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1999年全断想集




 働と自由についての断想集 99/10/15.  
 エリート幸福論のツケはだれが払うのか/金のモノサシ、自由のモノサシ/自由と社会的地位の低さ/労働者にとっての自由となんなのか/労働のなかの自由か、労働からの自由か/etc

 人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.
 愚か者に堕ちる/落ちこぼれろ!/ちっぽけな自尊心/フリーター急増の理由は社会保障の失敗だ/「栄光」のない人生/人間の相対的な価値観を超える/バカになればいいetc

 転げちる時代の断想集 99/11/21.
 金貸し業なんか信用するな!/日栄だけの問題ではない企業体質/自己保身と組織/老後の保障なんて大キライだっ!/転げ落ちる時代の轍/崇高な利他主義のないところetc

 主婦の優についての断想集 99/12/6.
 金持ちのしたい放題ではない社会の想像力/半年働いて、半年休む/閉塞時代の文学史/フツウ人の終わり/書物はいつなくなる?/狭い集団の勝ち負け/新しい優越ゲームの発動etc

 仕事と将来の不安についての断想集 99/12/31.
 見殺しにされる高齢労働者/お子ちゃまマーケットが減るということ/メディア・リテラシーは必要である/なんのために本を読むか/偉くなる人生より楽しめる人生/今年読んでよかった本etc


労働と自由についての断想集


     新しい日付けが上に来ます。      



   インターネットは時間との勝負である。これまでのエッセー集はあまりにも文量が多すぎて、
  最後まで読んでくれる人はいるのかとちょっと心配でした。ということでなるべく短めの文章をこれ
  から書いてゆく努力をするつもりなのでよろしくお願いします。

   更新間隔もまだ決まっていませんし、どのあたりの内容までとりあげるのかも決まっていません
  し、試行錯誤でやってゆきますので、内容が固まってくるまでしばらく成り行きまかせです。

   予定ではこれまでのエッセー集は暫時縮小してゆき、長編になりそうな場合にはエッセー形式
  を利用するといった具合にしたいと考えております。




     労働のなかの自由か、労働からの自由か   99/10/15.


   仕事とのかかわりにおいて自由はふたとおりあると思う。労働の中に自由を求める方向と
  労働から離れたところに自由があると思う考え方である。

   仕事のなかに自由を求める者は出世して高い立場に立つことによって自由を得られると考えて
  きた。人に命令される服従ではなく、人に指図し命令する自由である。戦後の人たちはこういう
  ことをめざしてきたのではないだろうか。またこれには消費選択の自由の増大もある。

   近頃の若者に根強いのはやはり「クリエイティヴ」な仕事によって自由を得られると考えること
  だろう。ものを創造したり、デザインすることによって、機械や組織に使われない自由を得ることが
  できると考えた。3K職種が嫌われたのはなにもキツイやキタナイからだけではないのだろう。

   わたしが思うに出世で得られる自由は外から見れば、どう見ても企業組織という狭い井戸の
  中での自由でしかないように見える。またポストを得るためにどう見ても隷属としかいいのようの
  ない状態に陥ってしまっている。わたしの自由の選択のなかにこれがないのはとうぜんである。

   クリエイティヴのなかに自由があると思うのはわたしの中にもあるのだが、どうもたいがいの
  仕事はクライエントの意のままに従わなければならなかったり、ちっぽけな需要や要望を満たす
  ためだけの仕事であったり、ここに自由があるかはだいぶ怪しい。趣味に逃げたほうが賢いか
  もしれない。

   で、わたしは労働からの自由を求めたわけだが、ここにはとうぜん貧窮と不安定と不自由が
  ある。さげずまれたり、みじめだと思われたり、身分的差別をうけたり、下請的待遇をうけたり
  する。この自由は社会的承認をうけていないから、よけい精神上にも悪い。

   社会は労働からの自由をほとんど希求していなし、あるいは若者に現れるそのような現象を
  理解すらしていないから、法的保護や規制がほとんど行なわれず、政府の網の目からぼろぼろ
  ともれ落ちる行動を若者がおこす結果になってしまっている。

   ひところ余暇論やレジャー論が騒がれたが、おかげで気違いじみた集団強制と強制的レジャー
  がまきおこった。平成不況はこれとは無縁ではない。自由への希望がとんでもない隷属、不自由
  に逆転してしまったことに恐れているのだろう。

   自由に憧れた者は後ろ向きに落ちてゆきながら、労働からの自由に足をふみいれつつある。
  たとえば登校拒否やひきこもり、フリーター、失業、リストラによって、あまり褒められない自由を
  享受しつつある。これまでの常識では落ちこぼれと見なされたもののなかに、世間がポジティヴ
  な自由を見出せるようになるのはいつのことだろうか。   






     他人本位の仕事と自己実現?    99/10/14.


   仕事というのは他人のためにすることである。他人のためにモノをつくったり、他人のために
  サービスをしたり、他人のために奉仕することが仕事である。

   しかし昨今の若者は自己実現ややりがいといった自己本位の動機をとくに尊重する。個人
  主義やミーイズムの時代がそうさせているのはいうまでもない。そして他人本位の仕事、自分
  の楽しみや喜びを見出せない仕事に幻滅し、ときには強烈な自己無価値感を味わう。

   これはなんだろうなと思う。仕事というのは他人に奉仕するものなのに自己の喜びを優先する
  わけである。そもそも他人に喜びを与える仕事にそんなに自己満足があるものなのだろうか。

   戦後の企業は収入や社会的地位を高く上げることによって労働者のモチベーションをつりあげ
  てきた。他人や消費者の喜びより、自社の従業員の自己満足、自己実現が重要になってきたわ
  けである。そのような流れの末裔として、新入社員たちの幻滅があるのではないだろうか。

   他人に奉仕し喜ばせ、それによって収入を増やし、社会的地位をあげるという仕事は変なもの
  である。一種のボランティアや利他行為の強制のようなものが仕事にはある。利他行為つまり
  社会では善行とよばれるなかに利己主義があるというわけである。

   こんにちでは利己主義や自己実現といった自分本位な気分のほうが濃厚である。なによりも
  自己満足や収入や社会的地位の上昇に仕事のモチベーションがある。他人のために奉仕する
  仕事のなかにそんな強烈な利己的満足を追求できるものなのだろうか。

   そもそも利己主義な若者に利他主義の喜びなどそんなに感じられない。また企業全体や社員
  全員が利己主義に走っているため、他人の喜びを感じられないのかもしれない。

   この自分主義の時代に他人奉仕の仕事にどれほどの自己満足を見出せるというのだろうか。
  仕事の重要性と意味がどんどん崩れてゆくのは、時間の問題である。






     仕事に意味を求める若者たち    99/10/13.


   NHKの『会社を辞める若者たち』は期待して観ていた。中高年のリストラも問題だが、同時に
  会社をすぐ辞める若者たちもそれに劣らぬ問題だということが見過ごされている。この意味を
  つかまないことには社会も企業もつぎの時代を乗り切れないだろう。

   コメンテーターの中では鷲田清一がいちばんはっきりとしたことを言っていて、こういう番組には
  とうぜん出てくる佐高信より冴えていた。あとふたり出ていた人は忘れてしまった。

   かれがいうには、若者が会社をすぐ辞めるのは「いまやっていることの意味や結果」を知りたい
  からだという。「意味への問い」だ。

   むかしは将来の目標のための働けたのかもしれないが、いまの若者はいまやっていることの
  意味を切実に求めている。もしそれがなければ働いている意味がない。

   会社での仕事の意味が見えなくなっているということだ。会社が大きくなり過ぎて硬直したり、
  下積みばかりやらされるとか、冒険ができないといったことで、意味が見えない。

   インタビューされた若者たちは仕事に過剰なやりがいや自己実現、意味づけを求めているよう
  で、それはおそらく自己の価値を過大視しているように見受けられるのだが、社会はこういった
  誇大自己の若者をなぜか大量生産したようである。現実との恐ろしいギャップを戦後社会は子
  どもたちに植えつけたようだ。

   会社はもう若者の過重な期待をひきうけられないのだろう。会社は「社員」としてではなく、
  「個人」として遇さなければならないと鷲田清一がいったように、人格を丸ごと買いとるような扱い
  はもうやめるべきなのだろう。いまの企業社会にそのような転換の意味がわかるだろうか。

   若者の行動は未来の先取りと指摘されていたが、その若者に合った社会や企業に変わること
  ができるだろうか。そうなってはじめてわれわれは幸せな人生を送ることができる。





     労働者にとっての自由とはなんなのか    99.10.12.


   朝から晩まで企業に拘束され、一週間の大半も企業に囲われ、一生のほとんどを企業に
  奪われる労働者にとっての自由とはなんなのだろうか。こんな一生に自由はあるのか。

   これまでいわれていた自由は消費選択の自由であった。家電や車、レジャーや旅行などの
  消費の幅と選択はたしかにどんどん広がっていった。

   しかしこれってほんとうに自由なのか。

   消費選択の自由を得るためには恐ろしいくらい働きづめで企業に束縛されなければならない。
  一生を捧げつくさなければ、そんな自由は得られない。一生を企業に奪われた人生がほんとうに
  自由といえるのか。

   こういった視点が戦後の人たちにはごっそりと抜け落ちていたようだ。金持ちや社会的地位、
  生活保障などをあれもこれもほしいと欲張っているうちにすっかりと奴隷になってしまっていた。
  奴隷になってしまったとわかったあとでも、金や地位、保障がなければ恐いと思ってしまって、
  ちっともオリの中から脱け出せない。

   消費の自由を得るために企業の奴隷となってしまったという次第だ。

   われわれがふたたび自由を得るためには金持ちや地位のある者がエラいという価値基準や
  評価をひっくり返すしかないのだろう。かれらを奴隷や自分の人生を喪った人間だという蔑みや
  あわれみが必要になる。自由を評価する社会風土が育まれる必要がある。

   われわれの心にそのような意識が芽生えたとき、労働者ははじめて自由になれるのだろう。




      みんな会社を辞めよう!      99.10.11.


   会社にしがみつくから会社はエラソーになる。みんなが会社を辞めたら、その会社はとうぜん
  青ざめる。しかしそうならなかったのは、みんなが会社にしがみつこうとしたからだ。

   いまの大卒の若者は三年以内に三割の人が辞めてゆくそうだ。みんな、もっと辞めてゆかな
  ければならないとわたしは思う。でないと会社はいつまでもエラソーにわれわれを扱き使う。

   自由主義者のフリードマン『選択の自由』によると労働者を守るのはほかにかれを雇いたい
  会社がたくさんあることである。会社間の競争をすることによって労働者は守られ、待遇もよく
  なる。逆に会社も雇える労働者がほかにもたくさんいることによって、労働者から搾取されない。

   戦後の日本は長期勤務に有利な仕組みをたくさんつくった。退職金や年金、年功賃金といった
  ものだ。これは戦時中の国家総動員体制がそのままひきつがれている。お国の非常事態の
  ドンパチのためにわれわれの自由は制限されてきた。

   そのためにいまの中高年は会社にしがみつかざるを得ず、今度は高コストになってリストラと
  いう目にあった。

   われわれは会社を辞めてもっと転職市場を広げるべきである。会社間にも競争原理を導入して
  だれも行きたがらない会社はつぶすべきである。そのような市場の制裁機能を働かすためには
  われわれはどんどんいやな会社は辞めてゆかなければならない。

   労働者の人権を無視したり、長時間労働を強制したり、ひどい会社はみんな辞めてしまおう。
  そうすれば、そんな会社はこの地上に存在できなくなる。

   市場原理が働けばわれわれの働きはもっと楽になると思う。中高年はもう政府が年金の変更
  や法的規制でもしないかぎりなかなか転職できないが、若者はいまのうちにどんどん飛びまわる
  べきである。飛べるうちに布石を打っておかないといまの中高年と同じ運命に会うだろう。





     自由の価値とは何なのだろうか    99.10.11.


   自由は金を生まない。安定も財産も生まない。だからだれも評価しない。

   金や財産、安定を求めれば求めるほどなにかに隷属することになる。保険がほしい、老後の
  保障がほしいと思うと企業や政府にますます隷属せざるを得なくなる。そして自由は消滅する。

   だから人は自由を求めようとするが、安定や安全のためにそれを捨てざるを得なくなる。あえて
  安定を捨てて自由を求めようとする人はよほど奇特な人なんだなということになる。

   それでも自由を求める価値はあるのだろうか。金や財産、安定を捨てでも、自由は手に入れな
  ければならない何かなのか。

   奴隷の屈辱や権力や権勢に服従するふがいなさといったものは捨て去ることができる。しかし
  権力の恐ろしさや権勢から排除される怖さも味わわなければならないだろう。そのうえ、隷属者に
  与えられた生活保障や老後保障といった権利も失わなければならない。だれも自由にはなりたい
  と思わないだろう。

   権力に屈しない自尊心といったものはもつことができるかもしれない。でもたいがいの人は安定
  しない生活と権力の強力さに蹴落とされて、そんなものを味わう余裕さえないだろう。

   隷属し、人生を捨て去ることでしかわれわれは生きてゆけないのだろうか。そのような世の中で
  自由の価値とはいったい何なのだろう。





     金のモノサシ、自由のモノサシ   99.10.11.


   自由のモノサシというのはひじょうに見えにくい。金のモノサシというのはひじょうに見えやすい。
  だからだれもが何事も金のモノサシで価値を測る。

   戦後の人たちは金のモノサシしかもたなかったから、金への憧憬と羨望だけを持ち合わせ、
  したがってさまざまなものの奴隷になった。

   わたしが感じるに親やその世代は自由というモノサシをまるでもたない。だから金のモノサシだ
  けで物事を測り、自分たちがどんどん隷属化・奴隷化していってもちっとも恥じないし、気づきも
  すらしないようだ。安定が至上目的になり、自由の価値をまるでもたない。

   会社をクビになった人がなぜ会社に戻せと争議をおこすのか、わたしにはわかりにくかった。
  さっさと辞めたほうが自由になれていいのではないかと思うのだが、どうもこれまでの歴史的経
  緯とか長期勤務の有利さとかがいろいろあるようで、一筋縄ではいかないようだ。

   戦後の労働組合は雇用の確保とか昇給とかをのぞんできて、かれらはそれが権利だとか成功
  だとか思い込んできたようで、それが企業への隷属をおしすすめたということにまるで気づかない。

   したがって自由のモノサシをもつ若者は自ら転職や大企業を辞めたり、フリーターになったりする。
  安定や金があることより、若者には自由が大切であるからだ。

   しかし自由のモノサシというのはひじょうに弱い。若者は年をへるごとに安定と金のモノサシに
  絡みとられてゆくことになる。自由なんてものは金も権力も安定ももたらさないからだ。

   こうして自由のない従順な国民だけのいる社会になり、企業の奴隷国家となる。

   われわれには自由のモノサシをもつことはできないのだろうか。自由の積極的意味や優越、
  自尊心というのはもつことができないのだろうか。自由を評価できるモノサシはわれわれには
  育まれないのだろうか。





     自由と社会的地位の低さ    99.10.8.


   自由になろうと思えば社会的地位の低さに甘んじなければならない。ときには差別的・軽蔑的
  待遇にも耐えなければならない。

   自由というのは社会的に必要ないということなのであり、社会的に無用だからこそ自由でいら
  れる。たとえば定年退職者のように社会的に必要とはされていないが自由といった具合だ。

   戦後の人たちは自由より、社会的地位の高さを求めてきた。そして安定や保障をなによりもの
  宝だと思ってきた。おかげでかれらは社畜になり、奴隷のような存在になった。

   しかしかれらは戦後の基準でいえば、エリートなのであり、成功者なのであり、幸福を手に入
  れた者なのである。

   こういった自明の基準とされるものがわれわれに巣食っているから、われわれはてんで自由に

  なれない。しかもこの基準でいえば、自由は落ちこぼれになることであり、脱落することであり、
  敗者や弱者になることであり、差別されることなのである。

   いま、自由になろうと思う者がぶつかる障害はこれである。だから自由を手に入れようと思う者
  はなかなか自虐の念から自由になれない。自由と拘束のなかでもがくしかない。

   自由になろうとする者は社会的軽蔑のまなざしを受け入れるしかない。奴隷で満足した者は
  社会的地位と金銭の多寡によって自由な者を軽蔑するのである。かれらの非難から自由になれ
  るだろうか。





    「エリート幸福論」のあとにくるもの   99.10.8.


   エリートになれば幸福になるといった神話の崩壊がしきりにささやかれているが、ひじょうに
  つくり事めいて聞こえる。すでに崩壊して久しいものを事後確認しているようなものだ。

   ではそのあとになにがくるのかといえば、明確ではない。「有名人幸福論」といったものが
  世間では強そうだが、これに与かれる人はひじょうに少なくて、ひそかに不幸の蔓延を招いていた
  のかもしれない。われわれにできることは有名人の着ているファッションを身につけたり、動作や
  口調をまねたり、カラオケで歌ったりすることで満足してきた。

   「有名人幸福論」を大衆化するためにひじょうに都合のよい技術がやはりできあがった。インタ
  ーネットである。

   エリート幸福論ができあがったとき、人々が学歴に殺到し、学校の義務教育化・大衆化がおこ
  なわれたように有名人幸福論もその大衆化があとからやってくるのだろう。

   しかしエリート幸福論が虚構であったように有名人幸福論もただの幻想である。その夢が醒め
  るまで有名になろうとする衝動はいつまでも覚めやらないのだろう。

   われわれにほんとうに必要な幸福論というのは市井のなんにもない、ごくふつうの日常生活の
  なかに求められるべきなんだろう。そういった無名の人のなかに幸福を見出す技術をつくりださ
  ないと、「何々」になれないから不幸だという気持ちは拭い去れない。

   無名のなんでもない人たちのなかに幸福を見出すということはひじょうに大切である。そういう
  人生の先輩としてひじょうに身近なところに親がいるのだが、われわれのたいがいは親を軽蔑して、
  親のようにだけは生きたくないと思い込むようになっている。

   それがエリート幸福論や有名人幸福論の原動力や進歩主義のエネルギーになってきたのだが、
  おかげでわれわれはいつも不満と自己非難ばかりつづけて幸福になれない。





    下り坂の時代と知足安分    99.10.7.


   下り坂の時代にはこれまでのようなたくさんの夢や希望、理想といったものをもっていたら不幸
  になる。それらが叶うパイは限りなく少なくなり、どちらかといえば挫折や失敗、脱落といった辛酸
  を味わう機会が増えてしまう。

   夢や期待が大きければ大きいほど、それに裏切られる痛みは大きくなり、苦悩や苦痛も大きく
  なる。だから下り坂の時代には知足安分の知恵がひじょうに大事になってくる。

   知足安分というのは字のごとく足るを知り分をわきまえるということだ。いらぬ欲望や期待を抱か
  ず、現状で満足するということである。期待を抱かなかったら現実に痛めつけられることはない。

   これまでの時代というのは夢や希望を抱くのが当たり前のことであり、それを推奨しており、
  なおかつそれをもたないことは空しい、恥ずかしいことだと教えられてきた。

   そうして今日の不満を明日の希望に託したり、今日の不満を電化製品や車といったもので代償
  してきた。われわれががんばったり、地位や所得の上昇をめざしてきたのは、そういった今日や
  自分の不満を抱えることによって、そのエネルギーを点火してきたからである。

   でも下り坂の時代には夢や希望を叶えることがたいへん難しくなってくる。そうなると夢や希望は
  ただ自分自身を責めさなむ刃に変身してしまう。理想が高すぎて、いまの自分を徹底的に切り刻
  んだり痛めつける結果におちいってしまう。

   知足安分の知恵はそういうわれわれを安らかにする知恵を含んでいる。落ちこぼれたり、悪くな
  ってゆく現状に傷つけられないための心のもちようを教えてくれる。仏教や老荘思想にはそういう
  知恵がたくさんつまっている。

   このまま下り坂の時代がつづき、中流階級が没落するようになると、ますますこの知恵は重要
  になってくるのではないだろうか。大きな時代の流れには抗えない。




     金欠と読書の興味    99.10.6.


