交換と規範の感情学についての断想集



      感情支配からの自由    2000/3/17.


 感情から自由になる方法はいったいどのようなものがあるだろうか。感情に支配されることの多いわたしが知っている限りでは、感情を相手にしない、無視する、放っておくという方法がある。感情を客観的にながめて、それと同一化しないこと、また感情的になったところでなんの問題の解決にも解消にもならないと知ることである。

 わたしたちが感情的に激昂するのはそれがなんらかの解決をもたらすと期待しているからである。感情というのはじつのところ赤ん坊が母親に注意を向けさせるメッセージの道具だったのであり、大人になっても同じ用法で他人へのメッセージとして使用している。つまり「わたしは怒っている、悲しんでいるから、あなたは〜しなさい」というメッセージをもっていることだ。

 こういうメッセージの用法としての感情という側面を忘れると、怒りについてサルトルがいったように「魔術的試み」の効用を信じてしまうことになる。感情にはなにかの力があると思いこんだり、万能的な力があると思ったり、はては超能力的効果まで妄想されることになってしまう。

 感情というのは自分を怒りや悲しみの激昂手段として用いて、他人にメッセージや行動の悔い改めを迫るものである。いわば、自分の身体まるごとをもちいて怒る広告塔や悲しむ広告塔と化すわけである。広告塔の維持費や苦痛というのは自分にとってひじょうに高くつくので(ぴかぴかのネオン・サインみたいなものである)、安く抑えるに越したことはない。

 人が感情的になるのはやはりその効果を信じているからということになるのだろう。あまり解決も解消にもつながらないと理解するのなら、感情への期待も使用頻度もそう多くならないというものである。

 もうひとつ忘れてならないのは、喜怒哀楽のない人生はつまらないと思い込んでいることである。楽しんだり、喜んだり、悲しんだりしてこそ、人生は楽しいし、うるおいがあるものであり、自分らしさや自然体を生きられているという「感情信仰」をもっているのなら、われわれはよりひんぱんに感情的に生きようとするだろう。

 近代人の常識として合理的に生きることが人間の進化の道標であるという考えがあったはずなのだが、いつの間にか野蛮や動物的であると思われていた感情が、自分らしさや生きがいの指標となってきたのは意外なことである。

 合理的な生に対する反抗として60年代あたりから「セックス革命」とかともに「感情革命」がおこった影響のようである。そしていまでは感情や好き嫌いがすっかり自分らしさや個性を表わす指標になっているという断絶がおこっている。

 感情や好き嫌いが自分らしさ、個性だと思い込むようになると、人は感情的な価値を高め、その力を過信するようになるだろうし、その結果感情の奴隷となったり、自己は感情の荒波にほんろうされる小船になったり支配されてしまうだろう。感情にハイジャックされる人生が待っているということである。

 感情を批判的にながめるようになると、テレビ・ドラマや映画、小説などは驚くほどメロドラマ――つまり感情の埋没や没入を讃歌していることに気づく。感情の讃歌と感情的になるススメである。

 おそらくこれは商業主義や消費主義と関係があるのだろう。好き嫌いや好み、感情的に生きることによってもっと消費や贅沢をしなさい、モノやサービスを買いなさいという商業論理の要請なのだろう。われわれがより感情になり、感情が自分を表わす指標になったのはそういう事情があるからだろう。

 どうやらわれわれがより感情的になったり、感情の荒波にほんろうされたりする理由は、感情にこそ人生の生きがいがあり、およびそれこそが自分なのであるという「感情信仰」とでも呼ぶべき現象があるからなのだろう。感情を信仰し、崇拝されるがゆえにそれに同一化し、支配され、ふるまわされるというわけだ。

 こういう信仰を捨て去ったところに感情からの自由があるのだろう。しかし「感情のない子どもたち」といった本のタイトルがあるようにわれわれは感情がなくなることをロボトミーや病的形態と感じるような傾向ももっている。感情のない人生は死人の生であり、生きるはりあいや活力がなくなることなのだろうか。

 しかし老荘思想や仏教には枯木死灰の状態を理想とする思想もないわけではない。感情や欲望は人生を苦しまさせる要因だと考えられているからである。

 「感情信仰」の時代に生きているわたしとしてはどちらの立場のほうが正しいのかは早急には判断を下せないが、社会規範や慣習に盲目に支配されたり、感情の荒波に苦しめられるようなら、感情というのはできるだけ捨てるほうがいいのではないかと思う。感情から自由になることができたのなら、われわれはどんな幸福の地平を手に入れられるかわからない。



      規範感情は解体できるか   2000/3/16.


