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1997年全哲学エッセイ集



 『思考はられるか 第一部』 1997/6.

 『思考は超えられるか 第部』 1997/6.

 『思考は超えられるか 第部』 1997/6.

 「経済、仕事、会社の価値観をひきげろ」 1997/6.

 「われわれはなんために働くのか」 1997/6.

 「し学校教育をなくしたとするのなら」 1997/7.

 「物の現実、テレビの現実、マンガの現実」 1997/7/10.

 「日本経済社会のとき」 1997/7.

 「ザコン男、社会保障制度、官僚支配」 1997/7.

 「戦後日本社会の機」 1997/7.

 「的なき時代の働く意欲」 1997/8.

 「全自動分業社会の虚しさ」 1997/9.

 「会社はなぜこんなにつまらないのか?――親のようには生きたくない――」 1997/9/24.

 「暴力と騒乱の時代がやってくるのか――鈴木啓功『国家の終焉 国民の逆襲』を読んで」 1997/10/5.

 「消費マインドの落ち込み」 1997/10/19.

 「日本人はこれからなにをめざすのか」 1997/10/27.

 「カッコいい人がいなくなった――カッコよさから未来を探る」 1997/11/3.

 「サイアクの職場環境から」 1997/11/9.

 「勤勉と享楽と経済的繁栄」 1997/12/7.

 「のんびりした、ゆたかな社会の実現」 1997/12/13.

 「Goodbye Little DADDY's Town――社会批判と迷いの浜田省吾論」  1997/12/28.


 考えるための哲学エッセー集


      「思考」は超えられるか  第一部

                                          SINCE 1997/6.



        第一部  目次


     1.なぜ、思考は超えられなければならないのか

     2.恐怖や悲しみなどの感情は、思考によってひき起こされる

     3. 虚構によって組み立てられている、われわれの社会

     4. 人はなぜ「シンボル」を欲するのか

     5. 思考と言葉を「実体化」すること

     6. 感情の性質とその捨てかた





    1.なぜ、思考は超えられなければならないのか




       現代人は、ものを考えることに価値をおいている。

      朝から晩までたえず何か考え事をしている。

      きのうや過去のことであったり、これから起こることや将来のこと、

      また、ここにいないだれかのことや他人のことを思い出しては、

      頭のなかの世界にどっぷり浸かっている。


       なにか問題があったり、ものごとに対処するさい、

      われわれは考えることによって、その解決策を編みだそうとする。

       教師や親には、トラブルや問題にぶつかると、

      「どうしたらよいか、考えなさい」といわれてきた。

       考えることでしか、われわれは問題を解決することができないと思い込んでいる。

       ほかに解決策を知らない。


       思考には、なんの問題もないし、どこにも問題がない、とあなたは考えるだろう。

       そればかりか、思考の存在しないわたしなど考えられないだろう。

       思考とは、「わたし」なのである。

       思考こそがわたしの生きている証しであり、存在の証明なのである。


       思考を捨てれば、わたしは「理性」を失い、

      狂人か白痴になってしまうと、思い込んでいる。

       また行為や予定すら、遂行することができないと思っている。

       思考は、もう手放せないし、わたしと一心同体であると、

      われわれは思い込んでいるのである。


       ヨーロッパの近代社会は、「知識」に価値をおいてきた。

      文字を読み、書物を読み、多くの知識を得ることによって、

      さまざまな物事をうみだし、問題を解決し、文明を進歩させてきた。

      このような社会では、頭脳が発達することにとうぜん価値がおかれる。

       われわれは先人たちの知識をたくさん詰め込められ、

      ほかの人たちの情報を毎日、脳ミソにほうり込まれ、

      まだまだ、たくさんの知識を欲している。

       たしかに知識には多くの得ることがある。



       だが、それは技術や知識にたいしてだけ、言えることではないだろうか。

       われわれ個人の精神や心にとって、はたして知識や思考というものは、

      「安らぎ」をもたらすだろうか。

       精神は、思考や知識の押し寄せる機械のような循環に、

      心の安らぎや穏やかさを感じることができるだろうか。



       明日や未来のことを心配し、不安になり、

      他人や社会との関係に悩み、脅え、不安に駆られ、

      また自分の性格や能力にたいして批判や嫌悪、改善を思い起こし、

      きのうや過去のことを思い出しては、くよくよしたり、悔恨の念に満たされたり、

      恥ずかしくなったり、恨みや怒りの激情に押し流される。


       これはすべて思考のはたらきによるものだ。


       思考が、明日のことを想像し、他人や自分のことを考えさせ、

      また過去の思い出をよびおこし、反省と悔恨を迫る。

       思考はわれわれに技術や進歩の恩恵をもたらすが、

      同時に、われわれに未来や現在、過去の「重荷」を、

      たっぷりと背負いこませてくれる。


       われわれは思考によって、自分を一日中「かきむしる」ことを覚えてしまったのだ。


       それは明らかに、思考に価値をおいているからその地獄ははじまるのである。

      ものを考えたり、思ったりして、頭のなかの世界に一日中憩うことに、

      価値がおかれているから、われわれは頭のなかから離れない。


       考えることが善いことであり、知識をたくわえることが良いことだから、

      われわれは一日中、頭のなかでものを考えている。

       頭のいい人が、われわれの社会では「偉い」人なのである。

       そのような価値観があり、子どものころからそれを叩き込まれてきたのなら、

      われわれは、頭のなかで考えつづけるだろう。

       少しでも頭が良くなるのなら、なんでもかんでも

      頭のなかで考えるに越したことはない。


       ではわれわれはなにを考えるか。

       自分の欠点であったり、短所であったり、明日の不安や心配、

      うまくいかない他人の関係や家族との関係、

      きのうや過去の失敗や過ちであったりする。

       このような習慣におちいった思考が、安らぎや楽しみをもたらすだろうか。


       思考とは、わたしを苦しめ、傷つけ、恐怖に陥れ、悩ませ、

      不安に駆らせ、脅えさせる、張本人ではないのか。


       思考とは、わたしを怒らせたり、悲しませさせたり、怨ませたり、

      憂鬱にさせたり、落ち込ませたり、不幸にさせるものではないのだろうか。


       思考とは、われわれの毎日――腹をたてたり、嘆き悲しんだり、

      恐怖や不安に脅かされたり、、憂鬱になったりする、その原因ではないのだろうか。




  2.恐怖や悲しみなどの感情は、思考によってひき起こされる



       われわれはふつう、怒りや悲しみ、憂鬱などの感情や気分は、

      まわりの他人や出来事から、ひき起こされるものだと漠然と思っている。

       他人が腹の立つことをしたから、わたしは怒ったり、腹をたてている、

      他人や出来事に悲しいことが起こったから、わたしは悲しんでいる、

      世の中はあまりに悲惨で酷いことばかり起こるから、わたしは憂鬱になるのだ、

      というようなことだ。


       だが、そうではないのである。

       はたして、感情や気分はどこからやってくるのだろうかと

      疑問に思ったことはないだろうか。

       感情というのは腹のたつ他人がひき起こしたものでもなく、

      悲しい出来事がひき起こすのでも、暗い世の中がまき起こしたものでもない。


       それはまさしく、自分自身が創り出したものにほかならないのである。

       自分の思考――「考え方」や「捉え方」といったものが、

      怒りや悲しみなどの感情をひき起こすのである。

       思考が、感情をひき起こすのである。

                      *
       このことをわたしは、春秋社刊のリチャード・カールソンの

      『楽天主義セラピー』を読むまでほとんど知らなかった。

       このエッセーの前半で書かれていることはほとんど、

      この本の知識から得たものであり、多くをこの本に負っている。

       きわめてすばらしい本なので、ぜひ読んでいただきたい。

       また思考と感情のつながりについては、

      講談社文庫、マーティン・セリグマン『オプティミストはなぜ成功するか』や、

      デビッド・バーンズ『いやな気分よ、さようなら』星和書店刊などに多くを学んだ。

      BOOK REVIEW「心理学は心を癒すことができるか」で紹介しています。

       論理療法のアルバート・エリスや、

      自己啓発書のウエイン・ダイアーなども参考になった。

       (くわしくは、BOOK REVIEW

      「トランスパーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」で――)


                      *

       もし、わたしのなかに思考がなければ、いったいだれが感情をもりあげるのだろうか。

       感情は、なにもない空白の頭にわきあがってくるだろうか。


       空を見上げていて、なにも考えないで、腹をたてることができるだろうか。

      だれか腹のたつ人や、むかつくことを思い出さないと、腹をたてることはできないだろう。

      なにも思い出さないで、電信柱を見ているだけで腹をたてられる人はいない。


       道を歩いていて、なにも考えないで、いきなり笑い出すことなんてできるだろうか。

      なにかおもしろいことを思い出さないと、笑えはしない。


       ぼんやりとイスに座っていて、なにも考えないで、急に悲しむことはできるか。

      悲しことを考えたり、思いだしたりしないと、悲しむことはできないだろう。


       もちろん思考と感情のつながりに気づかない人は、

      急に怒りや悲しみ、笑いなどがこみあげてくると感じているかもしれない。


       だが少し気をつけて観察しておれば、その前に過去の映像や物事を

      一瞬、思い浮かべていることに気づくはずだ。

       その瞬間の思考や映像が、われわれに気分や感情をもよわさせるのだ。

       ほんの一瞬でも、われわれに怒りや悲しみをわきあがらさせるには十分なのだ。

       たぶん、一瞬にして結びつく回路ができあがっているのだろう。

       ちょっとなにかを思い出したり、考えたりするだけで、悲しみや怒りなどの

      感情が瞬間的にわきあがるようにできている。



       思考という「フレーム」、物事の見方の「枠組み」が、

      われわれに感情をもよわせるのである。


       われわれはこの思考というフレームにまったく気づかずに、

      外界の他人や出来事から、ダイレクトに感情を喚起されると思っている。


       だが、この思考のフレームが、悲しみや怒りをもよわせるのだ。


       たしかにこの思考のフレームに気づくのは、なみたいていのことではない。


       腹を立てているときにどのようなものの考え方をしているのか、

      冷静に観察するなんてほとんどムリだし、

       憂鬱になったとき、どのようなことを考えていたのか、思い出すのもむづかしい。


       まずなによりも、自分がどのようなことを考えているのか、

      客観的に捉えるのさえ、なかなか困難だろう。

       自分の思考内容を意識的に捉えようとしない限り、

      思考の対象に首をどっぷり浸かっているので、

      第三者的に思考の内容を観察するのはむづかしいだろう。

       だがこれは訓練や習慣によって、いつのまにか慣れてゆくものと思う。



       思考が感情をわきあがらせていることを知るには、

      新聞のニュースなどで理解することができるのではないだろうか。

       新聞でニュースを見るまでは、楽しい気分だったのに、

      なにかいやな事件や酷い事件がおこっているのを読んだら、

      たちまち不快感や憤りに変わるだろう。


       事件やニュースというのは、わたしが知る前に起こっていたものだ。

       だが、事件が起こった瞬間にわたしは不快になるのではなく、

      事件を読み、それについてなにかの感想を考えたときに、不快になるのである。


       つまり事件の不快感というのは、ある意味では、

      文章や言葉による「想像」によって、ひき起こされるのである。

       それをどう考えるか、捉えるか、ということにかかっているのである。

       たんなるデータや事実の羅列なら、わたしは不快にならない。

       それを酷いだとか、悲惨だとか考えたときに、感情はひき起こされるのである。

       わたしの想像力――つまり空想が、わたしを不快にするのだ。


       思考とは、「空想」ではないだろうか。

       「言葉」で捉えた――ある意味では――「絵空事」ではないだろうか。

       そしてその絵空事によって、われわれは感情を喚起させるのである。


       映画でもドラマでも、小説でも、おなじことだ。

       これらはすべて、「絵空事」である。

       この世の中のどこにも登場人物は存在しないし、物語も実在するものではない。

       だが、われわれはそれを見て、悲しんだり、腹をたてたり、どきどきしたり、

       憂鬱になったり、楽しくなったりするのではないだろうか。


        われわれの日常の現実的な体験も、じつは、

       このような虚構をとらえる捉え方とまったく、同じではないのだろうか。


        つまりわれわれの現実の認識というのは、

       空想や想像によって、組み立てられているのではないだろうか。

        そしてその空想によって、怒りや悲しみなどの感情がひき起こされる。


        われわれは空想によって、悲しんだり、腹を立てたりしているのである。

        映画や小説だけが虚構ではないのだ。


        われわれの日常的なものごとの捉え方も、

       「虚構」によって捉えられているのである。


        ものごとの事実とか真実というのは、

       映画や小説のなかでの正否を問うているのと同じであり、

       一歩引き下がってみれば、それは「虚構」であることには変わりはない。


        ただ、ひとびとのなかでの真実が問題になるに過ぎない。


        なぜ、このことが大事かというと、

       われわれの怒りや悲しみなどが、じつはこの空想することによって

       ひき起こされているということを、知ることができるからだ。


        つまりわれわれを嘆き悲しまさせたり、はらわたを煮えくり返させているものは、

       頭のなかの「空想」――「思考」でしかないのである。


        このような思考は、捨て去ったり、忘れてしまえばいいのである。

        あなたには、怒りも悲しみも不安も、なにも残らない。

        (もちろん疑問や問題点もあとに残る。

         暴力や侮辱を与えた人になにもできないのか、といったことや、

        経済や宗教などの搾取に対して、なんの抵抗もできないのか、

        といった問題があるのだが、のちほど検討します。)





  3. 虚構によって組み立てられている、われわれの社会




         われわれの捉えている物事のすべては、空想であるかもしれない。


         だが、すべては空想だといってしまえば、

        多くの人は、疑問に思うだろう。

         目の前にあるパソコンや机、本棚、テレビ、部屋、

        あるいは外に出て、建物や道路、月や星も、

        またわたしの身体や手足も、空想なのかと考えるだろう。


         もちろんこれらは空想ではない。

         現実に存在するものだ。

         ただ、唯識などの仏教は、この世界は現実に存在するのではない、

        物体も存在するのではなく、心の現れに過ぎないといっているが、

        この件は、第二部で検討しています。


         わたしが言っているのは、視界以外のものごとについてだ。

         物事の捉え方、考え方や意見、感想といった、

        思考のフレーム、枠組みだ。

         人間にとっては、視覚のほうが大事だから、ついつい忘れがちになるが、

        頭のなかでものを考えたり、思ったりすることが、

        われわれの行動や決定の多くを、支配している。


         頭のなかの考えや捉え方が、われわれ人間にとっては決定的な意味をもつ。

         そしてこの思考が感情をもよわせ、

        またわれわれの身体の筋肉や血液の流れなどを左右している。


         しかしそれは、空想や想像ではないのだろうか。



         われわれの社会においても、虚構や空想がものすごく大きな意味をもっている。

         いわば、社会も虚構によって組み立てられているのだ。


         これを人々は、「共同幻想」といってきた。

         わたしの知る限りでは、このようなことを言ってきたのは、

        岸田秀や竹田青嗣、養老孟司、フリードリッヒ・ニーチェ、

        ルートウィヒ=ウィトゲンシュタイン、ジャン=フランソワ・リオタールなどである。

          (くわしくはBOOK REVIEW

         「社会は、「共同幻想」によって成り立っているのか」でごらんください。)



