア・レディ』のような恋愛が師弟のかたちになっているものである。教師に魅かれるようなタイプだろう。

 ストーカー愛型はふられたり見捨てられたりすると憎悪を相手や自分に向けるタイプである。こういう人たちは幼児期の喪失感からわざと見捨てられる相手を選んでしまうそうである。でもこれはタイプというより、愛を強く信じる文化や社会の問題ともいえなくもないと思うが。

 シンデレラ型はご存知、玉の輿にのる話で、『プリティ・ウーマン』や『ジェイン・エア』などに描かれている。尊大な父親に見捨てられた気持ちを味わった娘は、拒絶体験を焼き直すために、カネや力をもつ尊大な男にひかれてゆくのである。

 自己犠牲型は情熱のおもむくままに行動することを怖れるタイプで、実らぬ愛を思い出にしまいこむことに理想をみいだしている。

 救済型は幼児期に親に問題があり、親の面倒をみたり、困った人を救うという役割が身についたために、傷ついた人をとことん愛してしまうというパターンにおちいる人の物語である。傷ついた人は人のたよりが必要なために彼女を見捨てたりしないので安心できるのである。

 先送り型は恋愛や結婚をさけることで時間の針がとめられると思っている人たちのことである。しかし時は過ぎ去り、ほんとうに人を愛する人だけが真の人生を送ることができるのである。

                *

 つぎは秋月菜央の『娘の恋愛タイプは母親で決まる』(二見書房)で、まあ母親をお手本にしたり、母との関係が人との関係の基本になるのは当たり前だと思う。六つのタイプがあげられていて、なるほどなとうなる。

 雪女タイプは気持ちを素直に伝えられず、このような子は自我や意志をもぐら叩きのように否定する母親に育てられる。

 足長おじさんを待望する不倫をくりかえす女性は、甘やかす母親に育てられる。依存心が強く自信がもてない大人になり、たえず甘えられるたよれる既婚男にひかれてゆくというわけだ。

 男をつぎつぎと切り捨ててゆくかぐや姫タイプは、自我も個性も呑み尽くすブラックホールのような母親をもち、人を人間性や心ではなく、世間的な評価でしかはかれなくなる。

 つくしたあげくに捨てられる鶴の恩返しタイプは、人の役に立たなければ生きている資格がないと思い込んでいる。控え目な女性の役割を押しつけられて育ったせいである。

 嫉妬と怒りで愛を破壊してしまう西大后タイプは、自分のかわいそうな境遇を娘に嘆きつづける母親への怒りを抑圧したためになってしまう。恋愛関係というのは感情の扉をあける作業のようなもので、彼女は自分のはげしい感情とはじめてつきあうことになるのである。

 マッチ売り少女タイプは母親からの暴力的なおしおきのために愛を信じられなく、愛を試したり、確かめないと気がすまなくなるので、関係を破壊してしまう。

                *

 さいごは倉田真由美 岩月謙司『だめ恋愛脱出講座』(青春出版社)からで、だめ恋愛におちいる7タイプが紹介されている。

 思い残し症候群タイプは不倫や掠奪愛が多く、これは妻のいる男を魅かれるということは、幼少期の父の愛のとりもどしになるというわけだ。

 DSSタイプは浮気性、借金魔、暴力男など典型的なだめ男に魅かれるタイプで、人質が犯人を好きになるストックホルム・シンドロームにかかっているから、最低の父親のような男にくっついてしまうということである。

 幸せ恐怖症タイプは母親からの嫉妬を避けるために自分の幸福を避けるそうである。

 執着恋愛タイプは独占欲や嫉妬心が強く、セクシーな格好をし、お金や学歴の執着が強い。愛や信頼を信じられず、必要的、道具的な関係しか結べない。

 セックス妄想タイプは幼少期に父からセクハラをうけた可能性があり、男性不信と嫌悪をもっており、セックス依存症か処女のままになる。

 男性改造タイプは世話女房タイプで、アル中などのだめ男につくし、それによって自分が見捨てられないことと、優越感をえているという。

 男性破壊願望タイプは男の幸福を破壊したがり、復讐の対象としている。愛されなかった父への復讐をおこなっているということだ。

                  *

 人の恋愛のかたちはみえないし、自分の恋愛のパターンというものもよく自覚できないものである。こういうタイプでくくられることは見通しをよくする。ただ心理学的というよりか、タイプ占い的な要素もないといえないが。人の恋愛のパターンってそうかんたんにくくれるものか、基本類型からはずれる行為のほうが多いんではないかと思ったりする。