   いまはたいへん金欠であるが、金欠になると読みたい本がなくなってくる。書店や古本屋を
  さんざん巡ったあげく一冊も読みたい本を見つけられずに疲れてしまう。

   なんでだろうなと思うが、金や読書に自分の興味が依存していたことになる。金がなければ、
  興味さえわかないというしだいだ。

   ふっと自分の興味が読書によって方向づけられているんだなと気づく。自分自身の興味や
  関心から考えたいことを思いつくことができなくなっている。

   ショーペンハウアーは読書とは他人にものを考えてもらうことだといった。読書ばかりする人間
  はしまいには自分でものを考えることができなくなると警告していた。

   この言葉に気をつけていたのだが、いつの間にかわたしは読書ばかりして自分で考えることが
  できない人間になりつつあるようだ。自分でものを考えようとすれば、稚拙になり過ぎたり、もう
  すでにだれかが考えたりしていたりして、ついつい読書に頼ってしまう。

   この情報社会にそんなに独創や個性にこだわり過ぎる必要もあるかとも思うのだが、たしかに
  わたしは他人がすでに考えていることしか考えられないようになってきている。もうすこし、自分
  の日常や生活からわきあがってくる疑問を大切にしたいと思う。「なぜ」と問う精神を大切にしたい。

   哲学者でなくともこの独創や創造的な思考をもつことはひじょうに大事である。なせならわれわ
  れも日常の生活のなかで固定的な思考パターンにはまってしまい、不幸や苦悩をかこち勝ちで
  あるからだ。

   柔軟な発想や突飛な思考は、われわれの陥った不幸からの脱出口を見出してくれる。





    新聞のニュースとわたしの興味    99/10/5.


   新聞はもう十年もとっていない。ニュースはテレビで間に合うし、世の中必死になって知らなけ
  ればならない情報なんてさして多くないと思うからだ。テレビだって半年や一年も見ないときも
  あった。でもテレビがないと友だちがもってきてくれたり、職場の連中がわあわあ言ったりする
  ので仕方なく買ったりした。

   だいたい新聞が報じる内容の多くはやはり、わたしの興味とズレている。新聞ってやはりツマラ
  ナイのだ。新聞が報じる政治や国際情勢、経済というのはほんとうにおもしろくない。

   書物で読めば、わあおもしろいというところでも、新聞報道になってしまうとたちまちつまらなく
  なる。たぶん物語りとして読まなければならない書物と、ぶちぶちに断片づけた新聞の違いなの
  だろう。書物であれば、身近な人間的な視点でものごとを切りとってくるが、新聞はどうもそういう
  身近な視点がないからつまらなくなるのだ。

   でも究極のところニュースというものは、一般の人たちにとっての日常や毎日とぜんぜん接点が
  ない、ということがいちばんの理由なのだろう。わたしがいちばん興味があるのは自分の日常や
  生活からわきあがってくる疑問や問題であったりする。つまり仕事のことやまわりの人間関係、
  社会や権力序列といったことだ。自分が生きて日常を過ごすためにはそういう知識や情報がいち
  ばん大切であり、価値あることなのである。

   それがこれまでの人たちは新聞ニュースを知っていることが偉いと思い込んできたし、そういう
  世間話をすることが社会人の条件だと見なしてきた。われわれがいちばん多くかつ長く過ごす
  日常のことがすっぽりおろそかになり、抜け落ちてしまっているのは、なんとも愚かなこととしか
  いいようがない。われわれが知りかつ探求しなければならないのはこの日常の社会ではない
  のか。

   マス・メディアは日常の一段上にあるニュースを伝える。一般の人たちにとってはほとんど関係
  のない事柄だ。しかしかれらの頭の中はそのことでほぼ占領される。マス・メディアは世間一般
  の話題を各個人にコピーし、大量に頒布する。そうしてわたし個人は、マス・メディア的視点で
  ものごとを見てものごとを判断するようになる。

   日常のいちばん大事で必要な事柄についての興味や知識や思考能力、判断能力はてんで
  育まれず、ぽっかりと抜け落ちた「マスメディア・コピー人間」が大量生産される。

   われわれが興味を持ち、考え、探究しなければならないいちばんのものは、世間一般のニュ
  ースではなく、まさにわれわれが生き、生活する日常の社会ではないのかとわたしは思うのだが、
  ほとんどの人は新聞が考えることを考えている。






    なにが2000年だ? バカモノ!   99/10/5.


   基本的に年の変わり目を祝うということはあまり好きではない。あくまでも便宜的な年月日の
  変更線にすぎないと思っているからだ。それをみんなはさも偉大なことやなにか大きな変化が
  あるように祝うのはどうも好きではない。祝ったり、喜んだりすることが大きくなり過ぎて、その
  中身・内実といったものが忘れ去られているか、空っぽになっていると思うからだ。みんな、形式
  的に祝っているに過ぎないのだ。

   だいたい西暦なんてものはキリストの生誕をもとにしている。信者でないものが祝ってどうする?
  べつに釈迦生誕年でもいいし、マホメットでも、ゾロアスターでもいいじゃないか。

   こういう考え方をしているから、わたしはあまり「新年」とか「元日」なんていうのは極力ふつうに
  過ごすようにしている。大晦日に年越しそばを食べたり、『紅白歌合戦』などを見たりするのを
  ひじょうに嫌っていた。

   しかしそれはみんながすることや慣習といったものをことごとく目の仇にしていた十代のころの
  話だ。いまは新年を祝うことにはそれなりの理由やべつの意味があるように思うようになってきて
  いる。気持ちをあらたにしたり、年月の去りようを意識することができるし、またいつもは集まらない
  親戚や知人が集まったりする機会をつくったりするので、それなりの用途があると思うようになっ
  てきた。

   でも2000年というのは、あくまでも便宜的な日付変更線だと思う。ただのSame Daysだ。






    楽天的でいけたのならいいのだけど……  99/10/3.


   いつも楽天的にものを考えることができたのなら幸せだろう。でもそうはならないのが、
  哀しい性である。批判や悲観的な考え方でものごとを捉え、それがどんどん固まってゆき、
  ゆるぎない「現実」となり、その「現実」に追い立てられ、責め立てられるという毎日に終わって
  しまう。

   考え方や捉え方だということはわかっている。見方を変えたり、発想を変えたり、違った角度
  から同じ物事を捉えること、そうすれば幸せ感や不幸感も変わってくるはずである。でもそうなら
  ないのは、自分の身にしみついた思考の回路や習慣のせいである。ついつい同じ悲観的・批判
  的な考え方で現実を捉える自分が存在してしまうのである。

   この習慣を絶ち切るためにはよっぽどの不幸感がやってこないとムリだ。根こそぎ自分を変え
  てしまいたいと思うほどの不幸や挫折感が自分に襲ってこないと、これまでの習慣を容易に変
  えられない。

   わたしは一時期、楽天的(悪く言えば、アホ)になることで、ある程度は不幸にならないことを
  学習したはずである。思い出せば、子どものころわたしは底抜けの楽天バカだったから、けっこう
  幸せだった。楽天バカをやめたのはおそらく、バカにされる屈辱からだろう。頭でっかちになったら、
  やっぱりあんまり幸せにならなくなった。

   そういうことになって楽天的になる必要性を悟ったのだが、時が経つごとにそれへの熱意は
  冷めてゆき、前と同じような思考習慣にふたたび帰ろうとしている。

   折りにふれて、自分の思考傾向や習慣を点検しなければならない。楽天的でいこう。





    エリート幸福論のツケはだれが払うのか   99/10/2.


  下関と池袋であいついで通り魔殺人がおこったが、TV『ザ・スクープ』ではこの二人にハイジ
 ャック事件の犯人を合わせて「エリートが壊れるとき」と題した特集をおこなっていた。いずれも
 九州大学や一橋大学などを出て就職時もしくは就職後に挫折した過去をもっている。ひとりは
 親の借金と蒸発というひじょうにつらい過去を経験しているから、いちがいにはくくれないところは
 あるが。

  学歴エリートの不幸な面が現われ出たわけである。優秀な学歴を得ると幸福な生活や優遇
 された待遇が待ちうけていると思い込んできた結果、学校とはまったく違う論理で動いている実
 社会でうまくやってゆくことができず、また不遇や挫折の経験をうまく処理することができなくなっ
 たわけだ。

  学校と経済社会は同じではない。ペーパーテストでよい点がとれても、経済社会では金儲けや
 処世術がモノをいってくる世界なので通用するわけがないのだ。それをこれまでの社会は学歴
 エリートになればよい会社に就職できたり幸福になれると思い込んできた。彼らはある意味では
 こういう世間の思い込みの犠牲者ともいえる。また、いまはちょうど学歴エリートが市場社会にお
 いてだんだん通用しなくなってくる時代の狭間である。かれらはそのギャップを受け入れることも
 できず、また自らを慰める知恵も処世術も持ち合わせていなかった。

  優秀な学歴と高いプライドをもっていれば、これからはやりにくいのかもしれない。学歴が高け
 れば、どこもかしこも優遇してくれるなんて、もともとまやかしの虚構だったのだろう。そんな世間
 の詐欺文句にだまされれば、現実との着地点をどこにも見出せなくなるだけだ。

  学校社会というのはヘンな幻想をつくりだしてきたのだろう。学歴のプライドや自尊心というのは、
 現実の仕事や金儲けに精を出すことを妨げる。あるいは社会の待遇に我慢できなかったり不満を
 もちやすい。違う方向の、たとえば知性とか頭脳とかの自尊心を育ててしまって、なかなか現実の
 仕事になじめないという傾向があるのではないだろうか。

  学歴エリートへの過剰な思い入れが世間から一掃されるまで、なぜあんなエリートが?という
 事件はまだ終らないのだろう。




      人間の比較序列を超える断想集                                           新しい日付が上にきます。




      社会保障はどれだけアテになるのか  99/10/30.

   退職金に年金に健康保険といった社会保障はどれだけアテになるのだろうか。これらが全部
  アテにならないとはっきりするのなら、しんどい思いをする正社員よりアルバイトで平気になれる
  のだが。

   先行きがわからないからとりあえず、これまでどおりの終身雇用的な正社員の仕事を探して、
  不採用通知を何通もうけとり、失業を長引かせる。社会保障が中途半端だから、われわれは
  立場を決めにくい。

   退職金は団塊世代の退職前になくなると考えろという人もいる。年金なんか若くなるにしたがっ
  て危険度が増すし、いまの市場原理優勢の流れからして見捨てられるかもしれない。将来の社
  会保障がどんどんなくなれば、そもそも正社員とはなんだ?ということになる。

   ウィリアム・ブリッジス『ジョブ・シフト』によるとこれまで前提としてきた終身雇用的な「ジョブ」と
  いったものが消滅し、臨時雇いか、自営業者のようにならなければならないという。もう消滅しは
  じめている過去のジョブにしがみついても始まらないということだ。墓場まで丸抱えのジョブが企
  業の採用意欲を制限させているそうだ。

   スーパーのお株がディスカウント・ショップに奪われたようにわれわれの値段もディスカウントされ
  るというわけだ。叩き売られた正社員は過去の郷愁を捨てて、自営業者のスピリットをもたなけ
  ればならないということだ。

   まあ、こんな社会保障の待遇がどうのこうのと悩むより、どうやって儲けたり、新しい仕事をつく
  りだすかということに頭を悩ませなければならない時代になったということだ。頭を切り換えられる
  か。これまでのアテがはっきりしないから、どれだけコストをかけても回収可能なのか予測できな
  い。




         自由の逆説?    99/10/29.

   ホームレスはしばしば犬を飼っている。マンションの住人は飼いたくても飼えないのにである。
  路上に出ると犬が飼えるというのは皮肉なことだ。



       こんな未来がやってくるのか?    99/10/29.

   「とどまることを知らない守銭奴の強欲さが、一度は両手をあげてこの守銭奴システムを受け
  入れた軍人と有識者、だが今や労役者の貧困レベルまで落ちてしまったその軍人と有識者に
  率いられた群集による暴動を、最期に引き起こすことになるのである。

   守銭奴の時代の末期に起こり、その社会の崩壊を早める革命は、不満が積もり積もった軍人
  と有識者によって引き起こされる。

   なぜか? 守銭奴によって彼らのすべての時間が生活費をかせぐためのみに向けられ、冒険
  や芸術といった活動、本来は軍人や有識者の心を揺さぶるような活動に向ける余裕がまったく
  ない状態に追い込まれているからである」         ――ラビ・バトラ『世界経済大崩壊』 


   スラム化しはじめているホームレスの住み処、あふれ出す失業者を見ていると、この予測が
  真に迫ったものに思えてくる。



         未来への禍根      99/10/28.

   いま、進んでいる経済状況がこのままひきつがれていったら、この社会は将来どうなってしまう
  のだろうかと心配になる。とくに未来に禍根を残しそうな三点について考えてみる。

     1.ホームレス問題 
     2.中高年の失業増
     3.若者の就職難・フリーター化

   ホームレス増加は職業観や社会観、人生観などさまざまなものに影響をあたえるだろう。この
  経済社会に恨みを抱く人、あきらめる人、自分の運命を見る人、さまざまだろう。その雑然とした
  雰囲気から将来にどんな騒乱をひきおこすことになるかわからない。革命思想や国家転覆の思
  想すら現われてくるかもしれない。

   中高年の失業増は若者たちに将来の不安とあきらめを植えつけるだろう。企業に不信や憎悪
  を抱く人が増えるだろうし、生活苦や借金苦にまきこまれた世帯の子どもたちは学業からはじき
  飛ばされたり、とんでもない非行化に走るかもしれない。この傷痕は長く人々の心のなかに刻み
  こまれてゆくことになるだろう。

   若者の就職難は若者から将来の希望や期待を奪いとり、絶望を植えつけるだろう。経済的およ
  び社会的な希望をまるで抱けなくなる。未来を背負うべき青年たちに出番がまるでないとなったら
  、かれらはどういう行動に走るのだろう? 未来の日本がいまここに醸成されつつあるということだ。

   いささか悲観的だが、何年か前の暗い予測がつぎつぎと現実になっている世の中だ。憂慮しす
  ぎということはない。未来はいま、ここにある。

   市場原理導入のまえにこれらの増加を防ぐ政策が緊急に必要だ。会社を守るより先に人を守
  らなければ経済の底が抜けてしまう。リストラよりワークシェアリングや給料カットなどで、雇用を
  守るべきではないのだろうか。あるいは優先的に中高年を採用するとか。かなり難しいかもしれ
  けど。少々の出血はやむえないどころか、ほんと出血多量でみんな死んでしまっても、後悔先に
  たたずだ。

   市場原理導入の優先順位がまちがっているのではないか。いまおこなわれていることはこの
  社会に深く大きな傷痕を残すのみになるだろう。





      「インターネット悪玉説」を刷り込まれるぅ……  99/10/25.

   さいきんHPのコンテンツをとりあげる事件や報道が多くなってきた。ニュースがとりあげるのは
  決まって「悪い」HPである。ニュースがとりあげるのは「悪い」事件ばかりだから仕方がないとも
  いえるけど、マスコミは「インターネット悪玉説」を刷り込みたいのだろうかと勘ぐりたくなる。

   今日は児童虐待のHPがとりあげられていた。逆ギレして開き直って児童虐待を肯定したHPだ
  ったということだが、マスコミに騒がれてすぐ閉鎖したそうだ。児童虐待については下記に記した
  ようにアルコール中毒と似たようなところがあり、児童虐待はいけないという戒めが逆に女性を
  追い込んでしまう作用があると思うから、ある種の開き直りは治癒の一過程になる可能性もある
  と思うのだが、そのHPは徹底的な虐待嗜好者だったとしたら同情の余地もないが。

   薬物販売や猥褻物販売はインターネット犯罪の定番のようになった。これはインターネットが悪
  いのではなく、インターネットが普及したら当然出てくる人間性の問題だ。

   告発HPを特集した番組もあったのだが、どちらかといえばネガティヴな部分で捉えていたように
  記憶している。和歌山の小学生いじめ事件を告発したHP、コンビニの解雇を告発したHP、欠陥
  住宅を告発したHP、といったものが紹介されていた。

   インターネットという個人も発信できるメディアができなかったら、これらの告発はマスコミにも
  とりあげられず、世間の知らないところで泣き寝入りで終わっていたのが関の山だろう。問題を
  個人の力で世間に知らしめることができるのはインターネットの重要な力だ。そういう情報の力を
  ネガティヴ一面だけで捉えるのはどうかと思うが。

   たしかに誹謗中傷や個人のプライバシー暴露が無秩序におこなわれるようになるのはおおいに
  問題だし、トイレの落書き程度で終わっていたことが衆目にさらされるというのは恐ろしいことだが、
  これはインターネットのすべての面ではなくて、ある一面にしかすぎない。日常の生活にもある部
  分である。

   犯罪や悪いことが多発しているからといってインターネットが悪いと考えるのは違うと思う。個人
  が世の中の不正や歪みを、マスコミに頼らなくとも発信できるというポジティヴな役割があると思
  う。マスコミはやはり狭いし、一部の人の偏見や先入観でつくられているともいえるし、マスコミの
  強制的な力にはわたしも辟易してきたから、マスコミの規制を外されるというのは社会の片隅に
  生きてきてどうしようもなく強いマスコミの力に翻弄されてきた個人には朗報だ。

   でもインターネットの個人の力というのは、わたしのHPのようにひっそりと影響力もなく開設し
  ているような者にとって、どこにそんな力があるのかと疑うくらいだ。まあ、マスコミの騒ぎに巻き
  込まれるなんて恐ろしいから、ひっそりとぶつぶつインターネットの片隅でささやいている程度が
  ちょうどいい。

   マスコミはインターネットの脅威にとまどっているのかもしれない。HPはこれからどれだけ影響
  力をもち、社会に波風を立てるかも未知数だから、牽制しているのだろうか。世の中はこの情報
  革命によっていったいどれくらい変わるのだろう。わたしはできるだけインターネットにポジティヴ
  な面を見てゆきたいと思う。




        バカになればいい    99/10/25.

   バカになれないから人間は苦しむ。賢さや正しさを捨てられないから苦しい。きっちりした服装
  やよそ行きの服装を脱げないから、人間は悩む。

   そんなものを捨て去ってしまってバカになれば、たいそうラクだ。憑きものが落ちたようにラクに
  なれる。

   たとえばアルコール中毒症には酒を飲む罪悪感があり、それを忘れるために酒を飲んでしまう
  という悪循環があるそうだ。酒から離れられないのは、酒から離れようと悩む心なのである。悪い
  ことをやめようとして、逆に悩む心が悪いことをくり返してしまう。賢さやまじめさが逆に自分を追い
  こんでしまうというのは、人間のよくある(ほんとによくある)逆説なのである。

   これは思考や記憶を捨てるという方法と連なる。かつてわたしはこの思考を捨てるという方法を、
  リチャード・カールソンに学んでショックを受けたのだが、いつの間にか思考や知識の重荷をかつ
  ぐ迷路にふたたび迷いこんでしまったみたいだ。

   思考や知識を重んじたり、価値をおく考え方が抜け切られないからだろう。だから思考を掘り下
  げてみずから苦しんだり、痛い目に会う過ちにおちいっている。老子にいわせれば、「お前はあく
  せくとして疑問を追い求め、まるで父母を見失った子が、竿をおし立てて広い海の上を血眼で捜し
  ているように見えるよ。あわれなやつだ」ということになる。

   「わかっちゃいるけど、やめられない」というやつだ。思考や知識にまだなんらかの価値や重要
  性を感じているから、まだ完全には捨てられないのだ。愚かであるのはわかっているのだが、わ
  たしにはまだ思考や知識の価値を捨て切れないようである。

   どこまで思考や知識が有効で、どこからがバカが有益なのか、線引きを探しているのかもしれ
  ない。また思考を掘り下げていって限界や苦しみを知ることによってバカのありがたさを身にしみ
  て味わおうとしていることになるかもしれない。もう少しバカとマチガイをくり返して試行錯誤しない
  と、わたしは「ほんとう」のバカにはなれないようである。「あわれなやつだ」




      ひきこもりと自由     99/10/24.

   家にひきこもる人たちが増えているそうだが、これってある一面では自由だなと思う。もしかして
  戦後社会がめざしてきた自由の究極の姿なのかもしれない。ただ社会的接触がなくなっているが
  ゆえの不自由の一面もあるが。

   戦後の市場社会というのは家にたくさんの楽しみやモノを集めることに熱中してきた。おかげで
  いまでは家の中にテレビやコンポ、ファミコンにパソコンと遊ぶのに困らない機種がそろっている。

   かつては家の中にぜんぜん楽しみがなかったから子どもたちは屋外で遊ばざるを得なかったし、
  大人にとっても会社のほうが快適で楽しいことが多かったそうだ。だから子どもたちは集団生活や
  社交になじむことができたし、大人だって一生懸命働けたのだろう。

   いまはそれが逆転してしまった。家の中のほうが楽しいし、学校や会社は苦悩や苦痛しかない
  ような要素も強くなった。このような時代に登校拒否やひきこもりなどの反応が起るのはとうぜんだ
  といえるし、こういう環境の変化に気づかない大人の現実認識も問題だ。

   われわれは自分の身の回りにいくつもの小さな自由を集めた。市場経済がそれを加速させた。
  子どもたちをマーケット・ターゲットにしたのは周知のとおりだ。

   つぎに変化が必要なのはつまらない学校や会社だろう。立場が逆転してしまっているのだ。
  むかしの楽しみのない殺風景な家のように、学校や会社はなってしまっている。ひきこもりの人
  たちに合うように社会は変わってゆくべきなのか、それとも消費のありかたを変える?