          人間の社会というのは、ほとんど「空想」や「言葉」、「想像力」によって、

         組み立てられているのである。

          われわれが「事実」や絶対的な「常識」と思っているものは、

         じつはたんなる言葉や空想によって、決められたことではないのだろうか。


          それはたしかにかなり確実な事実かもしれないが、

         一歩引き下がって考えるなら、頭のなかで捉えたということは、

         すべて「空想」の性質をもつのではないだろうか。

          
          われわれのもっている世界観や、世間にたいする捉え方、生き方、

         人生設計、会社との関係、会社という共同体、家族や友人、

         恋人などとの関係、ものごとやことがらに対する捉え方、常識といったものは、

         すべて、共同幻想という空想によって、とり決められているのではないだろうか。


          事実とか常識といったレベルを問題にしているのではない。

          これらはすべて、頭のなかだけの「取り決め」ではないのだろうか。


          われわれの社会はこの頭のなかで決められた「取り決め」を守り、

         みんなで常識や慣習を信じ、その「約束」や「役割」を守ることによって、

         成り立っているのではないだろうか。


          われわれはそのような「原初的」なことや「起源」を知らない。

          だから後に生まれてきた者たちは、

         このあくまでも「約束」によって守られている「共同幻想」が、

         もともと人類のはじめから自然にそなわっているもの――

         自然に適った、原初からあるものだと思い込んでいる。

          「超自然的」なものに決められたものだと、ぼんやり思い込んでいる。


          思考や言葉、空想などによって、創られたものであるということを知らない。


          だが、家族や親子はどうなのか、と人は言うだろう。

          「生物学的」に決定された事実ではないのかと。

          根本的なことはそうかもしれない。

          だが、家族というのは、時代を経るごとにどんどんその形を変えているし、

         国や社会によって、その関係はかなり違うものだ。



           農家の大家族の関係と、都市の核家族の関係はかなり違うだろうし、

          妻を何人も持つ婚姻制度と、われわれの社会の制度とは、

          まるっきり違ったものだろう。

           恋愛という観念も、ヨーロッパ中世に発明されたものであり、

          共同幻想といえるだろう。

           子どもも、歴史学者のアリエスがいったように、

          近代の発見ではないだろうか。


           家族というのは、かなりのていど、「共同幻想」によって、

          その役割や関係が、とり決められているのである。


           われわれはこの共同幻想によって、ものごとを決定したり、

          行為をおこなったりしている。



           頭のなかで決められたり、創られたりすることが、

          現実の社会に出現させられてゆくのである。


            養老孟司はこれを「脳化社会」とよんでいる。

           つまり、脳の中の世界が、現実に創り出されることをいう。


            建物や道路、鉄道などは、頭のなかで考え出されたものが、

           現実に創り出されたものである。

            企業や学校、団体、国家といったものは、

           頭のなかでその役割や用途が決められ、

           じっさいに社会のなかでその機能を果たしている、

           「取り決め」である。


            学校というのは、どこにも存在しない。

            建物が学校ではないし、グラウンドが学校でもないし、

           職員室や教室が、学校であるのではない。

            学校が存在するのは、われわれの頭のなかだけであって、

           現実に存在するのではない。


            ネコやイヌには学校が存在するのではなく、

           ただ建物と、子供たちのたくさん集まるところがあるだけだ。

            人間の共同幻想が、学校を出現させているわけである。



            社会の役割も、共同幻想である。

            男と女もかなりそうであり、男と女の役割というのは、

           共同体や時代によって、まったく違うものである。

             今世紀の男女分業という家族のかたちは、

            おもに鉄道と工場というものができあがってからの、

            対応策でしかない。


            警察官や店員、会社員、社長、課長、係長などさまざまな役割があるが、

           これも頭のなかで決められた役柄を演じているに過ぎない。

            ほかの人たちがその根拠を守っているから、

           守られているに過ぎない。

            役割の根拠の支えをとっぱらわれたものは、

           たとえ「王」であっても、「王」でなくなる。

            たんなる共同幻想なのである。


            現代のような分業化がすすんだ社会では、

           おおくの役割や機能が、ぶちぶちに分断される。

            細分化された役割は、われわれにどんな弊害をもたらしたか。


            たとえば、頭脳や手、足だけに特化した人間をつくりだしたし、

           職業に専門化した知識は、ほかの人たちを寄せつけないようにしてしまった。

            自分のものである身体の知識や知恵を、

           すべてほかの人に「外注」してしまうというのは(医者に)、

           あまりにも愚かではないだろうか。


            このような役割を絶対的な真実だと思いはじめると、

           カースト制度や江戸時代の身分制度などができあがる。


            社会制度を絶対的なものと思い込んでいる時代には、

           社会は多くの暴力や搾取を生み出しつつ、秩序を保つだろう。

            国家同士の闘いというのは、共同幻想のぶつかりあいかもしれない。


            だが、経済や社会的状況は、秩序ある共同幻想を、

           砂の塔のようにあっさりと押し流してしまう。

            ソビエト崩壊の理由はよくわからないのだが、

           社会主義という共同幻想の根底が、

           意味をなさなくなったからではないだろうか。


            いまの日本も、これまでの共同幻想が崩れるような、

           大きな転換期に立たされているのではないだろうか。

            「役割」や「機能」が、うまく働かない時代にきている。


            それは、経済の条件が変わったからにほかならない。

            これまでの共同幻想では対処しきれない、捉え切ることができない、

           新しい経済社会がはじまっているのかもしれない。

            「石頭」になってしまった共同幻想(=パラダイム)には、

           この変化にたいして、対応することができないのである。


            アルヴィン・トフラーはこれを工業社会から情報社会への転換と

           捉えたが、これまでの共同幻想というのは、工業社会を足場に、

           その建物をたちあげてきた。

            そのしっかりした足場がいま、「ぬかるみ」に

           変わりつつあるような時代に立たされているのである。






   4. 人はなぜ「シンボル」を欲するのか




          共同幻想の問題の根本には、思考と言葉の「実体化」という、

         むづかしい問題が横たわっている。

          われわれは、「言葉」によって象徴されたものを、

         「実際」に、「現実」に存在するものだと思い込んでしまう。


          言葉という「絵空事」でしかないものを、

         「実在」するものだと勘違いしてしまうのである。


          これは「国家」という約束や機能を、実在のものだと思いこみ、

         殺戮しあったり、命を投げ打ってきた歴史が、それを物語っている。

          そんなものはどこにも実在しなく、ただ人間の頭のなかで守られている、

         ルールや約束でしかないのだ。

          だが多くの人は、この「絵空事」のために多くの命を失ってきた。


          人間はじっさいの命より、「シンボル」のほうが大事なのである。


          われわれはこの「シンボル」のほうを大事にする。

          それは「金持ち」であったり、「一流会社のサラリーマン」であったり、

         「有名大学出身者」、「豪邸や高級住宅地の住民」、

         「高級車のオーナー」、「ブランド品の持ち主」であったりする。


          われわれはこのシンボルのために、なにもかもを投げ捨ててまで、

         それを手に入れようとする。

          こんな下らないシンボルのために、われわれは朝から晩まで年中、

         働きつづけ、子どものころには、おもしろくもなんともない、

         暗記知識をつめこんでいる。

          われわれはこの「シンボル」のために生涯を費やし、

         生涯をむだに終えるのである。


          シンボルというのは、「絵空事」でしかない。

          たんなる「虚構」である。

          そんなものはどこにも存在しないし、実在するものではない。

          いったいどこに「シンボル」なんてものは存在するのだろうか。

          人々の頭のなかに存在するだけである。



          なぜ「シンボル」という虚構が、これほどまでに人間にとって、

         価値のある、生命を賭すものにまでなってしまったのだろうか。



           おそらく思考が、人間にとって重要になったからだろう。

           思考というのは、ともかくおのれを残せるなにかを残しておこうとする。

           それは墓であったり、歴史に残る名前であったり、日記や書き物であったり、

          写真であったり、芸術作品であったりする。

           思考というのは、存在した証しをこの世の中になにか残しておこうとする。


           なぜなのか。

           思考はみずからの消滅を怖れるからではないだろうか。

           消滅を怖れるものは、みずからをコピーするなにかを残しておこうとする。

           つまり、死をまぬがれようとしているのである。


          人間は身体の死を避けようがないが、

         言葉や思考の証しを生き永らえさせることができる。

          そういうことで、「シンボル」は大事になったのではないだろうか。


          ここでわたしは、思考という言葉に「人間」という言葉を入れなかった。

          人間も死を恐れるという意味では、同じことだと思うだろうが、

         わたしの身体は、思考の存在の前から存在している。

          わたしがなにを考えようが、身体はすでに存在しており、存在しつづけている。

          思考の意志とかかわりなく、身体は先に存在しているのではないだろうか。

          思考がなにをわめこうが、怖れようが、身体は存在しており、

         自然に存在しつづけている。

          思考だけが、死を怖れているのではないだろうか。

          そして思考とは、想像ではないのだろうか。


          仏教や神秘思想では、わたしは生きているのでも死ぬのでもなく、

         存在しているのでも、存在していないのでもない、という。

          悟りや神秘体験では、われわれが永遠の存在であることに気づくという。

          わたしにはとてもこのような境地にたどりつくことはできないが、

         それはもしかして、思考の世界を滅却させたところに、

         そのような境地を垣間見れるのではないだろうか。


          思考はわれわれの行為や行動を支配しているが、

         身体の誕生や死を、コントロールすることはできない。


          思考はそのかわり、われわれの代替物をこの世に残しておこうとする。


          それが「シンボル」ではないだろうか。


          現代のシンボルは、その消滅を怖れるというよりか、

         人から評価されなかったり、認められなかったりすることを怖れるようだ。

          他人の評価というシンボルが、とても大事なのである。

          だから、「ブランド企業」や「ブランド大学」というシンボルを得るために、

         多くの人たちが群がる。


          でもそんなものはどこにも存在しない。

          ひとびとの、頭のなかに存在するだけである。

          ひとびとがそれを約束して、演じ、役割を遂行しているだけである。

          そしてこんなものは、時代の価値観とともにうち捨てられてゆく。

          たんにわれわれは社会の価値観を欲しているだけなのである。


          それはすべて、頭なかの「幻想」である。






   5. 思考と言葉を「実体化」すること




          われわれは言葉や思考を実体化する。

          言葉というのは、どこにも実在するものではない。

          それでもわれわれは言葉で捉えた世界を実在のものだと思いこむ。


          言葉で捉えたことを、対象そのものと勘違いしてしまうのである。

          たとえば、事件やニュースなんてものは、すべて言葉である。

          これでわたしは事件を知ったと思うが、事件そのものを見たわけではない。


          われわれは言葉という虚構によってしか、ものごとを知ることができない。

          だから、言葉を対象そのものだと思い込んでしまうのではないだろうか。

          言葉がなかったら、他人から教えられる過去はなにひとつ知り得ない。

          空っぽである。

          言葉によって想像したものを、事実そのものだと思いこむのは、

         このほかの方法で知り得る方法が皆無だからではないだろうか。


          たとえば、歴史なんてものは、すべて言葉によって伝えられるものだ。

          もう歴史事件そのものを見聞きしたり、体験したりすることはできない。

          すべては他人の言葉から伝えられる、「想像」としかわれわれに知り得ない。

          われわれはうっかりとこの想像でしかないものを、

         実在のものだと思い込んではいないだろうか。


          われわれの捉える物事というのは、すべて想像ではないのか。


          「一流会社のサラリーマン」や「有名大学の卒業生」というのは、

         言葉による想像の実体化である。

          それはひとびとの頭のなかや、口のなかでしか存在しない。

          実体あるものとしては、どこにも存在しない。

          ただ、ひとびとの「取り決め」や「約束」でしかない。

          そのような価値あるものと思い込むものを、だれもが追いかける。

          言葉を実体化しているのである。


          言葉は実在するものではない。

          あなたの「部屋」に「パソコン」があり、「時計」があり、「本」や「雑誌」、

         「テレビ」や「CDプレーヤー」があるかもしれない。

          でも、そんなものは実在しない。

          なぜなら、これは頭のなかだけの「言葉」であって、

         「対象」そのものではないからだ。

          言葉で指し示されたものは、対象そのものではない。

          言葉は頭のなかで自閉し、対象となにひとつつながりはない。

          つながりも、わたしの頭のなかにあるだけである。


          先にあげた「モノ」というのは、じつは、「われわれ」にとっての、

         「使い方」や「役割」「機能」といったものを説明しているにすぎない。

          犬やアリにとっては、これらはただの「物体」や「障害物」でしかない。


          言葉そのものは、すべて「実在」するものではない。

          だがわれわれは、言葉そのものを実体化してしまうのである。

          言葉は想像や空想という性質を脱け出して、

         「実体」なみの座を獲得してしまったのである。


          他人の話すことがかなり重要になったこともあるだろう。

          われわれはテレビで他人の話に耳を傾け、

         新聞や雑誌などの他人の書いた言葉を読み、

         また家族や友人、会社や学校の人たちの話を聞く。

          それらをすべて「空想」や「想像」だと片づけていたら、

         とてもこの世ではやってゆけない。

          他人の話の内容を実体化する能力によって、

         われわれは社会生活を送れるのではないだろうか。


          空想を実体化することが、社会での生存の条件なのである。


          だが、その言葉の実体化がなにを生み出してきたか。

          国家の争いや、民族や宗教の対立、ふだんの人間関係の争いの根も

         そんなところにあるのかもしれない。


          社会のなかでは、言葉による空想の実体化が必須なのである。

          それは歴史や過去をうみだし、経済関係や商取引きをつくりだし、

         法律や慣習をあみだし、刑罰や犯罪をうみだしてきた。

          言葉による実体化がなかったら、この社会のどんな秩序も成り立たない。

          社会のなかでは、言葉の実体化は必要だろう。



          だが、われわれは個人の精神の健康を考えると、

         言葉や思考の実体化は避けるべきと考えた方がよいのではないだろうか。


          なぜならきのうや過去の後悔や悩み、問題などを実体化して苦しんだり、

         明日や将来の不安を実体化して、苦悩することになってしまうからだ。


          これら過去や未来の後悔、不安は、すべて空想でしかない。

          過去は終ってしまって、もうどこにも存在しないし、

         想像することによってしか思い出せないし、

         未来はただ空想することによってしか、知ることはできない。

          すべては空想ではないのか。


          思考が実体のあるものではないのなら、感情もそうではないのだろうか。

          不安や怖れ、悲しみ、怖れというものは、実体のあるものではない。

          たんなる「感覚」でしかないのではないか。

          感情を実体化してしまうと、問題をつみあげてしまうことになる。


          つぎの章では、感情というものの性質を検討してみたい。





    6. 感情の性質とその捨てかた




          われわれは憂鬱や悲しみ、落ち込み、不機嫌などのいやな感情が

         やってきたら、どのように対処するだろうか。

          もし物事や対象を実体化していたり、実在のものと思いこむと、

         われわれはこの感情から逃れ切れないのではないだろうか。

          きのうのことや、終ったこと、あるいはまだやってこない明日のことを、

         実体化し、いま起こっていることのように思いこむと、

         悲しみや怒りの奔流に、「われ」を忘れることになるだろう。


          逃れる方法は、酒を飲んだり、テレビを見たり、だれかと遊びに行ったり、

         電話をかけたり、旅行に行ったり、レジャーやドライブに出かけたり、

         あるいはショッピングで衝動買いをしたりするかもしれない。


          この社会は、「憂さ晴らし」の機会に事欠かない。

          「憂さ晴らし」のための文明といっていいかもしれない。

          そしてその他人の憂さ晴らしのために労働する人たちが、

         また憂さ晴らしの方法をもとめて、商売や経済はなりたってゆく。

          無限地獄の循環のようなものだ。


          これを経済や文明の進歩とよんでいいのだろうか。



          ともかくこの社会は、「自分」から少しでも遠く離れることによって、

         憂鬱や落ち込みなどのマイナスの感情から逃れようとする。

          それはある意味では、経済にとっての必要条件かもしれない。


          
          外側に逃げるのではなく、

         自分の内側を見つめなおすことが、大事ではないだろうか。

          われわれを外へ外へと駆り立てる精神の中身を

         しっかりと把握することが、求められているのではないだろうか。



          リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』(春秋社刊)という本は、

         ものごとを深く考え、極め尽くすことに価値をおいていたわたしに、

         このことを教えてくれた。

          そのころのわたしは、社会批判の、とびっきり否定的な本ばかり読みこみ、

         かなり陰鬱になっていたから、

         この本の意味がものすごくわかったのである。


          否定的な世界観は、わたしの心の中をまっ暗なものにしてしまっていた。

          またそれまでのわたしは悩みや問題があったら、

          とにかくそのことを一日中考えて最悪な気分になることが多かったし、

          きのうの失敗や過ちを、何度も思い出してはいやな気分になっていた。


          とうぜんなのである。

          感情は、考える内容にしたがって、わきあがるからである。

          気分が最悪になるのは決まっている。


          われわれはこのことを知らずに、いやなことや不快なことに、

         思いを巡らせて、気分を最低なものにしているのではないだろうか。


          思考と感情のつながりを知らないからだ。




          この本のなかであげられている思考の原則は、次のようなものである。


          @思考が、現実や気分をつくる。

          A注意を向ければ、その思考は大きくなる。

          B否定的なときには、否定的な思考や気分しか生み出せない。


          われわれはこのような思考の性質を知らずに、

         まさにこの思考の最悪のコースを毎日たどっているのではないだろうか。



          とくに気分の最悪なときの思考は、ほんとうに最悪なものである。

          でもわれわれは考えることによってものごとを解決しなければならないと

         思い込んでいるから、ますます最悪な気分に陥ってしまう。

          カールソンいわく、それは「炎をあおる」ことなのである。

          われわれはこの思考の性質を知らないばかりに、

         最悪な気分で毎日を過ごすことになるのである。


          気分が落ち込んでいたり、憂鬱になっているときに、

         ものを考えることによって、ますます否定的・悲観的な思考がうみだされ、

         それによってますます気分が最悪になるのである。

          そもそも思考が気分を最悪なものにしていたからだ。


          では、どうすればいいのか。

          ただ、思考を手放しさえすればいいのである。

          これはふだんのわたしたちが知らず知らずのうちにおこなっているのだが、

          ――つまりいやなことは忘れるということだが、

          意識的にその方法をもちいているというわけではない。


          だから、われわれは外側のモノにたよることになるのである。

          たとえば酒をのんだり、テレビを見たり、予定をつくったりと。

          自分の精神から逃れる方法を知らないばかりに、

         自分から少しでも離れたところへと逃避しようとするのである。


          そういう外側に頼らずに、精神のみに対処する方法はないのだろうか。


          気分を最悪なものにするのは思考であるのだから、

         その根本にあるもの――思考を捨てさえすればいいのである。


          どうやって思考を捨て去ればいいのだろうか。

          その思考が捨てられないから、われわれは外側に頼るのではないだろうか。


          かんたんにいえば、忘れればいいのである。

          その不快になる思考に、注意を払わなければいいだけである。


          思考というのは、勝手にわきあがってくる。

          それはわたしの意志にしたがって、わきあがるのではない。

          つぎつぎと頭のなかに自動的にわきあがってくるものだ。


          その思考のはじまりに、飛びのらなければよいのである。

          その思考に飛びのってしまうと、「われ」を忘れてしまって、

         きのうの光景や不快な人間関係にどっぷり浸かってしまっている。


          ものを考えはじめると、まわりの景色や状況というのは、

         さっぱり意識に入らなくなっているし、

         自分の思考内容を客観的に見ることさえできなくなってしまっている。

          一度、飛びのってしまった思考は、

         ほかのことをすべて見えなくさせてしまうのである。


          だから、この思考を流れ去るままに放っておくことだ。

          放っておけば、思考は消え去る。


          そもそも思考というのは、空想である。

          絵空事である。

          頭のなかにある言葉や過去というのは、もうどこにも存在しない。

          実体化を避ければ、この存在の幻想性に気づくだろう。

          つまりそんなものはたんなる空想として、相手にしないことだ。


          思考とは頭のなかの「霧」のようなものであり、「蒸気」のようなものである。

          からだの「感覚」と同じようなものである。

          放っておけば、いつのまにか「蒸発」しているものである。



          落ち込んだり、悲しくなったりしたときには、

         もうものを考えるのはやめよう。

          ますます、落ち込んでゆくばかりなのだから――。







                         
          この思考を捨てるという方法は、ヨーロッパの精神分析のなかでは、

         あまりお目にかかれない考え方である。

          この思考の原則に照らし合せると、幼少期に問題があり、

         抑圧された無意識を意識しなおすことが必要という精神分析の考え方は、

         悲惨な気分をますます悲惨にさせるだけではないだろうか。

          ただなにかのトラウマは記憶や身体に組み込まれている可能性があるから、

         そのような無意識の回路をときはなつということは、必要かもしれない。


         
          わたしはこの考えをもっと深く知りたいと、本屋をたくさん探し回ったのだが、

         ほとんど類書を見つけられなかった。

          自己啓発のウエイン・W・ダイアーといった人が

         このようなことを語って大成功をおさめている。

          ほかの自己啓発の人たちも、考えたことが現実になるといっているが、

         客観の前に主観がまず先にあるということを言っている点で評価できるが、

         どうも世俗的な成功のために用いすぎているきらいがあり、

         ちょっと幻滅ものである。


          だがヨーロッパでも思考を捨てることの安らかさをうたった先人たちはいて、

         ローマ時代のストア哲学者、マルクス・アウレーリウスやエピクテトスと

         いった人たちがそのことを語っている。

          現代ではアランの『幸福論』(社会思想社教養文庫/集英社文庫)にそれを

         見ることができるし、ヒルティの『幸福論』(岩波文庫)でも語られているそうだ。


          思考を捨てろといっているのはやはり、仏教であり、

         現代のバクワン・シュリ・ラジニーシやクリシュナムルティ、

         といった人たちのなかに、この思想がひきつがれている。

          ただこの人たちは感情からの解放をうたったというよりか、

         悟りや変性意識状態をめざしているので、ちょっと目的はちがうかもしれない。

          だがこの方法のなかには、われわれの苦悩からの解放の方法が、

         たくさん示唆されている。


       BOOK REVIEW
       「トランス・パーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」




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  考えるための哲学エッセー集


      「思考」は超えられるか   第二部

                                             1997/6.




           第二部  目次


         1. 思考が自分を傷つけている

         2. 他人とは、「わたし」である

         3. 「過去」はどこにも存在しない

         4. 目に見える世界は、実在しない?

