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1999年全哲学エッセイ集




「言葉と想像力の虚無」 99/1/1.
「認知療法として読むトマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』」 99/1/10.
「身体感覚についての暗中模索」 99/1/26.
変性意識状態とはなにか」 99/2/20.
「会社にられる毎日はツライ!」 99/3/11.
「「貧乏」の誕生――中流階級社会における――」 99/3/17.
ビンボーはほんとうに「不幸」なのか」 99/3/23.
「人間を知りたいという漠然とした試み――ベストセラーからみる知の欲求」 99/3/24.
「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.
階級意識と恐れ」 99/4/5.
「戦後の序列順位と幸福」 99/4/11.
「急激な凋落をもたらす日本的体質」 99/4/17.
「大阪周辺自然訪」 99/4/27.
「なぜ人よりれたり、勝ちたいと思うのか」 99/4/30.
産業主義に呪縛するもの」 99/5/14.
中国市場化における優越と劣等 99/5/17.
貪欲を戒める道徳や宗教はどこへ行ったのか 99/5/24.
かない者の幸いなるかな 99/5/27.
ホームレス激増とジョブレス社会に思う 99/6/5.
つまんない生き方しかない世の中をどう生きてゆくか 99/6/11.
「価値崩壊の時代」をどう生きるか 99/6/18.
職業生活に自由はあるのか 99/6/20.
幸福の「歯止め」論 99/6/22.
平成不況にたたずむアリときりぎりす 99/6/29.
500万貯まったら、なぜ遊んで暮らさないのですか? 99/7/2.
投げ銭システムから開けてくる個人の文化 99/7/7.
ひたひたと忍び寄る経済の惨禍 99/7/11.
60年代対抗文化への郷愁 99/7/23.
豊かさとは、働かなくてよいことではないのか 99/7/26.
年齢差別について考える 99/7/31.
幸福のパラドックス――欠乏なくして幸福はない 99/8/9.
職業貴賎と軽蔑 99/8/21.
らの職業を肯定できないことについて 99/8/25.
わたし自身の中の『ハマータウンの野郎ども』 99/8/31.
学校教育とはなんだったのだろうか…… 99/9/8.
受験学力と大衆の教養軽視 99/9/11.
無銭旅行の『電波少年』にたくされた願望 99/9/14.
ああ、無情! 芸能界の消えていった人たち 99/9/17.
栄誉権力についての名言集 99/9/18.
よい人」になりたかったことと、エラソーになること 99/9/23.
大阪ホームレス・テント村報告 99/10/1.



         言葉と想像力の虚無


                                            1999/1/1.






    言葉は想像であり、空想なのであるが、われわれはふだんそのことをさっぱり忘れている。

    言葉というのはたんに頭の中でこねくり回した虚構でしかないのだが、

   いつの間にやら「実体化」や「現実」の地位に祭り上げられていってしまう。


    言葉が虚構でしかないとするのなら、その語る内容も語られる対象もすべて虚構である、

   ということが容易に悟られるのだが、ついつい人間は近視眼的になってしまう。

    物事の事実か事実でないかという問題に目が行ってしまい、

   そもそも語っている言葉自体が虚構の道具ではないのかということさえ問題にならない。


    言葉は虚構であり、想像である。

    言葉は便宜的な頭の道具でしかない。

    言葉と結びつけられる対象はその言葉となんのつながりもなく、

   ただ人々の頭の中で結びつけているだけである。


    そうするとわれわれの語る内容も語られる対象もすべて虚構になる。

    頭の中で考えたり、言ったりする言葉はすべて虚構の絵空事である。


    けれどもわれわれは考えたり、思ったりすることを「現実」のことと見なす。

    それらはすべて「虚構」でしかないのだが、われわれは考え、思い、捉えた物事を、

   すべて「現実」の物事として捉える。


    虚構でしかない言葉や思考を「実体化」し、「現実化」してしまうのである。


    そしてその「捉え方」「解釈」によってわれわれの日常は悲しんだり、怒ったり、

   苦しんだりして、さまざまな辛酸をなめるというヒドイ目に会う。

    それはあくまでもひとつの「捉え方」「見方」でしかないのだが、

   当人にとってはただひとつの動かしがたい「現実」になってしまっている。


    「解釈」「判別」しているというステップが忘れられ、そのほかの無数の解釈が可能なのに、

   それはただひとつの現実として自分の前に立ちふさがってしまう。

    たとえば苦境を「ピンチ」と捉えるか、「チャンス」と捉えるのかの違いだ。

    「解釈」「判別」するという心の動きの段階がまったく忘れられている。


    それは「ものの見方」というものが習慣やらパターンによって固定化されてしまっているから、

   そのほかのものの見方の可能性というものがまったくシャットアウトされてしまうからだろう。


    たとえば人はだれかに殴られたら腹を立てる。

    これは「殴られたら殴りかえせ」とか「人は他人を殴るべきではない」という思考や

   捉え方があるから憤激するのであり、もしキリストのように「左の頬を殴られたら、

   右の頬を差し出せ」というような解釈をもっていたのなら立腹もしないだろう。


    現実は解釈によって無数の「現実」が存在するのである。


    われわれのいくたもの問題は現実をどう解釈するかに関わっている。

    とすれば怒りや悲しみ、悩みといった苦しみをなくそうとするのなら、

   そのような感情を生じさせない現実の捉え方をどのように選ぶべきかは容易にわかるだろう。


    物事のありようになるべく逆らったり、抵抗したりしないような解釈が

   とうぜん必要になるだろう。

    「すべてを許す」「運命に従う」「なすがままに、あるがままに」といった処世訓は

   物事にいちいちひっかからないための賢明な方法なのである。


    われわれは出来事に抗おうとするから苦しむのである。

    物事の流れに怒らず悲しまず、すべて川のように流すようにすれば、

   われわれを苦しませるものはなにもなくなるだろう。


    だいたい過ぎてしまった終わってしまったことは二度ととり返すことができないのだ。

    いまさっき終わってしまったことや過ぎ去ってしまった時間にどうやって戻れるというのか?

    そんな無謀な試みを起こそうとするのは、言葉という愚かな想像力しかない。


    もうひとつ言葉の性質をとりあげるとするのなら、言葉というのはものごとを二つに

   切り分けないと言葉にならないということである。

    「上」には「下」がなければ意味がないし、「左」も「右」がなければその境界もないし、

   「高い」には「低い」が、「大きい」には「小さい」が、「好き」には「嫌い」が、

   「優」には「劣」が、「有」には「無」が、「生」には「死」がといったふうに

   対立差別がないとその言葉は成り立たない。


    でもそんな区分はかんたんにできない。

    もともと世界はきっぱりと区切られているものなんかなにひとつないし、

   たとえば「手」と「腕」は千切られてあるものではないし、「水」と「湯」の境界は

   くっきりと区切られるものでもないし、「青」と「緑」の区分けはかなりあいまいだ。


    世界なんか区切られなんかはしない。

    そして言葉というのは空想である。


    われわれはこの区切りのない世界において、言葉という虚構の区切りによって、

   「高低」や「好き嫌い」、「尊卑」、「上下身分」といった砂上の楼閣をつくりだし、

   みずからをみずからによって苦しめているといえる。


    そんな世界はないのに言葉は世界をまっ二つに切り裂き、「好悪」や「尊卑」といった

   苦海をつくりだし、一方を尊重するがゆえに失う恐れに責め立てられ、

   一方を失ったがゆえに悲しみに苛まされる。


    世界には「私」と「私でないもの」の区別すらないのだろうか。

    わたしにはこの「私は存在しない」という実感がなかなかつかみにくい。

    言葉でそんな疑問を発すること自体、区分をはじめることになるので、

   そんな問いは愚かなのかもしれない。


    こう考えてくると言葉というのはまったく災厄でしかないのではないかと思う。


    難しいところである。

    言葉がなければ伝達もできないし、見聞もない。

    せいぜい言葉の虚無性をあまり忘れないことだ。



    言葉のない世界はとても安楽なところなのだろうか。

    われわれは言葉を失うと理性や知性を失った白痴になると恐れる。


    でも言葉の誤用というものは白痴になるより恐ろしいほどの害悪を招くようである。


    言葉という便宜的な分別の道具にあまりふり回されないよう戒めるようにしたいと思う。







    認知療法として読む
    トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』


                                               1999/1/10.






    トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』(1472年/岩波文庫)は

   世界中で聖書についで最も読まれた本だそうだ。


    なるほどキリストや神について語っていながらふつうの人たちが経験する世間や人間関係、

   憂悶や悲嘆からの解放の仕方や作法がのべられており、これをキリスト教信仰者のみの

   糧とするのはあまりにももったいない。


    これを神や信仰について語ったものだけではなく、われわれの心の世界の平安さについて

   語った本と捉えるのなら一般人のわれわれも多くを得ることができるだろう。


    その方法に心理療法としての認知療法をもちいたいと思う。

    認知療法というのは鬱や悲嘆の感情に陥れる元となるのは思考であるから、

   その歪んだ思考内容をもっと合理的なものに書き直せばいいという考え方であり、

   この『キリストにならいて』という本もそのような読み込み方ができると思う。

    (なお認知療法はデビッド・バーンズ『いやな気分よさようなら』(星和書店)がいい。)



 1 すべて、かりそめの世


    『キリストにならいて』のいちばん根本的なメッセージは、

   「すべてこの世の空しいものを軽んずること」ではないかと思う。

    なぜなら「眼は見るものに満足せず、耳はきくものに満足しない」し、

   「この世はかりそめのもの」でありから、ゆえに「脆弱でいずれ死ぬべき人間をあまり

   当てにし過ぎてはならない」からである。


    「太陽の下に永続し得るようなどんなものを、あなたは、どんな処にもせよ、

   見ることができるか。あるいは、あなたは十分満足感を味わえると思っていようが、

   けしてそれを獲得することはできないだろう。もしあらゆるものが現前にあるのを

   見たとしても、それは空しい幻影以外の何であろうか。」


    「見なさい、この世で富み栄えるものも、たちまち煙のように消え失せよう、

   そして過去の歓喜の思い出は何一つ残らないだろう」、

   それゆえに「すべて、はかない一時のものを捨て、永遠なものを求めなさい」


    この世のどんなものもはかなく、かりそめに過ぎてゆく。

    時は一瞬もとどまることもなく、感情は移ろい変わりやすく、栄えはいつも一時のものである。

    だけどほとんどの人間はこれらの歓喜や慰めに盲目的にひき寄せられ、

   そして必ず失われてしまうものを追い求めたがゆえの悲しみに到り着く。

    「この世を空しいものと軽んずる」というのはすべて消滅する運命にあるはかない世に

   喜びや満足を求め、悲しまないための合理的な認識方法といえる。


    ただ「それゆえ天上のものを求めなさい」、「神に身を委ねなさい」というのは、

   心理的な認知療法の範囲内で解釈できるのかはちょっとむづかしいところだ。

    これは地上の苦しみを絶つための――たとえば苦悶や悲嘆に心を満たされないための、

   即時的な思考の消去法と考えてよいのだろうか。

    苦しみからすぐ天上のことを想えば、心はなにものにも思い煩わされることはない。

    神の国というのは現実の苦悩をそらすための方法なのだろうか。



 2 心の安らぎにつき、世の人に左右されてはならないこと


    ケンピスのこの書の頼もしいところは人間関係の煩わしさを消去してくれることである。


    「世の称賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである」

    「世の称賛を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、

   悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。

   あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に

   出ることはできない」


    「私の心はキリストにおいて堅められて、そこに礎をおくのなら、けしてやすやすとは

   世間に対する恐れに悩まされもせず、敵意をもった人のことばに動揺もしないでしょう」

    「人の言葉の風向きごとに、いつもあちこちと吹き回されていないで、何もかも内面的にも

   外面的な事物についても、あなたが心にお望みなさいますそのとおりになりますようと

   願うことは何とよい、心の和らぎを保つ道でしょうか、世間的な見えを避け、上辺に人の称賛を

   博するようなものを求めず、生の向上を助け信仰への熱心さをもたらすことだけを

   一所懸命に追い求めるのは」


    「お前の心のやすらぎを、人々の口(言説)においてはいけない」


    「もしお前が心の平安を、自分の感情やその人とつきあってゆくことのために、

   誰かに依らせ、その人の手に委ねるなら、お前は心の落ち着きを失い、

   煩いに巻き込まれよう。だが、もし常に生命を保って滅びることのない真理に頼れば、

   友だちが遠ざかろうと死のうと、そのため悲嘆に陥らないですもう」


    現代人を悩ませる最大のものはほとんど人間関係といっていいだろう。

    世の人の称賛も非難も気にかけるなという言葉は、悩みに煩わされがちなわれわれに、

   ふっと我に返らさせてくれる。

    人間関係の悩みに没頭しなくても、手放せばいいんだ、ということを思い出させてくれる。


    この世より天上に想いをいたせということばは、じつはわれわれはこの世の栄光や称賛を

   求めるがゆえに世人に苦しめさいなまされるという側面をも語っている。

    気に入られようとするから他人が恐ろしい、よい関係をつくろうとするから壊れるのが恐い、

   という逆説をもっており、他人を必要以上に恐れる現代人は、逆に他人との関係に

   必要以上の理想や完璧を求め過ぎているのではないかということがうかがえる。


    すぐ他人の言葉や行動に傷つくのは、他人のやさしさやあたたかさを過剰に

   追い求め過ぎているのではないだろうか。

    認知療法ならこれをどう合理的な思考に書き替えるのだろうか。

    ケンピスは人の批判も非難も自分を別の人間に変えるわけではないと書き替える。

    また心の安らぎを他人の言説におくなと諭している。

    もっともだ、他人の気まぐれやいいかげんな気分に振り回されるのはたまらない。


    「他人の好悪に自分の価値を見出すな」というのが現代人のための解毒剤になるだろうか。

    他人の意見や気分なんか、動物園の落ち着きのないサルやヒヒのようなものだ。

    ヒトがサルやヒヒに振り回されるのは愚かなことだ。ひひひ〜ん。



 3 苦難をもたない人というのはだれひとりいない


    この書のもっとも慰められるところは苦難や悲嘆についての心がまえだ。

    おおよそ三つの対処法が説かれている。


    「なぜあなたは思い乱れているのか、望み願うとおりに事が運ばなかったからといって。

   自分の思い通りに万事がなるというのは、誰のことなのだ。この世では、何かの難儀や苦悩を

   もたない人というのは一人もいない、よし帝王であろうと、法王だろうと」


    「苦情をいうのは止めなさい、私の受けた苦難や、他の聖者たちの受難を考えてみるがいい。

   お前はまだこれまでに血を流すまでに抵抗したことはないのだ。かように多くの苦難を受け、

   かくも勇敢に誘惑を凌ぎ、かくも甚だしい不幸に堪え、かくも多様な試練や苦悩にあって来た

   人たちに比べるとき、お前が蒙る苦しみは些細なものに過ぎない。それゆえ、お前は、

   自分のごくわずかな苦しみをいっそう楽に忍べるよう、他の人たちの、ずっと酷い苦しみを

   心に思いみるのがよろしい」


    「勇敢にたたかい、辛抱づよく堪えるがいい。労苦しないでは、安息に到達することが

    できず、たたかいがなければ、勝利に至ることはできないのだから」


    上の言葉は、望みが叶わない状態が当たり前のことであり、

   もし苦悩の最中にあれば、もっと不幸な人と自分を比べてみる、

   苦悩こそがやすらぎと天上の平安にいたる道だということなど、

   認識の逆転がのべられている。


    これは苦悩がもたらす視野の偏狭さを矯正させる思考の書き替えである。

    望みが叶わない面を見るのではなく、世の中のすべての人が思い通りになるわけがない

   という側面を思い出させ、また自分より一段と不幸な人に思い致せば、自分の不幸は

   ちっぽけに見えるということ、忍苦はより大きなる安らぎへ至る道だという、

   不幸のヒロインにひたっている人には思いもつかない合理的な思考方法である。


   逆境や不幸からの逸らし方がここに呈示されているわけだ。

   人はそれらの不遇にあると見事にそれにハマってしまう。

   近視眼的になって抜け出せない人には他の不幸な人を見たり、

  大きな展望をもったりすることが必要なようである。

   不幸や逆境には、発想の逆転が必要ということである。


   自分の憂悶や苦悶から離れること――この知恵にはほんと慰められる。



 4 自己を捨て去れ、さればすべてを見つけ出せるだろう


    さいごに自己否定についてとりあげるが、これはむずかしい。

    現代人は他人や世間に流されない確固とした自我を理想としてきた。

    それゆえに自己を捨て去り、へりくだり、服従しろというケンピスの言葉には

   大きな抵抗感や不快感をもつかもしれない。

    しかしそこに心の平安や安らぎが秘められているとするのなら学ぶべきものがあるだろう。


    「人が自分自身を、何のわきまえもなく、やたらに愛するという悪徳からして、

   根本から克服されねばならないほとんどすべての悪が、出てくるのだ。

   この害悪さえ完全に打ち克たれ、抑えつけられたら、たちどころに、

   大きな平安と穏やかさがもたらされよう」


    「自分を愛することは、この世のほかのどんな物事よりも、身を害うものだ、

   ということをわきまえなさい。お前がそれに対してもつ愛や執着のいかんにつれて、

   あらゆるものは、多かれ少なかれ、お前を虜にするのだ」

    「もしもお前が自分の都合を考え、自分だけの気に入るものをもっと手に入れようとして、

   これやあれやを求めたり、ここやかしこにいたいと望むとしたらば、お前は決して平静な心を

   たもつことも、また心配から自由であることもできないだろう。なぜかというと、あらゆる物事には

   何かの欠陥が必ず見出されようし、どんな場所にも、お前の意に逆らう人が

   いるものだから」


    「お前は、自分というものをすっかり否定するのでなければ、完全な自由をえることはできない」

    「すべてを捨て去れ、そしたらお前はすべてを見つけ出せよう、欲情をすてろ、

   そしたらお前は平安を見つけ出せよう」


    「主は空いている容器を見つけのおり、ご自分の祝福をその中へお容れになる」


    仏教にしろヒンドゥー教にしろ、多くの宗教はやはり自己否定を説いている。

    それに対して近代的自我だけが自我をやみくもに追い求める。

    ヨーロッパ中世教会の不平等や圧制という歴史的経緯があったりなんかしてだろうが、

   自己否定がいくら安らぎの境地を運んでくるからといって、この点には警戒が必要だろう。


    自己を捨てれば、平安が訪れるというのは論理的に適うのかはわたしにはよくわからない。

    ただ自己を守り、敵を防ぎ、自己の利益をはかったりすることは、

   逆説的に惨劇や苦悩をもたらすというのも事実のようである。

    貪欲で利己的な人は他人と衝突するのは当然のことだし、またむやみに自己を守り、

   自己の被害だけを防ごうとする者は逆説的に自己を傷つけ、守れない。

    自己は損傷し、被害を蒙り、老病死は防ぎようがないし、自己を守ろうとする認識は、

   かならず物事のありようから抵抗や衝突を受けざるを得ないし、ましてや、

   自己と環境、他人や世界をまっぷたつに分断してしまうと、もし世界に自分の心しかないとする

   唯識の立場からすると、自己を惨憺な結果にしか陥れなくなってしまうだろう。


    世界というのは自分の認識そのものであるわけだから、

   そのなかの自己の充実のみを計るものはかならず自己の損害を受ける。

    おおくの宗教で言う自己否定とはそのようなことをいっているのだろうか。

    このことの論理的証明についてはわたしにはよくわからないので、また後に譲りたいと思う。



    ――以上でケンピスの『キリストにならいて』についての考察はこれで終わりにします。

    この著作の中にはまだまだよい言葉がたくさんあると思うのですが、

   わたしの力不足によりおおくの見逃した部分があるのは仕方がないです。


    認知療法の専門用語を使用できなかったのはやはりわたしの理解力が

   足りないからであって、ただこのエッセーでなしたかったことは、

   ともすれば敬遠されがちな宗教を心理学的にもじゅうぶん効用のある考え方を

   しているのだということを伝えたかったということです。

    わたしの気もちをくみとっていただけたでしょうか。


    願わくばあなたの心に平安が訪れるように――。




     身体感覚についての暗中模索


                                                  1999/1/26.





     身体感覚について知りたいというあやふやな問いがわたしのなかにある。

     それを知りたいと思うのは仏教やキリスト教でいう悟りや神がみずからの身体に

    宿るといわれているからであり、また制御できない身体の緊張や感情などの気分に

    ふりまわされないための方法を身につけたいと思うからである。

     そういったことで漠然と身体感覚について知りたいと思っている。

     ただなにを問えばいいのか、どのように問えばいいのかもよくわからない。

     ということで身体の感覚についての模索である。



 1 身体感覚の集中と逸らし


     身体の感覚というのはふだんほとんど眠っている。

     たいがいの人は身体が存在していることすら忘れている。

     われわれの感覚はほとんど頭や視覚に集中している。


     身体感覚はその集中する感覚のみが前景に現われる。

     視界に集中しているときは身体の存在は忘れているし、

    考えごとやもの思いにふけっているときには視界すら目に入らない。

     注目している感覚のみが存在するという状態になる。


     現代人の感覚はほとんど頭と視覚に集中している。

     身体に感覚の焦点が合わされるということはほとんどない。

     身体に感覚がいくときというのは痛みやかゆみ、不快感、快感があったときだけであり、

    われわれは身体や全体を生きていないということになるだろう。


     感覚のよくいつくところは、その感覚をますます鋭敏にひんぱんにする。

     自動的な回路ができあがるわけだ。

     困ったことにある部所に固執した感覚はなかなかそこからはひきはなせない、

    自分からひきはがせないということである。

     注意はますますその感覚を鋭敏にする。


     痛みや不快感、筋肉の緊張といったものが現われると、

    われわれはもう手のほどこしようがない。

     とりのぞこうとして、ますますその感覚を鋭敏にし、感覚の増大を招く。

     とりのぞこうとする意志が逆にその神経を増強するという皮肉な結果を導く。

     現代人は意志の力を過剰に信じるあまり、こういう状態に陥ることがことのほか多い。


     ここに思考のはたらきがひと役買っている。

     思考は「不快」や「悪いもの」、あるいは「社会的・体裁的に不都合なもの」と

    判断するやいなやその感覚に注目し、とりのぞこうとする。

     そのような思考のはたらきがますますその感覚の度合いを強めてしまう。


     思考はまた頭のなかで最悪なことや悲惨なことの想像をふくらませ、

    気分を最悪・最低なものにし、そのためにますますその感覚の度合い・意味合いが強まる。

     アルコール中毒というのは酒をやめれないという罪悪感の思考が、

    気分を最悪なものにし、そのために呑まざるをえない状況にするようである。


     痛みも考えることとつながることによって起こるとスワミ・シバナンダはいう。

     なぜなら麻酔をかけられて心が眠っているとき痛みは感じないからだという。

     ゆえに痛みから感覚を離れることが痛みをなくす方法である。

     痛みにたいする処方としてもうひとつジョン・カバットジンは痛みの感覚に

    集中することによってその感覚が軽減されるということをいっている。


     痛みというのはたいていその思考がますますその度合いを深める。

     痛み自身ではなく、いろいろ痛みに対する良からぬこと――もうだめだとか

    治らないとか最悪だとか妄想をふくらますゆえにますます痛みと最悪の気分が

    相乗効果を増す。

     自分自身の経験からいって、歯痛の場合だが、痛みの感覚に集中するとかの

    いろいろの方法をためしてみて、からだのほかの感覚にそらせば、

    ウソのように歯痛の感覚がなくなっていたことがある。


     からだの感覚というのは、その感覚への集中とそれにまつわる思考内容によって、

    その度合い・深みを変えるようである。

     ほかの感覚にそらしたり、好きなことに没頭したりすることが痛みを避ける方法としては

    よいみたいだが、そうかんたんにはコトはすすまないことが多いが、

    まあ眠るのがいちばんの特効薬だろう。


     からだのコントロールに関してわれわれは身体のはたらき自身を制御することは

    できないが、どの感覚に焦点を合せるかというコントロールはできる。

     たとえば足先に感覚を集中させたり、腰や腕、頭と感覚を自由にコントロールできる。

     とりぞきたい感覚はますますその感覚に集中するのがつねだが、

    ためにその度合いを強めるということがことのほか多く、その感覚を身体自身の

    不随意のはたらきに任せるのがいちばんのようである。

     感覚のないところはリラックスしているということであり、不随意の身体に任せておれば、

    完璧にはたらいているということであり、思考や意識はそのはたらきを阻害してしまう。

     からだに困難な箇所が発生したばあいは不安な妄想やよからぬ考えを捨てて、

    感覚をほかに逸らし、からだ自身の自浄作用に任せるのがよいようである。



 2 身体感情の原因


     感情や気分というのは胸のあたりでつくられる。

     胸のあたりの状態――息苦しいとか胃のあたりが締め付けられるとか、

    不安な感じが胸の下あたりからわきあがるとかという感覚が気分や感情である。


     気分や感情が足のあたりにあるということは聞いたことがないし、

    腕や手にあるということもまずだれもいわないだろう。

     頭の中にはありそうだが、そこにあるのは記憶や想起、思考の論理だけであり、

    顔は感情を如実にあらわすが、そこに気分や感情があるわけではないだろう。


     胸や腹のあたりの状態がわれわれのいう感情や気分を規定している。


     デカルトは『情念論』(中公文庫)のなかで感情や気分が身体の心臓や血液の流れで

    どのようにできるあがるかという詳細な考察をおこなっているが、

    われわれの感情や気分はそういう器官的な身体のはたらきで説明できるというのは

    おもしろいし、感情をそのように客観的にながめられるということは感情のコントロールをも

    容易にするのではないだろうか。

     自分のいまの気分は心臓や血液のこういうはたらきによってつくられているのだと

    知ることは、感情にふりまわされないためのひとつの方法でもある。


     自分の感情や気分はそのようにひきおこされていると知ることは大事である。

     感情はどこからともなくやってくるのではなく、身体がそのように規定するから

    わきおこるのである。

     感情というのはただ身体自身のはたらきにほかならない。


     しかしわれわれはその感情や気分を出発点にしてしまう。

     そのような感情を起点にしてどうにかしなくてはとあせる。

     身体に原因を求めなく、外界の人間関係や物事にその感情の原因を求める。

     そして自分の思い通りになるわけがない他人や物事を変えつづけようと

    実ることのない望みに駆られつづける。


     感情の原因をデカルトのように身体に求めなく、外界の他人や物事に求めたからだ。

     感情の原因を見誤った人の対処法は苦難と苦渋に満ちているのは目に見えている。

     他人や物事がすべて自分の思い通りに動いてくれるわけなど絶対に絶対にない!

     それなら自分自身の身体をコントロールしたほうがよほど望みがある。


     感情の原因を他人や物事に求めるのは赤ん坊のようなものだ。

     自他の境界がなく、感情の原因はすべて外界や他人にあると思いこむ。

     感情の解消はそれらに求めるのではなく、身体自身に求めるのが妥当だ。

     感情を規定しているのは外界の物事でなく、身体なのだから。


     感情や気分は身体がつくっている。

     そしてそのような身体に仕向けたのは自分自身の捉え方・認識そのものである。

     認識や思考が身体のありようを決定している。

     今度は逆にその身体のありかたに自身は規定されてしまう。

     すべては自分が仕向けたことであるのだが、今度はこの檻の中に閉じ込められてしまう。

     そしてその感情という檻から出ようとして、他人や外界を変えようとする。


     思考や気分という根本をつくりだしたのは自分自身であるのだが、

    われわれはすべてそれらを外界や他人のせいにしてしまう。

     感情をつくりだしたのは自分自身の思考という捉え方であり、感情や気分を

    規定しているのは自分自身の身体にほかならない。

     この自分が認識や感情を創造しているという段階をすべてすっとばしているから、

    ひとはただ外界や他人の変化のみに感情の解消を求めてしまう。


     感情は思考にその原因があり、身体にその原因がある。

     ということはその認識を書き替えればいいのであり、また捨て去れば、

    自分を悩ませる感情はすべてなくなるのであり、また身体感情の鎮め方を知れば、

    爽快で平安な境地にもどれるだろう。


     思考を捨てるのがいちばんの方法である。

     感情や気分のいちばんの根本は思考である。


     身体の気分の変え方はわたしにはよくわからない。

     深呼吸や丹田からの呼吸をおこなえばいいというのは伝統的な知恵であるし、

    感情には身体のどこかの筋肉の緊張がたぶん関わっていると思うから、

    その緊張をゆるませればいいだろうし、気分は器官によってつくられ、一時的なものである

    という認識をもっておれば、やりすごすことができるだろう。

     また身体の感覚をその気分におかなく、ほかの感覚――たとえば足やもも、腰や腹などの

    まったく関係のない箇所におくのも身体を安らかにするひとつの方法である。



 3 視覚のない身体感覚へ


     身体感覚のみに深く潜ってゆけば、いったいなにがあるのだろうか。


     われわれは視覚に頼り過ぎる。

     そして風景や空間のなかに自己が含まれると思い込んでいるが、

    視覚に映る光景というのは自己がつくりだした仮像にほかならないはずである。

     自己は世界に含まれているのでなく、わたしに見える世界はわたしに含まれる。

     世界はわたしの外側にあるのではなく、内側に含まれる。

     自分の知覚・認識する世界以外はいっさい自分には認識できない。

     世界とはわたしである。


     視覚は「わたし」と「わたしでないもの」とを区別するはたらきをするが、

    わたしに認識される世界に起こる出来事はすべて「わたし」のことである。

     世界はわたしの感覚に収斂される。

     そこに「わたし」と「わたしでないもの」の境界も区別もない。

     視覚はそのような区切りをつくってしまう。


     視覚や聴覚を捨てて瞑想によって身体感覚のみに深く潜ってみる。

     自己の外側に空間が広がっているという印象を捨てるのが必要かもしれない。

     顔や鼻のあたりに感覚を集中しておれば、息の通りがすごく清涼に感じられるときがある。

     頭の芯あたりに感覚を集中していれば、頭から下の感覚がものすごく遠くに

    ひきのばされたような感じになることがある。


     瞑想でよくいわれる息の通りを見ることや丹田に感覚を合せることなどの方法を

    おこなってもわたしにはたいして進展がなかった。

     横になりながらそのようにするとすぐに眠れるようになったくらいだ。

     (以前の思考思索好きのわたしは考えごとのためなかなか寝つけなく、

    ふとんに入るとすぐにいびきをかきはじめる弟を見ていてバカだと思っていた。)


     身体感覚はわからない。

     身体感覚のみに焦点を合せていれば、いったいなにがあるのだろうか。

     視覚をとりのぞいた身体感覚ということにわたしの関心はあるのだが、

    だからといってそこになんの意味があるのかよくわからない。

     とにかくなにかありそうだという感じはしているのでこの暗中模索はつづけるつもりだ。


     以前一、二年前にもこの身体感覚についての関心があって、ボデイワークやヨーガなどの

    本を少しだけ読んだのだが、それいじょうの進展はのぞめず、挫折したままだった。

     今回またそれについての興味がわきあがってきたのだが、

     あいかわらずこれらの領域についての良著が少ないのは変わらないようである。

     仏教の身体論というのでもあればいいのですけれどね。


     尻つぼみになってごめんなさい――。

     身体感覚について教えてくれる人がいるのならぜひメールをください、

    また本や仏教経典を教えてくれるとありがたいです。



    
     参考文献

      スワミ・シバナンダ『ヨーガとこころの科学』 東宣出版

       心に関するものすごい名著です。

      ジョン・カバットジン『生命力がよみがえる瞑想健康法』 実務教育出版

      ルネ・デカルト『方法序説・情念論』 中公文庫







       変性意識状態とはなにか
                                             1999/2/20.







  1 変性意識状態 (Alterd States of Consciousness)



    気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。

   どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは

   自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の

   高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているので

   はなく、一つの「生ける」存在であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの

   永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命が

   あることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力

   しあいながら、互いのためによかれと思って働いていること、あらゆる世界の根本原理が、

   いわゆる愛であること。そして、長期的に見れば、誰もが幸福になることは絶対に確実であること。

   宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。

                      ――R.M.バック (ケン・ウィルバー『無境界』から)



    これが変性意識状態――つまり悟りとよばれる状態だ。(と推定される)

    あるいは古来、人々が神や仏といった人格として呼び習わしてきたものだ。(と私は解釈する)

    ふつうわれわれは悟りの状態がどのようなものであるか、ほとんど耳にしない。

    仏教では悟りへ至る方法論や修行法はあちこちに説かれているのだが、

   はて、どのような状態をめざしているのかとなったら、そのような記述にはあまり出会わない。


    ケン・ウィルバーの『無境界』という本のこのような記述に出会って、はじめてわたしは、

   宗教とは「救い」や「依存」を求めているだけではなく、こういう意識の究極の状態を

   めざしているのだということを知った。


    世界や宇宙との一体感、全知全能感、強烈な幸福感といった、この世界の神秘と

   触れられるのならいちど触れてみたいと思うのはわたしだけではないだろう。



    変性意識状態にはつぎのような特徴があるとされている。


    1・表現不能性

    2・高揚した鮮明さと理解の感覚。

    3・変成した時空間の知覚

    4・宇宙の全体論的な合一的な統合性、および自分がそれと一体であることの感得。

    5・宇宙が完全だという感覚を含む、強烈な肯定的情緒。

                      ――ロジャー・ウォルシュほか『トランスパーソナル宣言』から



    こういう意識の究極の状態があるということはわれわれの日常意識からして

   考えられもしないことだが、数多くの宗教者たちの歴史が物語っているとおり、

   そのような状態が「現実」に存在すると思われてきたわけだ。


    最近では臨死体験を突破口に――というのはその体験のなかに変性意識状態と

   同じ体験がある――このような意識状態が注目されている。


    ほんとうにそんなものがあるのかないのかなんか、わたしにはわからない。

    ただもしそのような意識状態があるのなら一度は垣間見たいと思うし、

   もしそれがまったくハナから絵空事であるのなら先人たちは何千年もの月日をかけないと思う。


    あるいは死に恐れおののいてきた人類がつくりだした「死の虚妄」なのかもしれないが、

   どうもなんらかの通常意識とは違った意識がなにかあると見当をつけるのが妥当だと思う。


    ただわれわれの日常意識、通常意識のほかに違った意識状態があるというのは

   にわかには信じ難い。

    この日常意識のほかにどんな意識があるのだ、とだれだって思うだろう。

    視覚に囲まれ、音に囲まれ、においに囲まれ、触覚に囲まれ、

   頭の中でぶつぶつひとり言を言いつづけ過去を想起する思考に憩われる――

   このほかにどんな意識状態があるというのか。


    この日常意識こそ、サンサーラ(幻覚、幻)にほかならないと宗教者たちはいう。

    日常意識は夢を見ている状態と同じであるといい、この心は過去の過ちの習慣性から

   おこったのものであるという。

    仏教の覚者からすれば、われわれこそ「病者」の世界に生きていることになる。


    いろいろな意識の状態があることは西洋の心理学によって観察されてきた。

    しかし西洋の心理学者たちはそれをすべて「病的状態」としてあつかってきた。

    西洋心理学では「病者」を癒すまなざししかもたず、健康人あるいはそれ以上の意識レベル

   が存するのではないかという探求すらつい最近までおこなってこなかった。

    なぜなら精神異常を治す医者しか存在しなかったから――つまり医者は「病者」しか

   とりあつかえない、とどのつまりみんな病者に「規定」しないと商売にならないわけである。

    それ以上の意識レベルに関しての職業は皆無である。

    せいぜいは自己啓発くらいしかなく、かつての宗教が行なってきたような高次の意識レベル

   の向上や探究はだれも手をつけなくなってしまっていた。


    高次の意識レベルの探究はマズローとかケン・ウィルバーなどの自己実現の心理学、

   トランスパーソナル心理学によって途についたばかりである。

    西洋心理学、あるいは近代科学はこの変性意識状態をどのようにとりこめるだろうか。


    現代の日本の多くの人は宗教を信じない。

    ただ仏教がめざしてきた変性意識状態が西洋心理学あるいは科学の光のもとに

   さらされれば、現代人はその現象を新しい視点から見直すことだろう。

    宗教とはいかがわしく、あやしいものだと思っているわれわれでも、

   意識のなかには異なった次元の状態があるかもしれないと示唆されたとき、

   それは宗教の範疇に押し込めておかれなくなるのだろう。




  2 変性意識状態はなぜ起こるのか


    変性意識状態へといたる方法についてはさまざまな宗教がその方法を開示している。

    呼吸法であったり、瞑想であったり、ヨーガであったり、祈りや念仏であったり、

   死に直面するような荒行であったり、とにかくいろいろある。

    いろいろあるだけあって――つまり容易には達せられないということである。


    修行しなくてもただふつうにそのような状態になる人もいると思えば、

   何十年修行しても達せない人がいるし、死に直面して臨死体験というコワイ経験をして

   その世界を垣間見てくる人もいるし、ドラッグによってそれを得る人たちもいる。


    シャーマン的素質をもっているような人なら近い世界なのかもしれないが、

   わたしのような神秘的経験がまったく無縁のどぼとぼの日常の俗人にとって、

   高次の意識レベルなどまるで手が届かない。


    せいぜいこのような意識状態がなぜ起こるのかと問えるくらいだ。

    (ただし、これに答えるものをわたしはなにひとつもっておらず、以下の考察は

   ともかくやたらめったらな文章であることをまず始めにお断りしておきます。)


    この意識状態は日常の知覚とはまったく違う次元にある。

    ふつうの目や耳、鼻などの知覚を働かせていれば、この変性意識にはならない。

    心が内にもなく、物質に向かわないようにと坐禅ではすすめられる。

    心を空っぽにするわけであり、思考(言葉)では体験できるものではない。


    呼吸に集中することも説かれており、そうすることによって思考の増殖を食いとめ、

   身体がただ在るという状態にゆだねる。

    思考がなく、外界の知覚がなく、ただ身体にゆだねるという状態――。


    意識もなく、外界の知覚もない状態というのを思い浮かべられるだろうか。

    睡眠状態と同じではないか、あるいはそれに近い。

    でもそれだったらまったくなんの意識も自覚もないではないか!

    (はい、考察はこれでオシマイになりました!)


    「主は空いている容器を見つけのおり、ご自分の祝福をその中へお容れになる」

   というとおり、外界の知覚や通常意識がついえた地点からなにかが始まるのだろうか。

    通常の知覚や意識のほかにわれわれにはその他の認識の方法が備わっているのだろうか。

    直観や第六感と俗にいわれるものはそのようなものか。


    通常の知覚や意識が滅却したところに意識の変容があるようである。


    外界の知覚からとき放たれると心のエネルギーは内部へと向かう。

    そうすると無意識に眠っていたものを自覚できるようになるそうである。

    つまり瞑想は外界の知覚へと向かうエネルギーを深層意識へと向けるわけだ。

    夢で見ている同じものを目覚めている状態でも見れるようにするのである。


    この無意識の中に意識変容といわれるものがあるのだろうか。


    ふだんわれわれの意識はさまざまな外界の知覚に翻弄されている。

    あっちで音がなれば注意し、動くものを見つければ目は注目し、

   頭の中でひとり言や過去が想起され、われわれの意識はまるでサルのように落ち着きがない。

    このような知覚に翻弄されているから、われわれはみずからの深層意識に辿り着けない。

    瞑想はそのようなふらつきさまよう意識を無意識へとつなぎとめるわけだ。


    目覚めていながら、無意識の世界を見ればどのような世界がわきあがってくるのだろうか。


    われわれの日常意識とはたいてい視覚の感覚に集中している。

    見ている対象に対応した視覚の感覚に焦点を合せている。

    視覚は多くは思考を継起させ、思考は頭脳感覚への集中をうながし、

   頭部への感覚の埋没をひきおこす。

    つまり感覚のかたよりがおこり、からだ全体の感覚を喪失してしまう。

    感覚を全体として生きることに意識の変容があるといわれている。


    あるいは二つの方位があるとされている。(鎌田東二『身体の宇宙誌』)

    頭部の集中による神や霊への接近、身体下部の集中による自然・大地化してゆく方法。

    前者はイメージ瞑想を主とするカバラや密教、神秘学、後者は初期仏教や禅。

    こういうふうにふたつの方法が提示されれば、どちらの方法がよく、

   身体になにがうながされるのかよくわからなくなる。


    脳内ではどのようになっているのだろうか。

    物質還元的な知識はあまりないのでよくわからないが、エンドルフィンとかよばれる

   快楽物質が過剰に放出された状態がそれに当たるのだろうか。

    恍惚感がずっとつづく躁病のような状態が悟りとよばれるものなのだろうか。

    ある種のドラッグは意識変容をおこさせるようだが、身体をあとあと蝕む。

    瞑想には睡眠やリラックスしたときに出る脳波が現れるそうだが、

   この状態も意識変容と関わりがあるのだろう。

    これらの脳内現象と変性意識は直接に関わっているのかわからないが、

   脳内現象のみに原因を求めてしまえば、宇宙の直観というものまでは説明し切れないと思う。


    神秘学や宗教では肉体のほかに異なる身体があるようなことをいっている。

    この身体を離れて霊や魂といったものがほんとうに存在するのだろうか。

    精神のありかを身体の働きに求める知識があまりにも当たり前になった現代人にとって、

   こういう考え方はまことに信じ難いことだが、逆にその医学知識自体を疑う必要もある。

    げんざい正当だと思われている知識もいつ覆されるかもしれないし、

   また、げんざい正当とされているから真とするのはどこかの宗教徒と同じく愚かな態度だ。

    だいたい知識なんて「権力」であり、「政治力学」なのであるから。


    基本的にわたしは霊や魂なんてものは死を恐れた人類たちの「慰め」の物語だと思っている。

    ただ、視覚や空間、時間を超えた意識形態というのはありうるのではないか、

   空間や時間――つまり視覚や思考――に拘束されない意識の在り方というのが

   あってもおかしくはないのではないかと考えている。

    空間や時間という「へだたり」があるのが当たり前だという常識を疑う必要があると思う。

    視覚による距離感や空間把握こそ、じつのところ「錯覚」の領域ではないのか。

    それは外界を把握するための知覚による創造ではないのか、わたしはこんな疑いをもっている。

    視覚という断絶があるから、われわれは誤った固着観念(ケン・ウィルバーによるところの

   境界の断片への同一化)を定着させてしまうのではないか。


    シェルドレイクという学者は科学者たちから「現代の焚書」とよばれる書の中で、

   全生命の記憶や学習したものを貯め込んでおく「形態形成場」というものがどこかにあって、

   われわれの脳はそこから発せられる情報を受信するにすぎないといっている(らしい)。

    身体や脳だけに意識や知の発生源を特定できないといっているわけだ。

    ユングだって「集合無意識」という領域を設けている。

    われわれは空間や時間という概念を超えた――あるいはそもそもそんなものは錯覚に

   過ぎない?――意識のありようをもっているのではないだろうか。

    「脳の中のどこにも心は存在しない」と大脳生理学者のペンフィールドはいっている。

    心や意識は脳や心のみの産物なのだろうか。


    いま、自分の意識を省みたらたしかに自分の意識はこの身体にあるようにしか思えない。

    どこかほかのところにあるとはとても思えない。

    ただそれはさまざまな境界をもうけ断片に同一化する通常意識のなせるものかもしれない。

    この意識を超えたところに世界との一体感を感ずる超越意識が潜んでいるのだろうか。


    変性意識状態はなぜ起こるのか、なぜ可能なのか、あるいはほんとうにあるのか。

    わたしにはよくわからない。

    もうあるとするのならそのような意識状態を一度は体験してみたいし、やはり魅かれる。

    仏教書であるとか神秘主義の本ではそのような方法はたくさん提示されている。

    あまりオカルトであるとかいかがわしい世界に行かない程度に――それなりの抑制を

   もって、わたしはこの変性意識状態とよばれる意識状態をさぐってゆきたいとおもっている。





      会社に縛られる毎日はツライ!


                                                  1999/3/11.




    だるいだるいだるいだるいだるいだるいだるいだるいだるい、

   会社に縛られる毎日はほんとうにだるい!

    身体の底からうめきをあげそうな一週間だ。

    一週間がようやく終わり、心身ともに解放された想いに駆られる休日もあっという間に去り、

   またチョー疲れた心身とともに会社に行かなければならない。

    疲労感は一向に抜き去られず、たまる一方だ。


    この疲労感がたまらず、社会に出てからのほぼ十年間のわたしは、

   この束縛感からの逃れるためのタタカイと方策に費やされてきた。

    束縛感から分断されるための退職と、なにものからも解放された貯金で食いつなぐ失業期間は、

   このままではクセになりそうな至福の境地になりかかっている。(ヤバイ!)


    わたしは怠け者であるが、知能犯的な怠け者だ。

    会社や学校に毎日行く根拠があまり認められないから怠け者になったのか、

   根が怠け者だからこのような理屈をこねあげたのか、どちらなのかよくわからない。

    小学校のときから「太陽がのぼるからガッコーに行く」みたいな論理がバカらしくなり、

   テキトーに学校をサボりだしたのが、わたしの知能犯的怠け者のはじまりだ。

    なんのために毎日学校に行くのかという根拠がかなりグラついている。

    気づいている人は気づいているし、気づいていない人はウドの大木のように、

   いまだに「無遅刻無欠勤」を誇りに思っていたりする。(表彰してあげよう!)