 まあ、頭の中で整理するために恋愛パターンをかんたんにぬきだしてみたが、吟味・検討はこれからじっくりとしてゆくことにしよう。








   恋愛と幼少期・愛の妄想・嫉妬について      2003/11/12


 いまは恋愛に関する本を山ほど読んでいるが、私には語れることはほとんどないし、いつものように謎や疑問を解いてみたいと思うテーマもほとんど思い浮かばない。まあ、ほとんど謙虚に学ぶ以外はない。

 ▼いくつか考えたいことがあるとすれば、まずは恋愛とは幼少期の親の喪失感やトラウマを克服する試みであるかということである。

 幼少期にわれわれは親に愛されて全能感をもつわけだが、それが欠損していたり、大きくなるにしたがって失われたそれをとりもどす試みが恋愛であるというのだ。もし親から愛されなかったり、ゆがんだ愛しか与えられないと、その子はその愛のかたちを反復強迫することになる。大人のうまくいかない恋愛にはこのような原因が潜んでいるのだという。

 たしかに愛の関係や人間関係の基礎は親との関係から生まれてくるものだろう。人に接する態度も親との関係が原型にあるのは納得できる。愛を拒否されたり、ゆがんだ愛しか与えられなければ、その子どもは大人になって同じ行動か関係をくり返す怖れがある。

 愛情というのは無意識の感情であるから、理性のコントロールの効きにくいところにある。恋愛の関係には無意識に親との関係がくり返されている可能性があるわけである。もし大人になって同じ失敗ばかりくり返す恋愛パターンに陥っているとするのなら、親との失敗した関係を疑ってみるべきなのだろう。

 私は女性を好きになって目と目が通じ合うようになってもぜんぜん誘う勇気が出てこないという悔恨を何度もくりかえした。たんなる臆病者とか根性なしなのだろうが、友だち関係でも受け身的な性格だったので、これは親との関係からつくられたのだろうか。親から束縛されたり、のみこまれたりする怖れが強く、恋愛関係にしり込みするのだろうか。

 私がいま好きになった女性は好意のある誘惑をしておきながら私が好意をもって近づくと拒絶して私をつきおとすという恋愛パターンをもっているようで私はたいへん痛い想いをしている。親に愛をもって近づくと拒絶される体験をくりかえしたのか、それともそのような男性との失恋体験があるのか、私の謎は深まるばかりである。たぶん私の愛情表現が足りないために彼女は不満と怒りだらけになって私を拒絶するのだろう。


 ▼もうひとつ恋愛に関して気にかかっていることは、人は恋すると好きな人のことや過去のことをあれこれと思い巡らすことになるのだが、思考や過去の反芻の習慣は、人を不幸に陥れないかということだ。

 禅や仏教の考え方によると、人が不幸なのは思考や過去という幻想を現実にあるものだと見なしてしまうからだという。この考え方にならうと思考や過去や感情にぐちゃぐちゃにふりまわされる恋愛感情というのはずいぶんと苦しいものにならざるをえない。もちろん楽しく最高にハッピーな回想もできるわけだが、どちらかといえば、心配や不安のほうが多い場合もある。

 恋愛しているときはいま目の前に存在しない愛する人のことを想わなければ恋愛しているとはいえない。また愛する人との過去や行動を反芻して喜んだり不安になったりするのが恋愛というものだ。

 禅や仏教の「妄想を排して、いま、この瞬間のみを生きる」という心の平安とは程遠いところに恋愛はあるといえる。心を捨てて恋愛はできるのだろうか、と私は迷ったのだが、とりあえずは妄想と過去の反芻を選んでしまいたいと思うのが人情というものだろう。


 ▼あと一点、嫉妬について考えてみたい。いまは女性の貞操観念がほとんど問われなくなって複数の男性とつき合うことが当たり前の時代になり、男は女性の貞操を信じられる時代から一気に疑惑と嫉妬の時代につきおとされたといえるのであり、これから男は嫉妬という感情にうまくつきあっていかなければならなくなったわけである。