         5. 精神と思考という虚偽を見抜く――クリシュナムルティの思想

         6. ケン・ウィルバー――「影」の部分をとりもどす試み





  1. 思考が自分を傷つけている



       不安や悲しみ、悩みがあったらわれわれはどうするだろうか。

      ふさぎこみ、じっとして、ものを考えつづけるだろう。

      動きをとめて、われわれはその不安や悲しみ、悩みの光景をなんども思い出しては、

      これからどうなるといったことや、どうしよう、といったことを考えつづける。


       だが、この最善と思われるやり方も、

      「思考の原則」からいうと、最悪のパターンなのである。

       火の中に、薪をくべるようなものだ。


       なぜなら、否定的なときには否定的な思考しかうみだせないし、

      不安なときにものを考えると、もっと不安になる思考を思いつくだけなのである。


       ますます、みずからを不安におとしめる結果におちいってしまうのである。


       われわれはこのような原則を知らない。


       だからとにかく問題があったら、思考をフル回転に活動させる。

       ともかく考えることでしか、解決策を知らないからだ。


       そうすれば、どうなるか。

       ますます不安な思考がうみだされ、悲しみは深くなり、

      悩みはもっと深刻になり、問題はもっと複雑になる。



       われわれは、思考のこのような原因と結果――因果関係を知っているだろうか。

       われわれが良かれと思っている思考という方法は、

      じつは問題をもっと大きくしているものではないだろうか。


       問題を解決しようと思って行っている方法が、

      問題をもっと大きく複雑なものにしていることに、誰が気づいているだろうか。


       不安や悩みがあるときに考えることは、

       みずからを傷つけていることに等しいのである。


       自分で自分の傷を大きくしているのである。



       だが、われわれは「思考」に価値と信頼をおいている。

       そのためにどんなに不安になったり、不快になったとしても、

      われわれは考えつづける。

       自分の傷をみずから引き裂いているようなものだ。

       なぜそのような愚かなことをおこなうのか。

       傷口を引き裂いているのが、「思考」だということを知らないからだ。



       不安や悲しみなどの感情は、じつは外界にそのような出来事がおこっているのだ、

      と考えるよりか、思考にしがみつくことによってひきおこされている、

      と考えたほうがよいのではないだろうか。


       つまり、サインを送っているのだ。

       これ以上、不快な気分や悲観的になる思考は、

      もう捨てるべきだというメッセージなのである。


       感情というのは、「痛み」に相当するのではないだろうか。

       鋭く痛む傷口に、わざわざ塩をすりこむような人はいない。

       だが、不安や悲観的な気分のときに、思考しつづける人はいくらでもいる。

       自分から、苦しみの傷口を開くのである。


       そうして酒を呑み、憂さ晴らしに興じるのである。


       たしかにこういうときの不安や怖れの思考は、とまらない。

       つぎからつぎへと、不安になったり、怖れたりするような、

      映像や思考は、頭のなかにやってくる。

       これは止めようがないかもしれない。

       あるいは深呼吸したり、からだをリラックスさせればいいかもしれない。


       このような思考は、たんなる幻想として、無視すればいい。

       頭を「空っぽ」にすればいい。

       ただ、むりやり思考をとりのぞいてはならない。

       ここのところがひじょうにむつかしくて、わたしもうまくできるのかわからないが、

      むりやりはぶく思考は、舞い戻ってくる思考に怖れをなしたり、

      制御できない悲しみをつくりだしてしまうことになる。


       むりやりとりのぞこうとすると、どこかに無意識のうちに力を入れてしまうことになる。

       それは息をとめたり、肩や腕に力が入ったり、また顔の緊張をもたらしたりする。

       そしてこのことに気づかなかったり、緊張をとく方法がわからなかったりして、

      多くの苦しみや痛みを自分自身につけ足すことになる。

       ともかく基本は、流れるままにまかせておくことだ。


       思考の「バス」に乗りこまなければ、「恐怖のツアー」は始まらない。

       いちど乗りこめば、あなたは出口のない恐怖のなかに閉じ込められるだろう。



       不安や悲しみ、悩みがあるときには、まず思考を捨てるべきではないだろうか。

       もちろん、問題が解決するわけではない。

       だが、切羽つまったときの思考はろくなものではないし、

      ますます最悪なことを思いつくことになってしまう。


       気分の悪いときに問題を考えるのではなく、

      そのようなことをすっかり忘れて気分がよくなったときに、

      問題に対処するべきではないだろうか。


       カールソンは安らかで穏やかな気分になったとき、

      問題を解決する「知恵」が働くといっている。

       これを「答えを考えずに答えを見つけ出す能力」といっている。

       つまり余裕のあるときのものの考え方は、

      せっぱ詰まったときの思考能力より、

      はるかに優れた答えを見出すことができるのである。


       せっぱ詰まっているときには、われわれは息を押し殺している。

       息の止められた人間が、余裕のある答えを見出せるだろうか。

       息が苦しいときに、楽観的なものの考え方をできるだろうか。



       ともかく思考を捨てて、安らかな気分をとり戻すことだ。


       そのときには問題を大きな視点からながめることができたり、

      ふいに、わたしを悩ませている問題なんか大したことではない、

      どうってことはないではないか、と肩の力を抜くことのできる展望が開けるかもしれない。

       そもそも問題などではないではないか、と思えるかもしれない。



       思考とは、空想である。

       悩みとか問題というのは、空想によって組み立てられているものだ。

       もし、いま自分からそれを捨て去れば、どこにもなかったことになる。

       どこに問題なんかあるのか。


       禅の公案によく似たものがあるが、

      「問題があるのなら、いまこの手の上に見せてくれ」ということである。



       ただ、われわれの問題の大半は、人間社会の「約束」の上におこっている。

       だれかとのこじれた関係や、金銭問題、仕事の問題、

      こういった問題は、相手が空想のとり決めを守ることによって成り立っている。


       「空想」だと一蹴するわけにはゆかない。

       ただ、そういう問題は継続するかもしれないが、

      わたしはそのことを一日中、思いわずらうことなく、

      思考を捨てて、穏やかな、安らかな一日を過ごすことができる。

       そのような自分側の変化は、おそらく相手側との関係を軟化させるだろう。

       またこちらの対応も変わってくる。

       なにごとも余裕のある対処のほうが、せっぱ詰まったときのほうより、

      数段、優れた結果をもたらすのではないだろうか。


       もちろん、きれい事だけでは物事が進まないし、

      こじれた関係を修復するのは、かなり困難である。

       でも四六時中、問題を考えつづけるより、

      安らかで穏やかな気分に満たされたほうが、よほど、いいのではないだろうか。



       わざわざ自分を苦しめたり、痛めつけたりすることはない。

       自分の首をしめつづけるのは、やめよう。






    2. 他人とは、「わたし」である




        ここでは、他人にたいする怒りや恨みを考えてみる。


        われわれのたいていは、だれだれがどのようなことをしたとか、

       あいつはムカつくだとか、こんな失礼なことをしただとか、

       他人のことやゴシップを噂しあったり、考えつづけたりしている。


       他人のムカつくところや腹のたつところ、気に食わないところ、いやなところ、

      そんなことばかり思い出したり、考えたりして、一日を過ごしている。


       たしかにその相手はムカつくだろうし、失礼な行いをしただろうし、

      屈辱や侮辱をわたしに与えたかもしれない。


       だが、そのムカつく相手のために、一日中、頭に血を上らせているのは、

      ちょっとおかしいとは思わないだろうか。

       ムカつく相手のことを寝ても醒めても考えつづけるということは、

      まるでその嫌いな相手を「恋人」のように抱きしめて離さないことを意味する。

       ただでさえ、嫌いな相手なのになぜそんな気持ち悪いことをするのだろうか。



       問題を解決しようとするからだ。

       つまり、相手との関係を「改善」しようとするからではないだろうか。

       または、相手を「裁こう」としているのである。


       だが、そのために怒りつづけたり、悲しみつづけたりして、

      自分の気分は一日中、最悪なものになるのではないだろうか。


       腹のたつ相手は、自分の怒りと関わりなく、のほほんと過ごしている。

       それなのに、わたしの頭と心臓はかっかと燃え上がりつづけている。

       なんとか相手を懲らしめてやろうと、ますます頭に血が上ることになる。


       思考の原則によると、怒っているときにはもっと、

      怒りに火の注ぐような思考がつぎつぎと生み出されることになる。

       思考とはそのような性質をもつものなのである。


       感情と気分は怒りに煮えたぎり、心臓は早鐘のように鳴り続け、

      息は苦しく、最悪な気分である。

       身体も感情と同様、思考にしたがって反応するものだからだ。

       怒りのときには、身体は、野生の中で生活したときと同じような、

      「戦闘体勢」に入るのである。

       全身を筋肉の鎧に固めるのである。



       ジェラルド・G・ジャンポルスキー『愛と怖れ』(VOICE)によると、

      このようなときには、「許す」ということが必要だといっている。

       つまり、怒りに対して、「意識的に忘れる」ことが肝要なのである。


       怒りを捨て去れば、わたしの心は、外界でどのようなことがおこっていようが、

      安らかで、穏やかな気持ちに戻ることができる。


        つまり外界とは、わたしのものごとの「捉え方」――「思考」なのである。

        腹のたつ人というのは、外界にはじめから存在しているわけではない。

        わたしが相手のムカつくところに「注目」して、「腹のたつ人」が誕生するのである。


        つまり、わたしの思考、捉え方が、腹の立つ人を生み出したのである。

        自分自身が、みずからを腹立たせているのである。


        このような意味で、他人とは「わたし」なのであるといえるだろう。

        他人とは、わたしの「見えかた」「捉え方」なのである。

        そしてその認識は、感情と気分に直結している。


        他人とは、わたしの感情や気分なのである。


        視覚でみると、わたしと他人ははっきりと区別されているように見える。

        だが、他人の捉え方や怒りというのは、わたしの内側に属するものである。

        感情の世界に、わたしも他人もない。

        すべて「わたし」であり、わたしのなかの「感情」なのである。


        それなら、わたしは他人のどのような面を見、

       どのような面は忘れるべきなのか、なにを選択するべきなのかわかるだろう。

        他人への感情はみずからがつくっているのである。


        だからシャカやキリストは、許すことを奨めたのではないだろうか。

        他人のためというよりか、自分のためにそれはよいことなのである。

        同様に、愛や感謝の気持ちを他人にもつことは、

       自分の気分を幸せにたもつということで、優れた方法なのである。

        ただわれわれ凡人は、かれら聖人のようには、

       すべての怒りや不満を受け流すことはなかなかできないだろう。

        ついつい思考や怒りにしがみついて、なんとか相手を裁こうとしているのである。
       


        たしかに相手はひどいことをしたり、怒りに値することをおこなっただろう。

        だが自分を怒りによって、みずから苦しめたり、傷つけたりすることはないだろう。

        まずは自分の怒りの思考を意識的に捨てて、

       安らかな気分をとり戻すべきだ。

        他人を裁くより、自分の安らぎや穏やかさを保つことが、

       人生にとってもっとも大事なことではないだろうか。


        それから相手との関係を考えなおしてみるのもよいかもしれない。

        思考の原則によると、怒りのときには怒りの思考しか生み出されないから、

       残酷で、容赦ない解決策しか考え出せないものである。

        相手もそのことに反発して、もっと対立が深刻化するだろう。


        わたしの考え方や捉え方が、相手の反応をつくり出したり、

       引き出したりしているということに、気づかなければならない。



        だが、すべての怒りや不満を受け流すことは、とてもわたしにはできない。

        この世の中には、不正や搾取、暴力などが、たくさんまかり通っている。

        これらのすべての怒りを捨てて、なにもしないというのは考えものだろう。

        キリストやシャカはこのようなことも「許そう」としたのだろうか。


        ヨーロッパ近代のなんでもかんでも支配し、コントロールしようとする、

       考え方からは、あまりにも「無力」で「奴隷的」にみえるかもしれない。

        だが、この見えかたもわたしの捉え方であり、わたしを苦しめさいなます。

        思考を捨て穏やかさを保つか、それとも自分に苦痛を与えつつも、

       他人や社会を思い通りに動かそうとするべきなのか。



        新興宗教でも、やはりこの思考を捨てるという方法を使って、

       信者たちから金をまきあげるようなシステムをつくりあげている。

        このような不正には警戒しなければならない。

        おそらくそれは、組織や集団に必然的にともなう結果なのだろう。

        組織ができあがると、構成員を養っていかなければならず、

       それは必然的に、目的が、金儲けへと転嫁してしまうのである。



        思考は、われわれの精神の健康を損ねるようなときには、

       捨て去るべきなのだろう。

        だが、社会の暴力や搾取などには、断じて思考を捨てるべきではないのだろう。

        言葉や思考によって組み立てられた社会の仕組みには、

       それらによって、対処するべきである。

        ただ、復讐や報復だけに費やすような人生は、

       精神の健康から考えて、まちがっても選択してはならないと思う。


        外側の世界と思っているものも、じつは自分の感情と直結するという意味で、

       「わたし」の内側の世界なのである。

        たしかにこのバランスのとりかたはむつかしいと思うし、

       どうすればいいのか、いまのわたしには判断できない。

        たとえ外界にどのようなことがおこっていようが、

       それとはまったく無関係に、心の安らかさや穏やかさを得られるのなら、

       まず第一にそれらを選びとるべきだとは思うが――。





   3. 「過去」はどこにも存在しない



        耳をすませば、あなたのまわりには多くの音が聞こえるかもしれない。

        テレビの音やラジオ・CDの音楽、だれかの話し声、エアコンの音、冷蔵庫の音、

       家の外では車やバイクの音、風の音など聞こえるかもしれない。

        ちょっとそれらの音を聞きながら、考えてほしい。


        過去の音は、聞こえるだろうかと。

        さっき聞こえていた音や、5分前の音はいま、聞くことができるだろうか。


        いまの音しか聞くことができない。

        さっきや過去の音はもう二度と聞くことはできない。


        動くものもそうである。

        あなたの前を人が歩いているとする。

        一分前のその人の歩いている姿を見ることができるだろうか。

        不可能である。


        車もそうであり、電車も、雲も、そうである。

        ちょっと前までのそれを見ることはもうできない。


        われわれの知覚は、一瞬の「いま」しか知覚することはできない。


        まわりの止まっているように見える物も、同じように、

       「いま」のすがただけを見ている。

        止まっているからわかりづらいと思うが、同じ性質なのである。


        いつだって、いましか見ることも、聞くことも、感じることもできない。


        この世の中のすべては、ずっと流れつづけていて、

       一瞬たりとも、とどまることはない。

        川の流れの水は、二度と同じものではない。



        それなのに、われわれの頭のなかの大半は、

       過去や未来のことでいっぱいである。

        もはや見ることも、聞くことも、さわることもできないものに、

       充たされている。


        そしてわれわれの怖れ、悲しみ、苦悩のほとんどは、

       過去や未来のことがらではないだろうか。

        もうどこにも存在しない過去や、あるいはまだ起こらない未来の心配に、

       われわれは苦しめさいなまされているのである。


        なぜ、存在しない過去や未来に苦しめられるのか。

        それは過去を思い出したり、未来を考えたりすると、

       いま、起こっているかのように、われわれは怒ったり、悲しんだり、

       苦しみ悶えたりすることができるからである。


        つまり過去も未来も、「いま」の上に進行してしまうことになるのである。

        あるいは頭のなかにあることは、過去も未来も関係なく、

       「現実のもの」「実体あるもの」として、感じられるからかもしれない。

        頭のなかの世界は、すべて「現実」なのである。


        映画や小説は、「虚構」であることがわかっている。

        だがそれらを見ているとき、現実のことのように悲しんだり、

       腹を立てたり、どきどきしたりするだろう。

        われわれの頭のなかでは、現実も虚構も、

       あるいは過去や未来、現在という区切りはまったく意味をなさなくなっているのだ。


        映画や小説のばあいは、社会的に「虚構」であるという「約束」が成り立っている。

       だが、過去に対しては、虚構であるという見解がない。



        過去は過ぎ去ってしまえば、虚構と同じ性質のものになる。

        言葉で説明しないかぎり、過去は甦らない。

        つまり過去は消滅してしまったのである。

        もはやどこにも存在しない。


        われわれは過去があると思っているし、

       過去があったのは、自明であると思い込んでいる。


        もちろん、過去はあった。

        あなたはきのう、会社や学校に行っただろうし、

       何ヶ月か前には旅行に行った記憶をありありと思い浮かべることができるだろう。


        だが、それは「過去」なのだろうか。

        過去ではない。

        なぜなら、われわれはいつだって一瞬のいましか経験できないからだ。


        それは過去ではなく、「記憶」なのである。

        記憶というのは、外界にあるものではなく、頭のなかだけにあるものである。

        もはや、現実としてどこにも存在しないものである。

        つまり、一種の「虚構」としか存在しないものである。


        過去はもはやどこにも存在しないのである。


        古来、哲学者たちはこの過去が「奈落」のように、

       消滅してしまうことに気づいて、恐れおののいてきたという。

        中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書)によると、アウグスチヌス、

       デカルト、ヒューム、マクタガートといった人たちがこのことに気づいてきたそうだ。


        あなたは後ろをふりむけば、一瞬ごとに過去という足場が、

       崩れ去ってゆくのを見ることができるだろう。

        同様に未来はまったくの「想像」でしかないし、

       現在も、やはり一瞬一瞬に過去になってゆくという点で、

       「奈落」の底に消え去ってゆく。


        つい、さっきのあなたを思い出してほしい。

        パソコンの前に座ろうとしたさっきのあなたはもう存在しないし、

       食事をしたり、トイレにいっていたあなたはもう存在しない。

        この文章を読みはじめたときのあなたももう存在しない。



        われわれは一瞬たりとも、現在を捉えることができない。

        あなたが捉えている世界というのは、すべてが過去や未来であり、

       それらはすべて「虚構」になってしまう。


        これはつまり、「夢」の性質となんら変わりはない。

        夢というのは、「虚構」である。

        だが、われわれは夢を見ているとき、その体験を現実に起こっているかのごとく、

       反応するし、夢の中の対象に怖れたり、脅えたりする。

        われわれの日常の経験も、まったくこれと同じ性質なのではないだろうか。



        われわれは毎日、「悪夢」に脅かされながら、

       日常の生活を送っているのである。

        なぜなら、われわれを脅かせたり、不安にさせたり、怒らせたり、

       悲しませたりすることは、すべて過去や未来であり、

       それらは、どこにも存在しない虚構なのである。


        存在しない虚構に脅かされるということは、

       まったく「悪夢」と変わりはないのではないだろうか。


        悪夢から解放されるのは、目を醒まして、それが夢であることに気づいてからだ。

        われわれの日常の怖れや悩みは、悪夢なのではないだろうか。

        そしてそれがどこにも存在しない悪夢であることに気づいてはじめて、

       われわれはこの長い眠りから、目を醒ますことができるのではないだろうか。



        ただ、われわれの社会は「言葉」や「過去」、「未来」を実体化し、

       それらを守ったり、約束したりすることによって、成り立っている。

        経済や社会関係は過去をつみ重ねることによって、関係をとり結んでいる。

        いわば、社会全体が、夢のなかで成り立っているといってもいいかもしれない。

        一瞬ごとに過去が消滅してゆくと考えるのなら、

       いかなる社会関係も成り立たない。

        そのために、悪夢を現実視し、悪夢のなかで追い立てられる毎日を、

       われわれは送らなければならないのかもしれない。


        経済や仕事などの社会的な部分は忘れることはできないが、

       個人的な、心理的な生活では、過去を一瞬たりともひきずらないことが、

       肝要なのではないだろうか。

        そうしないと、あなたはホラー映画『エルム街の悪夢』のように、

       悪夢の中に閉じ込められて、生きて出られないかもしれない。


        個人生活のなかで、仕返しや報復といった行為は、

       ひんぱんにおこなわれると思うが、いちど味わった感情や屈辱などは、

       たとえ相手に制裁を加えようが、解消することはできない。

        そもそも過去やわたしの感情は消滅してしまったからだ。


        だが、われわれは商取引の考えを適用して、相手に仕返ししようとする。

        その結果、われわれの感情は怒りや恨みに燃えたぎり、

       心が晴れわたることはない。

        つまりみずから過去の傷をひきずったために、

       みずからを傷めつづけているのである。

        返さない借金に対して腹をたてて、利子を上乗せして、

       ますます頭に血が昇りつづけるばかりなのである。


        なんらかの意志表示をしたあと、そのことはいっさい忘れてしまうのが、

       心の青空をとりもどすためには、必要なのである。


        「過去に対して、刻々と死ぬこと」――クリシュナムルティはこう言っている。






  4. 目に見える世界は、実在しない?



         目に見える世界の実在性は疑いようがない――

        われわれはこう思っている。

         わたしの目の前にあるパソコンや部屋の壁、窓、カーテン、

        本棚やテレビといったものは、絶対に実在するものに思える。

         さわれば、ちゃんと物体としての感覚があるからだ。


         だが、仏教思想ではこのような自明と思われることも、否定する。

         物体は実在するのではなく、心がつくりだしたものにほかならないと。


         「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、

        外界の物質的存在は真実には存在しない」


         「一切の現象は心のみであって、外界の対象は存在しない、そして、

        そのように思う心自体もまた、固有の相ではなく、刹那ごとに生滅し、

        知覚できない(と考えること)と知るべきである」

         ――アシュヴァゴーシャ『大乗起信論』(岩波文庫)



         「もし外界の対象が存在しないとすれば、このわれわれの表象は、

        いったいなにを表象しているのであろうか。

         実にこの表象は、無限の過去から流れ続けている心の誤った習慣性から

        起ってくるのであって、決して対応する外界の対象をもっているものではない

        と考えられる」

         ――モークシャーカラ・グプタ『認識と論理』/『大乗仏典』(中公バックス)



         このように仏教思想では、外界の実在性が否定されている。

         頭の中の考えが実在しないことはわかることができたが、

        視覚の対象すら存在しないというのは、なかなかわたしにはわからなかった。


         わたしなりに答えをひねり出してみると、

        視覚というのは、「鏡」に似ているのではないかということだ。


         鏡というのは、じっくり見つめてみると、わたしの視覚となんら変わりはない。

         じっさいに物があり、実在しているように見える。


         ひとつ違う点はその中に手をのばしてみても、さわることができないという点だ。

         われわれの視覚では、じっさいに手をのばしてみると、

        ちゃんと対象にさわることができ、物体として感じることができる。


         だが、さわっているものはじっさいに、その視覚の対象だろうか。

         たしかになんらかの物体を触っているのだろうが、

        視覚「そのもの」の対象ではない。

         つまり、「目に見えている物」をさわっているのではなく、

        視覚の外側の物をさわっているのではないだろうか。


         なにを言っているのかわかりづらくなったから、言い方を変えると、

        視覚の対象というのは、わたしの「外側」にあるのではなく、

        わたしの目の中、あるいは頭のなかに写った「像」にしかすぎないのではないか。


         つまり、われわれの視覚というのは、鏡や写真のように、

        たんなる光景を写しとった「仮の像」でしかないのではないだろうか。


         なるほど視覚は対象に貼りつけられているように見えるが、

        それは錯覚なのであって、自分の頭のなかの像にしか過ぎない。

         頭のなかの「映像」なのである。


         しかしわれわれはそれを頭の中ではなく、外側にあると思い込んでしまう。

         これはあくまでも頭のなかの「映像」がそう見させているだけで、

        じっさいの事物がそのようなものかはわからない。


         生物というのは、その知覚器官による世界を認識しているに過ぎない。

         たとえば嗅覚で世界を捉えている動物はその感覚で世界を把握するだろうし、

        聴覚だけで世界を捉える動物は、世界をその知覚で認識するだろう。

         コウモリは超音波によって、まわりの地形を捉えているし、

        モグラはまわりにふれるもので世界を捉えている。


         世界や環境と思われるものは、じつは生物が外界を認識するために

        つくりだした、生存に必要な、便宜的な「像」ではないだろうか。

         知覚される世界というのは、生物の知覚が「創造」したものではないだろうか。

         われわれが、世界を「創り出している」のである。


         われわれの目に見える世界も、人間という特有の生物が創り出した、

        外界を認識するための「像」にしか過ぎないのではないだろうか。


         つまりそれはあくまでも人間の知覚がつくりだした「認識」なのであって、

        この知覚される世界は、人間が頭の中で創り出したものにほかならない。


         対象というのものは、いっさい存在しない。

         それはすべて人間の知覚や認識のなかに含まれるものだ。


         目に見える物や、遠くに聞こえる音、匂い、触覚というものは、

        すべて人間の内側にあるもので、それは自分の知覚が創り出したものだ。


         こういった意味で外界の対象は実在しないといえるだろう。



         われわれは目に見える、美しいもの――異性や風景、美術品などを

        追い求めているわけだが、これは外界に実在すると考えるよりか、

        人間の知覚が創り出した「像」にしか過ぎないといえるだろう。

         このようなものは、じっさいに存在しないのである。

         これらの幻想を追い求めることによって、われわれは得られない幻滅を味わい、

        苦しむのではないだろうか。


         われわれは知覚が創り出したものにしか過ぎない「仮像」に恋し、

        しがみつき、追い求め、苦しめられるのではないだろうか。

         つまり、われわれの「知覚作用」に恋するのである。


         外界の対象は存在しない。

         それは人間の知覚器官が創り出した「仮像」にしか過ぎないのだから。



         仏教ではこのようなことを知って、なにになると言っているのだろうか。

         すべては心にしか過ぎない(唯識)として知って、いったいどうなるのだろうか。

         すべては空性――実体あるものではないと知って、

        悩みや苦しみから解放されることができるのだろうか。


         頭の中だけで、把握していてもだめだ。

         われわれはいつのまにか、悩みや苦しみの出口のないトンネルに

        閉じ込められていることに、ふっと気づく。

          これまでの習慣というものが、根強くしがみついているのかもしれない。


          心の習慣は、からだの呼吸や筋肉の緊張といった、

         われわれがまったく気をくばらない領域に、習慣として根づいている。

          それらの習慣は、怖れたり、不安になったりしたときに、

         無意識に息を殺したり、筋肉を締めつけたりして、

         われわれを過去の呪縛から解き放さない。


          われわれはこのような無意識のからだの働きに

         自覚的にならなければならないのである。

          このような習慣に気づかなければ、

         われわれはコントロールできない身体の緊張や息苦しさ、痛み、

         体調の不和、病気などに悩まされることになるだろう。

          これは現在のわたしの課題だが、第三部で検討するつもりである。

         
         

              



   5. 精神と思考という虚偽を見抜く――クリシュナムルティの思想



         クリシュナムルティという人はすごい人である。

         思考というものの否定的な側面を、これほどまでに理論的に

        捉えた人はほかにいないだろうと思う。

         思考の性質を、知悉しているのである。



          「説明や原因の暴露、分析的な問題の解剖といったものは、

         少しもそれを解決することはない。――精神は、よりいっそうの問題を

         生み出しうるにすぎない。

          精神それ自体が、その中で諸々の問題や葛藤が育ち、

         そして繁茂する畑なのである」

          ――J.クリシュナムルティ『生と覚醒のコメンタリー 1』春秋社



          クリシュナムルティという人は、思考や精神の問題といったものを、

         生涯にわたって説きつづけた人である。


          精神世界やニューエイジといったものをあまり知らない人や、

         近づきたがらない人は、このクリシュナムルティという人を知らないだろう。


          クリシュナムルティは1895年インドに生まれ、14才のときに

         神智学協会のリーダーとして迎えられ、イギリスで教育をうけた。

          「星の教団」のメシアの座を与えられたが、教団や組織といったものを

         否定し、それを解散して後は、世界中で講演をおこなった。1986年没。


          ちょっとあやしかったり、いかがわしい経歴ではあるけれども、

         かれの思想――心理学、心理療法といってもいいかもしれない――には、

         一点のいかがわしさもあやしさもない。


          ヨーロッパにかれのような精神や思考に対しての、

         鋭い心理学者は、存在しないだろう。

          ヨーロッパでは、真実か偽かという問題はひんぱんに

         とりあげられてきたが、それを捉えている精神や思考、言葉といった、

         根本的なことにはどうも最近まで、ほとんど注目してこなかった。

          カメラに写った写真はよく検討するが、

         カメラそのものを点検することはなかったのである。




          クリシュナムルティは、われわれの苦悩や苦痛のすべての原因は、

         思考にあることに見抜き、その解明に生涯をかけた。

          思考が悲しみや恐怖の原因であり、それは過去や時間によって

         うみだされると考えた。

          だが、問題はその苦悩の創造主である思考が、

         またもや問題を解消しようとして、問題を構築してしまうことである。


          たとえば、わたしが貪欲であることに気づいたら、

         それをどうにかしなくては、と思う。

          それを生み出したのも思考であり、思考がそれを排斥しようとして、

         「思考」と「思考する人」を別々に生み出してしまう。

          われわれのなかには、貪欲があるだけなのである。


          こうしてコントロールする主体「思考する人」を生み出してしまうと、

         われわれはその安心を脅かすものを、ことごとく怖れるようになる。

          「自分」を守ろうとして蓄積してきたものが、恐怖や苦痛を生み出すのである。

          問題は、自分を守ろうとしたり、制御しようとして、

         「あるがまま」に抵抗することから、起こるのである。


          ではどうすればいいのか。

          思考や精神のはたらきを、批判や比較せずに、ただ受動的に

         見つめることによって、それらの全体を知ることであるという。

          ここのところがとてもむつかしくて、わたしにはこの感覚がつかみにくいのだが、

         努力や闘い、抵抗、逃避といったものなしに、精神を見つめることだという。

          このときに精神は、「思考する人」を生み出さないのである。



          どうもわたしは、クリシュナムルティのすべてを噛み砕き、

         消化しているわけではないので、このような解釈でよいのか心もとないが、

         思考が問題を生み出していることに気づいたのなら、

         クリシュナムルティほど深く追究し、究明している人はほかにいないと思う。


         この人の言っていることは面食らうし、あまりにもわれわれの常識や、

        よかれと思ってやっているさまざまな行為や選択と抵触するので、

        理解することや受容することは、とてもむつかしい。


         ほんとうにそう思う。

         われわれが知らず知らずのうちにおこなっている、

        精神や心の防備やおこない、趣味や行為の選択、蓄積といったものが、

        ことごとく苦痛を生み出すものでしかないということは、かなり気づきにくい。

         なにせ、われわれはそれが最善と思ってやっているし、

        ある程度はそれが成功したり、ここちよかったりするわけだから、

        クリシュナムルティの言うことは、なかなか受容しにくい。

         あまりにもわれわれの価値基準と違うので、

        その言っている意味さえ、つかみにくいかもしれない。


         だが、遅かれ早かれ、われわれの人生の途上において、

        つまづきや挫折、苦悩や苦痛に出会い、クリシュナムルティの正しさを悟るのだろう。

         いまはこれまでの思考や精神のやり方でうまくやってこれたのかもしれないが、

        いつかはこの精神の壁にぶちあたることになる。

         そのときにはクリシュナムルティの言葉の深さに気づくことになるのだろう。



         わたしのつたないクリシュナムルティの紹介より、

        じっさいに著作を読んだほうが、はるかに理解しやすいと思う。

         わたしのいちばんのおススメ本は、『自我の終焉』(篠崎書林)であり、

        書店ではすこし見つけにくいと思うが、対談集の多い著作のなかで、

        系統立てて精神を説明しているので、理解が進むと思う。


          『生と覚醒のコメンタリー 全四巻』(春秋社)は多くの人との対談集だが、

         クリシュナムルティみずからの筆による手記であり、すばらしい本である。


          『生の全体性』(平河出版社)は、第U部にまとまった精神の説明があり、

         時間と思考の関係などについて、のべられている。

           第T部では、ボームなどの対談集がおさめられている。







   6. ケン・ウィルバー――「影」の部分をとりもどす試み



          ケン・ウィルバーの『無境界――自己成長のセラピー論』(平河出版社)は、

         とてもすばらしい本である。

          この本をはじめて読んだとき、驚くことばかりだったし、

         時間がたっていろいろなことを実感として気づいてゆくと、この本にすでに、

         そのことが書かれていたことに、何度もわたしは驚かなければならなかった。



          この本で書かれている主なことは、

         人間は成長してゆくたびに、いろいろなものを排除してゆくのだが、

         それらは問題や症状をうみだし、苦しみをもたらす。

         それら排除されてきたもの――影や身体、環境といったものを

         とりもどそうと試みているのが、本書である。



          われわれはさまざまな自分の「一部」を排斥している。

          社会的な制約や、自己の崩壊を怖れるために、われわれはカエルが、

         安全な丸太ん棒に飛び乗るように、安全な自分の一部に飛び乗ってゆく。


          まずは自分の一部である環境が、「身体」と区切られて捨てられ、

         崩壊してしまう身体が「自我」と区切られ、感覚のないものとされ、

         社会的に認められない自我が、「影」として抑圧されてゆく。

          さいごには、偽りの「仮面」のみで生きてゆくことになる。


          問題は、自分の一部に「境界」を生み出してしまったために、

         あらゆる「対立」、もしくは「影」に怖れを抱くことになることである。

          たとえば身体を排斥してしまうと、その不随意の身体が暴走をはじめ、

         制御できないわたしは、哀れな被害者のように思えてしまう。

          これはおそらく不随意の運動に抵抗してしまうからだと思われるが、

         「身体」を排斥してしまったわれわれは、なすすべもないのである。



          それら排斥された自己の一部をとりもどしてゆく試みがこの本の主旨であるが、

         「無境界の自覚」、「超越的自己」や「究極の意識の状態」といった章は

         驚くばかりであり、いまにも自分が「悟れ」そうに思えるのだが、

         そううまくはゆかない。


          ケン・ウィルバーの意識のスペクトル論というのは、

         西洋のさまざまな心理学や東洋の宗教などを、

         レベル別にすっきりと整理したものであり、

         どのレベルにどのレベルが合致するのか、わかるようにできている。

          フロイトや交流分析などは、仮面と影の統合をあつかったレベルであり、

         ローエンやパールズは自我と身体の統合、

         そして仏教や神秘思想は、全体の統合をあつかっているのである。


          わたしも自分なりに、このエッセーでのべられているとおり、

         「他人」や「目にみえる世界」が、自分のつくりだしたものであることに

         気づいていったが、このような自覚のとりもどしが、

         ケン・ウィルバーや、あるいは仏教、神秘思想などの目標なのだと思う。


          わたしはひじょうにのろいカメのような歩みで、ひとつひとつ

         気づいていっていると思うが、これらもこの『無境界』という本にすべて

         のべられているものだ

          ただこの本を読んだときには、実感として感じられなかったり、

         ぴんとこなかったりして、しばらくは忘れられているのだが、

         ちょっとしたきっかけで、理解と興味がいっしょにやってきて、

         初めてその意味の重要性に気づくことになるのである。



          われわれは境界によってうみだされた種々の幻想にしがみついている。

          そしてそれらがすべて幻想であると気づいたときに、

         世界との一体感を感じ、永遠の存在であることに気づくのだろう。


          われわれはもしかして、「想像力」や「言葉」といったもののために、

         いらぬ苦しみや苦痛にさいなまされているのかもしれない。

          これらを排除するのではなく、その性質の深奥を見極めたときに、

         その「幻想」から、解放されるのではないだろうか。


           そこにはなにもなかった、と気づいたときに、

          われわれは、世界「そのもの」になれるのではないだろうか。






         『思考は超えられるか 第三部』につづきます。


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   考えるための哲学エッセー集


        「思考」は超えられるか    第三部

                                                1997/6.