    会社についても同じだ。

    高度成長期を知らないわれわれはなんのために会社に行くかという根拠が、

   かなりじわじわと弱まっている。

    出世や給与の上昇なんて夢は恐ろしく卑小に感じられるし、仕事に充実感はてんで

   見出せないし、カネで買えるモノはしょせん、他人に見せびらかすものでしかない。

    こういう時代の空気は言葉の表現よりまず先に、身体の疲労感や徒労感とか、

   マスコミでとりあげられたりする病理現象として現れるのだろう。

    会社や学校という「容れ物」が問題なのではなく、その目標、目的が消滅しかかっているのだ

   ――いや、もうとっくに終わってしまったのだ。

    世界はもうすでに終わってしまったのにまだその世界はつづいていると思っている――

   それこそまさに現代の日本社会――ニッポンのオヤジたちがつくりあげた社会のなれの果てだ。


    「世界は終わったのだ、気づけ気づけがんがんオヤジたち」と必死にその身体の暴力性で

   訴えかけようとしているのが現在の学生たちの荒れようなのだろう。

    オヤジたちはもうすでに毎日の慣習の「反復運動」として機能しているに過ぎないから――、

   パブロフの犬として「反射運動器官」と化しているから、聞こえもしないのだろう。

    それに世界的にも新しい時代の気運というものが盛り上がってきていないし、

   芸術とか思想からもそのような兆しすら現れてきていないし、過去百年ものあいだ、

   近代ヨーロッパを模範にみずから考えることをしてこなかった日本人がとつぜん時代の

   先端の挑戦を受けても、その現実すらも読みとれないのは仕方がないかもしれない。

    ただそのしわよせが来るのは若い世代と子どもたちだけだ。


    仕事や会社よりもっと大事なものがあるという思潮がまったく盛り上がらない。

    ほんとうだったら日本人はもっと早く仕事以外の価値を探し出さなければならなかった。

    そのためにいまだに日本人は勤勉一本ばりの「労働生産機械」と化するほかないし、

   企業論理が圧倒的に個人を蹂躪する社会システムの修正がまったくおこなわれていない。

    企業論理を超越する人間の倫理や社会倫理がまるで育っていないのだ。

    われわれは目標も意味もなくなった労働の「永久反復」を無限につづけるしかない。

    社会学者の宮台真司はこれを「終わりなき日常」と名づけたが、まったくよい命名だ。

    われわれはこの意味も価値もない日常を「まったり」と生きるしかない。


    われわれ個人が否定や批判をしてもこの社会はなかなか変わらない。

    現実問題として、働いて稼いで、メシを食わなければならない。

    毎日通勤電車にゆられ、一日の大半と週のほとんどを会社労働に奪われ、

   休日にはその企業活動に貢献するべく消費活動にせっせと励むほかない。

    わたし個人はこの圧倒的な企業社会ではまったくの無力であるし、

   労働至上主義からの脱却を人々が意識するようになることをただ願うだけである。


    現時点では従来どおりの労働生活をつづけてゆくほかない。

    「現実」が変わらないのなら、みずからの心のありようを変えたほうが心の健康にはよい。

    現実社会にたいして反抗し、抗い、否を唱えても、苦しむのは自分だけだ。

    結果的には自分の毎日や「いま」を苦しめるものにしてしまうだけだ。

    社会の変化や批判を願っていても、毎日の生活には不満を抱えないようにしたほうが、

   個人生活をよいものにするための賢明な方策である。


    ただ、そうはいってもホンネとしてはこの企業社会に人生を奪われる毎日は耐えがたい。

    一日が仕事だけに費やされ、そのような一日一日が蓄積してゆくごとに不満も高まり、

   なんとかこんな毎日から、こんな一週間から逃れようという思いが積もってゆく。

    でもどこにも逃げ場がない。


    わたしが生み出した方策としてはできるだけカネを使わない生活にすれば、

   あまり働かないですむ、というヘンリー・ソーロー的な省エネ生活だ。

    この生活スタイルは働いてある程度カネが貯まると自由な失業期間を得るという方向に

   落ちてゆく傾向が――わたしのばあいには――ある。

    旅行好きな青年たちも旅をするためにカネを稼ぐという労私逆転の発想をもっている。

    これは「自由人」としてはよいが、雇用する企業側にとって、どこまで職業人として、

   信用されるのかという採用のさいの問題がある。

    企業側の採用条件というのはどこまでも企業所属と一体化した人を望むし、

   そのような人が当たり前でごろごろいるものだという前提がある。

    このような前時代的な終身雇用型人間が当たり前にいる労働市場では、

   仕事より私生活のほうをメインにした人間はかなり不利になるだろう。

    経営コンサルタントのトム・ピーターズは履歴書に空白のないやつは雇うな、

   スピリットがない、とまで言い切っているが、日本でそこまで進んだ会社はないだろう。

    日本にはそのような私生活至上主義というのがまるで企業社会に求められないから、

   情報社会は進展しないし、前時代的な工業社会とともに長期不況から抜け出せないのだろう。


    稼がない生活スタイルというのは自由であるけれども、家庭はまずもてないだろうし、

   年金や社会保障などの将来的な計画もまずのぞむべくもない。

    自由とひきかえに、これまでよしされてきた中流階級的平均人のモデルを

   すべて捨て去らなけれぱならないのである。

    年金は近い将来破綻する可能性が強いからよしとしても、家庭をもてない人生は

   ちょっとつらいかもしれない。


    中流階級的モデルはこの社会を圧倒的におおっている。

    家庭をもち、郊外住宅地にマイホームをもち、マイカーをもち、勤勉な会社勤めと

   妻と子どもたちとともに暮らすというごく一般的な生き方だ。

    われわれはなぜかこういう生き方・ライフスタイルをしなければならないと思っている。

    そうするのがとうぜんのようにわれわれは会社に勤め、家庭をもち、

   子どもたちを学校に行かせる。

    でもここに人生の幸福と生きがいがあるかというと、多くの人はその毎日に疑問と

   満たされない空虚さを感ずるというのが実情ではないだろうか。


    仕事を一生懸命したところでこのような成果しか手に入れられない、幻滅してしまうだけだ。

    成果をべつにして、職業には職務を立派に果たすという充実感や使命感のようなものが

   あるわけだが、はたして人生を社会的役割の表面的なもので終わってしまってよいものか、

   という疑問がある。

    職業人として立派に生きることはそれなりによいことであるし、世間から認められるわけだが、

   これだけが人生の全目的というのはあまりにも貧困だ。

    職業というのは生計をたてるためのあくまでも「手段」であって、

   人生の「目的」にしてしまうのはあまりにもあわれである。

    そのつぎにめざすものは精神性の高さや人格の成長であってほしい。

    日本人は生計をたてるための職業に人生のウェイトをあまりにもかけすぎたために、

   ビジネスの性格である貪欲さと下劣さと、そして精神の貧困さが全人格を覆ってしまっている。

    あさましいだけである。


    不思議なことであるが、この日本社会にはそのような社会的意識がまるで盛り上がらない。

    だから企業社会はどこまでも個人の私生活を縛りつけるし、

   人生のすべてを剥奪してもなんの疑いももたれないし、さも当然という風に人々の人生の

   上に君臨しつづけている。

    時代の当然の流れとして、豊かになった結果として私生活の充実を望む人が

   多くなるのは当然であるはずなのだがそうならないのは、やはりこの国が不自然なまでに

   雇用の確保と生産者保護の社会主義的政策があるからだろう。

    これらを頑なに守り通そうとすれば、個人の自由さや私生活が犠牲にされてしまう。

    豊かさのつぎのヴァリエーションは雇用を守ることにあるのではなく――

   雇用を守ること自体が自由なライフスタイルをもろに強奪してしまう。

    雇用は生活の基盤であるけれども、人生の大半の時間を奪いとってしまう。

    雇用の確保は豊かな時間という人生の果実を与えない。

    この逆転の発想ができないと、日本人は豊かさの実感を感じられないまま、

   永久に貧しい時代の生き方に囚われつづけるだろう。


    ――ここまで書いてきて、じつのところわたしは自分の勤労態度を反省、

   もしくは会社の束縛感から解放されることをもくろんだ内容のものを書こうと思っていたのだが、

   ついついいつものクセで労働至上主義にたいする批判に筆がすべってしまっていた。

    けっきょく、わたし個人がどんなに否定したところでこの社会は変わらないし、

   わたしは生計の糧を得るために働かなければならない。

    労働否定的な態度を肯定するよりか、すこしは労働社会にたいする適応という面も

   考えなければならない――どっちみち、働かなければならないのだから。

    ということで会社の拘束感からの解放と、勤労態度の反省という方向で、

   なぜわたしはこんなに労働至上主義や勤勉を嫌うようになったのか、

   会社に縛られる拘束感を心理面からなくす方法はないのか、

   といったことを探ろうと思っていたのだが、例のごとく社会批判へと傾いてしまった。

    まだ機が熟していないということなのだろうか。


    インターネットの文章はあまり長くなり過ぎると読者はすぐ飽きてしまうという指摘を

   メールでいただいたこともあって、できるだけ文章の長さを抑制したいのだが、

   どうもわたしの文章は思考の停滞性のためにどこまで長引いてしまうきらいがあるようだ。

    とりあえずこのエッセーはこれで終わりにしたいが、自分の勤労態度の反省、

   もしくは会社の拘束感からの解放という面からも考えるエッセーを、

   もし機会があれば次回は展開したいと思う。


    でも、じつのところわたしは勤勉否定の態度をとりつづけて自分の怠けグセをかこち

   つづけたいだけかもしれないな……。

    わたしはこの勤勉社会に適応すべく自分の心理的反応を変更したほうがいいのだろうか。

    自分のこれまでの考え方にしがみつかなかったら、そうすることも可能である。

    うーん、どちらのほうがいいのかな……。





        大阪周辺自然探訪


                                      1999/4/27更新 SINCE 1999Winter



     山々から眺める雄大な風景、鬱蒼とした自然のなかを歩く爽涼感、川のせせらぎ、
     そういった自然はすべて心を洗ってくれるので最近ハイキングをしています。

     その自然探訪についてのボキャ貧な紀行文。
     (なおコースについてはまったくの初心者なので、昭文社「関西周辺ハイキング」の
     まったくマニュアルどおりのコースを歩んでいます。)


   夏秋冬





    摂津峡・竜王山――おぉぅ、よろしおまんなー、摂津峡は。高槻駅のざわついた雰囲気から、

      巨岩のつらなる清涼な流れにたどりつくと清らかな別天地だ。爽やかダーっ。

      まむしに注意との看板があったが、道中二匹のまむしを見つけたが、蛇は久しぶりなので、

      じっと見つめていた。竜仙の滝は細い流れではあったが、奥深い森林というロケーションが

      いい。竜仙峡もとてもいい流れで、けっこうこのあたりは気に入った。竜王山はあまり

      よくなかったが、野生のサルを二匹見つけたことと、登り口の集落からの展望はまあ、

      よかった。夕方の帰りのバスはもう出発していて、日が暮れるまでに山を降りれるかと

      けっこうあせったが、ほかの路線のバスに間に合いました。



    二上山――羽曳野市を越えたあたりの山々にはビニールハウスがやたら目立ったが、

      のどかな風景だ。雌岳からながめる風景は河内と大和の平野がずうっと見渡されて、

      かなりよい。南からの峰峰の展望もかなり壮観だ。500mほどの山でも登るのは

      けっこうしんどいのだが、ここは犬の散歩がてらに登る人が多い。

      飛鳥とか奈良時代の史跡の名所があったのは思わずラッキー。



    雲山峰(紀泉アルプス)――桜が咲く春先の季節だったので、山道に花が咲いていたり、

      トカゲがあちこちで日向ぼっこしていて、冬の山道を歩けつづけたわたしにとっては

      新鮮だった。登りはかなりハードだけど、泉南海岸とずっと遠くまで見える海の色、

      それと淡路島とか四国かな(?)まで展望が見渡される。泉南側の景色と別れを告げると

      和歌山と紀の川の風景はかなりくっきりと見える。ハイカーは多かったな。ハイキングと

      いうのはオバさんとおっちゃんばかりだということに遅まきながら気づきました。そりゃあ、

      わたしだってちょっと前までは音楽とか映画とか人間がつくるメディアのみに魅かれていた

      のだが、自然とか風景に憧れる気持ちというのはカレンダーを買うときのみだったものだ。





   滝のてんこもり赤目四十八滝


     ここはたしかにすごい。滝だらけだ。名瀑100選に選ばれるというものだ。

     滝のてんこもり、博物館だ。しかもどの滝をとっても壮絶で絶景のものばかりだ。

     不動滝という豪快な滝におどろいていたら、つぎに布曳滝というボブスレーが

    できそうな滝がつづけて現われたりして、そのものすごさにはただ恐れ入るばかりだ。

     いくつもいくつも滝があり、どれもバラエティーに富んでおり、ほんとうにすごい。

     おそらく地質の関係だろうが、包丁と定規で切りとったような絶壁が前景をおおい、

    まるで太古の川にでも来たような感がする。

     空海の修行した洞穴だとか、歩道の上からぽとぽと落ちてくる雨降滝だとか、

    オオサンショウウオ・センターだとか、たしかに観光客が多いわけだ。

     淵もどこまでも深く緑色に澄んでおり、思わずどのくらいの深さか潜りたくなる。

     滝が終わって峠の道を歩いていったのだが、ここはほんと、だれも人のこない、

    ものすごく静かな山奥という感じがして、ちょっと不安なくらいだった。



   春夏秋



   比叡山延暦寺をゆく


     比叡山に行く前に東本願寺に寄っていったのだが、かなり荘厳で厳かな雰囲気がした。

     京都市内の川は嵐山にしろ、なにか独特のよい雰囲気がある。

     延暦寺の大講堂では最澄やら一遍とか親鸞、蓮如、日蓮などの肖像画や銅像が

    飾られており、この延暦寺からそういった人たちが輩出したんだなと感慨が湧く。

     根本中堂はすごく真っ暗なところで坊さんの念仏が静かに響き渡っていた。

     蓮如が修行したという蓮如堂と法然堂は身近に感じられたし、法然堂からふっと

    振り向くと夢かと見がまう琵琶湖の風景には感動した。

     高野山は山上に町を形成していてびっくりするが、比叡山は山中に寺院があるだけである。

     東塔あたりだけをめぐり、もう少し回っておいたほうがよかったかなと思うが、坂道が

    けっこう多くてしんどいし、寺院にはあまり感銘をうけないわたしは早々と切り上げた。

     琵琶湖がわにおりてゆくと琵琶湖の景色が壮大にひらける場所に出くわす。





   岩湧山の展望


     紀見峠からのぼる岩湧山はかなりハードで心臓破りだ。

     岩湧山山頂の展望は息をのむほど美しく、PLの塔や大阪平野、そして眼下の峰々が

    ずっと見わたされる。岩湧寺の室町時代に建てられたという塔は木地がむきだしになっており、

    長い時間を経たことがしのばれる。一匹の白犬がわたしを監視するように近寄ってきて、

    なでてやると近くにマーキングの小便をしていた。

     前日冷えたので地中から生える氷のつららが珍しく、つぶして廻った。




   和泉葛城山のお地蔵さん


     牛滝山から登るコースはかなりハードだけど、鬱蒼とした自然と、

    登りつかれた頃合いにちょうどお地蔵さんがいくつもあるのはなかなかありがたい。

     上のほうまで登ると景色はだいぶ開けてきて、大阪平野もかなり見渡される。

     葛城山上では和歌山の紀ノ川方面までのぞむことができる。

     登った日は平日だったためか、ハイカーとはひとりも出会わなかった。






   芦屋ロックガーデンからの眺め


     高座の滝からまさかこんなところを登るとは思わなかったごつごつした岩山を避けたため、

    餌付けされたイノシシがいる川筋を何度も行きかえして迷いに迷った。(イノシシはけっこうコワイ)

     ロックガーデンを登るごとに眼下に広がる市街地の風景はがひろがってゆき、感動もの。

     草原が山頂にずっとつづく東お多福山はものすごく気持ちよく、

    180度ほど見渡せる風景はたまんない。

     当日は景色がだいぶ霞んでいたが、六甲アイランド、大阪平野が

    かなりのところまで見渡せる。爽快に晴れた天気の日にはどこまで見渡せるか。





   柳生街道を歩く


     奈良から歩く柳生街道には石仏があるわけだが、こりゃあ全然よくなかった。

     沢歩きというのけっこう好きなんだが、ごつごつした岩石の中をながれる小川というのは、

    ひじょうに自然の神秘を感じていいのだが、ことこの柳生街道はイマイチだった。

     山々のなかを抜けると田園がずっとつづき、歩いても歩いても終らないのは不安になる。

     こんなところにも人々が住み、生活を営んでいるんだなと思うと、都会と市街地しか

    知らなかったわたしにはカルチャーショックであるが、のどかでほんわかとしたよいところだ。

     奈良公園ちかくに志賀直哉の旧邸を見つけてしまった。





   武庫川渓谷の真っ暗なトンネルを行く


     現在は廃線となった鉄道跡を歩く武庫川渓谷はなかなかロマンティックだ。

     ただあまり山奥の自然という感じがしなくて、ちょっと郊外の公園みたいな感じが残念だ。

     山々が開け過ぎて、深山幽谷といった感じが醸し出されない。

     驚くほど巨大な岩々が転がっており、見所なんだろうが、ちょっとイマイチ。

     ここの岩々はみょうに白っぽい。

     鉄道跡のトンネルは6本くらいあるのだが、脇道があるだろうと甘く見たわたしは

    懐中電灯をもっていかなく、暗闇のトンネルを途中まで歩いたのだが、

    あまりの暗さにギブアップ。必死の思いで川沿いの岸壁をつたっていったが、

    つぎのトンネルでもまた出口の光さえ見えず、さっききた険しい岸壁ももう引き返せない。

     仕方なくこっそりと懐中電灯をもつ先行者のあとをついていった。

     懐中電灯を忘れずに。





  生駒山上の自然


     近鉄額田駅の市街地からけっこう大阪平野の景色は広がっており、

    だいたいは上に登ってもこの景色のままで推移してゆく。

     生駒山上からは大阪平野も奈良方面の山々も見渡せてけっこうおトク。

     ここのハイカーたちはなぜか極端にあいさつ好きだ、みんな声をかけてくる。

     鳴川峠から近鉄元山上口駅へと降りる沢沿いのコースはかなりイイ。

     ここの雑木林はまったく人気のない自然という感じがするし、

    小さな小さなせせらぎがだんだんと小川にかわってゆくさまはなかなか壮観だ。





  犬鳴山の秘渓


     大阪近郊にこんな奥深い自然があるなんて驚きだ。

     このコースは迷うことが多く、ちゃんとコース通りいっているつもりでも途中で道がなくなり、

    必死の思いで道路に出たり、降りる道までもまちがって、こんな山里の風景が、

    大阪近郊なのかと思いながら田園地帯を歩きつづけたりしたが、まあよかった。





    山に登りたくなったのは、以下の書物からの影響です。

    「漂泊者と隠遁者に学ぶ人生の知恵」




      「貧乏」の誕生――中流階級社会における――


                                               1999/3/17.






     貧乏はいつから恐ろしいものになったのか、あるいは恥ずかしいものになったのか。

     むかしは、貧乏はどこにでもあるものであり、さして恥ずかしいものではなかった。

     貧乏に強く耐え、あらがってゆく姿がりりしいと感じられてきたのではないか。

     だれもが倹約と節制を身につけており、衣服をつくろうことが当たり前だった。


     わたしは昭和40年代前半生まれであり、以前の貧乏観がどのようなものであったか、

    書物やドラマなどによってしか理解することができないが、かつての人たちの多くは、

    貧困の中に暮らしながら貧乏に対して毅然とした態度をとっていたように思う。

     それが高度成長が終わり、日本社会全体に豊かさが行き渡るようになると、

    貧乏がうしろ指をさされるような恥ずかしさに変わってきた。

     貧乏というのは飢えや死に直面するような非常事態ではなく、ただとなりの生活水準の

    モノやライフスタイルに達していないかという基準で測られるようになっていった。

     貧乏というのはただ平均的なライフスタイルの基準から落ちることと同義になったのである。


     子どもでいえば、みんながはいているアディダスのシューズを買えなかったら貧乏だとか、

    流行りのおもちゃをもっていなかったら、「貧乏」ということになった。

     貧乏というのは生活の危機に瀕するというものではまるでなくて、

    ただ他人と比べて見劣りすることのみを指すわけである。

     飢餓にさらされるアフリカや後進諸国とくらべれば、まったく「ブルジョアジー」なみなのに、

    人は「貧乏だ貧乏だ」と嘆くのである。


     このような「屁」のような貧乏観をもちながら、この国の人たちは貧乏を極度に恐れる。

     横並びから転げ落ちて、「顔がつぶれる」ことをかなり恐れるわけだ。

     ここからわかることはもはや「貧乏」というのは生活水準を表わす言葉ではなくて、

    「劣者」や「敗者」を言い表わす言葉に変化したということだ。

     人々は貧乏を恐れているのではない、他人と比べて見劣りすることだけを恐れているだけだ。

     中流階級の画一化という無言の圧力に恐れているだけなのだ。


     貧乏という言葉はいつのまにか劣者を意味する言葉になった。

     生活水準のみが人間の優劣を測るゆいいつのモノサシになった。

     つまり人間を測る基準は、この市民社会ではカネだけだよと宣言していることになる。


     貧乏観念は「人格否定」へとスライドした。

     人となり、人格、行いによって人は評価されるのではなく、まさにカネの多寡のみになった。

     ここにわれわれが貧乏を極度に恐れる原因がある。

     貧乏なのは生活水準が低いという状態を指すのではなく、

    社会的な「人格否定」を指し示しているわけだ。


     貧乏観念のなかに混入された「人格否定」――われわれはこれを恐れる。


     われわれはこの貧乏観念のなかから人格否定の恐れをとりだし、

    カネの多寡だけで測られる貧しい人間評価のモノサシを払拭しなければならない。

     漠然と不安を抱き、定義もきっちりとなされない恐怖は、

    ただやみくもに対象の恐怖感を増大させるのみである。

     貧乏の恐れ――つまり人格否定の恐れというのは、われわれをがむしゃらな強迫労働に

    駆り立てる原動力ではなかったのではないだろうか。

     われわれはその怖れのために朝から晩まで働きつづけなければならなかったのではないか。

     貧乏観念の恐怖という「神経症」にとりつかれていたのではないだろうか。


     貧乏の呪縛からとき放れたとき、われわれはもっと自由な生き方ができるのではないか。

     貧乏の怖れのためにわれわれはいったいどんな大事なものを失ってきたのだろうか。


     われわれはなぜこんなに貧乏を恐れるようになったのか。

     貧乏の恐怖というものが必要以上に植えつけられている気がする。

     プロパガンダ(大衆洗脳)はどこでおこなわれてきたのか。


     やっぱりテレビ・メディアなのだろうか。

     映像というダイレクトな影響力をもつテレビは人々を画一への強制と駆り立てる。

     消費社会の先兵たるテレビは「もつものはエライ、もたざるものは負け」だという

    メッセージを日夜送りつづける。

     「もたざる者」の心理的な恐怖心を担わされた者はモノ買いに走り、

    その補償としての優越感をまたもや、身近なもたざる者に押しつける。

     このような相乗効果によってテレビの画一化論理はますます押し進められる。

     この強制力というのは理性ではあらがいがたいほどの圧迫感をもたらすのは、

    だれでも知っているものだと思う。


     テレビ・メディアだけではなく、国家教育もこの貧困意識を徹底的に植えつけてきた。

     西洋列強にくらべれば日本国は悲惨なほどに貧しいという認識は、明治以降の近代国家が

    近代化をおしすすめるためにおおいに喧伝してきたものである。

     国家が貧困であるという認識は国民たちの向上心をおおいに盛りあげ、

    日清、日露戦争への勝利へとみちびいた。

     戦後の日本も貧しい貧しい、資源がないと学校教育などでやたらと聞かされてきたが、

    貧困は相対的なものであり、その当時も先進諸国とくらべるか、後進諸国とくらべるかで、

    かなり貧困感は違っていたはずだ。

     貧困観というのは国家をあげる高度成長プロジェクトにおいて、

    おおいにその原動力、発火源の役割をになってきたのである。

     江戸時代も飢饉がなんども襲った貧困と暗黒の時代だと思いこまされてきたが、

    最近の研究ではその「貧農史観」を見直すという動きがおこっているし、

    貧困というのはすべてがどこに基準をとるかでかなり変わってくる相対的なものである。


     貧しさは悲惨で悲愴なものであるという固定観念は検討されてしかるべきものだ。

     ほんとうに貧しさはなんの長所もない悲愴なものなのか。

     「貧困の神話」のカーテンをとりのぞいてみると、われわれはそこに貧しさという言葉だけでは

    くくれない豊穣で豊かな生き方、生活を見出すのではないかと思う。


     われわれは「アフリカは貧しい貧しい」と思い込んでいる。

     しかし当のアフリカ人たちにとってはそれが人生や生活のすべてであり、

    貧困が常態化している人たちにとってそれはふつうのことであり、とうぜん人生観や死生観も

    それによって打ち立てられているだろうし、楽しみも喜びもかれらにあるはずだ。

     アフリカが貧しいという固定観念はたんにわれわれの頭のなかにある一面的な

    思い込みにしか過ぎない。

     そしてその心理内容がもっとも威力を現わすのはかれらではなくて、

    われわれ自身の追い立てられる貧困への怖れではないだろうか。


     貧乏はただやみくもに忌避すべきなにかものかだけではない。

     かつての人たちは貧乏のなかにすばらしいものを見つけてきた。

     それは心の平安や清らかさであったりした。


     貧乏を恐れる気持ちは人々を物質的欲望へと駆り立て、人々の貪欲さや利己心を

    最大限にまでひきだし、そして失うことと守ることに対する多大な恐怖心をもたらすことになる。

     つまり心は落ち着かず、たえず不安にさいなまされることになる。

     かつての人たちは物質的欲望の行きつく果ては、つまるところ、この一点――、

    心の平安を乱すだけであるという結末を知っていたのである。


     貧乏も心を乱すのではないかという反論はもちろんである。

     ただ欲望の風船をたくさんもった人より、少なくもった人のほうが割れる心配は

    より少なくてすむのはたしかではないだろうか。


     かつての中国の賢者や仏教僧たちなどは貧困のなかに生きようとした。

     すべての問題は心のみの問題であると考えると、その平安をさまたげる心の欲望は

    いっさいじゃまになる。

     古来の賢人たちはそのことを知って、貧困のなかで生きたのである。


     現代のわれわれは拭いがたく物質消費社会のなかに生きている。

     カネをもっと稼いでもっとよいモノをという世界のなかで暮らしている。

     このほかの世界、価値観なんてまず知りようもない。

     貧乏を理想化する人間なんてバカか、新興宗教の商売人にダマされたと思うだけである。

     新商品広告と宣伝の世界しか知らない人間はそう思うしかない。


     それが幸福であり、なんの疑問も抱かないという「健常」の人はそれでいいだろう。

     でもこんな世界はタマンナイ、こんな生き方しかできない人生なんていやだ、

    と思っている人はこの貧乏観念にこめられた意味というものをいま一度、

    検討してみるべきではないだろうか。


     「貧乏」という恐怖心に釘づけされた人々はおそらくやみくもに経済道具としての人生を、

    人生の豊穣さも知らないまま、棺桶まで一直線でつっ走ることだろう。


     ウィリアム・ジェームズの言葉を最後に引用します。

     「私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを

    想像する力さえ失っている。

     その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、

    私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって
     
    生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を

    投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、

    ということであった」

     「貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が

    奴隷たらざるをえないのである」

                            ――『宗教的経験の諸相』 岩波文庫





     清貧や隠遁のなかに生きた人たちはこの書評のなかに何人か見ることができます。
     「98秋 放浪と漂泊への想い」

     ビンボーはほんとうに「不幸」なのか」 99/3/23.




     ビンボーはほんとうに「不幸」なのか
                   ――「豊かさ」の罠

                                               1999/3/23.






     ビンボーはみじめである。恥ずかしくて、恐ろしいものである。

     ビンボーが畏怖の対象ではないというつもりはさらさらない。

     見るからに汚らしい家、陽のあたらない家、狭い家、といったものを見つけると

    すぐ哀れだなとかみじめだなとか感じるし、お金がなくてモノを買えなかったり、

    電気やガスがとめられたりしたら、貧乏ほど心底コワイものはない。

     ビンボーは忌避すべきものであり、その恐ろしさはなみたいていのものではない。


     ではなぜビンボーは不幸なのかと問うかといえば、ビンボーから必死にのがれてきた

    戦後日本人ははたして幸福になれたかといえば――まったくそうとは思えないからだ。

     ビンボーは恐ろしい、食えない生活は二度と味わいたくない、といって戦後の人たちは

    がむしゃらに働いてきたわけだが、われわれ子どもの世代が手に入れたものは、

    モノやブランドに囲まれたまやかしの豊かさであり、子どものときからの受験戦争、

    朝から晩まで労働と会社に束縛され、生涯を拘束される労働中心の社会だった。

     子どものときから自分の人生コースが決められている束縛観や無意味観といったものは

    明日も知れぬ貧困の時代からは想像もできないものかもしれないが、飢えは一時的なもの

    だが、人生コースは生涯にわたって拘束されるひたすら「重い」ものである。


     貧乏な時代に二十年や三十年先の将来のために今日を我慢しなければならないことなど

    あっただろうか。子ども時分に老後の保障のために遊びより勉強を選ばなければなかったこと

    などあっただろうか。よい大学やよい会社に入るためにひたすら勤勉に律義に

    生きなければならない苦しさなどあっただろうか。

     貧乏な時代は貧乏という怖れに釘づけられなければならなかったが、

    二十年も三十年も先の生活のために拘束されるような現在の苦しさはなかっただろう。

     貧乏な時代のほうがもっと自由に気ままに生きられたのではないだろうか。


     われわれがめざした豊かな社会というのは、一生をそのようなくび木にかけられる、

    まるで監獄のような毎日だったのだろうか。

     豊かな社会というのは貧乏の怖れに劣るに優らないひたすら重い生涯の鎖を

    われわれに課していったのである。


     だからわたしは問いたいのである、貧乏はほんとうに不幸なのかと――。

     ビンボーの中にこんな生涯にわたる束縛感や拘束感はあっただろうか。

     この苦しみと貧乏の苦しみとどちらのほうがマシなんだろうか……。


     理性で考えれば、貧乏より豊かな計画的人生のほうがいいというかもしれない。

     でも理性だけで人間は生きられるものではなく、情念のほうがたまんなくなってくる。

     いいようのない不快感や不満がどんどんたまってゆく。

     昨今の学生たちがどんどん荒れてゆくのはその現れだと思う。

     明確な理由もなく、「ブチ切れる」とか「うっとうしい」とかいうのは、

    理性では反論のしようもない計画的人生コースへの不満からくるものだろう。


     よい大学や会社に入って出世してもたかが知れている、顔や個性のない企業の歯車

    としてのサラリーマンとしか生きる道がない、家庭やマイホームをもってもそれ以上の

    すばらしい、わくわくするような夢もない――そういったどんづまりの生涯がどんどん

    目の前にさらけ出されてくるのにその人生コースしか選択の道はない――やり切れない。

     しかも90年代からはトンネルのような大不況がつづき、企業はリストラ、

    銀行や証券などの安定企業も倒産、花のエリート人生コースも急転落下した。

     計画的人生の前提である企業がどんどん崩壊していったのである。


     ただこの件に関してはもう少し慎重にいいなおしておいたほうがよいだろう。

     表面的にはこういうことが多くなっても、終身雇用や年功序列はこれからも社会の中枢に

    居残りつづけるだろうし、計画的人生が王道でありつづけるだろう。

     扇情と大変化の未来予測は、いつの時代でも声高に叫ばれてきたのに、

    一向も変わらないというのがビジネス書やマスコミの正体でもあるからだ。


     貧困は逃れられる何物かもしれないが、その対極である豊かさも必ずしも幸福とは

    限らない。われわれ後の世代が手にいれたものは、生涯にわたって拘束される人生コースと、

    さしたる夢も展望もない機械反復のような労働だけの毎日だった。

     われわれはまたもや罠にひっかかってしまったのかもしれない。

     豊かな生活というのは生まれ落ちた瞬間から成金志向の親が莫大な借金を背負わせた、

    哀れな子どものようなものである。豊かさとは「詐欺」みたいなものだ。

     学歴にしろマイホームにしろ豊かな老後保障にしろ、あまりにも大きすぎる借金だ。

     豊かになればなるほどこのような借金は増えてゆき、なぜならもっとよい生活、

    もっとよい保障と、無限に期待と不安はふくらんでゆき、支払われるべき借金もふくらむ。

     豊かさというのはまるで雪だるま式の地獄のようだ。


     だから貧乏をやたらめったら怖れるのはやめておいたほうがいいと思うのだ。

     罠に驚いた獣がやみくもに逃げてほかの網にかかるのと同じだ。

     戦後の日本はまるでその獣と同じく貧困と敗戦の劣等感からがむしゃらに

    逃げ出してきたが、おかげで豊かさや勤勉の欠点や障害にまるで気をつかわなかった。

     「天国」とか「ユートピア」なんかどこにもなく、欠点はかならずあるものだ。


     貧乏をやみくもに怖れるのではなく、その心の豊かさに目をそそぐべきなのだ。

     未来への牢獄もなく、心配や不安は少なくてすむし、気楽で気ままな生き方ができる。

     ビンボーは豊かさゆえの苦悩や労苦を背負わなくてすむのである。


     古来の中国の哲学者や日本の仏教僧たちはなんどもそういってきた。

     ビンボーのよさを称える人なんて今日ではまずいないけど、心理学的にもなるほど

    そうだと思う。豊かさや地位は欲望と同じで限りなく肥大し、増殖する。同様に不安や

    恐怖、心配事、義務や維持もかぎりなく拡大増殖する。二十年三十年先もの生活を

    心配し、子どものうちから不安に駆られているのはおそらく歴史的にもまれにみる珍種で、

    現代の豊かなわれわれだけだろう。心の平安さだけでみてみると現代のわれわれは

    かなり苛烈な心の内面を生きている。


     ただ「貧乏=不幸×悲惨」という固定観念はかんたんには拭い去られないだろう。

     反射的にそのような図式が頭に浮かんでしまう。じつは貧乏=の図式にはもうひとつあって、

    「貧乏=劣者と敗者」というのがあるのだが、だからこそ豊かな時代のわれわれは

    強烈に怖れるのだが、この強迫観念はもういかんともしがたいだろう。

     この怖れのためにわれわれは豊かな社会を築くことができたのだし、

    これからもその恐怖反射によって人々はがむしゃらに働くことだろう。


     ビンボーを怖れたり、非難したりすることは悪いことではないだろう。

     ただそれを「恐怖症」や「強迫観念」にしてしまったら、心の安らかさが失われてしまう。

     人生が損なわれてしまう。まあ戦後の日本人のたいていはそうだっただろうが……。


     とりあえずは貧乏を怖れ過ぎるのはよくない、とだけ言うことにしよう。

     「豊かな」人生を棄てなければならなくなるから――。





    人間を知りたいという漠然とした試み
                 ――ベストセラーからみる知の欲求

                                             1999/3/24.    

 



  1 残酷と猟奇をめぐる人間心理


     書店をめぐっていると最近、「残酷な童話」もののブームであるようだ。

     火付け役がなんだったのか、なぜいま売れているのか、よくわからない。

     子どものころ無邪気に楽しんでいただれもが知っている童話がじつはものすごくザンコク

    であった、もともとのストーリーはこうであったと知らされるのはなかなか興味深い。

     このようなバクロ本(?)がブームになるというのは、童話の従来の牧歌的な読み方は

    信用されなくなったということだ。子どものころ聞かされた平和的な童話なんか

    信じられないということで、読み方の断続がおこっている。つまり従来の<人間観>では

    人は満足しなくなったということだ。


     バクロ本が出るのは芸能界ではそのタレントの高潔とか清潔のイメージで人は

    満足しなくなった、退屈するようになった、信じられないというときに出て、

    タレントの「化けの皮」をはがす。ひとつのイメージの側面だけでは満足できなくなったとき、

    信用されなくなったとき、その人格バクロによって認識の平衡がもたらされる。

     政治家の人格バクロは何十年も前からあり、理想や公約の政治家イメージは払拭され、

    汚濁と欺瞞に満ちた政治家イメージがわれわれに完全に定着している。


     一面的な人間の見方だけではどうもおかしい、ほかの側面があるはずだ、

    という疑いが暴露ブームをうみだし、人間観のバランスがとりもどされる。

     それは漠然とした人間を知りたいという欲求として表われる。

     明確な人間観の「ひきはがし」が求められているというよりか、なにか人間について

    知りたい、探りたいという気持ちとしてわれわれに現れてくる。

     従来の人間観ではどうもしっくりとこない、世の中やっていけない、と人々が感じだしたとき、

    漠然と人間について知りたいという気持ちがおこる。

     人間観の整合性が失われたとき、その隙間に人間を知ろうという気持ちが入ってくる。


     こういう人間観の読み替えはこの十年間の本のブームにところどころ表われてきた。

     人間の<残酷さ>をあぶり出そうとしたブームは現在の童話ブームだけではなく、

    ひところ「殺人犯の心理分析」といったブームに表われていた。

     映画の『羊たちの沈黙』とか『FBI心理分析官』とかの猟奇殺人犯の心理を探る本が流行り、

    そのような類の本が書店に山積みにされていた。

     なぜこんなエグイものに人は魅かれるのか、それも読者層は女性が多いということで、

    不思議に思っていたのだが、そこには人間の心を知りたいという気持ちと、牧歌的な

    人間観だけでは満足できなくなった心理が働いていたのだろう。


     猟奇殺人犯は極端であるが、そのために人間の無意識の心のありよう、

    理性ではふたをされない本当の心のすがたがあらわされる。そういった意味で、

    心理や人間を知りたくなった人はこのような極端な心理に人間の真の姿を見出そうと

    したのだろう。

     女性たちが読者の多くであったということは、彼女たちがこれまでの人間観では

    満足できなくなった、なにかにつきあたっているということを表わしている。

     残酷や猟奇的な心理をのぞこうとするのは、これまで女性たちにそのような認識が

    欠けていた、もっと牧歌的な人間観をもっていたということになる。

     女性たちにきれいな、美しいイメージかこれまで押しつけられていたのは周知の事実である。

     彼女たちは無意識にそのような女性像をかなぐり捨てようとしているのだろうか。

     子どもらしい童話がじつはものすごく残酷であったという話は象徴的である。




  2 心の認識の転換


     春山茂雄の『脳内革命』は400万部(?)ほど売れた。プラス志向は脳によい、

    といった自己啓発ではふつうの本だが、この時期になぜこのような本が戦後最大の

    ベストセラーに近づくほど売れたのか。

     リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』という本もアメリカで700万部、

    日本でも100万部突破したそうだが、これらの本に共通することは、物事や外側を

    変えようとするのではなく、心のありよう自体を変えようという試みをもっていることである。

     物事を変えるのではなく、心の認識、物事の捉え方を変えようということである。


     わたしも斜に構えながらも自己啓発にお世話になった者であるが、わたしが

    そのような本を手にしなければならなかったのは、どうもこれまでの生き方、認識の方法

    だけでは不幸せ感や落ち込みを払拭できないと気づいたからだ。学校教育とかマスコミとか

    マンガであるとか、ごく自然に与えられる情報だけではどうも落ち込みとか悲しみとかが

    やってきても全然対処できない。それらのマスコミはまったく心理的な落ち込みに対して、

    なんの対処法を指し示さない、ものすごく無力なものなのである。


     ひがんでいるわたしは、マスコミとか消費にあおられるようなバカな大衆になりたくない、

    と手放しの享楽主義に身をゆだねられなかったから――つまりマスコミの「救い」には

    うまく乗れなかったため、個人的に落ち込みの心理面に対処しなければならなかった。

     精神分析や交流分析ではすぐ幼少期の心的外傷(トラウマ)に問題が求められるが、

    あまりにも廻りくどいし、事実かそうかでないかの区別もかなりむづかしい。

     最近のTVドラマでもたとえば『真昼の月』とか『イグアナの娘』といった番組で、

    トラウマが原因であるという説があつかわれていたが、『脳内革命』や『小さいことに

    くよくよするな!』というベストセラーは精神分析の見解をとらないことを意味する。

     「アダルト・チルドレン」という問題がクローズ・アップされたことがあったが、

    これは交流分析から出てきた話であると思うが、精神分析派の巻き返しなのか。


     認識や物事の説明スタイルを変えれば、落ち込みや悲しみなどの感情は払拭される、

    という認知療法や論理療法の方法はなるほどであり、こちらのほうが実際的である。

     『脳内革命』ではプラス思考、カールソンは思考の消去という方法が示唆されているが、

    幼少期の捉え直しより、「いま、ここ」での認識の転換のほうがよほど説得性がある。

     われわれの落ち込みや悲しみは思考の捉え方により起こり、その思考をプラスに

    置き換える、あるいは捨て去ることによって、マイナスの感情は去るというのは、

    しごく効果的であり、ちょっと考えてみたらごくふつうに人が行なっていることである。


     われわれはこういうごく当たり前の心の知恵すら知らなかったということだ。

     いったいなぜかとバカらしく思うが、戦後の社会は思考することに価値がおかれてきたし、

    思考することが知性だと信じ込んできたから、その手放し称賛の思考のなかには

    感情をめちゃくちゃにする要素があるのだということにはなかなか気づかなかったし、

    戦後の会社主義とかテレビ、消費主義社会は人々に群集的な画一行動をうながし、

    そのために孤立的な感情の落ち込みから防いでいたという面があったと思うのだが、

    昨今の個人主義や個性主義はそのような「群集的ゆりかご」から人々を抜け落とさせたし、

    消費主義や会社主義ではどうも心は満たされない、空虚だという思いが、認識の転換を

    もたらす『脳内革命』やカールソンのベストセラーにつながっていったのだと思う。


     カールソンの本はいまも売れつづけているようだが、読書の声とか読んでいると、

    どうも自己啓発の域を越えていないようだが、カールソンの本はそれだけではない。

     思考や認識の「虚構性」や「幻想性」を明らさまにする、読みようによっては衝撃的な本

    であるとわたしは思うのだが、残念ながらそのような読み方や気づかれ方は

    なされていないようだ。

     思考や認識がすべて虚構であることに気づくということは、けっこう衝撃的であり、

    さまざまな認識や世界観、歴史観の「リアリティー」や「実体感」の反省をうながすもので

    あるのだが、いまのところそのような読者の反応はないようで残念でもある。


     またカールソンの本は「精神世界」や「仏教」のジャンルとすれすれのところにある。

     著書のなかにラム・ダスの名があるとおり、カールソンはアメリカ60年代以降のヒッピー・

    ムーヴメントの影響下にあるし、トランスパーソナル心理学やアメリカにわたった日本の禅や

    東アジアの仏教、ヒンドゥー教の影響を色濃くうけている。

     ただそのジャンルにどっぷり浸からないのがカールソンのカウンセリングが受けた理由

    だろうし、こちら側に踏みとどまらなかったらこんなには読まれなかっただろう。


     際どいところなんだが、カールソンの本以上をめざした読者は果たして精神世界や

    東洋宗教の世界に踏み入れようとするだろうか。ちなみにわたしはカールソンの本に

    影響を受けてから、クリシュナムルティやラジニーシ(和尚)といった宗教者たちに

    かなり近いものを見出したし、ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学にひじょうに

    インパクトを受けたし、大乗仏教にも学ぶべきものが多くあることを認識した。

     一般の読者たちははたしてこれらの世界にまで踏み入れようとするだろうか。

     『小さいことにくよくよするな!』の出版元であるサンマーク出版は文庫でエヴァ・シリーズ

    でそのような系統の本を出しているが、さして話題にはなっていないようだ。


     一般の読書たちにとってはかなり「アブナイ」世界だ。オウム真理教事件があった後なら、

    なおさらだ。これはまさしくオウム真理教がめざした世界でもあるからだ。

     でもわれわれはもうすでに精神世界行きのキップを手に入れてしまった。

     外界を変えるより、心の認識を変えるという方法はまさしく東洋宗教が何千年もかけて

    追究してきたものである。この方法のキーはもちろん東洋宗教のなかにある。

     人々はこの世界に入ってゆくのか。おそらく西洋心理学、科学的世界から如実に逸脱

    するようなものには手を出さないかもしれないが、じわじわとこの世界の知識に

    慣れ親しんでゆくことになるだろうと思う。認識の転換をめざしたい人が手に入れたいと

    思う知識が東洋宗教にはさすがに多く埋もれているからだ。


     ただやっぱり一般の読者たちは科学的世界観のパラダイムからは抜け出せないと思う。

     近所の人からうしろ指をさされたくない。

     そういうものである。



  3 ブームから人はなにを知ろうとしているか


     『ソフィーの世界』は哲学入門書であるが、100万部を越すベストセラーとなった。

     そのあと哲学ブームがおこると思われたが、哲学はブームにはならなかった。

     ブームにならなかった理由はおそらくプラトンとかカント、ヘーゲルなどの古典的哲学者

    を学んだって、なんの現実的利益も実際的な知識も身につかないからだったと思う。

     かれらはわれわれが知りたがっている問題とぜんぜん関係がない。

     なぜそんなことを考えなくてはならないのか、ということすらわからない、

    ヨーロッパ古典哲学はわれわれにはあまりにも縁遠いものだ。


     その前に『知の技法』という本がなぜだかわからないが突如として売れた。

     東大の権威に魅かれたという理由もあったが、人がなんとなく知に憧れ出した兆しでは

    なかったのかと思う。


     以上、これらのベストセラーやブームから人はなにを知りたがっているか、

    ということをのべてきたが、漠然と人間について知りたいという欲求がその底に

    横たわっているのではないかと思う。

     猟奇殺人犯の心理、心のプラス思考と思考の消去、哲学入門、残酷な童話、

    といった一連のブームをひとつにくくるのはむづかしいかもしれない。

     深層心理あるいは残酷な心を知ろうとする欲求があり、心を癒すための心理学があり、

    基本的な哲学古典への興味がある。

     なにかについて知りたいという触覚をのばしているのだが、なにか明確な目的がない、

    といった感を抱く。


     人間観の転換があり、心の認識の転換がある。

     そこには人間の残酷さについての知があり、心をコントロールするための知恵を得た。

     これらの本が売れたということは人々はその知識を知らなかったということであり、

    そういう知が求められる時代状況にあったということがいえる。


     わたしとしては大きな経済的な転換期にあるということで、げんざいの経済状況の

    転換がどのようなものであるか、そのような時代にわれわれはどのような生き方を

    していったらいいのかといった問題を考えるべきではないのかと思うのだが、

    どうも人々はこれまでどおりの会社主義と消費主義の世の中のままでよいようである。


     こんな生き方のままでいいのかとわたしはナゾに思うし、空虚感や無意味感は

    そのためにますます増大してゆく混沌とした世の中にあると思うのだが、どうも人々は

    こういうことを考えようともしないようだ。


     やっぱり人は「群集的ゆりかご」にとどまっているほうが心地よいようである。






       社会的劣位を怖れる心

                                             1999/3/31.