     人間の相対的な価値観を超える   99/10/24.

   ちかごろ、人間の相対的な価値観を超えるという知恵と奮闘しているのだが、どうもいまいち
  ぴったりとした言葉、表現が心に浮かばない。

   この発想は櫻木健古の『捨てて強くなる』(ワニ文庫)から得たのだが、ほかに価値観を超える
  といったような本はなかなか見つけられないし、もっと深く掘り下げようと思っていても思うように
  ゆかない。

   人間の価値観というのは勝ち負けに彩られていて、負けても平気だったり、最初から競争をおり
  るのならその価値観を超えられるというわけなのだが、もっと頭にガーンと刻印づける表現がどう
  もうまく浮かばない。とりあえずは最低の価値観から競争を超えるという通路しか示されない。

   この知恵はほんとうに大切だと思う。人間のちっぽけな競争的価値観から解放されれば、ほん
  とうに楽になる。

   人間の競争や価値観をアリの競争でも見るように雄大な視点からながめられれば、いちいち
  つまらないことで悩まなくともすむというわけだ。たえずこういう大きな視点、自然現象的な視点
  からものごとを捉えられるのなら、人間の辛さ悲しみも飛び越えられてしまうというものだ。その点
  からいえば、「天」という言葉を比較に使えば、ひじょうに便利だ。

   でもそういう価値観を超えた視点はいつの間にか流されていて、いつものせせこましい価値
  意識に戻っている自分に気づくというわけだ。ついさっきの大きな視点はいったいどこにいって
  しまったんだろうという具合だ。人間の心はまことに移り変わりやすい。水洗トイレのようだ。

   だから頭によく残るキャッチ・コピーを考え中なのだが、トイレの水はいつまでもきれいには保た
  れない。まあ、人間のせせこましい価値観に惑わされない、ということを忘れないようにしよう。





     「栄光」のない人生   99/10/23.

   どうやらこの先、「栄光」のある人生は送れないだろうなとある程度の年をへるとわかってくる。
  この事実に愕然となるが、逆にいえば、われわれはたいそうな期待や希望を背負って生きてきた
  ということがわかる。

   われわれは「栄光」のある人生を知らず知らずのうちにめざしてきた。そして社会に出ると信じ
  られないくらいの社会の片隅に「はめこまれる」。「栄光」ある人生の漠然とした夢ががらがらと
  音をたてて崩れる。

   われわれがこんなに「栄光」ある人生を信じてきたのは学歴競争やマスコミがふりまく幻想と
  いったものと関係があるのだろう。将来にはなにか漠然とした「栄光」ある人生が開けているよう
  に思う。学校がそのような夢を見させ、マスコミが「栄光」ある人たちを喧伝し、CMがそれに与か
  れると宣伝する。

   現実は違う。社会の片隅の意味なき仕事と日常が待っているだけであり、栄光とはほど遠い。
  うちのめられそうになる。

   だが、これがほんとうの人間のすがたというものなのだろう。社会的に成功したとしても、栄光
  を手に入れた者も、いつかはこういうもとの姿に戻り、あるいは幻想とのギャップを痛感するのだ
  ろう。

   人間にはもともとなにもない。希望や期待という幻想があるだけである。いつか必ずその姿に
  直面することになる。自分はいままでなにをしてきたのだろう、なにもない、と思い悩むことになる。

   しかしこれに落ち込んだり、悲しんだりするのではなく、これが人間のほんとうの姿だとして
  認めることである。「なにもない」自分に平気になり、気にしないで生きるというのが、人としての
  ほんとうのありかたではないだろうか。

   「なにか」があると思うからあわてふためき、競争し、生き急ぎ、自分を傷めつけるのではない
  だろうか。「なにもない」ことに平気になれれば、自分を許せるのだろう。





      フリーター急増の理由は社会保障の失敗だ    99/10/20.

   NHK『クローズアップ現代』で急増する高卒者のフリーターについてとりあげられていた。統計の
  数字は参考になるにしても、山田洋次監督の歯切れの悪いコメントは参考にはならなかった。か
  つてのフーテンの寅さんは自分のことを棚にあげて昨今の若者を肯定しないそうだ。

   13万人、五人に一人が就職も進学も決めないで卒業するそうである。全国で9.3%である。
  東京23区では22%、大学進学者と同数である。番組にとりあげられた高校では54%を越える
  そうだ。ちなみに大卒のプータローは10万人。

   フリーターになる第一の理由は「もう少し自由でいたい」ということだった。戦後の企業と労働者
  は雇用の確保と保障の増加をおたがい結託してきてから、ものすごく不自由と拘束の方向につっ
  走ってしまった。ここに違った方向の自由を求めようとする動きがフリーターとして現われたわけだ。

   また若者がフリーターに走る背景には企業側のアルバイト需要の増加がある。正社員では社会
  保障もろもろでコストがかかり過ぎる。ということで企業側が欲し、若者側もその自由さを求めて
  アルバイトになる。おたがいにコストを払い過ぎるのはカンベンだということだ。

   よくオヤジは定職につけという。その明確な違いはどこにあるのだろう? 正社員には社会保障
  があり、年功賃金や退職金があり、因習的な身分保証があると思われている。ただし、昨今のマ
  スコミのいうことが正しいとしたら、終身雇用も年功賃金もオダブツになることになる。労働者側の
  高いコストを払うだけに見合うペイを企業側は与えられるのか怪しくなってきている。

   ペイし合わないコストを払い合うのはいやだということだ。ただの因習的な社会常識だけで
  「定職」につけといっていると経済観念のまるでない取引きをしてしまう難しい時代になった。たと
  えば高いコストを払った会社人間がリストラに会えば、コストの割には保証がなかったということだ。

   これから社会保障をどう考えればよいのだろう? 企業も払いたくないし、労働者もその代償と
  してのコストがあまりにもかかり過ぎる。国民年金も企業年金も健康保険もかなりアブナイ。だれ
  が社会保障を払い、だれが支えるのだろうか。

   資本主義の原点に戻り、その日暮らし、明日の生計は立てられない生活と家族福祉制度に
  戻るか、あるいは定年のない高齢者も働ける社会をつくりだすか。社会主義や福祉国家の流れ
  が社畜化や高コスト化の100年近くをへて、大きく変わろうとしているということだ。





      他人のための活動と自分主義    99/10/19.

   戦後の社会は他人のために役立ったり、社会に貢献したり、社会的にすばらしい業績や評価
  を残した者を褒め称えてきて、多くの人たちもそれを目標にしてきた。

   しかし現在の若者は(わたしも含めて)あまりにも「自分主義」的だ。自分の時間、自分の満足、
  自分の生きがいばかりを求めている。

   社会貢献と自分主義が見事に拮抗し、ぶつかり合おうとしている。自分主義を貫こうにも、社会
  があまりにも他人貢献的なしくみになっており、生活水準や社会保障を維持しようとすれば、若者
  は自分たちが得たいと思う生活や時間を捨てなければならなくなっている。

   このきしみがどんどん大きく、静かに進行している。

   社会学者のダニエル・ベルがいった資本主義の文化的矛盾――勤勉主義と享楽主義の衝突
  と一面通じるところがある。仕事では勤勉が求められ、消費では享楽が求められ、分裂が激しく
  なるということだ。

   時計の針は戻せないのだし、若者の願望は未来の先取りなのだから、社会はこういった若者
  に合うようなしくみに変えてゆくべきである。まずは社会や企業、大人たちがそういう現実をしっ
  かりと認識することが必要である。社会の中身がすっかり変わってしまったのに、大昔のやり方
  がいまだまかり通っている。





       ちっぽけな自尊心      99/10/19.

   たいがいの人にとっての自尊心というのは他人との比較である。他人より優って人から恨みを
  買ったり、他人より劣って自虐の念や嫉妬心を抱く。あまり褒められたものではない。

   人の一生というのはこの他人との比較の牢獄なのだろう。勝っては恨まれ、負けては憎み、
  ほんのわずかな違いに血まなこになり、その無益な活動によって人生を費やすことになる。

   こういう無益な競争から降りる自尊心もあるはずである。人間の価値競争から抜ける自尊心を
  もつこともできるはずである。

   負けても平気、落ちぶれても劣っても気にならない、みじめやあわれだと思われてもちっとも
  気にならない、そういう人間の価値観から超越した自尊心というのもある。これがほんとうの自尊
  心とはいえないだろうか。

   人間の価値観というのは相対的なもので一方がなければ他方も成立しない。また、「オレが
  オレが」という自己顕示欲いっぱいの人に出会ったり、人に勝つことばかりを証明しようとする
  人を見ていて、なさけなく哀しい思いをしたことはないだろうか。

   まあ、わたしたちの心の中というのはたいがいそういうもので、負けたり、劣ったりしたとしても、
  内心ぜんぜん平気ではなく、あせったり、嫉妬心や復讐心を抱いたり、自虐心に陥ったりする。

   せっかくそこまで落ちたのなら、つぎはそういう価値観を超越して平気になったり、気にならない
  ようにするべきではないだろうか。人間同士のちっぽけな価値観にクギづけられるより、そういう
  価値観を笑いとばしでもできたら、心は平和になるし、一段上の自尊心をもつことができるだろう
  し、さらに自尊心すら捨てられたら幸いというものである。





       落ちこぼれろ!     99/10/18.

   落ちこぼれというのは、ある価値尺度での上の落ちこぼれである。現在でのだいたいの意味は
  学歴や社会生活が劣る人のことである。価値観というのはある一面を測れても、あとの無数の
  価値観は測れない。

   われわれは人より劣ることが恐ろしいから必死に「がんばる」。その価値尺度の上で一喜一憂
  したり、落ち込んだり、他人をけなしたりする。そういう活動に追いまくられてたいがいの人は一生
  をムダに費やす。

   落ちこぼれというのは、ある意味ではこういう無益な競争やメンツにこだわらない位置にいる。
  ひらき直って見れば、たいへん幸福なポジションだ。ここから人間の自由な境地が広がっている。

   しかしたいがいの人は落ちこぼれたり、劣った地位にいることに嘆き悲しんだり、責め立てたり
  して、みずからを地獄につき落とす。あるいはそのポジションから上に這い上がろうと必死になっ
  て世の大半の人と同じように人生をつまらない価値競争に費やす。

   人に勝とうとしたり、人よりよい体裁や名誉を飾ろうとするためにたいがいの人間は自分の人生
  や喜び、平安を失い、みずからちっぽけな競争に駆り立てる。そして浅ましくも小ざかしい人間の
  群れでせせこましい闘いに終始する。

   マスコミがいつも価値序列を教え、たたきこみ、劣者や敗者の嘆きと哀しみを伝える。だがこの
  価値観に囚われるとその価値観を強化し、みずからを不幸に陥れるだけではないだろうか。

   人間界の価値序列を超え出たとき、はじめてほんとうの自分になれる。




     愚か者に堕ちる    99/10/17.


   愚か者になれないから、われわれは苦しみ、一生を必死になって駆けずり回る。愚かである
  ことに平気になれば、安らかに暮らすことができる。

   人は愚か者になれないから、金銭を求め、名誉を求め、権力を求め、心身をすり減らし、忙しく
  駆けずり回り、必死になって自分の自尊心や名誉を傷つけないように守る。

   人は自尊心やプライド、優越欲を捨てられない。それを捨てたと思っても、他人の蔑視や軽蔑、
  あざけりから自由になれない。そしてがむしゃらに上に走り出すか、自分を切り刻む結果に陥る。

   愚か者はこれらの価値観から自由である。人間の価値観から解き放たれ、それを笑いとばすこと
  ができる。ちっぽけで、卑小で、ドングリの背比べの人間の価値観にわずらわされることもない。

   人はこざかしい自尊心や価値観に釘づけられるから、優越するために人を見下して人から恨ま
  れたり、あるいは劣等感や自虐の念から自由になれない。

   愚か者になるということはこれらの価値観を超越することである。人間のちっぽけな競争的価値
  観からとき放たれることである。だから愚か者は心の平安に生きる。

   あなたは愚か者になれますか。




       転げ落ちる時代の断想集
                                       新しい日付が上に来ます。




      将来を犠牲にして、いまを楽しむべきか   99/11/21.

   読者のSさんからのお便りです。

   「将来の保障より、今を楽しむ。そのためには、ホームレスになることも厭わないというか、ある
  意味では、ホームレスの生活の境地とか、宵越しの金は持たないという江戸っ子の心意気のよ
  うなものを感じますが、私の方はしがらみも多くて、出来ないでいます。

   老後の保障とかを考えるよりも、今を楽しむことは大切なようで、今という時間は、そんなに素晴
  らしいものかと、うらやましく思ったりもしています。

   私にとって、毎日の生活は、それなりに楽しいものですが、将来を犠牲にしてまで、今にこだわ
  る理由がわからない気もします。蟻とキリギリスの物語の本当の意味は知りませんが、私はキリ
  ギリスにはなれないなぁ。。。歌を歌い続けたキリギリスとか、バイトをしながら、バンドを続ける人
  たちとか、まじめな会社員とかよりも、素晴らしいということでしょうか?」

   ほんとうにそうだと思う。将来の計画はちゃんと立てるべきだと思う。そしてこういう人たちが多く
  いて健全な社会がつくられるのだと思う。

   わたしの場合はだめだ。将来ひとつのところに縛られるしかないのかと思ったらぞーっとするし、
  将来のためにいろんなことを我慢しなければならないことにどうも耐えられない。みなさんはこう
  いう者は「例外者」だとか「気の毒な者」だと思って、あまり感化されないほうがいいのかもしれ
  ません。。。

   世の中はこういうしっかりとした人たちに構成されていて、だいたいそういう論理で経済社会も
  回っている。あくまでも心の中のくびきに縛られないようにするのがよいのだと思う。

   ただ、いまは自分の趣味や自分の自由な時間や人生を大事に思う人も多くなってきている。
  そういう人たちにとってこれまでの将来のために自分を犠牲にするような生き方は死ぬに値する
  ほどツライことだと思う。いまはそこらへんが大変である。将来を犠牲にするわけではないけど、
  いまの楽しみを追求することがもっと大切なわけである。

   堺屋太一経済企画庁長官(権威のハクづけ!)も将来を不安に思うより、楽しみをつくる社会を
  これから創っていかなければいけないといっている。そうでないと日本という国は沈んでゆくばか
  りで、必要な新しい経済成長はできないし、たぶん活気ある人間社会を生み出せずに精神的な
  死を迎えるばかりだろう。

   将来の計画をたてて堅実に生きるということは重要で大切なことだが、これまでの価値観が崩
  壊する時代の転換期においては、新しい活況ある社会をつくるということも大切なのであるとわた
  しは思う。でもこのバランスはたいへん難しいことであると思うが。




     ホームページのタイトルを変更しました   99/11/21.

   ホームページのタイトルを「考えるための哲学エッセー集」から「考えるための断想集」に変更
  しました。メイン・コンテンツを「つぶやき断想集」にしたから、従来のタイトルではおかしくなるの
  だが、サーチ・エンジンの登録タイトルと食い違うことになるので、どうしようかなと迷っていた。

   「考えるための断想集」ならそう違和感もなく変更できるということで、「哲学エッセー集」という
  タイトルをはずした。

   じつのところ、このホームページにあまり「哲学」と名を冠することはできないのではないかと思
  っていた。「哲学」という言葉にこだわる人もいたし、たしかに内容の方も純粋な哲学からはだいぶ
  かけはなれていると思っていた。だから肩の荷がおりた気がする。

   サーチ・エンジンの登録タイトルを見て新しく来た人もそう違和感は感じないだろう。いちいち変
  更するのはめんどくさいし、タイトルを変えるたびに登録名を変えられていたらサーチ・エンジン側
  の人もたいへんだろう。

   思えば、はじめは「精神・社会・経済――」というタイトルを頭につけていた。長いから消した。
  「YAHOO!」とか「NTT DIRECTRY」にはこのタイトルのままだと思う。「LYCOS」には「ESSAYS
  FOR THINKING」というタイトルがついていると思う。インターネットの三次元ロゴ作成サービスで
  は英語しか使えなかったという理由だけである。(リンク・バナーに使えるかな? デカイ?)

       

   「YAHOO!」はさいしょ「哲学コーナー」に登録していたはずなのだが、「個人コーナー」に移さ
  れていて、キビシー! 「LYCOS」は向こうから登録を申し込んでくれてけっこうウレシイ。「EXCI
  TE」ではアクセス数が増えたり、「ビンボーはほんとうに不幸なのか」というエッセーが集中的に
  好評だったから、なんでかなと思っていたら、いつの間にか紹介してくれていたようだ。サーチ・エ
  ンジンの編集と紹介能力によって人気度が変わるというわけだ。

   タイトル変更というのはサーチ・エンジンの登録名とかでなかなか難しいし、プロバイダーひっこ
  しなんか登録変更とかブックマーク変更とかで多くの人の手をわずらわせるので、なかなかできに
  くいようだ。インターネットは一度クモの巣のように糸がつながったら、意外にいろいろな変更がで
  きにくいものだ。(アドレス名も長いところとおかしいところがあるのだが、同じ理由で変えにくい)

   新しいタイトルでこれからもがんばりますのでよろしくお願いします。




       宗教からの挑戦    99/11/20.

   ミイラ化遺体が見つかったというライフスペースの事件はマスコミが大喜びするネタである。マス
  コミはこぞって新興宗教の不気味さ、異常さを煽り立てる。法の華三法行も逮捕者を出したという
  ことだ。 

   マスコミは巨大な権力者だ。マスコミはいつの間にか裁判所より強い世間の裁判官となった。
  この裁きの前には「信教の自由、宗教の自由」といった権利さえ風前の灯火だ。たしかにこれらの
  集団には常軌を逸した行動が多いのは認めるが、価値観の違う考え方をまったく認めない狭量で
  画一的な集団の姿もあらわにされたといえる。

   マスコミは新興宗教を叩くが、かれら信者はこのマスコミ教が信じられないからほかの信念に
  すがりついたのだ。マスコミ教というのは、企業教と科学教に支えられたひとつの信念集団である。
  無色透明で中立的な立場など存在しない。そんなのを信じるのは狂信者か盲目の信者だけで
  ある。自分たちの世界観が世界そのものだと思うから、中立の立場を信じることができるのだ。

   いまは従来の価値観がゆきづまり、閉塞状況がかつてないほど強まっている。企業教や経済教
  といったものはがらがらと音をたてて崩れ、とてつもなく不安定で不安だから、人々はほかの価値
  観を模索しようとする。

   マスコミ教はそういった逸脱者を徹底的に叩き、恐ろしいイメージを付与することによって、逸脱
  者の増加を抑制してきた。でもいまはかれら自身こそが未来への希望を示されずにいる崩壊集団
  なのである。逸脱者を叩くより、自分たちの魅力と希望を語って、かれらの期待をとりもどすことが
  できるだろうか。

   マスコミの識者たちは「考えないからいけない」とよく言うが、われわれの基盤となる社会――
  たとえば受験戦争では「考えたらだめだ、迷ったらおしまいだ」というのが受験戦争に勝ち抜く
  キーワードになっているし、サラリーマンだって考えたらおしまいだというのが巷でまじわされる
  処世訓だ。こういう社会で――考えたら企業社会からドロップアウトしてしまうしかない社会にお
  いて、新興信者だけに「考えないから悪い」という言葉を吐くのは酷というものだ。

   批判する対象は、その批判する本人にいちばんよくあてはまる。考えないのは自分たちのよって
  立つ考え方や経済社会に盲目的に服従するしかないわれわれ自身ではないのか。

   いまは企業や経済などの従来の価値観が魅力や強さをこれまでにもなく保てなくなった時代で
  ある。宗教はそういう弱いところを狙ってどんどん勢力を増し、従来の価値観に挑戦することにな
  るだろう。

   逸脱者を叩くより、この社会からぽろぽろともれてゆく弱点や不完全な点を治すことが、いまの
  社会にとって重要な視点ではないだろうか。





     とりあえず存続します       99/11/19.

   みなさんにご心配をおかけしましたが、とりあえずこのホームページは存続することになりまし
  た。なけなしの貯金をはたいてプロバイダーにお金を入れてきました。

   これからもどうぞよろしくお願いします。ご意見・ご感想も気軽にじゃんじゃん送ってください。




       崇高な利他主義のないところ   99/11/17.