        はじめに


      これまでの第一部、第二部はわたしなりに考えをまとめたものを

     のべてきましたが、ここからは現在、学びつつある課題を、みずから考えたり、

     迷ったりしながら、書きつらねてゆきたいと思っています。

      したがってこれからのべるジャンルについては、誤っていたり、

     のちに考え方が変わったりする可能性があります。

      わたしの知識量はほとんどないに等しいのです。

      このことを理解した上で、以下の文章をお読みください。




  からだを癒す――ボディーワーク(1997/6)



    1. 呼吸を抑えつけること



       いまのわたしの関心事は、「からだ」である。

       からだにまったく関心のない人は、わたしがなぜ、からだなんかに、

      興味をもつのだろうかとふしぎに思うだろう。

       とくに知識や思考に優位をおいている人なら、なおさらだ。

       わたしもからだとかスポーツにはまったく関心をもたなかった。

       からだの存在なんか、ふだん、われわれは忘れているくらいだ。


       だが、からだはわれわれの精神や感情に驚くほど関わっている。


       わたしまず、呼吸の重要性について気づいた。

       だいたいわれわれはふだんの呼吸なんかに注意を払ったりしないが、

       われわれは緊張したり、怖れたりするとき、かならず「息」を殺している。

       息を止めたり、浅くしたりしているのである。


       息を止めてそのことに集中したり、注意深くなろうとしている。

       あるいは不安や怖れなどの感情を、コントロールしようとして、

      息をつめるのかもしれない。


       だが、人間というのは、5分たりとも息を止めていることができない。

       息が止まったら、死んでしまう。

       それなのに、われわれは緊張やストレスの多い生活のなかで、

      しょっちゅう、息を止めたり、あるいは呼吸を浅くしている。

       さぞかし、苦しい生活を迫られていることだろう。


       呼吸を止めたり、浅くしたりすることは、極端にいえば、

      身体を死んでいる状態にまで近づけることだ。

       首をみずから絞めているようなものだ。

       このような状態で、機敏で、臨機応変な考えや行動をすることができるだろうか。

       せっぱつまった、余裕のない、追いつめられたような、

      思考や行動しかできないのではないだろうか。


       怒ったり、悲しんだり、緊張しているときには、呼吸は、

      ほとんどせわしなくなったり、浅くなったりしている。

       リラックスしているときには、深くゆったりとした息をしている。


       せっぱつまったときの呼吸は、無意識に、自動的に変化するものだ。

       状況に応じて、呼吸は変化するようにできている。


       だが、呼吸は無意識の身体活動でありながら、

      同時に意識的にコントロールできるものだ。

       いま、呼吸が浅くなっているなと気づいたら、深い息をすることもできる。

       だから、われわれは緊張したり、あせったりしたとき、

      呼吸をゆったりすることによって、からだの緊張をときほぐすことができる。


       つまり怒ったり、不安になったり、緊張しているとき、

      それらの状態を緩和させることができるのである。

       ゆっくりとした呼吸は、われわれをリラックスさせ、

      ゆったりとした気持ちに導いてくれる。

       あまり肺いっぱいに吸い込むより(ますますあせる)、息を全部吐き出すことによって、

      自然な呼吸にもどすことが大事であるようである。

       緊張やあせりは、ゆったりした呼吸によって、ときほぐすことができるのである。


       呼吸の重要性が、わかっていただけただろうか。

       ひごろからだの活動は無意識におこなわれており、

      たまにわれわれのコントロールがまったく効かないときがある。

       緊張したり、不安になったり、怒りや悲しみがやってきたときだ。

       そういうときには、呼吸をコントロールすることによって、からだを鎮め、

      おだやかな状態にもどすことができるかもしれないのである。


       呼吸についてはまだまだわたしは学習中であり、知らないことだらけなので、

      直接、そのような本にあたってもらったほうがよいと思う。

       マイケル・スカイ『ブリージング・セラピー』(VOICE)や、

      ゲイ・ヘンドリックス『<気づき>の呼吸法』(春秋社)といった本や、

      そのほかにも家庭医学のコーナーにはたくさんの本がある。





   2. 感情と筋肉とのつながり



        怒ったり、悲しんだり、緊張したり、不安になったりしたとき、

       われわれはからだがどのようになっているのか、気づいたことがあるだろうか。

        顔全体が緊張していることには気づいているかもしれない。

        怒ったり、不安になったりしたときには、それらの感情に特有のからだの状態が、

       現われ出ることは、知っているだろう。


        だが、われわれはその感情と筋肉とのつながりを結びつけてみることはあまりない。

        どの感情にはどの筋肉が働き、使われているのか、知らない。

        ある感情には、ある特定の筋肉の緊張が結びついている。


        もしこの筋肉の硬直に気づけば、われわれは感情のコントロールを

       身につけられるのではないだろうか。

        からだの一部分の筋肉の硬直は、感情などによって、ひきおこされるものだ。

        そしてそれは今度は逆に、われわれの気分や感情を規定してしまう。

        怒った顔の筋肉では、怒りの感情が継続するし、悲しみの筋肉では、

       悲しみの気分がつづいてしまう。

        筋肉の硬直が、逆にわれわれの気分を押しとどめてしまうのである。


        だから、われわれはある感情がどの筋肉を硬めるのか、

       どのようにしたらその筋肉をゆるめることができるのか、

       そういったことを知ったのなら、より感情をコントロールしやすくなるだろう。

        無意識にまかせていた筋肉の緊張を――そのために感情にふりまわされていた

       ――意識の中にとりもどし、そのコントロール力を手に入れるのだ。



         現在のところ、わたしはこの感情と筋肉の関係について調べているところだが、

        なかなかそのような本は見つからないのだが、

        増田明の『ボディートーク入門』(創元社)にはたいへんくわしく、

        そのことが、背骨を基準にして、のべられている。


        この本によれば、怒りのしこりは胸椎八番にあらわれ、

       切なさは胸椎三番、金銭苦は頚椎七番のあたりに、その他いろいろ、出るそうである。

        これらの場所については、この本で調べてほしい。

        このような筋肉の硬直は、この本の中では、動物の筋肉の働きにその理由が

       求められており――つまり猫が怒って背中をたてたり(上半身を硬くする)、

       犬がしっぽを丸めて逃げの姿勢を見せる(硬くしてからだを守る)ことと、

       同じであると見ているのである。

        われわれは動物の筋肉のはたらきをそのまま、もっているのである。


        要は、怒りや怖れなどの感情というのは、

       太古の人類が外敵から身を守るための筋肉の緊張による防御法なのである。

        このような筋肉の使い方は、必要のなくなった現代社会でも用いられていて、

       それが継続したりして、筋肉のこりや痛み、病気をもたらすのである。

        筋肉をきゅっと固めても、借金取りからも、生活の不安からも逃れられない。


        このような筋肉のはたらきを見ていると、感情とはなにかという気がしてくる。

       感情というのは、筋肉の緊張によるからだの流れといえるかもしれない。

        つまり、顔や肩、もしくは下半身などの一部の筋肉が固められ、

       そのために生じた呼吸や血液の流れの阻害や遮断、不均等が、

       われわれにその状態が、気分や感情として感じられるのではないだろうか。


        感情というのは、筋肉の硬直・弛緩による結果ではないだろうか。

        感情という実体があるのではなく、それぞれの部分の不均等が生じたために、

       感じられるからだの状態といえるかもしれない。

        からだのあっちのシャッターが閉められ、こっちでは筋肉のために管が狭くなり、

       ほかのところでは換気扇が回り――そういったからだの状態から感じられるものが、

       感情というものではないだろうか。


        感情というものは、筋肉の硬直・弛緩がつくりだしているのではないだろうか。



        われわれはさまざまなストレス状況に、筋肉の緊張が使われている、

       ということにほぼ気づいていない。

        だがわれわれの日常では、ちょっとした不安があったり、問題があったりしたら、

       どこかのからだの調子が悪くなるといったことは、しょっちゅう経験したり、

       あるいはほかの人に見たりするだろう。

        下痢をしたり、頭痛がしたり、食欲がなくなったり、腰痛になったり、とさまざまだ。


        たいていの病気というのは、このような筋肉の緊張・硬直により、

       起こるのではないだろうか。

        凝り固まった筋肉が、血液や酸素などの供給をストップしてしまい、

       その部分に病気がうまれるのである。

        自分のからだの弱いところというのは、無意識のうちにおこなわれる、

       筋肉の硬直がおこなわれている箇所ではないだろうか。


        われわれは自分を守っていると思っている無意識の対処法が、

       じつは、病気や症状の原因ではないだろうか。

        このような対策はおそらく子どものころに無意識につちかわれたものだ。

        その誤ったやり方が何年も蓄積されて、病気をひきおこすのである。


        自分を守ろうとしていることが、じつは自分を傷つけているのである。


        筋肉を鎧のように固めることは、野生に生きるアルマジロのような生き物に

       とっては、ひじょうに優れたガードなのだろう。

        だが、われわれの人間社会はそういう危機にめったに出会わない。


        それなのに無意識のうちにそのような方法をもちいつづけ、

       不幸なことに人間社会は、野生の動物のように危機が去ったら、

       すぐに緊張をとけるというわけではない。

        人間の不安や怖れは、継続しつづけている。


        思考が肥大し、過去も未来もなくなり、危機は敵の襲う一瞬というわけではない。

        つまり思考が過去と未来の不安や怖れを「上映」しつづけるために、

       一刻も、筋肉の鎧を脱ぐことができなくなってしまったのだ。

        過去や未来をシャット・アウトすることがいかに大事なことか、わかるだろう。


        また人間は視覚や思考という知覚ばかりもちいるために、

       身体感覚といったものを、ほぼ抹殺してしまった。

        自分の身体でどのようなことがおこなわれているのか、てんで気づかない。

        そのために身体のコントロール法も忘れてしまったのだろう。


        ヨーガや東洋の賢者たちは、かなりの程度、身体の不随意活動を

       コントロールできるようになるらしい。

        わたしは最近これらのことに気づいて、ヨーガの意味がようやくわかってきたのだが、

       どうもヨーガの本というのは、気持ち悪いし、おそろしい。

        タコみたいにからだをものすごいカッコに折り曲げているさまは、

       ちょっと見るにたえない。


        われわれは身体は硬いものだという思い込みをもっていたり、

       あそこまで曲げたら骨が折れたり、からだを傷めてしまうのではないか、

       と思っているが、そのためにからだの硬さを温存しつづけ、

       老人のように曲がらないからだになってゆくのではないだろうか。


        からだは、やわらかいほうがよいようである。

        血液や酸素、栄養分などはそのほうが滞りなく流れやすい。

        だから、ヨーガなどではあんなにからだがやわらかくなっているのである。


        わたしはからだにちょっと怖れを抱いていたのか、からだの硬さはそのままに

       放っておいたが、おかげで首のうしろの筋肉はかなりカチコチになっていたし、

       顔やあごの筋肉もかなり硬くなっていると思う。

        わたしのからだのなかは、たぶん阪神大震災のときのように、

       道路に家や電信柱があちこちに倒れていて、トラックがぜんぜん通れないような

       状況になっているのかもしれない。

        道を通れるようにするには、からだをやわらかくしなければならないのである。




        わたしがこれまでに読んだボディワークの本である。


        ■ジョン・カバットジン『生命力がよみがえる瞑想健康法』(実務教育出版)

         同じ瞑想でも、西洋人の手にかかれば、ものすごくわかりやすい。
         痛みのコントロール法は、ほかにこんなのは見られないから、必読である。
         痛みを避けるのではなく、痛みを直視し、観察すること。

        ◆グラバア俊子『ボディー・ワークのすすめ』(創元社)

         この本を読んでボディーワークにたちまち興味をもった。

        ■ジョセフ・ヘラー&ウィリアム・ヘンキン『ボディワイズ』(春秋社)

         からだの叡智がくわしくのべられている。

        ◆フェルデンクライス『フェルデンクライス身体訓練法』(大和書房)

         自分のからだを「知る」レッスン書。

        ■竹内敏晴『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社現代新書)

         かなり微妙なからだとことばの世界。

        ◆番場一雄『ヨーガの思想』(NHKブックス)

         ヨーガの基本的な体位法と思想面がよくわかる。


     




     F・J・マクギーガン『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)


                                              1997/7/10.



         この本は意外に名著であった。

         緊張とリラックスについてのべた本であるが、

        驚くべきことは、ある部分の緊張を完全にとりされば、

        その存在の感覚を失ってしまうということである。

         たとえば手の緊張を完全にリラックスさせれば、

        手があるということすら、気づかなくなるのである。


         ラム・ダスがLSD体験で手や足がなくなったという経験や、

        『般若心経』でいっている手も足もないという状態は、

        この完全なリラックスによってひき起こされたのだろうか。

         この本ではそのような可能性さえ、示唆しているのである。


         もうひとつ驚くべきことは、われわれはものを黙って考えるときですら、

        筋肉の緊張を使っているということである。

         なにかの映像や心象を思い浮かべるときでさえ、

        われわれは目の筋肉を動かしたり、緊張させたりしている。

         夢を見ているときの眼球運動も、そのことによるのだろう。


         本を読むときでさえ、唇や口、発話筋を緊張させている。

         われわれは本を読むときにはなんの筋肉の緊張も行れていないと思っている。

         だが、あたかも子どもが声を出して本を読むように、

        口の筋肉を緊張させているのである。

         つまり心の動きというのは、筋肉の緊張であるといえるのである。


         このことを逆に言えば、緊張を完全にリラックスさせれば、

        われわれはいかなる思考も心象も思い浮かばなくなるということである。

         ものを考えるときにわれわれは、目や口の筋肉を緊張させている。

         たとえば、なにかを思い出そうとするとき、ふいに目が上を

        向いているときがあるだろう。

         緊張させて、はじめて心的過程がはじまるといっていい。


         だからわれわれはこの緊張をすべてとりのぞけば、

        いっさいの心の動きを消滅させることができるのではないだろうか。

         もっといえば、恐怖や不安、苦痛すら感じないことも可能なのである。



         考えたり、なにかを思い浮かべたりするときですら、

        目や口の緊張を使っているというのは、わたしには意外であった。

         そしてそれは逆に言えば、筋肉の緊張が、思考や心象をつくりだしている、

        ともいえるのである。

         われわれの思考や心象は、筋肉のはたらきそのもの、

        といっていいかもしれない。


         とくにこの本の中にあるリラクセーションの技法で、

        目をつぶりながら、指が左右に動くのを想像するプログラムで、

        想像するときにすら、目を動かしていることに気づいたときには驚いた。

         目を動かさないことには、想像上の指を動かすことができないのだ。

         われわれがなにかを思い浮かべるさい、眼筋を動かさないことに、

        それを思い浮かべることができないのである。

         バカみたいな話だが、ためしてみたらよくわかる。


         われわれは想像上のものでも、実物のものであるかのように、

        目を動かしている。

         はたして、われわれにとって、想像上と実物の区別なんかあるのだろうか。

         眼筋や発話筋の緊張が、心象や思考、視覚をつくりだしているのである。

         心とはたんなる、筋肉の緊張なのだろうか。

         そしてその緊張は、特定の記憶や思考と結びついているのかもしれない。


         この本に書かれているリラクセーションの方法は、一日一時間ほど、

        ひとつの箇所だけを、腕からはじまって、足、胴体、眼、口、とリラックスさせてゆく。

         ある部分を緊張させてから、その緊張信号を感じとって、

        一時間ほどかけて力を抜いてゆくようである。

         とくに眼と発話領域のリラックスは重要で、行動の発令は、

        ほとんどこの部位からおこなわれていると思われるからだ。


         大事なのは、リラックスさせようとするのではなく、

        ――そうすればよけいに力んでしまうことになる――

        力を抜いてゆくことのようである。

         もうひとつ、緊張信号をはっきりと感じとることである。


         このリラクセーションのプログラムは、一日一箇所のみを

        おこなうようになっており、ひじょうに時間がかかるのが残念である。

         素直な感想としては、めんどうくさすぎて、一日一回のプログラムを

        全部まとめてやりたくなる。

         また自分で実行してみて、リラックスの方法が、

        このようなものでよいのか、わかりづらいところがある。

         むりに力を抜いていっても、いいのだろうか。



         この本で得られた大きなことは、心のなかの過程と、

        眼や口の緊張が、密接につながっているということである。

         そしてこの微妙な緊張がなければ、心的過程をなくすこともできるのである。

         心とは、筋肉の緊張なのだろうか。


         われわれはおそらく、なにかの感情やいやな気分があると、

        筋肉を緊張させることによって、それから防衛しようとしている。

         子どもが泣くのをこらえるとき、あごの緊張でこらえているのがわかるし、

        人前のスピーチなどであがるのは、やはりからだを緊張させているからだろう。

         スポーツのときでも緊張していれば、いつもの力を出せない。

         われわれは誤った方法を採用しているといえるのである。


         だからこのリラクセーションの方法はとても大事であると思う。

         とくにストレスの多いこの社会では、しらずしらずのうちに緊張を増し、

        その硬くなって、容易に緊張をとりのぞけなくなった部分が、

        病気や症状を生み出すとも考えられるのである。


         からだの緊張信号を感じとることが必要なのではないだろうか。





        悩みとは、けっきょくのところ、「絵空事」にしか過ぎない。



        心に手綱を張るには、わきあがる思考や感情を無視さえすればいい。

        思考や意志でそれに抗おうとすれば、その感覚を鋭敏にしてしまう。





   スワミ・シバナンダ『ヨーガとこころの科学 マインド その神秘さとコントロール法
                  東宣出版 1980円


                                              1997/11/16.


         これはひじょうによい本だった。

         こころとは何か、どのように働き、どのように欺くのか、

        どうすればコントロールすることができるのかといったことが、

        ひじょうに論理的に語られている。


         ふつう、われわれはなぜ心をコントロールしなければならないのか、

        とんとわからない。

         心のままに、心の思ったり通りに生きている。

         それでべつにかまわないし、べつに支障はないと思っている。


         だが、心のままに生きているとかならず苦しみをもたらすことになる。

         心は求めても永遠に得られないものを、永遠に追いつづける。

         また心が送り出す悲しみや怒り、悩みに振り回されることになる。


         われわれは欲望と感覚器官の奴隷になっているのである。

         だからわれわれは心の奴隷から、脱け出さなければならないのである。


         スワミ・シバナンダによると、心は動物園に似ているという。

         それぞれの動物が思い思いの方向に走るからだというのである。


         われわれの心を観察していればよくわかるが、

        心はつぎからつぎへと脈絡のない話や思い付きを思い浮かべてくる。

         あることを思い浮かべていたと思ったら、

        つぎの瞬間にはもう違うことを考えている。

         心はあてどもなくさまよっており、

        一日中こんな気まぐれにつき合わされるのは、たまったものではない。

         われわれは欲望や感覚器官にひきずり回される奴隷になっているのである。


         だから、思考をコントロールする必要があるのだ。

         思考とは虚構であり、想像力である。

         無視すればいい。

         捨て去ればいい。

         心が送り出す思考につき従わなければ――思考に焦点を合せなかったら、

        思考は勝手に去ってゆく。


         からだの感覚に似ている。

         からだの感覚というのはふだんまったく意識せず、

        存在していることすら忘れているが、

        いったん痛みやかゆみなどがあれば、その感覚に集中しつづける。

         思考とか心というのは、感覚がずっと焦点を合された場所なのである。

         焦点を合さなければ、その感覚が鋭敏になったり、増大することはない。


         思考という想像力は、われわれを悲しみや恐怖、怒り、

        悩みの苦しみの中に置き去りにする。

         快不快や好き嫌いという幻想の産物のために、

        われわれは悲しみや幻滅を味わう。

         だからこのような感覚の快楽に従ってはならないとシバナンダはいうのである。


         感覚器官や事物のなかに幸福はないという。

         それは幻想である。

         自己の中にこそ、幸福はあるという。


         わたしはいま感覚器官のコントロールということに興味をもっているが、

        からだの感覚とはいったい何なのか、どうすればコントロールできるのか、

        といったことがいまいちわからない。

         これをつかみたいと思っている。


         このシバナンダの本はたまたま書店で見つけたのだが、

        心のコントロール法を真っ正面からとりあつかった書物として、

        ひじょうに優れている。

         すこしインドの神秘的な概念などが出てきて、ちょっと違和感があるが、

        心についての観察はとても明晰明快なものである。

         ぜひ一読の価値はあると思う。


         ちなみにスワミ・シバナンダという人は1887年にインドで生まれ、

        医師から修行の道に入り、1930年に悟り、1963年に没したという。

         この本は1935年に出版されたそうである。








         あなたの感情をかわいがる必要はない。

         感情を大切に、その感情を尊重しようとすれば、

        あなたは悲しみや怒り、憂うつなどの感情の「奴隷」になってしまう。

         悪感情にふり回されるつづけることになる。


         大きな犬にひきずり回される小さな女の子の犬の散歩のように、

        感情の気まぐれな行きたい方向にひきずり回されることになる。


         主人はあくまでも「わたし」なのであって、感情ではない。


         自分を傷つける感情、自分をいやな気分にさせる感情は、

        相手にしなかったらいい。

         ちっともその感情の進む方向につき従う必要なんてないのである。

         「主人」はわたしなのだから。


         放っておけば、その感情はおとなしくなり、どこかに行ってしまう。

         感情はコントロールする必要なんてない。

         ただ犬のひもを手放せばいいだけなのである。

         そうすれば、少女は犬にふり回されることはない。


          心の奴隷から、心を従わせる主にならなければならない。




                                               1998/1/3.




         はげましのお便りをお待ちしておりま〜す。

         なかなかこれ以上の進展が見込まれませ〜ん。

         つぎにどんな本を読んだらいいとか、このような本が優れているとか、

        アドバイスやメッセージを送ってくれれば、助かります。


           メールお待ちしておりまーす。


  考えるための哲学エッセー集


   「経済」、「仕事」、「会社」の価値観をひき下げろ


                                              1997/6.