 愛している女性がいぜんほかの男と愛し合ったり、セックスしていたと思い浮かべることはたいそうツライことである。愛している妻がほかの男と不倫に陥っていると想像することはかなり痛いことだろう。

 このような疑惑は「浮気は男の甲斐性」といわれ、女性のみが我慢していた時代から、男女双方が背負わなければならない痛みとなったわけである。いまだって離婚のいちばん大きい理由は夫の浮気である。浮気はとてつもない心痛をもたらすものであることはいまもむかしも変わらない。

 これは結婚やつきあうことが愛情という感情におかれていることに痛みの大きな原因があるのだろう。たとえば結婚が政略結婚や完全な経済的理由のみからなされるものであったり、つきあうことが性欲のみの解消であったとするのなら、浮気や不倫はそんなに痛手とはならないはずである。愛するとはほかの異性と関係を結ばないという約束であり、浮気はその信頼を裏切るからつらいのである。愛という約束が自分を傷つけるのである。

 「愛に生きる」という恋愛至上主義の時代が、一夫一婦制の愛情観――つまり一生ひとりの人を愛しつづけるという愛のありかたを傷つけているのである。人は結婚してもほかの人を愛してしまうのは人の性のようである。もし終身婚を守り通すことより、恋愛感情のほうが大事であるという観念が支配的になると、生涯愛というのはかんたんに吹き飛ばされてしまうだろう。恋愛至上主義がひとつの愛を駆逐してしまうのである。

 これから愛のために愛する人をつぎつぎと変えてしまうような時代になってゆくのだろうか。だとしたらわれわれの愛は疑惑と嫉妬のかたまりと化すことだろう。

 嫉妬の地獄のような苦しみを味わいたくなかったら、われわれはせいぜい諦念するしかないだろう。心や愛情というものは「所有」し、つなぎとめておくことはできないこと、愛情というのはいつも変わらずひとりに向かいつづけることは少ないということ、などいろいろ対応策が考えられるだろう。愛についての永遠に近い期待はかえって自分に向ける刃となりかねないのである。

 それでは愛を信じてはならないのだろうか。せいぜい限定期間つきの愛、愛している瞬間のみを大切にする、といったものにしか信をおくしかないのかもしれない。男と女の遺伝子的戦略を解明する社会生物学なんかも、嫉妬の諦念をいさめてくれるかもしれない。

 われわれは恋愛の自由競争の時代において疑惑や嫉妬の苦しみより、心の平安を選ぶべきなのである。疑惑や嫉妬というのはどこにも存在しない妄想のことである。


 ▼愛と憎しみは一体のものだといわれるが、なぜだかわかった。愛しているがゆえに憎しみは生まれる。

 愛しているからこそ心配が大きくなる、愛しているから期待がふくらみ失望や幻滅を感じる、愛しているがゆえに嫉妬に苦しみ、憎しみに変わる。

 愛は相手に過剰な期待や親密さを要求し、依存を生み出す。したがってそれは失望や幻滅をかならず生み出すことになり、憎しみに転化する。

 過剰な期待をやめよといってもムリな話だろう。愛しているものにそんな言葉は通じないだろう。そして愛は憎しみに変わり、愛は終わる。






 みなさん、おひさしぶりです。またははじめまして。
 このHPは1997年12月からはじめられ、ことしの8月からプロバイダー消滅のため、3ヶ月のブランクをいただいたあと、帰ってまいりました。

 お待ちになってくださった方には(少ないと思われますが)、たいへんながらくお待たせしましてどーもスミマセン。HPアドレス変更やメール・アドレス変更などたいへんご迷惑をおかけします。

 このHPは社会や心理についてのエッセイや書評をメインにしております。過去の文章量は膨大なものになっておりますが、あなたの関心と合致したものが見つかれば幸いです。

 これからもゆっくりとしたテンポで更新してゆきたいと思いますが、この『考えるための断想集』をよろしくお願いします。

うえしん 2003/11/3


■031122断想集





   赤面と男女の上下関係     2003/11/24


 小倉敏彦の『赤面と純情』(廣済堂ライブラリー)はすごい本だと思う。明治以降の文学にあらわれた豪快な男が想いを寄せる女性の前だけでは赤面したり、もじもじしたりするのはなぜかと考察されていて、その切り込み方に感銘した。