   明治のころには国や社会のために役立ったり、貢献したいという崇高な利他主義があったのだ
  ろう。その目標が達成されたころから社会の歯車はうまく回らなくなり、そういう崇高な目標は、
  軍事国家に利用されるにいたった。

   戦後はその反省から国家に役立つという目標から、経済や企業を焼け野原から盛り立てるとい
  う崇高な目標をもった。明治と同じで目標が達成されるころから、あらゆる歯車がうまく回らなくり、
  利己主義と組織保身・腐敗だけがやたら目立つようになってきた。

   目標が達成され、豊かになると、崇高な利他主義というフロンティアはなくなってしまう。すると
  人々はただ自己の安定と保身、享楽と安寧だけに身を落とすようになってしまう。(もともと崇高な
  目標というよりか、その中身があらわになったというか、麗しい衣がはがれて骨身になっただけと
  いう気もするけど……)

   いまのわれわれは崇高な利他主義というフロンティアを求めているのだと思う。戦後の企業と
  経済への盲目的奉仕というのは戦後50年をへて、ただたんに利己主義と自己保身の醜い骨身
  だけをさらすようになってしまった。だからみんな醒めてしまったのだ。そして経済も社会もうまく
  いかなくなる。

   人々はたぶん社会や人々のために役立ちたい、よいことをしたいという「物語り」をほしがってい
  いるのだと思う。でもそういうフロンティアはなくなってしまい、自分の生活や家庭、組織を守るた
  めに利己主義と自己保身に走らざるを得ず、どうしようもなく無力感を感じているのだろう。

   フロンティアはあるのだと思う。明治のときには国家のために国民が犠牲になったが、こんにち
  では国民はまたもや企業組織の犠牲になっている。経済や企業を盛り立てることが戦後の崇高
  な利他主義であったが、じつはこれほどはなはだしい犠牲や欠如のかたちを示しているものはな
  いと思う。これは崇高な自己犠牲なんてものではなく、人間性や家族の破壊や殺戮に等しい。

   企業から人間性を救い出すということがこれからの崇高な利他主義にはならないだろうか。明治
  や戦後には貧しさという欠如から崇高な利他主義ははじまった。いまは企業から人間の自由や
  権利という欠如が回復される必要があるのではないだろうか。焼け野原は企業のなかに残され
  ているとわたしは思う。




        転げ落ちる時代の轍    99/11/14.

   いまの時代は明治の末期からの時代によく似ている。明治の時代も40年近くで国家目標を達
  して、その先はおそらく目標もなく迷走しつづけ恐慌に落ち込んでいった。いまの日本と同じだ。

   明治大正の年表をみると日露戦争の勝利という祝宴をへたあと増税法や明治天皇崩御、関東
  大震災、金融恐慌などいまの時代にも当てはまる歴史を刻んでいる。中国やソ連の成立なども、
  現代における共産主義崩壊という歴史的事件と重なっている。

   国家目標を失った人たちはどのような気持ちにおちいり、生きていこうとしたのか、たいへん興
  味がある。それは現代の人も同じ心境だと思うからだ。目標なき人たちはどのように生きてゆこう
  としたのか。

   この時代の精神的空気を知ることはたいへん難しい。夏目漱石は立身出世から無気力になった
  青年を描いたが、なかなかその内情を窺い知れない。かれらはどう生きようとしたのだろうか。

   しかし日露戦争あとの戦後恐慌におちいり、関東大震災、金融恐慌をへて、世界大恐慌にいた
  り、日中戦争、第二次世界大戦へと流れ込んでゆく。落ちてゆくばかりの時代である。

   目標を失った社会はカタストロフィ(破滅)を迎えるしかないのだろうか。目標なき人たちは壊滅に
  しか新たな目標を見出せないのだろうか。壊滅したってまた前と同じ理念なき目標と手段の目的
  化がどうせおこなわれるのだろう。国家レベルの目標はどうも目標の達成と無気力化により、ガス
  欠で墜落するほかないようだ。

   日本の戦後恐慌からアメリカ大恐慌まで約9年のタイムラグがあった。来年あたりアメリカの株
  価がどかんときたらまったく時代の轍を踏むことになる。アメリカ人の年金は株価で運用されてい
  るらしいから、アメリカ人の老後は悲惨なことになる。

   せいぜいこの転げ落ちる衝撃の精神的準備を怠らないようにするしかないだろう。経済なんても
  ともとアブクか泡のようなもので、そんなものをいつまでも維持しつづけることなんてしょせん夢なの
  だと諦めることにしよう。精神的ショックをやわらげる考え方をするに越したことはない。

   そういえば、徳川家康は豊臣政権以後の成長シンドロームを抑えつけ、長期の政権をたもつこと
  ができた。安定政権をたもつためには成長期に手柄を立てた成功者のクビを切り、功労の変化を
  宣言しなければならない。安定期には過去の成功体験の反復は破壊行為なのである。




      ほんのささいな違いに血まなこ   99/11/13.

   われわれはほんとうに小さな違いに必死になっているのだろう。大企業だとか中小企業だとか、
  マイホームだとか賃貸だとか、ベンツだとか軽自動車だとか、そういった違いに目の色を変えて
  こだわる。

   醒めた目でみてみたら、その違いはほとんどない。逆に必死にその違いを目立たせよう、誇示
  しようとする姿勢があわれで物悲しげに見える。

   人間なんてその持ち物や所属がどうであれ、ほとんど違いはない。違いがあると思いたがって
  いるのは当人だけかもしれない。

   人間にとって羊や牛の個体の違いがほとんど見分けがつかないように、人間も同じようなもの
  なのだろう。必死にほかとの違いを際立たせ、誇示するかの違いだけだ。

   われわれは企業社会に選択されるから、差異をことさら強調しなければならないのだろう。その
  まなざしは消費のほんのわずかな差異にも適用され、巨大なマーケットを生む。

   われわれは悲しいくらい優れていたり、偉そうに見せかけなければならないのだろう。そうしない
  と企業は雇ってくれないし、他人から劣って見られる。

   こうしてわれわれはほんの小さな違いに血まなこになる。こういったことに費やす活動というの
  は、果たして人間の全生涯を賭けて費やされるべきなのだろうか。人間の目的や意味はこれだ
  けのものなのだろか。ほかにもっと価値ある、意味あることはないのだろうか。

   この差異にこだわることをやめたのなら、われわれの時間や精神はもっと自由なことに費やせ
  ることにはならないだろうか。あまりにも小さなことに人生を浪費し過ぎる。

   偉くなったり、有名になることを評価する社会は他人の評価を肥大させる社会である。われわれ
  は他人の思惑の奴隷となる。モノサシを心の安寧や喜びに置き換えるべきである。




      社会責任と企業     99/11/12.

   こんにちの企業は個人や家庭の生計を守るという社会的な責任をてんで負っていない。いぜん
  は家族主義だとか温情主義だとかの美名のもと個人を守ってきたが、おかげでウシのように従順
  に働く愚かな人たちを大量調達できた。

   いまはそんなことをいっていたら市場経済ではやっていけない、背に腹をかえられないといって、
  人々を大量にリストラする。企業はいぜんのあたたかい仮面をはぎとって、もとの鬼面にもどった。
  それでもサラリーマンは今までどおりなおいっそう労働奉仕しなければならない。

   企業は社会のなかの機関として社会的責任を果たさなければならないはずである。それを負わ
  ない企業は社会に存在してよいものだろうか。市場原理を通すのなら、企業の社会的道義も追求
  されなければならない。

   個人はもともと国家には守られていなかったから、企業にも見捨てられたことになる。これまで
  個人は企業に守られていたから、国家は企業を守ればよかったので個人は蹂躪されてきた。そ
  の企業にも見捨てられた個人は路上に消えるしかない。

   いまようやく国家は個人を守る必要が出てきたといえるかもしれない。どこからも守られない個
  人は国家に守られる必要がある。あるいは家族である。政府はこれから企業より個人寄りになれ
  るだろうか。

   これまでは日栄の問題で明るみに出たように、商工ローンによってつぶされた個人は税金を払
  うことによって商工ローンに融資する銀行を助け、みずからの身を破滅させるような構図が支配し
  てきた。税金がみずからを破滅に追い込むというのは、これまでの政治構造である。

   社会責任を果たさなくなった企業に代わって政府は社会責任を果たさなければならない。それ
  をおろそかにできたのが企業が終身雇用を標榜していた時代のことである。市場原理の時代に
  なれば、政府は企業を守ることより、企業を裁き、個人を守る必要がある。企業の暴走を監視する
  役目を負わなければならない。

   政府が企業から個人を守るすべをもたないのなら、税金を払う意味もない。税金によって自分
  の身が破滅させられる危険があるのだから。税金はわれわれ個人の権利を守るために使われて
  ほしい。企業は勝手にやるのだから、政治家は個人を守るべきである。





      老後の保障なんて大キライだっ!    99/11/10.

   老後の保障のためにわれわれはいかに多く働かなければならないか。老後の保障のために
  いかにわれわれは心を煩わされなければならないか。

   こんな余計な心配がなくなってしまったら、もっと「いま」を自由に楽しく過ごせることか。あると
  思っていたものがなくなるより、はじめからないと思っていたほうがどんなにマシか。

   老後という何十年も先の保障のためにわれわれは「今日」を楽しむことも、生きることもできない。

   これってもしかして「明日の幸福、明日の成長」という高度成長期のスローガンではないのか。
  明日の幸福のために今日を犠牲にするのなら、一生、人は「いま」を楽しむことができないし、人生
  を生きることができない。現代のような右肩下がりの時代にはいつ没落するかもしれず、いまを
  楽しむことがひじょうに大事になってくるし、また老後のことなんか計画できる時代だろうか。

   われわれはマインド・コントロールにかかっているのだろうか。老後や将来が不安だと煽られて、
  どこまでもどこまでも働かなければならないようになっている。その不安を洗脳して大儲けしたの
  は企業や政府だけではなかったのか。どこかの信者の恐怖を笑えない。

   こんな不安から解放されて、いまのためだけに働くことができたらどんなに楽なことか。インド人
  やむかしの江戸っ子みたいにその日暮らしに平気になれる。明日のためにムリをしなくてよいか
  ら、今日をめいっぱい楽しめる。

   老後の保障のバカヤローっ! われわれの世代はどっちみち年金はかなりアヤしいのだから、
  年をとっても働いていなければならないかもしれない。そこのところをハッキリしてもらいたいのだ
  が、いまは中高年すら就職難だし、しかし少子高齢化がやってくるのだから高齢者を活用しなけ
  ればならない時代がやってくるはずだし……。

   えーい、どっちなんじゃい! だから老後の保障なんて大キライだーっ!



      ホームレスからの逆照射     99/11/9.

   いまホームレスがどんどん増えているわけだが、悲しみやあわれみの観点からだけではかれ
  らを見るのはまちがいだろう。たしかに壮絶な部分もあるが、それだけでは片手落ちというものだ。

   「乞食は3日やったらやめられない」という言葉があるくらいだ。現代のホームレスはほとんど
  物乞いもしない恵まれた環境にある。またホームレスの数はその都市が働かなくとも養える豊
  かさのバロメーターでもある。

   考えてみたらおシャカさんは元祖ホームレスであり、ホームレスのススメを説いているし、仏教
  の数々の聖人君子もやはり漂泊のホームレス体験者である。ギリシャの哲人ディオゲネスも樽
  の中で生活したというし、ヒッピーなど世界中でホームレスに憧れた人は数多いといえる。

   ホームレスは悲惨だといっても、われわれが住んでいる家もたんにコンクリートの塊にしか過ぎ
  ない。たいして変わりはないのだ。電気や水道、さまざまなモノに不便するといっても、逆にわれ
  われがそれを手に入れるために費やす労苦、労働量を考えてみたら、どっちが憐れかよくわから
  なくなる。

   一生を仕事にあくせくと追われる人生と、プライドもモノも捨てた寝て暮らしの生活とどちらがい
  いといえるだろうか。ホームレスはとりあえずは自分の自由な時間と自由な生がある。(もちろ
  ん食べ物を得るための活動には苦労がつきまとうと思われるが)

   ホームレスは剥き出しの自然な生を生きる。われわれ文明人は数々の医療とかに守られてい
  るわけだが、しょせんは生老病死といった剥き出しの自然の運命をひきうけなければならない。
  われわれはどんなに守られてもそういう限りある自然の産物なのである。ハダカで生きることも、
  そんなにたいした違いのあるものではない。

   つまりホームレスというのは文明の習慣とあたり前につかってしまったわれわれの頭の中を
  清掃してくれるものである。文明の歪みや不自然さをあらわにするものである。われわれはどん
  なにおかしな、無意味な習慣や堆積物でごてごてになっているか、改めて思い知らされるとい
  うものである。

   われわれもここらで文明のアカと汚れ、お荷物をふるい払うことが必要なのかもしれない。ナメク
  ジが勘違いしてカタツムリの殻をかぶって荷物でいっぱいの大八車を引いているようなことになっ
  ていないだろうか。

   われわれは裸で生まれて、野垂れ死んでゆくしかない運命の生き物であるということを忘れる
  べきではないのだろう。





    嫌いな人を抱きしめて離さない、皮肉で愚かな習慣   99/11/9.

   だれだって嫌いな人とは長くいっしょにはいたくないだろう。でも嫌いな人をベッドまで伴にする
  のが多くの人の習慣だと思う。つまり頭の中に寝ても覚めても嫌いな人を思い浮かべつづける習
  慣のことをいっている。

   同様にクライやつや悲しませるやつ、腹立たせるやつ、頭にくるやつをいつもわれわれは愛し、
  抱きしめて離さない。トイレにも、風呂にも、休日にも休憩時間にもイヤなやつを連れてくる。 

   頭の中で考えている内容を人物化してみると、われわれの考える内容のバカらしさがよくわか
  る。いつだって最悪で、毛嫌いしていて、二度と会いたくない人物に限って、われわれは四六時
  中どこへだって連れて回るのだ。皮肉な、愚かな習慣である。 

   そうなるのはたぶん他人を裁いたり、自分の正しさを検討したり、また考えることによって解決
  や解消ができると思っているからだろう。つまり思考の力や効用を信じているわけだ。

   でもそのあいだ、われわれは嫌いな人や悲しませる人、悩ませる人をずっと連れ立って歩き回
  ることになる。けっきょくのところ、それは他人の心には何も起こらないで、自分の心のなかで起
  こっていることなのだ。自分の感情であり、気分なのである。嫌いな人や腹立たしい人は、じつの
  ところ、「自分」以外のなにものでもない。

   この愚かさがわかったのなら、嫌いな人や悲しませる人とはせっかくのくつろぎの時間である
  ベッドや風呂の中までかれらを連れてゆきたいとは思わないだろう。頭の中の選択は自分にま
  かされているのだから。

   ただし、嫌いな人に限って勝手に頭の中に入室してくる。これだけはどうしようもない。しかしそ
  のあとの選択は全部自分の選択の手の内にある。

   さて、あなたの頭と心のなかにはどんな楽しい、喜ばしい人を入れてあげたいですか?




       ホームページの存在意義  99/11/8.

   先日このホームページがなくなるかもしれないと書いたら、何通かの励ましのメールをいただい
  た。たいへん感激した。このホームページでも消滅したら嘆いてくれる人がいるのかと改めて知っ
  たし、同時によけいな心配をおかけして申し訳なく思った。

   生活費はヤバイけど、なんとかホームページは存続させたいと思う。そのくらいの料金も払えな
  いくらいなら、どっちみち生活費も成り立たないと腹をくくりたいと思うが、この先一、二週間が勝
  負なのでそのときの調子により雲行きがどうなるかははっきりとは言えない。

   今回の件でちょっとホームページの存在意義について考えさせられた。このホームページも開
  設してほぼ2年近くなるのだけど、メールがだいぶ少なくなっているのを感じていた。メールが来な
  いとわたしの書いていることが伝わっているのか、読んでくれているのか、ということがわからなく
  なり、ちょっと心配になってくる。

   アクセス数もほぼ2年で1万5千はそんなに多いほうではないだろう。週に2百前後のアクセスは
  あるみたいだが、どかんと増えることもないし、増減の理由もほとんどわからない。

   つまり反響や反応が乏しくなると、やはりなんのためにホームページを開設しているんだろうと
  いう気持ちにときどきなる。リンクしているホームページは驚くばかりにいつの間にか消えてしま
  っていて、メンテナンスがたいへんだが、やはりこんなところで折れてしまうのだろう。

   最初は世界中の人に見てもらえる情報を発信できるということで意気揚々でホームページを
  作成するのだが、反響はことのほか少ない。また最初は多かったとしても、だんだん減ってゆくの
  かもしれない。そうしてはじめ期待が多かった分、なんのためにホームページを開設しつづける
  のかわからなくなる。人気があるホームページの作成者以外はそう思うのではないだろうか。

   ここが存続の踏ん張りどころである。反響や反応だけを期待するのなら、ホームページは永らく
  つづけることはできないのかもしれない。たいていの読者は「サイレント・ビジター」である。わた
  しもほかのホームページではやはりサイレント・ビジターである。そこで作成者は折れてしまう。

   ホームページ作成は思いのほか励ましや反応の少ないものである。感度がビシビシに良い
  反響を期待していたら、人気ページのほかはつづける理由を見出せなくなるのだろう。

   まあ、わたしのコラムとエッセーはインターネットができる前からの趣味である。たとえインター
  ネットの開設をとりやめたとしても、おそらく今までどおりものを考え、ノートに書き、本を読みつづ
  けるものだと思う。どうせやるのなら、少しの人でもいいから見てもらえる機会があるのなら、イン
  ターネットに公表したほうがいいくらいに思いたい。

   人気や反響からホームページ開設を考えたら、人気がなくなると開設の意味がなくなってしまう。
  でもローカルな趣味+いくらかの読者に見てもらえると考えるのなら、人気や反響にはそんなに
  左右されることはない。こういう気持ちでやらないとホームページは長くつづけられないのかもしれ
  ない。

   反響や反応が少ないのは淋しいが、ここはひとつ石の上にも三年ということでつづければ良い
  ことがあるということでがんばってゆきたいと思っている。(わたしの長続きのしない職業もそう考
  えらればよいのだが……)





      市場原理と社会保障    99/11/8.

   社会保障費というのは市場原理と逆行するもののようである。とうぜんだろう。そもそも市場で
  勝てなかったり不安に思う者ほど強く保護や保障をのぞむからだ。

   転職先がなくなったり、高齢になって働けなくなると思うから、保障や保護が必要になる。つまり
  市場でやっていけないから保護を必要とするわけだ。

   戦後はみんなが保障を求めた。社会主義が企業や国家でおこなわれ、世間の風潮もそれを歓
  迎した。商品やサービスは高コストになり、保険料はつりあげられる一方で、財源は枯れてゆく
  ばかりである。ついでに人々のマインドは安定と保護ばかりを望み、不安ばかりを強めた。

   カネがあったり、若年者増の時代にはそれがうまくいくが、その時代が終わったらたちまち不可
  能になる。もともと市場原理に適わないことを望んできた結果が露になっただけだ。

   市場とは非情なものである。残酷なものである。いるものはいる、いらないものはいらない、それ
  だけの単純なものだ。われわれ自身も商品やサービスを買うさいにはとびきり非情で単純な選択
  をしており、労働者にもこの原理が適用されるとその様がよくわかる。

   この単純で非情な市場原理でものごとを見るということが必要なのだろう。市場原理が働かない
  ところには歪みが生じ、いずれ破綻する。人間はモノではないから保護が必要だといっても、カネ
  のないところでは保護すら不可能だ。

   人間も使い捨てで市場価値がなくなったらポイ捨てでよいのかという疑問と怒りがあるわけだが、
  保護という幻想を望むより、単純にカネはどうしたら稼げるのかといった問題を第一に考えるほう
  がよいようである。不安からうしろ向きにものを考えるより、前向きに考えなければいけないようで
  ある。(といってもそんなかんたんなものなら、だれもがハッピーだが)

   モノというのはすぐ売れなくなる。人間も年をとったり、技能や知識がなかったら恐ろしいくらい、
  すぐ売れなくなる。大問題である。そしてひじょうに難しい、頭を悩ます問題である。市場原理と
  社会保障のほどよいブレンドがぜひとも必要になるのだろう。現在はホームレスの増え方からし
  て市場原理の行き過ぎだ。




      自己保身と組織    99/11/7.