       われわれの社会は、経済や仕事、会社などにものすごく価値をおいている。

       一流会社の会社員になることや、役職につくこと、金持ちになること、

      朝から晩まで勤勉に働くこと、仕事がばりばりとできること、

      こういったことにものすごく価値がおかれている。


       その反対に、失業することや、貧乏になること、しょっちゅう転職することや、

      まじめに働かないことに対する非難や怖れ、うしろめたさは、すごいものがある。



       戦後のわれわれは、仕事や経済だけに価値をおいてきて、

      がむしゃらに働いてきて、この国を経済大国にのしあげてきた。

       車やテレビ、ビデオや電化製品、ファッション、グルメ、レジャー、

      ありとあらゆるモノや消費、レジャーにあふれ返っている。


       だが現在、かつての人々の夢であった「消費天国」が実現されたのに、

      なんの喜びも楽しみももたらさないことを、われわれは知ってしまった。

       ありあまるモノやレジャーに囲まれても、せんぜん心はうきうきしないのである。

       それどころか、心のどこかでどんどんすきま風か吹きすさびつつある。


       企業社会は、学生や若者にとっては、「墓場」のように魅力のないものに映るし、

      テレビや雑誌などのマスメディアは、われわれを「踊らせる」ような吸引力をもはや、

      失いつつあると思われるし、学校は目的や意味を失ってしまった「容れ物」のみを

      守らせる監獄に化しているし、地域社会といったものは壊滅してしまった。


       われわれは気づくべきである――経済はもはや、幸福をもたらさないと。

       たしかに戦後のある時点までは、「富」の実現が幸福であったと思われる。

       あるていどの経済基盤がないと、ほかの楽しみまで追求することができない。


       だが、いつからか経済や金儲けだけが、人生の目的や全てのようになってしまった。


       経済や仕事というのは、ほんらい、われわれが豊かに生き、楽しく暮らすための、

      「手段」や「道具」でしかないのに、これが人間の「目的」や「全て」になってしまった。


       「本末転倒」である。

       経済は、われわれが生きるための「手段」でしかない。

       だが、この社会では、この経済だけが、人間を測るゆいいつの、

      「モノサシ」になってしまった。

       「大きな会社」に勤めているか、安定した経済生活を送っているか、

      品行方正な職業経歴をたもっているか、りっぱな肩書きをもっているか、

      ということだけが、われわれを測るゆいいつの基準なのである。


       われわれは経済の「道具」という観点からの評価しか、もたないのである。

       この国がどれだけ貧しく、窮屈な生き方しかできないか、わかるというものだろう。


       貧しい人間は、貧しい「評価基準」しかもたない。

       このような基準しかわれわれはもたないから、

      ひじょうに貧しい生き方しかできないのである。


       「モノ」や「カネ」だけでは人間の豊かさは測れない。

       さまざまな価値基準をもち、さまざまな楽しみや生き方を独自にもち、

      独自に追求することができる社会こそ、ほんとうに「豊か」ではないのだろうか。


       この国の心の貧しさは、モノやカネの量にあるのではない。

       経済のほかの評価基準――まなざしをもたないということなのである。

       人を測るモノサシが、経済という一本しかもたないことに、

      この国の貧しさが現れている。


       われわれが貧しいのは、自分の心のなかに、人生の楽しみや価値を、

      経済のほかに、測る基準をもたないからなのである。



       このような社会は、企業から選別されるというサラリーマンの条件によるものだ。

       評価したり、選別したりするまなざしというのは、企業しかもっていない。

       企業の選別力があまりにも強大になりすぎ、人間はおしなべて、

      その価値観だけで測られるようになってしまったのである。


       どこかにこれに代わるような評価基準の土台となるものをもたなければならない。


       われわれはこの経済の一本のモノサシの下で、悶え苦しんでいる。

       子供たちは、この価値観の下で、あえいでいるのではないだろうか。


       人間はこれだけの価値観では測れないとはわかっているのだが、

      ほかの価値観で満足したり、自足することは、なかなかむつかしい。

       そうして、経済の価値観の下になぎ倒されることになるのである。



       昔はもっといろいろな価値観でひとびとが評価されていたはずだ。

       「経済」の成功だけで、人間の価値が測られていたのではないと思う。

       われわれの親や祖父母の時代には、もっといろいろな人たちが、

      多様なすがたで、その良さを認められてきたのではなかったのだろうか。

       面倒見のいい人や、太っ腹な人、あるいは善人など、

      それぞれの独特のその人なりの価値なり良さなどを認められたのではないのか。

       経済の成功だけが、ゆいいつのモノサシではなかったのだ。

       いまではこのような価値がすっかりとなくなってしまった。

       


       いつからこのような価値観が、蔓延してしまったのだろうか。

       消費やレジャーの価値観も、一昔前なら、どちらかといえば、

      白い目で見られるものではなかったのだろうか。

       それがいまでは、大手をふって認められる価値観となっている。

       高度成長期以降の、それまでの貯蓄勤勉型の世代とまったく違った、

      豊かな時代に生まれ育った世代たちが、消費の主役になっているからだ。

       現在の価値観というのは、ずっと昔から永遠につづいてきたというわけではないのだ。


       そもそも経済なんて、「卑しい」ものとされた時代もあったのではないだろうか。

       宗教とのかかわりにおいて、ヨーロッパでは、一段と低い価値として、

      おとしめられてきた時代もあったのではないだろうか。

       日本でもよく働く人間は、自分の利益だけを追求する金の亡者として、

      非難されるような風潮の時代もあったのではないだろうか。


       勤勉に働くことや、企業で出世することが、偉いことなんて、

      ものすごく「卑しい」、「利己的」な価値観ではないだろうか。

       いつのまに、こんなえげつない価値観が、

      「まじめ」だと認められるようになったのだろうか。


       どこから他人や共同体のために奉仕するような精神を、

      軽蔑するような価値観を、みんなが認めるようになったのだろうか。

       異常としか言いようがない。

       こんな異常な価値観のなかでわれわれは生きてきて、

      すっかりそれが「まとも」でないという感覚を失ってしまったのである。

       さいきんマスコミをにぎわせている企業や政府の不祥事なんかは、

      そんなところにその深い根があるのではないだろうか。


       自分の金儲けや消費だけの価値観が、至上のものになってしまった。

       ほかの価値観で認められる人を評価しようだとか、賛美するような風潮を、

      すっかりと失ってしまった。

       自分自身の心の中にも、集団や社会の雰囲気のなかにおいても、

      それがまったく消え失せてしまったのである。


       おかげで、社会は自分の金儲けや保身だけにどんどんつき進み、

      全体の利益やほかの人の貢献といったものをすっかりと忘れてしまった。

       この利己的な価値観の裏にはやはり、だれも助けてくれない――

      めいめいが自己の利益だけにかまけている、といううら寒い認識があるのだろう。

       他人や社会を信頼できないから、自分の安心を捜して、

      ますます自己の金儲けや保身に、重きをおかざるをえないのである。



       このような社会はけっきょくのところ、カネやモノのスムースな流れを

      押しとどめてしまい、全体の循環を阻害してしまうのだろう。

       銀行や保険会社などの不良債権問題、国家財政破綻、長年の経済不況、

      というのはこういうところにもその原因の発端があったのかもしれない。


       バブル以降の経済不況というのはやはり、

      これまでの経済大国や消費社会の夢というものが、終ってしまったからだろう。

       もうこれまでの車やマイホーム、電化製品、あるいは会社のポスト、

      といったものだけでは、人生の目標にはならないのだ。

       もっと早くからこのような時代は終焉していたと思われるが、

      なんとか差別化やブランド化などで隠蔽されてきたが、

      最後には株や土地などに目標のないカネは集まってしまって、

      これまでの時代の終わりをはっきりと告げることになった。


       浅井隆やラビ・バトラなどの悲観的な人たちは、

      これから大恐慌がやってくるという。

       そんなものがほんとうにやってくるのかはわからないが、

      不良債権問題、国家財政破綻、大企業の時代の終焉、消費の飽和状態、

      といった問題から、これからの社会がことごとく下り坂に転げ落ちてゆくことは、

      まず間違いはないだろう。


       覚悟しておかなければならないだろう。

       これはいままでの価値観の「ツケ」だともいえるだろう。

       またこの価値観が終っていたのに、なんとか過去のやり方をつづけてきたことにも、

      その問題の根があるのだろう。

       もっと早くから新しい価値観、やり方を模索しておくべきだったのかもしれない。


       古い世代が旧来の成功体験にしがみつき、これまでの継続をつづけようとしたから、

      大きく転換しようとする社会のうねりを抑えつける結果になってしまったのかもしれない。

       この頭打ちのよどみが、社会や経済の活力を奪い去る原因ではないのだろうか。

       若い世代はともかくこれまでのやり方をつづけさえすれば、

      将来は安泰であると信じ込んできたから、活力にかけるし、

      自分からなにかをしようとする気概をほぼもたないし、無気力である。

       そのような新しい芽を根こそぎにするような社会をつくってしまったから、

      現在の停滞社会はつづいているのだろう。



       経済はとてもヤバイ状況に転がり落ちてゆくかもしれない。

       だが、これらにたいする不安や恐怖というのは、

      経済に価値をおいた考えから出ているものだ。

       われわれは経済や消費のみが、しあわせをもたらすわけではないことを、

      バブル期前後に学習したはずだ。


       ちょっとくらい貧しかったり、プライドが傷ついたりしたとしても、

      落胆することはない。

       そのような価値観は、富がしあわせをもたらすという幻想の上に成り立っているものだ。

       もしそうなら、なにも貧しさに引け目を感ずることはないのではないか。


       むしろ新しい価値観や目標をみつける良い機会だとして、

      経済や富の価値をひき下げる――もしくは見なおす時期だと捉えるべきではないだろうか。


       日本人はこれまでの価値観や生き方を見なおさなければならないのではないか。

       そのために、現在の大不況や、あるいは将来に口をあけている破滅的状況は、

      用意されているのではないだろうか。

       これまでの価値観やそのシステムでは、

      もうこの社会を継続してゆくことはできないということだ。

       これまでのシステムが現在の結果をもたらしているのである。


       子どもたちはこのことに敏感に気づいてきたはずだ。

       みずからを登校拒否やいじめ、校内暴力、中退などに追い込み、

      この社会のやりきれなさや閉塞感を訴えつづけてきたのだ。

       かれらはなぜ自分がこれほどまでに不快で、気分が悪いのか、

      明確な認識をもっていない。

       だから、いっけん不合理で、不可解な行動に出ざるを得ないのだ。


       われわれだって、現在の社会がなぜこんなに調子が悪いのか、

      現在の閉塞状況はなぜ起こっているのか、明確に捉え切れていない。

       現在の状況を、すっきりと言葉で認識することはできないのである。

       あるいは過去の成功体験や、幸福の図式でしか、

      世界を捉え切れていないのではないだろうか。


       冷戦が終ったからだとか、東アジアの工業化がめざましいからだとか、

      情報知識社会への移行が起こっているからだとか、いろいろ言われている。


       なによりも、全国を「ショッピング・センター」にするための、

      鉄道や道路、車の普及が、終ってしまったからだろう。

       これまでの目標――イギリスの産業革命前からはじまった、

      大衆消費社会の完成がなされてしまったからだ。

       あるいはもっと前――スペインやポルトガル、ヴェネツィア、

      もっと前のイスラムからはじまっていたかもしれない。

       人類の有史以降からかもしれない。


       ともかくこれまでの時代は終ってしまったのだ。

       明治以降の日本のヨーロッパ化は、いちおうの完成を見たのである。

       お手本のなくなった日本はこれから自分の足で立ってゆかなければならない。

       自分たちでものを考え、ものごとを決め、方向を定めなければならないのである。


       日本という国は、異様なまでに国民をひとつの価値観にまとめこんでしまう国である。

       これまでは経済の価値観だけにつき進んできたし、

      戦前は軍事の価値観だけにこりかたまり、破滅的状況を迎えた。

       現在の経済不況は、日本にとっての「第二の敗戦」を迎えたのである、

      ――つまり経済至上主義という「国家主義」においてだ。

       まだまだ破滅的状況はこれからが本番かもしれないが。


       これまでの時代はもう終ってしまったのだ、

      ということに多くの人が気づかなければならない。

       きのうの安定や保身にしがみついているようなら、

      社会の変化を滞らせ、ますます停滞の道に陥ることになってしまうだろう。


       経済や仕事、会社などのこれまでの至上価値を――

      戦後の日本が軍国主義をすっぱりと捨てたように――、

      捨て去らなければならないのかもしれない。

       さもないと軍国主義にひた走った愚かな戦前の歴史を、

      またもやくり返すことになってしまうかもしれない。


       もう消費やモノなどに多くの望みや、財をうみだす可能性を

      求めるべきではないのだ。

       また、まちがっても、がむしゃらな「勤勉主義」で

      この時代を乗り切ろうなどと、過去の成功体験をくり返してはならない。

       けっきょく、それは消費者から、余暇や自由な時間を奪いとることになり、

      需要はますます冷え込むことになる。

       雇用者を、勤勉な労働のなかに囲いこむべきではないのだ。


       知識や情報といったものに活路を見出すべきではないだろうか。

       このような社会では、長時間の勤勉な労働より、

      自由な余暇のなかで、多くの果実をうみだすことができるのではないだろうか。

       時間や土地の拘束からとき放つとき、

      より多くの創造性をうみだせるのではないだろうか。

       明らかにこれまでの価値観は、この原則を封じ込めることになるだろう。


       われわれは「創造」の時代を生きているのではないだろうか。

       新しくなにかを生み出さなければ、この経済は壊滅してしまう。

       産みの苦しさを味わわなければならないのかもしれない。


       わたしは学生のころから、この企業社会はなんてつまらなく、

      魅力がないのだろうと思ってきた。

       歴史家のトインビーは、魅力のない文明は滅ぶといっている。

       けっきょく、魅力を創造することのできなくなった支配者たちは、

      力で支配することになり、その文明は滅んでしまうのだという。

       魅力のない企業社会は、衰退してゆくことになるのだ。


       ソ連の崩壊や北朝鮮の飢餓問題などは、社会主義だからという理由ではなく、

      この消費社会の問題点を、先取りしているだけではないだろうか。


       現在の若者たちはどのようなことに魅力を感じるか。

       映画やテレビ、ロック、ゲーム、マンガ、コンピューターといったものだ。

       これはある意味では、現実はあまりにもつまらないので、

      空想の世界に逃げ込んでいるともいえるだろう。

       だが、この流れが人間の豊かな可能性を示唆しているのではないだろうか。

       われわれはこのようなジャンルの中に、未来を見出すべきだ。

       じじつ、われわれはあまり聞かされることはないのだが、

      日本のマンガやアニメは世界中で読まれたり、評価されている。

       ソフトや文化面でも、日本人はりっぱな仕事をなしとげている。


       つぎの時代は経済や勤勉に価値をおくべきではない。

       文化や芸術といったジャンルに、多くの価値を認めるべきなのだ。

       ただし伝統的なものや権威的なものにそれを求めてはならない。

       それなら、若者たちにとっても、魅力的な社会をつくれるだろう。

       水を得た魚のように、かれらは生き生きとなるかもしれない。


       このような創造的な社会では、これまでの工業社会むけの

      規律や規格といったものは、多くの害をなすことになる。

       朝から晩まで拘束され、ほかの従業員たちとの画一的なチームワークを強制され、

      単一的な学歴・人生設計を余儀なくさせられるような仕組みは、

      創造の意欲をつみとることになる。


       若者たちを野に放ち、好きなように、自分の思い通りに、

      生きさせるべきではないだろうか。

       そうでもしないとこの社会は活力を失い、ますます停滞してゆくことになるだろう。


       もうこれまでの時代は終ってしまったのである。

       いま必要なのは、新しいことや、なにか創造的なことを、

      生み出す力ではないだろうか。

       ちまちまと親や上の世代のいいなりになっているだけの若者たちには、

      創造的なものも魅力あるものも生み出す力はないだろう。


       これまでの価値基準で、若者たちを縛るつけるべきではないのである。

       もうキャッチアップの時代は終ったのであり、

      新しく魅力を創造する力が重要になったのである。

       そのような土壌を生み出すためには、多くの見えない「禁止」というものを

      とり払わなければならない。

       学歴や単一コースの人生設計、年功序列、そして勤勉の価値観、などである。

       会社に入ったら、「あれもしてはならない」「これもしてはならない」といった

      禁止だけらけである。

       上の世代の既得権で守られた「聖域」ばかりにぶつかってしまう。

       従来の価値観で組み立てられた多くの鉄条網は、

      社会をますますつまらなく、魅力のないものにするばかりなのである。

        それは時代の流れを阻害することでもある。


        いまだに日本が魅力的に映るのは、物質的豊かさを味わったことのない、

       東南アジアや中近東の人たちだけだろう。

        いまでは、赤ん坊でさえ、この日本に生まれ出るのをいやがっているのだ。






        このエッセーはこれで終わりである。

        いささかわたし個人の願望で語っていたり、

       独断と偏見でものごとを決めつけているかもしれないが、

       これまでの価値観がいつまでもつづくわけはないと、わたしは考えている。

        願わくは、早くこの価値観が終ってしまえばいいと思っている。

        時代の流れは、どんどん進んでいっているのである。


        最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

        意見や感想などを送っていただければ、うれしいです。





 考えるための哲学エッセー集


      われわれはなんのために働くのか


                                                1997/6.




      われわれはなんのために働くのか、といった疑問をもったことがあるだろうか。

      あまりにもあたり前すぎて、そんなことを一度も考えたことがない人もいるかもしれない。


      だが働くことの意味が、どんどん薄れていっているように思える。


      時代は変化している。

      戦後の間もないころは、働かないと食べることもできなかっただろう。

      高度成長期には、マイカーやマイホームなど欲しいものがたくさんあって、

     人々はしゃか力になって働いたのだろう。


      だが、そのような原動力は、豊かな時代になるにつれて、

     どんどん薄れつつある。

      豊かになれば、べつにがつがつと働く必要もないし、

     商品やサービスにそんなに多くを求めなくなる。


      これはとうぜんのことであって、怠け者と非難するのはあたらない。

      たんに必要がないだけなのである。

      必要もないもののために、がむしゃらに働く必要などない。


      だが、一昔前のひとたちは、条件がこのように変わっているのに、

     働くことや勤勉に価値をおきつづけている。

      経済的条件と、社会的な認識において、ギャップが生じつつある。

      時代が変わっているのに、そのことに気づかず、

     過去のやり方や常識が正義だと思いこみ、それを若い世代に押しつけつづけている。


      たしかドラッカーがいっていたと思うが、バブルが起こったのは、

     消費の主役が勤勉貯蓄型の世代から、戦後生まれのベビー・ブーマーの世代に

     変わったことを、政策者たちが気づかなかったからだということである。


      なぜこんなにギャップが生じるのだろうか。

      社会的認識が、いつからか時間がとまっているとしか言いようがない。

      過去の認識のまま、現在を捉えているのである。

      暗記型の学校教育が、このようなところにも顔を出しているのかもしれない。


      時代の変化を早く捉えて、それに対応した経済の仕組みや労働条件、

     社会的観念といったものを形成しなければならない。

      現在は、過去の終った時代にしがみついているだけだ。

      しかも過去のやり方や常識を、正義や道徳にしてしまっている。

      そんなものはただ、過去の経済の条件にしか過ぎないのだが。


      日本はもうお手本も、師匠もない時代に突入していることに気づかなければならない。

      過去の反復だけでは、もう先へは進めないのである。



      われわれは近代史上はじめて、お手本のない時代に突入してしまった。

      ヨーロッパという、先をゆくお手本を失ってしまったのである。


      日本はヨーロッパの陰に隠れて、顧みることもなかった問題に、

     はじめて直面しなければならない。

      なんのための「経済」なのか。

      なんのための「豊かさ」なのかという問いだ。


      お手本があれば、そのような問いを発する必要はなかった。

      ただ豊かなもの、すばらしいモノなど、西洋が見せびらかすものを、

     真似さえすればよかったからである。


      そのために現代の日本は、かたちやハードだけをとりそろえるという、

     経済偏重の社会をつくってしまった。

      そのほかの多くの切り捨てられてきた部分――社会や文化といったものから、

     いくつもの問題が生じている。

       あるいは、個人としての幸福や、なんのための生なのか、といった問題すら、

      なおざりにされてきた。

       われわれは豊かなモノにとり囲まれて、とてつもない空虚感に置き去りにされている。

       経済偏重の社会をつくってしまったツケは、

      どんどんわれわれ個人の心を蝕みつつある。


       近代以降はじめて、われわれは哲学的な問いに、

      直面しなければならないのかもしれない。

       なんのための富なのか、なんのための人生なのか、人生の目標とはなんなのか、

      社会やそのありかたはどのようにあるべきなのか、といった問いだ。


       これからはただ経済面だけを充実させておれば、

      問題はないといった時代は終ってしまったのである。

       その先の、社会や人生の幸福や目標はなんなのか、といったステップに、

      踏み入れてしまったのである。


       かつての日本も、中国文化の輸入が完成したとき、

      現代の日本と同じような問いにぶつかったのかもしれない。

       このときにはどのよう答えをみいだしたのだろうか。






       われわれはなんのために働くのか――個人の目に転じてみよう。

       まずは生活の糧を得るという、とうぜんの答えがあるだろう。

       だが、われわれの労働は、生活の糧を得るためだけにあるのではない。

       マイ・カーやファッション、あるいは趣味やレジャーといったものに、

      われわれは収入の大半をつぎこむ。

       生存に必要なものだけのために、労働しているわけではない。

       ほとんどがこれら娯楽や趣味のために費やされる。


       これはいったいなんなのだろうか。

       つまり趣味や娯楽を得るために、われわれの人生の大半の時間は費やされるのだ。

       生活するためだけなら、一日何時間も長時間労働に拘束される必要はない。


       われわれは趣味や娯楽のために、労働するのである。

       もちろん働かなければ、メシは食えない。

       家賃も食費も払えない。

       だが、それの占める割合はどんどん減りつつある。


       「遊ぶ」ために「働く」という変な論理が成り立っている。

       遊びたいのなら、わざわざ働く必要などないではないか。


       たしかに企業や他人がつくった商品やサービスは魅力的である。

       だが、遊ぶだけなら、そのような力を借りる必要があるのだろうか。

       労働の目的が、どうも変なものに向かっている。


       かつては、世間的・平均的な水準を保つために、労働がなされてきた。

       つまり世間的に恥ずかしくない、標準的な暮らしをするためである。


       われわれは「世間体」といったもののために、人生の大半を捧げつくしてきたのである。

       それは一度しかない人生にとって、生きるに値する価値をもつのだろうか。


       子どものときには、母親からこのような価値観を頭から叩きつけられてきた。

       それはひじょうにしみったれた、哀れな価値観のように思えた。

       他人の見た目だけを着飾る価値観というのは、空虚である。

       表をとりつくろうことだけが、人生の目的なのだろうか。


       マイホームやマイカー、ファッション、ブランド品、学歴や勤め先、

      といったわれわれが人生の大半の情熱や収入をつぎこんできた対象は、

      すべてこれらのためになされてきたのではないだろうか。

       他人の見た目を着飾るために、われわれは人生の大半を費やすのである。


       なぜこのようになったのか。

       なぜ外側の体裁が、こんなに大事になったのだろうか。


       ヨーロッパの文化を輸入するさい、とりあえず外側を真似すれば、

      それだけで賛美されたというのもあるだろう。


       金持ちというのは、いつだって資本主義の歩く「広告塔」だった。

       われわれはこの広告塔に憧れて、マイホームやマイカーといったもので、

      外側を着飾ってきた。


       もっと単純化していえば、地位や優越を表示するために外側は着飾られる。

       未開民族が、飾りや道具などによって、その地位を表わしたように、

      われわれもマイホームやマイカーによって、地位や立場を表示しようとするのである。


       人間にとっては、集団の中での地位・順位といったものが、

      ひじょうに大事なもののようである。


       われわれが切り開いてきた大衆消費社会というのは、

      このような地位表示のために、必要となってきたのかもしれない。

       イギリスの産業革命も、ファッションによる地位・階層表示のために、

      起こったともいえるのである。


       集団での地位や順位を得ることが、人生の目的になってしまったのである。

       とうぜん外側を着飾ることが、ほかの人生のなにものよりも重要になる。



       人生のほんとうの目的や目標といったものはなんなのだろうか。

       すくなくとも、サル山の順位争いだけが人生の目的ではないのはたしかだ。

       サルの地位表示は、毛づくろいやマウンティング(交尾の格好)をすることによって、

      たしかめられる。


       人間はまわりにたくさんのモノを所有することによって、表される。

       モノの所有によって、その地位が表されるのである。


       だからわれわれはたくさんのモノを自分のまわりにかき集めてきた。

       集積したモノの量や質によって、われわれの地位は測られる。

       ヨーロッパ近代文明というのは、その表示のための生産や流通が、

      最大限に活用された仕組みなのだろう。


       われわれはサルではないのだから、なんのための地位表示なのか、

      といった内省をみずからに向けることができる。

       自分がなぜこのようなことをおこなっているのかという反省をすることができる。


       人生にとって、あるいはわれわれの生にとって、

      地位・優越表示がどれだけ重要であるというのだろうか。


       現代ではとてつもなく重要になり、われわれの人生の大半は、

      この競争に費やされる。

       近いところでは近所の家のあいだでの優越競争、学歴競争、

      会社内での順位競争、果ては企業間競争、そしてこの経済システムさえ、

      この地位・優越表示が根本にあるのではないだろうか。


       われわれのこの経済システムをつくっているのは、

      わが内なる地位・優越表示の欲望ではないだろうか。



       われわれはこの愚かな心の葛藤をやめるべきではないだろうか。

       果たして、人生の目標や意味といったものは、

      たったこれっぽっちのために費やされるべきなのだろうか。


       現在の経済システムが、われわれの人生の大半の時間を拘束するようになったのは、

      この制御できない心のためではないだろうか。


       われわれは怖れているのである――人から劣等に見られたり、蔑視されたり、

      落ちこぼれに見られたり、脱落者に見られることを――。

       けっきょくそれらの怖れや悲しみのために、われわれは人生のほとんどを費やして、

      優越表示に追い立てられつづけるのである。


        われわれは振り回されてきた心の恐怖といったものを、

       コントロールできるようにならなければならない。

        恐怖を解消するために、外側のモノや地位表示に頼るのではなく、

       その怖れる心自体に手綱を張らなければならないのではないだろうか。


        われわれの怖れというのは、外側に頼るのではなく、

       それ自体を制御できるようにならなければならないのである。


        自分の心の仕組みやメカニズムを客観的に見られるようになり、

       それを自動車の運転のように、操られるようになるべきではないだろうか。

        われわれは自分の心や身体を、ハンドルのない自動車のようにしか、

       理解できなかったから、それに振り回されてきたのではないだろうか。



        価値観も一元的なものではなく、多くをもつことだ。

        あるいは他人の価値観にひれ伏さずに、

       自分独自の価値観をもつことが必要かもしれない。

        つまり自分の価値観をもてば、たとえある価値観のランクの最下位に

       位置づけられようが、気にすることはないだろう。

        わたしは自分の価値観において、充足しているからだ。



        自分はなんのために生きているのだろうか、といった疑問に

       真正面からとりくまなければならないのかもしれない。

        すくなくとも、地位をもとめるためだけに生まれたのではないだろう。


        あるいは現在、マイカーや電化製品といった地位表示が、

       一段落ついたために、ちょっとした空白期を迎えているだけかもしれない。

        そのあとすぐにインターネットなどによる知識や情報による、

       地位表示の競争がはじまるだけかもしれない。


         われわれは人生になにを求めるべきなのだろうか。


         これまでどおり、地位や優越に人生の目的を見出すほうがよいのだろうか。

         そうすれば、おそらくこの競争経済はどんどん激しくなる一方だろう。

         「敗者」や「貧困者」はとうぜん多く生み出されるだろう。

         なぜなら、優越や地位を表すためには、とうぜん「最下位」が必要だからだ。


         わたしやあなたが地位や優越を表すためには、

        まわりのだれかの「劣った」すがたを、浮きあがらさなければならない。

         つまり、わたしの怖れる心を慰めるためには、

        まわりのだれかをつき落とし、貶めなければならないのである。


         わたしの怖れる心が、この止まることのない競争経済を

        生み出しているのかもしれない。

          ほかのだれもかれもが、このような恐怖を抱えもち、

         この競争から逃れようとしているのなら、競争は激化するだろう。


         地位・優越表示は、この経済システムを生み出してきた。

         そしてわれわれの人生の大半の時間は、

        労働のために奪われるという帰結を示してしまった。


         これでは、いったいなんのための人生かわからない。


         われわれが楽しく、こころよく暮らすための経済や企業というシステムが、

        われわれから人生や大半の時間を奪いとってしまった。

         いったいだれのための経済や企業なのか、わからなくなる。


         すくなくとも、個人の幸せや豊かさのためにあるのではない。

         われわれを監獄や収容所のように捕らえる機関が、

        われわれに幸福をもたらすわけなどない。

         人間や社会、家族のためにあるのでもないだろう。

         いったいだれのためにあるのだろうか。


         われわれはこの巨大な経済システムから、

        どのようにしたら、人間らしさのある社会や生き方を、

        とりもどせるのだろうか。


         機械的な経済循環に振り回されて、

        われわれはなぜこのような生活を強いられているのか、

        その原因や根源を知ることができない。


         このような手のつけられなくなったシステムを、

        人間の手のうちに戻すことはできないのだろうか。

         システムに振り回されて、人間らしさがこの社会から

        どんどん失われつつある。

         なんとかこの制御力を手に入れて、人生の意味や価値を、

        人間の手の内にとり戻すべきではないだろうか。


         われわれはなんのために生きているのかわからなくなる。

         なんのために働いているのかすらわからない。

         ただ目的なき経済循環に振り回されているだけではないだろうか。



                             (終わりです)




         最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

         この労働や経済システムに関する問題は、わたしにはわからないことだらけだし、

        なんとか解決したい問題が山積みになっていると思っています。

         これからもこのテーマについてのエッセーをつづけたいと考えています。



  考えるための哲学エッセー集


      もし学校教育をなくしたとするのなら

                                                  1997/7.