    このエッセーでは社会的ランクについて語ろうと思っているのだが、このランクについて

   語れば、おそらく傷ついたり、不快に思ったりする人が少なからずいると思う。われわれは

   この社会的ランクにひじょうに過敏になっているが、同時にそれを隠蔽・抹殺しようとする

   気持ちもかなり高い。これは承知のとおり「平等」の要求として表われる。


    あえてタブーに踏み込もうとするのは、この社会的優劣・ランクという問題を正面から

   捉えないとわれわれはこの恐れにやみくもに囚われたまま、自由になれないと思うからだ。

    恐れや痛みはなぜおこるのか、その原因をつきとめないとわれわれは盲目的に

   逃げ回って「罠」にかかる愚かな群集になるだけである。



    わたしはこれまでの中流階級的な生き方なんか満足できないと思ってきたのだが、

   その生き方から外れようとすると、いつも社会的劣位とされる環境に追い込まれる。

    「よい大学よい会社」という選択を拒否すると中小企業や零細企業に入ることになるし、

   ネクタイとスーツ姿を拒否すると肉体労働ばかりになる。出世や金儲けを否定すれば、

   ヒラのままさげずまれたり、保障のないアルバイトどまりだし、ビンボーになる。


    社会的優位をめざす競争から降りると、必ず社会的劣位に追いやられている。


    まいったなと思う。社会的優位をめざす競争を否定すると、いつも社会的劣者だ。

    うまいことできているなと思う。世間や社会の言いつけどおり、がむしゃらに「よい子と

   デキル人間」を演じなければ、いつでも「負け犬」と「社会的弱者」だ。やられたなと思う。

   世間というのはわれわれの「怖れる心」というのものをうまく利用してわれわれを操るのだ。


    世間はそれに従う者と従わない者をちゃんとうまいこと選り分けている。そしてそれに

   「優劣」のレッテルを貼りつけ、社会のあらゆるものに優劣秩序を張りめぐらせ、

   人々の進む方向、禁止される場所といったものを位置づけている。「禁断地帯」に近づくと

   人々のざけずみや非難するまなざしが降りかかり、そして心のブザーが鳴りだす。

   心のブザーというのは「劣等感」であったり「社会的劣者」の意識であったりする。

   まあたいていの人はその心が恐ろしいから、やみくもに優越や競争をめざす終わりなき

   「徒労レース」に参加させられる。


    哀れな優越をめざす競争と劣等感から逃れようとする逃避は世間のあちこちで見られる。

   ある人は自分が優越したいがために人をけなし、辱め、すべて他者を「負け犬」にしたがる。

   ある人は劣者を怖れ、やみくもに世間に同調し、同じような「みんな」の中に隠れようとする。

   またある人は優劣競争に参加できず、ほんらいなら競争のバネとなるエネルギーを

   自分の精神のなかで内攻させ、みずからを責めさいなむ。


    ほとんどは社会的劣位を怖れる心から生みだされる。それが過剰であればあるほど、

   また目立てば目立つほど、無理を重ねていることが見透かされる。


    われわれはこんな無益な競争や虚栄心、見栄から逃れたいと思っている。しかし、

   だめなのだ。「社会的劣者」に自分がなってしまうことが、あるいは他人にそう見られることが

   恐ろしくてたまらないのだ。競争は逃れたいと思っている、だが劣者にはなりたくない。

   だから優越をめざす競争はいつまでも終わることはないのだ。


    「怖れる心」がわれわれを釘づけにして離さない。


    「社会的劣者」はダイレクトである。反射的にわれわれの心は「あわれだな」とか

   「みじめだな」とか「恐ろしい」と思う。しっかりとわれわれの心の奥底につなぎとめられている。

   視覚の映像と怖れる心は見事に緊縛されている。それはホームレスであったり、きたない、

   薄汚れた破れた服であったり、小さな汚れた家であったり、低い立場におかれている社内の

   人であったり、職業につく人であったり、または学校のイジメられる子であったりする。

   われわれは恐いのである――自分がそうなることが。


    だからわれわれは走りつづけるしかない。


    方法はある。恐ろしさのバリアーを破ることだ。社会的劣位の価値観を転倒することだ。

    社会的劣位の価値に積極的な意味や価値を付与すればいい。


    劣位と見られる状態や様相は「絶対的」なものではない。われわれの認識というのは、

   あるひとつの観点ができあがるとそれを「絶対」だと思いこみ、後生大事にかかえこみ――

   というよりかまったく無意識に反射的になってしまうのだが――その認識以外を知りようも

   なくなる。

    われわれの認識というのはすべてひとつの「解釈」にしか過ぎないのだが、そんなことを

   露とも知らず、その認識のみがただひとつの「絶対」となってしまう。

    とくにそれが社会的に無意識・習慣的に植えつけられた常識や社会的通念ならなおさらだ。

    世間一般の常識というのもあくまでもひとつの時代の「解釈」にしか過ぎないのだが、

   時代の落とし子であるわれわれはなかなかその解釈から抜け出せない。

    そしてわれわれは時代や世間の奴隷となり、あわれな暴徒と化す。

    世間の常識というのはわれわれを無意識のうちに操作するのである。


    心理療法では認知療法というセラピーがあり、それは非合理や無意識におこなわれる

   思考の内容を合理的・楽観的なものに書き替えるものだ。思考こそがわれわれの不幸な

   行動ややむことのない憂うつをもたらすのであり、このセラピーは無意識におこなわれる

   思考内容を検討することからはじまる。

    世間的に植えつけられた「劣者の恐怖」というものはこのような思考内容の気づきと、

   書き替えによって可能になるだろう。

    われわれの行為というのは、意外なものであるが、世間の常識というすでに無意識に

   それらを規定する解釈内容に行動づけられているのである。


    しかし社会的劣者を怖れる心というのはかんたんには拭い去られないだろう。

    世間的常識というのはひじょうに動きにくいものだ。多くの人はこのパラダイム・世界観から

   なかなか脱け出されないだろうし、それが植えこんだ恐怖や行動規範のくび木からは

   かんたんには逃れ去ることはできないだろう。世間的常識というのはすでに無意識に自分の

   行動を規定する基盤になっており、おそらく意識することすらできなくなっているだろうから。


    ただわたしは時代の怖れる心というものにやみくもに捕えられたなら、きっと自由な精神も

   自由な生き方も得られないと思うのだ。これは人生のおおきな損失だと思う。

    だから「怖れる心」というものに打ち克たなければならないと思うのだ。


    これはひじょうに難しいことだと思う。世間のたいがいの人はその恐れる心で他人を見て、

   ランクづけ、評価づけている。そのようなランクづけの下位に押し込められることに

   耐えられるだろうか。あわれやみじめだという人々のまなざしに打ち克てるだろうか。


    価値観をひっくりかえしてゆくほかない。すべての劣位にはそのほかの面からみた積極的な

   面が必ずある。ときにはその劣位はある時代の最高の価値であったこともあるだろう。

   たとえば貧乏なんてものは仏教や中国の古代では心の平安をうるものとして

   ほめたたえられてきた。現代の劣位は人類の全歴史においてもそうだったとは限らない。


    現代のわれわれはあまりにも社会的劣位を怖れる気持ちが強すぎ、そしてそれは

   盲目的であり、暴走した牛のようにとどまりようがないように思える。

    あまりにも恐怖が強すぎるのだ。

    そしていっこうにブレーキはかからないように見える。

    だから社会的劣位を怖れる気持ちというものを点検してみる必要があると思うのだ。


    これに捕らえられているかぎり、われわれの精神に自由はない。






          階級意識と恐れ
                                                     1999/4/5.






     階級というのがいまもあるのかわからない。多くの人が中流階級意識をもっているという人や

    格差が増大しているという人もいる。過敏にそれに反応する人もいるだろうし、

    まったく意に介さない人もいるだろう。


     わたし個人は「下層階級」になるということを心の底ではけっこう怖れてきた。漠然と

    ブルーカラーや肉体労働の仕事を避けようとしてきた。だけどなにが下層階級なのか

    よくわからないので、よけいに階級というものに敏感になってきたような気もする。

     ルカーチの『歴史と階級意識』という本を読んだり、ピエール・ブルデューの

    『ディスタンクシォン(差別化)』という本に魅かれたりしてきたが(高い本なので買えなかった)、

    いまでも階級というのものがまだあるのか、それはいったい何なのかもよくわからない。


     階級というのは厳然とあるような気もするし、あるいはひじょうに主観的なものであったりも

    するようだ。あやふやなものであるが、しかし、一流大学や一流企業への受験戦争や、

    朝から晩までの働き過ぎや労働主義の社会、マイホーム主義、ブランドものの消費熱と

    いったものを見ていたら、おそらく階級意識というものは、平等をめざす社会にあっても、

    厳然と存在するように思える。学歴というのは階級意識をつちかってきた。

    またブランドものや海外旅行というのは消費による階級格差の顕示であるようにも思える。

    これらは社会的劣位から逃れようとする「強迫観念」に思えてならない。


     階級というのはその基準となるモノサシ自体があまり強固なものではない。

     それをカネにとるか、消費量にとるか、武力や支配力にとるか、知識力や政治力にとるか、

    ということで位階秩序はかなり混乱してくる。現在は金持ちであることが圧倒的に優位に

    立つ条件であるが、一般的な中流階級は昨今ではかなり金をもっているし、またその目印

    となる高級品というのは多くの人がかんたんに手にいれられるものになった。

     階級を明確に表示するような目印が最近ではどうも失われてきたようなのだ。


     宮廷や貴族、領主による位階秩序から、資本家や経営者が力を握るブルジョアジーの時代、

    そしてプロレタリアが選挙権や法的保護を手に入れるようになった民主化の時代を経て、

    階級というのはかなり明確な格差をなくしてきた。フランシス・フクヤマはこれを「歴史の終わり」

    とよんだが、それは階級格差のつき崩されてゆく歴史でもあった。


     でもこのような歴史の見方というのはマルクス主義による「プロパガンダ(大衆宣伝)」の

    脚色であって、じっさいにその時代に生きていた人たちがどう捉えていたかはわからない。

     変革をもくろむ人たちは歴史を必要以上に誇大に圧制や搾取、不平等の世の中だったと

    宣伝する必要がある。現代のわれわれはそのような歪んだマルクス主義の歴史観の影響を

    ものすごく色濃く受けている。


     階級が厳然とあり、圧制と搾取をくりかえしていたという歴史観は疑わしいものである。

     当時の民衆たちは社会の全貌や明確な社会観をもち得ただろうか、そんな広い展望を

    もてただろうか。現代のわれわれからみると不平等や差別にしか見えないものでも、

    当時の彼らは未来を知らないわけだから、平気だったかもしれない。


     なぜそんなことをいうかというと、そういう見方をもたないと、必要以上に階級を怖れるのは、

    その歴史観をもつあわれな現代のわれわれだけだった、ということになりかねないからだ。

     われわれは学校の歴史の授業によって、数々の残虐な歴史や悲惨な過去を

    心の中に強烈に刻印づけられるわけだが、それをいちばん怖れるのは、

    当時の人たちではなく、そういう歴史観をもった愚かなわれわれだけかもしれないのだ。


     階級というのものが客観的に強固にあるものだという考えに囚われると、われわれは

    暗黙のうちにそのヒエラルキーの元となった価値観を信奉してしまうことになる。

    つまりいちばん上位にランクされた価値観を盲目的に至上なものと思い込んでしまうわけだ。


     階級であれヒエラルキーであれ、それはひとつの価値観で順位づけられている。

     たとえば資産や消費能力があるとか、社会的地位が高いだとか、頭脳が優れているだとか、

    そういったものに至上の価値をおかないと、優劣基準は位置づけられない。

     至上価値が順位をつくっているわけだ。逆にいえば、その価値をぜんぜん認めなかったら、

    ヒエラルキーも順位もまったく成り立たない。


     階級やヒエラルキーを怖れるようになると、逆にその位階秩序を強固なものに

    してしまうことになる。なぜなら低い順位を選びとるということはそのヒエラルキーを新たに

    つくりなおしてしまうということになるからだ。暗黙のうちにその至上価値を再生産してしまう

    ことになる。

     これは言葉の作用によるものだが、つまり「上」をつくるためには「下」がなければならない、

    「下」がなければ「上」は成り立たない、という言葉の性質によるものだ。


     われわれは階級を怖れるがゆえに逆にその階級を堅固なものにしてしまうのである。

     あるいはみずからつくり出してしまうことだってあるのだ。みずからの怖れが、

    階級やヒエラルキーの至上価値をより高めてしまうのである。怖れはやみくもな上昇志向と

    競争意識を高めてしまう。かれらの「おみこし」を高く持ち上げることに加担するだけなのだ。


     われわれは階級や順位をまったくないものとして生きることもできるし、

    階級の怖れに囚われて、やみくもにその価値観を信奉してしまうこともできる。

     まずその階級の上位に位置される価値というものをいま一度検討してみる必要が

    あるのではないだろうか。階級の下位におとしめられるのがいやでがむしゃらに上昇を

    めざしてきたが、はて、いちばん上の価値観ってなんだったんだろうな、とマヌケなことには

    なりたくないものだ。



     階級というものはなんとなく漠然と不安なものだ。自分が知らないあいだに下層階級に

    落とされているのではないかと不安である。

     なぜわれわれは低い地位に落とされることが恐いのだろうか。


     低い立場になるとヒドイ目や暴力、あざけりや軽蔑に目にさらされるかもしれないという

    実際的な脅威がある。これが国家間になると侵略や戦争という脅威に発展することもある。

    そういう国際状勢は社会内の成員同士にもそういう脅威を人間間において与え合うだろう。

    これが人間の本性なのだから仕方がないともいえるかもしれない。


     しかし現代のわれわれは過剰に優劣競争をおこなっているように見受けられる。

     物質的多寡による際限のないほどまでの苛烈な見せびらかし競争がおこなわれている。

     いったいなんなのだろうかと思う。でも実際の暴力や殺戮なんて方向にエネルギーが

    注がれていないわけだから、まだマシかもしれないが。


     平和な現代のわれわれは劣位による怖れになんらかの歯止めが必要なんだと思う。

    劣位を怖れるからどこまでいっても地位や消費の競争はとどまりようがないのだと思う。

    われわれはこのような怖れをもったがゆえに目に見えるものでの優越競争をくり広げている。


     劣位の怖れはなにによって止むことができるのだろうか。

     怖れというのはモノや地位によっていくら障壁をつくっても去ることはない。

     その優越によって今度はまわりの人が怖れに囚われて、また優越を編み出し……

    切りがない。


     怖れというのはけっきょくのところ、心だけの問題である。怖れという感情はまったく

    一瞬のうちに感じるものでしかないのだが、現代人はそれを永続化し、モノや地位などの

    外側にあるものによってその怖れをとりのぞこうとする。つまり復讐する心と同じだ。

    相手から受けた屈辱や怒りを同じように相手にも返そうとする復讐は、一瞬にしか

    感じられない感情をいつまでも記憶しておくわけだが、そのために自らはずっと自虐的な

    目にみずから陥れつづけるということになる。

     われわれの怖れと優越の欲求というのはこれとまったく同じ愚かなものだ。


     この怖れから解放される方法は、怖れをいつまでも記憶に銘記しておかないことだ。

     忘れたり、捨ててしまえば、その怖れは存在しなくなる。そして自らを害することも――

    無限報復に陥りかねない他者をも害することはなくなる。


     理想論的過ぎるかもしれない。他人や社会との関係を自分の心の中だけの問題に

    還元してしまうのはあまりにもムリがあり過ぎるかもしれない。社会的関係は圧倒的な

    「現実感」や「事実」として迫ってくる。抗いようがないかもしれない。


     まあとりあえずはそういう方法が過剰な怖れと競争から解放されるための

    ひとつの方法でもあるということにしておこう。




        戦後の序列順位と幸福


                                               1999/4/11.





    いまさら言うまでもないことだが、戦後の日本は金持ちや出世すること、モノをたくさんもつこと、

   そういったことに価値がおかれてきた。その至上価値は無条件に「スゴイ」ことであり、

   「すばらしい」ことであり、「だれもがめざすべきもの」であった。こういった風潮に疑問や意義を

   投げかける人はいつの時代でもいたのだろうが、現在から見ると、決して功を奏していない。

   そのような価値観は人々の心の奥底まで染みついている。


    その価値観に順位づけられた序列で、思わず人を測ってしまう心の習性がわれわれに

   巣食っている。金持ちは「エライ」のであり、成功した人は「ウラヤマシイ」のであり、われわれは

   反射的にそう思う。逆に貧乏は「みじめ」であり、失敗した人は「あわれ」なのである。

   そこに価値判断が働いているという意識はとうぜんない。無条件に富は善であり、貧は

   悪なのである。恐ろしいほどまでにこの価値判断は絶対的なものになっている。


    新しい価値基準は残念ながら日本には芽生えなかった。なぜなんだろうかと思うが、やっぱり

   時代の圧倒的な趨勢というものなんだろう。われわれは金ピカの先進アメリカ消費社会に

   魂を抜かれて、狐憑き状態になったわけだ。これほどまでに単一目的を追求する社会体制、

   国家体制というのはある状態でしかなしえない。つまり戦争状態だ。国家を単一目的に緊縛

   できる状態というのはよほどの緊急事態のみである。貧困に対する危機意識がそうとう

   駆り立てられたのだろう。日本人はこの呪縛からまったく抜け出せなかった。


    80年代に日本は経済大国としての成功を世界に知らしめたが、成功は同時に目的の終わりを

   も告げた。金持ちになるという国家プロジェクトは見事に終わり、人々はそのプロジェクトから

   解放されたわけだが、まるで定年退職したサラリーマンのように途方に暮れるしかなかった。

   ロシアでも約70年ぶりに社会主義から市場主義に移行して人々はとまどっているそうだが、

   日本の場合は明治からのプロジェクトも足すと約120年ぶりの自由な状態に放り出されたわけだ。

   「洗脳」の度合いはロシアなみではない。


    われわれの認識というのは恐ろしいほどまでに単一の価値観によって順位づけられている。

    金持ちか貧乏かというモノサシだけでしか人や物事を測ることができなくなってしまっている。

    成功したり、有名になったり、ブランド品をたくさんもったり、一流会社に属したり、

   そういったモノサシでしか人を測れない。すべてカネという単一価値に収斂してしまうのである。

   いまさらそんなことをわざわざ言うまでもないことだし、道徳的に善人ヅラして非難する気もない。

   これは圧倒的な「社会的現実」としてわれわれの前にある。


    ただわれわれにはこんな成金志向の価値観だけでいいのかという気持ちがあるし、カネや

   社会的上昇の夢だけでは幸福になれないことも知っている。しょせんはちっぽけな夢だし、

   卑小で貪欲な醜悪さをさらけ出すだけし、社会的上昇の可能性の幻想も薄れてきた。

   金ピカのメッキは親たちの世代よりはるかにハゲている。


    それでもわれわれは従来どおりの価値観で生きることを余儀なくされている。

    おそらくわれわれは戦後の金ピカの序列順位しか知らないし、そのモノサシによる劣位を

   怖れたり憐れんだりする感情が条件反射的になってしまっているからではないかと思う。

   序列の劣位を恐れてしまうと見事にその価値序列に呪縛されてしまうわけだ。

   社会的上昇の夢はかなり薄れているが、社会的劣位への降格の怖れは依然として強固にある。

   おかげで戦後金ピカ価値観の呪縛から抜け出せないというわけだ。それを怖れる心には

   たったひとつのハシゴしか用意されていない――もちろん戦後特製の金ピカ・ハシゴだ。


    結局のところ、戦後の序列順位から脱け出し、自由な生きかたや多様な価値観を生み出す

   には、そういった怖れる心をつき破らなければはじまらない。戦後の50年間、虐げられ、

   貶められてきた価値観の再評価・再検討が必要だというわけだ。金ピカの価値観がたいした

   ものではないとわかったのなら、その劣位である貧困もたいして恐ろしくないものであると

   いうことにはならないだろうか。優越が「まやかし」であったのなら、劣等もたいして変わりはない。

   どっちもどっちだということだ。


    それともうひとつ、序列順位によって幸福を測ってきた戦後日本人というのは、

   ただ他人から評価されることばかりを幸福と思い込んできたわけだ。他人のまなざしに

   みずからの幸福をあずけてきたわけだ。そして幸福感も他人によって判断されるというわけだ。

   だからわれわれは車とか豪邸とかブランド品とかの金ピカなものを見せびらかして、

   「優越の判断」を――あるいは「幸福の認定」を人々に訴えて回ったのである。


    人から評価されたり、価値あると思われたりすることの願望や競争はなにもいまはじまった

   ばかりではなくて、人類の歴史をつき動かしてきた原動力であったと思われるのだが、

   西洋化された人間はさまざまな国からもたらされる「モノ」にその認知のモノサシを求めてきた。

   フランスのワインがよいだとか、ドイツの車であるとか、イタリアのファッションであるとか、

   そういったモノによって優越や幸福の記号は承認されてきたのである。


    モノによる優越と幸福の判定というのは、あのうんざりする80年代とバブルにより、

   終焉をむかえたと思ったのだが、人間の性根というのはそうそう変わらない。最近では

   携帯電話という絶好の優越記号がお目見えになったし、ブランド熱もあいかわらずのようだ。

   ただいっときのような高級品狂奏曲のようなものは再燃はしていないが、モノによる人間の

   優越や幸福の認知という行いはこれからもつづいてゆくんだろうな……。


    他人の評価によって優越や満足を味わうという幸福感は、人間のひじょうに根源的な欲求

   であるけれども、浅はかであるし、「待ち」を食らった犬のようにブザマだし、人間の虚栄と見栄

   の部分だけ突出してしまうし、自分の心の幸福を他人任せにするというのはあまりにもリスクが

   大き過ぎるようにわたしには思える。といっても人間から他人の評価による優越や対等承認と

   いうのをすべて抜きとってしまうのはかなり難しいと思うし、そんなことが可能なのかも怪しい。

   中世の世をはかなむ世捨人や隠者だって、ちゃんと世間に詩や文章を残しているくらいなの

   だから。


    まあとにかくは他人の評価による優越感とか幸福感を、戦後のこれまでのように

   あまりにも重きをおく人生はやめておくべきだとわたしは思う。「他人の評価だけが人生だ」

   というのはあまりにもバカだ。みずから他人の思惑に首輪づけられているという点で「奴隷」

   以下だ。

    もちろん他人の思惑をそれほどまでに怖れるようになったのは、先ほどまでのべていたような

   戦後の価値序列があり、その劣位による不利益、実際的脅威とかがあったわけだが、

   必要以上に怖れ過ぎれば、他人の評価にふりまわされる猿回しでしかなくなる。

   金ピカ・ハシゴをやっきに昇りつめようとする衝動と同じことだ。


    でもこんなことを言わなくとも戦後50年働きつづけてきた現在の日本人はモノによる承認とか

   評価がたいしたものではないということにだいぶ気がついていると思う。家の中にいっぱい

   家電製品をつめこんでも家族関係はどんどん醒めてゆくばかりだし、子どもからは粗大ゴミ

   あつかいされてぼろクソにイジメられるし、きょうびではお慕い申しあげていた企業からは

   首斬りリストラだ。他人によいように、よい子として見られようとして生きてきたって、

   けっきょくはこのザマ、この仕打ちだ。このようなモデルを見せつけられても、まだ他人の評価

   による幸福や優越感を求めつづけようと思うだろうか。


    幸福のモノサシは他人の評価より自分の価値観にスライドさせたほうがいい。

    人から認められたり、承認されたりすることの喜びより、自分自身にとってうれしいこと、

   楽しいことのモノサシを優先すべきなのだ。

    そこにはとうぜん他人から評価されなかったり、侮蔑されたりする冷たい視線という試練が

   まず第一関門としてあるわけだが、しかしこれを恐れていたからこそ、われわれは他人の評価や

   思惑の奴隷になってきたということを思い出すべきだ。自分の価値観を追究して白い目を

   向けるような人にはあわれみをもって返してあげたらいい。かれらもそうやって他人の評価の

   奴隷に釘づけられるしかなかったのだから。


    他人の評価から逃れる方法はショーペンハウアーの『幸福について―人生論―』(新潮文庫)、

   第四章「人の与える印象について」でくわしくのべられているので参考にしてください。ただ

   ショーペンハウアーを読んであまり人嫌いになったり、厭世的になったりしないようにね。


    われわれはこの戦後の50年、他人から評価されたり、称賛されたりすること、および

   そのような地位につくこと、一流会社や大学に属することを、至上の価値においてきた。

   現在の社会もそのような現実と認識のもとに動いている。この現実は圧倒的であり、

   人々のあいだにおける「リアリティー」や信念はそうとう根深いものがある。


    若い世代にはこのような至上価値がつまらない、魅力のないものに堕しているはずなのに、

   社会はまるで変わろうともしないし、若い連中も社会に呑みこまれてゆく過程のなかで、

   すんなりとそのような価値体系の社会に中に消えていってしまう。


    どうしてなんだろうな、なんでなんだろうなと考えるなかで気がついたのが、最近のわたしの

   エッセーで追究している社会的劣位の怖れがあるのではないかということである。

   こういう怖れに呪縛されていたら、おそらく多様で自由な生きかたはまずできないだろうと

   気がついたのである。

    この立場に追い込まれたら、自分の個人的劣等感や失敗のせいにしてしまうことが、

   多くの人のパターンだと思う。だけどそういう反応は罠だ、社会的優位の価値観がたいしたもの

   ではないのなら、同じように劣位の価値観もたいしてことではないのではないか、というのが

   わたしのメッセージである。

    このような怖れから脱け出すことが、戦後価値観の呪縛から逃れるための――戦後経済主義

   社会から脱するための第一歩になるものだと思う。でないとこの社会はこのままずるずると

   時代遅れの価値観とシステムをひきずったまま、疲弊してゆくのみだと思う。


    われわれはもう戦後の金儲け・出世の序列順位なんか信奉していない。

    満足や幸福の価値基準と完全にズレている。それなのにこのような価値基準の世の中で

   生きてゆかなければならない。

    そのような認識から社会をもう一度再構築してみる必要があるのではないかということに、

   会社社会のオヤジたちや世の母親たちは気づくべきではないだろうか。






       急激な凋落をもたらす日本的体質


                                                     1999/4/17.







     世界の経済大国という成功はほんのつかの間、夢かうたかたか、まぼろしのよう。

     この十年間のうちに日本的凋落のかずかずの兆候は噴出しつづけた。


     このような繁栄と没落のパターンは日本史上において何度もくり返されてきた。

     大正デモクラシーと敗戦、元禄と享保時代、室町時代と応仁の乱――。

     日本の繁栄というのはいつも急激な成長と極端な凋落のもと突然終わりを告げる。

     その成長と凋落はだいたい6〜70年周期でくり返されており、これは鎖国時代においては

    伊勢神宮への国民大移動という「お陰参り」の周期とぴったり重なっている。

     どうもこの70年周期の繁栄というパターンは日本社会にビルト・インされているようだ。

     (参考文献 中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』 PHP新書)


     3〜40年のうちにあっという間に頂点に昇りつめ、あっという間に奈落の底。

     敗戦から高度成長期、そしてバブル、そのあとの平成大不況。

     明治では日清、日露戦争の勝利、大正デモクラシー、そして昭和恐慌、太平洋戦争――。

     成功体験はある時点を境に見事に失敗体験にすりかわる。

     信じられていたエリートは腐敗の象徴に失墜し、国家保護による安定神話は崩壊し、

    それまでの成功者は落ちぶれた失敗者に変わる。


     これは生物界における大量発生した生物がとつぜん疫病で死滅する現象に似ているのか、

    それともポトラッチのような富の破壊なのか。日本人の集団というのは無意識のうちに

    このような富の蓄積と破壊を交互にくり返すのだろうか。なにかの役に立っているのか、

    それともなにかの動物的本能につき動かされているのだろうか。

     富の増加はとうぜん人口増加をももたらすわけだから、狩猟採集時代においては、

    食糧不足などによる大量死滅などの経験や危機感があり、それが日本人の無意識の記憶に

    組み込まれているのかもしれない。日本的風土による抑制装置というわけだ。

    3、40年、2世代くらいで人口増加の抑制は働くのである。


     たしかに戦争によって大量の人口抑制は働いた。しかしこれは救いがたい悲劇だ。

    こんな救いのない歴史はくり返してはならない。

     だけど、日本は戦後においてもまたもや同じような轍を踏んでいるように思えてならない。

    急激な成長と急激な凋落はまたもやくり返されてしまった。勃興期の戦争と経済という

    道具――表面的なものは違っているが、社会的体質はまったく同じものだ。日本の失敗は

    この急激な成功――早まり過ぎた成長が招いたものではないのか。


     日本はあまりにも単一目標に凝集しすぎるのだ。そしてそれがカタストロフィ(破滅)を招く。

    たとえ表面的な目標は違っていても、その単一目標へ全精力が結集される力は同じだ。

    その凝集力が逆に日本を破滅的状況に導き入れる。昭和の敗戦、そして今回の経済主義

    による第二の敗戦――とこれから起こるかもしれない惨劇も、この凝集力が招いたものだと

    わたしは信じている。


     経済一本槍の社会風土がかならずなんらかの報復をもたらすだろうとわたしはずっと前から

    思ってきた。これはわたしが受けてきた教育の戦前の戦争一本槍の教訓から感じとってきた

    ものだと思うのだが、そのような教訓を与える社会自身は、またもや単一目標(経済)を追究

    しているのである。似たようなカタストロフィを経験するしかないなと思った。日本社会はほんと

    に愚かだ。なぜこんなに愚かなんだろうか。


     日本人を画一化する勢力や能力があまりにも強すぎるのだ。画一化を強制する狭隘な

    社会的雰囲気があまりにも強すぎる。トインビーにいわせるとミメーシス(模倣)の力だ。

    このミメーシス(自動化)の力が強くなると、こんどは創造力の芽がまるで育たなくなる。


     日本の成功の――成長の理由はこのミメーシス能力にある。徹底的に創造力の芽を

    ぬきとり、そのおかげで急激な成長は可能になるが、同時にそのネメシス(復讐の神)の

    報復を受けるのである。創造力をつみとったツケはあまりにも大きい。


     ミメーシスの力はなぜこの社会で圧倒的に働くのか。国家教育の力はたしかにものすごく

    強い。自分で考えたり、新しい道を切り開く能力を育てることより、既成知識の吸収と暗記

    のみに費やされる教育期間は子どもたちの創造力を破壊するのには十分だろう。

     ただし、教育だけでそれほどまでの効果をあげるかは疑わしい。日本には生き方の自由が

    ない。その拘束力が創造力の破壊に多大の力をふるっていると思われる。生き方の自由が

    なければ、創造力も発揮できず、新たな発見や発明もなされず、ミメーシス能力だけが肥大

    する社会がつくられる。創造力を発揮する最大の土壌となる生き方の実験ができなければ、

    おそらく創造性は生まれないだろう。


     世間や社会のなかに「みんなと同じ生き方をしろ」という圧力・強制力がひじょうに強い。

    それは至上の「道徳」としてまかり通っている。みんなと同じ生き方が「道徳」になって

    しまっている。生き方が道徳の範型として押え込まれるのである。このような世間の強制力は

    必ずつぎの時代のための創造力を枯渇させるだろう。


     徹底的な「自動化」が社会の中に組み込まれるわけだ。ミメーシスと画一化の波のなかで

    それを至上の道徳と信じる人たちに満たされる。それによって急激な成長がもたらされる。

    ただし、その社会組織の完成により、次代の創造力はまったく息の根を止められる。

    そして成長の目標が終ったとき――つまり達せられたとき、次の時代の方向感覚と目標は

    まったく更地となっているというわけだ。あとはミメーシス人間による右往左往がつつぎ、

    破滅的状況へまっしぐらというわけだ。


     これである。日本社会の中において、急激な生き方の画一化が進められて、

    だれもかれもがその道徳の中から脱け出せなくなる。この生き方の画一化が単一目標への

    急激な成長をもたらすが、同時に次代の創造力と方向性を奪いとってしまうのである。

    社会目標の統一と生活の画一化が急激に完成する。そしてその息苦しい生活空間の中で、

    人々の精神・目標・規範は崩壊してゆき、その荒廃からも脱け出すことができなくなり、

    カタストロフィーを迎える。画一化・ミメーシスの力が極端に働くわけだ。


     なぜ画一化が進むのだろうか。富の蓄積は成功コースを生み出し、人々の生き方の

    範型をかたちづくってしまうことも一因ではないだろうか。そのような成功コースを社会が

    のぞみ、学校教育が与えれる。そしてそのコースにしたがったミメーシス人間が大量に

    生産され、ぞくぞくと成功コースを歩む。その先は地位・ポストのインフレであり、所得の

    インフレであり、創造性の枯渇である。


     固まった社会は固まった人生コースを強制し、急激に保守化し、冷めた社会に逆戻りする。

    急激に冷えた社会はなぜか生き方の画一化の強制が激しくなり、それが道徳の範型として

    強制されるようになる。なぜなんだろうか。

     ある程度固まった社会は人々の極端な優越や劣位を許さなくなる。上へも下へも行くな、

    平均的であれ、ミメーシス的な人間はそのようなルサンチマン(逆恨み)を抱くようになるの

    だろうか。これは政府や政治の力によって実現される。平均から外れる人間は仲間外れ

    として罰せられ、画一化・平準化の力はますます猛威を振るうようになる。こうして画一化

    した社会は完成し、ますます社会は冷めて、固まってゆく。人々のパワーはなくなり、

    エネルギーも失われてゆく。もうこうなれば、社会はその原動力となる熱い中心を失い、

    どんどん活力やバイタリティを失ってゆくのだろう。


     繁栄の頂点を迎える前から、アパシー(無気力)や既成の人生コースからドロップ・アウト

    してゆく人が増えてゆく。これはだいたい新しい時代から40年目あたりに目立ってくる。

    そしてあとはカタストロフィまっしぐらという具合だ。


     このような明治・大正にもくり返された70年周期のパターンを日本は止めることができる

    だろうか。それには途方もないさまざまな要素が絡んでくると思われるので不可能のように

    思える。しかしこの急激な成長・繁栄と凋落というパターンを防ぐ、もしくは緩やかにすることは、

    下り坂の時代の息苦しさの不快感を体験してきたわたしにとってはぜひ願いたいことだ。

    こんな失敗を二度とはくり返してはならないし、歴史の教訓もあるわけだ。


     @それにはまずは社会のすべての人を統一してしまう目標を設定しないことだ。

    目標がひとつの集中されると社会の全勢力が総動員されるわけだから、これは必ず

    歪みをもたらす。ほかの価値観が抹殺されるということは、ほかの創造力の芽を抹殺すること

    である。目標の達成のさいにはすでにつぎの時代の活力と創造力は枯渇してしまっている。

     Aまた急激な社会成長を警戒することである。これは必ず反動をもたらす。社会目標は

    ひとつに統一されているわけだから、この成長は創造性の破壊の兆しでもあり、

    またミメーシス化の増大でもある。ゆるやかな成長が、その極端な凋落を防ぐという点でも

    必要だろう。

     B画一化・平準化の圧力にも十分注意すべきだ。これは創造性の死滅の兆候だ。

    この力が圧倒的になったとき、その社会はもはや下り坂を下る運命を決定されているのだろう。

    画一化の力をゆるめるということは、急激な成長や統一目標とも絡まっており、

    大事なことである。


     社会はあらゆる方向からこのような力を働かせ、活力減を死滅に追いやる。

    すでに息苦しさややりきれなさを社会の成員が感じるようになっていても、その進行を

    みずからの力で止めることができなくなってしまっている。そうならないために、あるいは

    ゆるやかな下り坂を降りるために、「統一目標・急成長・画一化」という社会の力には

    十分な警戒が必要だと思う。


     日本は近代において二度の過去の断絶をおこなって、急成長してきた。

    過去の全否定・全批判が特徴である。そのために急激な成長が可能になった。

     しかしそれは極端な成長とカタストロフィという経験を日本にもたらした。

    歴史や過去の全否定が目を見張る急成長をもたらしたのだが、同時に急激な破滅をも

    もたらした。過去の断絶は両刃の刃である。これも歴史のひとつの教訓である。

     過去の否定は過去のイノベーション・のりこえを可能にするが、伝統や歴史の叡智や知恵

    といった世代間につたわる暗黙知まで破壊してしまう。気分的にはわたしも過去の全破壊を

    のぞんできたほうなのだが、人間の知性は環境破壊のようにみずからのおこないがどのような

    結果を招来するか知り得ることができない。ここはひとつゆるやかな進展がのぞまれる。


     昭和の日本が急激な下り坂を経験したように、現在の日本もまたもや同じ体験を

    くり返そうとしている。まったく見事に「歴史はくり返す」である。カタストロフィは稲村博の

    80年周期によると2025年、70年周期では2015年に迎えるということになる。

     これからの日本がそうならないために、息を吹き返すために、画一化の強制力というもの

    を抑制することが求められているのではないだろうか。





    参考文献

     中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』 PHP新書

     堺屋太一『峠から日本が見える』 新潮文庫

     稲村博『若者・アパシーの時代』 NHKブックス

     そのほかの文明論・歴史書は「歴史の中に、未来を見出すことができるか」




     なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか

                                                   1999/4/30.






     われわれはなぜ人から認められたり、賞賛されたすることを望むのだろうか。なぜ人より

    優れたい、勝ちたいと思うのだろうか。われわれは子ども時分から人より優れていることや、

    人に勝つことを教えられて育つ。反対に落ちこぼれることや負けること、軽蔑されることを

    たいそう恐れて育つ。


     大人になるとこの意識はもう無条件のものになり、疑われることも、疑問に思われることも

    ない。いつも勝ち負けを競い、勝ち負けだけで人を判断し、そして勝ち負けだけで自分を

    勝ち誇り、あるいはみずからを負け犬として蔑む。


     現代のわれわれは人から賞賛されなかったり、世間から注目もされず終わってしまう人生に

    強烈な怖れを抱いている。自分がそういう人間でしかないのかと気づくと自我がこなごなに

    砕かれてしまう。自分の人生や存在は価値も意味もまったくないものに感じられてしまう。

    だから人は必死に有名になろうとしたり賞賛を得ようとやっきになるのだ。タレントやバンドの

    オーディションに駆けつける人やTVに出たがる人、そしてこのインターネットのホームページも

    その衝動のあらわれだろう。みんな世間から注目されようとし、そしてそうでなければ、

    自己の存在価値はないと思っている。


     世間から注目されることが自分の価値なのである。世間の眼目を得られない人でも、

    まわりの人たちや会社の人たちに注目されることを望んでいる。会社の成績やブランド品、

    あるいは海外旅行やレジャーの思い出や経験によってその賞賛は得られる。そしてそれらの

    賞賛や優越を得られない人はいつでも自我の欠損や消沈にさいなまれる。


     われわれはいつも人より勝ったり、優れたりする賞賛を得ようと必死になっている。なぜ、

    われわれはこんなに他人の賞賛を得ようとし、そして得られなければ自我が砕かれてしまう

    のだろうか。われわれを駆りたてるものはいったい何なのだろうか。


     世間のあらゆるところで勝ち負けが喧伝されている。TVやマスメディアでは富や成功を

    得た人がもてはやされ、スポーツでは勝ち負けだけが伝えられ、学校では成績の優劣で

    ふるいわけられ、歴史では勝者や優秀な人間のみが名を残し、親は近所での子どもの

    優劣を過敏にはやしたてる。すべてこの世の中は「勝ち負け」と「優劣」に彩られている。

    この社会は優劣のシステムで成り立っているわけだ。


     この世は「勝者」の世界である。勝者のための世界である。そして勝者の洗脳の世界だ。


     われわれはこういった勝敗と優劣の洗脳の社会の中に生きているので、世間の賞賛や

    注目に一喜一憂するというわけだ。世間の価値観と自己の価値観は切り分けることが

    難しいくらい一体化している。ゆえにわれわれの自我は世間の勝ち負けの奔流に翻弄される

    のだ。「勝ったり優れたりしたらおまえはエライ、負けたり劣っていたらおまえは悪い」という

    具合だ。これはまったく自分自身の価値観になってしまっているので、われわれは必死に

    この怖れに駆りたてられてあちこちを騒ぎ廻るというわけだ。文明というのはこういう哀れな

    人間の闘争心の慰めみたいなものではないかと思う。


     われわれはこの勝敗優劣の世界であちこちを逃げ回る生き方もできるが、もちろん

    個々人の幸福度、充実度という点では、この価値基準はいくぶんかはやわらげたほうが

    好ましいのはいうまでもない。


     みんな「勝った、負けた」とかんたんにいうが、勝ち負けというのは永久には存在しない。

    なぜなら勝ち負けというのはある時間内でしか決められないもので、時間制限がなかったら

    そんなものは存在し得ない。スポーツなら一定のルールがあるが、ほかの事象の勝ち負けを

    競おうとしたら無数の観点とジャッジがあるわけだから、そんなものは判定できない。

    価値観が無数にあれば、勝ち負けなんて存在しないも同然なのだ。ただある社会には

    ある価値観があってそれによって勝敗が決まるが、ものごとの価値観はいろんな角度から

    すくいとることができるということを忘れないでほしい。社会の価値観なんていつの時代も

    絶対なんてことはありえないので、ほかの価値観でそれをひっくり返すことなんてかんたんだ。

    もしあなたがなんらかの勝ち負けや優劣によって劣等感を抱かされたとしたなら、まず

    その価値観の順位に疑問を呈してみてほしい。


     勝ち負けや優劣なんてじつのところあやふやなもので、そんなことになんの価値があるのか

    と疑問をかければ、すぐにひっくり返ってしまう。ただ社会というのはその価値観の信念で

    石頭のようにこり固まっている場合がほとんどだから、圧倒的なリアリティの前に立ちつくす

    しかないときもあるかもしれないが、結局それは「砂の城」であることを忘れないでほしい。


     勝ち負けはあんがいの虚構の代物ではないのかと容易にわかるが、名誉や賞賛を得たい

    とする心の衝動はどうなのだろうか。われわれはこの心の欲望を引き下げることができる

    だろうか。この欲望は現代では自分そのものになってしまっていないだろうか。


     しかし賞賛や名誉の悲しむべきところは、どんなに名誉を得たところでけっきょくは

    それは人々の頭のなかに一時の興奮をもたらすだけで、すぐに忘れ去られ、永続化すること

    はできないということだ。他人の心の中の賞賛を永久保存することはできない。名誉は

    すっかり忘れ去られ、賞賛は打ち捨てられ、注目はすぐ得られなくなるのがオチだ。

    つまり他人の心の中を自分の思い通りのまま、とどめておくことなんて絶対に不可能なのだ。

    だから名誉や賞賛をアテにして心の満足を得ようとするのは必ず失敗するというわけだ。

    いつか必ず終わりのときがくる。TVのタレントでもある一時は爆発的に人気が出たとしても、

    たいていの人はみんなから忘れられてゆくのが人の世の常というものだ。


     身近なまわりの人との関係においても、勝ったり優れたりすることの評価をあまりアテに

    しないほうがいい。他人の評価なんて操作することはかなり難しいし、自分の優劣価値を

    他人も共有するとは限らないし、だいいち、自分の勝ちを他人に知らせるためにはたえず

    だれかを負け犬に仕立て上げなければならなくなるし、他人を自分の評価の道具にしてしまう

    から、みんなから敬遠されてしまうだろう。


     他人の賞賛や評価というのはじつのところ、頭の中で他人が抱くであろう評価についての、

    虚構にしかすぎない。パスカルやショーペンハウアーが嘆いたところの、またはマルクス・

    アウレーリウスがいっていたように虚構の満足なのである。われわれ現代人はまことにこの

    心のなかの虚構を生きているのである。


     他人が頭の中で抱くであろう自己の虚構を必死にあっちこっちでつつき回してわれわれは

    一喜一憂している。勝ったり負けたりする自己はその中で操り人形のように踊りつづける。

    われわれはその操り人形の自己を見て優越感を感じたり、劣等感にさいなまされたりするの

    である。想像力による自己がわれわれの人生を哀しむべき存在にしてしまっているのではない

    だろうか。    


     けっきょくのところ、われわれが一番欲しているものは名誉でも賞賛でもなく、ただ心の

    満足や平安のみではないだろうか。それを人々は外界の物事を操作して、必死にそれらを

    得ようとする。外界の対象や事物はあまり関係ないのではないだろうか。われわれは外界を

    操作するのではなく、心そのものを操作することによってそれを得られるのではないだろうか。


     すべて心の問題に還元できる。ただ外界を圧倒的で絶対的なものと見なしたものだけが、

    外界の操作に熱中し、そこから心の満足を補填しなければならなくなるのではないだろうか。


    外界や物事が問題なのではなく、心の状態こそが問題なのである――わたしはそう思う。






         産業主義に呪縛するもの


                                              1999/5/14.