   われわれの数々の自己保身が組織を腐敗させ、崩壊させるというのは皮肉なことだ。安定や
  保障を求めるとたちまち組織は崩壊し、みずからの安定や保障を守れなくなる。

   企業は拡大成長期において数々の老後保障や生活保障などの福利厚生を手厚くつけることに
  よって従業員の労働意欲をひきだしてきたわけだが、右肩上がり時代が終わるとたちまちその
  約束をご破産にしてしまう。空約束だったのか、サギだったのか。

   組織は自己保身の重みによってつぶれてしまう。もともと人間の生活・老後保障なんてものは
  どんなに得ようとしても不可能な絵空事なのだろうか。

   組織は最初に外部の満足を目的にしているのだが、しだいに組織内部の満足追求に転嫁して
  しまい、外部の損失や被害をまねいてしまうもののようである。それは近頃の神奈川県警の不祥
  事や隠蔽体質にも現われているし、現在多くの企業や官庁、学校が陥っている状況であるし、
  戦前の軍部だって同じような体質をもっていた。

   自己保身や組織を守ろうという欲求が、逆にその損害と崩壊を招いてしまうのである。これはな
  んなのだろうなと思う。

   けっきょくのところ、利他主義から利己主義に重心の針が傾いてしまうからだろうか。どんな組織
  も外部の満足のためにある。内部の満足と保身だけに傾くと組織は自己崩壊してしまうものなの
  だろうか。「身内はかわいい」という閉鎖体質が、外部との分裂を強めるからだろうか。

   いま、数々の組織が危機に陥っている要因はやはり生産者保護や組織要員の保護にあるのだ
  ろう。これが顧客への損害や被害をもたらし、みずからの組織を崩壊の尻目に陥れている。

   官庁や学校、警察は市民を犠牲にさらし、不祥事や腐敗をひた隠しにし、企業はコスト高を顧客
  転嫁し、年金や健康保険は支払い者に過重な負担をかけている。

   人間のみずから守ろうとする意志や組織の結託が逆にみずからの崩壊を招いてしまうのである。
  この皮肉な結末のカラクリはよくわからないが、自己保身への恐れがその結末への予言成就を
  もたらしてしまうのだろうか。




      余命三ヶ月の決死行     99/11/4.

   あと三ヶ月の貯金しかない。わたしは長期の失業中である。この三ヶ月に仕事が見つからな
  かったら、わたしの運命はどうなるかわからない。

   ハローワークの求人はひじょうに少なく、新規の求人もテンポがのろく、求職の人々も数多い。
  中高年の人にはあきらめモードに入っている人も見受けられる。

   今回ようやくわたしも正社員の口を本気で探すようになった。三十歳を過ぎるとさすがに年齢
  制限にひっかかり、いくらでも転職先があるとのん気にかまえられなくなり、長期の保障をほしく
  なる。大企業でも先のことは保障されないというけど、まだ確実にすべてそういう時代になったと
  決まったわけではない。

   今回の失業はまたもやのん気にかまえ過ぎた。なんにも考えないでぼーっとするのに恍惚と
  なってしまい、求人を探してもなかなか行動する気になれなかった。そして貯金が底をつきかけ
  て、ようやくあせりだしたという具合だ。

   ときどき先の計画を考えて強烈に不安になり、あせるときがある。そういうときにはカーネギー
  の『道は開ける』は頼りになる。「鉄の扉で明日と過去を締め切れ」といった言葉に慰められる。
  ピールの『積極的考えの力』でなおいっそう楽な気持ちに戻れる。

   なんとかあと三ヶ月のうちに仕事を見つけなければならない。もう年齢制限にひっかかるから
  正社員を絶対見つけようと思うのだが、どうしても見つけられないのなら、いやだけどまたアルバ
  イトに舞い戻るしかないだろう。元はといえば、社畜になることを嫌い、自由を求めた自分の選ん
  だ道のせいなのだ。

   今月の半ば以降に一年契約のプロバイダーとの契約が切れる。もしかしたらこのホームページ
  が消えてしまっているかもしれないので(ゴメンナサイ)、そうならないように祈りたいと思う。でも
  そのことより生活費を稼ぐほうが先決だ。




     日栄だけの問題ではない企業体質    99/11/2.

   強制的なとりたてをおこなって逮捕者が出た日栄の企業体質というのはだいたいほかの企業
  にも共通するものである。ノルマや営業成績のためにモラルや善悪が破壊されることは企業社会
  の日常茶飯事だろう。

   けっきょくのところ、個人はクビにならないために少々尋常でない範囲のことをおこなわざるを得
  なくなるときもある。そういう権力や論理から個人を守る防備をまったくしてこなかったのが戦後社
  会だ。上司や社長に命令されたことをモラル外だといってだれが拒否することができるのか。

   生活の糧や老後の保障、さまざまな保険といったものはすべて企業にすがりついてしか得られ
  ない。身も心も企業に売り払って、社会道徳や国家の論理より、自社利益を優先するのはとうぜ
  んのことだ。

   企業がすべての保険や老後保障を支払ってしまうから、個人は自立も独立の精神ももてない。
  国家より企業内社会主義がおこなわれたから、個人は企業にますます依存さぜるを得ないという
  わけだ。国家も金の集まる企業におんぶしてきたから、個人はだれからも守られない。

   強制的なとりたてを食らった人も犠牲者だが、逮捕された当人もとうぜんこの社会の犠牲者であ
  る。政治もほとんど介入しないし、法律もほとんど力のない国にあって、企業の専制主義がまかり
  通る国では個人のだれもが被害者であるといえる。

   どうすれば、このメカニズムを変えることができるのだろうか。保険や老後保障を捨てて潔くのた
  れ死に甘んじるか、それとも企業ではなく個人が社会保険を自ら支払う仕組みに変えるか。

   国家政策が企業を守ることより個人を守ることに転換できればよいのだが、いつのことやら。
  人間的な道徳正義が働かない国では、個人はいつまでたっても企業王国の犠牲者であり、個人
  あっての国家ではなく企業集団あっての国家があるということになる。

   この国は「企業の企業による企業のための国家」だということだ。「あー哀しー!」




      「壮絶資本主義」   99/10/31.

   どこかのCMで「新資本主義」なんてかっこいいコピーが流されていたが、そんなものではない。
  増え続けるホームレスやスラム化といった大阪市の状況を見ていると「壮絶資本主義」といった
  ほうがふさわしい。

   さらに何のことはない「原始資本主義」に戻っただけのことである。

   共産主義政権があるときには企業福祉国家がおこなわれたが、敵対する大国と国内反対者が
  いなくなると手の裏を返したように「原始資本主義」に返りうってしまうという身の軽さ。

   たしかに企業福祉国家はさまざまな歪みをもたらし、競争や優劣の差が必要なのはわかるが、
  あまりにも事態がヒドすぎる。職や家のない者は死ぬにまかせたままでよいのか。あまりにも
  極端で急激すぎて、あまりにも非情すぎるのではないか。

   このままでは治安や秩序がいつ崩壊するやもしれず、そのコストに比べれば、早めに手を打って
  おくというのが賢明ではないだろうか。




     金貸し業なんか信用するな     99/10/31.

   「目ん玉と腎臓を売れ!」と怒鳴りつけた日栄の元社員が逮捕された。ひどいこっちゃである。
  商工ローンのひどさがたびたび話題になっていたが、いまさらながらである。

   金貸しなんて一度手をつけたが最後、ケツの毛までむしりとられるのが昔から変わらぬ体質な
  のだろう。それなのにテレビではいくつもの消費者ローンの宣伝がおおっぴらにおこなわれて
  いるし、中には愚かな若者がそんな明るさに蚊のように吸い寄せられてゆくようだ。

   テレビに宣伝が出ると社会が公認したように若者は思ってしまうのだろう。でも金貸しというの
  は一回切りのモノや商品を買うのとはワケが違う。金貸し屋は利益のためにいつまでも顧客を
  つなぎとめておこうとするし、金が回らなくなって土地や保証人から大金をぶんだくるのが最初
  からの目的のようである。

   金貸し業が恐ろしいのは、生活や住居などの生存に最低限のものまで身ぐるみはがしてしまう
  ことである。強盗や自殺というのはあらかた借金とつながっているのだろう。自分が稼ぐ以上の
  カネを手に入れるということはそういうことなのである。

   「サラ金地獄」といった社会問題は70年代後半に一度顕在化した。だからいまでは脅迫や
  暴力まがいのとりたてをすると逮捕されるようになったが、今回の例のように相当の潜在的な
  犠牲者を生み出さないとなかなか警察や政治は守ってくれないものなのだろう。勘違いするなよ、
  ここは企業を守る国であり、個人を守り通す国ではないということを。銀行の不良債権は救っても
  個人の不良債権を政府が守るわけなんかあるか。(わたしも国民の税金をつかって資本注入され
  たい!)

   しかも国民の税金がつかわれた大銀行によって日栄は融資されていたということだから、国民
  の税金をつかって中小企業をつぶして保証人を自殺などに追い込んでいたことになる。このヒサン
  な構図はなんだろう? 国民はみずからの税金によってみずからの首を絞められるのだ。

   わたしは借金など一度もしたことがない。かくいうわたしの父もサラ金地獄時代に身と家庭を
  破滅させたクチである。だから借金の恐ろしさを身をもって知っているし、金貸し業は家庭を崩壊
  させるということも知っている。だから絶対に信用できない。カネを借りる前に生活のリストラをする
  ほうが先決なのだろう。

   金貸し業が繁栄する時代なんてもう経済が下り坂を転げ落ちているような時代なのだろう。
  株のあとに消費者ローンと金転がしばかりが繁盛する。車や家電、土建が繁栄している時代が
  華だったのだろう。われわれはヘタな幻想を抱かず生活のシェイプアップに励むべきなのだろう。



主婦の優劣についての断想集


        新しい優越ゲームの発動    99/12/6.

 人間同士の優越心の競い合いや勝ち負けの競争といったものは、できることならやめられるのがいちばん望ましい。でもそんなことはおそらく不可能なのだろう。ロボトミーなみの宗教的教育か、社会主義政権による大量虐殺か、強制的な人間改造の収容所送りにしか行き着かないのだろう。

 いまはカネや経済の優越ゲームが加熱し過ぎている。いろんなゆがみやひずみが噴出している。みんながカネの優越ゲームに群がることは賢明ではないのだろう。戦後の日本は社会・財界・教育界がこぞってカネの優越ゲームに特化させてきた。

 優越ゲームが加熱し過ぎると、オリンピックに勝つためにひじょうに過酷な訓練をおこなわなければならない哀れな選手と同じになる。勝つためにほかの楽しみや喜び、交遊などがいっさい断ち切られてしまう。発育をとめた東欧のあわれな体操選手のように。優越ゲームに勝つためにはあまりにも多くの犠牲が必要なのである。

 戦後の日本がカネや経済の優越ゲームで多くのものを犠牲にしなければならかったことはみなさんご存知のことだろう。われわれはこの優越ゲームへの特化と集中化を反省しなければならないわけである。満員電車のなかの小学生通勤はさすがにかわいそうに思わないだろうか。

 人間の優越ゲームというのはいろんなものが発動されてきた。知識であったり、体力や武勇であったり、コレクションであったり、異性にモテることであったり、さまざまな優越ゲームが可能である。世界経済での優越ゲームというのはあまりにも地球資源の浪費が大き過ぎる。

 要は人間同士の優劣が競われたらいいだけで、そんなに大きな道具立ては必要ないのである。たぶん、ビー玉とかおはじきで優劣ゲームが競われるのも可能なのである。未開民族の優越ゲームもそういったたわいない道具立てで可能だったからこそ、世界経済の荒波にはまきこまれなかったのだろう。

 カネと経済の優越ゲーム熱を冷ますためには、そこからおりて、ほかの優越ゲームを発動させ、評価する土壌が必要になる。無為や怠惰にもういちど、優越のしるしや賞賛の評価をあたえることができるようになれば、まったく逆のベクトルが働くようになる。

 もうサラリーマンがカッコいいという優越ゲームなんかちゃんちゃらおかしい。みんなでそのほかの優越ゲームと賞賛基準を盛り立ててゆくことが必要なのだろう。カネの優越ゲームではあまりにも人生の犠牲と浪費が大き過ぎる。やってられねェ〜よ。




       虚栄心と労働   99/12/5.

 消費にステータスや階層といったものがあるように労働のなかにもそれがある。現代の労働意欲といったものは人から認められたり、評価されたりする虚栄心や優越願望のなかにあるようである。

 人間はあらゆるものを使って優越心を満足させようとする。そのために切りのないほどモノを消費しようと、地球資源を枯渇させようと、人生の多くを労働や消費によって喪失しようとおかまいなしである。

 われわれは人から認められようと――それも狭い仲間うちでの優越心を満たすために人生の多くをついやし、人生の大半を喪失するのである。

 カネではない、われわれは優越心を満足させたいだけなのである。さげずまれたり、劣って見られることが恐いだけなのである。

 われわれは優越心や劣等感、人と比較することから自由になることがまず第一に必要なのだろう。そうすれば、過剰な消費、過剰な労働、人生の浪費といったことはなくなるのだろう。

 人と比較することに人間の悪、人間の過ちがあるようである。お隣りやだれかと勝った負けたなどと比較することから自由になることが必要である。




     死による人生の中断    99/12/4.

 われわれは死による人生の中断を、人生の計画表に入れない。いつまで生きるかわからない、いつ死んでしまうかわからないから、老後や将来の保障をどこまでものぞんでしまう。

 そして人生の逆転現象がおこってしまう。つまり将来や老後の保障のために働きつづけ、自分の時間も人生も自由も喪失してしまって、ただ老後のローンのためだけに生きるという状態になってしまう。

 メールをいただいたIさんはこういうことをいっていた。

 「いつからか、僕は長生きすることに意味を見出せなくなり、死を随分と手前へ引き寄せて考えるようになりました。そうすると、まず老後というものについて考える必要がなくなります。それから、結婚や世間一般の家庭といったものも特に考えなくなります。・・・人生が随分と軽くなりました。

  例えば、「40代で死んでも、それまでに自分なりに人生を本当に楽しむことが出来ればOKなのだ」と考えると、何十年も働く必要はなくなります。」

 そうか、そういう考え方もできるんだと虚をつかれた感じだ。死んでしまったら、人生になんの責任も義務もなくなり、生活費の捻出といった心配事からすべて解放される。逆に早くに死んでしまったら、手厚くあたためていた貯金や老後の年金といったものはなんだったのだろうか、ということになる。

 人生というのは先々に将来の不安のために準備をするより、困ったそのつど人生に対処するのがよいのかもしれない。人間なんていつ死ぬのかわからないのだから、それまでは一生懸命生きるべきであって、将来の準備ばかりに費やすのは人生の浪費になるのかもしれない。

 年金というのはよけいな将来の不安を現実のものにし過ぎてはいないだろうか。これがなければ、なかったかもしれない不安が、逆に創出されてしまったという逆転が起こってしまってはないだろうか。

 将来というのはぜんぜん見えないから、たしかに難しい。

 でも死んでしまったら、それまでの貯金や予定表はなんの意味も役割もなくなってしまうのである。わたしは漠然と将来の予定表に自分の死というスケジュールを入れないようにしてきたが、もし死を早くに組みいれるのなら、将来の積み立てといった準備は必要なくなるだろう。ただそれがいつ来るのかがまったくわからないから、たいへん難しいのだが。

 考えないようにしていた自分の死という将来を考慮に入れるべきなのかもしれない。いつか死んでしまうと思い描いた人生はやっぱり生き方も変わってくることだろう。死を間近に見た大病をわずらった人が人生を大切にするように。





     人が殺されてはじめて問題意識  99/12/3.

 人が殺されてはじめてマスコミや世論はその背景にある問題をとりあげる。今回のお受験(?)殺人にしても人が殺されてはじめて主婦たちのさまざまな問題がやっと表に噴出し出した。

 主婦たちの問題というのはいぜんからずっとあったはずである。お受験ブームや公園デビュー、孤立した子育て、幼児虐待――主婦たちのうっぷんや閉塞状態というのはそうとうたまっていた。わたしだって子どものころから近所の主婦たちの陰湿な関係とかネットワークというものにひじょうに嫌悪と憎悪を感じていた。

 そのような問題がマスコミに出るには殺人しかなかったわけである。逆にいえば、世間は人が殺されるまでは問題を封印したり、表に出して論じようとしない。人が殺されるまで深刻な問題意識がちっとも提起されないのである。

 酒鬼薔薇事件も殺人がおこるまで学校や郊外住宅に潜む深刻な問題といったものをなかなか認識しなかった。こうなれば、問題を認識させるためには殺人しかないということになってしまわないか。世間へのアピールやパフォーマンスのために人が殺されてしまったりしたら、たまらない。

 問題を議論したり、解決しようとする機能がどこか欠落している。ゆがみやひずみがあっても、みんな放ったらかしでそのままの状態でやり過ごそうとする。日常の社会関係での問題解決能力がぜんぜん育っておらず、機能していない。膿はたまってゆくいっぽうである。

 マスコミは殺人が起こるまで問題の深刻さをなかなか認識しえないし、いっぱんの人たちは社会関係での問題の解決方法をなかなかみずから生み出し得ない。商工ローンの問題にしてもマスコミにとりあげられて風向きが変わるまで、どれだけの人が自殺したり、破滅したりして悲劇に苦しんだかわからない。この空隙を埋める努力が、殺人を起こすほど追いつめられる前に、必要なのだろう。

 社会がもたなければならないはずの問題解決能力はどのようにしたら、この崩壊した地域社会において、生み出すことができるのだろうか。個人が自由にいつでも問題を発信できるはずのインターネットに、そのような機能が生まれればよいのにとわたしは考えている。




        主婦の競争と企業の競争と……    99/12/2.

 主婦たちは近所の狭い集団の中で優劣や勝ち負けを微妙に競っているわけだが、これをよくないだとか、はしたないだとか、品性がないといって責め立ててもむだだろう。

 このような人間の優劣とか勝ち負けの上にわれわれの経済はなりたっており、企業もそれを利用して大きくなる。経済というのはこういう人間の優越願望や対等願望といったものを原動力に回っている。

 主婦たちはだんなの経済力や職業、学歴、育ちといったもので競い、また子どもの学力や学歴、発達能力などで必死に競い合う。だんなは企業でほかのライバル企業や市場と競い、主婦はだんなの代わりに消費面でその優劣を披露する役割を背負っている。

 経済というのはすべて人間の競争心がビルトインされてはじめて正常に運行するというわけである。ひじょうに皮肉で、痛ましい現実であるが、人間の経済の一面の事実である。

 競争心をあおらないと経済はうまく回らないというわけだ。ちまたのどんな人も聖人君子になってしまえば、貧乏人が増えた経済と同じようにたちまち不況に陥るし、そのような経済は最終的に経済力のある他国などに支配、制圧されるのが歴史の一面のすがたでもある。

 国際競争のミニチュア版が近所の主婦たちのあいだでおこなわれているというわけだ。劣った人たちはいじめや仲間外れ、劣等感の強打という事態に見舞われる。

 われわれはどうしたら人々の競争や勝ち負けが組み込まれた経済から解放されるのだろう。社会主義は人間の競争心を破壊しようとして、当の人間自体を破壊しなければならなかった。また、経済の根本的な反省から考えるしかないのだろう。




         人生の本末転倒!状態  99/11/30.

 現在では年金に入るのは当たり前とされている。でもこれは生涯を守ってくれる心強い守護神なのか、それとも牢獄に縛りつけるくびきなのか、わからないところがある。

 年金というのは収入のないときや失業のときも、また赤字のときも一定の額を払わなければならない。また人によっては働きたくない時間や人生のある時期に空白を願う人もいるだろう。そういう人生の自由な選択を年金は奪いとってはいないだろうか。老後のために働きづめを強要してはいないだろうか。

 健康保険にしても毎月払わなければならない。よく人はタダ(あるいはタダに近い値段)で医者にかかれるというが、毎月払うことによってはじめてその資格を得られる。タダやタダ同然なんてのはウソっぱちである。毎月払えるくらいなら、病気にかかったそのときだけに医療費を払う方が安くつくのではないかと素朴に疑問に思う。

 民間の保険にしても、企業が成り立つくらいなのだから、支払い者は損をしていないかと思う。いつか起こるかもしれない恐れや不安のために月々いくら払うというのは、かなり脅え過ぎている。保険会社のためにわれわれは働いて、貢いでいるといったことになっていないだろうか。また頻発する保険金殺人も保険という制度があるために起こっているともいえないだろうか。

 年金や保険はたしかに将来の不安を軽減してくれるが、ある側面から見れば、まったく本末転倒のありかたになってしまう。年金や保険のために働き、生きているといった逆さまな論理に支配されるようになる。素朴に考えれば、まったくおかしな転倒である。

 これって住む家を与えられるうえに三食メシつきだから、犯罪というリスクを犯してムショに入りたいという人の気持ちになんとなく似ている。ムショに入れば生活は安泰である。福祉国家や社会主義、あるいは企業内福祉というのは表からも裏からも見てもほんとうにムショに似ている。

 マイホームもそもそも住むための家であるはずが、そのローンを払うためだけに働き、生きているといった逆転した人々もたくさんいる。会社だってわれわれが生活費を稼ぎ、楽しく暮らすためにあるはずが、いつの間にか会社のために生きているとしかいいようのない人たちがたくさんいる。消費者ローンにしても生活費や娯楽の足しにするつもりが、いつの間にか消費者金融のために働き、生きるしかないといった状態に追い込まれる人たちもいる。新興宗教にしても不安をとりのぞいてくれるはずだったものが、その教祖のために存在しているといった人たちもたくさんいるようだ。

 そもそも戦後の日本も豊かに暮らすつもりが、カネや会社のために生きているといった状態になってしまっている。みんなで仲良く人生の本末転倒状態に陥っている。

 人生の本末転倒状態から降りるためにはまず素朴な疑問、素朴な思いというものをもってその状態に気づくことが先決である。そしてそこから降りるためにはかなりの心機一転が必要になるようだ。保障や保険を必要とした不安自体がわれわれの敵であり、母胎であるからだ。「いつか○○になってしまうかもしれない」という不安に打ち克つことができるだろうか。あるいはべつの方策でも見つけないかぎり、人生の本末転倒は終らない。




        狭い集団の中での勝ち負け    99/11/30.