       学校教育というのは、時代の変化に対応しているのだろうか。

       社会環境や経済状況がどんどん変化しているのに、

      昔の制度のまま、存続しているのではないだろうか。


       そもそも学校教育とはなんのために必要となったのだろうか。

       トフラーは「隠されたカリキュラム」があったといっている。

       時間を守ること、教師に従うこと、単純なくり返しに我慢できるようになること――

      この三つが学校教育の本当の目的だったのである。

       これは工場労働に必要な規律である。


       もしこれが本当とするのなら、教育の表の目的――知識とはいったい、

      なんのために教えられたのだろうか。

       たしかに学校で教えられた知識は、将来なんの役に立つのか、

      てんでわからなかった。

       もし将来の仕事にぜんぜん役に立たないとするのなら、

      まったくむだではないのか。

       数学や理科、社会、国語といったものが、将来の仕事になにほどの貢献を

      なすというのだろうか。

       仕事に直接関係のある知識ならともかく、たいがいの知識はむだである。

       社会勉強なら、テレビのほうがよほど多く教える。


       学校教育とはなんのために存在し、存続しつづけてきたのだろうか。

       おそらくこの制度は時代に対応していない。

       あるいは、適応しすぎたのかもしれない。

       そのために社会の競争をそのまま反映することになり、

      針の先のような競争が、教室にもちこまれたのかもしれない。


       これまで競争を緩和させたり、ゆとりの教育などといって、

      いろいろ努力をしてきたのだろうが、どうも功を奏しなかったようである。

       いじめや自殺などそうとうひどくなっているようである。

       わたしの中学のころは、校内暴力まっ盛りのころで、教師とケンカしたりして、

      そうとうひどかったが、いまももっとひどくなっているのかもしれない。

       教師を軽蔑するような雰囲気はいまもつづいていると思うが、

      内申書などでむりやり服従させるような仕組みになってしまったのかもしれない。

       おかげで内に攻撃性が向かうような陰湿なものになってしまった。


       こんなに問題ばかり起き、学生にとって自殺するほどのそうとうの環境に

      なっているのなら、いっそ学校教育なんかやめてみたらどうだろうか。


       学校教育なんか、いまも必要なのだろうか。

       時代の要請として、求められるものなんだろうか。

       なんだか必要のない過去の遺物を必死に守っているだけにすぎない

      もののように思えてくる。


       そもそも学校教育とはなんのために求められ、

      いまはどのような役割を果たしているのだろうか。


       全部とっぱらうのはともかく、せめて官僚統括の一括システムだけは

      やめてみたらどうだろうか。

       それぞれ県や市が独自の教育をおこなったほうが、よいのではないか。

       中央管制のシステムは、社会主義同様、多様性の時代に対応するものではないし、

      個性をのばすものではまったくない。

       企業も大量生産の時代が終わり、個別的で独創的な商品が、

      求められていることに気づいているはずだ。

       そのような時代に、中央の一括コントロールのみで時代に対応した人材を

      生み出すことができるのだろうか。

       恐ろしいくらい時代錯誤だ。


       これからはライン作業やマクドナルドに求められ人材ばかりが

      必要になる時代では、まったくないのだ。


       官僚は自分の仕事や組織がなくなったり、権限をうしなったりしたら、

      たまらないだろうから、この制度に意地でもしがみつづけるだろう。

       でもそのような意志が、この国の未来を破滅させるということに、

      気づかなければならないのではないだろうか。

       国のために仕事をしている人たちが、国を破滅に導くとは、皮肉なことだ。


       国の予算制度もよくない。

       仕事やその内容を増やさないことには、予算を増やせない。

       そのために公務員全てがカネを多く使うことに価値がおかれる。

       これでは、国家財政が破綻してとうぜんだ。


       時代や要請にそぐわなくなった組織や制度は、その構成員が

      なんのためらいもなく、それを縮小させたり、消滅させる制度が必要だ。

       これからの右肩下がりの時代には、カネを多く使ったり、仕事を増やしたりしたら、

      予算が削減されるような仕組みが必要になるのではないだろうか。

       でも役人はあいかわらず拡大志向の意識のなかで、

      いまだに生きているようである。

       堺屋太一が口をすっぱくして言っているのだが、

      このような役人の拡大志向が、戦前の日本を戦争に導いたのである。



       学校教育はどんな努力をしても、子どもとの相性が悪い。

       登校拒否や自殺者を毎年増加させている学校制度が、

      はたして子どもたちのためになっているだろうか。


       学校教育は現在でも必要とされているのだろうか。

       わたしが中学のころの80年代はじめでも、あまり学校に行く必要を

      感じられなかった。

       毎日、太陽が昇るから学校に行くみたいなことはナンセンスだと気づいて、

      わたしは学校を適当にサボるようになった。

       いまは出席日数なんかがうるさいのかもしれないが、

      そのころはテストの点数が重要であったから、それだけに力を入れさえすればいい。

       わたしは教師の話を聞くより、参考書で自習したほうが理解しやすかったから、

      なおさら学校や教師の役割が必要ではなかった。 

       あまり勉強する気もなかったし、成績も悪かったが。


       学校教育なんかいっそ、なくしてしまったほうがいいのかもしれない。

       あまりにも画一的なシステムは、時代に適さない。


       教育はだれがするのかということになるが、

      テレビでも、インターネットでも、あるいは参考書で自習でもしたらいい。

       そもそも学校という容れ物がほんとうに必要なのか、

      教育は全国一律であるべきなのだろうか。


       あちこちに乱立する塾が、個別の教育を担ってもいいではないか。

       塾が教育を担うようになれば、小人数で、しかも独自の地域に根ざした、

      特色ある教育を行うことができるのではないだろうか。

       地域にたくさんある塾が、個性や多様性をほんとうに生み出す可能性を

      秘めているのではないだろうか。

       地域にあるピアノ教室のような形のものが、ほんらいの教育で

      あるべきではないだろうか。


       学校というのは、このような小規模な個別的な授業のほうがよいのではないか。

       中央から一括して、同じような学校や制度をつくる必要などない。

       日本には中小企業のような小さな職場がほとんどなのだから、将来のためにも、

      学校もそのような形態に対応したほうがよいのではないだろうか。


       そもそもこれまでの教育のありかたをすべてチャラにしてしまって、

      もう一度、一からその必要性や目的などをつくりなおすべきではないだろうか。

       学校の教科はこれまでなぜ子どもたちに教えられる必要があったのか、

      人生にとってその教科がなんの役に立つのか、そういった根本的なことを

      考えなおすべきではないだろうか。


       知識というのは、上から強制的に教えるべきものなのだろうか。

       知識というのは、自分がその必要性を感じたり、好奇心をもったりするときに、

      いちばん貪欲に旺盛に求められるものだ。

       いまの学校教育はだから、必要のないときに必要のないものを押しつけすぎている。

       それは過保護なママが、からだにいいからと、腹も減っていないのに、

      むりやりテーブルの上に並べた食べ物をすべて平らげさせようとするようなものだ。

       求められない知識をむりやり圧しつけても、実感やリアリティーがまったく

      感じられないし、ゆえに身につかない。


       知識というのは、必要なときにいちばん求められるものだ。


       必要もないのにむりやり圧しつけて、しかもそれを企業が人材を選択するさいの

      評価の基準にしていたというのは、いったいどういうことなのだろうか。

       これでは知識のありかたがものすごくいびつに歪んでしまってもしかたがない。

       知識そのものを追求することに価値がおかれず、その習得に価値がおかれるのなら、

      知識はただ評価されるための道具になるのは当然だ。


       現在の受験システムとよく似た中国の科挙制度は、

      それまでの先進国であった中国を停滞させてしまったとドラッカーがいっている。

       過去のできあがってしまった知識を習得するだけの技術は、

      新しいものや独創性を創造する風土をぶち壊してしまう。

       
       現在の暗記方式の受験では、過去の図式でものごとを捉えてしまうクセを

      つけてしまい、新しい図式を創造しようとしなくなってしまう。

       時代というのはたえず流れつづけており、過去の状況から生み出された

      現実理解の方法が、いつまでも最善であるわけがない。

       それなのにいまの制度は過去の世界観を遵守させる方向に進んでしまう。

       なるほど、これなら中国経済が停滞するのは当然だ。


       われわれは学校で習った世界観をそのまま事実だと思い込んでしまう。

       現在の学校教育というのは、過去の世界観が絶対だと思い込む人たちを

      大量につくりだすだけになってしまっている。

       過去の旧弊な知識のみで世界を理解していたら、とうぜん時代の変化の意味を

      理解できないだろうし、乗り切ることもできないだろう。


       知識や世界観というのは、過去や既知の知識を打ち壊すことによって、

      新しい技術や発見を生み出してきた。

       そしてそのような創造力がヨーロッパ近代の発展を生み出したのであり、

      先進国の経済発展の原動力となってきたものなのだ。

       つまり過去を打ち壊したり、過去の知識を捨て去ることにより、

      現在の経済発展や新商品は生み出されるのである。

       だけどこの国では、過去の知識を守ることに力がおかれている。

       とうぜんなにも生み出さないばかりか、後退の道を歩んでしまうだろう。


       学校で学ばれることは、問題や疑問に出会ったら、

      それをみずからの創造力で、理解したり、解決したりする力を

      生み出すことではないだろうか。

       みずから問題を理解し、その知識や解決策を創造することが、

      われわれに求められているのではないだろうか。

       学校の役割は将来に起きるだろう、そのような問題を解決する力を

      みずからの手に養うことではないだろうか。


       過去の知識はそのための「道具」でしかない。

       権威や正統性を崇め奉るのではなく、現在の問題解決に適していないと

      わかるとあっさりと捨て去るべきだ。

       過去の偉人や発見者の知識は、われわれが問題を理解する上での

      道具なのであって、これにひれ伏すためにあるのではない。

       過去の時代に死んだ人が、現在の激変した環境にもあてはまる

      知識を生み出せるわけなどない。


       現在の学校教育というのは、過去を守らせることにしか力をおいていない。

       現在の大競争時代では、このような教育は将来の衰退しかもたらさないだろう。

       いっそ、学校なんかなくしてしまったほうがいい。

       もう大量生産や工業社会に適した人間を、大量に生み出す時代ではないのだ。

       だけど現在の学校教育はなかなか変わらない。

       こんなところにも、暗記知識の弊害が出ているのかもしれない。


       中央から一括して教育方針を決定してしまうシステムもよくない。

       平等で、画一的な人材をつくりだすことに長けすぎてしまって、

      けっきょく、それは選別の競争を激化してしまった。

       この全国どこへ行っても同じという画一的なシステムを解体してしまったら、

      たった一本のモノサシで競争することは少なくなるだろう。

       平等であろうとすることは、一方では激烈な競争を生み出すのである。

       あまりにも評価しやすいモノサシを生み出すからである。


       大学も廃止すれば、企業が大学のランクという、盲目のようなモノサシだけで

      評価できなくなって、いろいろな評価方法を工夫するかもしれない。

       形や容れ物のみで評価する、鑑識眼のない時代がつづきすぎたのだ。

       学生だって、針の先のような競争をまぬがれるかもしれない。


       また現在のようなすべての教科を学ぶことが必要なのだろうか。

       人間の興味や関心というのはひじょうに偏ったものであり、

      すべてのジャンルに興味をもてるとはかぎらない。

       興味のない知識をむりやり押しつけても頭に残るわけがないし、

      興味のある分野を伸ばしてやるほうが、好奇心は強くなり、

      それは自然に興味や好奇心の対象を広げることにもなる。


       これからの時代は趣味や興味が将来の生計の糧になる可能性は

      かなり高く、全部の科目に精通している必要はない。

       これまでのような工場労働では、つまらないものを習得することに

      努力を費やす必要があったのだろうが、創造化社会とよばれるこれからは、

      みずからおもしろいもの、わくわくするものを見つけ出してゆかなければならない。

       知識は与えられるものではなく、みずから探し出し、

      みずから見つけてゆかなければならないのだ。

       そのときにこそ、学ぶ楽しさがあるというものだ。


       これから職業社会にもとめられる能力とは、

      自分の考えを書面や言葉で表現する能力、他人と協調する能力、

      自分の職歴や経歴を方向づける能力が必要になる。(ドラッカー『新しい現実』)


       こんにちの学校はあまりにも企業社会の現実をみていないし、

      その準備をさせるような訓練からまったくかけ離れてしまっている。

       学生たちがなんの興味ももたないだけでなく、

      教師自身が守ろうとする権威も、この旧弊な知識からはぜったいに得られない。

       そもそもこの企業社会の荒波にもまれて生きなければならない、

      学生たちの未来になんの貢献も配慮もしてやれないからだ。


       学校というのは、知識や教師の「百貨店」や「スーパー・マーケット」である。

       どこにどんな知識があり、だれが教えられるのか、わからないことを、

      一ヶ所にまとめあげたのが、学校である。

        いろいろな知識を知りたい人には、さぞかし便利なシステムだっただろう。

       教師が全国ばらばらに散らばっていたら、いちいちそこに教えを乞いに行くことは

      不可能だから、教師や学生が一ヶ所に集まるシステムができあがった。


        このシステムができあがれば、今度はシステムにがんじがらめにされるのが、

      人間社会の悲しいありかたである。

       システムが権威や権力をもつようになり、そもそもほんらいの目的であった

      知識の獲得が二の次になり、権威の獲得が大きな目的になる。

       現在の学校制度はそのための、たんなる「スタンプ押し」になってしまっている。

       だれも知識なんか求めない。

       知識の習得という「スタンプ」のみを欲しがる。


       このようにシステムが形骸化したり、形式化してしまったら、

      もうそれをぶち壊すしか方法はないのかもしれない。

       学校のほんらいの目的に帰るには、そのような方法しかないのだろうか。


       これまでの学校という存在がなくなれば、さぞかしすっきりするだろう。

       自由な時間と空間がそこに広かっているのかもしれない。

       自殺者と登校拒否、いじめ、殺人者、教師自身の精神疾患を出すような学校は、

      このままのかたちで存続させようとするとますます犠牲者を生み出すだけだ。




                     (終わり)




     書物の現実、テレビの現実、マンガの現実

                                              1997/7/10.