     なんでみんなこんなに働くんだろうと思う。晴れた日に川べりに寝そべっていると、

    追い立てられるようにけたたましくトラックや自動車が走り回っている。みんな何に

    駆り立てられて、あんなに気違いじみて働こうとするのだろうか。人生の貴重な時間が

    浪費されるように思わないのか。いったいなんのために働いているんだろうと思う。


     その理由をいろいろ考えてみた。まず一番目にあげたいのはやはり儲かるからだろう。

    注文や仕事がたくさんあり、企業規模や給料をあげることができるという期待があるから

    だろう。貧しくて、仕事もない国の人は働かない。皮肉にも、豊かで儲かるという好条件が、

    われわれをワーカーホリックに駆り立てる。この条件はあんがい大事で、高度成長期が

    なかったら、日本人はこんなに働かなかっただろう。この時期を知らない若者はとうぜん

    労働意欲が落ちる。


     老後保障がない恐れというのも強い。産業構造の変貌により、従来守られてきた家族

    扶養や地域扶助といった紐帯がつき崩されてしまった。頼りになるのは自分の稼ぎだけで

    ある。たったひとりで生きていかなければならないという不安はかなり大きなものである。

    国民年金は精神的な面で完全に失敗している。信頼もないし、家族のような情緒的ケアを

    まったく果たせていない。自分の代で貧しくても老後は子どもがなんとかしてくれるだろうと

    いった安心はなく、けっきょくのところ、自分の稼ぎで老後を守らなければならないわけだ。

    必死に働かざるを得ないだろう。


     会社との雇用関係において守られる権利や慣習がないというのもある。働き出せば、

    この日本社会の個人はだれにも守られない。法的権利はないし、仕事を抑制するような

    ほかの社会的慣習・文化的条件といったものがなんら存在しない。企業より強い超越的な

    存在や文化がないゆえに個人はだれにも守られない。その上、これまでの人々は企業を

    庇護してくれる存在だと勘違いしてきたから、ますます守られない。個人は企業との関係に

    おいて一方的に丸裸のまま蹂躪されざるをえないという背景があり、この恐れが盲目的な

    企業奉仕をもたらす。


     仕事以外の崇高な目標やおこなうべき慣習もない。つまり仕事以外に費やす時間の使い方

    を知らないのである。なんにもすることがないから、とりあえずは会社に行けば仕事が与えら

    れるし、暇もつぶせる、しかも稼げるという人たちも多い。こういう人たちはけっこういるようだ。

    なんだかかなり情けないが、この社会は仕事以外の価値観や社会的慣習といったものが

    ほぼゼロだし、それに寛容であったり、賞賛するような社会風土がないから、企業社会の

    牢獄に閉じ込められざるをえない。それだけ文化や精神が発達しなかった貧困な社会風土

    だったということだ。


     歯止めがないというのもある。どれだけ稼げば気がすむのか、どれだけ消費すれば気が

    すむのか、どれだけ豊かになれば手を休めるのかといった歯止めがまるでない。ゴールライン

    をどこに引くのかという了解もないし、それを考える頭すらない。これくらい貯まったからもう

    いいや、このくらいの豊かさでじゅうぶんだという意識がまるでない。まるで頭をちょん切られた

    交尾中のカマキリみたいに機械運動に余念がない。どこにも経済拡張主義にたいする

    ストッパーがないことがこの日本をおかしくしている。


     また計画的人生観にも問題がある。明日のために今日の命を捨てるといった人生観が

    過剰になっているため、今日を楽しむことができない性質をつくりだしている。まるで極楽に

    いくために現世を否定するといった仏教観と意外にそっくりである。明日を怖れ過ぎるから、

    今日を生きることができない。未来に賢明であり過ぎたために逆に人生を捨て去るという

    のは皮肉なものだ。こうなったのは人生にはとつぜんの中断がない、病死したり、事故死

    したりといった要素がまったく考えられていないからであり、長寿をまっとうしようと思えは、

    ただひたすらに生きてゆく安泰を願うことになり、それが今日の人生を絞め殺すことになる。

    未来のハイウェイコースを構想できたばかりにわれわれは人生を失ったわけである。


     技術文明なくしては生きられないといった要因もあるだろう。われわれはこの技術文明を

    はずれた生きる術をまったく見失ってしまった。経済競争や産業変貌の荒波の中でも、

    それに必死にしがみつかざるを得ないだろう。もうこんな生活なんていやだと思っても、

    いきなり野に出て生活できるわけなんかないわけだから、意地でも金銭収入がいる。

    その気まぐれな荒波の中で生きてゆくためにはその動向を知らなければならないという

    ことで、やみくもな流行依存や大衆盲従がおこなわれるわけだ。文明は楽ではない。

    いくつもの巨大文明が滅んできたのもわからないこともない。


     忘れてはならないのは、人並みでありたいという欲求である。人より貧しかったり、

    流行りのモノが買えなかったり、車や家が買えなくなる恐れが、われわれを強烈に産業

    主義に縛りつける。さげずまれたり、劣等に見られたり、低い身分としてとりあつかわれる

    恐れや怒りが、われわれをがむしゃらな労働に追い立てる。そしてその逆恨みとしての

    ルサンチマンが優越願望として、新しい優越記号を日に日に生み出してゆく。優越と劣等

    にはまるで歯止めがなく、切りがない。際限なく優越と劣等ゲームはおこなわれる。

    そういう中で、みずからの生も心も、人生も失われてゆくというわけだ。人間というのは

    名誉や面目のためにはみずからの生命さえ投げ打つ愚かな存在である。生命より、虚構の

    自我が大事であるというのは、人間の一番愚かな性なのだろう。


     われわれをこんなに働かさせている理由をいくつかひろいあげてみたのだが、どれも

    これもが複雑に絡み合っていて、ただひとつの原因は見極めにくい。ただ若者たちはオヤジ

    たちの会社人間ぶりをひじょうに嫌っているわけだが、この企業社会ではそんな不満は

    かんたんにもみ消されてしまう。この労働主義社会はテコでも動かない。戦後にビルトイン

    された経済拡張主義がいまだに猛威をふるっており、経済界の権力層の要請もあって、

    個人や国民を無視した奴隷労働国家はどこまでも際限なくつづいている。政治や官僚は

    財界と手を結び、どこまでもわれわれを酷使しつづけている。


     このようなシステムは変えることができるのか。なんらかの方法はあるのか。政治や官僚

    たちのみがわれわれを抑えているのではなく、われわれ自身にもこのシステムを存続

    しようとする意志があるから、国民たちはおとなしく黙っているのだろう。こんなガマンならない

    経済至上主義であるのに。


     そこでわれわれを産業主義に縛りつけているいくつかの理由について考えてみた。

    われわれ国民にも能がないともいえる。仕事以外にすることがなかったり、企業や政府に

    生活や老後の保障を要求する気持ちが強かったり。そういう弱みにつけこまれて、

    若者にはおおよそ信じがたい経済至上主義がいつまでも存続しつづけている。


     こんなシステムから脱け出すためにはわれわれ自身の心の中を再点検してみる必要が

    ある。われわれ自身がこのシステムを存続させている張本人ではないのか。おそらく

    世代によってその差はかなりあると思われるが、新しい世代はいったいつまでこの

    経済至上主義にガマンしつづけられるのだろうか。






       中国市場化における優越と劣等


                                                1999/5/17.






     中国の市場経済化というのはひじょうに印象深いものがある。自給自足や貧困であった

    内陸部の農村がどんどん市場経済に巻き込まれて、金持ちとそうでない人たちの格差が

    歴然と現われはじめている。民間企業に勤めたり、市場の気運をうまくつかんだ人たちは

    それまでの20倍もの収入を得て、郷里に「どうだ、これでもか!」といった具合の豪邸を建て、

    それまでの貧しい暮らしの人たちのみすぼらしさを白日のもとにさらけ出す。


     NHKのTVではこういう中国内陸部の市場経済化の様相、金持ちとそうでない人の格差、

    かつての国営企業の末路、といったドキュメンタリーをよく流している。そのたびになんだか

    目頭があつくなるというか、複雑な感情が入り乱れる。


     市場のなかで必死に生きようとする人たち、あるいは一攫千金を夢見てみずから商売を

    打ち立てたり、都市の近代的な工場でたこ部屋のようなところで生活して働く女性たち、

    豊かさを夢見て沿海部の都市にぎゅうぎゅうづめの電車で出稼ぎに出る人たち――

    中国人たちはいまそういうすさまじいエネルギーや哀切さをかもしながら、やみくもに

    豊かさをめざそうとしている。


     一方では生涯や雇用を約束されていた国営企業の破産や消滅という事態をむかえて

    苦悩する人たちや市場化や豊かさからとり残された村々なども存在するわけだ。政府に

    指示されてある国営企業に何十年も勤め、雇用も老後も保障されていたのにとつぜん、

    そこから放り出される人の苦悩やとまどい、不安といったものはものすごいものがあるだろう。

    これまでの貧しい自給自足に近い農村生活に慣れきった人たちも、どんどん変化してゆく

    まわりの状況に深いとまどいを覚えることだろう。


     市場化という趨勢のなかで、これまでの国営時代の生き方や自給自足に近い農村生活の

    なかで暮らしている人たちと、そして器用にもたくましく市場や営利企業のなかで生きてゆこう

    とする人たちの格差が歴然と現われてきている。中国では豊かになれる人はどんどん先に

    豊かになれというスローガンが掲げられている。


     豊かさをめざすエネルギーはすごいものがある。かつての高度成長を迎える前の日本も

    こんな様相をしていたのだろうか。だけど雇用や老後を保証されていた国営企業が

    どうにも立ち行かなくなったり、倒産したり、人々が放り出されたりするさまは、まさに

    現在の日本がおかれている状況とまったく同じではないか。日本には蓄積された富が

    まだまだ多くあるようだが、遅かれ早かれこういう状況はやってくるのだろう。中国の市場化

    というビッグ・パワーはそういう脅威にますます追い討ちをかけるのはまず間違いない。


     これら中国の様相を見ていて思うのは市場化というのは圧倒的なんだなということだ。

    金持ちと貧困というのは一目でわかる。明確にその差が現われる。豪邸、近代的な都市や

    工場、テレビや電話、そして貴金属――それに比べて旧来の貧しい農村の家や暮らしは

    圧倒的にみすぼらしく、あわれであり、悲哀を誘ってやまない。市場経済というのはこういう

    格差を冷酷に残酷なまでに表わす。貧しい農村のとなりに立つ豪邸や近代工場というのは、

    ほんとうに冷酷ということばがぴったりだ。まるで心理的な劣等感を打ち込む核弾頭みたい

    なものである。


     近代化というのはこういう貧富の格差が明確に表わされるから、かつてのヨーロッパの

    人たちは平等や社会主義といった理想を打ち立ててきたのだろう。市場化にとり残された

    人たちの痛みや哀れさはものすごくよくわかる。貧しい村のとなりに近代的な豪邸が

    立ったりでもしたら、穴にでも入りたくなる気持ちがしそうだ。


     それにしてもそういう物的な優越をめざした豊かさはほんとうにめざすべきものなのかと

    思う。物質的な優越はほんとうに目に見えてはっきりするものだが、中身は空っぽである。

    物質に頼り、ますます外側に頼るから、心は外界にほんろうされっ放しで、劣等感や不満に

    さいなまされるばかりである。物質的な優越は心を一時も安らかにはしてくれない。

    豊かになれば、今度は歯止めもなく、維持のための労働に縛られ、目的も意味も失われた

    毎日のくり返しのみが残される。中国人たちは近代化がたどりついた先進国の苦悩や空虚さ

    といったものをどれだけ知っているというのだろうか。おそらくそういう苦悩は上り坂の自分たち

    とまったく関係のない哀れな老いぼれたちの嘆きにしか思わないのだろう。


     豊かさの憧れというのはそれが目に見えるものだからこそ、圧倒的である。そして貧富の

    格差、貧しさの目印、劣等感というのは目に見えてはっきりとしている。豊かになってゆく

    なかでの貧しさというのはほんとうに目立つし、強烈な劣等感を駆り立てるのだろう。

    豊かさというのは残酷な優越感だ。貧しい人たちの誇りや伝統を打ち砕く。伝統に充足し、

    分を知り足るを知ることに満足してきた中国人たちの平穏や誇りをこなごなにする。

    もし豊かになろうとする人たちの目的がたんに心の優越感なのだとしたら、物質的な優越感

    のみを目指すべきものなのだろうか。


     優越感を競い合いたいのなら、もっとほかの方法はなかったのだろうか。金銭や物質的な

    ものではなく、もっと知恵のある競争ゲームはないのだろうか。しかし豊かになろうとする

    中国人の奔流はもうどうにも止めようがないようである。


     ところで日本では豊かになるという大目標は終わり、優越感を競い合うようなゲームは

    ほとんどなくなってしまった。過去の成功コースや中古品の人生コースしか残されていない。

    この退屈な夢のない社会はどこに行こうとしているのだろうか。


     苛烈な競争をとりもどして、ふたたび優越競争を盛んにしようとする試みが最近から

    おこなわれている。金銭や物質的な優越記号はもうほとんどインセンティブにはならない。

    知識や情報の優越競争というのはどれだけわれわれの情熱を駆り立てることができるの

    だろうか。やはりあの中国人たちのような溢れ出る豊かさのパワーというのは、この日本に

    ふたたびとり戻そうとすることはかなり難しいのだろう。


     文明は豊かさのある一点を越えれば、貧しさのなかに平安を見出そうとする衝動を

    もつようだが、先進文明はそのような地点にたどりついたのだろうか。ギリシャやローマ、

    唐といった文明の爛熟期を迎えるとストア哲学やキュニコス派(犬儒派)、キリスト教、

    老荘思想、仏教といった貧しさや無為のなかに心の平安をもとめようとする流れが盛んに

    なってくる。これはヨーロッパ近代では暗黒の中世とよばれている。もはや豊かさのなかに

    優越をもとめられなくなった時代には、貧しさや心の豊かさのなかに優劣ゲームを仕掛ける

    ようになるのだろうか。こういう思想の中にあの中国人たちが感じたような圧倒的な優越感

    というのものは存在するのだろうか。


     貧しさのなかに優越感を表わすことなんて、現代のわれわれにはまず無理なように

    思える。われわれにとっては劣等感の象徴のなにものでもないからだ。しかし物質的な

    優越感を感じられなくなった時代には、そういうなかにこそ優越の根が潜んでいるものなの

    だろうか。まあしかし、そういう時代になるのにはまだまだ幾多もの紆余曲折を経なければ

    ならないのだろう。金銭や物質的成功をもとめる世の中なんてもうたくさんたけど……。





    貪欲を戒める道徳や宗教はどこへ行ったのか

                                                1999/5/24.






     貪欲がよいものだという人はあまりいないだろう。だけど金銭や商品、地位をもとめる

    気持ちというのはまさに貪欲のことである。これについてはだれも咎めるものはいないし、

    奨励や称賛すらされているものだ。社会で推奨されているからといって、例外になるという

    わけにはゆかない。


     われわれはひじょうに貪欲で執念深い人間であり、そのような嫉妬深い世界の中で

    生きているというのが嘘偽りのない現実である。企業組織のなかで働いたり、なんらかの

    商売に関わっている人、子どもを進学校に入れようとしている親たちはまさに貪欲極まりない

    人たちである。しかし貪欲でなければ生きられないというのがこの産業社会の現実という

    ものである。企業のなかでは利益や業績を上げなければ食っていけないし、子どもを進学校

    に入れなければ将来が不安であるという事実がある。われわれはこの世界の中でひじょうに

    貪欲にならなければ生きていけないのである。


     どうしてこんないやらしい世界になってしまったのだろうか。かつては道徳や宗教が

    人々の貪欲さを卑しめてきて、そして一定の効果があがっていたのではなかったのか。

    守銭奴や商売人といった人たちを軽蔑してきたのではないか。そのおかげで人々は

    貪欲な競争心や嫉妬心をおこさなくともすんだわけだし、今日に問題になるような公害や

    環境破壊、生態系破壊といった事態をひきおこさずにやってこれたのではないのか。

    宗教や道徳は非合理な面をいくらかもつにしても、自然や人心に畏怖をもつことによって、

    偉大なる成果をあげてきたのではないか。


     それが今日ではまったく破壊されている。経済的貪欲を戒める社会的勢力はまるでない。

    宗教や道徳はどこにいってしまったのだろうか。かつての伝統的叡智はいったいどこに

    消え去ってしまったのだろうか。われわれをそのような叡智で守ってくれる知恵はすでに

    われわれを見捨ててしまったのだろうか。


     おかげでわれわれは朝から晩まで企業組織にこき使われ、貪欲な金銭欲や消費欲、

    出世欲だけに害され、利他心や親孝行といった心は捨てられ、家族も子どももカネが

    かかりすぎて養えないといった状況に追い込まれている。まったく産業者、財界人たちの

    天下である。貪欲と利害だけの産業者たちの支配する世界である。そしてわれわれは

    産業者たちの価値観と目的のみで洗脳され、そのような世界で生きる術しか知らず、

    その価値観でしか生きてゆけないといったありさまである。


     かつての伝統的叡智はもはやわれわれを救えないのか。貪欲を戒める力も効力も

    すっかり失われてしまったのか。われわれの心の中にはそのような叡智に耳を傾ける

    賢明さはもうないのだろうか。


     伝統的叡智はまったく破壊されている。近代化のなかで封建主義や迷信、古い慣習と

    いった罵倒を浴びせかけられて、まったく駆逐されてしまった。まったく息の根を止められて

    しまったのだろうか。近代化や西洋化は時代の趨勢としては抗いようがなかったのかも

    しれないが、伝統的な知恵を崩壊させたことは大きな過ちだったのだろう。あるいは近代

    産業化が終わった時点でふたたび求められるものなのだろうか。


     経済的貪欲さは経済発展や貧困からの脱却、完全雇用といった美文のなかに

    隠されてきた。貧困や封建的差別や不自由、階級社会の不平等といった社会的矛盾を

    撤廃するためには経済的発展や繁栄といったものはおおいに必要だったのかもしれない。

    しかしそれがひきつれてきたのは貪欲や嫉妬心というよからぬ孫だった。悪魔とさえ言える

    かもしれない。われわれは経済的繁栄のために貪欲という悪魔に身を売ったわけだ。


     貧困や経済的不平等からの脱却をめざすという試みは、貪欲や嫉妬心というよからぬもの

    と手を結ばざるを得ないというのはなんとも皮肉なことである。完全雇用や産業的繁栄を

    めざそうとすれば、貪欲という個々人の心の闇を解き放たなければならないというのは

    なんとも奇妙な話だ。しかも自然環境破壊や生態系破壊という、最終的には人間自身をも

    破滅させかねない結末まで用意されている。貪欲さはわれわれの心を害するのみではなく、

    自然環境への破壊をももたすらのである。


     伝統的知恵や宗教といったものはそのために貪欲を戒めてきたのである。貪欲を

    とき放った近代産業社会は、伝統的叡智に劣るものなのだろうか。産業社会はいちど

    その回転をはじめれば、かんたんにはやめることができない。生活の糧を得るためには

    貪欲さを煽ってゆくことでしか成り立たないからだ。


     貪欲さは優越心や競争心を生み、差別や不平等を編み出し、人々の自尊心や誇りを

    傷つけ、恐れや不安の毎日につき落とす。ぜんぜん幸せや安楽ではない。そのような

    心理的な荒波のなかで、またまた流行や技術が生み出され、不安や恐れは増長し、

    自尊心はたえず傷つけられ、悲しみや憂うつのなかで暮らしてゆくことになる。貪欲さや

    欲望を宗教がたえず戒めてきたのは故なきことではない。心はそのような貪欲さに

    よって傷つけられ、苦しめられるのである。近代産業社会はそのような貪欲のエネルギー

    を利用して危ない橋を渡っているわけである。


     心の貪欲さを戒めた道徳があった時代のほうが幸せだったのかもしれない。そこには

    現代人が感じるような心のブレや哀しみはなかったのかもしれない。もう一度、このような

    社会的道徳を復権させることも必要なのではないだろうか。


     宗教や世間の中にはそのような力がなくなってしまったのは周知の事実である。

    社会的道徳が力をもちなおしてくるのを待っていてもしょうがない。自分の心のなかでの

    貪欲さを戒めるしかないだろう。それは社会のためではなく、自分のためにおこなうもので

    ある。そこには伝統的叡智が説いてきた心の平安があるはずである。欲望と消費の社会で

    生きるわれわれはこの世界の悲しみや鬱屈を知っているはずである。かつての知恵に

    耳を傾けるべきではないだろうか。







       関連エッセイ

       欲望社会と賢者にみる人間の品位」 1998/12/4.

       陶淵明の隠遁と脱俗について思う」 1998/11/15.

       漂泊の人生に癒しを求めて」 1998/10/12.




        働かない者の幸いなるかな
                                                1999/5/27.






     働かない者は、サイテーでクズだというのがおおかたの人の考えのようである。

    そんな怠け者は人間失格で、価値のない人間だというのが世間の見方である。


     一方では価値があるサイコーの人間になろうとしてみんな会社人間になって、朝から

    晩まで働いて過労死や自殺に追い込まれたり、家庭を崩壊させ、社会を崩壊させたり

    してそれでも働くのがヤメられない人生もある。家族のためだとか、食っていくためには

    しょうがないんだ、といって働きつづける価値ある「まとも」な生き方である。


     世間で通用する価値ある生き方というのはどうしてこんなにも悲惨なのだろうか。

    価値ある生き方というのはどうも市場や企業において価値があるということであり、

    つまり生産や交換において価値があるということであり、あまり人間自体の幸福や

    価値について考えられてないようである。生産の価値が人間そのものの価値だと

    カン違いされている。


     また生きるためや幸福になるための生産や仕事なのに、目的になってしまったという

    ヒサンな本末転倒もある。手段が目的になってしまったわけである。なんでこんな

    愚かなことになってしまったかというと、手段を目的化したり、幸福と思わせたりすること

    がお得だった産業界や政府の策略もあるのだろう。福祉や社会保障によってもうまく

    ツラれてきた。社会主義的理想はそういう馬車馬的労働にまことにうまく貢献してきたようだ。


     こういう仕事中心の愚かな生き方がいつまでもつづくなら、目の仇にされる働かない

    人間や行為に対する価値を改めてみる必要がある。働かないという要素に人間の幸福

    があるかもしれないからだ。


     先ほどもいったように価値があるということは生産や交換においてであって、人間の

    幸福や価値はかならずしもそこにあるとは限らない。生産のなかだけに人間の価値や

    幸福があるというのは勘違いというものだ。人間の価値というのはおそらくよく勘違い

    されるのだろうが、社会や市場のみに測られるのではない。市場に測られない人間の

    幸福や価値というものがあるはずである。ただそういうものは社会にとっても有用や

    有益でない分だけ、人々の口にのぼることもなく、だからそういう価値はなかなか

    見つけにくい。だからわれわれは市場や社会の価値にだまされるというわけだ。


     市場や社会において求められるものが価値あるものだという見方にわれわれは

    縛られてきた。そのほかに価値あるものなんかあるか、というのがおおかたの人の見方

    だろう。でもこういう考え方に縛られていると、価値ある人間になろうとして競争や仕事に

    囚われつづけてたぶんあまり幸福にはなれないだろう。価値がないときにはソートーの

    苦痛や苦悩を味わわなければならないだろうから。


     働かない者は、社会的に無用であり無益であるから、だからこそ、自分自身の幸福や

    価値を見つけやすい。自分自身に充足する価値や幸福というものである。つまりカネで

    買えない幸福や価値というものである。生きているだけで幸せという価値感はこういう人

    だけにしか感じられないものなのだろう。


     人に利用されたり、役に立ったりする必要のないポジションにいるから、働かない者は

    人間ほんらいの価値や幸福に出会うことができる。われわれは社会的に有用な存在に

    ならなくともじゅうぶん幸福を感じられるはずである。またそこにはいちばん安定した、

    安心できる心の充足というものがある。なぜなら役に立ったり、価値あるものにならなければ、

    受け入れられないといった心配や恐れはないからである。


     よく人は勘違いする。他人の役に立ったり、価値あるものにならなければ、人から

    受け入れられないと思ったりする。しかしこういうふうに思いこむのは不幸なことだ。

    なぜならそういう関係は役に立つときだけしか求められないからだ。役に立たないとわかるや

    いなや捨てられる。人を道具としか見ていない薄ら寒い関係がそこにあるだけである。

    利用し、利用されるといった関係にしか価値がないと思い込む人にはおそらく人をほんとうに

    愛するといったことはできないのだろう。利益や損得だけで人を判断し、利用しようとする

    観点しかもっていないわけだ。役に立たない、価値のない部分にもあたたかい目をそそげる

    人は幸せなんだろう。そのまなざしは自分にもふりむけられるわけである。


     近代の立身出世主義というのは社会的・経済的に有用で有益な人間になることが

    価値あることだと思い込ませてきた。社会的に名をなした者だけが価値あると吹聴してきた

    わけである。人間を損得や利益という、利用する観点からしか判断しないわけである。

    それ以外の人間は価値も意味もないクズで役立たずといった具合だ。この強迫観念が

    われわれをやみくもな価値競争に駆り立ててきたのだろう。


     市場や商業において価値あるものだけが人間のめざすべき何かだと思いこむのは

    不幸なことなのだろう。売り買いや交換できるものしか価値を認められないからだ。

    そういう関係の網から外れるものはすべて捨てられる。われわれ人間の価値や意味も

    それに依存するといったわけだ。幸福や価値は、市場の道具や利益になってはじめて

    存在するということである。こういうふうにしか考えられないわれわれはとても不幸なの

    だろう。人間の幸福や意味をそれらにしか求められないからである。


     市場の価値と人間の価値はまたべつのものである。べつの物差しがあるはずである。

    この勘違いが近代の人間を不幸にしてきたのだろう。価値ある人間になろうとする競争が

    ますます激しくなる一方で、われわれの価値や幸福はますます削りとられてゆくのである。

    道具的関係だけがわれわれを律してゆく。経済的価値のあることがほんとうに幸福なのか、

    という問いかけをたえずしてゆく必要があるのではないだろうか。


     だから働かない、社会に役の立たない人間は、人間ほんらいの幸福や価値を見出す

    ことのできる近い場所にいるのだろう。市場や社会にとっては意味や価値のない幸福で

    ある。利益や損得とは関係のない価値がそこに見出せるはずである。それは社会的有用さ

    をめざさなくてもいいこと、価値ある人間になろうとする悲哀を捨てたところにあるのだろう。

    そんなものを追い求めなくても、われわれは存在しているだけでもじゅうぶん幸せで価値が

    あるということに気づけたら幸いだ。そういう気持ちになれてはじめて人を愛することができる

    のだろう。また自分の幸福にも気づけるのだろう。


                          *


     ちょうど、ここでエッセーを終えたいところだが、ひとことお断りしておかなければならない

    ことがある。働かないことのなかに幸福や価値があるといっても、じっさいにわれわれは

    食べるために働かなければならないし、人の役にも立たなければならない。なにもわたしは

    仕事をやめろだとか、役に立たない人間になれと推奨するわけではない。あくまでも人間の

    幸福や価値はほかのところにあるといいたかっただけで、そのような想像力をめぐらすための

    洞察力の訓練としてこのようなことをいったまでだ。人の役にならないところに幸福はあるかも

    しれないが、積極的に人に迷惑をかけるようなことは考えものだ。


     われわれは働かない者や怠け者を目の仇にしてきた。でもそのような価値のない人間に

    対する怒りは自分への無価値さの怖れを駆り立てるだけであり、道具的・利用的関係の

    観点をますます増長するだけだと思う。われわれはこうしてますます市場的価値に幸福を

    見出すようになり、ますます価値のない悲嘆や苦悩から離れられないといった悲しみと出会う

    ことになる。われわれの不幸はこういったことに端を発しているのではないだろうか。


     社会に有用・有益にならなくとも、われわれはじゅうぶん幸せで価値があるということに

    気づけたのなら、われわれはいまよりもずっと楽で幸せになれるのではないだろうか。




    読書案内

     社会的に無用な存在について語ったものでは、つげ義春の『無能の人』というマンガがある。

     種田山頭火の俳句や日記はそういう地点からの幸福や価値をうたっているのだろう。

     隠遁者や漂泊者の系譜はそういうことの表白である。





     ホームレス激増とジョブレス社会に思う


                                                1999/6/5.







    完全失業率が5%を越えたそうだ。20人にひとりの割合で失業していることになる。

   さらに20代の若者にいたっては10%を越えているという。10人にひとりだ。不安なことに

   リストラはまだまだつづくという。企業はどんどん人々を掃き出している。ハローワークでの

   パソコン画面での閲覧の待ち時間は長くなる一方だし、転職情報誌の薄っぺらさはため息を

   つくばかりだ。わたしの部屋のスピーカーの下におかれたバブル期の転職情報誌のぶあつさ

   がなつかしい。


    わたしが住む大阪市内での公園のホームレスは去年までは微増の気配であったが、

   今年に入って激増したのが丸分かりで、まるで難民キャンプの様相を呈している。とうとう

   ここまで来てしまったか、ついに大失業時代にほんとうに突入してしまったんだなという感が

   わく。そういう予測は何年か前からあったけど、日常にはべつだんそんな気配は現われなく、

   オオカミ少年ではないのかとわたしは疑っていたのだが、どうやらここにきて本格的に壮絶な

   状況を呈しはじめたようだ。何年もかかってじわじわと予測どおりの状況になることがよけい

   恐ろしい。


    それにしても日本にはホームレスを防ぐためのセーフティネットがどうやらぜんぜん機能

   していないか、存在していないかのどちらかのようだ。失業保険や生活保護などの社会保障

   の網の目をするりとぬけ落ちる人たちがこんなにいるということは、これらの存在はなきに

   等しかったということだ。


    たった10年ばかりの不況だけでこんなにホームレスになる人たちが多くなるというのは、

   この経済社会の脆弱さをもろに露見させたわけだ。バブル期まではホームレスの人たちと

   いうのは一定の数ほどしかいなく、特別な存在だという感もあったのだが、どうも近頃はそう

   ではないようだ。日本の経済システムというのはもっとしっかりしたものだと思っていたが、

   ひとたび調子が悪くなるとここまでかんたんに人々の生活の糧を奪ってしまうのかと驚く

   ばかりだ。


    極論になってしまうけど、ホームレスというのはどこの社会にもいる。むしろホームレスが

   多くいる社会というのがふつうだ。これまでの社会はそういう人たちがほとんどいなく、

   ある意味では息苦しい社会だった。ほんとうに極論だけど、ホームレスになる自由がある

   社会ではなかった。そういうところでは人間どうやっても生きていけるんだ、みたいな勇気と

   いうか励ましがなかったわけだ。だから人々の生き方はいきおい保守的になる。自由さとか

   奔放さ、革新といったものはそういった社会では芽生えない。


    こんなことをいえば、競争社会を激化させようともくろむ政府の宣伝屋みたいなことになって

   しまうが、社会保障のためにどんどん支払いや拘束感が高まってゆく社会よりまだマシだと

   思っている。生活保障ばかりを追っているとまるでオリの中で生かされている気がする。

   戦後50年の経済社会の荒廃やゆがみ、失敗はここに端を発しているとわたしは思っている。

   自由な生き方、社会を築くためにはこういう過程をへなければならないのではないだろうか。


    むろんわたしは金儲けや競争を激化させる社会をのぞんているのではない。ただそういう

   社会は一方では金儲けに励む人たちとそうでない人たちをおのずと生み出すと思う。わたしは

   そこに自由な生き方ができる社会の存立を期待しているわけだ。戦後のようなだれもかれもが

   金持ちや出世をめざせといったような一億総中流志向、会社人間化といった画一的な生き方を

   強制するような社会ではなく、それぞれが思い思いの目標をめざす余地が、そういう社会に

   生まれるのではないかとわずかの希望を託しているわけである。消極的な期待ではあるが、

   ――金儲けをあきらめた人たちの自由という後ろ向きの発想であるが、うまくいくだろうか。

   ……甘すぎるかな。


    それにしてもこのままホームレスの激増をただ放っておくだけでいいのだろうか。アメリカ型の

   自由競争社会をつくるにしても、その過程で放り出される人になんの援助も与えられないと

   いうのは問題だ。これまで政府まかせだった地域住民の人たちは自分たちで何とかしようとか、

   ボランティアをおこなおうという発想をまずもたないようだ。あまりにも政府まかせだった人たち

   は自分たちのまわりで困っている人たちがいても、助けてあげることができない。またこれまで

   の人はおそらく「働かざるもの食うべからず」と思い込んできたからか、ホームレスを本人の

   責任に帰してしまい、まったく無視状態だ。どんどん失業者が放り出されるいまの状況は

   ふつうではないから、発想の転換が必要だろう。いまのホームレスは本人の責任だけでは

   ないことはだれでもわかると思う。地域に助け合うような人間関係ができたらいいのだけど。


    失業者はどんどん放り出されてゆく。リストラや倒産の状況はすごいものがある。しかも

   中間管理職や中高年の失業はそうとう深刻だ。有効求人倍率なんてほとんどないに等しい。

   つまり雇用先がまったくないということだ。どうしろっていうんだ。妻子を抱え、さまざまなローン

   を抱えた世帯主の失業は深刻だ。たちまち生活や支払いに窮してしまうではないか。しかも

   どこの会社も中間管理職や中高年はいらないときている。救いがないではないか。それに

   追い討ちをかけるように人員削減と倒産はひっきりなしにつづく。


    アメリカではリストラされた社員はみずから事業をおこしたり、自営業者になったりする。

   そういうところで雇用創出がおこなわれたわけだが、日本の場合は政府や会社にしがみつく

   ばかりで、あまりそういったアクションはおこならないのだろうな。


    これまで雇用を吸収していた製造業や建設業、流通や金融、運輸といった業界からヒトが

   どんどん放り出され、スリム化されてゆくその業界への転職はむずかしく、しかも新しい業界に

   転職したり、雇用の受け皿となるような業界はなかなか育ってこない。自分のこれまでの

   職歴や経歴を活かすことができず、他業界への転職は経験や知識を必要としており、これでは

   まったく八方ふさがりではないか。


    産業構造の転換期というのはほんとうにヒドイものである。これまで頼みにしていた職種や

   業界があっという間に用なしになったり、消滅してしまったりする。ほんとうのところ、産業とか

   経済というのはこういう要素をもっているものなのだが、戦後の長い成長経済期のゆりかごに

   のたうってきた人たちは勘違いしてきたようだ――いつまでも自分の会社・業界は存続しつづけ、

   雇用と生活保障をしてくれるものだ、だからがむしゃらに滅私奉公するんだ、みたいな思いこみ

   を囲い込んできた。でもこんなのは常識から考えてムリな話しというのがわかるというものだ。

   いつまでも売れつづける商品や製品がないように企業もいつまでも存続しつづけるわけなど

   ない。こんなのは常識である。しかし時代というのは大きな勘違いを許してきた。高度成長期

   というのが歴史上まれにみる異常な時代であるということに警戒しなかったからだろう。

   多くの人がいうように「成功ゆえの失敗」というのはほんとコワイ。


    転換期に生きる残るのはむずかしい。転換期というより、産業消滅期というか、ジョブ消滅

   時代といったほうがいいかもしれない。職はどんどんなくなってゆくのに新しい雇用の受け皿

   はほとんど育っていない。自己責任、自助努力の時代だといわれるが、会社に飼われ、

   実社会で生きてゆくための教育も心の準備もされなかった人たちはいったいどうしたらいいと

   というのだろうか。とつぜん市場社会に放り出されても、そういう世界でどうやって生きていった

   らいいのかもわからない。ワケのわからない混乱した経済のなかでもまれてゆくなかで、

   生きてゆくスキルを実地に学んでゆくしか仕方がないのだろう。


    いや〜、ほんとうに時代は変わってゆくみたいだ。つい何年か前までは社会とか雇用

   環境とかはてこでも動かない不動のものだと思ってきたけど、リストラの連発は世の中を

   変えてゆくようだ。終身雇用なんてものは20%の大企業にしか採用されてこなかったという

   話だが、多くの人たちはそういう神話を信じてきたので、リストラはそういう幻想から目を醒ま

   させるきっかけになるだろう。これまでの社会はそういう神話があったから成り立ってきた

   みたいな部分があるから、これからの社会はかつてないほどの変化を蒙ることになるだろう。

   愛社精神や滅私奉公のような精神は時代遅れのものになり、もっと個人を大切にした生き方が

   求められるようになるだろう。終身雇用を打ち切るリストラというのは名実とともにその宣言

   である。人々はこれから会社より個人を大切に生きるだろうか、それともこれまで以上の

   熾烈な働き方をするようになるのだろうか。


    職のありかたは人々の意識やライフスタイル、行動様式といったものを変えてゆくだろう。

   終身雇用は終身婚と並行してきたし、電車通勤というスタイルは性差分業の役割をうみだした。

   なによりも終身雇用という形態の打ち切りが人々の意識のありようを大きく変えるだろう。

   転職もさかんになり、若者にはもうほとんどない会社への滅私奉公という気分はすたれるだろう。


    常勤の正社員は少なくなり、働く者の半数が契約社員やパートタイムの仕事につくことに

   なるといわれている。これが富と貧の二極分化をもたらすと考えられている。仕事にがんばる

   人はがんばり、そうでない人は趣味や娯楽を楽しめるようになるだろうか。しかしさまざまな

   保障が失われてゆく過程に人々はどのような気持ちをもつだろうか。また物質的な金持ちに

   なるというモチベーションははたして将来にありうるのだろうか。ともかく儲かる人たちとそうで

   ない人たちの落差が歴然とするむきだしの競争社会の時代がやってくるようである。戦後の

   ように工業社会のモデルといったものが存在しなくなったのだから、雇用や保障は守れなくなる

   社会がやってくるのは当然の成り行きである。すべての業界に順調な拡大再生産が見込まれ

   ることはもはやないからだ。


    変化と激動の時代のようである。われわれはこのような時代にどのように生き残っていった

   らいいのだろうか。職はどんどん失われてゆき、将来や生活の保障もままならない時代だ。

   ひとむかし前までは考えれもしなかった変化がひたひたとやってこようとしている。これまでの

   会社主義社会に守られてきた人たちにはたまらないだろうし、そういった管理社会にやり切れ

   なさを感じてきた若者には朗報かもしれない。ただ、会社にぶらさがってきた人や働く意欲を

   なくした若者がこれまでの会社主義社会によってつちかわれてきたわけだから、突然の時代の

   路線変更は寝耳に水といったものだ。変化になかなか適応できないだろう。


    金融関係の会社がどんどんつぶれてゆくように、われわれの生活自体も守られなくなって

   ゆく。職を失い、レベルダウンの転職を余儀なくされたり、なんのセーフティネットにもひっかか

   らずに路上生活へと落ちてゆく人もたくさんいるかもしれない。おいおい、政府や企業はほんと

   うに人々をまったく守らないのか、住居や食べ物が得られなくなっても見捨てたまま、放って

   おこうとするのだろうか。ホームレスが激増し、いまは男の者たちが多いが、そのテントの中に

   家族や子どもが住まざるを得なくなるような状況になっても、政府や企業はなんの手も差し

   伸べないつもりなのだろうか。路上に人々がごろごろ寝ているような壮絶な社会がもう一度、

   再現されようとしているのだろうか。落ちることにかけては底なしのような社会である。ほん

   とうにこんな社会がやってくるのだろうか。


    変化は始まってしまった。もうむかしのなつかしい時代には戻れない。新しい時代の

   変わりようを見極め、その変化に適応してゆくしかないようである。変化を嘆いたり、過去を

   郷愁しても時代はなにも聞き入れてはくれない。傷を大きくするだけである。


    さあ、どうやって生きていこうか。わたしも迷うばかりである。わたしには手に職がなにも

   ないし、あまり優れた働き手ではないし、だいいち働くのが嫌いだときている。てんで

   ポジティヴではないし、ネガティヴから物事を発想するし、逃げや消去法から人生を歩んで

   きたような気がする。自信や自尊心という高級なものはあまりもちあわせていない。そのくせ、

   反抗心や反集団主義だけはやたら強いひねくれ者だ。屈折してしまったのだから仕方が

   ない。これからは世間の冷たい目を気にせずにあまり働かないでもすむだろうか。そういう輩は

   貧しい生活に甘んじるしか仕方がないのだろう。自分の好きなように生きられたらいいのだけ

   れど。


    政府は戦後直後のような貧しい社会をつくりだし、そのハングリー精神によって高度成長

   を巻き起こそうとたくらんでいるのだろうか。従来の常識なら人々は貧しさを怖れてきたが、

   豊かさを一度は経験した人たちはもう一度しゃか力になって働こうとするだろうか。それとも

   もうあきらめて貧しさの中で楽しみや悦びを見出してゆくことになるだろうか。もちろんわたし

   が願うのはこれまでのようながむしゃらな労働主義の社会ではなく、もっと人間らしい、

   仕事以外の生きがいや楽しみ、時間をもてるような社会になることだ。そのような生き方を

   求めようとすると仕事があまりない貧しい生活に甘んじるほかないのかもしれない。


    この社会はいったいどういうふうになってゆくのだろうか。人々の生活基盤である雇用が

   どんどん失われてゆく。その速度に追いつくような雇用創出はぜんぜん立ち上がっていない。

   受け皿がない労働市場に人がぽいぽい放り出されるようなこの社会にはどのような未来が

   待っているのだろうか。




    ご意見ご感想お待ちしております!     ues@leo.interq.or.jp 



    リンクです。「ホームレス問題から見えてくる働き方の周辺」
     ホームレスの原因は経済的脱落のみではなく、過酷なノルマや労働条件から、
    働きたくないという選択を選びとった人たちが増えてきたと論ずるスグレた文章です。
    たしかにわかる。家族とか世間体とかのしがらみから解き離れたら、だれもあんなツライ、
    イヤなことの多い仕事なんかつづけられないよ。

    一年前のエッセイ 「平成不況について思うこと」 98/6/20.





      つまんない生き方しかない
            世の中をどう生きてゆくか


                                                  1999/6/11.