 感情というのは自然に発生するものだと思われている。悲しいときには悲しくなり、さみしいときにはさみしくなるといったように。

 しかしこの感情を客観的にみると、規範や慣習にしたがっていない場合にそのような感情がわきあがってくることがわかる。つまり規範や慣習に従わない罰としての感情である。

 いぜんわたしはいろいろな慣習や規範といったものにことごとく反抗していた。大衆の画一的行動といったものにもかなりの目くじらをたてていた。しかし慣習に従いたくないとつっぱねても、どうも感情がいうことを聞いてくれない――慣習に沿わないと、悲しさやさみしさの感情にいつも襲われたのである。

 頭で考えたことに対して心(感情)はついてこないのである。ということでわたしは感情というのは規範や慣習を守らせるためにある道具だという思いを強くしていったわけである。(カミュの『異邦人』はそういうところをついているのだと思う)

 だから規範や慣習に流されないためには感情の解体というものが必要になる。また、たぶんこの規範感情というものから解放されることが、人間の究極の自由というものではないのかと思う。感情の奴隷になった人間はおそらく自由から程遠いのだろう。

 それにしてもわれわれは感情というものを客観的に見ることはまずないし、感情こそが自分自身となってしまって、感情に支配されるのが多くの人のありかただといえるし、そもそも感情に対する知識や追究すらほとんど手つかずといった状態だ。

 なんでもわれわれの一般的常識からすれば、感情は原始的なものであり、人間は近代化ととも合理的な行動をするようになるそうである。それにしてもわれわれの身のまわりの人が感情を捨てて合理的に行動していっているようにとても見えないし、わたし自身も感情の怒涛のような毎日を経験しているし、世間一般では好き嫌いという感情が自分らしさや個性を表わす指標になっているのはどう説明するというのか。

 合理的行動どころから、感情に支配され、のっとられた道具になってしまったのがわれわれポスト近代人ではないのか。そして感情というのは人間を規範や慣習に従わせるための装置である。われわれは感情の奴隷であり、そしてそれによるコントロールを通しての社会規範の奴隷となっているわけである。二重に奴隷となっているわけだ。

 そこで感情は解体していったほうがいいと思うのだが、しかし感情がなければどうやって対人関係や世間との処し方を実行していったらいいのかと疑問に思わなくもない。感情はいろいろな状況に即座に対応するすべを教えてくれるひとつの指標ではないのか。これがなければ、われわれは状況への対応のしかたを誤ってしまったり、状況を読みまちがってしまうのではないか。

 しかしそんなことより大事なことは感情の支配から自由になることである。感情の奴隷になれば、規範や状況の囚人と化してしまう。われわれはまずここから自由になる必要がある。

 感情をコントロールする方法としては認知療法や論理療法、仏教の思考の消去などの知識がある。心理学やセラピーは社会順応の方法を説いているが、体制離脱の方法としても使用可だろう。




       社会的コントロールとしての感情     2000/3/13.


 感情というのは、人を悲嘆のどん底に追いやったり、あらぬ心配に駆り立てたりして、ときには個人を必要以上にさいなむものである。感情は害悪をもたらすほうが多いのではないか。では、なんのためにあるのか。

 社会規範を守らせるためにあるのではないだろうか。人々の行動を統制するには感情というのは有効な道具である。怖れや恥ずかしさ、いたたまれなさ、居心地の悪さといった感情は、じつに人々の行動を規範に合わせるために適した道具である。

 こういうすごいことを「感情社会学」という新しい社会学はいっている。感情というのは、近代社会にとっては理性的・合理的に行動できない要因としてかなり排斥されてきた。感情は合理的人間にとっては原始的で、野蛮で、封建的なものだったはずである。

 しかし喜怒哀楽のない人生はつまらないといった言葉が世間で交わされることは多い。感情は自然に発生するものであり、コントロールできない、という思い込みを多くの人はもっており、だからこそ「自分らしさ」や「個性」があらわれると人は思っている。

 不思議なものである。感情は原始的で野蛮なものだったはずが、いっぽうでは自分らしさや個性をあらわす重要なアイデンティティになっているのである。そして同時にその感情は社会規範に合わせるためのコントロール装置でもある。

 自分らしさをあらわす感情(好き嫌いなど)が社会のコントロール装置になっているとは皮肉なことである。だからこそ感情は合理的でない野蛮なものとしてかたづけられ、学問にもかえりみられなかったのだろうか。社会コントロールの道具として感情は隠蔽される必要があったのだろうか。