 まあ明治の男は女性との対等なコミュニーケーションの方法を知らなかったり、失恋などで女性は自尊心をくじく迫害的な他者としてあらわれるからなどと説明されている。

 そうなのだろう、恋愛において男は完全に女性の選択権の下におかれる。好意がふみにじられれば、男性は自尊心やプライドをこなごなにされる。一方的な好意だったら、男はなおさら従属的な立場におかれる。男は好意を――赤面を意地でも隠そうとするだろう。

 この本で考察されている母への愛がかなわない『瞼の母』や想いがとげられない『男はつらいよ』は、愛をあえて貫かない男の純情がえがかれ、人々の共感をえてきた。男は女より立場が下になることをまぬがれ、男のプライドは守られたので観客は安心してきたのだろう。

 この社会において表面的には男のほうが女より立場は上である。明治の家制度でも、現在の経済制度においても、男社会が貫徹されており、女性は従属的立場におかれたままである。(と信じられている。ほんとうは女が「やらせている」社会だと見るべきだと思うが)

 男は女より立場が上にならなければならないのに、恋愛において男は女より立場が下にならなければならない。片想いや一方的な好意なら、なおさら従属的な立場にならなければならない。男はそこで好意や愛情を隠そうとして、赤面したり、もじもじしたりすることになる。男の自尊心、プライドなのである。想いが遂げられない男が美化されてきたのは、そこで男のプライドが守られてきたからである。

 一方的な片想いなら女性にふりむいてもらうために男は涙ぐましいプレゼントや努力をしなければならない。80年代に女性に献身的に尽くすミツグ君やアッシー君が揶揄されたが、たいがいの人たちはこんな男女の逆転現象に歯がゆい思いをしたことだろう。

 男社会と恋愛の逆転現象のダブル・スタンダードにおいて、男は自尊心をたもって女性から立ち去るか、それとも見栄も外聞もかなぐり捨てて女に献身的に尽くすか、という選択に迫られたわけである。もちろん想いを寄せる女性を手に入れたのは後者であるが、あるいはバブリー女性に搾取されただけかもしれないが、恋の成就しなかった前者は女性を手に入れられなかったが男の自尊心だけは守ったわけである。

 たぶんいまだって自尊心を守ろうとして女性となかなかつきあえなかったり、趣味に逃げる男はたくさんいるだろうし、恋愛関係で従属的関係になることより、経済社会で上位になろうとする女性もいることだろう。恋愛関係において男女の立場は逆転するのだが。

 男は恋愛関係において男らしさをかなぐり捨てなければならない。さもなければ男の自尊心は守られても、寅さんのように女性に去られてゆくだけである。男は自立したり、上の立場になったり、母への甘えから脱け出したいと思うものだが、それが男の自尊心を育ててゆくのだが、恋愛においてはその成長欲は恋の障害物となるだけである。赤面とは立場が下になりたくないという男のプライドなのである。







  もし愛した人が嫉妬狂と復讐魔だったら     2003/11/22


 人を愛するとはその人でないといけないということである。もしその思い焦がれる彼女が嫉妬狂と復讐魔だったらどんなつらい想いをするだろうか。こんな悲劇みたいな、喜劇みたいな話を考えてみよう。

 嫉妬狂の女性は常人が思いもつかないことに嫉妬できる。同性と話していても放っておかれたと思って激しく嫉妬するし、仕事で女性と話していても嫉妬する。すこしでも電話しなかったらもう怒りに変わっているし、ちょっと相手のできない時間が長引けばもう怒り狂っている。

 しかも女性というのはどうも感情や気分中心に考えるらしく、自分の気分をよくした人は「よい人」、悪くした人には「悪い人」と判断できるらしい。ゆえに「悪い人」に怒ることも罰することも正当的行為、正義と判断できるのである。

 それが常人には思いもつかない嫉妬心を根拠に正義の行為がおこなわれたとしたら、男にはさっぱりワケがわからないだろう。ただ意味もわからなく怒られたり、冷たくされたり、電話を拒絶されたり、呆然とするしかないだろう。ただ彼女が急に鬼か般若に変貌した結果の部分しか見えないからおろおろするばかりである。