      わたしは昭和42年生まれだが、この世代は、

     テレビ番組やアニメ、マンガによる影響がことのほか大きい。

      子どものときにはこのような「現実」に囲まれて、成長してきた。

      「仮面ライダー」や「ウルトラマン」やコミック・マンガなどである。

      このようなジャンルは、上の世代からは軽蔑されたり、バカにされてきたりしたが、

     われわれ子どもにとっては、ものすごく重要な世界だった。

      われわれはこの空想の世界を吸収しながら、大人になった。


      われわれの世代――つまりテレビ、マンガ世代――が社会に出るようになって、

     犯罪の質が大きく変わってきたように思われる。

      オウム真理教事件や宮崎勤事件、さいきんの神戸須磨小学生殺人事件などである。

      事件のなかに色濃くマンガとかオカルトとかの要素が認められる。

      わたしにはなぜ空想を現実のなかに混入させようとしたのかよくわからないし、

     なにか「ちぐはぐ」な印象を受けてしまう。

      虚構の世界を、現実の世界のなかに投げ入れてしまう――

     あるいは対抗してしまおうとしているからだろうか。


      これまでの現実の社会に、サブ・カルチャーとして成長してきた、

     虚構の世界が、抗おうかとしているかのようである。

      そのもくろみはいずれも失敗し、なにかがひじょうにズレているといった感じがする。

      空想や虚構によって力を得ようとしている者が、みごとに現実の世界に

     肩透かしを食らったという感じだ。


      だが、このマンガ世代というのは、着実につぎの世代にもひきつがれているし、

     より一層、大きなマーケットにまでなっている。

      わたしが古本屋を見つけたと思ったら、コミック・マンガ専門の店であり、

     子どもたちが、かじりつくようにマンガに読みふけっている姿をよく見かける。

      確実に子どもたちはマンガの世界に浸っている。


      わたしも子どものころはマンガに熱中したほうであり、

     非難する気は毛頭ないし、いまはそういう時代でもないと思うし、

     マンガはこの世界を理解するという意味でも重要な役割を果たしていると思う。


      ただこういうマンガによる世界の理解の仕方と、

     ほかの書物や活字などによる世界の理解の仕方には、

     かなり違いがあると思われるのだ。

      なにが明確に違うのかはっきりとは言えないが、

     物事の捉え方は違っていると思う。


      たとえば現実の世界でなにか物事が起こったら、

     マンガの映像が一瞬に思い浮かぶ人と、新聞や小説の活字を思い浮かべる人とでは、

     物事の捉え方が違ってくるだろう。

      物事を、新聞や活字などで解釈する人と、マンガで解釈する人では、

     かなりの断絶があるのではないだろうか。

      物事の捉え方の土台がまったく違う人たちでは、

     現実はなかなか噛み合わない。


      これまでのメディアで育ってきた人たちと、マンガのメディアで育ってきた人たちの、

     新旧交代のようなものが静かに進行しているのではないだろうか。

      マンガというのは虚構だからとバカにするわけにはゆかない。


      なぜなら近代の議会制民主主義というのも、

     書物のなかの「虚構」から、生み出されたものではないだろうか。

      社会主義思想も、マルクスに空想だと一蹴された思想の群れによって、

     生み出されてきたものではなかったのか。


      ヨーロッパの近代社会というのは、書物や新聞というメディアによって、

     生み出された世界ではないのだろうか。

      はじめに虚構であったものが、現実のものとして生成されていったのである。


      われわれは現在の社会的組織や機関ができあがったあとに生まれてきたから、

     それらがあたかも大昔から存在しつづけ、あたり前のようにこれからも

     存続しつづけてゆくと思っているから、なかなか理解しづらいと思うが、

     それらはもともとは人々の頭の中にあるだけであり――それもはじめは

     たった一人の独創的な人間の頭の中にしかなかったということに気づかない。


      哲学やジャーナリズムはマンガのような虚構の物語ではない。

      だが宗教的世界においては、確実に虚構の物語が、

     社会の現実として迎え入れられている。

      われわれ無宗教の人間たちから見れば、どうしても信じられない絵空事に見える

     世界観も、かれらにとっては立派なリアリティーあるものとして感じられている。

      それがかれらにとっての「現実」の世界なのである。


      マンガの世界も、リアリティーを感じることはできないということはできないだろう。


      マンガの世界が、これから社会をつくってゆくかどうかはわからない。

      だが、書物や新聞によって現実を捉えてきた世代と、

     なにか違った現実を捉える世代が確実に増えてゆくと思われるのだ。


      若者が書物や新聞より、マンガに強く惹きつけられてゆくのは、

     これからの社会の方向を示唆しているように思われる。

      言葉や活字より、マンガや映像に反応することの多い人たちが増えてゆくのだ。

      たしかこんなことは、マクルーハンがずっと前から言っていた。


      批判するとか、非難するという意味でこんなことをわたしはいっているのではない。

      確実に社会はこのような者たちが多数を占めることになるという現実を

     見つめるべきだと思っているだけだ。


      いったいかれらはどのような世界観と現実のなかに

     生きてゆくことになるのだろうか。


      書物とか活字が力をもち、権威をもっていた時代は確実に終わった。

      わたしはこの権威みたいなものに惹かれてか、いくらか哲学などをかじってきたが、

     もうこのような知識で、権威や力をふりかざすことなどできない。

      なにか空を切るような感触しか得られない。


      書物が多くの人の現実であった時代――かなりリアルな世界観であったときは、

     もう終わってしまったのである。

      わたしにはよくわからないが、マルクス主義が盛んなころは、

     おそらく、「書物」の現実が、最盛期だったのだろう。

      一冊の書物が、「バイブル」のように力をもつ時代もあったのだ。


      だが現在は、テレビやマンガの現実のほうが力をもっている。

      テレビの現実は現在ではものすごく力をもっていて、

     ニュースやスキャンダルでパッシングされた個人や組織は、

     社会的にすさまじいばかりの目に合う。

      行動や流行の面でも、テレビがかなりの強制力をもっているということに、

     日常のさまざまな経験で、思い知らされることがある。


      あるメディアが力をもつということは、共同体の人々の心のありようを、

     すべてひとつにまとめるということでもあるのだろう。

      つまり現実の世界観としての力をもつということだ。

      その力や権力、強制力といったものはすさまじいものがある。


      わたしはこのようなメディアの強制力に腹を立てて、

     社会学や現代思想などを読みあさるようになったのだが、

     このような力がなぜメディアに備わるのかよくわからない。


      現実をコピーできるというのがあるかもしれない。

      テレビや書物は、現実の捉え方や環境をみな同じものにすることができる。

      一時的に現実を共有させるのだ。

      みなが捉え方を同じにするのなら、その力は強大なものになるだろう。

      つまり同じ考え方をして、同じ行動・言動をする人間を大量にコピーしてしまうのだ。

      テレビや書物はそういう力をもってきた。


       『聖書』なんてものは、その究極の姿ではないだろうか。


       なぜ人々は、ほかの人たちの現実や環境を共有したがるのだろうか。

       だれだって、魅力的な現実・世界観に包まれていたいと思う。

       たとえばヒットする映画とか、ドラマ、音楽、マンガなんてものはそうだろう。

       魅力的な環境に、包まれていたいのである。


       人間はずっと昔から、このような魅力的な現実を創ろうと努力してきた。

       町や都市なんてものはそうだろうし、鉄道や車、船、飛行機もそうだ。

       書物や雑誌、新聞、ラジオ、映画、テレビ、インターネットというのは、

      魅力的な現実をつくろうとする努力と、人々との現実や環境を共有しようという試みから、

      生み出されてきたものだ。

       「仮想現実」や「空想」の世界の中に入り込もうとしてきたのだ。


       ひとりひとり違う頭の中の世界を、同じものにしようとしてきたのだ。

       つまり頭の中の世界を、共有しようとしてきたわけだ。


       しかしこのようなメディアは画一的な人間類型や行動を生み出してきたし、

      多様性や自由を抹殺する暴力まで生み出してしまった。

       また違う現実や世界観をもつ者や社会にたいしては、

      すさまじいばかりの暴虐や対立をくり返してきた。

       宗教の世界観や、資本主義・社会主義の世界観もそうだった。


       メディアによる現実の共有化は必然的にそのような結末をもたらすのだろうか。



       われわれの社会では、テレビが強い力をもっている。

       テレビでは見た目やパフォーマンスといったものがとても重要になる。

       このような影響をわれわれは濃厚に受けているだろう。


       これにたいしてマンガは閉鎖的な傾向が強い。

       書物や新聞といったものもこのようなタイプだった。

       そのページを開けてみないことには、どのような世界が広がっているのか、

      皆目見当がつかない。

       わたしも最近、マンガをぜんぜん読まなくなったので、

      この世界がどのようになっているのかよくわからない。


       しかしこの世界がいつ哲学や政治、宗教を語り出しても、

      おかしくないと思う。

       宗教的世界観を呈示して、それがリアルに感じられる者も

      生み出される可能性もあるだろう。

       こんな子どもじみた虚構がそこまで力をもつわけはないと思うだろうが、

      アメリカの黄金期のハリウッド映画は、ライフ・スタイルを誘引してきたし、

      トレンディードラマや流行歌が、われわれの恋愛や異性との間柄を、

      つくりだしていると思われるのである。

       これまでのマンガによっても、たとえば柔道ものやバレーボール、野球ものなどに

      憧れて、じっさいにそのスポーツにのめりこんだ者もいるだろう。

       虚構だからといってバカにするわけにはゆかない。

       虚構こそが、われわれの実社会を形成している要素も強いのである。


       マンガというのは戦後の手塚治虫などの少年漫画からはじまって、

      青年向け、大人向けとどんどん広がっていった。

       いまでは中年になっても、マンガを手放さない人もいるだろう。

       幼稚になったというよりか、マンガのレベルが上がったと考えるべきである。


       このようなマンガによって捉えられた現実・世界観とは、

      従来の人たちとどのように違うのかよくわからない。


       だが現在、これまでつくられてきた現実の枠組みや蝶番が

      どんどん緩みつつあるように思われる。

       権威やリアルさといったものが失われている。

       人々の擬集力といったものが、どんどんなくなりつつある。


       社会とはもともと虚構によって成り立っている。

       その虚構によって、分業し、役割を果たすのが、社会のありかただった。

       だがこのような社会は、物質的な豊かさを得るという目標のもとに

      組み立てられたものであって、かならずしも頑丈なものではない。

       もしその目標がなくなったり、魅力の乏しいものになれば、

      この社会の仕組みは腐蝕してゆくことになるだろう。


       これからの社会はそのようなことが起こってゆくことになるのではないだろうか。

       なにか現在の社会に、権威やしっかりとした現実のつなぎ目といったものが、

      存在しないように思われる。

       空中分解してしまいそうな、危うい社会になってしまっているのではないだろうか。


       書物や活字で組み立てられた社会は、「理性」や「知性」に信頼をおく社会であり、

      「知性万能主義」に根ざした社会だ。

       それは計画し、計算し、分配し、予定や予測をたてる社会である。

       これは将来の安定や安心をもたらしたし、

      豊かな、食糧や商品に満たされた、すばらしい社会を生み出した。


       だがそれは未来まで計画され、拘束される、

      ものすごく息苦しい、陰鬱な社会をつくりだしてしまった。

       未知数なもの、衝動、感情、気分、本能といったものが、

      まったく排除される社会だ。

       この計画主義の社会は、頭のなかに「牢獄」をつくりだし、

      そのなかに一生閉じ込められる、「地獄」の社会をつくってしまった。


       言葉や思考は、人間のすべてを内包するものではなく、

      その一部分にしか過ぎない。

       この頭脳に信頼をおき、すべてを託すようになれば、

      多くのもの――とくに制御できない自然――を排斥するようになる。

       この社会は、頭脳だけで計画する人間を生み出してしまったのである。


       計画する人生に信頼をおけば、われわれはこの未来まで決定された社会から、

      逃れることはできない。

       なぜなら、未来の人生設計がまったく狂ってしまって、

      将来の生活や老後の生活が保てないと不安に駆られるからだ。

       そうしてわれわれはやめたくてたまらない会社勤めを辞めることもできないし、

      加熱する受験戦争から降りることもできない。

       知性万能主義は、頭の中に「牢獄」をつくりだしてしまったのだ。


       この頭のなかの地獄から逃れるのは、

      将来の設計や不安を抱かないしか方法はない。

       未来なんか人間に予測できるわけなんかないと、

      予測や未来を捨てるしかない。


       現に終身雇用や年功序列で人生を計画してきた中高年の人たちは、

      いまその幻想が音をたてて崩れているのを垣間見ているだろうし、

      一足早く、計画経済のソ連は崩壊してしまった。

       はたして人間の知性が、この社会や未来をすべて制御することなんて

      できるのだろうか。


       われわれはこの知性の計画主義を部分的にでも投げ捨てて、

      自分の感情や気分を大事にできるような社会をとり戻すべきではないだろうか。


       テレビやマンガの現実は、この知性万能主義に、

      風穴を開けることができるだろうか。

       未来を計画するのではなく、現在の楽しみや享楽に価値や生きがいを

      みいだす人々を生み出させるだろうか。


       知性主義は、未来や現在の牢獄をつくりだしてしまった。

       だがこの社会はどんどん緩みつつあり、形骸化しつつある。


       テレビやマンガでこの世界を捉えてきた者たちは、

      これまでの計画社会と違った社会を生み出すことができるだろうか。

       未来や将来の不安を抱かない生き方やシステムを

      選択することができるだろうか。


       未来や将来なんかわれわれの手で操ることなんてできない、

      そう悟ったとき、われわれはこの頭の中の牢獄から逃れられるのではないだろうか。



                           (終わりです)



  考えるための哲学エッセー集


       日本経済社会崩壊のとき
                                                   1997/7.