    齢31にしてもまだ、どうやって生きていこうかと迷うばかりである。どんな生き方をすれば

   いちばんいいのかてんでわからない。もう迷ったり、迷うことすら許されない年代なのかも

   しれないけど、どうも満足ゆく生き方がどうしても見えてこない。不平不満をたらたら並べて

   生きてきたわたしには職業生活における選択の自由などほとんどないに等しいのだが、

   それでもやっぱり未練がましく迷いつづけている。


    やりたい仕事などてんでないのだ。満足のゆく仕事なんててんで見つけられない。おもしろ

   そうな仕事を見つけても経験や業績が必要だし、自分にはできそうにもないと不安になって

   すぐあきらめてしまうし、だれでもできる仕事もおもしろみがない。問題があるのは自分自身

   じゃないかといわれそうだが、たぶんそうなのだろう。自分自身を問いつめたり、厳しくしたり

   することができずに甘えているだけなのだろう。不満たらたらと自信のない自分というものと

   しっかり向きあわなければならない。


    この作業を一方で課しながら、やっぱり時代についての不満も無視するわけにはゆかない。

   自分にも問題があるのはたしかだろうが、しかし確実に時代にも問題がある。どっちなのか

   といってもたぶん解決はできはしないだろう。両方の問題と責任を問うことが必要だろう。


    サラリーマンとして生きてゆく生涯はほんとうにつまらない。いろいろ理由は考えられるだ

   ろうが、やはりカネを少しでもたくさん得ようとして、ドレイになってしまったからだろう。カネや

   保障、保身、安定のためにみんなはドレイになってしまった。カネや安定がほしい人には

   そういう側面の卑屈さや屈辱がみえない。カネか貧困かという単純なモノサシでしか測れず、

   あとのことはバカになってしまった。至上価値というのはほかのことをまったく見えなくさせるか、

   麻痺させるかのどちらかのようだ。新しい世代はそのバカさ加減がたまらなくムカつく。


    安定とか保障とかはだれでもほしいものである。しかしその欲望だけに盲目になってしまう

   とドレイになり下がるしかない。カネもわれわれをドレイにする。機械技術とか電化製品とか、

   車とかブランドといったものにもイカレてしまうとわれわれはドレイになる。他人との比較競争

   や虚栄とか見栄とかにもイレあげるとドレイになる。人間というのはいつの世もひとつのことに

   イレあげて、それに隷属してしまうのが習い性のようである。まことに皮肉なことであるが、

   ほしいものをどこまでも追いかけるとわれわれはそのドレイとなるのである。う〜ん、たしかに

   欲望とか希望、理想というものはコワイものだ、仏教僧がいってきたように。


    戦後の人たちはカネや安定を盲目的にもとめた。おかげで会社にぶら下がり、カネをやみくも

   に信仰する醜い人たちを大量増殖させてしまった。なんだろうな、この世の中は。自分たちの

   生き方が卑しいとか醜いとか反省しないものなのだろうか。とはいってもたしかに現実問題と

   としてはカネや安定はほしいものである。企業社会や転職市場のなかで自分の貪欲な生き方

   を反省してしまったら、メシも明日の住み処も事欠くことになりかねない。求めるもののドレイと

   ならないていどに時代に順応することも必要なようである。


    がむしゃらにカネと安定をもとめた戦後の人たちはツマラナイ社会をのこしてしまった。

   なにがツマラナイかというと決められた人生コースほどツマラナイものはない。よい大学、よい

   会社、よい家庭、よい出世といったエリートコースほどツマラナイものはない。これはアウト

   サイダーの目から見るとドレイ街道まっしぐらでしかないからだ。安定やカネのために人生や

   魂を売り払ってしまうドレイ以外のなにものでもない。しかし親たちにはそういう認識はなぜか

   まるでなく、ドレイになれドレイがいちばん、と子どもたちの耳に洗脳しつづける。親というのは

   子どもの自由や気概といったものを育まさせてやりたいとは思わないのだろうか。ツマラナイ、

   味気のない、楽しみや喜びのないドレイの人生をそんなに歩ませたいものなのだろうか。

   そんな親たちは子どもの信頼できる味方ではなく、ドレイの売買人かなにかなのだろう。


    われわれはこのつまんない世の中をどう生きていけばいいのか。カネや安定を求めるのは

   当然のことである。ただし、あまりにも盲目的になり過ぎれば、ドレイとなってしまう。その

   ワナにひっかからずに自由に生きられることをめざすべきだ。ひじょうにバランスをとるのが

   むずかしいところだが、ひとつひとつ新しい生き方を模索してゆくしかないだろう。実験して

   ゆかないとツマンナイ生き方と社会はいつまでもわれわれを拘束しつづけるだろう。


    ツマンナイ生き方を打ち壊すには、これまでの価値体系を脱ぎ捨てることだ。たとえばカネ

   や保障、モノがたくさんあれば幸福であるといった思いこみ、貧乏や保障なしの生活、

   不安定な人生は、みじめやあわれであるといった怖れを捨てることである。われわれは

   こういった価値体系、イデオロギー、人生観といったものに囚われてドレイの道につきすすむ。

   この常識や感情に囚われないことである。そのためにはほんとうにそうなのかと問い直して

   みる必要があるだろうし、劣等感や落ちこぼれといった弱者意識や負け犬根性を開き直って

   肯定してみることが大切である。さもないとツマンナイ生き方とぐじゅぐじゅの負け犬意識、

   ドレイ街道が待ちかまえているだけである。


    しかしはたしてわれわれはこの優劣価値観をどれだけ捨てられるだろうか。この幸不幸感

   の思いこみは根強く、またいくらかの現実を言い当てているかもしれない。社会や世間の人

   はそのモノサシで人々を判断し、賞賛し、用いようとするだろう。他人とっては自由奔放に

   生きる人間より、ドレイのような人間が使いやすいのはいうまでもない。自由や人間らしい

   生き方を求めようとすると世間や企業の論理と衝突するのはいつの時代でも変わらない真理

   のようである。この不安定さに脅え、怖れをなした人はやはり世間の人たちと同じような

   隷属の道を歩んでいるように見せかけることに熱心になるのだろう。いたしかたがないと

   いえるが、ツマンナイ生き方で人生を終えても後悔はしないのだろうか。


    経済的なもので幸福を得ようとする人生をもう捨てたほうがいい。そういう生き方がこれまで

   の社会や人々をツマラナイものにしてきたのだ。では、おもしろい生き方というのはどういう

   ものかというと、各人がカンや本能といったものに耳を傾けるべきなのだろう。各人それぞれ

   によっておもしろい生き方や目標が違ってくるはずである。たとえば海外放浪するのもいいし、

   国内放浪でもいいし、ストリートミュージシャンになってもいいし、趣味に没頭するのもいいし、

   哲学や思索にふけるのもいいし、芸術作品を生み出すのもいいし、べつだんなにもしなくて海や

   野でぼーっとしてみるのもオツだ。自分の胸に聞いて好きなことをやればいいのだ。だれかが

   フロンティア的にこういう生き方をしないと絶対に新しい生き方は生まれない。企業や世間の

   論理に耳を奪われれば、こんなことは即できなくなる。将来の不安に囚われたら、それで即

   オシマイだ。たいていの人はそうなるだろうが、少数の人が勇気と度胸をもって新しい生き方を

   切り開いてゆくしかない。そうすることでしか、つぎの時代のおもしろい生き方は広がってゆか

   ないのだろう。だれかが切り開いてやらないと、ツマラナイ経済価値だけの世界はわれわれの

   ドアを閉ざしつづけるだろう。


    経済的価値しかない世の中はほんとにツマンナイ。もっと新しいフロンティアを開いてゆく

   ことが必要である。経済はわれわれの生活の基盤となる大切なものであるが、それだけの

   価値観、それだけの社会だけではとてもツマラナイ。生きている甲斐もないし、人間らしい

   生き方もできない。こういうカンオケをブッつぶしてゆかないと、われわれのおもしろい生は

   広がってゆかない。


    たいへん難しいところである。経済的基盤を確保するために全生涯をそれに費やさなければ

   生きてゆけない生もあるかもしれない。しかしそういう怖れのために高度成長以降の日本人

   たちはエコノミック・アニマルとなり、世の中をひじょうにツマラナイ、カネと企業だけの世界に

   してしまった。われわれはゆっくりとこの価値観を脱ぎ捨ててゆくべきなのだろう。こういう人生

   というのはほんとうに生きている価値がない、絶望すべきものである。人間を幸福にしない

   日本というシステムである。われわれひとりひとりがそういうシステムに否をつきつける生き方

   をするしかこの日本は変わってゆかないのかもしれない。政府や企業がわざわざそういう

   自由や幸福など与えてくれるわけなどないのだ。かれらはわれわれをうまく利用して最大の

   利益や納税を得ることにしか関心はないのだから。


    世間や親たちがよってたかって将来の不安を植えつけてくるだろう。でもどう考えたって

   かれらの姿が憧憬や尊敬される生き方に見えない。経済的な安定を得ようとしてかれらは

   まるで使い古されたぞうきんのようである。しかも最近では安定の象徴であった中高年たちは

   リストラの憂き目に会い、かれらの忠告はまったく説得力を失ってしまった。かれらは経済的な

   安定という生き方で見事に失敗したのである。守りに守っていたものが壊れてしまったり、

   失われてしまったりするのは、いつの世も変わらないようである。「怖れているものがわが身に

   ふりかかる」とキリストはいったそうである。


    これからおもしろい生き方はできるだろうか。経済的価値や条件ばかりに縛られない自由な

   生き方ができるだろうか。高度成長以後の人たちは経済的価値だけにしがみつき、そして

   その目算もみごとに破産したようである。かれらは教訓をのこしたのだと思う。われわれは

   その忠告に耳を傾けるべきなのだろう。経済的価値ばかり追っていても幸せなんかなれな

   いんだ、ということである。


    新しい生き方は生まれるだろうか。現在の20代の勤労意欲はアメリカの定年退職者なみに

   落ちているそうである。勤勉のタガが外れたのではない、勤勉のウソっぱちと非人間性に

   やり切れなくなっただけなのだ。これからも若者たちが勤勉意欲を失い、もっと積極的に

   新しい生き方を模索するようになれば、この世の中はもっとおもしろくなると思うのだが。


    さてわたしはどうやって生きていこうか。たぶんわたしは腰がひけて、安定と保障を得よう

   ともくろみはじめるだろう。ウシのように働いているかもしれない。わたしの年代ではまだ

   みんな会社人間の最後尾をついていこうとする連中ばかりだ。根性がなくてそういう生き方に

   しがみつこうと、わたしはするだろう。あるいはもう手後れで仕方なく、安定や保障の得られない

   人生を送っているかもしれない。時代もそういうことの後押しをしているのは周知のことだろう。


    最近ふっと田舎暮らしのことを考えるようになった。なんで都会に住んでいるかと問うて

   みたら、ただ都会に住んでいたからだということに気づいた。山や海、農村に住んでみる

   なんていいかもしんない。ほんの思いつきだけど、都会の会社ってほんとに窮屈で、居心地

   が悪く、おもしろみがない。田舎暮らしの対比としてそういうことが見えてきた。軽はずみな

   理想には警戒したいが、将来の選択のひとつとしてあたためてゆきたいと思っている。

   さらばじゃ〜。






       「価値崩壊の時代」をどう生きるか

                                            1999/6/18.





     戦後50年の日本の価値観がどんどん崩れ去ろうとしている。右肩上がりの成長神話、

    土地神話、終身雇用、会社人間、滅私奉公、社会保障、護送船団、家庭や学校の幻想、

    といったさまざまなものが崩壊しようとしている。


     ある人にはかつての時代を郷愁して嘆き悲しまれるものかもしれないが、ある人にとっては

    古き因襲の崩壊として悦ばしきものに思えるかもしれない。もちろんわたしには会社主義や

    経済主義の世の中といったものがとてつもなくキライだったから、こういう時代はとてもうれしい

    のだが、だが自分にとって好ましい方向に向かうのか、悪い方向に向かうかはわからない。


     終身雇用の崩壊だと叫ばれているが、出世競争や生き残り競争がゆるやかになるという

    よりか、激化する方向に進んでいるように思われる。わたしは終身雇用が崩壊するのなら、

    これまでの会社人間や滅私奉公に生きるよりか、もっとほかの幸福や価値観に向かって

    ほしいと思っているのだが、どうもそういう方向は現われてきていない。生き残りをかけて

    スペシャリストだキャリアだといった経済的価値ばかりが吹聴されているようだ。そんな煽り

    にふりまわされないで、自分の好きな、あるいは楽な道を選んでほしいと思う。経済的競争

    はこれまでわれわれに幸福をもたらしてくれたことなどあるのかと問いたい。


     金融や中堅企業などのかつてない倒産が巻き起こっているが、これはわれわれの価値観

    を大きく変えるだろう。まるでいままでの安定した時代は終わったのだとだれかに宣伝して

    いるみたいだ。だれがだれに宣伝しているかというと、赤字財政であっぷあっぷしている政府

    や官公庁なのだろうか。マスコミも金融の倒産のたびにこれまでの時代は終わったとアナウ

    ンスするのだが、どうもなにか劇場的でつくり話しめいているのは、政府の広報屋担当

    だったからだろうか。どこかリアリティがないというか、深刻さとかせっぱ詰まった感じがない。

    政府関係や護送船団系だけの騒ぎだからだろうか。


     とはいっても失業やホームレスの増加は深刻である。転職市場はこれほど倒産やリストラ

    の多い時代になってもほとんど開かれていない。現在のリストラというのはエリート社員の

    数をもっとスリムにする、選別するための機会のようである。終身雇用が終ったのではなく、

    その待遇を享受する人たちを減らすということだ。内部昇進のシステムはほとんど変わって

    いないから、外部からの転職はこれまで以上に難しい。実力主義だとか能力主義だとか

    喧伝されても、じっさいのところ本質的な部分は変わっていないと思う。このところを読み

    間違ってはならない。変わる変わるといってもすべてが変わることなどありえないわけで、

    だまされてはならない。


     一流大学、一流企業というこれまでのエリート・コースはどうなったのだろうか。学生や

    親たちはあいかわらずこの目標を追っているのだろうか。なにしろ金融企業が倒産したり、

    たくさんの大企業がリストラをおこなったとしても、新しい成功コースはまるで見えないから、

    混乱するばかりだろう。たしかに成績が優秀であることは世間への優れたパスポートに

    なるに違いない。ただ「どこに所属していたか」ではなく、「なにができるか」の変化は言わ

    れているとおりなのだろうが、これほど難しい転換はない。一朝一夕にして「わたしはコレ

    ができます」なんて急には変われない。


     価値崩壊の時代といわれても新しい価値観はぜんぜん芽生えていない。こういう時にこそ

    新しい価値観を見出したり、つくりだしたりする時代だと思うのだが、なんだかみんな必死に

    かつての価値観にしがみついたり、過去のやり方で乗り切ろうとしている。


     わたしはこういう時代だからこそ、仕事や会社一点張りの価値観から個人の幸福や豊かさ

    に目を向けるべきだと思うのだが、みんなこの不透明な時代をどうやって乗り切ろうかとそれ

    どころではないようだ。必死になって経済的優位を得ようと肩ひじはって生きるより、肩の力を

    抜いて楽に気ままに生きる方法だってある。そういう脱力系の生き方に未来や幸運があるか

    もしれない。経済的優位なんて捨ててしまえ。たぶんそれは旧時代の価値観になってしまう

    だろう。文化や芸術、哲学などはそういった分岐点から立ち現れるのではないだろうか。

    経済的な価値観だけの社会や生き方はあまりにもつまらないアナクロニズムなものだ、と

    わたしは主張したい。


     戦後の人々がめざした価値観はたしかに崩壊している。人々があこがれたエリートの

    優越性とか価値観なんてものはもう魅力を失っている。これは80年代のわたしが学生だった

    ころからもとっくに感じられたものだ。勤勉や生産の価値が内部崩壊しはじめた80年代の末

    に土地や株、高級品、リゾートなどのマネー・ゲームに奔走しだしたころから、かつての価値観

    は終焉してしまっていた。しかし新しい価値観も生まれず、新しい社会にも転換できずに、

    この社会はぼろぼろと崩壊しだした。魅力的な中心がなくなってしまったのだ。


     社会は変貌を希求しているのに新しい社会の枠組みもヴィジョンもない。しかたなく、

    ツマラナイ社会の枠組みがわれわれを拘束して、ますますやり切れなくさせている。


     発展途上国の発想やシステムを変換しなければならないのだろう。発展途上国では国の

    富を増やすために全能力がその目的に結集される。そのしくみが人間を幸福にしない

    システムをつくりだすのだ。曲がりなりにも豊かになった現在、政府は企業の富を推進させる

    役割から、個人の幸福をあみだすために企業を抑制するべきなのである。そういう役割を

    自覚できない政府なんていらない。この転換はいったいいつになったらできるのだろう?


     こういう時代をわれわれはどうやって生きていったらいいのだろうか。旧来の堅実な生き方

    もまだまだしっかりしているように思われるし、一方ではリストラなどでその無益さや徒労さ

    がバクロされても、まだそのような生き方のモラルは頑迷に人々を捉えて離さないようだ。


     価値崩壊の時代というのはひじょうに生きづらいのかもしれない。価値が成長している時代

    には成功や憧れのパターンに一直線に向かえばよかったのだろうが、それが崩壊する時代

    というのは中枢にしがみつくのもヤバイし、脱落してゆくのもまだまだ恐怖が大きくて、

    生き方のモデルというものがひじょうにつかみにくい。かつての成功コースや大企業に

    しがみつこうとしても、管理社会的呪縛はとてつもなく窮屈でツマラナイものだ。それでも

    旧来のコースから脱落したり、落ちこぼれたする恐れもたまらなく大きい。たしかに社会と

    いうものはひじょうに保守的でなかなか変わらないものである。信頼や信用といった本質的

    な人間の間柄を失うことはいつの時代でも避けなければならないことだ。


     わたし自身は会社や労働主義といっものをひじょうに嫌ってきたので、職業生活はかなり

    アバウトな遍歴をくり返してきた。人間らしい、自分らしい生き方をしようとしても、最終的には

    職業に依存しなければならないわけで、いろいろ苦労はたえなかった。一方では読書とか

    ものを考えることとか自分の好きなことに没頭することができたが、やはり世間一般の人同様、

    脱落することの怖れも強かったといわざるをえない。勤勉主義を捨てて、自分の好きなように

    生きるのはやはり難しいものである。でもじっさいに毎日のくり返しである会社勤めは自分

    のなかでは価値観が崩壊しているから、やはり耐え難いものであるが……。


     日本人はまた分岐点に立っているのだと思う。これまでどおり勤勉に会社や国家のために

    働くか、ビンホーや不安定のなかに自由や自分の好きな生き方を見出すか、といったことだ。

    たいていの人は勤勉にしがみつくと思うが、はたしてこのコースに夢のある未来を創造する

    力があるのか、多くの人々を吸引するような魅力的なヴィジョンはあるのだろうか。


     自由な生き方にはもちろん堅実さや安定なんかまず望むべくもない。自由で好きな生き方

    をしているから、そういうゼイタクなものは得られないと観念するしかない。そしてそういう

    不安定に甘んじるしかない生き方が歴史的には当たり前のことであって、戦後の50年間の

    なにもかも保障が必要だという考え方は異常ではなかっただろうか。この社会的救済のため

    にわれわれ日本人はゆとりや安らかさといったものを失ってきたのではないか。あまりにも

    「カタブツ」すぎる社会はわれわれに生きる気力と楽しみを奪ってしまったように思えてならない。


     価値崩壊の時代を生きるのは一筋縄ではゆかない。どういう人生コースが成功したり

    有利であるといったことは一概にはいえない。そういう不安定なものは捨ててしまって、

    自分の好きなように自由に生きればいいといいたいところだが、価値観が変貌する社会に

    おいてもそれがどれだけ許容されるかは難しいところだ。


     たいへんにわかりにくい世の中になったということだ。われわれはこのような時代をどの

    ように生き抜いていったらいいのだろうか。まあ、変化を楽しみ、過去をなつかしがらずに

    いさぎよく捨てる、苦悩や傷は捨てる、といった基本的な処世訓を守るしかないだろう。    


     わたしにはこれまでの価値観が崩壊するということは、(バラ色の未来か陰鬱な未来かは

    べつにして)、これほどまでにめでたいことはないのだけれど――。あれほどまでにしっかり

    していたと思われた価値観やあこがれのエリートがぼろぼろと崩れ去ってしまえば、

    もう笑うしかないだろう。みんなが祭りあげていた価値観なんて、しょせんは幻想にしか

    過ぎなかったということを露呈する、これほどまでに魅力的な時代、瞬間というものは、

    めったに出会えるものではないのだから。





        職業生活に自由はあるのか

                                                 1999/6/20.






      自由を知らない者は井の中の蛙と同じである。想像力がまったくない。



     サラリーマンには自由がない。人生が時間に縛られ、自由の可能性すら想像できなく

    なってしまう。もしかして晴れた日には空の下で遊ぶことができたかもしれないのに、

    もしかして気分が優れない日には一日中眠ることができたかもしれないのに、そういった

    自由はまったくない。仕事や会社が王であり、主人であり、君主であり、われわれは奴隷

    であり、臣下である。


     こういった機械的反復の毎日に慣れ切ってしまうと、おおよそ可能性も選択肢も思い浮か

    ばなくなってしまう。想像力をまったく失ってしまう。現代のたいていの人はそういう奴隷的

    な生き方、存在のありかたに慣れ切ってしまい、自分が人生の主人公であること、自由な

    行為の主体であること、そうありたいと願うことすら、ありえなくなってしまった。恐ろしいくら

    い想像力が失われてしまっている。


     われわれは自分の人生の主人なのである。そして自由に行為や思想、人生を選んでよい

    はずである。だが現実のわれわれはなんの疑問も抵抗もなく、産業的社会へと呑み込まれ、

    機械的反復をくりかえす人間へと製造されていってしまう。


     現代における自由とはいったい何なのだろうか、ほんとうにありうるのだろうか。われわれ

    に与えられている自由は消費選択の自由であり、職業選択の自由くらないものである。

    おおよそ時間のなかの行為の主体でありえないし、自由な主体でもない。自由は時間の

    なかの行為の選択にあるのではないか。自由に時間をつかう可能性に自由があるのでは

    ないか。労働者に与えられた自由な時間はほんのわずかな休日に消費選択の自由が与え

    られているだけであり、ほかの大半の時間はわれわれの自由の手にはない。


     われわれにはまやかしの自由が与えられている。産業社会の自由とはあくまでも産業

    社会内においての限定された自由である。自由というよりか、拘束された管理された生で

    ある。消費選択内での自由であり、残されたわずかな休日の自由のみである。われわれは

    人生の大半において、自由な行為の主体ではない。産業社会での拘束された生が、われ

    われの一生である。


     これほどまでにわれわれの生の自由が奪われたのはなぜか。自由より、消費や地位、

    職業、生活保障といったものが大事になったからだろう。われわれは職業やモノや生活の

    安定のために自由をまったく捨て去ったのである。当然といえば当然のことである。自由より

    生活の糧や明日の生活の安心のほうが大事である。そしてわれわれはその安心や欲望の

    ために今日の時間的自由のまったくないがんじがらめの人生を産み出すにいたったわけで

    ある。職業や金銭がわれわれの自由をかぎりなく凌駕してしまった。あとは囚われの城壁

    から出ることが死よりも恐ろしい脱落にも思えてしまうようになったというわけである。


     そのような生活のなかでわれわれはまったく自由を想像する力を失った。自由なんてもの

    の可能性すら考えられなくなった。そういうことを考える輩は、マジメではないのであり、

    不謹慎なのであり、怠け者と考えられるようになった。自由の可能性はみんなで寄って

    たかって土中の中に埋められてしまったのである。自由に生きる者は、人々のやっかい者

    になった。ヘンな話しである。自由はみんなで寄ってたかって排斥するものになったのである。

    この国の人たちは自分の自由を求めないというビョーキな人たちばかりだ。フリーターや

    海外放浪、アマチュア・ミュージシャンをやっている人ならだれだって知っている。ここは

    北朝鮮かいな……。


     たしかにもっと現実的な頭に戻せば、自由に生きることなんかまず不可能である。職業を

    得たり、職務を忠実にこなすためには、勤勉実直に生きることがまず求められる。企業や

    世間の要請や要求どおりに生きなければ、たちまち食いっぱぐれるかもしれない。現実の

    重みにたいして自由なんて言葉はまったく夢想者の白昼夢でしかなくなる。たしかにそう

    なのだろう。自由なんか夢想していたら、就職面接で侮蔑されるのがオチだ。


     ただ自由の想像力だけは忘れないでほしい。もしかしてわれわれはもっと自由に生きられ、

    自由に行為していたかもしれないのだ。そういった自由がわれわれにあったかもしれないと

    という可能性だけは覚えておいてほしい。




     (自由について書いてみたら、現実からまるで乖離したポエムを書いている気になった(泣)。)





         幸福の「歯止め」論

                                                  1999/6/22.






    現代という時代は、人生目標や人生コースという枠組みはしっかりとあるのだが、どうも

   そこから幸福や充実感はもう得られない感が強い時代である。そしてその人生コースから

   どうもがいても逃れられないという時代である。


    カネやモノがいくらでもほしいという時代はおそらく終わったのだろう。代わりに老後保障や

   生活保障はいくらでもほしい、なくなったら不安でたまらない、という時代なのだろう。おかげ

   でモノがある豊かな時代になっても、いっこうに働くことがやめられない。われわれは将来の

   不安という十字架を背負って恐れおののいているわけである。


    人類というのはいつの時代も将来のことを不安に思ってきた。かつての貧しい時代にはきょう

   あしたの食うや食わずで精いっぱいだったわけで、そんな高級な心配なんかもできなかった。

   また子どもや家族という扶助保険があったし、いざとなれば寿命でお迎えがきたわけだし、

   姥捨て山という最期もあったわけだ。貧しい時代には貧しい時代なりのセーフティ・ネットが

   あったし、また運命や悲運を受け入れる覚悟もあったのだろう。


    現代は国家がそういう不安を一手にひきうけた時代である。老齢年金に健康保険に失業

   保険に、こんどは介護保険と……。こう保障が増えてくるとこんどは不安や心配のほうが

   肥大化してくる。どんどん保障を増やしたために逆に心配で心配でいられなくなったというわけ

   である。心配は心配をよび、保障は保障をうみ、そして国家財政はパンクという結果を迎える。

   ちかごろでは企業年金も同じ運命をたどり、終身雇用という会社仲間の幻想も共倒れだ。


    ある種の集団は参加することの幸福やお得をうたい、そしてそこから外れることの恐ろしさ

   を洗脳して肥大化してゆく。恐怖と安心の循環過程がはじまるわけだ。でもそこにあるのは

   安心にほどとおい恐怖と不安の増大と、集団への依存心の肥大ばかりである。戦後は国家

   と企業がこの役割を一身に背負い、それへの過剰依存と異常献身をひきおこし、さいきんでは

   新興宗教がその役割をひきうけようとして失敗した。かつてのキリスト教でも免罪符といった

   サギ商法をおこなうほど救いは異常に安っぽいものに転化していたのだろう。


    ここにあるのは、人間の恐怖と安心の心理過程である。それが組織や集団に拡大された

   わけである。そしてさいごには恐怖は安心の構築物を崩壊させるというわけである。


    われわれはこういった安心のマインド・コントロールというものを解く必要があるのだろう。

   たしかにわれわれには何十年か先の時代や事情がどうなっているなんかわかるわけなど

   ないので、安心や保障がほしいものである。ただどこまでも際限なく保障や安心をもとめる

   というのは間違いである。どこらへんに歯止めを設けるか、どこらへんで満足するか、

   それを決めたら不安はそのときにゆずるといった強い精神も必要だと思う。人間は将来の

   安心をどこまでも求める生き物なのかもしれないけど、これまでの会社人間の過労死や

   終身雇用の崩壊、国家財政の破綻という現実を見ていたら、異常な献身や依存をもらたす

   前にどこかに歯止めが必要だと思えてならない。


    こういう怖れに極端な歯止めをかけた人たちというのが、仏教僧や隠遁者、ストア哲学の

   人たちである。そういう結果をもたらすのはとどのつまり、欲望や望みであるわけだから、

   それを捨てて心の平安に生きろといった。明日の心配なんかするな、といった。明日のこと

   なんかどうなるかわからないのが当たり前であり、自分の望みどおりコトが運ぶわけなど

   ないのでよけいな心配をせずにいまを生きろということである。


    まあ、はじめからあきらめていたら苦悩することもないというわけである。失敗を先取りする

   ということである。ただこれには強靭な精神が必要である。中途半端にこういう精神をもってい

   ると後で失敗だとか落ちこぼれだとか悲壮な恐怖感を背負わなければならなくなる。自分の

   選んだ道にそうとうの覚悟と度胸が必要なようである。


    この不安の裏返しとして、どこまでもとまらない幸福や成功の望みというものがある。これも

   不安と同じでどこまでもふくらんでゆくという性質があり、かつ同時にどこかほかにある、わたし

   はまだ得ていないという移り気なもののようである。あっちにほしいものがある、それを得れば

   すぐに飽き、またほかのものがほしいといった具合である。幸福というのはわれわれが信じて

   いる限りではハエのようにすばしっこく、カエルのように飛び跳ねてゆくもののようである。


    戦後の人たちの幸福というのは豊かになることであった。学歴を得てよい会社に入り、

   より高い地位や収入を得て、車やマイホームを買い、雇用保障や老後保障がばっちりと

   なされていることだった。でもそういうのを得てみてもあまり充実感がないし、なんだか

   満たされないという感がひとしおではないし、だいいち多くを望んだがゆえに束縛と呪縛は

   とてつもなく重荷になった。あれもこれもほしいといろいろなものを拾っていたら、気づいて

   みたらクモの巣にがんじがらめだったという哀れな欲張りジイさんという姿は、日本の昔話に

   教訓のためにひとつつけ加える必要があるだろう。


    「幸福はのちに呪縛をもたらす」ということだ。あれもこれもほしいと欲張ると拘束と束縛

   ばかりでちっとも身動きがとれなくなってしまう。しかも重荷はどんどん大きく、つらく、

   一時も手放せなくなるばかりである。その裏側に老後保障のような不安を貼りつけた幸福も

   あるわけである。学歴にしろ、生活費にしろ、老後保障にしろ、車や豪邸の維持費にしろ、

   どんどん高くなってゆくばかりである。あれもこれもと欲張った最期にはやたらと高い維持費と

   ローンばかりがひたすら自分の人生の途上に重くのしかかるのみである。しかも欲のツラの

   はった中年男にはリストラ時代という不幸が襲ってくるわけだ。この文明の遺産――いや、

   莫大な借金を背負った子どもたちはこれを幸福だと見なせるだろうか。


    戦後の社会は幸福の大バーゲン・セールだった。だれもかれもが金持ちや社長や高級車、

   豪邸もちになれると宣伝しまくった。学校でも優秀になれば、成功できるとケツをあおった。

   国家が音頭をとり、マスコミが誇大宣伝した。みんなそれを信じてがむしゃらにがんばった

   わけだが、だれもが一等賞や天才や成功者になれるわけなんかないし、幸福の維持費と

   ローンはふくらみつづけるばかりだし、幸福や成功にあずかれないと思う人たちは自虐感と

   自責心をつのらすのみだった。幸福のバーゲン・セールは不満と劣等感の大量在庫を抱えて

   しまったのである。


    戦後の日本社会に歯止めの知恵はかからなかった。みんなが成功や理想に近づけるという

   のは大いなるウソであり、そんなのは現実には不可能である。一位の人間が十人のなかに

   ひとりしかいないように、成功する者や優秀な者は数限りなく少ない。マスコミにとりあげられ

   る成功者もひじょうに少ない。それが現実というものであり、落ちこぼれや脱落者はわざわざ

   自分を責めさいなむ必要なんかない。ヘンにみんながみんな幸福や成功を得られると誇大妄想

   する社会は人々をじっさいには不幸にするばかりだろう。


    というわけでわれわれには不安に歯止めが必要だったように、幸福や成功にもみずからの

   歯止めをかけるほうが必要なのではないだろうか。ここらへんの幸福でいい、ここらへんの

   努力と結果でいい、と一応の線引きはしておいたほうが賢明である。さもなければ、どこまでも

   得られない幸福にみずからを責めさいなます結果になってしまうし、幸福と不安の維持費と

   墓場までのローンに苦しめられるばかりである。稼ぎが少ないダンナを責めたてる主婦は

   いまいちどその意味を考えてみるべきだと思うし、あれもこれもほしいと思う若者は将来の

   ツケ払いの愚かさを考慮しておくべきだろう。


    まあ、あまり高望みや多くを望まないほうがいいということである。あれもこれもという人は

   いつまでたっても幸福も訪れないし、不安も去らないのだろう。バケツにフタをしないと幸福は

   もれてゆくばかりだし、不安はどんどん増えてゆくばかりなのだろう。


    幸福なんて人類何千年もの最大の難問なのだろうけど、あれもこれもほしいと欲張ったり、

   それが得られないから自分は不幸なんだとは嘆かないにしたほうがよいようである。

   そこそこの幸福とそれなりの安心で暮らしたほうがいいというのが人類の知恵というものである。






    参考文献

     このテーマの着想は、日下公人『新しい「幸福」への12章』(PHP研究所)から得ました。
     読みたい人は、絶版だと思いますので古本の大型店などで見つけてください。
     恐怖の防衛過程についてはクリシュナムルティの一連の著作(春秋社など)に負っています。


    ご意見ご感想お待ちしております!   ues@leo.interq.or.jp 




   関連エッセイ

     「生活保障という恐れが未来の牢獄をつくりだす」 98/8/4.

     「アンチ上昇志向!」 98/4/15.




      平成不況にたたずむアリときりぎりす

                                                   1999/6/29.





    働き者のアリと怠け者のきりぎりすという童話はそれなりの説得力をもってきたわけだが、

   現在の雇用崩壊の時代に来て、あまりうかつに信じられない話になってきた。どうもアリの

   ようにこつこつと働いていても、報われないようなのだ。もちろんわたしはあまり好きな話では

   なかったので、これ幸いと反論を加えたいと思う。


    だいたいアリは年中、活動しているに対して、きりぎりすは冬のあいだは卵をのこして死滅

   してしまう。それをアリのように備蓄しなかったからといって、きりぎりすを非難するというのは

   あまりにもむちゃくちゃだ。季節の活動のしかたがぜんぜん違う生き物を比較するというのが

   どだいムリなこじつけというものだ。冬に冬眠するカエルを掘り起こして、「怠け者!」と非難

   したってまるで意味がない。


    冬というのは生き物にとってはとてもキビしい季節で、こういうときには活動を中止してしまう

   のが多くの生物の戦略だ。爬虫類は冬眠してしまうし、哺乳類の一部もそうである。寒い冬に

   体温を維持するということは飛躍的に食糧を必要とするわけで、あまり効率的ではない。

   種の戦略として冬に活動停止してなにが悪いというのだ? 同じ土俵にひきずりだしてくる

   相手ではない。勝負がはじめからついているというより、そういう生き物なのである。


    もちろんこれは人間についてのたとえ話であるわけだから、人間界の話にもどるとしよう。

   アリはこつこつと勤勉に働くものの象徴であるわけだが、それだけでは評価されない時代が

   やってきた。逆にこつこつとやるだけで給料が増えてゆくのはお荷物だという時代になった。

   勤勉なアリはぽいぽいと捨てられるようになった。葉切りアリはきのこを栽培するアリの一種

   だが、死んでしまったアリを山のようなごみ場に冷酷に廃棄処分してしまうそうで、まったく

   このような光景が人間界にもくりひろげられている。


    またアリが象徴する勤勉さは、きりぎりすの音楽のような楽しみをつくらない。働きアリという

   のはじつのところ過去の楽しみの遺産を食いつぶして働くのであり、またゆえに未来の楽しみ

   や方向を食いつぶしてしまうのである。現在のような供給過剰の需要がぜんぜんない社会を

   つくりだしてしまうのである。きりぎりすはヴァイオリンを弾いて、人々に楽しみと方向を与える

   ことが必要なようである。アリの勤勉さは方向が決まっている時代にだけ通用するもののよう

   である。


    アリは冬に備えて備蓄するわけだが、このような計画的人生もかなり危うくなってきた。

   こつこつ貯めたものが将来何倍にもなって返ってくるという保証はないし、資産も値下がりする

   可能性もあるし、蓄積がかならずしもよいことだとはいえなくなってきた。何十年も先のことが

   かなり見えなくなり、どうなるかなんかわからない。先のことに備えるといっても、その先が

   どうなっているかわからないので、いまの貯えが役立つのかも損するのかもわからなくなって

   きた。明日とも知れないデフレ時代というのは蓄積すら、逆に危ういのである。ため込んだ

   ものも将来まったくなんの役に立たないということも現実的になってきた。


    アリのように将来の備えて貯蓄するというようなライフスタイルも心配になってきたわけだ。

   童話の意味はきりぎりすのような刹那的な享楽にふけるなということだが、将来の計画なんか

   建ちそうにもないから、刹那的に生きざるを得ないという時代がやってきたのかもしれない。

   何十年も先のことは人間には予測の限界を越えている。もうそうなったら、きりぎりすのように

   いまを楽しむしかない、明日の心配なんかしてもはじまらない、というようになるかしかない。

   きりぎりす的生き方は先行きのわからない時代には賢明なのかもしれない。(宗教ではいつも

   明日の心配なんかするなといってきた。明日のために今日を犠牲にするのなら、一生、人生を

   生きることができないのでいつの時代も賢明な生き方なのかな?)


    またこれからの時代というのは新しい楽しみや目標が求められる時代でもある。アリのように

   こつこつと生きようとする人たちが増え過ぎたために、どうも将来もとめられる楽しみや喜びが

   まったくなくなってしまった。きりぎりすはそういった人たちに音楽を奏でてやらなければなら

   ない。なんのために生きているのか、なにを目標に生きるのか、といったことをきりぎりす型の

   人たちは示してやらなければならない。人を楽しませたり、感動させたりできるのは、きりぎりす

   的な人たちだけであり、われわれはいまそういった人たちが必要なのではないだろうか。


    冒険と実験の季節が必要というわけだ。人間はアリのように働くだけでは満足しないし、

   楽しみや喜びを求める生き物である。そしてそのような楽しみがなければ、現在のような

   経済的衰退期を迎えるしかないようである。こういう時にこそ、将来に向かっての楽しみや

   喜びが模索されたり、創造されたりすることが必要なのである。


    アリのように働きづくめで生きるのは反省することが必要である。自分のことばかり考えて

   貯蓄ばかりに励んでいたら、経済的繁栄も人々の楽しみや目標も見出せなくなってしまう。

   きりぎりすは人々の心を豊かにし、将来の目標を与える豊穣さを抱え持っているのかもしれ

   ない。アリばかり褒めたたえる社会はモノばかりつくって貯蓄ばかりに励み、てんで人々の

   楽しみや喜びも与えられず、経済活動が冷え込むばかりではないのだろうか。きりぎりす的

   な生き方に日本人は学ぶ必要があるのではないだろうか。そういう実感が社会に芽生える

   ことが求められていると思う。


    平成不況はアリときりぎりすの立場を一筋縄でゆかない関係にした。アリのように働きつづ

   けて幸福になれるのだろうか。アリときりぎりすが双方的に補い合うことが、人間社会には

   必要なようである。このままでは冬になってアリは過労死どころか、備蓄すらできなくなって

   しまう。きりぎりすは夏に人々を楽しませる音楽を奏でなければならない。





     500万貯まったら、
         なぜ遊んで暮らさないのですか?


                                                  1999/7/2.





   人類のナゾである。500万貯まったら――ライフスタイルによって違うだろうが――少なくとも

  一、二年有余の生活には困らないはずである。それなのに現代の日本人は遊んで暮らさず、

  一生働きつづけ、もっともっとカネと叫びつづけている。一年もの遊ぶ金があるのにいっこうに

  仕事をやめようとしない。フシギである。インド人や近代以前の人たちなら、おおいに人生を

  楽しんだことだろう。


   しかも稼いだ金の半分ちかくはいわゆる雑費――生活費ではない消費や娯楽、教育費に

  つぎこまれている。逆転してしまったのである。生活をするための仕事から遊びや娯楽のための

  仕事へと。この転換はバブル時代にはじまり、高級品やレジャーに狂騒する人たちを見ていて、

  こいつらアホかいな、とわたしは思った。遊ぶカネがあるのなら、なにも働かなくてもいいじゃ

  ないか、と疑問に思ったものだ。


   ところがどっこい、一度生活レベルを上げてしまうとそのレベルから降りられないようである。

  そしてもっともっと働くことが必要になる。家賃にローンに電気代にガソリン代に旅行費にレジャー

  費に教育費に熟通いに保険に年金に……。もっともっと金が必要だ、稼ぎが足らない、もっと

  もっと働かなければ……というふうに地獄!の滑車が廻りはじめる。


   「働けども働けどもわが暮らし楽にならざる」と石川啄木(?)は嘆いたが、現代のわれわれも

  まったく同じ苦しみをなめている。働いても働いても労働から解放されないではないか……。

  いくら働いてもいくらモノをかき集めてきても貧乏という思いは拭い去らないし、将来や老後の

  不安はネズミ講的に爆増するし、教育やキャリアは何十年かかってやっと手に入るというありさ

  まだし……。いったいわれわれはどこから道を誤ってしまったのだろうか。


   かつて労働は苦痛や苦悩ではなかったのか。労働はできればやりたくなかったし、やらなけ

  ればならないとしたら、できるだけ早く解放されたいなにかではなかったのではないか。われわれ

  が一生懸命働くのは労働から解放された余暇を楽しむためであり、だからこそ効率や利便性を

  われわれは追求してきたのではないか。労働の先には働かなくてもよいユートピア!が夢想

  されたこそ、われわれはがむしゃらに働いてきたのではないのか。


   ところがどうもこの国の人たちはどこかで頭をしこたま打ちつけたようだ。働くためだけの仕事

  に終始し、カネを貯め、老後に備え、それでもまだ働き足りないようだ。労働が好きなのだろうか。

  かつてのように禁欲的な労働が神聖であり、神にいたる道であるといった宗教観がまるでない

  のはだれもが実感できることだ。ではなんのために働くのか。


   高圧的な労働強制の雰囲気が社会に充満しているからだ。働かなければ、たちまち食いっぱ

  ぐれてしまう、空白があったりキャリアがなければ不安といった恐れと、それを強制する企業社会

  があるからだろう。つまりクソまじめな24時間労働人間以外は人間と認めない、わが社には

  受け入れないといった暗黙の了解があったからだ。そういう社会の規範は経営者のみならず、

  ふつうの労働者や子どもを育てる主婦層にもあったことが、この国の異常さにつながっていた。


   この規範はいったいなんなのだろう? 経営者ならそういう発想をするのは当たり前かもしれ

  ないが、一般の労働者や主婦といった人たちまでそんな非人間的な発想を抱くようになったのは

  なぜなのか。おそらくそれがこの国の成功し過ぎた社会主義的洗脳なのだろう。みんながみんな

  みずからを労働ロボットになることを強制しあった。自由がなかった。ほんらいならもっと自由な

  生き方を求めるはずなのに、人々はまるでスターリンのように強制労働の精神を叩きこみあった。

  経済大国になるという夢、失業者のいない完全雇用の世界、健康や老後が保障された社会シス

  テム、そういった目的のためにこの国の国民たちはひとりひとりの精神や生き方を管理統制

  されたわけだ。ヒジョ〜に嘆かわしい、哀しい時代であったとわたしは思う。なぜなら自分の好き

  なように生きられない社会というのは強制収容所となんら代わりはないと思うからだ。


   こういう社会はまだ終わっていない。まだまだみんな、働くだけが人生であり、一生であり、

  そのために生きてきたのが人間だというふうに思い込んでいるようだ。自分たちが非人間的な

  生き方をしてきて、それを他人に強制しているなどとは露とも思わないらしい。哀れな、まことに

  哀れな、嘆かわしい国民である。いったいなんのために生きているのかわからない哀しい国民

  である。


   さあ、90年代からはこういった仕組みが崩壊をはじめた。稼げる人はもっと稼ぎ、稼げない

  人は落ちてゆくというシステムに変わりはじめようとしている。アメリカやドイツなどでは中流階級

  の没落がはじまっている。日本にそのような波が押し寄せてくるのは、成熟化社会の必然の

  ようである。多くの人がいまより貧乏に、恵まれない境遇に陥ることが増えるかもしれない。


   ただ、われわれはもう知ってしまっている。カネやモノがいくらあっても満ち足りないし、稼ごう

  と思えば、もっと忙しく立ち働かなければならない豊かさという現実をである。このような経験を

  へたわれわれが貧乏になるからといって、みんなが嘆き悲しむとは限らない。貧乏には貧乏を

  正当化する思想だってちゃんとあるし、そこにこそ心の平安や美徳があるとおおくの宗教は教え

  さとしてきた。マルキシストからは貧乏に順応させるイデオロギーだと叱られるかもしれないが、

  そこから逃れられない人たちにはおおいに慰められる思想ともいえるのではないだろうか。


   経済は成熟化してしまったので、これからは経済的に不遇を迎える人はおそらく多くなること

  だろう。どちらかといえば、これまでの成長時代が異常で、これからの循環的経済のほうが

  ふつうなのだろう。こういう時代には人から勤勉を強制されない、放っておいてくれる寛容な

  社会が訪れるだろうか。そこに労働から解放された生は芽生えるのだろうか。でもそこには

  貧乏や将来の計画のない刹那的な生き方を享受しなければならないという側面もあることは

  たしかである。こういう浮草稼業こそが、よい意味でも悪い意味でも人間らしい(?)生き方、

  なのだろうか……?


   労働というのは恐ろしいパラドックスがついて回る。働けば働くほどカネが必要になり、

  のぞんだ休暇やゆとりはますます遠のいてしまう。われわれはこういう悪循環に囚われて、

  まったく抜け出せなくなってしまった。なにを手放し、なにを得るべきなのか、われわれは労働

  がもたらすものについて考え直してみる必要があるだろう。




    ご意見ご感想お待ちしております!      ues@leo.interq.or.jp 



   関連エッセイ
   「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.



     投げ銭システムから開けてくる個人の文化

                                                  1999/7/7.