 男はせっかく電話したり、デートに誘ったとしたも、彼女の気分をいつの間にか害したなどとも露とも思わないで、冷たくされたり、断られつづけるのである。あるときは愛情あるそぶりを見せていたと思っていたら、つぎの瞬間には怒りかえされたり、冷たくされたり、悪意ある言葉を吐きかけられたり、「もういったいなんなんだ〜」と頭をかきむしりたくなるだけである。

 嫉妬深い女というのはその嫉妬深さも復讐の武器にする。ほかの男といちゃいちゃしたり、男の車にのって帰ったりと、自分が傷つけられた分と同じだけ男に嫉妬の復讐をおこなうのである。でもそのことに男が嫉妬すると女は怒る。復讐だから正当化できると思っているのか、人の自由だと開き直っているのか。

 嫉妬深い女は怒りや復讐をきっちりと返そうとするから、男のほうからみれば、どうみても愛を破壊しているようにしか見えない。自分の傷つけられた分のお返しをしているだけのつもりかもしれないが、愛情の根をどんどん削りとってゆくことにまったく気づいていない。

 愛する人が憎悪や復讐の対象となるのである。こんなことでは愛が破壊されてゆくばかりなのに、嫉妬や傷つきやすさの認識が先鋭的なばかりなために、愛を表現することより、怒りや冷たさの表現ばかりが相手に返されることになるのである。

 愛する人が特別な存在になるのはだれにでもあることだ。期待や要求水準がかなり高まる。自分の感情や気持ちをぜんぶ満たしてくれるような過剰な期待を抱いてしまう。そして失望や幻滅を味わい、憤懣をぶつけ、彼氏の顔も見たくなくなる。男にしてはまったくチンプンカンプンである。勝手に過剰に期待され、勝手に失望され、相手にもされなくなるのである。

 男は理解不可能な彼女の責苦にさいなまされて心がゆっくりと離れてゆく。彼女は自分の心が傷つけられたから彼氏が悪いと思って正当化しているし、男のほうは彼女の怒りや冷たさ、不可解さばかり見せられて、つられて自分も怒り出して終わりになるか、心が冷めてゆく。いつ、どのタイミングで彼女に声をかけたらいいのかさっぱりわからなくなって恐くなるし、彼女の人格にも信頼がおけなくなる。

 嫉妬深さに愛を破壊してゆく女は自分の復讐の正当化がおこなわれているから、相手が悪いと思い込むので反省することもなく、男をつぎつぎと変えてゆき、同じことをくりかえしてゆくことになる。

 いつも届きそうな愛を目の前で自分から破壊してゆくから、愛の渇望は強く、男を誘惑する術は長けてゆくのだろう、男をとっかえひっかえ同じことをくりかえしてゆく。そして過ちに気づかない。まわりの人はまた同じことをくりかえしているといやになるが、本人は自分が悪いとは思ってもいないだろうし、同じ失敗をくりかえすとは、バラ色の求愛期間には、及びもつかないのだろう。

 嫉妬深さが悲劇のはじまりである。男には彼女の理解不能の怒りや冷たさから悲劇がはじまったように思えるだけである。

 彼女の嫉妬深さはいつ、どのようにはじまったのだろうか。劣等感、羨望、愛する人への過剰期待、そして感情中心の判断、仕返し、愛の破壊、などが連なって絡まっていったのだろう。彼女は自分の嫉妬心を根こそぎにしないことにはずっと手に入れかけた愛を破壊しつづけてゆくことになるだろう。

 男はせいぜい少しでも早く彼女の気持ちのメカニズムを理解してやって、彼女の気持ちをなだめ、慰めてやるしかないだろう。怒り狂えばすぐに関係は終わる。寛容な心で理解してやるしかない。嫉妬心の消去の方法を知って教えてやることができればいいのだろうが、そのときには、愛の破壊者は満たされない愛をさがしもとめて、ほかの男に心を移していることだろう。







   女性は非難しているのではなく、感情を共有したいだけ    2003/12/13


 女性の感情の動きには男の私にはとうてい理解したがいものがある。あるときはやさしくしたり、急に怒り出したり、冷たくしたり、その理由がまったくわからない。したがってこちらが近づけば、冷たく奈落につき落とされることがしばしばで、女性の頭の中はどうなっているのだろうと茫然自失となるしかない。