 こんにちでは小さな集団の中でみんなから承認を得ることがひじょう大事だし、仲間外れにならないこともそれに優って重要なことだ。いきおい画一化し、同調化してゆく圧力がさまざまにかかってくる。

 こういう集団の同調作用をあざやかに見せたのが、リースマンの『孤独な群集』やホワイトの『組織の中の人間』、リップマンの『世論』、ミルの『自由論』といった本だ。わたしはこれらの本の中のあちこちに自分の姿、および自分が過ごしてきた集団やグループの姿をまざまざと見せつけられた。こっけいでもあわれでもある。

 お受験に必死になる主婦のグループにもとうぜんこの圧力がかかってきたのだろう。こういう狭い集団の中ではほんのささいで微妙な違いや勝ち負けにひじょうに敏感になる。ついにはこの集団の中での勝ち負けや優劣といったものが絶対的なものになり、動かしがたい壁のように見えるようになる。

 あくまでもその集団の中だけであって、ほかとの人とのあいだでは優劣関係が変わってくること、相対的であるということが見えなくなり、またほかの価値尺度や価値観といったものも見えなくなってくる。その狭い集団内での価値観とモノサシが絶対になるわけである。そこに今回のお受験殺人の根があるのだと思う。

 狭い集団の中だけにこり固まるのはひじょうに危険である。ほかの人々の情報や状態が入らなくなってきたら、なおさら危険である。現代のわれわれはこういう狭い価値観と狭いモノサシしか持ち合わせていない。そういう世界はやっぱり苦しいし、楽しいものでもないし、おそらく多くの人が逃げ出したいと思っていることだろう。

 わたしも狭い価値観とモノサシから逃れる試みをいろいろしてきた。もともと金や権力のモノサシでエラくなんかなりたくないと思ってきたから、否定的な価値観で負けてもあまり気にならなかった。狭い集団の中だけで勝ち負け優劣にこだわるようになれば、ほかの価値モノサシで測るということが必要になるのだろう。そういうモノサシをつくるためにはほかの価値観や人々の知識を得ることが必要である。

 あくまでも勝ち負け優劣はひとつの特殊な価値観において序列づけられているということを知ることが大事である。こんなのはその根底の価値観を否定すれば、意味などない。負けても平気になれる。ほかの価値観やモノサシを知るということも助けになる。

 狭い集団の中での価値序列だけでものごとを判断してしまうというのは、こんにちの閉鎖的な集団内ではひじょうに多くならざるをえないと思うのだが、たえずほかの価値観やモノサシから情報を得るということも大事になってくるのだろう。

 人間なんて金や学歴、所属集団などの外面的な違いはあっても、ほとんど違いなんかないものである。そういった勝ち負け優劣に血まなこになることこそがあわれである。勝者もやはり敗者になることを恐れる自分たちと同じ弱い人間なのである。人間の価値序列に距離をおけるようになれば、しめたものだ。





      お受験競争と主婦の狭い世界   99/11/29.

 路傍の人間にとってはお受験が殺人までひきおこすとはとても考えられないのだが、お受験や主婦の階層競争みたいなものは壮絶なものがあるようである。

 でもこの事件はこの世代のお受験とか偏差値、学歴や育ちなどのさまざまな社会問題を含んでいるといえる。主婦の密室育児とかひじょうにせまい交友関係、そのなかの序列順位、など閉鎖的にならざるをえない地域社会や専業主婦の問題点がいっきょに集まっている。

 たぶんこういう緊密な集団やグループのなかの競争や嫉妬の関係というのはひじょうにたまらないものがあるのだろう。専業主婦は同じ子どもをもつ仲間で朝から晩までいっしょにいなければならないという窮屈な関係もあるようで、男のわたしはつねづね主婦たちの狭い世界をかわいそうだなと思ってきた。こういう集団の同調強制というのから、わたしは必死に逃げてきたし。

 主婦のお受験競争というのはなんとなくわたしにもわかる。やはりこの世代がそうであったように、わたしのおかんも子ども時分にそうとうの習いもの教室へわたしを通わせたわけだ。ピアノやらスケートやら英会話教室やら水泳教室やら、イヤミったらしいったらありゃしない。(そういえば、近所の主婦の悪口ばかりいうおかんもいやだったな)

 けっきょく、わたしの場合はほとんど身につかず、おかんもあきらめて身の程を知ったようだ。最期あたりにしぶしぶ唯一わたしの得意であった絵の教室に通わせたが、自分の好みと合わなかったようで長くはつづかなかった。習い事というのは母の見栄がだいぶ入っていて、将来のことも考慮しているのかもしれないが、しょせんは世の中を知らない主婦のことだ、めくらめっぽう撃ちみたいなものがある。

 将来のスキルを身につけるより、狭い集団のなかでの優劣順位や序列といったものがひじょうに大事になってくるのだろう。ただ勝ち負けを競いたいわけだ。現在の変動する経済状勢を考慮に入れるのなら、学歴や有利な学校に入れるよりか、経済スキルをどう身につけるかということが重要になるのだが、主婦たちはそういう世界とつながっていない。かろうじて学校選別という社会の出入り口だけでつながっている。視野がどうしても狭いのである。

 主婦と教育ワールドという、ちょっとビジネス・ワールドとズレているんではないかいという時代錯誤の空間のなかで、優劣序列だけが競われるというのは、親より先の時代を行かなければならない子どもたちにとってはひじょうに大きな損失だろう。「どのように生きたいのか、なにをすることが楽しみなのか」、そういった自己認識がなければ、経済社会を生き抜くのは難しいだろう。そういう目標や認識の自分さがしをさせないで、目の前にある学歴競争だけの優劣にとびつくのはいまや危険である。

 主婦の世界にいろいろな問題が集まっているようである。公園デビューや幼児虐待、密室育児、地域社会の崩壊、たぶんこれは団地化や郊外住宅化といった時代からはじまっていた問題なのだろう。

 経済偏重社会がもたらした問題なのだろうけど、隔絶した地域社会をどう再興するかということを考えなければならない。でもそんなことは難しいから、主婦が狭い世界だけではなく、ほかの世界につながって多様な価値観や社会の流れを知るということが大事なのかもしれない。




       世界自体には意味も価値もない   99/11/28.

 世界自体には意味も価値もない。人間がただ判断や意味づけをしているだけである。世界自体はこの世の自然や出来事、ものごとにいっさいの価値も序列も意味づけもおこなわない。あるように在り、おこるように起こるだけである。

 自分の世界において、判断や意味づけをしているのは自分自身だけである。自分が世界を区分づけ、階層づけ、細分化しているだけである。

 世界自体にはこの世でおこる出来事や物事のいっさいに意味づけも価値づけもおこなわない。なんにもない。ただ空っぽがあるだけである。

 怒りや悲しみ、悩みはすべて自分の判断からつくられたものである。世界自体にはなにもない。そしてそれらの感情に悩まされたり、苦しまされたりするのは、自分自身だけである。世界そのものにはなんの関わりもない。

 ときには意味も価値もない世界に憩うのも悪くないだろう。われわれは他人の趣味や行動のなかに無意味さや無価値さをときどき感じることがあるのだが、そのまなざしを自分に向けてみてはどうだろう。自虐的になっては元も子もないが、意味も価値もない世界は安らげるものである。裁きも、評価も、優劣も、事実もなんにもないからである。




        いつから書物はなくなる?   99/11/28.

 インターネットは革命的に産業のかたちを変えてゆくといわれている。たとえば書物はネットから送信されるようになったら、印刷所もトラック業者も卸売も小売店舗も必要なくなる。著作料だけでよい。音楽やゲームなどのソフトはとくにそうだ。代理店や不動産、銀行、郵便局なども(旧来のかたちでは)不必要になる。

 こういうヴィジョンはもっているのだが、それが現実のものになったり、旧来の産業を駆逐するようになるにはなかなかタイム・ラグがあるようだ。未知数の新しい船に乗り換えるべきなのか、それとも古い船のほうはまだまだつぶれないし、完全になくなるとは限らないから、古い船にのっていたほうがよいのか、けっこう迷うものである。(といってもわたしには度胸も技能もないから古い船で指をくわえているしかないが)

 産業はまったく変わってしまうのだろうか。そして世の中の風向きがまったく変わるのはいつのことだろうか。Eメールというかなり便利なものがあっても、みんなが郵便局から鞍替えしてしまうまでまだまだ時間がかかるだろうし、ソフトのネット送信にしてもいまようやく書物のコンビニ配送がはじまったばかりだ。可能性と現実の浸透にはまだまだ時間差がある。

 新しいボートはまだ早過ぎてだれも乗らないで沈んでしまう可能性もあるし、おおぜいの人がいっせいに新しい船にのりかえる分岐点のような時はいつやってくるのだろうか。まだパソコン自体が浸透していないからもう少し先のことになるのだろうか。

 わたしは新しい産業にのりだしてゆく勇気も知識もないが、このホームページで少々のこづかいでも稼げるような時代がきたらいいのになとたくらんでいる。たんなる趣味や嗜好で稼げるようになれば万々歳だ。そんな時代はくるのだろうか……?。




        「フツウ」人の終わり    99/11/26.

 フツウ人の将来の雲行きはどうも怪しいようだ。スペシャリストではないと生き残れない時代がやってきた。フツウ人はなんら専門的技能をもたず、社交的能力だけで企業内政治を渡ってきたわけだが、そういう技能はコンピューターにおきかえられつつある。

 竹内洋はこういう転換期をつかまえて、オタク・バッシングはじつは専門的能力にたいするフツウ人の脅威からおこったのだといっている。つまりオタクが嫌悪から重用される時代へのうねりを、深いところで恐れていたということだ。社会的勢力をもつフツウ人が最期のもてる力をふりしぼって、オタク排斥をこころみたというわけだ。

 時代はどうもフツウ人ではのりきれない。オタク熱によって新商品や新アイデアをしぼりださなければならない時代になった。今世紀の自動車や飛行機、鉄道といったものはさいしょはひじょうに奇妙なオタッキーな人たちの楽しみであり、創造であったわけだから、いま、時代はそういう草創期のオタク熱をふたたび欲しているというわけだ。

 ただフツウ人たちはなかなかこの時代の変化に対応しようとしない。フツウ人養成教育機関に子どもの夢をまだ託そうとしている。つまり規格的大量生産時代の人材養成機関たる学校コースである。フツウ人はもともとも子どもたちがもっているはずのオタク熱を削いで、欠点のない丸い人格をつくりだそうと日夜こころみている。

 わたしもやはり母親からフツウ人になるための特訓をうけた。わたしは子どものころマンガを書いていたのだが、母親から「友達と遊べ」「外に出ていけ」といつもどなられていた。いまではフツウ人にならなければいけないけど、どうもずるずると脱落してしまうという中途半端な規格外の人間になってしまった。もしオタッキーのままマンガを書きつづけていたら、金持ちになれたかも。。。とひそかに思っている。

 近代的産業が成熟してしまった現代、新しいフロンティアをつくりだすものはいままでにないものをつくりだすオタク的才能が必要である。インターネットの爆発的広がりをもたらすのもやはりオタクである。フツウ人はやはりオタクのような超人的粘着力・執着性を削がれたためにそういう力はない。

 しかしオタクであっても必ずしも成功するとは限らない。他人にはまるで理解できない趣味に興じたり、商業的にはまったく通用しないオタクの趣味もあるからだ。だからフツウ人たちはやっぱり安定堅実がいちばんとフツウ人の孫を製造すべく今日も長所も短所もない平均的人格をつくりだそうとしている。

 ただオタクであることはたいへん幸せであるかもしれない。オタク人は世間体や見栄などいっこうに気にせずに自分の楽しみを追求できる。これは世間体を恐れまくるフツウ人とはすごく対称的である。(だからこそフツウ人に嫌われたのだが)。オタクは世間体を超越しているから、自分の楽しみさえ追求できれば幸せであるというたいへん幸福な人である。

 フツウ人は人に嫌われるのが恐かったり、世間体が悪くなるのを気にするから、自分の楽しみや趣向に生きることができないので、たいへん自分らしくない一生を送ることになる。しかも見栄を飾る道具もいまでは種が尽きてしまって、会社ではリストラだ。フツウ人にはたいへんツライ時代がやってきた。





      「なんのために生きているのかわからない」  99/11/25.

 「なんのために生きているのかわからない」――4時間も5時間も残業させられて嘆く大学OBの嘆きである。いまはなおさらリストラでカットされた人員で従来の業務をこなさなければならない。若者の多くはこんな嘆きを感じていることだろう。

 これが日本のほんとうの姿である。現実の実状である。こんな言葉を吐かせる日本という国はどんなに異常なことか。そしてその歪みがぜんぜん世論にも政治にも反映されない。どこでこんなにイカレてしまって、どうしてだれも声をあげられず、必死に耐えるしかないのだろうか。

 労働者はこの国では孤立無援ということを悟らなければならない。マスコミも企業や金持ちの都合の良い意見をみんなに洗脳するだけだし、政治なんかもっとそうだろうし、労働組合とか裁判所なんてものもやっぱり権力の御用聞きである。

 この国は国家権力全体で労働者を「なんのために生きているかわからない」、「会社や国家のために生かされている」人材に囲い込もうとしているし、学校だってじつのところこういう労働者を大量生産するための下請け機関にしか過ぎないし、それを変えようとする手段も頭もすべて奪われているというわけだ。

 いったいどうやったら変えられるのだろうか。労働者の権利や人権、権力といったものはいったいどこにあるのだろうか。

 もうこうなったら怨恨を逆転させて「企業とお国のために死にますぅ〜!」と心入れ替えて自虐的に喜んで生きるか、ジョブ・ホッパーや怠け者労働者になって生活苦に苦しむしか方法はないだろう。

 現実とはキビシイ。学校で習ったような圧制とか虐待とかの歴史は教科書とか大昔に終わった出来事ではなくて、まさにわれわれの日常の生活にあるものだ。社会に出れば、こんなことはだれだって無償で、無期限に学べる。ついでに報奨金も与えられる。




         閉塞時代の文学史    99/11/24.

 現代と同じように国家目標に到達したあと、明治の閉塞状況はどのようになっていったのか。文学史から読み解いてみたい。(ただし文学史の詳細なところは勉強不足なので表面的なことだけ)

 夏目漱石の『三四郎』が卒業することになる明治44年には大卒者は二人に一人以下しか就職できない状況になっており、いまと同じ空前の就職難だ。会社の昇進ポストにしても「頭がつかへて居る」状況だった。

 漱石はそのあと『それから』や『彼岸過迄』に就職しない「高等遊民」を登場させた。石川啄木は明治43年に『時代閉塞の現状』を書いている。

 評論家の奥野健男はこのような閉塞状況にはデカダンス芸術と耽美主義文学があらわれるといっている。鬱積のはけ口は強烈な刺激に向かうというわけだ。谷崎潤一郎とか永井荷風である。

 芥川龍之介は大正五年にデビューし、昭和二年に「将来に対するぼんやりとした不安」という言葉を残して自殺するのは有名な話だ。

 破滅者とか性格破綻者、余計者の文学もこのころあらわれる。葛西善蔵や藤沢清造、広津和郎といった人たちだ(あまり聞いたことないな)。

 プロレタリア文学が大正なかごろからあらわれ、昭和五年ごろには最盛期をむかえるが、昭和七年から特高による弾圧がはじまる。しかし現代にはマルクス主義のような大きな思想が育っているだろうか。

 そして昭和十年ころから無頼派の太宰治とか坂口安吾、織田作之助とかがあらわれる。破滅とか破綻、堕落をつきすすめていった人たちである。かれらは戦後まもなくの混乱期に自殺したりする。

 現代もこういう文学史上にあらわれたような精神的経緯をたどるのだろうか。明治と昭和の国家目標到達後の閉塞状況、高等遊民の出現、金融恐慌、あるいは大震災、天皇崩御などあまりにも似た出来事が出現するので、時代はふたたびある一定の精神のパターンをたどるように思えて、不気味でならない。

 参考文献:奥野健男『日本文学史』(中公新書) 竹内洋『立身出世と日本人』(NHK人間大学)



       半年働いて、半年休む    99/11/23.

 「半年働いて、半年休む」――これは工場業務請負のNK社がアルバイト情報誌に出している広告である。

 たしかにこれは夢のような生活だ。半年も自分の自由にできる時間を得ることができるのだ。旅行好きな人や趣味とかなにか勉強したい人にはたまらないだろう。

 若い世代ならなおさらこういう生活をしたいだろうし、これを正社員でやっている人もいるらしい。半年働けば失業給付も受けられるし、自分の好きなこともできる。

 仕事は大都市圏から離れた地方の工場生産でたぶん大半はライン作業で、みんなやりたがらないからこういう甘い広告を出して人を誘っているのだろう。

 いっぱんの勤労観念からいえば、こういう働き方は受け入れられないだろう。ただし、若い人のホンネとしてはこういう働き方をしたい人も多いはずである。しかし大半の企業はみっちりと働く勤労観念をもっているから、ほかの企業からはだんだんと受け入れられなくなってゆく。

 二十代前半ではこういう働き方もできるだろうが、やはり三十とかを過ぎてきたら、だんだん働き口がなくなってゆく。工場生産ならなかなか手に職といったものがつきにくいし、いつまでもできる就労形態ではないのだろう。

 たいへんうらやましい生活であるのだけれど、将来をきっちりと計画づける人、将来の不安に負ける人にはまちがっても近寄ってはならない働き方なのだろう。

 一生こういう働き方ができるのならわたしだってやりたいが、企業というのは三十を過ぎるとどんどん門戸を閉ざしてゆく。残念ながらいまの段階では流動的な転職市場といったものはまったく育っていない。年をへるにしたがって腰を落ち着ける職場を見つけるべきである。(中高年でリストラされれば、元も子もないが。。。)




       英語メールの困惑   99/11/23.

 たまにEメールに英語でのメールが送られてくるのだが、英語力がないのでなにが書かれているのかわからない。ほとんどセールスだと思うのだが、ときになにか深刻な事情でも絡んでないかと不安になるときもある。

 一度送り主に送ってやろうかと思った。「日本人だから英語なんて読めない。日本語でメールしろ!」

 迷惑千万な話だ。国際語の放漫だ。。。 せめてセールスには相手国の言葉に翻訳するとかの配慮はもてないのだろうか。相手国の事情に無頓着でセールスなんかうまくいくのか。(英語を十年近く勉強しても身につかなかったわたしが悪いのか?)



      金持ち優先は豊かさをもたらすか   99/11/23.