    投げ銭システムというのは、ホームページのコンテンツにたいして大道芸人のように価値

   あるとみなしたものに金を投げるというものである。これなら読者の方に判断する余地が

   与えられるし、アクセス即課金のような「恐ろしさ」もない。インターネットのすべてのコンテンツ

   が有料に値するとはとても思われないし、ペイする価値があると判断したものだけ、投げ銭する

   というのはひじょうによい仕組みだと思う。


    現在のところ、HPのほとんどは無料である。チラシや広報誌のような状態になっているわけ

   だが、投げ銭システムのような仕組みができれば、HP作成者はとても助かると思うし、励みに

   なる。インターネットのなかで個人も稼げるようになったら、コンテンツはもっと充実・拡大して

   ゆくはずである。雑誌や書籍、ビデオや個展といった形あるものを通さなくても、稼げる機会が

   できるというのは革命的なものになるだろう。


    もちろんわたしもHPを開設したときには少しでも稼げたらいいのだがと思っていたのだが、

   そういう仕組みはないし、ほかのHPのほとんどは無料でやっている。メール・マガジンという

   少々手間のかかるものでも無料でやっているというのは、正直なところよくそこまで無償で

   やれるものだとわたしはちょっとビビっている。これは趣味の交流であるから無料でいこう、

   というのが現在の趨勢なのだろうか。ということで開設以降、みんなにならえして無料でやっ

   てきたし、またアクセス数もめちゃくちゃ多いというわけではないので、分をわきまえて謙虚に

   やってゆくことにした。声をあげてHPを有料にすると宣言するほど、わたしのHPは優れたもの

   ではないと思うし、読者の方々の判断もわからない。


   その点、投げ銭システムなら読者の方々に判断の余地があたえられるわけだ。こんなの

  払う価値がないと思えば無視すればいいわけだし、これは払う価値があるとか、ビール代とか

  図書券代くらい払ってやってもいいとか、励ましに恵んでやろうとか、哀れだから金をやろうとか、

  そういった支払い価値を選択できるわけだ。価値に応じて後払いするわけだ。これはよいと思う。

  これくらいの金の流れる市場をつくったほうがインターネットは繁栄するというものだし、みんなの

  モチベーションになるだろう。趣味で稼げるというのは、たとえこづかい程度であっても、夢の

  ような話である。


   インターネットは是が非でも無料でなければならない、という人はいるかもしれない。趣味の

  交流であり、ボランティアであるというのがインターネットの基本だと思う人がいるかもしれない。

  そういう交流や側面は残しておいたほうがいいには越したことがない。ただこの電脳世界に

  少しでも金を混入すれば、とても活性化すると思うのだが。


   知識とか情報に金銭価値をつけるのはわれわれはあまり慣れていない。書籍とか雑誌とか

  ビデオというパッケージされたモノを通してでしか知識を買ったことがないからだ。しかし考えて

  みたら、書籍とか雑誌の中にある情報というのは無形のものである。われわれはこの情報と

  いう無形のものを書籍とかのパッケージされたモノで買うわけである。モノで買うときには抵抗は

  ないのだが、インターネット上の無形で流れる情報にたいしてかなり抵抗がある。ハコものだった

  らそれを手に入れるしか情報を仕入れる仕組みがないわけだが、インターネットは違う。どこまで

  いっても「無形」の情報であるし、水のようにいくらでも情報を得ることができる。


   これは難しい。われわれは無形のものは無料であるという観念に慣れ切っている。投資する

  とかの気持ちの転換が必要なのかもしれない。そのような投資の観念が情報の貨幣市場を

  回していったらしめたものだ。のちのちには自分に金が回ってくるかもしれないし、情報や知識

  の価値は磨かれ、いっそうの充実ぶりが見込まれるようになるかもしれないからだ。われわれは

  このような金の回り方を促進したほうが、趣味や芸術といった好ましい市場社会を産み出せる

  かもしれないのだ。


   演劇や音楽、映画、講演といった知識・情報は、空間の中に閉じ込めることによって見料を

  とってきた。これらも無形のもので水のようなものだったのだが、壁という遮断するものを利用

  して、知識にたいして金を払わせてきたわけである。場所代というかたちである。もし建物の

  ような障害やチケット規制といったものがなければ、だれでも遠くからでもタダで見ることが

  できる。以前、神社で「ヘビ女」とかいう催しをやっていて、あまりのくだらなさに「金返せ」と

  思ったものだが、こういう場所代をとる見世物の場合、先払いというリスクがあるわけだ。

  その中身にたいして払う価値があるのかどうか、入る前にはわからない。有料コンテンツの

  場合にはこういう危うさがあるわけである。


   TVやラジオは水のように知識や情報が流れている。支払う人にたいしてだけ映像や音楽を

  流すのはむずかしいわけだから、企業の広告費によって収入を得ている。これはとても不思議な

  仕組みだなとわたしはときどき思うわけだが、なぜならTVやラジオの大半は広告とは関わりない

  からである。スポンサーは太っ腹なのか、情報の大切さを認識しているからか、それともわれわれ

  は情報ではなく、その名を借りた広告に浸かり切っているだけなのだろうか。ケーブル・テレビ

  や衛星放送は専用チューナーによって制限している。テレビやラジオはタダだという感覚にすっ

  かり慣れ切っているけど、「ただほどコワイものはない」という言葉を忘れないようにしたい。


   ところで投げ銭といえば神社や寺院のお賽銭箱を思い浮かべるが、あれはいったいなんの

  ためにカネを払うのかなと思う。仏や神が守ってくれるためなのか、それとも自分の願を自分自身

  に言い聞かすためなのか、それとも神社寺院の運営費・維持費のためなのか。これも信仰なき

  者からしてみれば、無色透明の何もないものにたいしてカネを払っているように思えてならない。


   インターネットでは場所代もパッケージ代も頂くことはできない。それで知識や情報は水のよう

  に無料ということになっている。利用する側にしてみれば、これほどありがたいものはないのだ

  けれど、提供する側としてはいくらかの収入を見込めるということほどありがたいものはない。

  われわれは価値あると見なした知識や感動や喜び、興奮、有益、有用であると見なした情報に

  かんしては少しでも提供者になにがしかのお礼を差し上げるほうがよいと思う。情報や知識が

  どこまでいってもタダで手に入るというのは、かれらの労力、蓄積、貢献に対してあまりにも

  無頓着すぎるのかもしれない。


   投げ銭するに値するかしないかの判断はたしかにむずかしい。金をとるほどでもない個人

  HPや読んでも仕方がないという情報もネット上にはたしかにたくさんある。これらすべてに課金

  されるというのはサギというものだ。HPにだれも寄りつかなくなる。たとえば個人日記や個人の

  日常や趣味にたいして金を払う必要や価値があるとはあまり思われない。ただ、そういったもの

  でもプロ並みの情報価値や娯楽の価値もありうることもあるわけで、そこらへんの線引きはたし

  かにむずかしい。見る側の識別能力や金銭感覚、貢献意識やパトロン感覚といったものが

  必要になるのだろう。


   ネットに小額でも金が支払われるようになるとこの社会はとてもおもしろくなると思う。なにか

  おもしろい知識や情報を得たり提供することができれば、小額の稼ぎやまたは莫大な収入が

  見込めるような社会になるというのはとても期待できるものである。インターネットというのは

  もともと個人が企業や工場、流通機構といった大掛かりな仕組みを通さなくても、知識や情報を

  発信できるメディアであったわけで、小額でも金銭が得られるような仕組みをつくらないと

  てんで個人の暮らしや生活に貢献できない。ここからしっかりと収入を得られるようになって

  はじめて、インターネットは正規のメディアとなりうるわけだし、個人のおもしろみややりがい、

  社会の活性化や発展も見込まれるというものだ。


   新聞だってもともと道端やパブや喫茶店などで伝えられた事件や情報を紙面にまとめたもの

  である。口で伝えられる情報が金を支払わなければ得られなくなるというのは当時の人たちに

  とってはショックであり、信じられない話に思えたかもしれない。こんなので儲けやがってと思った

  かもしれない。だけどそのうち新聞は個人ではとても得られない、幅広い情報をもたらすように

  なった。小説や物語もはじめは人づてに伝えられていたものが、書籍というかたちで流通する

  ようになって金銭的価値が生まれたのではないだろうか。


   口づてに伝えられていたものが貨幣価値を獲得する。そしてそのことによって、その知識や

  情報は変貌をとげ、そのパッケージや場所に似合った内容のものへと磨かれてゆく。逆に金に

  なるからということで形式や内容はどんどんふくらんでいったのではないだろうか。たとえば、

  レコードは最初は人の声を録音していたらしいが、のちに音楽を録音するようになり、それが

  こんにちの巨大な音楽の遺産やマーケットを生み出すようになった。印刷機だってはじめは

  聖書とか論語とか崇高な目的に利用しようと思っていたのだが、人々の娯楽や情報のための

  道具となり、マーケットとなった。情報や知識はそれを大量に伝える機器とカネがくっつくことに

  よって巨大な文化現象や遺産をつくりだすのである。まあ、カネはその世界をひろげるための

  巨大な起爆剤になりうるといいたいわけだ。


   投げ銭システムというのはこれから多くのHPに用いられたらいいと思う。それがHP作成者の

  励みになり、ときには生活費になり、研究費や実験費になり、そしてもっと大きな業績と成果を

  のこすことになるだろう。だからわたしは投げ銭システムはこれからのインターネットと個人の

  文化や芸術的な才能や貢献をもたらすための重要なステップになると思う。個人にとっても、

  とてもおもしろい世界が開けてくるものだと思う。


   料金も百円とか五百円とか安く設定できるのではないか。新聞や書籍、ビデオのような

  大掛かりなパッケージ作製代とか流通費がてんでかからないのがインターネットの強みだ。

  新聞でだいたい百円ちょっとだ。あの情報にわれわれはそれだけの価値があると認めて買って

  いる。どちらかといえば、買わなければ情報を手に入れられないので印刷物を買っていると

  いっていいかもしれない。そういう情報の入手の仕方に慣れているわけだ。中身は同じ情報

  なのに、印刷物とかパッケージされたものには平気に金を払うというのは不思議なものだ。

  ただ、新聞や書籍にはそれだけの価値や評価が与えられているという事実はあるが。出版物

  でも編集者が商品価値があると見なしたものが売られているわけで、だからわれわれは

  安心してそれを買う。ネット上にもそういう選別装置が必要なのかもしれない。


   まあ、いまのところわたしは様子見だ。投げ銭システムをいきなり導入するのは時期尚早だと

  思うし、わたしごときのシロウトのHPにだれかがカネを払ってくれるというのか。もう少し人々が

  情報や知識にたいしての金銭価値を認めるようになるまで待っておいたほうがよいのだと思う。

  そういう時期がこれからの創造的な個人のために、早くきてくれたらいいんですけど……。
  



    ご意見ご感想お待ちしております!   ues@leo.interq.or.jp 



   リンク 投げ銭システム推進準備委員会 
        これは書評ホームページのひつじ書房というところでおこなわれている。




      ひたひたと忍び寄る経済の惨禍


                                              1999/7/11.



    見えないところで経済の惨禍はゆっくりと進行している。不況不況、倒産、失業と騒がれて

   久しいが、目に見えるかたちでその惨劇があらわにされることはまだ少なかった。それが

   大阪市内の公園でのホームレスの激増ぶりや、中高年者の自殺増とかの報道を見ていると、

   とうとう深刻な惨劇をもたらしはじめたと思わずにはいられない。


    98年の自殺者は3万人を越え、中高年にいたっては7割増ということだ。交通事故死は

   約1万人、過労死する人は約1万人。中高年の自殺で多いのは失業やリストラを理由にする

   よりか、債務問題が約半数を占めるようだ。おそらくギャンブルや消費で借金を大きくしたの

   ではなく、住宅ローン破産や経営問題などで行き詰まったものが多いと思われる。生命保険は

   支給開始を一年から二年へとひき伸ばそうと考えているそうだ。生命保険めあてに自殺する

   人が多いわけであり、そこまで追いつめられている状況が浮き彫りにされる。


    中高年の受難の時代である。受難どころではない、惨劇が襲いかかっている。右肩上がりの

   給料ベースアップでローンを組んだり、生活レベルを設定していた人たちには、寝耳に水と

   いった事態だ。とつぜんに登らされたハシゴを外されたようなものだ。給料は上がるものだと

   思われていたし、マイホームはみんなが買うものだ、好調なときの給料ならローンを払い切れる、

   あるいは不動産屋や銀行に後押しされて、かれらは住宅を購入し、教育費のかかる学校に

   子どもたちを進学させた。株価バブルだけではなく、生活レベルの幻想が弾けたわけだ。


    ここに起こっていることは、右肩上がりの時代と右肩下がりの時代との衝突である。給料減や

   倒産、失業といった右肩下がりの状況と、マイホーム、進学、消費生活という右肩上がり時代の

   虚栄と幻想の後始末を迫られているわけだ。だけどなにもかれらだけが悪いのではなくて、

   世間や社会がそのように押しつけたきたし、むしろ生活のレベルアップは社会が歓迎、後押し

   してきたものだ。そういったツケがいま、個々人の肩に――とくに中高年に集中的にあらわれ

   ている。いったいだれが悪いというのだろうか。


    産業というのは必ず個々人と敵対するものだ。われわれの幸福を願ったり、慮ったりする

   慈善団体とはまちがっても勘違いしてはならない。たとえばかなり極端に言えば、医者は

   みんなが病気や病人になることを願うものであり、建築業者や土木業者はすべての建物や

   道路が一昼夜に壊滅してくれと思っているのであり、クレジット会社はみんなが所得では

   支払われない虚栄や分不相応の生活をしてくれることを願うのであり、生命保険はみんなが

   万が一の事故や病気を必要以上に恐れてくれと願っているし、電気産業界は商品にすぐに

   飽きたり、すぐに商品をつぶしてくれ、等々と(ほかにあげれは切りがないほど)願っているの

   である。


    産業や商業とはじつのところ、こういうものなのである。われわれ個々人の利益や幸福を

   願っているのではまるでなく、かれらの利益と貢献にしか関心がないというものだ。その根底

   には悪意や悪魔的な願望があるというのが産業者の――残念ながら――真意というもので

   ある。個々人は善人や良心的であっても、市場や産業の利益というのは究極的にこういうこと

   を目指しているわけだ。だからわれわれは産業がもたらすものにあまりにも軽はずみに信頼を

   おくべきではないし、いつも警戒の念をしのばせておくべきなのだ。産業が利益をあげるのは

   どこかに異常な偏りがある証拠であり、異常な状態であると考える方が妥当だ。


    この不況下においてクレジット会社は最高の利益をあげているという話だし、人が死んだら

   生命保険がおりるというなんとも不吉な商売のために自殺者が急増している。ローンやリストラ

   のために家を失ったり、貧困な生活を強いられている人が多くいる中でクレジット会社は利益を

   あげ、多重債務やローン破綻におちいった人たちは、みずからの命とひきかえに生命保険を

   手に入れる。こういった事態がいまひそかに進行している。父を失い、あるいはこのために一家

   離散の状態におちいった子どもたちはいったいこれらのことをどう思うのだろうか? 


    自殺者3万人とか自己破産5万、失業者何百万とかの数字ではかれらの苦悩は見えてこ

   ない。だけどかれらのひとりひとりがいま、追いつめられ、責めたてられているのである。

   その苦悩や苦痛はいったいどのようなものなのだろう? このような状態がいま、人知れず

   進行しつづけている。テレビや雑誌ではなぜかあまりそういうことをとりあげていないが、

   これからもますますこういった人たちが増えつづけてゆくことだろう。そしてそれはつまり、

   生産者にたいする消費者の割合を減らすということであり、経済がますます冷え込むのは

   まちがいない。


    中高年の自殺増には最近の中高年をじゃまものあつかいする風潮がまたその傾向を助長

   させているそうだ。会社からは給料が高いうえに働かない、利益に貢献しない、下の世代から

   は過去の障害物や老害だとつきあげられ、リストラされ、家庭でも離婚、世間の女子高生との

   かかわりですっかり「エロ・オヤジ」という下品なイメージを定着させられたし、会社の外に出て

   みれば、まったく転職先がない。


    かれらはまったく罪のない、時代の断絶に翻弄されたかわいそうな人たちなのか、あるいは

   のちの世代から総スカンを食らうほど、既得権益やカネをふりまわしつづけた哀れなハダカの

   王様だったのだろうか。わたしにしてみれば、会社人間化と会社文化しかつくらなかった、

   たしかに腹立たしい人たちではあったが、おそらく時代の強制と要請という要因もあったことだ

   と思う。いちばん高いハシゴに登らされたこそ、どこにも着地点を見出せないのだ。


    給料の賃上げや福利厚生などの権利を主張するばかりではなく、もう少し早く余暇時間の

   拡大を狙っていたら、情報社会や余暇文明の進展も見込まれて軟着陸も可能だったのでは

   ないかと思うのだが、カネに目がくらんだ人たちには成功の陥穽が見えなかったようだ。

   産業界の利益に絡みとられて政治と官僚は個人を殺しつづけ、創造と独創が必要な時代への

   路線転換をみごとに怠ったのである。個人が殺されていたら、つぎの時代の夢も希望もふくら

   まない。あとは国家とともに没落してゆくいっぽうである。


    多くの中高年たちには家族や子どもたちがいる。中高年の危機はその家族や子どもたちの

   危機でもある。この人たちが会社から放り出され、転職先もない、ローン破産、ホームレス、

   自殺といった目もあてられない状況ばかりに陥るのは大きな問題だ。これからますますそう

   いった人たちが多くなってゆくのもたしかだろう。わたしたちの身の回りでも家を追われたり、

   貧困に陥ったり、自殺者が出たりすることに出くわすこともあるだろう。


    なんとかならないものなのだろうか。もうこれは非常事態である。市場原理だけに任せて

   いてはますます悪くなるばかりだろう。だけど緊急用に土木工事とか非熟練的な雇用を

   大量に創出することはかなり難しい時代だ。ワーク・シェアリングによって雇用を増やすとか

   かなり根本的な雇用創出策が必要なのだろう。一刻も早くそのような案がおこなわれることが

   のぞまれる。傷は大きくなるばかりである。


    経済的惨禍はひたひたと個々人の生活や家庭を侵しはじめている。いまのところそんなに

   目に見えてこないが、このままでは確実に何年か先にそのような状況に陥る。そのようなこと

   になったとき、われわれは経済やこの社会についてどのように思うようになるのだろうか。

   経済的困窮と惨禍、没落の時代である。ヤケになるのか、もっとがんばろうと思うのか、それ

   ともただ経済の変化に脅えつづけるだけなのだろうか。


    ただ嘆いてばかりいてもはじまらない。生活が苦しくても、みょうな羞恥心や世間体とかを

   もたなかったら、けっこう楽しく暮らせるものだし、それなりの自由や喜びも得られるだろうし、

   工夫もするものである。返ってカネや仕事ばかりに追い立てられない生き方が実るかもしれ

   ないのだ。そういった心の転換ができるのなら、これからの社会はとてもおもしろいものになる

   に違いない。経済的格差がひろがる社会はある意味では自由に生きられる社会でもある。

   これがカネや平均、世間体に追われないほんとうの心の豊かさ、成熟というものである。





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   関連エッセイ

   ホームレス激増とジョブレス社会に思う 99/6/5.

   一年前のエッセイ 「平成不況について思うこと」 98/6/20.




       60年代対抗文化への郷愁

                                                1999/7/23.





    現代のわれわれには抜け道がない。ビジネスや金儲け主義にいや気がさしたと

   しても、ほかに頼る生き方や集団がない。既成宗教や新興宗教にもあまり親近感が

   ない。しかたがないから会社組織に属するしかなく、不満が蓄積されるいっぽうだ。


    そういった不満からわたしはいろいろな本を読むようになったのだが、いつもひきつ

   けられたのが、だいたい60年代あたりのカウンター・カルチャーの本だ。このころの本

   というのは、既成社会にたいする批判やアンチ・テーゼの宝庫のようなもので、わたし

   の興味のそそる本がごろごろと出てきた。


    あまりくわしくはわからないが、ヘルベルト・マルクーゼやエーリッヒ・フロムなどの

   社会学者、アドルノやホルクハイマーといったドイツ・フランクフルトの哲学者、そのころ

   によく読まれたカール・マルクスといった人たち。また、ビート・ジェネレーションやヒッピ

   ーなどのジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、リチャード

   ・ブローティガンといった人たちもいた。ボブ・ディランも入るのかな。


    わたしは60年代の後半に生まれたのでそれらの時代のことはまったくわからないの

   だが、とくにこれらの時代に魅きつけられた。多くの文学者や哲学者、若者たちが反体

   制文化を標榜し、既成社会にたいする反抗や攻撃をくわえた。わたしが育った超保守的、

   体制順応的な社会や若者からはとうてい信じられないくらいの批判精神をもっていた。

   だからそういった批判精神を学ぼうと思えば、この時代の本を読むしかなかったわけだ。


    なぜこの時代の人たちや若者はこれほど反抗的になることができ、そして現代の

   われわれ若者はこれほどまでに体制順応的になってしまったのだろうか。不満や不快

   でならない。現在の若者はこの社会に対する不快感や矛盾、反抗心といったものを

   まったくもたないのだろうか。それとも60年代の青年たちの革命や運動がわれわれの

   時代を超保守的なものにしてしまったのだろうか。


    60年代にどのようなことが目指されたのかよくわからない。それらの時代に書かれた

   本を読んでみても、なんだか内実的なことがよくわからないというのが正直なところだ。

   社会主義的な革命がめざされたのだろうか。この日本においては、官僚主導型の計画

   経済や会社が福祉をうけもつ会社主義がおこなわれたわけだから、そういった意味では

   成功といえるのだろうか。それにしても現代の人たちはなぜこう超堅実・保守的・体制

   順応的になってしまったのだろうか。


    ジャック・ケルアックはビート・ジェネレーションの中心人物だが、『路上』という本は

   わたしにとってはおもろしくもないし、あまり意味のわからないロード・ノベルにしか

   思えなかった。ギンズバーグは読んでいない。論理的な説明にひざをぽんとたたくよう

   な明晰な文章を好む私にとっては詩というのは相性が悪い。ウィリアム・バロウズは

   支離滅裂、奇想天外、エグイという形容しかできない一冊を読んだのみだ。ブローティ

   ガンはほんわりとした小説を読んだ。


    この年代の文学というのは魅かれるのだが、あまり意味もわからないし、おもしろい

   という代物ではない。ただ反抗や対抗というカルチャーがバックボーンにあるから、とて

   もひきつけられる年代ではあるが。アメリカの文学全体というのにも魅かれるのだが、

   そりゃあ、アメリカが日本の先を行っているからだと思うが、60年代あたりのアメリカ

   文学というのは意味のわからないのがつぶぞろいだ。トマス・ピンチョン、ジョン・バース、

   ジョン・アップダイク、ドナルド・バーセルミ、その他もろもろ。


    アメリカ文学ではわたしはほかにヘミングウェイやスタインベック、アンダースンと

   いった人たちが気に入ったが、とくに30年代の大不況を生きたオーキーたちを描いた

   スタインベックの『怒りのぶどう』が好きだというのは、いまの日本がその恐慌時代に

   近いというのはひじょうに皮肉なことである。


    アメリカのビート・ジェネレーションやヒッピーといった反体制、反物質文明といった

   ムーヴメントはもうほとんど姿を消し、いまではかろうじて文学や詩にその痕跡をのこす

   くらいだ。インターネットにはいくらかHPがあるらしいが、大きな社会現象になるまでに

   いたっていないことはだれでも知っている。かれらはどうして消えてしまったのだろうか。

   また、さしてビジネス・消費文化に影響を与えなかったのだろうか。ヒッピーというのは

   いったいどんな文化的遺産をわれわれに残してくれたのだろうか。


    ビートやヒッピーはたしかにアメリカ西海岸に禅や仏教、東洋宗教をひきいれ、いま

   ではトランス・パーソナル心理学といった成果をうみだした。鈴木大拙やインドのグル

   たちがたくさんカリフォルニアに流れ込み、そのおかげでいまではケン・ウィルバーや

   スタニスラフ・グロフ、ラジニーシ、クルシュナムルティといった人たちの優れたセラピー

   の著作を読むことができる。ベストセラーのリチャード・カールソンはこれらの影響をうけ

   ている。思考や理性を信奉するのではなく、それらを捨てたところに平安や幸福を見い

   だすというのは、心の健康にとってはものすごく効果的なものである。


    ビートやヒッピーは30年ほどかかってこのような成果を生み出したが、主流のビジネ

   ス・経済社会にはほとんどカウンター・パンチを食らわせられなかったようだ。そのことが

   わたしには無念でならない。かれらがもう少し反物質主義、反経済主義を実らしていた

   ら、わたしたちはもう少し幸福に生きられていたかもしれない。パーソナル・コンピュータ

   はカウンターカルチャーによって生み出されたという話も聞いたことがあるが、これらを

   結びつけるのはちょっと強引な気がしないでもない。


    エーリッヒ・フロムは産業社会の人間の病理というものを鋭く抉り出していて、『自由

   からの逃走』『人間における自由』の二著作はわたしにとても衝撃を与えた。日本では

   よく読まれているらしいが、社会の主流になにがしかの影響を与えているようには思わ

   れないのが残念だ。マルクーゼは新刊書を手に入れるのはすこし難しく、残念ながらわ

   たしはまだ読んでいない。ホルクハイマーは『理性の腐蝕』だけが手に入ったが、あま

   り印象にのこっていない。アドルノは読んでいない。


    60年代というのはよい時代だったと思う。多くの人たちが自分たちの社会にたいする

   批判精神や反骨精神を燃やしていた。それがこんにちではだれもが超堅実・保守的に

   なってしまっている。いっぱんの人たちの不満や鬱憤が世論にまでのぼってくるという

   ことはほとんどない。ただただ、会社にこきつかわれ、この企業社会のなかに順応して

   ゆき、埋没しているばかりだ。いったいどうしてここまでおとなしくなってしまったのだろ

   うか。われわれにはこの社会に対するいら立ちや不快感をまったくもたないのだろうか。

   働きづくめのただ労働と企業だけの人生になんの矛盾も不満も感じないのだろうか。

   消費やマス・カルチャーのうわっつらで欺瞞的な世界になんの違和感もストレスも感じ

   ないものだろうか。


    ここまでおとなしくなった日本人の対比として60年代はとても人間らしい時代だった

   と思う。現代の日本人は信じられないくらい、従順で奴隷的である。かつての日本人は

   もっと反抗的であり、正直に生きていた。愛しき怠け者であった。江戸時代には一揆や

   打ち壊し、伊勢参りやええじゃないかといった運動を再三おこし、自らの怒りや衝動に

   正直な心をもっていたはずだ。ある程度の反抗や反省があるほうが人間らしいという

   ものであり、社会の矛盾や病理も是正されたというものだ。


    60年代の精神と人々はいったいどこに行ってしまったのだろう? 混乱や騒乱に陥れ

   るだけが60年代としたらおおいに問題ではあるが、健全な批判精神、懐疑といったもの

   は誤った道に踏み外しがちな社会にとってはおおいに必要なものであると思う。


    アメリカにとって60年代は黄金の繁栄期という40〜50年代を通り越したあとだったが、

   日本にとってはまだ上り坂の時代であった。ゆえに人々にとっては気分だけがやってき

   て、ファッションとしての反体制文化が花開いたように思われる。しかしいまの日本は

   80年代の繁栄とバブルという狂騒の時代を通り越した。はじめて頂点を経験したわけだ。

   だからそういった体験からはじめてあの時代の批判精神の意味がわかるというもので

   はないだろうか。


    それにしても日本の人々および若者は信じ難いほど、おとなしく、順応的である。

   このふ抜けぶりはいったいなんなのだろう。


    しかしこれから時代は変わる。企業は人々を放り出し、終身雇用という約束は会社

   さんの一方的な都合で遺棄、政府も会社や人々を守らない時代に入った。自由に生き

   ろ、そのかわりハイリスク・ハイリターンですよ、知恵の時代ですよ、と危機感ゼロの

   日本人の耳に馬の念仏の呪文をとなえている。日本人はあいかわらず、ぽか〜んと

   これまでどおり変わらないだろう、いままでどおりの生き方でいいやと思っているよう

   である。


    官僚と企業と学校ががっちりと手を結んで、日本人をそのように訓育してきたのだ

   から、日本人が急に独創的に生きられるわけがない。みんなと同じ、みんなに習え、

   という強迫観念が社会のすみずみまで巣食うこの日本社会に、独創的な勇気をもて

   る人がいったいどのくらいいるというのだろうか。人と違えば、組織や集団から受けい

   れられないというこの社会にどれだけ独創的で創造的な生き方がのぞめるというの

   だろうか。


    まずはあの60年代の批判精神を学ばなければ、変わるものも変わらない。現状に

   満足しているもの、違和感も感じないものは、なにも新しいものを生み出さない。批判

   や懐疑が草の根にあって、はじめて社会は変わるというものである。これまでの成功者

   や権力者、多数者といった人たちはみずからに向けられる批判の刃をうけとめられるだ

   ろうか。





    豊かさとは、働かなくてよいことではないのか


                                                1999/7/26.




    豊かさとは、働かないでよい暮らしを手に入れることではなかったのか。しかしわれわれの

   社会ではどうも違うらしいようだ。年々忙しくなり、ますます働いてばかりいて、しまいには過労

   死だ。働き過ぎをやめようとしたら、みんなが怒り出して一人前ではないとか人間ではないとか

   ふまじめだとかいって、白い目で見る。まるで戦時中の「非国民」と同じあつかいだ。


    働き過ぎがひとつの至上命令になってしまっている。働きつづけることが人間の義務であり、

   責任であり、生涯であるようだ。では、なんのために働くのか。目的も目標もない。意味や価値

   なんてものもない。ただ働かなければならないから、働かなければならないのだ。思考停止に

   陥った日本人にはもはや目的地も意味も理由もない。戦争拡大に陥ったあのときと同じように。


    成熟したヨーロッパ人やアメリカ人には働いて金が貯まったら、ヴァカンスや休暇を楽しんだり、

   引退して人生を楽しもうという大人の生き方がある。しかし日本人はそれがないばかりか、

   そういった生き方を白い目で見る。ただ働きつづけることが、宗教的使命や社会的徳といった

   崇高な目的のない風土の社会において、強制されつづけている。


    豊かさをただ金をたくさん貯めることやモノをたくさんかき集めることだと日本人は勘違いした

   ようだ。これでは切りがないし、いつまでたっても満足感もないし、働き過ぎがやめられない。

   そもそも目的がイカレている。人間の幸福をこんなことに設定したら(個人の幸福ではなく、

   国家権力の拡大だった?)、いつまでも目的は達成されないし、幸福感はまるで味わえないし、

   働き過ぎはいつまでたってもやめられない。


    豊かさの目標を見失った日本人はいま踊り場に立たされている。いや、もっとずっと前、10年

   や20年も前にこういった問題につきあたったはずである。金をたくさん貯めること、モノをたくさん

   集めること、そういった目標には満足しなくなっていた。そういった時代には土地や株などのそ

   れ自体は目的ではないマネーゲームに狂奔する結果になる。株や資産運用が盛んになる社会

   というのはもうすでに成長や目標がなくった時代の証拠である。


    そういった時代になっても日本人には豊かさというのがほんらいは何だったのかということが

   わからなかったようである。いや、そもそも考えたり、問いかけたりすることもできなかった。

   思考停止状態どころではなく、脳死ジョータイである。お香をあげたいくらいだ。


    はたして世の中は平成不況という長いトンネルに入った。個人消費がこれから盛り上がるか

   はむずかしいところだが、長期的に見てわたしはもう以前のような大ヒット群はしばらくはない

   と見ている。階級は富裕層と貧困層に二極化するといわれている。成長経済が終わり、循環

   経済や成熟化社会とよばれる段階に入ったのだから当然だろう。リーディング産業や花形産業

   がその富を回して、ほかの業界も潤すといったことがむずかしくなったのだから、富に与かれな

   くなる人も増えるというものだ。


    金をたくさん貯めたり、モノをたくさん集めることが豊かさの目標だと思っている人たちには

   たまらない時代だろう。あるいはマジメな会社人間とかよい会社に属することが自分のアイデン

   ティティに必要な人たちにはとってもたまらないことである。深刻で、恐ろしい先行きしかない

   未来に思えるかもしれない。


    しかしよく考えてみたら、ほしいモノもほとんどない時代なのだから、そう脅える必要もない

   はずである。むかしのようにテレビやクーラーや冷蔵庫やマイホームといったほしいモノがほ

   とんどなくなってしまったのだから、べつにそんなにシャカリキになって働く必要はないという

   ものである。


    こういう時にこそ、もう一度考え直してほしいというものである。豊かさとはほんらいなにを

   意味したのかということを。金やモノに囚われていたらわからなくなるが、働きつづける人生

   ほど貧しい生き方というのはないのではないだろうか。われわれはいつの間にか、働くこと

   だけが富への近道だと思っていた。だけどいつまでいっても働くことから降りられない。これっ

   てまったく岩を上げては落とすシーシュポスの神話と同じではないだろうか。


    豊かさの定義を見直すべきである。あるいはなんのために働いているのかということを

   考えなおすべきである。われわれは働くための労働だけに毎日を追われている。これは

   豊かさとは程遠い。貧困という言葉はあたらない。人生の貧困であり、労苦と苦痛の連続

   だけである。目標や目的がまちがっている。


    豊かさとは働かなくても暮らせる有閑階級のことではないのか。労働から解放された毎日、

   働かなくても暮らせる生活を豊かさというのではないのか。それをほんとうの意味での豊かさ

   と呼ぶのではないだろうか。


    仕事から解放されることを豊かさと定義するのなら、われわれの目標は明確だ。どうすれば、

   働きづめの毎日から解放されるかということが豊かさへの道しるべだ。できるだけ金で買える

   楽しみや喜びは排除してゆき、いかに貨幣に巻き込まれない楽しさや喜び、豊かさを見出すか

   ということがわれわれの楽しみになり、好奇心になり、自己表現になり、そして文化になる。

   まあ、ヒマつぶしが文化を生み、芸術や思想という高級で高尚なものを生み出すというわけだ。

   産業や商業が生み出したつくりものの享受文化ではなく、われわれ個々人の文化創造力が

   花開くというわけである。


    働かない豊かさを手に入れるには現下の社会ではいくつものハードルがある。現在の働き

   過ぎのドライブは老後生活への恐れによって引き起こされているといっても過言ではない。

   また富裕と貧困という金とモノによる優劣基準というものが現存しており、その劣位におかれる

   恐怖というものがある。またあまり働き好きではない怠け者という評判や履歴を得ると、企業

   組織から受け入れられないという恐怖もある。


    これらの恐怖がわれわれから、ほんらいの豊かさへの接近を遠ざけている。わたし自身も

   これらの恐怖にすくめられて、働かない自由という欲求と衝突しあっている。そしてやはり正直

   なところ、生活のために働きづくめの貧しい毎日に帰っていかなければならなくなっている。


    だから願うのは、多くの人が豊かさというのはカネやモノをたくさんかき集めてくることでは

   なくて、労働から解放された毎日であるということに気づいてくれることだ。多くの人々がそう

   いった豊かさを目指すようになると、社会も方向を変えてゆくだろう。わたしは人々が少しでも

   早くそういった意識をもつようになることを心から願っている。


    豊かさというのは、働かなくても暮らせることである。労働から解放されることである。


    金やモノをいくらでもかき集めようとすると、そういった毎日はぜったいに手に入らず、

   働きづくめの貧しい生涯だけが待ちかまえている。だからわれわれは労働の解放を豊かさと

   見なすのなら、カネやモノで得られる豊かさというものに適当なところで歯止めをかけることが

   必要になる。老後への保険とかカネで買える自由を際限なく求めていたら、どこまでいっても

   働きづくめの生涯から逃れられない。豊かさの目標を定義しなおそうと提言するゆえんである。


    これからはカネと労働からとき放れたところにある、自由と豊かさを目指すべきである。それ

   こそが人間らしい生き方と豊かさというものである。




        年齢差別について考える


                                                  1999/7/31.




    求人の年齢制限はほとんどが25才か30才くらいまでである。これって、いったいなんなのだ

   ろう、と思う。30才以上、40才以上の募集はひたすら少ない。いま、この年代のリストラや失業

   がかなり多い時代なのにこの募集ミスマッチはいったいなんなのだろう? 自殺やホームレスが

   増えてゆくのも当たり前というものだ。


    年齢制限はなぜなされるのだろうか。これって考えてみたらヘンなものだ。20代しかウチの

   会社にいらない、というのはどういう理屈によるものなのだろうか。20代の若者にしか仕事を

   覚える柔軟性や能力がないと思うからなのか、それとも年功序列のわが社では新入社員は

   20代でなければならないと思っているからなのか、逆にいえば、中高年者はもう仕事が覚え

   られないカタイ頭をしていると思っているからなのか、また新入社員が年上だったら扱いにく

   いと感じるからなのだろうか。


    おいおい、そうだとしたら実力主義・能力主義という宣伝は全部ウソっぱちなのか、サギ商法

   なのか? 実力が年齢で測れないのは当たり前であり、年齢制限を設けている会社はウチは

   旧態依然とした年功序列でやってゆきますと宣言しているようなものだ。そしてほとんどの企業

   が年齢制限を設けているというわけである。


    日本の社会では年をとるごとにエラくなるという常識がなんとなくあった。年上や先輩には

   従順にという不文律があった。学校やクラブ活動なんかでは先輩と後輩の上下関係がもの

   すごくキビシーところもあった。年が上だけでなんでそんなにエラくできるんだとだれでも疑問

   とか不条理に思っただろうが、そういうジョーシキが日本にまかりとおっていた。先輩にイジメ

   られた下級生は下級生イジメという遺伝性質をうけついで成長していった。幼児虐待の無意識

   的な遺伝とまったく同じ構造である。


    これを日本文化の歴史だとか中国の儒教の影響だとかほざく輩もいたが、これはまったく

   日本経済のある時代の特異な性質でしかない。高度成長には年功を遇するほうがマッチして

   いたというだけの理由だ。高齢になれば、体よく引退や定年だとかいって経済社会から

   捨てられてきたではないか。また昨今では高給の中高年から先にリストラされているというの

   は文化や歴史からは説明できない。


    われわれはこの日本社会において年齢制限という圧力をあちこちで感じる。20才になったら

   なになにをしなければならない、25才になったから結婚や家庭をもつことを考えなければなら

   ない、中高年には部下や部署をもつ地位にならなければならない、といっただいたい何歳に

   なったからなになにをしなければならないといった圧力や常識としょっちゅうぶつかる。


    そしてそういう判断や基準を与えているのはいつも企業であるということに気づいているだ

   ろうか。30才くらいまでには定職を定めていないと転職できなくなる、女性は25才や30才と

   いう大台にのるごとに社内にいづらくなる、といった年齢差別を与えるのはいつも企業だ。

   そしてそういう制限や圧力を与えるのは、企業の人事を構成する人たちやエライさん――つま

   りオヤジたちがわれわれの年齢行程を勝手に決め、基準づけ、牛耳ってきたというわけだ。


    かれらはいったいどういう判断基準をもって年齢ふりわけをおこなってきたのだろうか。

   おそらく自分たちの時代の旧弊な価値判断で測ってきたのだろう。かれらは社会や時代の

   常識や規範によって判断したと思っているかもしれないが、独断と偏見のなにものでもないと

   というのは時代の変化の速さからうかがわれるというものだ。そしてわれわれはそれによって

   転職状況や市場価値が決まってしまうから、しかたなくそれに従わざるを得なかったとという

   わけである。


    年齢基準というのはわれわれの人生を自分で組み立てるさいにはかなり重要である。

   そういう年齢判断をかれら企業に握られてきたわけである。なんとなく不快だなとか、自分で

   自分の人生を決められない閉塞感、年を経るごとに年齢的プレッシャーが強まってゆくのは、

   そういうところにあったというわけである。


    年齢制限とか年齢差別というのは軽視すれば痛い目に会う。われわれはこれらの年齢に

   達するごとに社会的プレッシャーを味わう。何歳までに職を固めろ、何歳までに結婚しろ、

   家庭に入れ、何歳までにうんぬんという選択基準は見事に企業に握られてきたわけだ。

   企業はここまで個人の自由や選択に侵入してもよいものだろうか。年齢で人をふりわけると

   いうことはものすごい独裁権力ではないのか。企業は年齢選別という巨大な暗黙の権力を

   もっているわけである。


    アメリカでは「年齢差別禁止法」という法律が30年も前からあるそうである。就職面接のさい、

   能力や業績以外の年齢などの質問をしてはならないという法律である。年齢は能力といっさい

   関わりないと割り切るのがすばらしい。日本に必要なのはいうまでもないことだ。年齢差別と

   いうのは能力を測っているわけではないので、人種や性別、家族によって差別することとなんら

   変わりはない。日本の企業はべっちょりねっちょりと個人の人生選択を縛りつけるべきではなく、

   あくまでも業務を中心としたドライで大人の関係になるべきだ。


    それにしてもなぜ日本では年齢差別に反対する声は上がってこなかったのだろうか。女性

   差別にたいする雇用機会均等法は施行されたのに、年齢差別反対はぽつぽつ聞くにしても、

   法律にまではならなかった。年齢差別によってトクをしてきた人が(年功賃金などで)おおぜい

   いたからだろうか。年上を偉くするのが当たり前だという意識が根強いからだろうか。でもそう

   いう旧い意識のままでは、中高年がおおぜいリストラされる現状において大迷惑な思いこみ

   でしかないだろう。大きな変化が起こっているのに旧態依然のままでは救いがないというものだ。


    日本にも年齢差別禁止法を導入するべきである。中高年の再就職先を確保するためには

   ぜひ必要というか、緊急に求められるものだ。雇用促進には短期的な雇用創出をおこなうよりか、

   構造転換が必要である。また年齢差別が撤廃されれば、われわれ個人も企業に人生の選択を

   牛耳られない自由を手に入れられるというものだ。


    これまで日本の企業はわれわれ個人の手とり足とり人生行路の選択を強制してきたわけ

   だが、これは大迷惑というものだ。企業が暗黙のうちに転職の禁止や結婚の強制などをまち

   がってもしてはならない。また定年制を年齢差別だとして撤廃できたなら、個人の働く/働か

   ないの自由な選択も可能になるかもしれない。もちろんいろいろ問題はあるかもしれないが、

   年齢差別禁止法とそれにたいする意識を高めることがわれわれに必要なのだろう。


    もし現在の求人が30才までという枠組みがなくなって40才や50才になってもいくらでも

   転職先があるのなら、われわれの人生ももっと自由になるというものだ。バラ色だけでは

   ないだろうが、将来に希望はもてる未来になる。少子化・高齢化社会にも対応できるという

   ものである。




      幸福のパラドックス――欠乏なくして幸福はない


                                                   1999/8/9.





    「一切の不幸は欠乏から来るのではなくてむしろ過剰から来る」

    これはトルストイの言葉だが、まさに現代社会にぴったりの言葉だ。豊かになって過剰に

   モノがあふれる現代は幸福になってしかるべきなのだが、まったくそういう実感がない。逆に

   むなしさややり切れなさ、鬱積というのはどんどん貯まってゆく感じがする。


    この言葉をうけて中野孝次はこういっている。「苦痛があって不安があり、窮乏があって満足

   があり、病いの苦しさがあって健康の有難味がわかるというパラドックス。苦悩なくして幸福は

   ない」(人生を励ます言葉』講談社現代新書)


    つまり欠乏があるうちは幸福や満足を感じられるのだが、過剰になるとたちまちそれらは失

   われ、目的感の喪失と行き場のない不満が蓄積されることになる。不思議なことだが、過剰は

   不幸をもたらし、欠乏は幸福を生み出す母であるようだ。胸に刻んでおくべきだろう。


    われわれは一応豊かな社会に行き着いたのだが、幸福感も満足も目的感も失われてしまった。

   欠乏が満たされると逆に幸福や満足がまったく感じられなくなってしまう。われわれはこういう

   状態のなかでたまらないやり切れなさを感じている。もうここから降りることも逃げることもほかの

   生き方を選択することもできなくなってしまった。ただただ、過去の亡霊に呪縛されたかのよう

   にもっともっと富を蓄積しようとしている。


    インディアンのポトラッチのように蓄積された富を破壊、蕩尽してしまうような人類の知恵や

   制度といったものをわれわれは持ち合わせていない。祭りやカーニバルのような蕩尽の機会も

   ない。われわれはせいぜいギャンブルや消費によって富を散財できるのみだ。社会的・制度的

   に本能や衝動を解き放つ方法を知らないとわれわれはまたもや戦火による富の一掃を無意識

   に望むようになるのかもしれない。昨今のバブル崩壊や経済の下り坂はわれわれのそういう

   本能が無意識に望んで引き寄せたものなのかもしれない。破壊することによって欠乏を生み出し、

   そのことによって幸福感や目的感が与えられるというわけだ。


    われわれの社会は食べ物やモノの窮乏を補うことから、社会レベル全体のアップをめざして

   きた。みんなや隣近所がもっているからもたなければ、という欠乏感に押されて生活レベルの

   アップを図ってきた。つまり平均やみんなのレベルから落ちることをたまらなく恐れてきて、その

   原動力がたぐいまれなる経済成長をもたらしてきたわけだ。欠乏の基準はいつも平均であった。

   こういう競争をしているうちに生活レベルはかなり上がっていったのだが、維持することやコスト

   はたいへんなものである。


    しかしそこからだれも降りることはできない。なぜなら平均より落ちることをだれもが恐れる

   からだ。軽蔑や劣等のラベルを貼られることをだれもが恐れる。そうして維持費やコスト、疲労

   はどんどん高まってゆくばかりなのに、この競争からいつまでも降りられず、やめることもでき

   ない。われわれはこのような地獄の滑車に囚われたまま、苦しみつづけている。べつにありが

   たみも喜びもさして感じられないカネやモノ、仕事に縛られつづけている。


    われわれがふたたび幸福をとりもどそうとするのなら、全体的に社会の富を破壊することが

   必要なのだろうか。あるいは個々人がもたない生活、またはもてない生活へと脱落してゆく

   しか方法はないのだろうか。欠乏のなかにこそ、幸福と目的はおおいにあるというわけだ。

   さいきん、貧窮旅行やヒッチハイク旅行が流行しているのは、欠乏のなかには明確な目標が

   あるからなのだろう。


    過剰と富は人間に目隠しをしてしまう。なにをしたいのか、どこに行きたいのか、なにがほしい

   のか、まったく目標を見失わせてしまう。富や生活を維持することがなによりもの目標なのだ

   が、それだけは不満や鬱積がたまる一方で、知らず知らずのうちに破滅的な事件や自害を

   ひきおこしてしまう。欠乏なくしては本能が働かないわけだ。不況や経済的脱落というのは

   無意識のうちにわれわれが欲してしまうものなのかしれない。それらは頭で捉えると失敗や

   挫折のなにものでもないのだが、幸福や喜びをもう一度見つけるための試みなのだろうか。


    われわれはもう一度欠乏のなかに見を置くことが必要なのだろうか。そうしなければ、自分

   のやりたいことやほしいものがてんで見えてこない。われわれは仏教者や老荘思想、キリスト

   教者のような清貧の生き方をめざす必要があるのだろうか。ただ現代では劣等者になることや

   脱落することへの批判や軽蔑、タブーといったものはものすごく強い。われわれはこのような

   閉塞社会のなかでどのような道を選びとるべきなのだろうか。


    欠乏自体はかならずしも幸福ではない。それはやはり不幸なことであるし、みじめで悲しい

   ことでもある。だが、そこにはよいモノを手に入れたり、たくさん食べ物を食べたいという明確な

   目的、そして手に入れたときの喜びがあっただろう。わたしにはわからないのだが、昔の人たち

   がテレビや自動車、クーラーを買えたときのうれしさはひとしおでないものがあっただろう。


    社会の活力や文明のパワーといったものもやはり欠乏にさらされているときにはいちばん

   力と魅力をもつものである。そして富に囲まれ、都市化が進展するうちにしだいに人々は貧弱

   化してゆき、周辺のパワーある「野蛮人」たちに滅ぼされてゆくのが文明の運命といったもの

   のようである。


    われわれは過剰にみたされた社会でどのような道を選びとるべきなのだろうか。いきなり

   戦後の焼け野原のようなカタストロフィを再現することはもうできない。でも昨今のバブル崩壊

   による1000兆円にものぼる富の消滅や個人の自己破産などを見ていると、われわれは無意

   識下に欠乏状態=カタストロフィをのぞんでいるように思えてならない。われわれはほんとうの

   ところ、富の破壊=ポトラッチをのぞんでいるのだろうか。欠乏のなかのイキイキとした活動や

   明確の目標がふたたび戻ってくることをのぞんでいるのかもしれない。


    欠乏はほんとうにどうってこともない、つまらないことでも、ものすごくありがたい、うれしい

   喜びに変えてしまうものである。食べる金がないときの焼き肉やフルーツなんてものはもの

   すごくおいしく感じられるし、金がないのには一生懸命働いて貯めた金でほしいモノを買うとき

   の喜びもひとしおではない。しかし現代のようになんでもかんでもかんたんに手に入るような

   時代になれば、ちっともうれしくもありがたくもない。


    欠乏をどんどん削ぎ落してゆけば、ただ健康であること、五体満足でること、生きているだけ

   でものすごい感動とありがたみを感じられるようである。じつのところ、そういった感動が人間に

   とっていちばん大切であることを古今の宗教家たちは語ってきた。なんにも過剰にモノがなくて

   も生きているだけで幸せであるというのは、なんと手軽なことか。人はこういう身近で基本的な

   ことにはいちばん気づきにくいものである。これが不幸のはじまりというものである。モノがあふ

   れた機能的で効率的な社会をのぞむというのは、みずから不幸をのぞんだもののようだ。


    最後に究極の欠乏からの幸福を詠った詩を引用して終わりにします。

    電車の窓の外は
    光にみち
    喜びにみち
    いきいきといきづいている
    この世ともうお別れかと思うと
    見なれた景色が
    急に新鮮に見えてきた

    この世が
    人間も自然も
    幸福にみちみちている
    だのに私は死ななければならぬ
    だのにこの世は実にしあわせそうだ
    それが私の心を悲しませないで
    かえって私の悲しみを慰めてくれる
    私の胸に感動があふれ
    胸がつまって涙が出そうになる
                                高見順『詩集 死の淵より』





   参考文献(というよりか、ほとんど引用文献です)

     中野孝次『人生を励ます言葉』 講談社現代新書

   ほかに破壊や蕩尽の快楽のために秩序やタブーはあるという栗本慎一郎の『パンツを
   はいたサル』(光文社カッパサイエンス)も参考になります。



          職業貴賎と軽蔑


                                                 1999/8/21.