 わたし自身の経験からいって、社会趨勢に反抗的・批判的な行動や態度をとるようになると、悲しみや怖れなどの感情をより強く感じる経験をしてきた。だから感情というのは社会にコントロールされるための道具だという思いを強くしてきた。

 頭で考えた新しいことは感情という古い規範によくうちのめされるのである。頭でおかしいと思いながら、社会規範や社会コントロールに従わされるのはあまり愉快な経験ではない。だからわたしは規範による感情はできるだけコントロールできる知識を身につけたいと思う。

 論理療法などでは感情は自然に発生するものではなく、考え方や思考スタイルによって生み出されると考えている。だから感情はコントロールできるものなのである。ストア哲学や仏教などでも思考を虚構ととらえ、無思考にすることによって感情のコントロールを説いている。感情はコントロールできないものではないのである。

 ただし感情のコントロールはかんたんなものではないし、幼少期からつちかわれた感情の自然的な規範はちょっとやそっとでは動かせるとは考えにくい。新しい感情社会学といったジャンルがその感情規則から解き放たれる知識を提供してくれるよう期待していたいと思う。

 参考文献:山田昌広『感情による社会的コントロール』/『感情の社会学』世界思想社



          嫌われ者バンザイ?    2000/3/12.


 他人の好感のなかにしかわたしの「居場所」がないと感じているのが現代人あるいは若者のありかただろう。学校や職場、集団やグループのなかで、わたしの存在を認めて、保証してくれるのは他人の好感やつながり、会話だけである。

 だからわたしたちは人に気に入られようと無理に努力したり、明るく楽しい人格を装ったり、趣味や好みを合せたり、八方美人的にふるまったりしなくてはならなくなっている。人から嫌われたり、集団から除け者にされたら、たちまち集団での居場所を失ってしまうのである。綱渡りみたいなものである。

 人はこうならないよう涙ぐましい努力を重ねておこなっている。現代人の存立条件といっていいかもしれない。

 集団のなかで気に入られること、受けいられること、認められること、それだけがわれわれの最大関心事であり、緊急事態なのである。この磁場を中心に現代人はどんなにゆがみ、そのブラックホールに向かってどんなに知識や技法、努力が吸い込まれているか、すさまじいものがあるのだろう。

 画一化したり、同調したり、集団のイヌとなってかしずくのはなさけないとは思ってみても、集団から除け者や嫌われ者にされる恐怖はとてつもないものがある。居場所もなくなる。しかたなく、われわれはどこまでも人に気に入られようとしっぽをふりつづけなければならない、生きかたや考え方、趣味、好み、見るTV、休日の過ごし方等々を人々の生け贄に捧げて――。

 しかしこういうことにあまりにも不安や悩みが大きくなるようだったら、学ぶべきは同調技術や心理学的知識なんかではなく、じつのところ、集団からつまはじきにされる者や除け者にされる者なのかもしれない。

 たいがいの人はかれらを嫌悪感や不快感、怒りのカーテンでしか見ないだろう。ほんとうのところは、このカーテンがあまりにも強すぎる人ほど、除け者や嫌われ者になるのが恐ろしい人間なのである。

 他人に思うことは同時に自分にも向かっている。「他人のふり見てわがふり直せ」ではなくて、他人を叩いている人間は自分のそのような部分を同時に叩いているのである。つまり自己規制の網をかけているわけだ。嫌えば嫌うほど、自分が除け者にされるのが恐ろしくなる。わたしの心のなかでは他人も自分もなくて、嫌悪感はすべてに適用される。

 ということは社会に受け入れられない怖れを強く抱いている人は、除け者や嫌われ者にたいする激しい嫌悪感といったものをとりのぞく必要があるのではないだろうか。嫌悪感はその当人のものではなく、まさしく自分を幾重にも縛りつける行動の網なのである。

 嫌われ者が教えてくれることはそれだけではないのだろう。われわれが必死に他人に同調したり、媚びをまかないですむなにかをもっているのだろう。かんたんに人に同調しないですむ価値観や行き方といったものである。また人から叩かれたり、嫌われたりして、たぶんに同調人にはない精神的な強さやクッション、免疫といったものが育まれているものだと思われる。

 社会に受け入れられる不安を強く抱いている者は、嫌われ者にたいする強烈な偏見や嫌悪感をまずとりのぞいて、かれらの価値観や精神的な免疫といったものを参考にするのがいいのだろう。

 他人の好感といった危ういものにあまりにもすがりつく人間は、失うものもあまりにも大きく、また自分を犠牲にし過ぎるだけである。まずは嫌われ者の嫌悪感のカーテンを開け放つのが必要なのだろう。

 人に好かれるための本はいっぱい出ているのに、人に嫌われるための本はなぜないのだろう。集団の規範に合せることより、自分のほうが大事であるという価値観がまるでないわけだ。自分を大切にしたいと思う者は人に嫌われることも厭うべきではないのだろう。




       選別社会に受け入れられない不安   2000/3/11.