 護送船団や企業社会主義をやめて競争原理を導入するのがこれから日本の生き残る道とされる。わたしも会社人間や企業主義社会を破壊するという点で、そのほかは差しおいて賛成だった。

 でもこれはリストラや中流階級の没落、失業、自己破産、ホームレスの増加などの現象を見ていると、どうも利益優先主義ではこの先悪くなる一方だという感が強くなるばかりだ。この痛みは一時的なもので金持ちが豊かになれば、ほかの国民も豊かになるといったアメリカやイギリスの先例に望みを託すことができるのか。

 おかげでアメリカは好況だということだが、株価などの表面的なことだけで、じつは国民の大半は貧困家庭に転げ落ちているというのが現状である。株高とナマ身の人間のサイフはちがう。マスコミはなぜかこういう現実を捉えない。マスコミはいまの大企業や金持ちに有利なことしか伝えないからだ。

 金持ちや企業に有利な社会がどんどんかたちづくられてゆくというわけだ。市場原理や企業の利益優先ははたして貧困者や失業者、社会荒廃や社会不安をほんとうに救えるのだろうか。目先の利益を追うだけで社会的責任を切り捨てるだけではないのか。とれるだけとって、あとはほったらかしにする畑のようなものではないのか。

 国内市場に売るところがなくなると企業家は戦争をしかけるしかないとホブソンの『帝国主義』は警告している。このまま金持ちのやりたい放題がつづき、国民の購買能力がどんどん失われてゆけば、人の命などかまわない企業家のことだ、てんで絵空事であるといえない気がする。

 たしかに競争原理は必要だし、しかしナマ身の人間はかんたんには職種替えはできないし、市場原理と保護政策の相克というのはひじょうに難しいし、どちらの意見も一面では正しいように思える。でもこれって金持ちに都合のよい考え方に洗脳されているだけなのか。

 労働者は金持ちの考え方の片棒をかつぐと自分の身を破滅にみちびく。労働者と貧乏人という身のほどをしっかりとわきまえるべきだ。マスコミも政治家もとうぜん金持ちの太鼓もちである。だまされてはいけない。むかしの人は労働者と資本家は対立するものだというしっかりとした見解をもっていたが、いまの人たちはなぜかクビを切られても仕方がないと経営者と同じ考えをもつようになっている。われわれはすっかり洗脳されている。

 わたしの頭のなかにはふたつの対立する考えが渦巻いていて(ビジネス書VS社会正義みたいなものかな……)、どっちが良いのかという解決はなかなかつかないけど、ふつうの人としてはいまの社会は人間的な道徳観とか正義観といったものが欠如していると思う。そのしっぺ返しのコストはのちのちひじょうに高くつくのは、経済学者や経営者たちの利益主義の狭い頭の中では計算できないようだ。




     金持ちのしたい放題でない社会の想像力    99/11/22.

 やっぱりこの世の中は金持ちが強い。圧倒的に強い。好況のアメリカでもリストラはいぜん盛んだということだが、先進国で脅える人たちを見ていると、金持ちの権力の圧倒的な差を思い知らされる。資本家や経営者の権力といったらいいのか。

 この世の中はそういう金持ちや経営者たちのさじ加減、ツルの一声しだいのようである。

 日本の場合ならいまのリストラ時勢に加え、人格・時間のすべてを捧げ尽くさなければならない労働者の人生もかれらの権力しだいで勝手に決められる。働く時間、生き方、自由といったものはすべて企業の権力によって決められる。

 日本の場合はとくに金持ち以外のほかの勢力・権力といったものがまるでない。だからどこまでも金持ち連中のしたい放題である。不幸なことに日本は後発開発国であったから、政治家や政府もみんな金持ち連中と結託し、かれらだけに有利な仕組みと有無を言わせない制度をつくってきた。

 だからわれわれは金持ち以外が権力をもつ社会というものを知らないし、そんな社会があるのかさえすら想像もできない。金だけが絶対的な権力と保護をもつと信じ込んでいる。

 でも金持ちだけがしたい放題の権力をもつ社会だけが人間の社会だとは限らない。宗教はそういった勢力に拮抗し、いまの社会では理解できないほどの権力をもっていたこともあるのだし、武士や軍人が権力を強くもっていた時代や国もある。いまインドネシアあたりで「海賊」なんて時代がかったものが出現しているが、こういう荒々しい力をもつ地域もあるのだ。

 やっぱりパワー・バランスが必要なのだろう、三権分立みたいな。金持ちだけがのさばる世の中ではなくて、知識層や宗教人がそれなりの権力や勢力をもって牽制したり、軍人がまたそこに介入したりする、そういった適度な権力の緊張関係がよりよい社会をかたちづくってゆくのではないか。

 金持ちや経営者だけが力のもつ社会は人々のクビはかんたんに切る、生活や家庭は保護しないドライですさんだ世の中をどうしてもつくってしまうし、社会はカネだけを崇拝する悲壮な精神を培養してしまうし、世論やマスコミだって金持ちや経済だけに都合のよい意見や考え方だけを流布するようになるだろう。

 金持ちだけがのさばるような権力は、ほかの社会勢力などによって抑制される必要がある。日本は徹底的にそういう勢力を破壊してきたのだろう。いまの金持ちだけが絶対的に権力をもつ社会しかないと思うのはやめにして、ほかの権力や勢力もある社会もあるのだと想像することも必要である。



仕事と将来の不安についての断想集



       自由と企業の地位序列      99/12/31.

 自由には憧れるのだが、職場での地位が低い人を軽蔑して見てしまう。サラリーマンにはなりたくないと思っていたのだが、まじめにきちんと働いてきた人を評価してしまう。服従や隷従する人たちを軽蔑してきたのに、まじめな勤め人はエライと思ってしまう。過去になにをしてきたかわからない人や仕事があまりできない人は低く見てしまう価値基準が自分のなかにはある。

 つまり自由な生き方の基準より、企業の人間評価のほうが優っているということである。企業のなかで人と出会うと決まって企業内評価と同じまなざしで人を評価し、見下してしまう目が自分のなかに根をおろしているというわけだ。

 愕然としてしまう。自由な生き方をしてきた人はとうぜん企業内では評価も低く、劣等な地位におかれることになるのだが、自由に憧れる自分もそういう企業内評価のまなざしで人を序列づけているのである。自由な人というのは、きちんとした企業ではとうぜん軽蔑して見られる。そういうまなざしが抜きんがたく自分のなかに定着している。

 わたしは服従や隷属を嫌い、自由な生き方をのぞんできたはずなのだが、サラリーマンの人物評価がしっかりと自分のなかに根をおろしてしまっている。企業内評価の低い人を軽蔑して見てしまう自分には驚くと同時に自分のモノサシの甘さには愕然としてしまう。

 軽蔑するのは自由なのである。そしてそれは仕事ができないことや、あるいは仕事に定着しないこと、社内で低く見られることなのである。裏返せば、これは人間としての自由をもちあわせていることになるのだが、そういう自由を軽蔑してしまっている自分がいるわけだ。

 これでは自由の息の根をとめているのと同じだ。企業での低い立場の人を軽蔑して見るということは、自由を抹殺していることと同じだ。一方では自由をほめ、その裏では自由の首を絞めているようでは、とうぜん自由なんかにはなれない。

 こういうまなざし、評価基準には警戒することにしよう。自由と地位の低さはコインの表裏なのである。地位の低い人を軽蔑して見れば、自由を否定することになる。企業での低い立場にいる人を軽蔑して見るようなまなざしに訓化されるようなことは避けたいと思う。そのような評価基準で人々を判断してしまう反射性を警戒しよう。

 自由のモノサシは企業のモノサシとまったくひっくり返るものだ。企業での低い評価は、自由のモノサシでは高い価値をもつものである。この転倒を忘れるようでは、みずからの自由の首を絞めているようなものだ。

 ただ企業の集団の力というのは強い。弱いところにはいじめのような構造がかかる。だから人はそれを恐れて集団内での価値基準を自分のものにしてしまう。こういう力の構造があるから、人はこぞって企業の評価をみずからの内にとりこんでしまう。自由というのは、集団の力との闘いかもしれない。




        あ〜あ、仕事はしんどいなぁ   99/12/30.

 仕事が終わって帰ってくるとだいたい8時や9時だ。コンビニ弁当をかっ食らって、ふとんに入りながらTVを見ていると今日一日無事に終ったことにほっとする。仕事終わりにTVが見れるのは幸せだと思う。(なんせいままで帰って寝るだけの残業地獄の職場ばかりだったから)

 ということで、とてもじゃないけどホームページの更新にはなかなか手が回せません。書くテーマについてもぜんぜん頭に浮かばないし、からだを休めるのにせいいっぱいである。みなさんにはたいへん申し訳ないですが、どうやらしばらくは遅筆になるのは確実のようです。あまりのぞきにきても更新はされていないと思うので、ゆっくりめに見に来てくれるか、この機会にバックナンバーを読んでくれれば、ありがたいです。

 ところで今回の職場はいろいろなことでしんどいようである。体力的にも人間関係的にもひじょうにしんどそうである。人間関係は集団行動をかなり要求されて窮屈だし、休憩室では胃をやられそうになるし、仲間内での分裂とか対立がほの見えていたり、部署内のリーダーのさじ加減がかなり強そうだし、これはヤバソーである。カンベンしてよ、まったく。。。

 まあ、とりあえずは通常の生活レートに戻るくらいまでがんばって、貯金をためて、さあそれからどうしようかな、というふうに考えようと思っている。(あいかわらずいきあたりばったりだ。このキビシー世の中をこれで乗り切れるのか)

 ひさびさに電車にのるといろいろな人を見かけるようになる。なんか世間の人とかなり疎遠になっていて、みんなと違う世界からやってきたような気がするし、世間さまの人たちにカルチャーギャップを感じるというか、この人たちはいったいどういう人なんだ?とまるでわからない感じがする。電車やホームで見かける人がますます自分とかけ離れてゆく気がする。

 また、ふつうの仕事勤めの生活に戻ってきた。出勤日はほとんど仕事だけでつぶれることになる。こんな生活ってなんだろうな、と思う。働くだけの毎日はほんとツライ。不満がたまっているわけだが、しばらくすれば慣れるか、つもってゆく一方かもしれない。ほんまにソーローみたいに自給自足の自分のためだけの生活をしてやろうかなとたまに思ったりするのだが、早まるなと自分に言い聞かせるしかないだろう。

 仕事が忙しかったので今年は年末だとか正月気分といったものがまるでない。年が暮れるとか、年が押し迫っている、明けるとかの感覚が自分にまったくない。もともと年末とか正月にはわれ関せずの主義だったからべつにそんなことはどーでもいいけど、今年はとくにそんな感覚がまるで麻痺している。1900年代の終わりだとか2000年のはじまりの年だとかいうが、ほんとうにわたしの中にはそんな感覚が欠如している。べつに虚構をたてまつらなくてもいいけど、なにかのしめくくりとしてものを考えるには適していることについては残念だけど、ただそれだけのこと。




        学校の集団と社会人の孤独   99/12/26.

 学校にいっているときはたくさんの同じような知人や友人が多くいた。近所に出かければ、近くの家には知り合いや友人が住んでいて、いくらかの知人に出会い、地域全体が知り合いに満ちあふれていた。だいたい同じような学年、環境にいる人たちが集団として認識されていた。

 それが社会に出るとみんなばらばらになる。どこでなにをしているのかもわからなくなるし、ほとんど存在もしていないと同然になる。まるでこの世界にひとりで生きている感じがするようになる。学生のときのような集団の一体感といったものはまったく吹き飛ばされてしまう。

 生き方や考え方、通う場所がみんなばらばらになり、かつての集団者はこの世界にひとりで投げ出されたような状態になる。会社の人間関係は学生のときのようには緊密ではないし、住む地域に知り合いだらけといった状態はもはやなくなる。

 ほんとうのところ、人間のあり方というのはこういうものだと思う。みんなばらばらで、働き方、生き方がまったく違っていて、一体感とか同一感というものがまるで感じられないのが社会人のあり方だと思う。仕事や生業が違っていたら、まったく違う人種のように思えるのがふつうなのである。

 それが生まれ落ちて物心ついたころに人為的な学校という集団に放り込まれる。そのために地域社会に知り合いや友人がたくさんいるという状態が当たり前でふつうのことだと思い込むようになる。こういう集団のあり方がふつうのことだと思うようになる。

 でも社会に出るとそういった集団意識はこっぱみじんに吹き飛ばされてしまう。みんなばらばらで、どこでなにをしているのかまったくわからなくなる。同じような年齢集団といったものは存在しなくなる。

 社会に出たころ、わたしはこの孤独を強く感じた。集団として存在していたわたしは世界にひとりで投げ出されているような気がした。この孤独に慣れるのにけっこうわたしは時間がかかった。むしょうに哀しい時期というのをわたしは通り過ごさなければならなかった。

 近所に知り合いばかりがいて、ちょっと出掛ければ知り合いがいるような地域というのはひじょうに窮屈で、たえずどこで知り合いに見られているかもしれないと思って、すこしでも早くこんなところから脱け出したいと思っていたが、いまから考えればそういった集団の同一感といったものが懐かしく思う。

 もういまはこの世界にひとりで生きているといった状態に慣れたからだ。孤独がつらいだとか、さみしいだとか、なんとも思わない。ただひとりで生きることに快適さと自由さを感じている。知り合いの世間体やしがらみに縛られないで、自由に過ごせるからだ。

 忘れる前に、学生から社会人になれば、こういう段差や落差があるといいたかっただけだ。




     将来の経済に希望がもてない時代  99/12/25.

 これから生活苦におちいる人たちが増加することだろう。将来の経済や生活にも希望ももてない。悲観的状況の連鎖が起こっている。

 どうにもならない悲観的状況が長くつづくと人々の精神状況も変わってくる。日本が戦前に日中戦争や太平洋戦争にのりだしていったのも、こういう経済困窮という非常事態という土台があったからだと考えればひじょうに納得できる。戦争でもしなければ、こっちが死んでしまうといった背戸際の状態だったのかもしれない。

 日本経済というのは戦争に多くの恩恵をおっている。第一次世界大戦では海の向こうの戦争だったからおかげで「○○成金」という人々がたくさん生まれたし、戦後の復興も朝鮮特需におっている。日本は戦争成金のようなところがある。

 人々の生活ができない、支払いができない、といったどうしようもない状況におちいる人たちが続出し、しかもこの先大不況の出口も容易に見えない、こうなると人々の思考形態にどのような変化が起こるかわからないというものだ。強盗や誘拐などの犯罪もこういう精神状態のうえでなされるわけだ。

 経済が問題だ。貨幣経済という、個々人が収入を得なければ生きてゆけないという市場経済に問題の根底があると思う。貨幣経済についてもう一度哲学的に考え直さなければならないのかではないかと思う。



       1999年、今年読んでよかった本   99/12/25.

 今年は8ヶ月にわたるロング・ヴァケーションをとっていたために金銭的な節約をしなければならず、あまりたくさん本が読めたとはいいがたい。ひとつの深く掘り下げるテーマを見つけたわけでもない。ちょっとわたしにとっての読書の収穫は不作のほうだった。

 98年は漂泊者というテーマを追求するのがおもしろかった。おかげで山奥や山村などを散策するのが楽しみになった。今年はそういったひとつのテーマを見つけられなかったが、今年のうちに読んでよかった本を7冊だけあげることにする。

 ■『老子・荘子』中公バックス もちろん中国の古典である。逆説的な論理、無為自然など、たいへん多く学ぶことのあった人生の名著である。これからも深くかみしめたい本だ。

 ■トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』岩波文庫 『聖書』につぐ世界第二位のベストセラー。宗教書というよりか、世俗的・一般的なセラピー書といったほうがふさわしい。ためにひじょうに有益な本だ。

 ■日下公人『新しい幸福の12章』PHP 古本でしか手に入らない古い本だが、あらためて日下公人のすごさを再認識した。ビジネスから日本を読みとくと社会がよく見えるし、立身出世やビジネス主義から降りることも考慮に入れている点がすばらしい。

 ■『だめ連宣言!』作品社 働かない生き方を実践している人たちの集まりで、わたしも内心ではやりたいのだが、じっさいにやっているとは驚きだ。クソ働き社会に一石も二石も投じつづけてほしいと思う。

 ■宮本常一『生業の歴史』未来社 民衆の働き方=生き方を紹介したすばらしい本だ。学校の歴史では政治屋の歴史で、民衆の存在はまったく抹殺されていた。われわれ民衆にとっていちばん大事なのはご先祖さまの生きて、働いてきた姿だ。たくましくも立派なご先祖さまのリアルな姿が見える。

 ■櫻木健古『捨てて強くなる』ワニ文庫 人間の勝ち負けや価値観を超えるというたいへんすばらしい本。人間の上下や地位を気にしているようではまだまだだ。そんな価値観を超えたところに人間の成長と平安がある。

 ■ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫 イギリス労働者階級の労働から身をかわす方法がひじょうに感銘をうけた。日本ではそういった反抗文化は学校どまりで、社会に出るとみんな中流階級幻想とともに働きキチガイになる。まちがっているって。われわれは使い捨ての労働者なのだ、勘違いすんな。




      人生ののりかえ――TVドラマ『危険な関係』の感想―― 99/12/23.

 ボロ・アパートに住むタクシー運転手が社長にすりかわるというTVドラマ『危険な関係』を見ていた。はじめは社長にすりかわるというストーリー展開が破綻しそうで、バレないかということより、物語りが破綻しないかとはらはらしながら見ていた。

 人生をのりかえたいという気持ちは32才を過ぎたわたしにはとてもよくわかる気持ちだ。あ〜、この先どうもこれからぱっとしない人生を送るんだなとなんとなくわかる。だから大会社の社長にすりかわるというテーマはひじょうに興味をひかれた。男が哀れだった。

 テーマはもちろん主人公の豊川悦司がいってたように「たしかめたかっただけ」ということになるのだけれど、やはりお決まりの社長やランクが上の人間でもなくても、人間はじゅうぶんにしあわせなんだといったメッセージをもっていたと思うのだが、そんなのはだれだって口では言える。ほんとうに心の底から自信をもってそう言えるのかは難しいところだ。この物語りでも社長であることの不幸や不遇をじゅうぶん示されていたわけではない。毎回テーマはなんだと探しながら見ていたが、いまいち強いメッセージの回はなかったようにわたしには感じられた。

 ランクが上の人間にならなくても、いまの人生をのりかえたいという気持ちは強い。もうすこし違った人生、生き方ができたらいいのになと思う。こういう気持ちをこのドラマは垣間見させた。だから人生をのりかえようとした男は哀れで、かわいそうだった。

 着古したジージャンのよさを知るためにカシミアのコートを着たのだといっていたが、そういうテーマより、人生をのりかえたいと願ってしまう人間の悲しさ――自分自身の閉塞状況のほうが思い知らされて、なんとも哀しい気持ちになったドラマだった。

 もう人生はひきかえせない。一方通行のUターンもバックもできない直進道路である。人生をのりかえもひきかえせもできないのなら、いまの人生のよさやささいな満足といったものを愛惜するようにしようということである。失ってはじめてわかる人生の良さもあるということである。




        休憩時間と職場    99/12/21.

 まあ、かろうじて仕事が見つかったが、長くつづけられるかはわからない。ひさびさの労働だから体はものすごくしんどいし、腰は痛いわ、足は痛いわでたいへんである。ふっと、もう仕事なんかしんどいものはしたくないと思ったりするのだが、こういう考えはやめておこう。(ということでホームページの更新はたぶん遅れがちになると思いますので、すいません。)

 ところでこの職場の人間関係はちょっとしんどそうである。いつも職場仲間といっしょに行動しなければならないところのようだからだ。こういうのはいちばん神経にこたえる。「あ〜、しんどいな〜」と思ったら、休憩時間はみんな仲良しゴッコではなくて、狭い休憩室でなぜかみんな押し黙っているようなところだった。ある意味ではラクなんだけど、ちょっと胃が重苦しいし、これはなんだろうな?と思う。

 職場の休憩時間というのは、まあ、わたしにとってはいろいろツライものがある。どちらかといえば、ひとりで行動するのが好みのわたしは、仲間とのつきあい関係はいろいろストレスを感じることが多い。ひとりが好きだからといって、いつもひとりでいれば、仲間から孤立してひじょうにツライ立場に立たされるし。。。 どっちもどっちでひじょ〜につらいところだ。

 休憩時間はやっぱりみんながいっせいに集まってとるより、順番制のほうがひじょうにラクだ。ひとりでいても、浮き上がることはないからだ。思い思いの時間を過ごせる。

 でもみんながいっせいに休憩をとる職場は災難である。まわりでみんなグループをつくってわいわい談笑しているから孤立するわけにはいかないし、かといってだれかとぺちゃくちゃしゃべりつづけるのはたいへんシンドイし。みんながぽつんぽつんとひとりで食事をとったり、テレビを見たりしている休憩室はラクなのだが、そういう職場は多いわけではないし、まあ少しは寂しいが、良い方の部類に入るだろう。

 職場の休憩時間というのは所によってはひじょうにしんどいものである。みんながギャーギャー、グループをつくっているような職場はわたしのワーストである。たまんない。まあ、人間の集団やグループというのはたいへんに難しいものである。集団でなければ孤立するし、集団になればこれまたシンドイ。

 まあ、テキトーにその風土に順応するしかないようである。いったん職場に入れば、そこのルールや風土が絶対になってしまう。郷に従えというやつである。適当に順応して、適当にほどよく仲間と仲良くなるというのが職場の渡世術というものである。まあ、しっかりとした核をもつ人格より、ふにゃふにゃとまわりに流される人間のほうが職場には合っている。

 わたしはふにゃふにゃでいい。物事を考えたり、つきつめたりするとどうもうまくいかない。バカになったほうがラクのようである。わたしは思考をつきすすめる生きかたをしてきたが、思考を捨てる生き方をしたほうがよいのではないかと最近思うようになってきた。「ケ・セラ・セラ なるようになる」でいいさ。




      偉くなる人生より、楽しめる人生を   99/12/17.