    あまり気分のいい話ではないし、いまの社会ではタブーなのだろうけど、わたしは仕事や

   働くことにたいして、みじめさやあわれさを感じてしまう。街中でいろいろな働く人たちに出会う

   のだが、ついついみじめさを感じて目をそらしてしまう。いったいなぜなんだろうかと思うが、

   その不可解な感情について考えてみることにする。


    これはまったくわたしひとりだけの特別な感情なのだろうか。たぶんそうではないと思う。

   わたしの感情や思いの多くは社会やマスコミ、親、知人といった人たちから刷り込まれ、

   まったく独立孤立でつちかわれたわけではないはずだから、ほかの人も同じようにこのような

   感情をもつと思う。


    職業の貴賎を論ずることはこんにちではタブーになっているが、自分の感情を省みてそういった

   感情がないという人はまずいないだろう。ある種の職業を軽蔑したり差別したり、または優越や

   羨望を感じるのがうそ偽りない心情というものである。羨望するのは流行や花形産業であったり、

   大企業であったり、華やかな職業であったりする。軽蔑するのはその逆であるわけだ。人はこの

   ような基準をもってある企業や仕事に群がり、選択するわけである。


    このような職業貴賎やランクがあるためにわたしにはすっかり仕事をみじめやあわれと感じる

   心性ができあがったのだと思う。ふつうだったら人はそのように軽蔑されることを恐れて、その

   エネルギーを利用して優越や勝つことを目指すものである。しかしわたしの場合、軽蔑だけが

   肥大したようである。そしてそのような軽蔑のまなざしをわたしは恥じているし、また自分の

   仕事へのみじめな気持ちを拭い去れない居心地の悪さを感じている。


    職業の貴賎、ランクといったものは自分のアイデンティティを決定する重要なものである。

   人が一流大学や一流企業に20年近くもかけて競争するのはその恐れがあるからだ。哲学者

   の内山節は人から軽蔑されないために人は競争し、勝つことは優越感をもって人を軽蔑する

   ことであるといっている。つまり勝ち負けというのは優越と軽蔑の奪い合いというわけだ。


    勝つということは人を軽蔑するために努力することだという言葉はかなりキツイ言葉である。

   スポーツやなにかの競争に勝つということは負けたものを軽蔑することであるというのは、

   勝利を無邪気に喜び、賞賛するものにはずいぶんショックな認識である。ほんとうに勝ち負け

   というのは、イコール優越と軽蔑なのだろうか。他人を軽蔑するためにわれわれは勝ち負け

   を競うのだろうか。だとしたら、われわれの人生の目的はあまりにも哀しい。


    わたしが仕事を軽蔑するような思いをもつようになったのは、おそらく職業貴賎の観念が

   あったからだと思う。あまりにも多くの軽蔑感をもったがゆえにたいがいの仕事にみじめさや

   やり切れなさを感じるようになってしまった。ひとつの仕事を選びとることは自分の人格の

   可能性の否定に思えてしまうし、たったこれっぽっちでしかないのかという思いも拭い切れない。

   モラトリアム的な心性と職業の軽蔑感がみょうに絡まってしまっているようである。


    できれば、職業貴賎とか軽蔑するまなざしというのを自分から拭い去ることができたならと

   思う。人々や仕事をランクづけ、順位づける色メガネは捨て去りたいと思う。もしこのような

   優越と軽蔑がなかったら、わたしの気持ちはずいぶん楽なものになっただろうし、自分のいる

   地位や立場に苦しむこともないだろう。


    そのような自明となっている順位や優劣の色分けを、ただの「観念」として、「虚構」として

   捨て去ることは可能かもしれない。そういった意味付けや固定観念をまったくなきものとして、

   ゼロとして世の中を認識すればいいのである。かんたんそうでもあり、ひじょうにむずかしい

   ものでもある。無意識に色分けされた世界を捨て去ることはひじょうにむずかしい。


    われわれはそういった色分けされた世界のなかで生きている。他人や世間がそのような

   まなざしでわたしを評価し、優越と軽蔑のまなざしでわたしを見なすことだろう。こういった

   評価づけのまなざしを、悟った仏教者のように無きものとして見なせたら、どんなに救われるか

   わからない。どんなに自分の心が平安になるかわからない。


    われわれはいやになるくらい優越と軽蔑の世界に生きているのだろう。職業から学力、知識、

   能力、容姿、人間関係、車、マイホーム、ファッション、すべては優越と軽蔑の秤にかけられて

   いる。そしてそのような価値観を固定的、絶対的なものと見なして、われわれは他人を軽蔑

   するために努力し、あるいは劣等感にさいなまされるというわけだ。


    このような嵐のような感情がなかったなら、われわれはみんなと同じ服、同じ家、同じライフ

   スタイルで満足できたことだろう。流行もなかっただろうし、市場の進歩もなかったかもしれな

   い。みんなは人と同じであることに満足し、優越したり特別でありたいという感情を発動させる

   こともなかっただろう。


    社会主義や平等主義というのはこういう人々の意識を抹殺して、それらの目標を達成しよう

   としたことに無理があった。人と違いたい、優越したいという気持ちは抑え切れるものではない。

   また社会主義が発生した時代というのは、貧富の差があまりにもかけはなれた時代であった。

   そういうときには人と同じでありたい、対等でありたいという願望が、優越願望より優るわけだ。


    いまはそういう政治的政策がいくらかうまくいき、人々があまりにも平等になったから、たいへ

   んつまらない時代になった。だからいま保護と規制を撤廃して、市場化による優越願望のとき

   放ちを画策しようとしている。


    優越願望と対等願望というのは人間のかなり根源的な欲求であり、それが流行現象をつく

   りだすといわれているし、歴史を動かしてきたものだといえる。ただわれわれはこのような感情

   のあやつり人形と化すだけでよいのだろうかという思いがある。人間はそのような感情にふり

   まわされたまま、競争や努力、あるいは優越感や劣等感にたえずさいなまされるのが、理性

   ある人間として正しい道なのだろうかと思う。それらの嵐のような感情に支配されるままで、

   人間の成長と成熟がありうるのだろうか。   


    このような感情とどのようにつき合えばいいのだろうか。人から軽蔑されたり、どこにでもいる

   ふつうの人と思われるのもいやだし、かといって人を見下すために努力したり、またその努力

   が企業や産業にうまく利用されたり搾取されたするのも腹立たしい。社会や世間の秤にかける

   まなざしをまったく無視して、優劣の感情や評価づけを自分の心のなかから捨て去ることなんて

   できるのだろうか。


    優越や軽蔑という評価づけを、つくり事として、絵空事として、解体できればひじょうによい。

   ひとつひとつそれを検証して、それがどれだけ虚構や絵空事でできているか、見抜けるように

   なれば、われわれはこの色メガネにさいなまされることはないということだ。


    このようなことは可能なのだろうか。まずは自分の軽蔑する心というものを点検しなければ

   ならない。この軽蔑という感情が多くの優越や評価、差別といったものをつくりだしている元に

   なっているものだ。この感情への恐れがわれわれを哀しき競争や努力へと駆り立てる。軽蔑

   という感情には気をつけろというわけだ。それを心のなかで固定化したり、絶対化したり、

   持続させたりしてはならないということだ。


    もしそれを捨て去ることができたのなら、世の中には案外、優越や軽蔑といった厳然として

   あるように思えた世界の分け方は、あいまいで幽霊のような存在だったと思えるようになる

   かもしれない。


    自分の心のなかの軽蔑という感情がいちばんの曲者なのだろう。もうひとつ言えば、世間

   とのフィード・バックがあるとしても、そのような感情をつくりだし、なおかつ強化しているのは、

   自分の軽蔑する心にほかならないわけである。







   優越願望と対等願望についての鋭く、ほかにまず見当たらない分析は、フランシス・フクヤマの
   『歴史の終わり』(三笠書房知的生きかた文庫)で読むことができます。ニーチェも探し出すのが
   たいへんだが、そういうことを語っている。

   リンクです。香子の日常という日記のなかの一ページ「職業の貴賎」 「職業の貴賎2」
   小学校でのザンコクな父親の職業蔑視についてひじょうにリアルに描かれている。そういえば、
   小学校のときのわたしはボケーっと生きていて、友だちの父親の職業なんてほとんど知らなか
   った。(わたしの父は小さな事業をおこし、社長の息子ということでけっこう自慢に思っていたと
   同時に、それを誇りにする父を軽蔑もしていた。でもそのあと事業は失敗し、貧困へと没落する
   ことになる。) 先生から職業に貴賎はないという話を聞いた覚えはあるが、自分のなかに職業
   貴賎の観念が歴然として育っていたことは、ほかの人もみな同様だと思う。



      自らの職業を肯定できないことについて


                                               1999/8/25.






    いまついている仕事を「仮のものだ」とか「いつか違う仕事をするんだ」みたいな気持ちをもって

   いる人は多くいると思う。その職業をどうしても肯定できなかったり、誇りをもてなかったり、自分

   と職業を同一化できなかったりする。「いつか必ず」と思っていても、なにがやりたいのかもわか

   らないし、やりたいことにどうやって手をつけたらいいのかわからないし、そういうふうにしてずる

   ずると時間をついやしてゆくことになる。


    わたしもこういう気持ちがひじょうに強くて、片時もその気持ちが離れたこともなくて、ふらふらと

   さまよいつづける職業遍歴をくり返してきた。もともと社会に出るときもそういった気持ちがひじょう

   に強くて、ひとつも魅力的な仕事もめぼしい職種も見つけられずにモラトリアム期間へと彷徨をは

   じめた。


    むしろひとつの職種に自分が限定されてしまうことがひじょうに恐ろしかった。人生の終わり

   のような、自分の価値はたったこれっぽっちでしかないのかと、心の底からわきあがる恐怖と

   いうか、恐ろしさを感じたものだ。これはいまでも変わらない。ただアルバイトなら仕事は片手間

   とかあくまでも仮のものという意識をもつことができるので、そういった恐ろしさと対峙することを

   避けることができる。だからアルバイトなら割合、どんな仕事でも平気にすることができた。


    こういった意識はいまどんどん広がりつつある。高卒者の進学も就職もしないフリーター率は

   都内23区で22%、全国で8%に達するそうだ。大卒のプータローで10万人。就職氷河期という

   背景があるにせよ、目的や目標もある人もいるだろうから一概にはいえないが、職業役割に

   否定的な人が増えているのだと思う。社会に出て就職しても転職する人はどんどん増えてい

   るのだから、こういう人はより多くいるはずである。


    わたし自身いまもってなぜこういう気持ちになるのかわからない。ひとつの職業に自分が限定

   されてしまうことをひじょうに恐れている。なぜなんだろうか、どうしてなんだろうかといつも思う

   のだが、納得ゆく答えを見出したことがない。こんなのでは立派な大人(?)になれないとか、

   生計費や将来の計画をたてられないというプレッシャーもいくらかはあるのだけど、どうも自己

   限定の終了というふんぎりや見切りがつかない。


    前回のエッセー「職業貴賎と軽蔑」で職業貴賎つまり職業侮蔑的なものがそのような気持ち

   にさせるのだというひとつの考えを出してみたが、この要素もいくらかあるのだと思う。カッコイイ

   仕事、羨ましがられるような仕事につけば、みずからの仕事を否定したり軽蔑したりしなくなる

   かもしれない。だいたいわたし自身はそういう仕事に程遠い職種についている。


    だけどそういう期待もすべて幻影だろう。憧れの仕事につけば不満はなくなるというのは、

   おそらく起こらないだろう。どんな仕事についてもそこにはランクや階層があって軽蔑感をいだ

   いたり、自らの仕事をさげずんでいる自分がいることだろう。


    けっきょく自分自身の捉え方や考え方が問題なのだろうか。職業の否定は職業のみでは

   なくて、自分自身そのものへの否定なのだろうか。自分自身がいつも満足できないということ

   なのだろうか。あるいは自分の頭の中に軽蔑や侮蔑する思考の習慣をつくりあげてしまったが

   ゆえにすべての物事をそのように見なしてしまうのだろうか。


    もしかして自己誇大症みたいなものなのかなとも思う。自分はもっと優れており、もっとよい

   仕事、もっとよい境遇に値する人間だと誇大した自我をかかえこんでいるのだろうか。自分の器

   や才能や頭脳の限界を知らずに分をわきまえずにもっともっとという誇大妄想をかかえもって

   いるのだろうか。自己愛とか全能感が肥大化したまま、わたしは現実との着地点をどこにも

   見出せずにいるだけなのだろうか。


    逆に現代というのは自己愛とか誇大自己をどんどん煽る社会である。もっと勉強したり努力

   したりすれば高い地位高い収入を得ることができる、この車に乗ればこのアイテムを身につけ

   ればあなたはもっとすばらしくなると妄想を煽りつづける社会である。そういった誇大妄想を

   吹聴しつづけているのがこの社会であり、われわれは人生の大半を――とくに最近の若者は

   マーケットの主役であるから――際限なくおだててあげられた消費者と過ごしている。こういった

   汚染のためにわれわれは天にも昇るような全能感や誇大自己を身につけてしまったのだろうか。

   そういった自己像をもっているのなら、働いたり、作業したりする矮小な自己は耐え難きもの

   に思えてしまうかもしれない。


    誇大自己がみずからの職業にたいする違和感や不満感を醸成するのだろうか。わたしは

   もっともっとデキル、可能性がある、もっとよい仕事があるはずだ、と思わせるようになるのだ

   ろうか。自分自身の感覚としては誇大自己というよりか、どんな仕事もみじめでみすぼらしい

   という意識がまず先にくるようである。逆にいえば、そう思うのはほかにもっとそうでない仕事

   があると思われているからそう思うのであり、やはり理想像がどこかにあるのだろう。そういう

   幻影や虚構をわたしは追い求めているのだろうか。


    わたしは自分のこの職業に対する恐れとどう向き合ったらいいかわからない。自分の不満や

   恐れはただ自分の身勝手や誇大自己から出たものなのか、それとも社会や時代になんらかの

   問題点があったり、過渡期であったりするからなのだろうか。自己限定を嫌う心性はだいぶ前

   からモラトリアム人間の拡大化という現象にあらわれているし、転職や流動化が盛んになる

   これからはもっと広がりを見せることになるだろう。こういう迷いはこれからもっと深くなってゆく

   のかもしれない。


    しかしモラトリアムをいつまでもつづけてゆくわけにはゆかない。あるいはモラトリアムの

   無意識の目的は自己の可能性を限定させてゆくこと――挫折へと導くことなのかもしれない。

   誇大自己の破綻をめざしているのだろうか。夢が醒めるまでわたしは彷徨をやめられないと

   いうわけだ。


    しかしたえず自己否定や自己侮蔑にさらされているのはとても気持ちがよいものではない。

   職業を軽蔑ばかりしていたら、この貨幣経済のなかではとても食っていけるわけではない。

   どこでこの職業軽蔑を刷り込まれたのかわからないし、どのようにして自分のなかでその

   意識をつちかっていったのかわからないが、人様になにかを売ってでしか生計を立てられない

   現代ではこういった考えを転換させる必要がおおいにあるわけだ。


    小学校の先生のようにどんな職業にも価値と役割があり、誇りがあるという側面に目をつけ、

   その意識を強化してゆくことが必要である。わたしはほんとに職業のみじめなことや軽蔑する

   側面ばかり見ていたことを告白しなければならない。これではとてもまともには企業社会を

   渡ってゆくことはできない。


    そして見えない職業貴賎、つまり職業侮蔑をつちかうような社会ではこのような意識をもつ

   人がたくさん潜在していることは否めないだろう。ある種の職業を軽蔑するということは、

   職業全般にわたっての職業侮蔑の芽をはぐくむことになる。そしてそれはきっと自分自身の

   仕事にも向けられるし、そのような職業につかざるをえない自分への憎悪、否定をつちかう

   ことになるだろう。


    他人への軽蔑はかならず自分に返ってくる。それはまさしく自分自身の首を絞めることになる。

   軽蔑していたことが自分の身にふりかかってくることもあるだろうし、軽蔑の上に築かれた

   自己というのはひじょうに危ういものである。現代のわれわれというのは職業侮蔑の上に

   築かれた高い塔に住んでいる可能性がひじょうに高い。競争社会の勝つことや人より優れよう

   とする原動力はまさに軽蔑という感情にあるからだ。軽蔑や劣等感が社会を動かしている。


    いろいろな仕事の誇りや価値といったものをふたたび見出すべきなのだろう。偽善的教育の

   ためなんかではなくて、まさに自分自身の心の平安、人間の成長のために必要なものだと

   思う。できれば、わたしは心のこのような習慣を、遅まきながらであるが、かたちづくってゆき

   たいと思っている。


    どんな仕事にも誇りや価値があるということ、このようなまなざしをもつことはひじょうに大切

   だ。軽蔑のまなざしをもっていたら――たとえば大企業ではないとかホワイトカラーではない、

   かっこよくないとか華やかではないとか、そういったまなざしをもっていたら、自分の携わる

   どんな仕事も愛せないだろう。

   





    みなさんはどうですか? 自分の仕事に満足していますか、もっとほかにいい仕事とか
   ほかになにかあるはずだと思っていませんか? やっぱりそこには自分の仕事にたいする
   軽蔑とか侮蔑心をもっているのではないでしょうか。ご意見お待ちしております。
                          ues@leo.interq.or.jp




   誇大自己や自己愛についてのくわしい本はこちら。

   小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』 中公文庫
          『自己愛人間 現代ナルシズム論』 ちくま学芸文庫

   わたしも反省の意味もこめてもう一度読み返そうっと。



   リンクです。このエッセーのもとになったのは現在指圧鍼灸師をしておられるヒッコリーさんの
    回顧録です。自分の職業を肯定できなかったのは職業への差別心があったのだと気づか
    れる経緯はかなり迫真をおびています。多くの人がこんな心の傷を抱えているのだと思い
    ます。 「自らの職業を肯定できなかった」



    わたし自身の中の『ハマータウンの野郎ども』


                                                 1999/8/31.




    ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)は、学校に反抗的な少年たち

   がいかに労働階級の仕事についてゆくか、なぜ自ら労働階級を再生産してしまうことになるか

   ということを考察した本である。かれらは労働を無意味なものと見なし、労働への奉仕を極小化

   するために男らしいと見なされる手仕事についてゆくとされている。


    「現代の庶民の労働はすべてくすんだ灰色をしており、とくにどの職種で働こうと思い悩む必要

   はない、野郎どもはこころの奥底でそう見ぬいている。……労働それ自体に特別の意味や満足

   感を追い求めようとやっきになって努力するのとは別の方向を、反学校の文化はさまざまなかた

   ちで少年たちに指し示すのだ」

    「満足を得る前提としての労働にたいする自我の全的投入が、そもそも拒絶されるのである。

   労働と労働そのものへの期待感とは、ともに枠にはめられ、制限され、あたうかぎり極小化さ

   れる」

    「精神労働は貪欲にひとの能力を食いつくそうとする。精神労働は、まさに学校がそうである

   ように、ひとのこころの侵されたくない内奥へ、ますますいとおしく思われる私的な領分へ、遠慮

   なく入りこんでくる。……精神労働への抵抗が権威への抵抗と結びつくことは、少年たちが

   学校的な価値に反撥する過程で学びとったことなのである」

    「「現場で働くこと」や、この社会でからだを動かす側にまわることや、ある独特のやりかたで

   労働力を提供することは、たんに自己防衛のための消極的な選択ではない。それはむしろ、

   少年たちが学校で身をもって会得したものを積極的に肯定する行為である」


    おお、これはまさしく働き過ぎを嫌ったわたしが選びとってきた生きかたと同じではないかと

   思った。イギリスの労働階級の文化と同じ考えをしているなんて思いもよらなかった。そして

   その先に示される将来は現在のわたしがつきあたっている壁と同じものであることを知った。


    「だが、そう遠くない日に幻滅がおとずれると予測してもまちがいないだろう。反学校の文化も

   その一支脈である労働階級の文化は、一般に勝者の誇りに満ちあふれた文化ではないのだ。

   それは元来、妥協と開き直りの産物である。厳しくとげとげしい生活条件のなかで、なんとか

   最善を得ようとする工夫の産物である」

    「ゆるぎない自信に満ちあふれたこの一時期が、彼らのその後の長い人生を不利な方向に

   定める重大な選別の時期にあたっていること、まさしくこの事実に、労働階級の文化の、また

   社会の再生産メカニズムの、大いなる逆説が宿されている」

    「野郎どものいずれ味わう幻滅がどれほど苦いものであろうと、ひとたび選択し終えた労働者

   の人生はいかなる意味でもやり直しはきかない。職場文化の見習工時代がひととおり終わる

   ころ、すなわち、不快な環境で他者の利益のために骨身を削る生産労働の実情がよりくっきり

   見えてくるころ、かつて学校がそう見えたように、職場は監獄の観を呈しはじめる」


    反学校の立場はこのような終末に行き着かざるを得ないのだろうか。社会的上昇や精神労働

   にしか人間の楽しみや喜びはなく、そこにしか労働階級の救いはないというのは疑問である。

   労働階級の洞察や戦略はまったく失敗なのだろうか。たとえそうだとしても、労働や社会的上昇

   の意味なんてものは現代ではとうてい見つけにくいのだから、ほかの選択肢はありうるというの

   だろうか。


    日本の場合にはこのような労働階級の文化といったものはない。かつて一億総中流意識と

   よばれるまで社会的上昇や中流意識が信じられ、ほとんどの人たちが学歴と上昇という夢を

   やみくもに追い求めた。イギリス労働階級のように反労働の対抗精神を吸収するよりどころが

   ひとつもなく、だれしもが学歴と出世競争へとのみこまれていった。この異常さをだれもが問題

   に思っているし、その苦痛をも味わっているはずなのだが、だれもこの競争から降りられない。


    社会の表向きのイデオロギーに反抗的な文化や集団がほとんど皆無だからだろう。そういった

   意味では将来が閉ざされたり位階秩序に閉じこめられているにせよ、イギリス労働階級文化の

   存在はあなどれないだろう。少なくとも個人の能力不足や劣等感に帰着されない自負をかれら

   はもつことができるからだ。


    反学校の文化は学校のイデオロギーに懐疑をもっている。

    「……しかも、そうやって手に入るもの自体がまた、はなはだ意味に乏しいものであったとした

   ら! 対抗文化の価値観に照らせば、成績証明がもたらすものは掛け値なしの祝福ばかりとは

   かぎらないのである」

    「よりよい機会が教育によって創出されるということも、社会的上昇移動は基本的に当人の

   努力しだいであるということも、また、学校時代の成績がよければそれだけ将来の可能性が

   開けるということも、もとを正せば根拠のない一片の教育神話なのだ」

    「成績証明がその持ち主にふさわしい質の労働機会をもたらすという観念がもともと虚構に

   近いものだといえるだろう。産業労働の大部分は基本的に無意味だと野郎どもは考えている。

   現代のあらゆる形態の労働はすべて同質で選ぶところはないとする認識において、さらに、にも

   かかわらず公認のイデオロギーに同調して職務を生きがいとすることのむなしさを知る点におい

   て、ここでも少年たちの洞察はおおむね的を射ているのである」

    「全員が成功するわけではないという矛盾はけっして明らかにされないし、優等生のための

   処方箋を劣等生が懸命にこなそうとしても無効であるかもしれないことについては、学校は

   おし黙っている」

    「反学校の文化は少年たちの肩から順応への圧力と能力主義の重荷を取り除く」


    学歴社会というのは巨大な砂上の楼閣である。努力すれば報われる、成績がよければ社会的

   上昇がみこまれるといわれても必ずしもすべての人がその恩恵にあずかれるわけではないし、

   その先にある労働の無意味さや日常生活の荒涼さも考慮に入れられているわけではない。

   目の前の競争にはとりあえず熱心になるが、その先にあるものがはたしてすばらしく、だれに

   とっても切望するなにかであるとはとても思えないのである。われわれはどこまでもつづく砂漠

   のなかで夢想的な競争に魅せられているだけかもしれない。


    ハマータウンの野郎どもはこういう競争からさっと身をかわすことによって、そして一般的な

   価値ヒエラルキーを転倒させることによって、みずからの自由と自負を手に入れ、そしてそれは

   労働階級の再生産へと導かれることになるとこの著者は分析している。


    日本ではこういった対抗文化は育たず、だれもが社会的上昇の夢を見て、学歴競争と

   ワーカーホリックの病理はとどまるところを知らない。学校への反抗はすさまじいものがあるの

   だが、大人文化のなかにはそういう反抗の芽がまるでない。それがこの社会を生きにくくさせ、

   多様で自由な生を拒む要因になっているのだが、かつての反抗的な少年たちはどこに消えて

   しまったのだろうか。


    ハマータウンのように反学校の文化と労働階級の文化がつながっているとしたのなら、

   日本でも反学校の文化はりっぱにあるのだから、その先のつながりはどこに吸収されてしまっ

   たのだろうか。一億総中流意識というステレオタイプ像がそういった文化的結集をさまたげて

   ているのかもしれない。日本の場合、かれらは劣者や落ちこぼれという意識が強くて、表向き

   のイデオロギーを転倒させる自負や優越心をまるでもてないのだろうか。


    中学校時代の反学校の文化というのはほんとうにすさまじかった。わたしは80年代はじめの

   校内暴力が吹き荒れる時代に中学生として過ごしたのだが、勉強せずに教師とのケンカや

   もめごとに明け暮れる毎日がつづいたものだった。そういった不良学生は反体制のような文化

   をもっていたはずなのだが、かれらはこの職業社会のなかにどのように消えていったのだろうか。


    中学校というのは生徒同士が暴力的に階層社会をかたちづくる最初の社会であることを

   思い知らされた。一部の不良学生たちがわがもの顔で授業妨害や逸脱行為をくり返し、

   ほかの生徒たちはおとなしくじっと耐えながら、かれらのやり放題にビビリながら過ごすよう

   なところだった。かれらはハマータウンの野郎どもと同じように一時の優越感とともにこの

   社会での劣位とされる仕事のなかに消えていったのだろうか。


    ちなみにわたしは不良学生たちのように荒れることはなかったが、もちろん学校の教師や校則

   にいい思いをしなかったし、成績はホント悪かった。数学とか理科が決まって14点とか18点とか

   の低い点数をとっていた。マンガを書いたり、音楽ばかり聴いたり、SF映画ばかり観ていて、

   勉強したり就職したりすることへの目的意識をてんでもっていなかった。職業観もまるでなかった。

   こんななかでわたしは反学校や反労働への意識をなぜか培っていった。いつの間にかイギリス

   の労働階級のような労働観を身につけていたというわけだ。


    勉強することや学歴を得ることになんの意味があったのかとこの社会に出てみてあらためて

   思う。職業に過剰に没入したり上昇志向を否定してきたわたしには、学歴を得ることの意味が

   てんでなかったのだ。はじめからこういう方向をはっきりと意識していれば、よけいな勉強や

   ムダな時間を費やすにすんだかもしれない。ヘンな上昇志向や職業貴賎なんかに惑わされず

   にすんだかもしれない。


    わたしの中にはふたつの矛盾した考えがせめぎ合っている。落ちこぼれたり、劣等と思われる

   社会的ポジションにつきたくないという思いと、働き過ぎや出世競争に呑み込まれるだけの

   人生を送りたくないという思いだ。一方を避ければ、一方の極に傾いてしまうという居心地の

   悪さをたえず感じている。決着はおそらく低いポジションに甘んじながら、そこに価値や意味を

   見出してゆこうという方向に落ち着くことになるのかもしれない。労働の無意味さは払拭される

   ようには思えないし、労働に生きがいを求めて過剰に働いたり競争したりする方向はとても

   わたしの性分ではないと思うからだ。ハマータウンの野郎どもと同じである。


    階級観とか世間での序列順位というのはひじょうにあやふやである。絶対的に堅牢にあると

   いう見方と、はたしてそんなものが正確に序列づけられるのかという見方がある。学歴競争や

   学校教育というのは前者の立場をとっており、たいていの人はそんな社会観を信じながら

   勉学に励むわけだが、個々人の幸福の感じ方や適性や性格というのは十人十色であり、

   はたしてこのようなステレオタイプ的な社会観で人の生きかたを律するなんてことはできるもの

   なのだろうか疑問に思う。みんながみんな社長や大金持ちになるだけが人生の目的とは思って

   いないだろうし、世間的に劣位とされる仕事に適性や人格の合致を感じる人もいるだろう。

   自分に合った生きかたをするさいに学校や世間が序列づける価値観といったものがいちばん

   の妨害になっているような気がする。


    ホール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』では反権威の立場が劣位な労働階級の

   再生産をおこなってしまうと悲観的な見方をとっているのだが、われわれにできる抵抗という

   のは、たいがいその程度くらいのことしかない。自分を企業や産業の論理や介入から守る

   すべはそのくらいのことにしか見出せない。とにかく自分を守るしかないのである。世間的な

   価値序列から脱落してゆく以外、産業社会から身を守るすべはどこにあるというのだろうか。


    社会的に不利な労働階級の再生産をおこなってしまうという問題点はあるにせよ、日本にも

   このような対抗文化の精神集団があればいいのになと思う。表向きのイデオロギーを転倒した

   価値観に優越心や自負をもつ集団があれば、競争・上昇一辺倒の社会から身を守る心のより

   どころを見つけられるというものである。そういう正直な人たちがいてこそ、社会はその自由さや

   生きやすさを醸し出すというものである。





     学校教育とはなんだったのだろうか……


                                                1999/9/8.



    社会に出て約10年、職業生活に不遇な毎日を送っているわたしとしてはたびたび疑問に

   思わざるを得ない、学校教育とはいったいなんだったのだろうかと。わたしが受けてきた学校

   教育ははたしてわれわれが社会を渡ってゆくために必要な知識や技能をちゃんと身につけさ

   せてくれたのだろうか、いったい学校とか勉強というものはいったいなんだったのだろうかと

   素朴に疑問に思う。


    いま切実に思うのは学校というのは社会に出てから生きてゆくためのスキルや技能を身に

   つけさせる期間であってほしかったということだ。社会とはどういうところで、職業にはどのような

   ことが求められ、また生きてゆくためにはどのようなスキルが必要なのか、そういったことを

   教えてほしかった。


    しかし学校で学ぶのは実社会ではたいして役に立たない科目が多い。算数、国語、理科、

   社会、英語。実社会から見れば、こんな学問は霞を食べて生きてゆくようなものだ。基礎的な

   学力は必要にしても実社会ではこんな学問はほとんど役に立たない。


    たしかにこの世は学歴社会である。高い学歴が就職に有利なのは一般常識である。でも

   実社会にほとんど役に立たない科目で、就職採用の選択基準にされるというのはいったいなん

   なのだろうか。たしかに学問で優秀だった者はほかのことでも秀でている可能性もあるが、

   じっさいの職業というのはペーパーテストのように問題や答えが明確にあるわけではないし、

   複数の場合もあるだろうし、けっして答えがもとめられないということもありうるだろう。畳の上の

   水練では世の中を渡ってゆけない。


    まあこの学問成績と職務遂行能力との違いというのはだれでも気づいていて、だからほんとう

   の意味での学問をもとめないのがこの社会のすっかり定着した慣習だ。学生たちが勉強しない

   のは学業成績がけっして実業界と結びつかないのを知っているからだ。日本社会の学校と産業

   界はこの断絶を知りながら、二枚舌のウソっぱち社会をつづけている。学生がほしいのは卒業

   証明であり、学業の成績でも学問の知識でもない。産業界がそれだけを求めているのはいうま

   でもないことだ。


    このウソっぱちの二重構造というのは残念というか、哀しい。学問探究の価値をまったく軽ん

   じているからだ。学校というのは学問探究の価値を伝達する場所ではないのか。しかし実社会

   では学問ではメシを食ってけないし、職業になんら有利な価値を付与しない。だから産業界は

   成績判別という機会だけを利用して、学生たちを選り分ける。学校界と産業界がまったく違う

   価値観で依りたっていることをこの社会は覆い隠そうとしているかのようだ。ダブル・スタンダード

   (二重標準)というやつか。


    学歴で社会的上昇が見込めるという大衆的憧憬をビルト・インするために世の中の人がよって

   たかって無益な知的饗宴をくりひろげているようなものだ。産業界のウソっぽい学歴ドリームの

   ために無益な学問知識は選別の機会として利用されているだけのことだ。産業界にとって学問

   の価値なんてこれっぽっちもない。学生に詰め込められた学問知識なんて新入社員のみそぎ

   研修によってすべてゼロにされるのがオチだ。


    学校教育というのはわがままになった労働者にほんのわずかな夢を青少年に見させるため

   の猶予期間のようなものだ。ふところがちょっとばかし豊かになった労働者はわがままばかり

   いいよる、しゃーないか、学問で自由とか平等とか機会均等とかそんな夢を見させてやろーや

   ないか、ウマににんじんってやつか、といった具合だ。まじめに働いてくれるならどいつでもいい

   が、学歴が高いものは忍耐と勤勉力と従順さがあるからなおさら産業界にはケッコーなことだ

   というしだいである。


    学校教育は学問の価値を過大評価して教え込むが、産業界にはどうでもいいことだ。こういう

   タテマエとホンネのダブル・スタンダード社会というのは、欺瞞とウソっぱちだらけである。

   学問自体に価値があるのではなく、よい学校に入ったかどうかだけが重要な選択基準になる

   わけである。それ自体になんの価値もない学問を習得するということは無益な苦痛以外のなに

   ものでもない。


    この社会は巨大なウソの二重構造社会をかたちづくっているわけである。学歴で高い収入

   高い地位が得られるとカンバンを立てる社会は、それ自体になんの価値もない学問によって

   競争させるというわけである。学歴に夢を与えた社会は産業に教育という巨大なコストをかけ、

   また親たちにも多大なコストと負担をかける。子どもたちもそれ以上の苦痛と負担を味わって

   いることはいうまでもない。社会は学歴上昇という夢を与えるために多大な負担と多大な廻り道、

   本人に苦痛と苦悩を与えなければならなくなってしまったわけである。


    実社会にぜんぜん役立たない学問を極めたものがエライという常識になったのはなぜなの

   だろうか。職業高校より普通高校、専門学校より大学、というように実利的な学問よりそうで

   ないほうがもてはやされる。学校というのは職業を忌避する運動でなりたっているようである。

   そして産業界にはずぶのシロウトとして教育され、こんにちではひじょうに問題になる市場価値

   のないエリートの大量生産とあいなる。これから必要な個人で実社会を渡ってゆく産業スキル

   がまったく形成されないというわけだ。


    こういう二枚舌社会は市場原理が盛んになるいわれているこれからを生きるにはひじょうに

   問題である。教育の理想と産業界の必要がてんで噛み合っていない。教育は実利的なもの

   からますますかけ離れ、産業界ではこれまでの庇護と保護の社会をやめ、自己責任で生きて

   ゆけといっている。えっ? そんな殺生な! 実社会で役に立たない知識を詰め込んできたの

   は学校ではないか。いまさらどうやって変身できるというのか。


    ということで新しい時代の波にそぐわなくなった学校教育とはいったいなんだったのだろうか

   と思わざるを得ないというわけだ。自分のなかには実社会を渡ってゆく知識・スキルが明らかに

   不足している。市場や産業のなかで生きてゆくスキルというのはどのようにすれば身につくの

   だろうか。商売の才能や才覚といったものはペーパーの知識でどれだけ伝達できるというのだ

   ろうか。


    学歴社会というのは大幅な変革が求められているのだと思う。もっと実社会や産業の知識

   や価値がホンネのところで教えられる必要があるのだと思う。タテマエではどうしても実社会

   からかけ離れた知識の詰め込み競争に転嫁してしまい勝ちだが、個人にも市場価値が求め

   られる社会にこのような教育で社会を渡っていけるというのだろうか。学校にも会社にも頼れ

   ないとなったらみずからスキルと知識を磨いてゆくしかないのだろうか。


    産業社会で生きてゆくスキルが早くから教えられるのなら、選別基準として学問が利用され

   なくなり、学問探究それ自体の価値はほんらいの意味をとりもどすことだろう。卒業証書ほしさ

   にまったく勉強する気のない学生が入学しなくてよいよう企業は選別能力を鍛え直す必要が

   あるのだろう。


    学歴社会というのは巨大なウソのダブル・スタンダード構造でなりたっている。学生たちは

   いつか巣立つことになる産業社会にとってぜんぜん役に立たない学問で競争と選別をおこな

   わざるを得なくなっている。こういう欺瞞と乖離がおこなわれるようになったのは、学歴による

   社会的上昇という神話があったからだろう。しかしこれからは神話のメッキを剥がしてゆかない

   ことには産業の発展はありえないだろうし、個々人の無駄な勉強は終らないし、将来、路頭に

   迷う心配は立ち去らないというものである。






   参考になる本

    苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』 中公新書
    学歴差がひきおこす不平等には敏感だが、学歴取得以前の不平等には目をむけない社会。



        受験学力と大衆の教養軽視


                                                 1999/9/11.



   この国ではひじょうに残念というか、腹立たしいというか、学問とか教養の価値はそれほど

  重んじられていない。学歴で必要なのは卒業証書なのであり、学問や教養の有無ではない。

  だから学問や教養を身につけるために学校に入ったわけではないから、学生は在学中にほと

  んど勉強しない。(すべての人にはあてはまらないが、一般論として)


   こんなウソの仕組みをいつまでつづけるつもりなのだろう? 学生たちはそれ自体に価値を

  みとめない学問知識の暗記に青少年の大半をついやし、教師たちは子どもたちの頭にパンチ・

  カードを押すだけのような作業をくりかえし、世間の大人たちはなぜ子どもたちは勉強しないのだ

  ろうかと頭を抱え、そして大人たちは教養にぜんぜん価値を認めず、酒やゴルフなどの大衆的

  享楽に身をやつして平気でいる。


   学問的・教養的価値というのはこの社会ではほとんど称賛も賛美もされない。そんな社会な

  のに形だけの学問や教養が子どもの頭にプリント・アウトされ、それによって将来の職業や待遇

  が決まるとされている。学問や教養が実社会ではほとんど評価もされないのに形だけの競争が

  くりひろげられている。


   学問や教養には用がないのだ。選択の機会だけを利用しているに過ぎない。学問や教養に

  純粋な期待をもっている学生や教師には腹立たしいことだが、産業界や社会が学歴を就職の

  選択基準にしてしまっているから、無益な形式競争に走らざるを得ないというわけだ。


   この社会は学歴と職務遂行能力には歴然とした比例があるのかと問うたことがあるのだろうか。

  ランドール・コリンズというアメリカの研究者はあまり関係がないといったそうだが、日本の社会

  や企業はこのことを不問に付したまま、高学歴者を優先的に採用してきたようである。キャッチ・

  アップや協調的経営、平等主義、官僚的体制といった時代の要請に合致していたからだろうか。

  つまり忍耐深く、従順で、記憶力抜群で、規律正しいタイプの人間は受験によって選別できたと

  いうことだ。しかしこれからの成果主義や実力主義の世の中にはどれだけ通用するだろうか。


   学問や教養にはほとんど価値をおかない社会だから、社会のほとんどの人は教養と能力の

  関係を信じてこなかったのだろう。それでも学歴主義がつづいていたのは従順タイプの再生産

  に好都合だったことと、すでに社会的地位を得ている高学歴者たちの自己保身や継続にも有利

  だったからかもしれない。学歴主義の仕組みと階層ができあがってしまっているから、これを壊し

  たくないということだ。


   それにしてもこの社会は驚くほど学問や教養に価値や称賛をもとめない。哲学や思想はほと

  んどの人に顧みられないし、文学や歴史研究、芸術などの価値を認める人はほんの一部に

  過ぎない。高級文化といったものはほとんど評価されないし、多くの人の称賛を受けることもない。


   マンガやロック・ミュージック、映画、テレビ、ファッション、スポーツやギャンブルなどの大衆的

  娯楽と享楽に身をやつしていてもみんな平気だし、恥ずかしいだとか、劣っているとかの感覚も

  ほとんどもたない。これが当たり前であり、「みんな」が享受しているものだから、ちっとも引け目

  も劣等感も感じない。そもそも高級文化が高級であり、称賛されるなにものかであるという意識

  はふつうの人たちの中にはまったくない。こういった大衆社会において近代的な学問による学歴

  主義が病的に加熱しているなんて信じられないくらいだ。学問にたいする情熱が空洞化してゆく

  のはとうぜんともいえる。


   平等な大衆消費文化がみごとに花開いたわけだ。学歴エリートもだいたいはこの消費文化の

  なかに吸収されて、ヨーロッパにあるようなエリート階級文化といったものをかたちづくらなかった。

  まあほとんどの人が中流意識をもつというおめでたい平等社会ができたのだし、階級文化による

  格差や差別が露骨にない社会よりよほどましというものである。


   ただそれゆえにか残念なことに大衆消費文化というのはほとんど受動的なものばかりである。

  みずから創造しよう、探求しようといった気概をまるでもたない。教養への軽視はこんなところに

  あるのだろうか。あくまでも受け身や享受する側にまわるといった消極性ゆえに大衆文化は、

  あまり褒められるべきものではない。みずからつくったわけでも、みずから考え出したわけでも

  ないものに身をゆだね、それを自分のモノや自慢のように見なすのは情けないかぎりだ。


   これはキャッチアップの時代であったという理由も強いのだろう。ヴィクトリア朝や第二次世界

  大戦前にできあがった概念や商品を大衆化するのがこれまでの時代であったから、大衆は

  受け身的文化に身をやつすことができた。学問や教養はそんなに必要ないし、創造する喜び

  や探究心より、娯楽を享受するほうが魅力的ではあったのだろう。テレビやマンガ、ラジオ、車

  はつくる苦しみより享受する楽しみのほうが大きいということだ。商品や企業組織ができあがった

  なかで与えられる楽しみとしくみに従事しなければならなかった時代だったわけである。こういっ

  た時代には教養や学問は探求されるための道具や手段ではなく、飾りやパスポートのような

  役割を果たすのみだったわけだ。


   いままで根本的な変革を必要としなかったということだ。過去の遺産で食いつなげてきたから、

  われわれは受動的娯楽のみに浴することができたというわけだ。あるいは大衆社会というのは

  そもそも大多数が享受者で、創造者はほんのわずかしか必要ないのかもしれない。


   これから変革と変化が必要な時代に創造的な人間が必要だといわれるが、創造的な人間と

  いうのはいつの時代も少数しか必要ないのかもしれない。大多数の人間に必要なのは娯楽を

  享受することと従順に反復作業や単純作業をくりかえすことではないのか。あまり独創や創造

  が必要な時代だといわれても、現実とのギャップは拡大するのみだろう。少数の者が独創的で

  あったらよいのだ。


   創造者を評価する風土があるのならたしかに独創的な創造者は生まれやすいだろう。しかし

  現実に求められるのは従順さであり、規律であり、過去の遵守なのではないだろうか。そういっ

  たタイプの人たちは大衆文化の受動的享受を好み、教養や創造力をさして評価しないというわ

  けである。どちらかといえば、いまの社会はそういった人たちのほうが大多数なのではないか。

  社会は過去の反復を求めており、べつだん創造力を必要とはしていないということだ。


   教養や学問を評価しない社会というのはほんとうのところ人々にそれらを期待していないので

  ある。大衆的娯楽を享受しておればいいのだ。創造者や変革者であるよりは、享受者であれば

  いい。そういった社会的要請が大衆的娯楽を支えており、教養のなさに羞恥を感じない社会を

  かたちづくっているというわけだ。大衆的娯楽の「お客さん」であればいいのであり、まちがっても

  その社会に震動をもたらすような教養は身につけてほしくないというわけである。これが大人や

  若者がたいして本を読まないでマンガを平気に読む社会の現実の姿ではないだろうか。


   マンガやロック、テレビが教養や知能をもたらさないという意見には必ずしも与しないが、批判

  力や洞察力はやはり欠けているだろうし、どうしても現状維持イデオロギーであることは否めない。

  受動的なお客さんでよいわけである。社会はこういったお客さんを大量に欲している。


   こういった社会のなかで、学問や教養を身につけさせる教育によって選別がおこなわれている。

  いっそマンガやテレビの知識量や娯楽量によって選別したほうがいまの時代に適しているので

  はないかと思わないでもないが、そのほうが時代の適応性や感性がよく測れると思うのだが、

  前時代的な学問教育はつづいている。多くの人が日常の中で価値も評価もしない学問教養に

  よって学歴選別されているわけだが、これは時代錯誤なのだろうか。学問や教養が役に立ったり、

  身についておおいに得をしたということはない世の中であいかわらず学問は教えられている。

  学校教育で教えられるものはもう古すぎるかのもしもれない。


   学問や教養が評価も称賛もされない社会で、それが十数年も教え込まれ、学歴や職業の選別

  基準にもちいられる。なんだかヘンだし、ひじょうにムダなことのように思える。アスファルトに舗装

  された道路に馬が走っているような気がしないわけではもない。


   まあかなり混乱した文章になってしまったし、わたしのなかでもなにをいいたいのかもよく整理

  されていないのだが、学問と一般的な教養のギャップについて疑問に思うことを吐露してみた。


   教養の価値の低さと一般大衆が必要としている知識や娯楽にはあまりにもギャップがあり過ぎる

  のは疑問に思うが、これは大衆がレベルダウンしているからなのか、それとも社会はもうかつての

  学問や教養をそんなに必要としていないということなのだろうか。






  参考文献

    苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』 中公新書
    中島梓『ベストセラーの構造』 ちくま文庫

  リンク
    「学歴とアイデンティティー」 富山大学の学生さんの卒論。
    「第一章 日本の学歴社会をめぐるいくつかの論争」はおもしろい。




     無銭旅行の『電波少年』にたくされた願望


                                                  99/9/14.