 中島梓の『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)という本は現代社会のありようをひじょうに鋭く分析している。

    

 現代の若者が切実に求めていることは「社会に受け入れられること」である。これがこの本の一大テーマであり、またわれわれの生き残るための闘争条件である。われわれは自分の「居場所」は、「他の人間の好感」のなかにしかないと信じ込まされている。だからひじょうに苦しいのだ。

 この「社会に受け入れる」ことをめぐって人々はさまざまな対処策や困難な問題をうみだすのである。おタクは選別社会を否定し、内宇宙にたてこもったゲリラであり、女性たちのダイエットはそれに過剰適応して身をけずりつづけているのだと中島はいっている。

 この社会は選別社会であり、ほかの人間の好感のなかにしか居場所はないと感じるのは、ひじょうにわたしも実感できるところである。この社会にどうやって受け入れるかをめぐって人はさんざん悩んでいるといえる。

 それはそれはキビシー選別社会である。女性たちにとってこの社会は「人肉市場」であるし、男も女性からそのようにまなざされたとたん恐怖に駆られて「おタク」世界に閉じこもったのである。われわれは他人からたえず「選別」され、おもしろくなかったり、魅力がなかったり、ひとづきあいがうまくなかったりしたら、すぐにポイ捨てされる「商品」になってしまったのである。

 TVタレントが教えることは「見られる」こと――つまり社会から認められたり、有名であったり、といったことを完全に支配した人が偉い人であり勝者であり、ぎゃくに「見る側」は失敗者、敗者なのだということなのである。

 われわれはこういった他人の好感や興味、関心といったひじょうにめまぐるしく変わる覚束ないものに支配されているというわけだ。そうすることによって多くの人から「保証」をえられたり、「居場所」を与えられたり、安定するだろうと思い込んでいるのである。

 われわれはこの過酷な選別社会とどうつきあったらいいのだろうか。人はそれぞれの対象法をしらずしらずのうちに身につけていったことだろう。わたしなんかどちらかといえば、ひとに「よい顔」ばかりする人間であるし、選別を拒否する傾向もある。隠遁者とか仏教者の生きかたに少々魅かれもしたが、選別を拒否したという点でおタクと似ているともいえなくはない。

 ショーペンハウアーもやっぱり他人の印象に支配される奴隷なんかならずに孤独に生きろといった。まあそこまで極端にならないまでも、他人の好感をどこまでも当てにしない心をもち、理想と要求を下げるべきなのだろう。

 そのためには人に嫌われたり、拒否されたりしても、めげない強い心が必要になるが、心の強さというのはいちいちいろいろ考えない、頭を空っぽにすることにあるのだろうとわたしは考えている。




      感情の経済学     2000/3/9.


 ある感情を相手から受けたら、お返しをしなければならないというのが人間関係の暗黙のルールとしてある。これは貨幣や商業、取引き、交換関係と同じものである。この貨幣関係をベースにして人間関係はだいたいなりたっている。

 たとえば、ある人から心を傷つけられたり、心ない仕打ちをうけたら、報復や復讐をしなければならないと多くの人は思っていたりする。またある人からお世話や恩義をうけたりしたら、恩や義理をお返ししなければならないと人は思うものである。

 さまざまな感情というのは貨幣のように人間のあいだを流通しているのである。感情の買い手は売り手に恩義であれ、報復であれ、お返ししなければならないということである。

 刑罰というのも、ニーチェが指摘するとおり、損害や被害をうけた感情はどこかに等価物があり、相手側にその苦痛分をあたえることによって報復が可能だと思われているものである。

 さまざまな感情や苦痛、損害、恩義といったものはどこかに必ず等価物があるはずだという考え方がわれわれの人間社会の根本的なベースになっている。商業の関係が金銭関係とまったく関わりのない人間関係においても貫徹しているというわけだ。

 だが、この感情の貨幣というのは混乱をきたしているというのが実状だろう。カネのように数字で割り切れるものではないし、一方的な取引き成立の思い込みだけで成り立っている売り手もいるし、主観的な思い込みやモノサシによってひじょうに雑多で多様な売買関係が交錯していたりするからである。