 女性は自分の感情の理由をひとつひとつていねいに男に説明しないと男は理解できないと思うのだが、不安やさみしさ、悲しみをつたえるのは抵抗があるのだろうから、つい女性は怒りや非難に走ってしまい、そしてけっきょくは関係を破局にみちびいてしまう。

 石井希尚の『この人と結婚していいの?』(新潮文庫)はそのような男と女の感情のすれちがいを見事に説明していて、目が醒めるような思いをした。とくに女性の感情的な発言は事実をいっているのではなく、感情的な気分をあらわしているだけであって、男はその字義どおりにうけとってはならないというのはものすごく参考になった。

 「「話したくない!」と彼女が言ったとき、それは本音では「話したい」という意味であることを理解しておいてください。「話したい」けれど、あなたに対する不満が「話したくない」という感情的な発言になっているのです。

 男性の左脳にとっては、「話したくない」はその通りの意味でしかないのですが、ここで「あっそう」などと言って話をしないでいると、彼女の心が完全に切れてしまうこともあります。彼女の本心をくみ取ってください」

 男にとって「話したくない」は字義どおり会話の拒否である。男はいまは会話したくないのだなと会話を控える。しかし女性にとってはそれは気持ちを表わしただけなのである。傷ついた気持ちを訴えたかっただけなのである。これを男に理解できるか? また拒否する女性にとりすがって心を開かせることができるか。男は女性の感情的な発言を言葉どおりにうけとってはならないのである。

 また女性は「あなたは最低」だとか「あなたはいつもそうよ」という男を傷つける発言をするが、これは相手を非難しているわけではなくて、自分の感情を表わしているだけだそうだ。気持ちの落ち込みを表現しているのであって、相手を憎いわけでも、嫌いになったわけでもないという。自分の気持ちを分かってほしいだけなのである。

 しかし男にとっては事実や言葉が重要だから、そのままにうけとり、たいそう傷ついて自信をなくすか、自分はそうではないと否定してケンカになるかだ。男は女性の気持ちを共有してやらなければならないわけだ。自分を守ることより、彼女の気持ちを慰めるほうが大切なのだ。

 女性は共感や共有、いっしょにいることをとても大事にする。会話でも男のように答えや解決をもとめているわけではない。ただ気持ちや考えの共有をのぞんでいるだけなのである。そこに人とつながっている安心感や充実感を感じるからである。感情的になるのはそれが欠落しているというサインなのである。

 女性の出口のないような、脈絡のない会話に男なら閉口したことがあるかもしれないが、女性は会話したり、いっしょにいることの安心感を感じていたいのである。男はほんとうに要件とか用事がないと会話をムダだと思うし、答えや解決がのぞめない会話に意味を見出せないと思っている。でもそれが女性の感情を共有したいという安心感をずいぶんと傷つけているということになるんだな。

 女性には人生を共有しているという実感が必要なのだ。そうでないと、自分一人が置き去りに去れているような最も感じてはならない不安――「自分は大切にされていない」という決定的不安を刺激することになってしまう。女性は誰よりも大切にされているという安心感がとても重要なのである。

 女性は事実をいっているのでなく、感情をいっているだけ――このことは男にはなかなか理解しがたい心の動きだが、女性とつきあう男は理解しなければならない事実なのだろう。感情を中心にものごとを捉えるのはどういうことなのか、どういう世界なのか、男は女性の身になって理解するべきなのだろう。

 男には非難や拒否と聞こえる女性の言葉も、いまの気持ちを表わしているのであって、言葉どおりの意味にうけとってはならない。「自分は大切にされていない」という気持ちを表わしているだけなのである。男は肝に銘じなければならない。







  さいきん思うこと、つらつら       2003/12/23


 書くことがなにも思い浮かばないから、さいきん思いついたことをつらつらと書きつらねます。

 12月になって増えたのはふつうの家にともるクリスマス・イルミネーションですね。あれはなんだろうと思う。雰囲気はいいんですけどね、クリスマスのなんたるかを知らない日本人がよくやるよと思う。