   以前から書きたかったのだが、TVの『電波少年』はなぜウケるのかということだが、理由を

  探し出せばけっこうむずかしいし、我田引水になりそうで二の足をふんでいたのだが、同じような

  番組も増えてきたことだし、まあ思いつく程度のことをのべてみたいと思う。いまさらながらである

  が、まあ以前はなぜか書けなかったので、そのへんはご了承のほどを。


   『電波少年』というのはご存知のとおり猿岩石とかドロンズに大陸横断のヒッチハイク旅行を

  課した笑えるドキュメンタリー番組である。いまではシベリア鉄道かスワンボードとか超能力

  生活とかの企画を(番組がふたつになって)やっている。わたしは前からけっこう好きで、「インタ

  ーナショナル編」でカストロのヒゲを切りにいったり、ロシアのジリノフスキーやダイアナのパパラ

  ッチを叩きにいったり、アンコーワットやピラミッドの補修を手伝ったりしていたころから観ていた。

  国際社会を相手によくここまでおふざけのチョー大胆不敵な企画をしたものだと、これを考え出

  した日本人の放漫さ、国際感覚の脆弱さにあきれかえったものだが、個人的にはたいへん楽し

  ませてもらった。


   若手の芸人が労働条件も身体拘束もまったくおかまいなしにテレビ出演させられるのはヒドイ

  と思いながらも笑っていたし、これはイジメの構造ではないのかと思いながらも、おもしろいので

  観つづけていた。まあこれはテレビ番組全体で若手芸能人をイジメるような企画がおもしろいの

  であって、ホンネのところでわれわれはそういったことにゲラゲラ笑っていたわけだ。これが人間

  の本性だから仕方がないじゃないかと開き直って観ていたが、最近は感覚が麻痺してしまって

  なんとも思わなくなってしまった。サクセス・ストーリーになったということもあるだろう。劣悪や劣

  位のものが王になるといった神話の構造と似ていなくもない。


   ヒッチハイク旅行によって大陸を横断するなんてことは昔なら思いもつかなかった壮大な夢だっ

  ただろう。これはやはり会社の出世の夢とかマイホーム願望とかが潰えた時代にしか思いつか

  ない企画だろう。国内にそういった夢があるのなら、まず人々は自分たちの生活や仕事に目が

  向くはずである。だけどそういった夢ははるか昔に終わっており、閉塞状況、若者の未来の生き

  かたが見えない時代になって、ヒッチハイク旅行は若者にわずかな光をさしのべたわけだ。


   なにも何日も食べるものがない無銭旅行などしなくても、国内ならアルバイトなどいくらでも

  仕事があるはずである。でも仕事にありついてもつまらない毎日の反復、会社と家の往復、

  孤独な生活、といった無味乾燥な日々がつづくのは目に見えている。そんなのなら、たとえ仕事

  や食べ物が手に入らないでも知らない国、知らない土地を渡り歩いて刺激に満ちているほうが

  おもしろいではないかと思うものだ。海外のヒッチハイク旅行の人気はやはり日常の生活のつま

  ならさにあるわけだ。


   なんらかの仕事につけば衣食住はじゅうぶんにまかなえるし、たくさんのモノや娯楽に囲まれて

  平穏無事に生きてゆくことができる。しかしこういった安定安寧な毎日はくりかえしていると、

  これほど死にそうに退屈なことはない。それに比べて無銭旅行は今日明日食うか食わざるかと

  いったぎりぎりの毎日を送っており、そんな退屈さとは無縁だ。


   過剰や飽食に飽きた人間たちには皮肉なことに戦後の人たちが必死に逃れてきた貧窮状態

  に刺激や楽しみを見出したのである。欠落や欠乏のぎりぎりのところに飽食の時代に生きる

  われわれには見えなくなっている目標や目的があるというわけだ。ほんとうに皮肉なことだが、

  われわれは戦後直後にはごろごろと転がっていたと思われる貧困や貧窮の生活のなかに

  楽しみや喜びを見出したのである。


   もちろんこれはあくまでもテレビであって、じっさいに人々がそういう貧窮に陥れられたわけで

  はないからげらげら笑って観ていられる。若者のなかにはこの『電波少年』を観て、じっさいに

  どのくらいの人がこのようなヒッチハイク旅行を試みたのだろうか。海外旅行に行く人は多いし、

  無謀な事故や事件に遭う旅行者の話もたまに聞くし、以前よくいたストリート・ミュージシャン

  なんかはテレビ番組の影響であんなに増えたと思われるので、けっこうたくさんいるのだろう。


   必ずしも実行には結びつかないかもしれないが、ヒッチハイク旅行ブームというのはこの日本

  にも「ヒッピー的状況」というものがやってきたのだという感を思わせる。豊かさの懐疑や否定が

  アメリカに20年も30年も遅れてやってきたかのようだ。ようやく日本もヒッピーの気持ちがわかる

  社会状況になったということだ。ただし日本にはそこまで度胸のある若者はそんなに多くないだ

  ろうし、一国だけでそのようなムーヴメントをつくりだすような力はない。日本の若者にできること

  はせいぜい登校拒否かひきこもりとよばれるアパシー、あるいはフリーターと(ホームレスも含ま

  れるか)といった消極的・脱落的なスピンアウト程度のものである。


   じめじめしていて、いかにも湿潤系のドロップアウトであるが、ご先祖さまに「うらめしや〜」の

  幽霊がいるとおり、けっこうコワイものである。底抜けしてしまうような、海の底から足をひっぱら

  れるような恐ろしさがある。明確に否や反抗をつきつけないが、理由や意味もなく、精神的空洞

  化・崩壊化がじわじわとやってきそうで、よけい始末が悪い。日本的和の社会、やさしさと思いや

  りの社会は不満や批判を処理できず、内部腐蝕が進行するのみである。不満や反抗を表から

  なくしてしまっても、内攻してしまうのでは解決にはまったくならない。


   さて『電波少年』のヒッチハイク旅行者たちは日本に帰ってきてからはあまりパッとしない。

  「一発屋」とまでよばれている。かれらは芸によって人気者になったわけではないから、当然

  なのかもしれない。これを日本の会社と一般の旅行者にたとえるのなら、日本の現状を象徴

  しているかのようだ。海外で放浪したりしたときには輝いていたのかもしれないが、日本に帰っ

  てきてもてんでパッとしない。これは若者にとってはほんとうにツマンナイ国だということだ。

  あるいはその若者自体がつまらないのかもしれない。


   若者たちはこの状況をどう突き抜けるだろうか。海外旅行がさかんになるということは世界の

  さまざまな生活様式や知恵に触れるということであり、若者はその知恵をひっさげて日本の

  生活を変えてゆくかもしれない。一昔前はとくに女性であるが、旅行に行けばブランドばかり

  買いあさったり、観光地ばかりに向かったわけだが、これでは世界の知恵や生活は身につか

  ない。ヒッチハイク旅行は消費以外のなにかの価値観を見つけてくるかもしれない。


   無銭旅行は人間の原点に帰る旅でもある。食べたり、働いたり、寝たりすることのひじょうに

  素朴で単純な人の営みを思い知らせるものである。そういう生活ではなぜ定着的で豪勢なマイ

  ホームが必要なのか、なぜ何枚も着飾るファッションが必要なのか、なぜ何十年も先の貯金の

  ためにまで働かなければならないのかといった原初的な懐疑をもたらしてくれるものだと思う。

  モノ的には豊かになったわれわれはそういった根本的なことをもう一度考えてみなければなら

  ないのだろう。そうしないとやりたいこともほしいことも何も見えてこない。豊かさというのはそう

  いう根本的な欲望すら見えなくさせてしまうものである。


   さてわれわれはこの先、なにを求め、なにを得るべきなのだろうか。会社や消費の夢にさしたる

  展望がのぞめなくなった現在、なにに楽しみを見出すべきなのだろうか。


   猿岩石やドロンズは豊かな消費社会から身ぐるみ剥がされてハダカのまま、未知の大陸に

  放り出された。かれらはなにもない状態、一からはじめなければならなかった。それはまさに

  現代の若者の心理状態そのものでもある。そしてそこで働いたり、現地の人に助けてもらったり、

  自分たちの芸で身をたてたりと、ときには何日も食べ物がなかったりと裸一貫で生きて食べる

  ことを学んでいったわけだ。ある意味では背水の陣をしいたベンチャー的な生きかたである。


   豊かな社会でまったく見えなくなった生きること、食べること、働くことの根本的な営みを

  裸の状態で垣間見たわけである。この社会ではホント、そういった基本的なことが見えない。

  学校行って会社行って働いてもくもくもく……といったふうにいつのまにか人生を流していて、

  流されるまま生きてゆかざるを得ない。無銭旅行はそういったオブラートに包みこまれた生活

  から、そのまゆをひきはがしたわけである。


   われわれはこの旅からこれからの生きかたを学べただろうか。あるいは見つけられずにアウ

  トローや漂泊者としてさまよいつづけるしかないのだろうか。日本の社会は90年代に入って、

  漂流しはじめ、そして漂泊の終点はいまだどこにも見出せないようである。会社という定住地

  から放り出された人はどんどん増え、漂泊をはじめる・はじめざるを得ない人は増えてゆく一方

  である。猿岩石やドロンズはこういった漂流者たちの先陣を切ったわけである。漂流者たちは

  この社会に新しい知恵や財宝をもたらすだろうか、それともただ漂いつづけ、どこまでも流されて

  ゆくだけだろうか。われわれの漂泊はまだ終らない。








   日本・中国のかつての漂泊者たちのブックガイド 「漂泊者と隠遁者に学ぶ人生の知恵」




    ああ、無情! 芸能界の消えていった人たち


                                                 1999/9/17.






    芸能界というところは流行りすたりがとても激しいわけだが、以前は新しかったり流行ったり

   するものを楽しんでいただけなのだが、最近なぜか「あの人を見かけなくなった」とか「なにして

   いるんだろう」と思うようになるのが多くなった。トシなのだろうか? 


    10代のころは無我夢中で流行り者や流行を吸収するのに精いっぱいだったのだが、30を過ぎ

   ると、というよりか20代過ぎから、あんなに人気だったタレントも潮がひいたように消えてゆくと

   いうことを学習するようになった。なんだか同じことのくりかえしじゃないかと、新しくは出て消えて

   ゆく芸能界や音楽シーンに興醒めするようになった。


    一時は永遠と思われたものは、終わってみると一時の熱中でしかないことに気づく。そういう

   ことを何度も経験すると新しいものに斜に構えるようになり、情熱もそそげなくなってくる。こうい

   うふうに新しいものをだんだん信用しなくなって流行にさっぱりうとくなり、若者や子どもにバカ

   にされるオジサンになってゆくのだろうな。わたしのおかんもオヤジも芸能界にぜんぜん興味が

   なさそうだったが、かつて若いころにはそれぞれの時代の芸能人に熱中していた時期があった

   のかもしれない。団塊世代以降の母親は子どもといっしょにキャーキャー言っているようだけど。


    そういう醒めた時期を通り過ぎるとこんどは出てきては消えてゆく芸能人やミュージシャン

   本人の行方や事情が心配になってくる。「あれ、どこに行ったのかな」「なにをしてメシを食って

   いるんだろう」とちょっとかわいそうになってくる。一時は猫も杓子もみんな自分に向かってきた

   のに人気が冷めやるとみんないっせいに走り去ってゆく、そんなタレントの気持ちとはどんなも

   のなんだろう……。


    栄光の絶頂と転落の辛酸を短期間になめなければいけないのが芸能人の宿命である。

   それにくらべてサラリーマンの一生はもう少し長持ちする庇護を会社から与えてもらっていた

   わけだが、最近の事情はちょっと変わってきているようである。もちろん人気商売とは比べよ

   うもないほど安泰だろうけど。


    人気のなくなった芸能人はなにを思うのだろうか? かつてあんなに応援してくれたファンは

   そっぽを向いてしまっている。テレビや芸能関係者の人もぜんぜん呼んでくれない。世の中

   から見捨てられたような気持ちを味わうのだろうか。栄光の時代の記憶にいつまでもしがみ

   ついてゆこうとするのだろうか、それとも栄光のはかなさをかみしめているのだろうか。


    アイドルの寿命なんてほんと短い。十代から二十代のあいだをあっという間に駆けて消えて

   ゆく。自分の人気は若さと美貌だけだったのか、ファンたちはその魅力を食いつくだけ食いつい

   てどこともなく消えていってしまった。自分の魅力とはなんだっただろうかとため息をつきたくな

   るものではないだろうか。もう自分にはかつての人気も魅力もないということを知ることはかなり

   キツイ事実ではないだろうか。


    かれらはそういう結末を知りつつ人気商売を楽しめたのか、それとも自分の人気凋落に

   たいへんの驚きと自信喪失をもたらしたのだろうか。あれよあれよという間に人気が爆発し、

   あれよあれよという間に人気がさーっと引いてゆく。このような経験に人はなにを思うのだろ

   うか。こういう運命はどの芸能人も逃れうることはできないだろうし、長い人気を保つ人でも

   一度は経験することがあるだろう。


    人気というのはふしぎなものである。あんなに超人気だとか安泰だとか思われた人もあっ

   という間に人気が凋落したり、消えてしまっている。どちらかといえば、すべての芸能人に運命

   づけられているもののようだ。人気とか繁栄いうものはほんとうに一時の権勢といったものの

   ようだ。


    それは町についてもいえるし、かつて栄えた町がいまは凋落しているさまをあちこちで見る

   ことができるし、いま繁栄が不動と思われている町だって、いつかは同じ運命にあうことになる

   のだろう。ここ大阪でもチンチン電車の界隈なんかはかつての繁栄ぶりがしのばれるのだが、

   いまはやっぱり鉄道や中心部のほうが断然栄えている。または鉄道周辺の繁栄からロードサ

   イド・ショップへの繁栄へと移り変わっているところもある。


    産業や会社にもこの繁栄と衰退は必ずあり、かつては鉄鋼や造船が国をよって立つといった

   ような時代もあったし、生糸や繊維の業界が日本の発展を支えたこともあったし、日本のほとん

   どの人が農業に従事していたこともあったし、米問屋や廻船といったものが栄えていたこともあ

   った。


    これはやっぱり国や世界の地域にもいえて、歴史の中に繁栄と衰退の刻印をしっかりと刻み

   こんでいる。ポルトガルが繁栄したころには日本にカステラとか蘭学をもたらしたし、いまはアメリ

   カ文化の総輸出攻勢に合っているというわけだ。日本の繁栄も高度成長期とバブルのわずか

   20年のはかない夢だったのかもしれない。国家の繁栄も栄枯盛衰を絶対にまぬがれ得ない。

   スパンが長いぶん、われわれにはなかなかそのことは自覚しにくいが。国家の上り調子のとき

   より衰退するときのほうがはるかに自覚しやすいようである。


    人間のかかわるすべてに栄枯盛衰はあり、芸能界というのはそのさまが見事に凝縮されて

   いるわけだ。それも人気という、ときにはかわいらしさや美貌、若さといった、まったく天然資源

   に依存する人気もあるわけで、衰退凋落もはなはだしい。人間の必要度や要請度といったもの

   が見事に透けて見えてくるものである。


    繁栄と衰退はどんな人もまぬがれ得ない。人は必ず社会からも人からも見向きも、必要も

   されない不遇の時期がやってくる。いまは定年後の老人たちやリストラの嵐が襲う中高年

   たち、および新卒の就職希望者たちにそういったしわ寄せがやってきているようである。


    こういったときに挫折や消沈にただ沈み込むだけか、あるいはその状態を受け入れて自然

   にあるがままにやってゆくか、あるいはそれをバネにして奮起してゆこうとするか、それぞれ

   の違いが出てくるわけである。これはどんな人もまぬがれ得ないものであるから、われわれは

   こういう心の準備や訓練といったものを必要とするのだろう。繁栄や栄光ばかりが人生ではなく、

   やはり不遇や挫折が長く人生を覆うものである。芸能界や流行から消え去った人たちに目を

   向ければ、そういったことが見えてくる。


    栄光や繁栄ばかり見ていてはだめだ。繁栄ばかり見ているとそうでない自分になさけなく

   なったり、くやしさばかりに満たされてしまう。繁栄から遠ざかることによって逆にゆとりや自分

   らしさ、自分のペースやポジションを見つけられることだってあるだろう。繁栄の中心から離れる

   ことによって逆にスペインやイタリアのように人間らしい生きかたを見つける国だってある。繁栄

   中心のものの見方しかできなかったら、そういう良さについて気づくこともなかっただろう。


    芸能界というところは栄光と繁栄の場であるのだが、ほとんどの人はあっという間に表舞台

   から退場していってしまう。その変わり身の速さは驚くばかりである。われわれ一般の人間も

   そういう運命とまったく無縁ではない。衰退や凋落のときがいつか来ることを自覚して、日々を

   生きることが大切なのかもしれない。栄光や繁栄に酔っていたら、凋落の痛みはとり返しのつ

   かないものになるかもしれない。




      富、栄誉、権力についての名言集




   戦後の人たちは富や栄誉、権力を無条件の目標としてきた。いまではだれも疑問をもたず、
  そのための人生コースが幾重にも整備されている。しかし果たしてこれらはすべての人が
  目指し、すべての人が手に入れなければならない絶対的なものだろうか。これらを全国民の目標
  にしたがゆえにどんな害悪や腐敗がこの社会を覆っているか計り知れない。以下の名言集は
  これまでの目標についての考えなおす契機にしていただきたいと編まれました。




                                  ――ヘンリー・ソーロー『森の生活』
   たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の
  人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことが
  できないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。

   大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でない
  ばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人
  よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。

   どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われ
  われは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわ
  れは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておく
  ことができないのだ。 

                         *
                           ――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』
   彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、
  それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。

   おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々は
  なんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、
  一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。

                          *
                                        ――洪自誠『菜根譚』
   豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、
  倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。

   世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、
  もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠く
  のが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを
  抱いていることを知らない。

   富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは
  激しい炎のように盛んである。

   栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえ
  に我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もと
  もと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではない
  から、どうして腹を立てておられようぞ。

   権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から
  失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに
  反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な
  濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。

   (人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉を
  もらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなか
  ったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
  (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりも
  ごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このように
  して貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

   財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよい
  ことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分の
  ない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

   高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や
  農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、
  うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、
  竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごして
  いるのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
  それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりの
  ついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の
  本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。

                          *
                                  ――マルクス・アウレーリウス『自省録』
   それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみや
  かにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの
  空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、
  以上のものを囲む場所の狭さを。 

   死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえ
  ている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え
  上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその
  記憶全体が消滅してしまうことを。

   もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですら
  なくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重
  がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。

   名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の
  中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

   昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことで
  あろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。

                          *
                               ――ショーペンハウアー『幸福について』
   対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉
  のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその
  大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。

   他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、
  深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨
  な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、
  それをそのまま目的と認めざるをえないのである。

   富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、
  人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことは
  すべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。

                           *
                                                ――荘子 
   お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分
  だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
   富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよし
  とするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えること
  ができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを
  失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに
  目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。

   会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫
  かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、
  賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずら
  わしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。

   小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。

   天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、
  仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、
  世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と
  小人の区別をつけるのである。

                           *
                                                ――老子
   欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、
  (他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで
  満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。 

                           *
                                                 ――寒山
   貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなもの
  である。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分
  の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれ
  ば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくこ
  とができる。 

   世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たして
  いるのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻の
  ようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めるこ
  とになりはしないか、そうなるに決まっている。

   俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生
  における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけ
  ようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの
  暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での
  貧困な生活にはとても及ばない。
  
                         *
                                     ――吉田兼好『徒然草』
   財宝を持っていると、自分の身を守る上に、事を欠くようになる。と同時に、害を引きよせ、
  煩を招く媒介となるものだ。利欲に迷うのは、とんでもなく馬鹿な人なんだ。

   蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走ってい人間ども。彼らがせわしそうにしていること
  はいったい何だ。生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。待ち受けているものは、
  結局、老と死にすぎない。

                         *
                               ――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』
      最も貧しい人こそ最も自由な人
   財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。

     放念した者は損をしても悩まない
   この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。

     平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
   人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなく
  なるだろう。

     欲の深い者は足ることを知らない
   足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くの
  ものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。

     賢明な集め方と愚かな集め方
   守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。
  彼は滅びぬものを得ようとしている。

     賢者と守銭奴の金のしまい場所
   賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい
  込もうとするから心の休まる時がないのだ。

     富は心の中にもつもの
   富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したと
  しても、それはあなたの重荷になるだけだ。

                         *
                             ――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
   私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
  その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの
  所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問
  われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な
  覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

   たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに
  臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛
  られている人が奴隷たらざるをえないのである。

                          *
                               ――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』
   この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護
  してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な
  行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体
  が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も
  考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。


   私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的
  ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとて
  も安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば
  閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。

   君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力している
  とき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
  野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であ
  ることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でも
  ない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなけれ
  ばならない」

   私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、
  有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は
  私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より
  多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味して
  いる。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。

   自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君は
  たえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。





      Special Thanks!

   ヘンリー・ソーロー『森の生活』 神吉三郎訳 岩波文庫
   ルソー『人間不平等起源論』 小林善彦訳 中公文庫
   洪自誠『菜根譚』 今井宇三郎訳 岩波文庫
   マルクス・アウレーリウス『自省録』 神谷美恵子訳 岩波文庫
   ショーペンハウアー『幸福について』 橋本文夫訳 新潮文庫
   『老子 荘子』 小川環樹 森三樹三郎 中公バックス
   『寒山拾得』 久須田文雄訳 講談社
   吉田兼好『徒然草』 今泉忠義訳 角川文庫ソフィア
   『シレジウス瞑想詩集』 上田重雄・加藤智見訳 岩波文庫
   ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』 桝田啓三郎訳 岩波文庫
   ジッドゥ・クルシュナムルティ『未来の生』 大野純一訳 春秋社



   後記
    富や栄誉、権力の戒めを語った人、もしくは読んだ本はもっと多くあったように思いますが、
   残念ながらこの程度くらいしか見つけられず、わたし自身としてはちょっと心惜しい気がします。

    自分の記憶をたよりに、またむかし読んだときに引いた赤線をたよりに、このテーマについて
   書かれた文章を探し出すことはとても手間がいり、しんどいものです。ワープロで文章を打ちこ
   むさいにも、文庫のページを両手で押えながらキーボードを打ち込むのはこれはツライ(涙)。
   インターネットの検索ならもっとかんたんになるのだけれど。

    わたしのなかでは栄誉のむなしさについて書かれたものではマルクス・アウレーリウスの
   ものがいちばん印象に残っています。死んでしまったらなんの栄誉も残らないと何度も言われ
   れば、ほんとうに心によく残ります。キリスト教や仏教ならすぐこの文章のあとにそれゆえ神や
   仏をもとめなさいとなるのだけど、そうやすやすと信者になれないのが現代人というものです。
   それにしてもショーペンハウアーは辛辣ですね。金持ちの内情については『菜根譚』がいちば
   んくわしいみたいですね。

    さて戦後日本はなんの思想もなしに富や栄誉を求めてきました。これがみんなの約束事に
   なり、みんなの目標となり、有無を言わさぬ強制や慣習となってきました。この結果による
   腐敗や堕落は上はエリートから下は「ふつう」の人まであらゆる人々・階層にまで広がって
   いるのはいうまでもないことです。

    われわれは生まれたときからそういう目標や人生コースを背負い込まされていて、ほとんど
   疑問に思う余裕もなかったし、またそういった価値観に否や疑問をつきつける世論や人々と
   いったものはひじょうにわれわれの耳に入りにくかったのも事実です。だからそれについて、
   批判や疑問をつきつけた文章をここに集めてみたというしだいです。 

    これらの一文でもいいからテレビのコマーシャルに流されればいいのになと思います。
   なんでもほしがることが肯定される世の中は、これらの賢者には大笑いと嘲笑の世の中で
   しかないでしょう。       99/9/18.


    もしほかにも富や栄誉の戒めの文章がありましたら、ぜひ紹介してください。

                        ues@leo.interq.or.jp 



   「よい人」になりたかったことと、エラソーになること


                                              1999/9/23.




   たいへんお恥ずかしい話だが、また自己申告なのでたいへん怪しいが、子供のころ「善い人」

  になりたいと思っていた。チャップリンの映画やTVの『池中玄太80キロ』、映画の『エアポート'XX』

  なんかを見ていて、これらのなかにはたいへん「よい人たち」が出ていて、わたしはぜひともこう

  いうよい人たちになりたいと思っていた。「よい人たち」というのはひじょうに感動的だった。おそ

  らくわたしはそういうふうに自己形成をしていったように思うし、「セルフ・イメージ」もじっさいは

  どうだかはたいへん怪しいが、そういうイメージをもってきた。


   でも「よい人」というのはいろいろやり切れなかったり、そのイメージが自分とズレてきたり、

  反抗期の自分が出てきたりして、もうこのイメージが維持できなくなってきたのだろう、わたしは

  ペシミスティックな道徳批判の本をむさぼり読むことになる。


   「すべて社交界というのはまず第一に必然的に、人間が互いに順応しあい抑制しあうことを

  要求する。……精神的な優越は、それが目の前にあるというだけで、べつだん何の意志も発動

  させなくても、人の気に障るからである。……すなわち普通の社交界で人の気に入るには、どう

  しても平凡で頭の悪い人間であることが必要なのだ」――ショーペンハウアー『幸福について』


   「もともと非利己的な行為は、それを示され、従ってそれによって利益を受けた人々の側から

  賞賛され、『よい』と呼ばれた。後にはこの起源が忘れられ、そして非利己的な行為は、ただ

  習慣的に常に『よい』として賞賛されたというだけの理由で、実際また『よい』と感じられるように

  なった」――フリードリッヒ・ニーチェ『道徳の系譜』


   「われわれは、すべてが次第に下へ下へと向かって行き、より希薄なもの、より善良なもの、

  より怜悧なもの、より気楽なもの、より凡庸なもの、より冷淡なもの、よりシナ的なもの、より

  キリスト教的なものへ下って行くのを予感する――疑いもなく、人間は次第に「より善く」なって

  行くのだ」


   「公共に対して危険なものが多いか少ないか、平等を脅かすものがあるかないか――が、

  いまや道徳的規準である。ここでもまた恐怖が道徳の母である。……独立した孤高の精神性・

  独りたたんとする意志・大いなる理性すらが、危険と感ぜられる。かくして、個人を畜群以上に

  引き上げ隣人に恐怖を与えるいっさいのものが、悪といわれ、反対に、控え目に卑しく服従して

  おのれを他とひとしく置く性情が、欲求の中庸が、道徳の名と誉れを僭するにいたる」

  ――フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』


   けっきょくのところ、「よい人」というのは、人より劣った人間になることであったのだ。人よりグズ

  でのろまで、だれにも優らない人間が、じつは人から「よい人」と思われ、感動的であるのである。

  映画のチャップリンはいつも貧乏で、ドジで、のろまで、ヘマばかりしている。池中玄太だって

  太っていて、すぐ感情的になってケンカをする必ずしも優れた男ではなかった。『釣りバカ日誌』の

  ハマちゃんだって「よい人」ではあるけれど、やっぱり仕事のできない劣った人間である。スタイ

  ンベックの『ハツカネズミと人間』に出てくる主人公もとてもよい人間だが、やはり頭が悪くてマヌケ

  である。ドストエフスキーは無条件に美しい人間を描こうとして、『白痴』を描かなければならなか

  った。


   「よい人」というのはわたしより劣っていて、わたしの自尊心を傷つけないがゆえに「よい人」

  なのである。わたしはこれらの言葉に出会うまで漠然と「善い人」は「よい」という同語反復の

  イメージしかもっていなかったのだが、不満が高まっていたからか、やっと化けの皮がはがされ

  たという感じがした。


   しかしこういう認識を得ても、それまでの行動様式や染み込んだ感情形態というのはちょっとや

  そっとでは変わるものではない。いきなり、冷酷な人間や非情な人間になれるわけではない。

  人より優れていたり、優秀な人間であることを宣伝したり、またみずからのイメージとしてとりこむ

  ことも急にできない。「よい」という言葉に特別な意味をもとめなくなっただけで、人から「よい人」

  に見られたいという行動様式はたぶん自分から抜け切らなかったように思う。


   人より劣った人間になること――わたしの中にはこういった「人生脚本」がいまだにわたしの

  行動を支配しているのかもしれない。「人生脚本」というのは交流分析の言葉で、子供のときに

  親から「優れた人間になりなさい」とか「劣った人間になりなさい」とか無意識下に発せられた

  メッセージを忠実に証明してしまうようなプログラムのことである。「グズな子になりなさい」と

  発せられた子どもは無意識に自分がグズであることをいつも証明してしまうようになるそうだ。


   よい人というのは人より優れてしまって人の心を傷つけてしまったりはしない人のことである。

  よい人というのは人より劣ったバカでなければならないわけである。それでこそ、人にとって、

  「よい!」人なわけだ。TVの『裸の大将放浪記』はバカだったからこそ、よい人であるわけだ。


   さてこの世は競争社会である。そして身分や階層、位階秩序といったものが幾重にも重なる

  世の中である。まちがっても学校民主主義が教えこんだような平等社会ではない。虐待や非情

  な身分制度のようなものが歴然と存在する社会である。われわれはそういった差別や非情を

  恐れてがむしゃらに働き、またはがむしゃらに受験勉強に励む。こういう差別的仕組みによって

  こそ、人はがんばり、産業は儲かり、国家は繁栄するというのが競争社会のからくりである。

  差別されること――つまり落ちこぼれることを恐れて人はがむしゃらに努力・向上しようとする。


   こういう世の中で「よい人」であろうとする人はいったいどのような運命に出会うのだろうか。

  かれは劣等、劣悪な環境、差別的な待遇に落ちて行くのだろうか、それとも非情で打算的な

  成功的・商業的人格を身につけてゆくのだろうか。かれは人を搾取したり、扱き使ったり、差別的

  待遇に処したり、人をバカよばわりするのだろうか。かれは人より劣っていなければならないと

  いう「よい人」の役割をどうやって脱ぎ捨てるのだろうか。


   戦後の社会は人の上に立つことを究極の目的にしてきた。出世すること、社長になること、

  金持ちになること、地位を得ること、つまり人より優れたり、エラくなることが戦後日本の目標で

  あった。人の上にのさばり、エラソーにし、人を差別し、おとしめ、人に命令し、人をこき使うことが、

  われわれの賞賛の的であったわけだ。立身出世とはそういう非情なものではなかったのか。

  戦後の日本人はよくも無邪気にこんな人生コースを賞賛したものだ。


   よい人であろうとした人はこういう世の中でどうなっていったのだろうか。ビジネス的な人格を

  身につけて行ったか、それとも低空飛行やドロップアウトに落ちついたか。しょせん、よい人なんて

  いう願望はただの子供向けの童話にしか過ぎないのかもしれない。この世の中はそんなキレイ

  ゴトがまかり通る世の中なんかではないし、力と権力で動いているというのが現実だ。そういう

  論理の中で、臆面もなく、エラソーになろうとするしかないのかもしれないな。


   しかしだいたいこういう単純な二元論自体がたいへん怪しい。人より劣っている人間がエラく

  て、人より露骨に優ろうとする人間がよくないという思い込みをもっている。つまりよい人はよい

  という、ショーペンハウアーやニーチェに指摘された過ちをまだ抱えもっているということだ。わたし

  はニーチェの思想や大衆社会批判といった本をたくさん読んだが、必ずしも深く理解しているとは

  言い難いし、頭の中ではよく整理されていないし、時間がたつごとにその毒の部分を薄めてきた

  ような気がする。よい人と、社会的に優れることを同一上に並べる発想もおかしいのかもしれない。

  まったくべつのことなのか、それとも同列に論じられることなのか。


   「よい人」というのはたぶん戦後民主主義の平等的な考え方も入っているのだろう。天は人の

  上に人をつくらず、下にもつくらずといった平等観も、よい人の構成要素に入っているのだろう。

  こういう理想的な平等観の正義――非現実的な理想を抱えもった人間はこの現実の競争、階層

  社会になにを思うのだろうか。理想をもつのはいいだろうが、現実の世界というのは非情なまでの

  優越、差別によってかたちづくられる社会である。へたな理想なんかもっていても、差別的待遇・

  劣等的待遇に押しつぶされるのみである。そのへんの二重舌社会をしっかりとわきまえておくべ

  きだ。


   「よい人」になりたいというのは、じつは「劣った人」になるということなのである。そして現実の

  競争社会では差別的・劣悪的レッテルに押しこめられることでもある。そうではないのか……。

  この人より優れたり、エラソーになることが推奨される社会では、かれは劣った人間であることを

  証明しつづけ、落ちこぼれてゆくばかりではないのだろうか。それでもよい人になりたいのなら、

  劣って人からよいといわれたいのなら、そういう運命を享受するしかないだろう。






  参考文献

   ショーペンハウアー『幸福について』 新潮文庫
   ニーチェ『道徳の系譜』 岩波文庫
   ニーチェ『善悪の彼岸』 新潮文庫
   ミュリエル・ジェイムス/ドロシー・ジョングウォード『自己実現への道』 社会思想社



        大阪ホームレス・テント村報告


                                                1999/10/1.




    いま、大阪市はスゴイことになっている。ホームレスの暮らすテント村がいたるところで

  増えつづけている。行く先々で青いテントが群れをなして増えつづけている。


   わたしは大阪市の南端、住吉区に住んでいるが、北も南もホームレスの青テントに囲まれて

  いる。わたしはサイクリングが好みなので、緑の公園でぼーっとしたり、河川敷をサイクリングする

  ことに快さを感じているので、そういったところはホームレスが住み着くところなので、とくにテント

  村に出会いやすいわけである。大阪市内の緑の公園はもうほとんどホームレスの青テントに占領

  されたといっていい。


   今回はそのホームレスの現状をわたしの知る限りリポートすることにする。大阪以外の人に

  いまの状況を知ってもらいたいと思うし、大阪に住んでいる人にはいまあらためてわれわれが

  住む街がどんな状況になっているか、知ってもらいたいと思う。いま、テント村のある公園を訪れ

  る人たちはその状況に驚きと当惑をもってテント村をながめているが、この人たちの気持ちが伝

  わればと思う。


   ある週刊誌によると大阪市の三大テント村がある公園は扇町公園と大阪城公園、長居公園

  であるそうだ。


   長居公園は東住吉区にあり、サッカーの競技場があったり、毎年国際マラソンが行われたり

  するスポーツのメッカである。日ごろ、多くの人がジョギングをしたり、老人たちが憩っていたり

  するところである。ちなみに生活保護をうけていた患者にひどい扱いをしていた安田病院はこの

  公園の西南側にあり、あの無骨な装飾をほどこした建物がいまも残っている。


   青テントはどのくらいあるのだろうか。ざっと見て百以上、二百、三百くらいはあるかもしれない。

  西側入口から入ると林のなかにぽつぽつと青テントが見受けられ、中央あたりにはいくつも群居

  しており、周遊道路には植物園の塀をとり囲むようにテントがずらっと並んでいる。子どもたちが

  遊ぶ児童公園のふちにも青テントはいくつか共存している。


   明らかに増えたのは今年99年と去年の98年くらいからだと思う。それまではいくつかあったか

  もしれないが、今年の増えようには驚いた。かれらはたいへんおとなしく、このあたりに犯罪が

  増えたとか、恐ろしい雰囲気があるということはまったくない。生活用品とかはけっこう持っている

  ようで、もちろん使い捨ての風潮があるからだろうし、食べ物はどうしているかよくわからないが、

  コンビニにしろファーストフードにしろ賞味期限や揚げたてが過ぎたらすぐに捨てるから、そんなに

  は困らないのだろう。空缶のリサイクルもいくらか稼げるようである。


   ここから南に下った大和川にはごくわずかの青テントが暮らす人たちが散在する。橋の下に暮

  らす人は以前からいたのだが、ベニヤ板でガラス窓までつけたりっぱな家まで出現している。

  ここの増えかたは長居公園のような激増ぶりを示していない。河川敷に立てたテントは今年の

  豪雨や台風のためにしょっちゅう水につかっていた。


   民俗学者の宮本常一によると昭和のはじめごろまでには大和川の橋の下に集落があった

  そうだが、いまはまたそういう時代に逆戻りしているかのようだ。夜になると自転車の荷台に

  大きなカゴをのせた人を見けることがたまにあるが、かれらはホームレスの人たちなのだろう。


   大和川を越えると堺市に入るが、南に下ると大仙公園や大泉緑地といった広大な緑の公園

  があるが、ここにまでホームレスの住み処は拡大されていないようである。いずれもとても気持

  ちのよい公園なのでこのまま保たれてほしいと思うが、住み処を失った人たちがそこにしか住め

  ないというのなら、仕方がない。


   住之江区の阪神高速大阪線の下には何年か前、市民の憩いの場として河川の公園化が

  おこなわれ、滝のようなものをつくったりしてなかなか心地よいところだったのだが、いまは

  やはりテントやダンボールがずらりと並ぶ風景が占めてしまっている。遮るものがなにもない

  から丸見えでかなり異様である。


   大阪城公園はたいへん広大な公園だが、ここにも数知れない青テントが林やあちらこちらに

  見られる。その数はやはりその大きさからいって相当なものになるだろう。さすがに大阪城の堀

  の内側にはほとんどないが、そのまわりがすごい。五百くらいはあるのだろうか。木のような、

  さえぎるものがあるところには必ず青テントがある。トイレのような水のあるところにはやはり

  多い。


   大阪市役所や図書館のある中之島公園にはホームレスの人が何年も前からベンチで寝てい

  たが、最近はどうなっているのだろうか。この川を上流にのぼって桜ノ宮公園にいたるまでにも

  相当数の青テントがつらなっている。川のあるところと緑の公園があるところにはいまでは、必ず

  ホームレスの青テントがあるといった具合である。家を追われた者にはそのくらいしか憩いの場

  がないということであり、ひるがえってみるなら、ふつうの市民の公共の場もその程度しかないと

  いうことだ。


   扇町公園はこのあいだ行ってみたら、なにかの工事がおこなわれており、すみっこのほうに

  まるで露店が出ているように青テントがひしめき並んでいた。ホームレスのいる公園は長居公

  園にしろ、工事がおこなわれていることが多いが、露骨な排除行為はおこなわれていないようだ。

  政府や役所はまだかれらへの対応を決めかねているのだろうか。


   阿倍野区の桃ヶ池や長池あたりの公園も、水と公園があるところには必ずホームレスがいる

  ようにやはり青テントが増えている。子連れの母がおり、老人が憩っている平和で日常的な風景

  と雑然とした青テントが共存しているのはなんとも異様だ。


   さて西成のあたりだが、ここは歴史的に路上生活者の町である。この不況だからこの町に流入

  してくる人たちもとうぜん増えたのだろう。天王寺公園には幾人も浮浪者と思われる人たちが

  たむろしており、(わたしもたまにここでジュースを飲んだり、たばこを吸ったりしているが)、ここから

  動物園前までの道にはずらずらーっとテントやベニヤの家が並んでおり、壮観である。こういう家

  を立てるようになったのは最近の傾向のように思われるが、ホームレスの人たちに意識の変化が

  おこったのだろうか。


   西成津守の西成公園はいま完全に柵がはりめぐらされている。よく知らないで中に入ってゆくと

  青テントがびっしりと並んでおり、いっしゅのスラム街のようになっていた。出口が見つからず、

  ひきかえすときにはさすがに恐ろしくなったが、同時に悲しくなった。時計の針をもどせないくらい

  状況はとんでもないところにきてしまったという感がする。


   さて大阪のホームレスの状況をざっとこんな感じであるが、このような人たちが増えたのは明ら

  かに平成不況の影響である。何年か前までは『あなたがホームレスになる日』といった本が売り

  出されてもあまりピンとこなかったし、扇情的過ぎると思ったのだが、ほんとうにこういう状況がや

  ってきたようだ。


   こんなに増えたのはやはり中高年以上の者たちの転職の難しさがあるのだろう。企業は門戸を

  閉ざし、人々はたちまち住家を追われる。中高年の社内高待遇と、若年層しか未経験者を受け

  入れないというこれまでの企業体質がこういう人たちを見事にシャットアウトし、路上での生活へと

  追いこむのである。かれらは経済主義や会社主義、進歩主義、年齢主義の犠牲者である。


   少数の企業が大儲けしたり、国際競争に勝ったとしても、こんなにたくさんの路上生活者を

  生みださなければならないとしたら、どこか絶対に歪んでいる。人間より大事にされる経済主義

  とはいったい何なのだろう? こういう個人より企業を大切にするといった戦後の仕組みがホー

  ムレスといった姿に端的に表されているわけである。


   ホームレスはじつはあのバブルの好況期から増えたといわれている。経済大国の夢を果たし

  たときと同時に個人の目標や理念は失われてしまったからだろう。また経済効率化の陰には

  都会の無関心な人間関係が進行し、この貧困さが人々を路上への生活へと向かわせたといわ

  れている。この寒々しい経済主義の世の中でがんばる気にもなれないということを、かれらは

  感づいてしまったのだろう。労働条件のキビしさや長時間労働、際限なき奉仕といった日本的

  企業のヒドさもかれらが路上へと逃げ込むことになった一因だと思う。ホームレスの中には怠け

  者だけだとはいえない、そういった面があるのを忘れないでほしい。


   テント村のある付近の人たちは、こういった現況が進みつつあることに驚き、当惑し、いちよう

  にどうしたらいいのかわからないようである。老人たちが憩っていたり、母と子どもが遊んでいる

  となりにはいくつものテントが共存している。排除しようとする気持ちを、平等的な民主主義観を

  もっているかれらはあまりもたないようだし、かといって手を差しのべたり、助けようともしていな

  いようである。ホームレスたちはこういう無関心で貧困な人間関係から逃れてきたのかもしれない。


   いま、大阪市内は川と緑の公園があるところにはホームレスのいないところはないといった

  状態になりつつある。経済大国や金持ちニッポンといった自負は、虚構の繁栄だったようだ。


   われわれにはなにが求められているのだろうか。企業のみの繁栄、個人を犠牲にした経済を

  このまま続けていってよいのだろうか。市場競争も大切であるかもしれないが、そのまえに個人

  がすぐに路上生活に転がり落ちないような仕組みと企業の社会的責任が問われるべきではな

  いだろうか。個人が企業からまったく守られないという近代以降の社会政策をあらためるべきで

  はないだろうか。





  関連エッセー

   ひたひたと忍び寄る経済の惨禍 99/7/11.
   ホームレス激増とジョブレス社会に思う 99/6/5.


     ご意見お待ちしています。    ues@leo.interq.or.jp 



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