 この交換関係の失敗や読みとりミス、勘違い、一方的な思いこみ、無知といったものがさまざまな人間関係のトラブルをひきおこしているのだろう。感情の貨幣というのはあまりにも一方的な思いこみ、一方的な取引関係というものが多いのは人間関係のさまざまな行き違いや錯誤からうかがい知れるものである。

 われわれはこの取引関係の捉え方や行ない方を、その人の性格や人格、あるいは心理だと思い込んできたのではないだろうか。性格なんてものではなくて、感情の取引き形態をどのように認識しているかによって、その人の表われ方が異なってくるといえるかもしれない。

 他人に期待した感情の取引きのありかたは、そのまま自分の心の基準である。この基準からズレたり、もれたり、予想外の行為が返ってくるのなら、われわれは悲しんだり、怒ったりするわけだ。「わたし」という人格は感情という貨幣をとおしたいっしゅの「個人企業」や「個人商店」そのものであるといえるかもしれない。

 われわれはこの社会に生まれ落ちたときから、この感情のとりひき――人に苦痛を与えたら苦痛を与えられるものである――というルールを徹底的に親からたたきこまれる。親に怒られた子どもは、あやまったり、反省したりして、苦痛や苦悩という感情を末永く「所有」するように仕向けられる。こうしてわれわれは感情の取引関係に参入してゆき、個人商店の看板をかかげるようになってゆく。

 しかしながら、感情の取り引き形態はさまざまな人間間のトラブルや苦痛や苦悩をひきおこしてきた。多くの宗教では感情の取引関係を否定している。つまり感情にはどこにも等価物なんかなく、また時間とともに消え去る虚構であるといってきた。感情は取り引きできるものではなく、また時間がすぐに消し去るものなのだということを諭してきた。なるほどまったくそうである。

 心の平安、また人との平和な関係を築くには、感情貨幣の「個人商店」はたたんだほうがいいようである。だれかからうけた苦痛を報復や復讐というかたちで帳簿にのせておくのは、自分の苦痛の継続に一役買うだけだし、相手のトラブルをこじらせてよりいっそうの苦痛の拡大に加担するだけになるだろう。

 ただ、被害や虐待を含むような不平等関係において、どれだけ取引関係を発動させないでおけるかはむずかしいところである。流れる川は同じ水ではないといわれても、この取引関係が今後も継続するとするのなら、わたしはどうしたらいいのだろう? ねえ、おシャカさん。






     他人におこなうことは自分の心の基準である    2000/3/8.


 さきのエッセイ(↓)で他人への配慮は交換を前提としてのお返しを期待しているということをのべた。カネを払っていると同じことになるというわけだ。ただしこのカネは無形のもので、そのためにいろいろな行き違いや約束不履行がおこったりして問題が多そうである。

 今回もういちど反芻しておきたいことは、他人への配慮は自分の心の基準であるということである。他人へ思いやりややさしさという贈り物をするのは、自分がそうされたい、そうされる権利があるという前提があるということである。

 つまり他人におこなっていることは、自分にもおこなわれるべきものである、ということだ。われわれは暗黙にこう思っている。そのためにふだんから他人への配慮を高度におこなっている者は、自分にもとうぜんそれと同等のお返しや待遇が与えられるべきだと暗黙に信じこんでしまう。

 問題は、この交換がカネの交換のように明確な制度や法律として定まっていないことだ。だから行き違いや約束不履行がおこる。また自分自身もそういう交換やお返しというルールを意識しておらず、暗黙に自分はそうされるべきだと勝手に思い込んでしまい、約束不履行にえらくご立腹されたり、悲痛な気持ちになったりするのである。

 キレる若者もそうだろうし、幼児虐待も暗黙のお返しは幼児からとうぜん返ってこないのに、無意識にお返しを期待しているから幼児相手に逆上してしまったり、ちまたの人間関係の問題やいさかいもこういうところからおこっているのかもしれない。

 恋愛というのも愛や好意を与える代わりに所有や身の回りの世話といったお返しを期待する交換関係である。ストーカー行為というのは、一方的な高い愛情や好意の見返りが返ってこなくて報復という手段に出るものである。感情や行為の贈り物というのはカネの取引関係のようにはっきりとしていないから、一方的な取引関係がついつい成立したと思ったり、約束を破棄されたと思いがちになるものである。