 中身がからっぽで、いつも形か雰囲気だけ。日本人の思想とか頭のなかってぜんぶあんなものなんだろうなと徹底的に象徴しているものなんだろうな、クリスマスというのは。

 さてわたしはことしで36歳になったが、子どものころから見ればとんでもないオトナやオヤジなんだろうけど、当人はちっとも歳をとっていると思わないことを知りました。たぶんそれは老齢になってもおんなじなんだろうと思う。

 もうわたしは中年と呼ばれる年齢にさしかかるのだろうけど、結婚も家庭ももっていないため、若いコドモみたいな女の子が子どもをつれているとぎょっとする。もうわたしはそんな年をすっかりと過ぎてしまったのに、いまだに結婚も子どもも持っていないと思うと、わけもわからなく時を過ごしてきたことにすこしの後悔を感じる。

 仕事に関してはもうなにも考えないことに決めたら、けっこう順調にいっている。不満とか理想とかをもっていると、ぎゃくに自分のほうを破壊してしまうものなんだろうなと思う。バカになるのがいちばん。

 哲学とかものを考えることに価値をおくことから、思考を捨てるという方法に重きをおくようになってから、やっぱり人生がだいぶ軽くなったと思う。きのうのことや覚えたことをものすごく忘れるようになったが、たぶん人生はこちらのほうがよほど幸福なんだと思う。きのうのことや記憶をずっと覚えつづけることは、人生を壊滅してしまうものなんだと思う。

 さいきんは恋愛のハゥトゥー本ばかり読んでいたが、ある女性とてんでうまくいかなかったからだ。彼女からモーションをかけてくると思っていたら、誘えば拒否されるし、ワケもわかんなくいつのまにか怒っているし、でも気があるようだし……。まあわたしが女心というものをまるでわかっていなかったのだと思うが、それにしても彼女の心変わりは常人では理解できないくらい激しく、男の誘いを拒否することに喜びを感じているみたいだし、ぜんぜん素直になれないみたいだし、もーどうなるのかわかりません。

 恋愛に頭をのぼせていたからか、それとも外界より心のコントロールのほうを大事にするようになったからか、ことしは社会情勢にまるで興味がわかなかったというか、さも一大事というようにニュースにわきたつ姿勢にうんざりしていた。このまま世間に関心をなくして生きてゆこうか。

 いまの読書は女性マンガのガイドブックに触発されて、桜沢エリカとか南Q太、やまだないと、内田春菊などの女のマンガを読んでいる。まあ女心や女の現実というものを知ろうという試みなつもりなのだが、やっぱりエロエロなアダルトマンガばかりに目が向くのは男のサガか。でもマンガなんて一時間で一冊読み終えてしまうし、お金がいくらあってもたりない。まあ書評を書くのが楽しみです。

 正月はJRの青春18きっぷでどこかに旅でもしようかなと思っている。駅で寝袋で寝るのは寒いからどうしようかなとも迷っている。近くの山にでも登ろうか、飽きてきたけど。パソコンを買い替えようかなとも思っている。ワイド画面でTVが見れるのがほしい。でも20万もかけるのはいやだけど。もしそのときにはこのHPもヴァージョンアップがやっとできることだろう。








   2003年、ことし読んだベスト本     2003/12/28


 ことしの前半は知識批判の本を読んでいて哲学していたけど、なかばからは性愛論とか恋愛ハゥトゥー、はては女性マンガを読むようになってほとんどテツガクしていない。個人的に女性にふりまわされた半年だった。

 年はじめはお金がないから安い小説を読んでいて、ベスト本に出会ったのはまずは宮本みち子『若者が≪社会的弱者≫に転落する』(洋泉社新書)だ。若者がフリーターになるのはラクや怠けたいからではなく、企業が若者を買いたたくようになったからだという認識の転換が必要ということだ。

 つぎはロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』(文春文庫)だ。フロイトは過去をほじくりだすことに重きをおいたが、私はそれは健康になるよりか、より災難をみちびくだけだと思う。思考や言葉が苦悩を私たちにもたらすのだ。東洋思想に学べと思う。