 戦後の教育の最大の失敗は、だれでもかれでも「偉くなれ」といってきたことにあると思う。「偉くなる」人生はいつも目的を先送りにし、多くの人を競争にまきこみ、偉くなれなかった百人中の99人を不幸と不遇に落としこんでしまう。

 人生の価値と目的を狭いものにしたら、とうぜん多くの人はそこから漏れることになるのは当たり前のことだ。偉くなることを刷り込まれた多くの人たちは自らを慰める術をみいだせずに人生を不遇に過ごすことになる。

 偉くなる必要なんかないのである。人生を楽しみ、大過なく過ごせれば、それで人生はハッピーというものだ。エリートになれなくたって、落ちこぼれたって、貧乏であれ、劣位や下層階級とよばれるものであっても、ただ生きていることだけ、存在していることだけに自分の価値があると思えれば、ほとんどの人はハッピーである。

 しかし偉くならなければ生きている価値がないと教え込んだ教育と社会はとうぜんのことに大半の人の生きる価値を削ぎ落としてしまうことになる。はじめから人生の価値を局限してしまうわけである。こんな社会はとうぜんのこと、みずからの生きている価値も意味も慰めもみいだせない大量の人を生み出すだけだろう。

 だから社会はただ生きていることだけに価値を見出せるのなら、多くの人は救われるだろうし、ハッピーになることだろう。偉くなれない自分を責めたり、苛んだりすることはないだろう。そういうふうになると社会はもっと生きやすくなる。



       なんのために本を読むのか    99/12/16.

 げんざい、わたしはたいへん金欠で、この二、三ヶ月、ほとんど本を読めない状態にある。本好きなわたしは新刊が読めないのはひじょーにツライ。しゃーないからテレビばっかり見ている。

 書店にはたまには寄るのだが、金がなかったらみんなよそよそしい、手の届かない高価品に思えてくる。読む気もなくしてしまう。知識というのはカネがあってはじめて得られるものであり、知識というのはカネと同じものであるという気がしてくる。知的欲求心はカネによって煽られるという仕組みだ。

 ここいらで反省。書物というのはただの消費商品ではないのか。本をたくさん読めば、本棚からあふれ出して置き場所に困ることになるし、ただ出版社や書店を儲けさせるためだけにカネを使いこんでいるということになってはいないだろうか。ささいなデザインのちがいとかブランドの差異によってたくさん買わされるファッション品とたいして違いはないのではないか。

 知識や情報はたしかにファッション商品やデザイン用品とたしかに違う。知恵や賢明さ、才能などをつけくわえるとされている。でもどれだけ自分自身の知恵や賢明さとして身についたかちょっと怪しくなるし、ただ書籍産業を儲けさせるために本を買っているという感も否めない。

 知的虚栄心を満足させるためだけに本を買っているのなら、産業に煽られているだけである。自分にとってほんとうに必要な知恵と知識を身につけるためだけに本を読みたいと、カネがなくて本が読めないいまの状況から思う。自分の身にのこるものでないと、カネが切れると効用をなくしてしまう。

 でも自分にとってほんとうに必要な知識というのはウソっぽいキャッチ・コピーみたいに聞こえる。わたしなりに必要な知識の基準は、自分の日常生活を生きるについて役に立つか、糧になるか、ということである。趣味だけで読書するわたしにとっていちばん大切なことは、日常生活に役に立つか、使えるか、ということだけである。

 日常生活を生きるにあたって問題を発見したり、解決する能力をつちかってくれる書物がわたしにとって必要な本である。知識というのはそもそも人生を生きるにあたって、困難や問題をのりこえるために、おおいに役に立つなにかでなければならないのではないか。どんな知識も日常生活ととり結べるものでなければならない。

 いまの学校の学問はそういう日常生活にとってなにが役立つのかという問いかけを忘れている。どんな知識も日常生活にどれだけ役立つものか、関係あるものかと知らせれば、学生だって興味津々になるものである。自分たちとつながりのないものと思うから、興味を失うのである。

 事実羅列なんていらない。日常生活に役立てて、解決する能力をつちかってくれる知識をわたしは欲したい。いぜん心理学を読んでいたとき日常生活にはほとんど役に立たなかったけど、自己啓発とかセラピーを読むと問題の解決方法が紹介されていて、おおいに役に立った。ほかの知識もすべてこういうものであってほしい。わたしはこういう本を、カネに煽られないで、これから読みたいと思う。




       仕事が見つからない!生活苦   99/12/15.

 ぶっちゃけた話――たいへんお恥ずかしいお話だが、あとわずかの貯金しかないのにいまだに仕事が見つからない。たいへんである。みなさんはこういう経験をしたことがあるのだろうか。

 まあ、わたしは転職ばかりしているフリーターでひとり暮らしだから、こういう経験は毎度のことだ。「うわぁ、どうしよう!、貯金がなくなったら食いっぱぐれだ〜っ」という修羅場をいつも経験してきた。給料の締めと支払日ばかり気にしている。どうしてもあせるから、いつも不本意な仕事先につかなければならないわけだ。

 今回も貯金の余裕があるころは正社員を探していたのだが、あれもこれもいやといって思いつづけてきて、貯金が切れかけてまたもやバイトの仕事に舞い戻ってきた。まあ、みなさんはこれを悪い転職例として、同じ過ちに陥らないように銘記しておいてください。

 もう何社も派遣会社の人たちと会ってきた。バイトで給料がいいとなったら物流関係になるのだが、せっかく免許をとったフォークリフトの仕事はどこもかしこも残業地獄だ。なんで物流関係は日付が変わるまでの残業地獄ばかりなのだろう……? 訴えてやる!

 ほんとうにあせる。こういうときには胸をわしづかみにされたような気分になる。ただ、心のテクニックとしては心配事ばかり考えない、忘れる、ほかのことに熱中するという知識を身につけているので、今年はだいぶマシな気分だが、逆にこれが落ち着いてしまうからますますおっとりとしてしまうという欠点もあるけど。。。

 実家に帰ることも考えているが、空部屋もない。十年近く住んできたこのアパートを出るのもいやだし、本とか家財道具を持ち運びするのもたいへんだ。あ〜あ、どうしよ〜。。。

 消費者ローンをつまんでいる人なんかは支払い期日がきたら、いつもこんな気持ちを味わっているんだろうな。年の暮れが近づくと毎年強盗が増えるのもこういうせっぱつまった心理状態だからだろう。まだわたしはマシかもしれないな。。。

 なさけない話をみなさんに披露するのはお恥ずかしいが、まあこのホームページのヌシはこういう情けないヤツだと笑ってやってください。ついでにはやく仕事が見つかるように願をかけてやってください。あ〜あ、早く仕事を見つけなければっ!




      メディア・リテラシーは必要である   99/12/14.

 われわれはたぶんテレビや映画を批判的に見るということはまずだれからも教わらなかったはずである。テレビ・コマーシャルとか雑誌広告にかんしてもそうだろう。たぶんわれわれは2、3才の子どもと変わらないくらいメディアを無垢にながめているのではないかと思う。

 カナダかどこかではメディアを批判的に分析するというメディア・リテラシーの授業があるそうである。「えっ、マジ? こんなのがあるのか」とわたしはびっくりした。われわれの国ではメディアを批判的に分析するのは御法度みたいな感覚があるし、生産者を敵に回すような教育なんてこの国ではまずおこなわるべくもないと思っていたからだ。

 わたしがメディアを批判的に分析するという知識に出会ったのは社会学とか社会思想の専門書だけである。一般の人たちはまずこういう本に目を通さない。純粋無垢にメディアのシャワーをうけて、おそらくあまり疑問に思ったり、批判することはないのだろう。

 批判の観点というのはやっぱりある程度学習しないと身につかない。たまに二、三言、親や知人から批判めいた片言を聞くことはあるが、それが多くに適用されることはまずないだろう。批判的な知識に触れることがないとやっぱりそういう見方はなかなか育みにくい。

 メディア・リテラシーというのは必要だと思う。メディアだけではなく、教育や社会、企業にたいしても、この国の人たちはものごとを批判的に見るという訓練もうけていないし、知識もない。学校から与えられる古い知識をうのみにして、丸覚えするのが、この国のならわしであり、常識である。これではだれもがバカになる。

 批判や疑問の意識をもってこそはじめて学問は意味があるものになり、楽しいものになる。新しいものや新しい学問が生み出されるのも、批判や疑問があってこそはじめて生み出される。むかしの学問をただ無垢に覚え込むだけだったら、そこから発達することも進歩することも絶対ありえない。こんなにはサルでもわかる。ニュートンに疑問をもたなかったらアインシュタインは生まれなかったということだ。

 疑問や批判を大切にしなかった国の行く末は考えてみたら恐ろしい。なにものも新しいものも生み出されないし、新しい事態や変化に対応できるわけなどないのだ。

 為政者や経済団体にとってはまことに都合がよい、工場生産などの規格生産にはぴったりなわけだが、これはたぶん短期の繁栄をもたらすだけで、長期の繁栄をまずのぞむべくもないのだろう。なぜなら批判や疑問のない人たちの集まりは、過去の機械反復しか知らないからである。

 批判や疑問を自由に発する社会にしてこなかったツケは、あとあと巡ってくる。東洋的停滞といったものもアジア的専制政治にその根があったのだろう。おとなしく、従順な国民はそのときにはたいへん好都合だが、あとあとたいへん恐ろしい。

 こういう意味でメディア・リテラシーは必要である。ならびに物事や社会を批判的に分析したり、疑問に思ったりする社会の土壌といったものも必要である。いまの支配者たちは人々の批判精神をうけいれる寛容さをはたしてもてるだろうか。さもなければ、社会は無垢のままみんなで仲良く沈むだけ。




     お子ちゃまマーケットが減るということ  99/12/13.

 SPEEDという中学生のグループが出てきたとき、「うわぁ、子どもじゃないか」と思った。しかも「あなただけを愛す」みたいな超純愛ラブソングを唄っている。思わず吹き出しそうになったが、30前後のわたしは音楽市場のターゲットではもうないんだなと思った。

 しかし20才人口は92年から94年の団塊ジュニアのピークを過ぎると減ってゆくいっぽうだ。これから幼稚園や学校の入学者減の現象に苦しむことになるだろう。また子ども向けのマーケットも拡大してゆくいっぽうだとはいえなくなる。

 思えば、わたしたちが熱中したマンガとか音楽、映画といったものはあとの子どもの世代になるごとに手に入れやすくなっていった。古本のマンガなんかわたしのころにはなかった郊外巨大店ができているし、ステレオが高かったときと違ってCDラジカセなんかほんとに安いし、レンタル・ショップもどこにでもある。ファッションのショップはたぶんわたしのときの時代でもじゅうぶん充実していたと思うが。

 だいたい団塊世代あたりからアメリカ文化の輸入をはじめて、のちの世代はそのレールにのってきたわけだが、その拡充はめざましいものがある。

 しかしこれからその拡大はピークを迎え、少子化の時代にほんとうに突入した。これはつまり人口重心が変わるということであり、もてはやされたり、人気になったりする年代の年齢が変わるということだ。子どもを相手にするマーケットが拡大してゆく一方ではないからだ。

 おのずから拡大してゆくマーケットを探さなければならない。カネをよく使う世代、消費をよくする年齢層を見つけなければならない。これまでの消費層というのは親がマイホーム・ローンや生活費でてんでカネを使わず、子どもたちがいろいろなものに手を出すといったパターンだった。大人たちはカネを使わず、子どもたちだけが派手に使っていたわけだ。

 子どもが減るとだれがいちばんカネを使うだろうか。やっぱり大人になった人たちを視野に入れていかなければならない。大人の消費市場というものをつくらなければならないのだろう。もうすこし大人をターゲットにした音楽やらマンガやら、あるいは学校などが必要になるのだろう。

 人口重心が変わったということはかなり重要な転換である。やはり数の多い年齢層がもてはされるし、力をもつものである。老人が多くなれば、老人がたいせつにされたり、尊敬される時代もやってくるかもしれない。子どもが増える時代が終わったという意味はひじょうに重要である。子どもから大人へと風向きは変わった。




    コンクリート崩落と老朽化社会   99/12/12.

 新幹線などのコンクリートがあちこち崩落しているが、皮肉に思うことは社会の精神状況も崩壊しかかっているときと同時にタイミングよくこういう事件が頻出することだ。物質と精神はどこかで歩調がつながっているかのようだ。(人の住まない家は崩壊が早まるというし)

 高度成長期にラッシュになった公共事業は早くもその老朽化を迎えることになった。社会や文明のインフラというのは早くも寿命を迎えるみたいだ。

 トンネルや鉄道、道路をひくときは大きな期待があるのだけれど、それが完成し、あとは維持と補修だけになったとき、文明はひとつの曲がり角を迎える。社会精神の崩壊をひきおこしてしまう。未来への大きな希望や期待が失われてしまうのである。

 あとは老朽化社会として維持費とその苦労だけが重くのしかかることになる。人々の精神はたいへん倦みつかれ、やる気をなくしてしまう。社会の心の老朽化も起こってしまうのである。

 文明の維持費というのはとてつもなくかかるようである。新しい希望や期待がないぶん、その過重もひとしおではない。歴史上の数々の文明も、エジプト文明とかメソポタミア文明とかインダス文明といったものも、文明機能の維持過重と社会精神の崩壊によって滅んでいったのだろう。

 文明というのはもともと虚構の産物である。ビルや鉄道、道路があちこちにひかれた都市ができあがれば夢のような生活が送れると想って門出するわけだが、それが完了するとあとは文明の維持と補修という莫大な債務を負ってしまうことになる。それは人々の精神の崩壊も意味する。

 そうやってゆっくりと文明は衰退もしくは崩壊に向かってゆくのだろう。文明というのはあまりにも大きな夢と、あまりにも大きな失望に終わってしまうのだろう。




    子育てというカネにならない事業   99/12/12.

 経済論理だけでは子育てはできない。家庭のなかでは子育ては一銭にもならないからだ。戦後の経済主義社会は主婦という経済社会から隔絶した単位に子育てを押しつけてきた。そのぶん男はどこまでも仕事と企業に奉仕せざるを得ず、効率的な経済奉仕をひきだせた。

 そういった経済効率の隅に放っておかれた主婦や子どもたちの世界で崩壊が起こりつつある。幼児虐待や子育ての孤立化、学級崩壊、といった現象が噴出し出した。

 これは経済効率化に走り過ぎた社会の帰結だと思う。企業論理だけに特化させると子育てというのはジャマものになる。なんの利益も利潤もうまない。したがって少子化がどこまでも進んでゆくことになる。

 企業論理だけでは子どもを増やすことはできない。社会はまたべつの論理で考えないと子どもを増やすことはできない。そういった社会の生態系といったものを企業論理に特化した社会は考慮のなかに入れることができない。国家や政府も企業論理を押しすすめるだけだったから、子育てをますます厳しいものにした。

 社会の活力は子どもの増加によって生まれる。企業論理だけに特化すると人々の生命力は失われ、子どもの数は減少してゆくばかりである。

 企業論理をもっとゆるめる社会にしなければならない。社会全体で子育てができるような余裕ある社会にしなければ、子どもが増えることはないし、子育ての崩壊が起こるばかりである。

 企業論理だけでは子育てを促進することは絶対にできない。社会や共同体としての論理で考えないと子どもの数を増やすことはできないだろう。そういった社会全体の論理というものがぽっかりと抜け落ちている。もしかして国家全体という理念かもしれないな。

 人々が企業利益しか考えられないのなら、社会全体の継続と繁栄はとうぜん難しくなることだろう。




     「見殺し」にされる高齢労働者    99/12/12.

 12月11日の『ザ・スクープ』で大阪西成・釜ヶ崎の日雇い労働者の特集をやっていた。この不況でどこよりもしわ寄せをうけるのはかれらである。ホームレスの青テントがどこまでも広がっており、この大阪市内は「西成化」していっている状況だ。

 この特集でわかったことは、高齢労働者はどこにも働き口を見つけられず、「見殺し」にされているということだ。その労働者が簡易宿泊所からも追い出され、公園や河川などに青テントを張るというわけだ。

 これはつまり高齢化社会の一面がここに現れ出ているということだ。もう年寄り社会の弊害がここに端的に現われ出したわけである。現代の「姥捨て状況」を目の当たりにしているというわけだ。

 福祉サービスをうけられるのは公的機関に支払いをできるものたちだけである。そういったものと一切かかわりのない者たちは働き口を失い、見殺しにされて路上に出るしかない。福祉社会の失敗がみごとに現われ出ているわけだ。

 かれら日雇い労働者が従事する建築とか土木の仕事は、受注の性質上、継続的に仕事があるとはかぎらない。仕事が発生すれば、そのつど人を集めてくることになる。ほかの仕事は継続的に作業があるから、社員をストックしておくため定期的な収入や安定が見込めるが、建築や土木は仕事が終われば、御役ごめんだ。

 かれらは大阪万博や公共事業などの高度成長期にかきあつめられ、そういった人たちがいま高齢者になり、働き口を見つけられなくなった。日雇い労働者はわれわれとは違うとはいえず、この経済社会の性質が端的に現われているだけであり、ふつうのサラリーマンも大なり小なり同じ影響をうけている。他人事ではなく、これがわれわれの社会の性質なのである。

 この社会は高度成長の若者増加時期から、とうとう低成長の高齢化社会にほんとうに突入してしまったわけだ。若者が大量にいる時代の発想のままでいるから、高齢労働者は見殺しにされる。若者はもう昭和46年から49年にかけての第二次ベビーブームのあとは減る一方だ。つまり新卒者の減少は97年ころからすでに始まっている。

 これから高齢者を活用する社会でないと、労働者と消費者をますます失ってゆくことだろう。若者があとからあとからうじゃうじゃ増えてくる時代はもう終ったのであり、高齢者を活用し、かれらもできるような仕事とテンポの社会にしてゆかないと、もう先はないことだろう。




    あ〜あ、将来どうやってメシを食っていこう。。。  99/12/11.

 現在のところ求人の年齢制限はだいたい35才くらいである。わたしもあと2、3年後くらいに迫ってしまった。このトシまでなんとか将来性のある仕事についていなければならないのだが、たぶんなかなか難しいだろう。

 流されるまま、わたしはフリーターをやってきた。いろいろ世間を見るためと、正社員の仕事もそのつど探していたのだが、なにしろ貯金で食いつなげず、すぐに見つかるバイトばかりに流れてきた。しかも最近は残業地獄の職場ばかりで、おかげで何ヶ月分かの貯金は貯まったのだが、そのせいで怠けてしまって長期のヴァケーションを楽しむことになった。

 いまの求人は経験者や即戦力ばかり求めている。完全に買い手市場である。これならぜんぜん新しい仕事にもつけないし、経験もスキルも身につかない。どうやったら新しい職種に変わることができるのだろうか。

 新しい技術を手につけるために訓練校とか専門学校に行くという手があるのだが、わたしの場合、貯金もないから行くことができない。仕事帰りに通えるところでも探そうか。資格なんてものはすぐに転職や実践的な即戦力に結びつくとはちょっと考えられず、ふみとどまってしまう。

 いつも思っていたのが、さまざまな職種のやり方とか作業マニュアルみたいな本でも売りに出されていたら、職業スキルみたいなものが身につくと思うのだが、そういう本はほとんどない。転職市場が開かれるためにはそういう仕事方法の規格書みたいなものがあったら、職種替えもかんたんだと思うのだが。

 経済状勢はどんどん変わってゆくのに、人間というのはあるひとつの仕事をやりつづけるとなかなかほかの職業に変わりにくくなる。その職業が自分のアイデンティティになってしまう。たとえば、わたしは自動車工だから、ほかの仕事なんかできないといったように。とくに日本企業の場合は終身雇用と転職嫌いの体質をつくってきたから、よけいに変化や職種替えに対処できない。

 そういう体質に耐え切れず、いまはリストラ流行りになり、就職はよけいに難しくなる。転職先のない中高年がリストラされる現在では、若者は将来の希望をいだけないだろう。すべて悪循環の環が回っている。どこまで落ちてゆくことだろう。。。

 こういう将来に備えて技能やスキルを磨いてゆくべきだといわれるが、はたしてそれはなにを指すのかよくわからない。専門職ならともかく、ふつうの仕事でそんな大したスキルなんか身につかないし、求められもしないし、ずるずると月日がたってゆくだけである。

 まあ、なんらかの方策をいろいろ考えながら、また同時にあまり将来を気に病まないようにしよう。欠けているところばかり心配しないで、いま「ある」ことを楽しむことにするとしよう。



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