 われわれがこのことに気をつけなければならないことは、他人におこなっていることはかならずなんらかの商業関係をベースとして物事を捉えているということである。交換関係で他人との関係が成り立っている。他人におこなっていることは、暗に自分もそうされるべきものだと思い込んでいるものなのである。

 いわば、他人におこなっていることが表わしているものは自分の心の基準なのである。自分自身の心の投影なのである。わたしが他人におこなう高度の配慮や気づかい、繊細な感受性といったものは、すべて自分も他人からそうされるべきものだという前提があるわけだ。

 この前提によって、わたしの心は傷ついたり、悲しんだり、怒ったり、腹を立てたりするわけである。その基準や要求が高ければ高いほど、わたしの心はいっそう傷ついたり、悲しんだりする感情の激昂を味わうことになる。

 だからといって他人への配慮や気づかいをやめよとはいわないが、あくまでもこの心の動きは交換関係を前提としているということを銘記しておくことだ。暗黙に交換を期待しているということだ。

 この交換はひじょうにあいまいなもので、罰則も法律も明確な交換関係もないわけだから、裏切られたり、約束を守られないことは、ごくひんぱんに出現する当たり前のものだと自覚しておくことだ。でないと、ひんぱんに傷ついたり、怒り心頭になったりしなければならない。

 感情や行為の交換関係というのは、高いカネを払ってもひんぱんに見返りやお返しが返ってこないものである。買い物のようにカネを払えばちゃんとモノやサービスが手に入るものとはまたワケが違うのである。

 また、わたしの心というのはこういう他人との関係、配慮、気づかいといったもののなかにあるものなのである。心はわたしの内部にあるのではない。他人への配慮や気づかいといったものがわたしの心の基準なのである。




      交換贈り物としての人格配慮    2000/3/7.


 贈り物というのは直接的なお返しを期待しないでも、暗に精神的・非金銭的なお返しを期待してなされるものである。

 人格崇拝、あるいは人格配慮という道徳や規範ももちろん相手に配慮した分、自分にも同じような配慮とあつかいをしなさいという暗黙のお返しを期待してなされるものである。

 他人への配慮・やさしさ・思いやりといったものは、じつは暗黙のお返しを期待しての贈り物なのである。配慮という贈り物をいただいた者は精神的な「借り」や「重荷」ができたと感じる。そして配慮や思いやりといった感情を相手にもうけわたしてゆく。こうして人間関係というのは、配慮や感情という贈り物をそれぞれ交換しあいながら、その間柄を深めてゆくわけである。

 しかしこの交換儀礼は明確なものでもなく、きっちりとした契約書が交わされたものでもなく、人によっては暗黙のギブ・アンド・テイクという規則に気づかない人もいるだろうし、あるいはどのようなお礼やお返しをしたら適切なのかわからない場合もあるだろうし、そもそも感情や配慮というあいまいな贈り物だから、それが返礼を期待しての贈り物だったと気づかない人もいるだろう。

 森真一が語っているところによると、若者がキレたり、幼児虐待が増えているのはこういうところに理由があるという。つまりせっかく高い人格配慮という贈り物を贈ったのに、相手が応えてくれなかったということだ。自分はこんなに配慮してやっているのに(贈り物をあげているのに)、相手は自分を傷つける行為や言動をした、幼児は言うことを聞いてくれなかった、だから罰を与えるのは正当だ、ということになるわけだ。

 われわれがごく自然におこなっている他人への配慮、思いやり、気持ちを察すること、こういった感情の動きはじつに商売の関係や贈り物の関係と同じものなのである。感情や配慮といった気づかいやマナーといったものは、高い値段とカネがついているものである。いわば「シャドウ・エコノミー」というか、「影の交換関係」ともいえるわけである。「感情の経済学」である。

 他人への配慮・人格崇拝の道徳を高度に守る者は、多大な投資をして他人のメンツを必死に守り、傷つけないように繊細に配慮しつづけるわけだが、それを交換儀礼として見るのなら、自分自身にもそれ相応の返礼・配慮をしなさいということになる。つまり自分の人格が傷つけられないように守られた鎧を全身にうちたてているわけだ。

 他人への配慮は自分自身への配慮も高度にしなさいというメッセージであり、また返礼の高度化を期待してのおこないだといえる。

 現在は人格崇拝の規範が高度化・厳格化していると森真一はいっているが、そのために若者は希薄な人間関係をもったり、人間関係が苦手になったのだと分析している。かれらはけっして内閉的でも内向的でもなくて、他人の人格および自分の人格を傷つけるのがあまりにも怖いためにそのような希薄な関係をとり結ばざるをえないというわけだ。