 小沢牧子『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書)はかなり重要な本である。心が商品になったこと、専門化社会に警鐘を鳴らしたという点で、瞠目の書である。犯罪がおこるとすぐに心理学者が出てきてすべて心の問題に帰してしまう。社会や経済に問題に求めないで、個人の心のみに問題を押しこめるのはかなりキケンではないか。心理主義化してゆく社会というのはしっかり問われなければならない問題である。

 それから私は専門化社会の批判や知識の弊害や害悪を考えてみることにした。市場経済の専門化がすすむということは個人がひとりで生きてゆく力を失ってゆくことである。知識批判はこれまで私が現代思想などを読んで、社会の批判や怒りに生きることの痛みや屈折の経験をふまえて、その弊害や影響を反省してみたかったのだ。

 知識批判の本はあまりなかった。たぶん教養的な知識は批判してうれしがるほどの重要な価値ではなくなったのだろう。谷沢永一『人間通でなければ生きられない』(PHP文庫)は批判や悪口しかいわない知識人を批判した本で、社会への呪いや恨みばかりに生きる人生が幸福なわけがないと私は思う。 

 それから私は性の現在がどうなっているかを探ろうと思ったのだが、性についての社会学的・哲学的な優れた本はほとんど見当たらなかった。自分でもなにを問いたいのかもわからないし、どのような問いを立てればよいのかもわからず、とりあえず性愛についての本を読んでみた。

 とうしょは愛という人格愛より性欲が肯定されるほうが必要だと思っていたが、人を想う気持ちというのも大切だと思うし、まあ私はあまり性愛・恋愛については決断も哲学もできなかったということだ。

 赤松啓介『夜這いの性愛論』(明石書店)はかなり人生観がゆさぶられる本だ。一夫一婦制以前の日本のおおらかな性のありようが描かれていて、性を語ることは人生を語ることでもあると思った。性を隠した社会は人生をも語れないのである。 

 それから私は個人的に女性とうまくいかないことがあって、恋愛ハゥトゥー本ばかりを書店の恋愛コーナーで女性がいないスキをねらって買いあさってみた。ああいう本は女性が読むのだと恥かしいわけである。男もこそっとベンキョーしたりするのだろうか。

 もしかして人は同じ恋愛パターンばかりをくりかえしているのではないかという説などが興味をひいた。異性と心を通じ合わせることはこんなに困難が多く、難しいことなのかと思わずため息をついた。

 恋愛ハゥトゥ本ではものすごくよかったという本はあまりなかったが、松本一起『恋愛セラピー』(KKロングセラーズ)はかなりよかった。愛しているからこそ喧嘩や嫉妬をするのであり、愛する人を失うためではないと、愛したり許したりする気持ちの大切さを何度も思い出させてくれるいい本である。

 石井希尚『この人と結婚していいの?』(新潮文庫)も男と女のすれ違いをこれほどまでに明確に説明してくれた本はないと想う。女性は男性を非難しているのではなく、ただ感情を共有したいだけという説明は経験あるだけにそうだったのかと感嘆することしきりである。男と女の気持ちのすれ違いに悩む人にはものすごく役に立つ名著になると思う。

 いまは女性の気持ちや女性のリアルを知ろうということで女性マンガを読んでいる。女のマンガを男が読むというのは少しやましさがあり、とくに書店の少女コミックコーナーに立つのは恥かしい。だからワイド版や文庫では混同しているのでそこで買う。

 南Q太、やまだないと、桜沢エリカ、内田春菊、岡崎京子などのエッチ作家、オトナ作家とよばれるものを読んでいる。どうなんでしょーか、女心をほんとにベンキョーできるんでしょうか、それともいつかサブカル・恋愛分析ができるようになっているんでしょーか。まあ、たんなる娯楽に終わりそうですが。

 ことしは8月から三ヶ月くらいプロバイダー消滅のためHPは閉鎖していた。ひっこしてからアクセス数がほとんど増えないが、いぜん来てくれていた人たちは復活したことを知ってくれているんでしょうかね。

 ことしはひつじ年で私は年男だったわけだが、年男というのはなにかいいことがあるのだろうか。まあすこし恋愛に燃えたが、なかなかうまくいかないけど、仕事はほどほどに安寧としていたから、まあよかったほうの部類に入るのかな。干支の12年は人生のあたらしいサイクルに入ったということを教えているのかな。来年もよりよいことがみなさんにも、私にもあるように。




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