 人格を傷つけないために鎧や城壁はますます高くなり、人はますます近づけなくなっている。過敏なまでの他人への配慮・思いやりといったものは、傷つきやすい心をますます高めているだけではないだろうか。

 他人への配慮は自分自身への配慮の高度化を暗に期待しているわけである。自分への配慮をますます高め高めに見積もってゆくと、心はほんの些細なことでもたびたび傷つくようになるだろう。

 そういったことでキリストがいった言葉、「右の頬をぶたれたら、左の頬をさしだせ」が思い出される。人が怒ったり、悲しんだりするのは、「人はみだりに人の顔をぶつべきではない」とか「わたしはだれにも顔をなぐられる権利はない」という前提や考えをもっているからである。つまり「あってはならない」ことが起こるから、人は怒るのである。キリストはそういう心の「構え」自体を捨てることをいっているわけだ。

 他人への配慮をすればするほど、他人からの無礼や無作法なおこないは我慢ならなくなり、傷つきやすくなる。だから他人への配慮という高い道徳性と自制心をもっている者は、交換の観点から見るのなら、気をつけなければならない。わたしが他人への配慮をすることによって暗に期待しているのは、自分を傷つけないことを他人が気づかうということだからだ。

 でも世の中そんなうまくゆくわけがない。人はさまざまな状況・場所でわたしを傷つけ、悲しませるものである。他人がわたしを傷つけなくなるなんてことはおそらく永遠に不可能だろう。他人への配慮を過度におこなっていると思う者は、じつは自分の傷つきやすい心をますます高めているということに気づくべきだろう。





      「自分」崇拝社会と誇大自己     2000/3/5.


 「人の心を傷つけてはならない」という人格崇拝の規範が厳しくなっていると森真一は指摘している。古くはデュルケームが宗教の代わりの人格崇拝として論じ、ゴフマンがその日常の表出のされ方を詳細に語ったそうだ。

 これのなにが問題かと考えているとき、はたと小此木啓吾の『自己愛人間』(ちくま学芸文庫)という本が目にとまった。人格崇拝というのは、ことばを換えていうなら自己愛、あるいはナルシズムのことなのである。

 人格崇拝を最大の社会道徳とするのなら、自己愛およびナルシズムが増長してゆく社会をつちかっているということになる。自分本位の生きかたをおたがいに尊重しあうのが社会のひじょうに重要な道徳になっているのはだれもが実感できることだ。

 この「自分崇拝」の高度化と道徳化がすすんでゆくと、自己の内部においては自己の価値や重要性がインフレ的に加速するのはいうまでもない。そのように育ち、守られた人格が、「誇大自己」をつちかってゆくのも論理的な帰結である。親の期待も自己愛の肥大化をもたらす。

 わたしはいぜんから折りにふれ、現代に多くなっており、自分にも若干そのような傾向がある誇大自己というものに疑問に思ってきた。なぜ現状や現在に不満ばかり感じるのか、もしかしたら自分は誇大自己的な自我をもっているのではないかと思ってきた。そのような疑問がこの自分崇拝規範というキーワードで解けそうな気がする。

 小此木啓吾が指摘するには、自己愛や誇大自己をもつ者は「分を知る」ことができなく、現実に適応できない弊害があるといっている。肥大した自己は自分を限定されることをひじょうに怖れるのである。これは若者がモラトリアムやプータローになる心性につながってくる。

 自己愛人間は理想や誇大自己があまりにも高いため現実社会になかなか適応できず、自己限定もできなくなる。「自分はこんなちっぽけな存在」ではないと心の声がたえず不満をもらすのである。

 人格崇拝の道徳をみんなでせっせと守っている社会は、分を知ったり、自己限定という、現実社会に適応してゆく通過儀礼ができなくなる若者をつくりだしていることになる。神のごとき全能なる自分は、さげずまれたり、傷つけられたりする立場やアイデンティティをもってはならないのである。

 わたしは自分の心の底からわきあがってくる自己限定の怖れの根拠とはなんだろうなと思ってきたから、なるほどである。この怖れは自分のひじょうに深いところとつながっていると感じていた。どんな言葉をもってしても、なかなか自己限定を納得させる言葉が出てこないからである。自我の根本的なところとつながっているようである。

 自分崇拝のインフレーションを治癒させるためには、理想を低く下げる必要がある。そういうときに老荘思想や仏教などの諦観的な思想がひじょうに染みてくるのだろう。われわれはあまりにも自分を愛し、崇拝しているがために、「分を知り足るを知る」といったような東洋的な思想がおあつらえ向きになるというわけだ。

 自分をどこまでも崇拝してゆく心のゆく末はちょっと恐ろしい。あきらめたり、我慢したりする心は自我のひじょうに深いところ、重要なところと抵触するからである。そんなことをしたら、自我の基底的なところが破壊されてしまう。う〜ん、人格崇拝社会は問題である。





    「人格崇拝」の規範は厳しくなっているのか    2000/3/4.


 森真一によると人格崇拝の規範が厳しくなっているそうである。マスメディアではモラルハザード(道徳の弛緩)がおこったり、キレる若者が増えているといっているが、森真一は自己崇拝の規範がかなり厳しくなっているから、ぎゃくに道徳を侵犯する人やキレる若者が増えたように見えるといっている。

 対象のレベルが落ちたのではない、自分たちの社会のレベルが上がったということだ。個人の人格を守ろうとする「聖人」のような社会になってしまっている。しかしマスメディアではいつも自己コントロール能力の低下が叫ばれるため、ますますその規範を厳しく吊り上げる一方になる。心理学のブームはそこであい登場となるわけだ。

 わたしの実感としては人格崇拝がそんなに高度化しているかはちょっとわかりづらい。ただ、いじめなんかは人格に恥をかかせたり、メンツをつぶすことにあるので、ぎゃくに厳しくなったタブーをわざと侵犯する快楽・カッコよさが加速しているのだと説明づけることができる。ワルぶっている若者たちにとってタブーを破ることは最大のカッコよさである。

 それにしても人格崇拝の高度化か? たしかにわたし自身も人を傷つけることをかなり恐れてふるまうほうだし、自分自身も傷つけられるのをたいそう恐れるし、かなりの程度「自分主義」である。「自分はこれだけの存在ではない」と思いこむ誇大自己の傾向ももっている。対人関係も希薄である。これは人格崇拝、「聖なる自己」の結果だろうか。

 すがるものは、宗教も、国家にもない。崇拝するのは自分だけになってしまう。消費社会はさまざまなモノやサービスを買い与えて自分を愛しなさいとささやきかける。自分はとても大事にされ、かけがけのないものであり、自己愛や自尊心をあたえられる対象であり、こうして誇大自己は育まれて、「聖なる自己」「宗教としての自己」といった崇拝の対象に祭り上げられてしまうのだろうか。

 自分をもっとも愛し、大切にする人たちは、とうぜん社会の道徳もそのような規範に従ったものにつくりあげてゆくだろう。他人の人格を大切にし、自尊心や自己愛を満足させるように、またぜったいに心を傷つけてはならないといったように自己の人格および他者の人格を守り通すだろう。こうして「やさしくて」無関心で、希薄な人間関係の社会ができあがってゆく。自己愛の社会ルール化だ。なるほど、自己愛を崇拝する社会とその道徳か。

 他人のメンツに配慮する人ほど、自分を傷つけるような無神経な他人にはガマンならない。これが森真一によるとキレる若者や幼児虐待の原因であるという。「自分はここまで配慮してやっているのに! 罰を受けるのはとうぜんだ」というふうに報復行為に走るわけだ。

 お返しを期待しての交換行為(人格配慮)をしているのに裏切られたということである。たしかに世の中にはこういう交換行為がまったく通用しない人もいっぱいいる。せっせと「やさしさ」と「配慮」というギフトをしたのに、顔面を打たれるような人格を傷つける配慮のない行為や言動をされることもある。

 こんなときにはどうしたらいいのかまったくわからなくなるが、世の中には違ったルールで動いている人もたくさんいるのだ、お返しは絶対に約束されたものではないと思うに越したことはないだろう。なんせ、このルールの存在自体がマスコミにすら気づかれていないのだから。

 人格崇拝がこのまま高度化・厳格化してゆくと社会はどうなるのだろう? 「神聖な私」はだれにも迷惑をかけずになんでもできるようにならなければならないし、他者を傷つけないようにするいちばんの方法は人と関わらないことである。社会はますます孤立化・孤独化してゆき、希薄でやさしい無関心な人間関係の社会になってゆくのかもしれない。

 人格崇拝が厳しくなってゆくと、人生にも、他人にも、手も足も出せなくなってしまう。繊細な感受性や細やかな気配りばかりが必要になり、がんじがらめになってしまう。これこそ「牢獄」というものである。あまり気楽で自由で、ほっとする社会とはいえない。人格崇拝の行き着く先について考えなくちゃならないな。


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