       毎日、会社や学校に行き、夕方になれば、ベッドタウンのわが家に帰ってきて、

      つかの間、家のベッドで休息しては、つぎの朝に同じことを延々とくり返す。

       週末にはレジャーや旅行をし、夏期休暇や正月には慣習に従った行動をする。


       この「終らない日常」はいつまでもつづくのだろうか。

       学生のころのわたしは、こんな息のつまるような、不自然な社会なんか、

      いつか、影も形もなくなっているだろうと漠然と思っていたが、

      いつまでも終わる気配はない。

       こんな人間のためでない社会は変わって当然だと思っていたのだ。

       いつまでもつづいてゆくのだとあきらめかけのころ、

      ――社会や経済はものすごく固定的なものだと思いかけていたころ、

      どうもこのシステムがぼろぼろに綻びはじめていることに気づいた。


       ベルリンの壁の崩壊やソ連の崩壊、冷戦の終焉が起こったとき、

      それがなにをもたらすのか、わたしにはぜんぜんぴんとこなかった。


       じつは、戦後の繁栄というのは、社会主義というライバルがいたからこそ、

      資本主義圏は見せびらかし消費に熱を入れたのであり、

      また冷戦という「戦争」状態は、物価の上昇と好況をもたらした。

       冷戦が終わるということは、これらの繁栄の条件がなくなるということである。


       バブルが崩壊し、莫大な不良債権が、

      銀行や証券、保険会社など、金融業界に残された。

       浅井隆はこれが引き金になって1930年代のような大恐慌が起こるといった。

       だが政府がそれを押しとどめ、爆発寸前の金融システムはかろうじて糊塗された。

       返ってこない大量の借金を背負った銀行を、またまた莫大な借金体質を

      やめれない日本政府が、丸抱えにしたのである。

       スーツの下に破裂しそうな水風船を隠しながら、

      ぽつぽつと小さな水風船を落としてゆくのが、これまでの政府のやり方である。


       右肩上がりの経済は終わってしまった。

       大量に生産すれば、売れるという時代は終わったのである。

       それは多くの消費財が、ひとびとの手に渡っていない時代に、

      可能な生産形態である。

       マイ・カーやテレビ、洗濯機、冷蔵庫、電話といったものが、

      すべての家庭に行き渡ってしまえば、その有利さは消える。

       安いコストで大量に造っても売れ残るのなら、なんの効用もない。

       それは豊作や大漁のときの値段の暴落となんら変わりはない。


       このような大量生産には、大企業のほうが適していた。

       だが市場が飽和してしまえば、大企業の有利さはなくなる。

       いままでの最高の条件であったものが、最悪なものに転化してしまったのだ。


       大企業は市場がまるで永遠に拡大してゆくかのように、

      大量の従業員を雇用し、しかも終身雇用、年功序列の神話によって、

      かれらの全人格や時間を奪ってきた。

       市場が頭打ちになったとき、はたして、

      大量の社内失業者が出るのはとうぜんである。

       企業に全人格を捧げつくすように洗脳されてきたかれらが、

      さまざまな特典や権益といったものを享受できないと知ったとき、

      どのようになってしまうのか、恐ろしい気がする。


       このような時代がはっきりと終わったのだという、

      サラリーマンたちの意識の変化は、まだ起こっていないように思える。

       そもそもそんな約束や契約なんか明確には、交わしてこなかったのだろうが、

      この約束がまったくの空約束だとわかったとき、かれらはどう思うのだろうか。

       やっぱり日本のサラリーマンらしく、無力にうなだれきって、

      「シカタガナイ」とあきらめてしまうのだろうか。


       日本のサラリーマンが励みにしてきた年金や年功序列といったものは、

      あくまでも右肩上がりの拡大経済において、成り立つものである。

       経済成長や若年層の増加が見込まれないこれからは、

      はたしてこの仕組みは、耐えてゆくことができるのだろうか。

       これから高齢化社会になりつつあり、しかも経済は停滞しつづけるとなったら、

      この制度も破綻してしまうのではないだろうか。


       政府や企業はこの年金という制度を守れるのだろうか。

       子どもの数は減りつづけ、経済は成長してゆくとは限らず、

      へたをすると、国家財政破綻や金融恐慌の起こる可能性すらある行く末に、

      だれがなんの保証をできるというのだろうか。

       それらを保証する公務員でさえ、リストラの憂き目に遭うご時勢である。


       過去にカネがなんの値打ちもなくなった例も、何回もあっただろうし、

      たとえば敗戦時の占領国での日本円や、

      第一次世界大戦で負けたドイツなどは天文学的なインフレが襲ったそうだ。

       ロシアやメキシコでも、また歴史上の国家が滅ぶときもそうだったのだろう。

       これからの日本にそのような惨劇が襲い、いつわれわれの蓄積してきた金銭や、

      年金や保険といったものが、ただの紙クズになってしまうかもしれないのだ。


       カネというのはふだんわれわれはそれが何なのかまったく意識してもみないが、

      相手やまわりの人がそれに値する価値のものを返すと保証する限りにおいて、

      保証されるものだ。

       つまりそれはたんなる保証や信頼でしかないのだ。

       保証する当の本人が、なんの責任ももてないとなると、金の値打ちは急降下だ。

       日本だけではなく、アメリカや世界経済すらも、壊滅してしまうと、

      だれもカネの値打ちを保証してくれるものはいない。

       でもこのことだけはなにがなんでも回避されるだろう。

       これでは文明社会の看板を下げて、野蛮社会へ逆行だからだ。


       カネというのは人々の保証によって成り立っているのだが、

      金持ちや多くの人は、少しでも多く自分の手元に蓄積しようとする。

       これはほかの人々を未来永劫まで働かせたり、サービスを受ける権利を

      得ることであるが、わたしはこの仕組みがなにか危ういように感じられる。

       みんながこの権利を得ようとおおぜいがつめかけると、

      どこかで不均衡が生じ、壊れてしまいそうな気がするからだ。

       カネというのは、ひじょうに危ういガラスの権利ではないのだろうか。

       どこかで貯めこんだり、流れをせきとめたりすると、

      けっきょくは、その価値や権利さえ消滅してしまうものではないだろうか。


       経済が成長しているころには、そのような心配はまったく不要だった。

       だが経済が停滞もしくは低成長のとき、これまでのような未来の安心を手に入れようと、

      めいめいが蓄積に走ると、たちまちカネの循環はストップしてしまうのではないだろうか。

       拡大成長のような未来の保証はだれもできないからだ。

       過去の延長が明日もつづくと思われているときにのみ、

      カネの蓄積は役に立つのではないだろうか。

       明日の保証ができない時代に、将来の自分を守ろうとする、

      カネの蓄積は意味をなすだろうか。


       われわれの社会は、老後までを計画して働く社会である。

       若くから定年後の年金や退職金のことなどを計算しながら、働く。

       これが現代の若者たちに将来に対するものすごい不安感や

      重みを感じさせる原因であろうし、学歴競争の加速する根底にあるものだろう。


       この将来や老後までを考えて計画する人生というのは、

      若者や学生にとっては、ものすごく重苦しいものである。

       親や中高年の世代は、安定や将来の安心をものすごく渇望するのだろうが、

      人生がはじまったばかりの学生や若者は、未知数であるがゆえに、

      この押しつけがたまらなく重苦しく、息苦しいものだ。

       人生を生きようとしているのに、いきなり棺桶のなかが安心だと、

      年老いた親や社会に連れ込まれるのは、たまったものではない。


       だが、このような人生設計は、経済が拡大成長しているときにだけ成り立つものだ。

       この経済や企業が、自分が年老いても永遠に好調につづいていると

      保証されるかぎりにおいてのみ、このような計画は成り立つ。

       経済成長が下り坂になったとき、この将来設計はご破算だ。


       それは退職金や年功序列による給料アップを前提にして、

      マイ・ホームのローンを何十年も組んだサラリーマンが、

      定年前にとつぜん解雇や失業、倒産の憂き目に遭うようなものだ。

       現在の日本経済は、返せる当てのない借金を背負った、

      ローンづけのサラリーマンのようなものだ。


       日本の社会は、ことごとくこの前提のもとに組み立てられている。

       つまり拡大成長、給料アップ、過去の延長拡大だ。

       年金や退職金による老後の生活、マイホームのローンというのは、

      すべてこれらを前提にして組み立てられているのではないだろうか。


       だが、そのような経済成長の時代が終わった現在、

      頼みの綱にしていた年金や退職金を、だれが保証してくれるというのだろうか。

       目指していた年金や退職金が、企業の消滅や経済の下り坂によって、

      いつ、なくなってしまうかわからないのだ。

       つまり将来や老後の安全までを計ろうとする計画は、

      もう立てれないということだ。

       この計画は、経済全体が右肩上がりの繁栄を享受しているときにのみ、

      叶うことができる計画ではないだろうか。

       もうそのような時代は終わった。


       もしこのことが確実なら、若者にとっては願ってもないことではないだろうか。

       つまり若いうちから将来や老後の保身を願って、

      がむしゃらに勉強したり、決められたレールの上を走らなければならない、

      という、これまでの強烈なプレッシャーを投げ捨てることができるからだ。


       将来の安心を計れない経済はとても不安なことかもしれない。

       だが、若者や学生にとっては、そのことがものすごい重圧の原因になっていた。

       寄り道や放逸、遊びややりたいことが、将来の安定や保身のために、

      すべて禁止されてきたのである。

       これでは人生を楽しもうとしている若者にとっては、死ぬほど苦しいことだ。


       だが、高い経済成長が見込まれなくなった現在、

      ――きのうの延長が未来にあると約束されなくなった現在、

      そのような計画的な人生設計は意味をなさなくなるのではないだろうか。

       若者は一流大学や一流企業に入ったら、老後まで安心だという、

      これまでの共同の幻想は、バブルのように破裂してしまったのである。

       若者が翼を伸ばせるような環境が生まれ出したのかもしれない。


       だが、この社会はこれまでの過去のやり方をずるずるとつづけてゆこうとしている。

       すべてが拡大成長の時代の産物によって、まだまだ動いている。

       右肩上がりの意識が、ほとんど拭い去られていないのである。

       これまでと同じ経済社会の仕組みが、ずっと温存しつづけている。


       なぜこのように足踏みをしているのか考えると、

      おそらく過去の延長がこれまでどおりつづいてゆくはずだという、

      漠然とした認識をもっているからではないだろうか。

       まだまだ拡大成長の時代は終わっていないのだと思っているのかもしれない。


       つまり急激な経済条件の変化に気づいていないのではないだろうか。

       急にこれまでの経済条件が変わってしまったり、

      頭打ちになってしまったということが、理解できないのではないか。


       これまでの時代が完全に終わってしまったという、「目印」や「象徴的事件」と

      いったものが明確に現われ出ていないということに原因があるのかもしれない。

       早期退職制度やマイホームのローンが返せない中高年サラリーマン、

      管理職の自殺の増加などはぽつぽつと出始めているが、

      それが社会全体の出来事までになっていないのだろう。


       まだ、これまでの経済社会はもちこらえている。

       なぜこの仕組みが足元から崩れ去ってしまわないのか、ふしぎだが、

      この崩壊を恐れる政府や企業が必死に押しとどめているのが、

      現在の状況ではないだろうか。


       誰もがこの経済システムが崩壊してしまうことに、

      ひやひやしているのではないだろうか。

       これまで蓄積してきた富や権利、権益といったものが、

      一晩であっさりとなくなってしまえば、だれだってたまらない。

        そうしてこれまでの経済システムを、

       かれらは必死に支え合っているのではないだろうか。


        だがこの経済システムはいつか崩壊してしまうことを避けれない運命だと思う。

        浅井隆がいっているように、世界経済は世界を支配する覇権のパワーが弱まると、

       どうも一時的に経済の調子が悪くなるようである。

        1929年以降の大恐慌は、大英帝国のパワーが落ちたときに起こった。

        現在もアメリカのパワーが転がり落ち続けている状況にある。


         富が一ヶ所に蓄積されすぎたというのもあるだろう。

         自分の保身や安定のためにカネを貯めた人が集まりすぎると、

        その将来に約束された富を、だれも返せなくなってしまう。

         つまり未来に返されるであろう富を、だれも支払えなくなってしまうのだ。


         経済の繁栄や成長がとまってしまったというのもあるだろう。

         成長経済のなかでは富を稼いでも、将来帰ってくるという保証があったが、

        成長が鈍化してしまうと、蓄積された富のみが虚空にとり残されてしまう。

          カネや富というのは、未来にそれに値するものを返してくれるヒトやモノが

         あってこそ、成り立つものではないだろうか。

          もしこれまでの工業社会が完全に完成してしまったとするのなら、

         蓄積された富は、なにによってその見返りを得ようとするのだろうか。



         なによりも、工業社会の夢が終わってしまったというのがあるだろう。

         マイ・カーやテレビ、洗濯機や掃除機、電話などの、

        戦後の人たちが夢見た「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ」が、

        完成を見てしまったのである。

         目標に達してしまったということは、それが終わってしまったということであり、

        もはや目指すものも、夢も何もないということだ。


         だれかの言葉にこんなものがあった。

         「不幸には二種類がある。

          夢が叶わない不幸と、夢が叶ってしまった不幸である」


         社会はもっと早くからこの状態に達していたはずだ。

         つまり、「大きな物語」はとっくに終わっていたのだ。


         西洋列強にならぶ軍事大国や経済大国になるという大きな夢や、

        立身出世だとか、社長や高いポストにつくという夢が、

        終わったり、まったく魅力のない、つまらないものに化してしまっていたのである。


         このような夢はほんとにもっと早くから、溶け出していた。

         ただ生活したり、老後の生活を確保するためや、生きるためだけに、

        この経済社会を惰性的につづけてきたのである。

         そのためにこの社会はものすごく硬直化してしまっており、

        魅力のない、つまらない、過去を強迫的にくり返す自動循環機械に、

        堕してしまった。

         人間の幸福や楽しみといったものが、

        まったく顧みられない社会になってしまったのである。


         あるいは西洋化をはじめた時点から――物質消費をおこなうことが幸福だと

        勘違いしたときから、この社会はほんとうの幸福をみいだす努力を

        排除してきたのかもしれない。

         それが現在の腐りかけた経済システムと社会を置き残していったのだ。


         いまはじめて、消費社会が完成して、これが幸福や豊かさを

        もたらすわけではないことを、社会的な共通認識として得ることができたのだから、

        人間にとってのほんとうの幸福や豊かさとはなんなのか、

        と問い直さなければならない時期なのかもしれない。


         かつての人たちが憧れた消費社会は到達してみれば、

        企業や労働が、全人格や人生を支配するシステムだった。

         また家族や地域社会、人々のつながりといったものを、

        破壊したり、断絶するものだった。

          われわれは経済システムの歯車として、人間でない、

         まるで機械のような毎日のくり返しをリピートさせられているだけだ。

          憧れた消費社会は、われわれを機械の一部品にしてしまったのだ。


         このような経済システムや企業社会にたいする批判や不満、

        不快感や不安といったものはこれまでもたくさん出てきただろう。

          だがなにひとつ、このシステムを変えるようなことはできなかった。


          しかし、社会精神といったものは確実に腐敗してきていた。

          目標や目的をもてない若者たちがどんどん増えてゆき、

         一流企業も社会の倫理と抵触する犯罪を平気でおこなうようになった。

          昨今の官僚のトップの逮捕や、一流企業のトップの逮捕などは、

         このポストをめざした学校教育の屋台骨をみごとに揺るがすものだろう。

          いったいどこの子どもが、犯罪を犯すトップの地位を、

         教育に十数年も費やして、目指そうとするのだろうか。

          消費社会のシステムや形だけが残り、

         そこに求めるわれわれの夢や精神といったものは、

         まったく空っぽになってしまった。


          だれも楽しみを求めようとしない、動き続ける遊園地のようなものに、

         現在の経済システムは、なってしまったのである。

          だがその遊園地を動かしつづけないことには、

         われわれ個人はメシを食えないことを知っている。

          だからわれわれは精神的にゴーストになってしまった遊園地を、

         運営し続けるほかはないのである。


          だが、社会の精神が「空洞化」しはじめると、なぜか、

         経済システムはいろいろなところで影響をうけて、

         活力や魅力を失ってゆき、メルト・ダウンする方向に進んでゆくようである。

          もはや新しい魅力をつくれない社会は、

         底辺から崩れざるを得ないのである。


          アーノルド・トインビーはかつて文明というのは、

         魅力をつくれなくなった創造的支配者が、

         力で大衆を支配することになり、それによって滅ぶことになるといった。

          文明というのは、創造的少数者がつくりだす魅力にひかれて、

         おおぜいの人がそれを模倣することによって成り立つのである。

          魅力という言葉はあまり明確なものではないが、

         われわれはこのようなものに惹かれて、文明の運営を助けるのである。


          この戦後経済社会は、若者たちにとっては明らかに、

         魅力のない、権力でねじふせる形だけのシステムに成り下がってしまった。

          あるいは工業社会、資本主義社会というのは、

         昔からそういう性質をもっていたのかもしれない。

          だが、昔はアメリカ的な消費生活だとか、会社での地位や収入が上がるだとか、

         経済大国になるだとか、ちゃんとした学歴をもっていれば将来は安定するだとか、

         そういった吸引力や魅力が、建て前では、存在していた。

          そういう牽引力がどんどん失われていったとき、

         若者はドロップ・アウトや登校拒否、いじめ、モラトリアム、アパシー、精神病理、

         といったかたちで、この社会から無意識に逃れるようになってきた。

          自分をそういう病的状態に追い込むほか逃げ道のない、

         がんじからめの社会になってしまったのである。


          この経済システム、企業社会は、そういった若者にふたをすることによって、

         これまでずっとやってきた。

          だが、ひとつの共同体においては、外部に起こることは、

         かならず成員たちの個人の内部においても、同じことが起こっている。

          モラトリアムやアパシーは、多くの若者たちに共有された心情であるし、

         犯罪者の生い立ちや環境は、われわれとまったく同じ性質のものである。

          かれらを自分たちとは違うのだ、自分の中にはそんなものはない、

         と排斥することによって、われわれはかろうじて平常心を保ってきたといっていい。


          社会はもはや目的や目標を失いながら、

         精神のなくなった経済システムだけをむりやりつづけている。

          勝つことも、完走することの目標もなくなったマラソンを、

         むりやり走らされているようなものだ。

          走るのがとめられないのは、経済が壊滅したり、

         生活の糧を得ることができないからだ。

          だがわれわれひとりひとりのこのような怖れる心が、

         この非人間的な経済システムを継続させているのではないだろうか。


          だが、けっきょくのところ、このような精神の内部から崩壊してゆくような

         システムというのは、遅かれ早かれ、機能不全に陥る。

          人間の社会や共同体といったものは、個人の心や精神といったものが、

         もっとも大事な要になるもので、「大きな物語」や「神話」「宗教」といった、

         共同のヴィジョンが失われてゆくと、社会システム全体が、

         瓦解してゆく方向に進む。

          精神のなくなった形骸化したシステムは、

         もはやその崩壊を押しとどめることができない。


          稲村博はその著『若者・アパシーの時代』のなかで、

         明治の終わりころから、現代の無気力人間と共通する若者たちが、

         夏目漱石の「高等遊民」などに現れているといった。

          そのあとの日本がどうなったかというと、昭和恐慌や戦争などをへて、

         焼け野原というカタストロフィー状況を迎えるのである。

          著者は今回は2025年にそのような状況に陥るとしたが、

         現在のシステムはとてもそこまでもちこたえられるとは思われない。


          日本社会はおそらくこのような壊滅状態にならないと、

         このシステムを変えることも、動かすこともできないのだろう。

          壊滅状態になっても、現在のような個人や会社の利益や保身だけを

         追求することになると、この社会はもっと酷い目に陥るだろう。

          江戸時代の飢饉というのは、不作のときの金儲けをたくらんだ人たちが、

         食糧を買い占めた結果、おこった「人災」だとも考えられる。

          このような自分の利益や保身を守ろうとする心が、

         この共同体を壊滅状態に陥れたのだということに気づかなければ、

         それはもっと過酷なものになるだろう。


          この社会はいつも、「なにか」が起こらなければ、対処しようとしない。

          事件や事故、災害などは、起こってから後追いに処理されるものだ。

          個人で言えば、病気になってはじめて治療にいく。

          だがもっとも大事なのは、病気になる前のわずかな兆候に気づき、

         その予防につとめることではないだろうか。


          この社会は、瀕死の重病になるまで手をつけれない。

          なぜかというと、批判や改善の意志を、

         徹底的に削ぎ落とす仕組みをつくってきたからだ。

          それは「反社会的」なことであった。

          予防的なことまで、反社会的だとして、徹底的に抑制されてきたのだ。


          経済や社会はものすごいスピードで動いている。

          批判や改善のできない社会は、時代の流れにとりのこされてゆく。

          ましてやこのような批判精神を反社会的だと決めつける社会では、

         なおさら大昔の制度は幅を利かせつづける。

          ソ連の製造品があんなにまで古臭いのはこれでわかるというものだろう。


          なぜ、われわれの社会は、ふだんの友達関係から始まって、

         批判的な会話ができないのだろうか。

          若者たちにとって、政治や社会、宗教、心理、哲学といったものを、

         会話することは、ものすごいタブーであった。

          おそらくいまだにこのようなことを話せば、友達から冷笑されて、

         相手にされなくなるだろう。

          わたしも学生のときにはこのようなタブーのなかで生きてきたのだが、

         知識の渇望のほうが強くて、タブーを働かせる集団や友達といったものと、

         つき合わなくなってしまった。

          表面的なショッピングやレジャーももう楽しめるわけがない。


          哲学的な話は、人が集まるようなところでは、あまりわたしはしなかった。  

          おそらく、わたしのなかには、「やましさ」や「後ろめたさ」があるからだろう。

          また個人で話し合っても、なんのメディアも影響力ももたないのだから、

         はじめから無意味であるとわかり切っていたからかもしもれない。

          黙ってマスコミや企業の言いなりになるしか、政治力や法的手段を

         もたないわれわれは、なすすべがなかったのである。


          けっきょくのところ、企業が人々の生存権をすべて握ってしまった、

         ということにあるのだろう。

          企業を批判したり、たてつくようでは、われわれは収入の口を見出せない。

          黙って従うほかないのだ。

          また、大量生産の時代には、規格型の人間が求められたというのもあるだろう。

          企業が決めた枠組みや鋳型に従うことが、

         工業社会での生き残る道だったのだ。

          われわれは批判の意志をもぎとられ、手足のない状態で、

         企業にゆだねるほかはなかった。


          だがこのような工業社会の仕組みが有利に働く時代は、

         もはや終わろうとしている。

          アメリカ的な生活――マイ・カーや電化製品といった大量生産品が、

         ほぼすべての家庭に行き渡ってしまったからだ。

          過去の規格化されたやり方が、まったく通用しない時代に入ってしまったのだ。


          まったく新しい発想を創り出さなければならない時代になったのである。

         このような時代には、批判や疑問を抱くことが、ものすごく大事になってくる。

          そうしないと新しいものはまったく生まれ出てこないし、

         ましてや現状に満足している者が、新しいものを考え出すわけがない。


          安価の労働力をもった東アジア、または東欧の国々が、

         工業化しようとしている現在――その到達のスピードはますます速くなっている、

         かれらと同じことをしておれば、やがてはかんたんに追い抜かれる。

          過去の成功したやり方を破壊して、

         創造的な力を生み出してゆかなければならないのである。


          だが、日本社会はおそろしいほど、規格品にぴったりとおさまる、

         大量生産型の人間を、大量に製造してしまっていた。

          あまりにも日本人は大量生産型の社会に適合してしまったがゆえに、

         これから必要とされている独創性・創造性の社会に、

         まったく適合することができないのである。

          目指すべき価値が、180度転換してしまった。

          規格品から、独創・創造型の人間と社会にである。


          そのような社会には果敢に現在のありかたに

         疑問や不満をいだく精神が、必要となってくる。

          現在の学校教育や企業社会の風土に、

         そのようなものが少しでも認められるだろうか。


          学校教育も、父母たちも、規格品型の子供たちを

         いまだに大量に創り出そうとしている。

          学校というのは、大量生産時代の産物なのだろう。

          官僚制度というものは工業社会の産物であるが、

         それがつくりだした学校制度も、同じく工場労働に適した人材を

         大量に生み出すシステムである。

          官僚や政府が守ってきた業界というのは、時代や変化にまったく適応しない、

         旧弊な、時代遅れのサービスに成り下がってしまっているが、

         学校制度も、その競争に適しない古ぼけたシステムなのだろう。

          銀行の横並び志向が問題になっているが、

         学校もビッグ・バンが必要なのかもしれない。

           いちばん早く未来に適応しなければならない若者たちが、

          いちばん古臭い官僚システムに呑みこまれてしまっているのは、

          悲惨な未来しか予想させない。

          企業の雇用条件も恐ろしく横並び志向だが、

         いかに時代に適合していないか、わかるというものだろう。


          だが、このような変化を社会のどれだけの人が気づいているというのだろうか。

          工業社会に適応した中央官僚統制の横並び社会をつくってしまったがゆえに、

         大きな時代の変化にまったく適応できなくなってしまった。


          現在の工業社会型のシステムの上部にいる人たちは、

         生活がかかっているし、家庭も守らなければならない。

          とうぜんこれまでの権益や安定と、それをもたらすシステムを

         維持しつづけようとするだろう。

          時代の変化にすばやく適応できない社会システムというのは、

         自分の収入口を守ろうとする、あたり前の意識がつくりだしているともいえる。

          だから社会は明らかに時代に適合していなくても、

         その旧弊なシステムを守ろうとするのである。

          けっきょく、その犠牲は、未来にいち早く気づき、

         適応しようとしている子供たちにしわよせられるのではないだろうか。

          皮肉なことに守ろうとしている子供たちが、

         そのために犠牲になるのである。

          学校の登校拒否やいじめ、アパシーなどはその現れである。


          これからの時代変化に適応しようとするのなら、

         現在の中高年者層の労働力移動が、かなり自由にできるシステムが

         必要になるのではないだろうか。

          現在のような失業したら再就職先がまったく見つからない状態では、

         意地でも職場にしがみつかなければならないし、それはとうぜんの選択だ。

          まずはかなり自由な受け皿が必要になるのではないだろうか。


          でないと過去の旧弊な組織やシステムにますますしがみつく結果になるだろうし、

         変化できないシステムはますます子供たちをさいなめることになってしまうだろう。

          組織が中高年者に閉鎖的になるのではなく、

         もっとも開かれてなければならないのではないだろうか。


          だが皮肉なことに、組織は中高年に高い賃金を払うようにできている。

          ほかの会社に移れば給与がダウンするのなら、

         意地でも勤続年数の長い会社にしがみつくだろう。

          このような意識が組織のものたちにほとんど共有されているとなったら、

         なんとしてでも過去やこれまでのありかたを守ろうとするだろう。

          時代の変化に適応できないのはとうぜんである。


          工業社会にあまりにも適応しすぎたシステムが、

         時代の変化を頑固に拒もうとしているのである。


          けっきょくのところ、この日本社会はこの変化の波に乗ることに、

         失敗するだろう。

          変化を拒む人たちがあまりにも力を持ちすぎているのだ。

          かれらは過去の常識を守ろうとする人たちであり、

         それによって利益を得る人たちであり、

         そのために現実の変化を見ようとしない人たちである。


          社会はいつだって、このような変化を拒む人たちによって、

         時代の変化に適応することに失敗してきたのだろう。

          生活がかかっているのだし、力をふるえるポストにあるのだから、

         とうぜんそれを手放そうとはしないだろう。

          しかしそのような自分を守ろうとする意志が、ときには、

         現在の北朝鮮の飢餓問題や、崩壊前のソ連の経済停滞など、

         社会に多くの損害と被害をもたらすこともあるのではないだろうか。

          権力をもった人たちはおそらく過去を守ろうとして、

         けっきょくは、時代の流れに逆行してしまうのだろう。


          いまは世界的規模で大きな変化が起こりつつある。

          冷戦が終わり、車の時代の電化製品パラダイムが終焉し、

         東南アジアや東欧諸国が工業化に大量にのりだし、

         情報化社会や知識社会とよばれる時代が始まりつつあるところである。


          この変化に目をつぶり、拒もうとする人たちは、

         未来の経済社会を壊滅状態に導くのではないだろうか。




                                     (終わり)




          これまでのべてきた経済や社会に関するエッセーは、

         推察や予想にしか過ぎません。

          未来がどうなるだとか、現在の困難な状況の原因など、

         明確にわかるわけなどありません。

          あくまでも、わたしがこうではないかと予想したものでしかないのです。

          わたしにはわからないことだらけです。

          したがって、これはあくまでも一考察でしかありません。



          最後まで読んでいただけまして、ありがとうございます。

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         BOOK REVIEW
         「経済や社会は、これからどうなってゆくのだろうか」

           このエッセーを書くための参考にした書物はほとんどこの中にあります。

           とくに堺屋太一と浅井隆の書物には多くを得ています。




     マザコン男、社会保障制度、官僚支配
             ――安定や保障をもとめた依存心の代償――


                                              1997/7.





     大人になっても母親とべったりとくっついて離れない

    マザコン男というのが、いぜん話題になった。

     テレビ・ドラマでは気持ちの悪い「冬彦」さんがわれわれの背筋を凍らせた。


     最近わたしは官僚の規制や保護にかんする本をたまに読むのだが、

    官僚の国民や企業にたいする扱いかたというのは、

    このマザコン男のママにそっくりではないかと気づいた。


     国民や民間の企業に任せておいたらなにをするかわからない、

    どんな危険な目に合い、いつ食いっぱぐれるかわからないといって、

    規制や保護の手をどんどんのばす官僚はまるで、「過保護ママ」そっくりだ。


     官僚だけではない、民間企業でも、従業員たちの意志や思考をできるだけ

    とりのぞいた教育や方針がとられている。

     学校教育もそうである。

     与えられたり、教えられるものばかり圧しつけられ、

    みずから考えるとか、新しく試みようとする行動をさせようとしない。


     つまり日本社会すべてが、過保護になってしまっているのである。

     自立や独立を許さない社会をつくってしまっているのである。


     逆にいえば、自立や独立をめざせば、まわりからとことん叩かれ、

    排斥されるような社会なら、自立や独立の意志をまったくもたない

    マザコン男のほうが、この世に可能な限り、適応していることになる。


     われわれはマザコン男を気持ち悪いとか、おぞましいとか思って、

    排斥しようとするが、かれらはこの社会のいちばんの適応者なのである。

     つまりこの社会の「優等生」であり、この社会の意志や方向を

    いちばん反映した「よい子」の鏡なのである。


     かれら自身を叩くのはまちがっている。

     かれらはこの社会が目指した方向の「結果」の産物なのであって、

    かれらは「原因」ではない。

     結果をいくら叩いたところで、原因はその子どもを産みだしつづける。


     この社会は、個人の自立や独立を許さない。

     自由や意志を尊重しない。

     どこまでも管理され、制御され、服従する人間がよしとされる。

     ママの言いなりになるマザコン男が、この社会にどれだけ適応しているのか、

    よくわかるというものだ。


     ママや企業、属する集団にどこまでも忠誠を尽くし、

    服従し、そつなくこなす人間が求められているのである。

     ママに反抗したり、組織に反抗的態度をもつ者は、

    この社会ではとても嫌われる。

     われわれはこの社会に適応しようとすれば、

    多かれ少なかれ、マザコン男にならなければならないのである。


     かれらには、反抗期というものがないのだろうか。

     ママを蹴飛ばしたくなったり、組織や集団の力にたまらなくムカついたり、

    憤る気持ちをまるでもたないのだろうか。

     もっていたとしても、社会や組織に従うしか生きる道はないのだから、

    その反抗の芽をそっと忍ばせるほかないだろう。

     こうしてわれわれは自立心や独立心を一生育てられずに、

    依存や服従の輪の中に絡みとられ、日本的集団のなかに埋没する。


     日本人の組織や集団に同調したり、画一化したりするする行動様式は、

    このようなところにその原因があるのだろう。

     工業社会や先進国のなかには、多かれ少なかれ、このような性質があると思われる。

     組織や集団に依拠しなければ、生存の道を見出せないのなら、

    できるだけ規律に従うほかない。


     日本だけではなく、アメリカや西ヨーロッパにも、

    このような性質は共有されていると思う。

     いくらアメリカが個人主義の国だと喧伝されていても、

    このような土壌があるから、少しでも抜き出たら、目立つのだろう。

     わたしはアメリカという国はとても個人主義の国だと思っていたが、

    どうもアメリカの社会学とかビジネス書とか読んでいると、忠誠心とか集団への同調とか、

    日本とほとんど変わらない部分をもっていることを知った。


     マザコン男は工業社会に適応した人間のありかたである。

     それなのに、なぜかれらは女性たちに嫌われたのだろうか。

     従来の「男」の役割であった自立心や独立心が、あまりにも失われたからだろう。

     かれらは組織や親にあまりにも服従しすぎて、自立心を失ってしまった。

     「男」の看板を捨てるまで、社会や組織への依存心や依頼心が強まったのである。

     たくましさや頼りがいのある男は、組織のなかに溶解してしまったのである。

     女性たちは溶けてしまった男たちに憤慨したのだ。


     なぜここまで自立心を削ぎ落とした依存心が、増長してしまったのだろうか。

     わたしは遠いところに、社会主義思想がその原因を生み出したと考える。

     だれも生存の心配をしなくてもよかったり、平等であったりする社会は、

    貧富の差や貧困が激しい資本主義社会より、とてもすばらしいだろう。

      だがこのような完璧な計画経済は、表面とは違って、

     人々の心のなかに依存心や依頼心をどんどん育むだけだった。

      厳しさをなくした、甘えたがりやの大人ばかりを育てることになった。


      日本はもちろん資本主義国家だ。

      だが社会主義思想は日本のなかにものすごく影響を与えただろうし、

     福祉国家という政策は、そこから出てきたものだと思われる。

      年金や健康保険、雇用保険といったものは、社会主義の落とし子ではないだろうか。


      企業の終身雇用や年功序列といった「家族主義的経営」も、

     どこか社会主義に似ているのではないだろうか。

      忠誠心をあおって「会社人間」としてマインド・コントロールされたさまは、

     まるでどこかの社会主義国家かカルト宗教を思い起こさせる。


      官僚の保護貿易や、斜陽産業や零細企業の保護政策も、

     やはり社会主義的な発想が根底にあるのではないだろうか。

      戦後一貫して激しい競争にさらされてきたのは輸出関連産業くらいで、

     農業を含む7割程度の産業は政府の保護をうけてきた。

      役所や教育、銀行などを入れれば、

     この国にはほとんど自由競争がなかったといっていい。


      ソ連や東欧から日本にきた人たちは、この国は自分たちの国より、

     社会主義国家だと驚いて帰るそうである。

      年金が、企業と国に二重にかけられていることにびっくりするそうだ。


      日本は社会主義国家だと思ったほうがいいかもしれない。

      その看板を隠す技術がものすごくうまくて、われわれ国民すら

     それを知らないのである。


      けっきょく、これらの社会主義的政策は、われわれの

     政府や企業に対する依存心をものすごく強めてしまった。

      クビ切りをやめさせ、終身雇用をのぞみ、年金や健康保険をもとめ、

     老後の安泰をもとめ、職場の確保と安定をのぞんできた。

      われわれは知らず知らずのうちに、最高度の依存や甘えを、

     政府におこなってきたのである。


      職場が安定していて、生涯面倒をみてくれるのなら、すばらしいことだろう。

      ケガや病気になっても、保険があるのなら安心だろう。

      老後の年金があるのなら、将来は安泰だろう。

      外国からの激しい競争に勝ち残った産業をシャット・アウトすれば、

     われわれの職場は守られるだろう。

      貧富の差の激しい自由主義国に比べれば、平等な中流階級意識を

     みなもつことができるだろう。

      すばらしいことづくめだ。


      だが、依存心や甘えは最高潮に達し、しかもそれがあたり前だと思っているから、

     だれもおかしいとも、ちょっと異常だとか感じたりもしない。

      とうぜんの権利であり、この権利のないほうが恥ずかしいことになってしまった。

      依存や甘えが恥ずかしいことでも、なさけないことでも、

     なんでもないことになってしまったのである。


      わたしはこのような根性がどこかおかしいことのように思えた。

      保護されることや依存することに、だれもみじめさを感じないばかりか、

     みんながそれを求めているのである。

      だからわたしは親が進めるような保障のととのった大きな会社に入るとか、

     公務員になるのがとてもいやだった。

      そんなしみったれた根性が平気になるのがいやだったのである。


      歴史的には資本家に搾取される労働者というのは、

     そうとう酷かったと思われる。

      福利厚生の権利は先人たちの努力と抗争によって、

     勝ち取られたものであり、称えられるべきものである。

      だが、現在の日本はかなり豊かになり、

     中流階級とみずから思う人たちも、だいぶ増加した。

      このような豊かになる過程で、段階的に、年金や福祉制度を

     豊かな階層にのみでも、外してゆくべきではなかったのだろうか。

      保護政策を豊かな国にふさわしく、緩めるべきではなかったのか。


      この依存のメンタリティの損害は、計り知れないくらい大きいと思う。

      保護されたり、守られることが確保された環境のなかで、

     人々はどのようになってゆくか。

      努力や向上はおこなわれなくなり、活力や生命力が失われる。

      守りの姿勢に入り、保護や安定をもとめることだけに汲々としてしまい、

     ほんらいの目的である活力や魅力ある世界や社会を創造しようとする

     努力や意志は、削ぎ落とされてしまう。


      この何十年か、競争に勝ち残る魅力的な商品やサービスを考え出そうとする努力より、

     安定や安心をもとめる努力のほうが強かったように思われる。

      人々が安定をもとめるようになると、創造的な雰囲気は失われ、

     過去を守ることだけにその努力のほとんどはふり向けられる。


      社会はドラスティックな変化を嫌い、変化の芽さえ摘みとろうとする。

      変化はこれまで蓄積した安定を脅かしてしまうからだ。


      だが、これがものすごい過ちだった。

      この資本主義は変化や創造のみによって動いてきた。

      この2、300年の工業化の変化はすさまじいものがある。

      鉄道が生み出され、車が生まれ、飛行機がつくりだされた。

      もし最初の段階で創造の努力が怠られていたら、

     経済発展はたちまち止まっていただろう。


      変化を嫌い、淀みはじめたとき、この経済はたちまち停滞し、

     経済的な苦境に立たされる。

      市場経済は、必要のなくなった商品や時代遅れのサービスは

     いともかんたんに捨て去ってしまう。

      われわれ消費者は、だれかのためを思って、いつまでも旧式の商品や、

     高すぎる商品を買いつづけたりするだろうか。


      政府の保護政策や福祉制度はそのすばらしい目的と裏腹に、

     われわれの活力や創造力の源を奪い去る方向に作用してしまった。

      あるいはわれわれ国民が求めたのかもしれないが、

     そのために変化を嫌う、ひじょうに停滞した組織をつくりあげてしまっていた。


      この20年の経済の変化はとても大きかったと感じるかもしれないが、

     たぶん若者たちが感じているほどの変化は出てきていない。

      車やテレビはたいして代わり栄えのしないモデル・チェンジばかりくり返し、

     企業や組織は人間の全てを奪い去り、人間をロボットのように配置したままである。


      おそらく変化は企業や組織において起こらなければならなかったのではないか。

      豊かになった社会では、労働の量や質すら問われる。

      だがこの分野の変化の乏しさからみれば、

     かなり変化を嫌う、古びた制度が大手をふっているのだろう。

      変化ができないということは、そこには利権や権益が、

     山のように折り重なっているということだ。


      わたしはこの企業組織の変化の乏しさが、

     社会や若者の活力や創造力を奪ってきた大元だと思っている。

      安定や保障が、人々の活力や活気を奪ってきたのだ。


      もし多くの産業が保護されなく、外国からの自由競争が行われておれば、

     この企業組織はもっとドラスティックに変化していたと思う。

      そのような組織の変革は、若者たちに安定をもとめない活力を、

     生み出したと思われる。

      だがこの企業組織は旧態依然としたままで、

     新卒の若者たちにロボットになることを要求しつづけている。

      活力も創造力も失われるだろう。


      若者の活力が失われるということは、結果的には社会の停滞をもたらし、

     守られるべき保護の対象者たちも守られなくなるのではないだろうか。


      保護や保障はそのおもてのすばらしさと裏腹に、

     自由経済の活力や活気を奪ってきたのではないだろうか。

      もし自由経済なら変わっていたはずの社会や組織のかたちが、

     現在も権力や慣習として、残存する余地を与えてしまったのではないだろうか。

      そしてそのような利権や権限をもった人たちが、それを守ろうと

     組織や社会に居残る結果、若者たちは活力や精力を失い、保身や安定のなかに、

     将来の道をもとめるようになってしまったのではないか。


      つまり流れによって淘汰されるべきものが、

     保護や保障を与えられたために、いつまでも力をもつことになり、

     ますます流れをせき止めるようになってしまったのではないだろうか。

      先進国や文明の衰退といったものは、このようなところにその原因が

     あるのかもしれない。

      つまり利権や既得権で、上が根づまりをおこしてしまい、

     新しい経済や文明の流れにとりのこされていってしまうのである。


      ソ連などの社会主義国家は指導者層の利権や権益の蓄積のために、

     経済の流れにとりのこされていってしまったのではないだろうか。

      日本も同じく、かなりの保護主義経済をおこなっている。

      競争にさらされず、国民の生活が守られることはすばらしいことだが、

     それは現実の経済をまったく無視するやり方ではないだろうか。

      そうして商品やサービスはぜんぜん進歩せず、

     古ぼけた経済システムとして停滞していってしまう。


      戦後の日本と西ドイツの経済発展は、

     設備の壊滅と、指導者の公職追放の結果、もたらされたのではないだろうか。

      保護や保障の乱発は、これとまったく逆の方向ではないだろうか。


      皮肉なものである。

      われわれのだれもがもつ保身や安定の欲求が、

     この経済の停滞をもたらすのである。

      そしてそれは社会や経済の動脈硬化をもたらし、

     若者たちの気概や活力を奪っていってしまう。


      だれだって地位や保障、安定がほしいだろう。

      だがそれがならずしも、社会や経済にとってはプラスになるとは限らない。

      変化をせきとめ、妨害し、足手まといになってしまうのである。

      しかもかれらが権力や権限をもっているとなると、なおさらやっかいだ。

      そのような現実を見えなくさせるのが、また権力の力でもあるからだ。


      現在のわれわれの社会は、われわれが保障や安定をもとめなかったら、

     もっと大きく変化し、まったく違った社会風景になっていたかもしれない。

      学校や郵便局はなく、役所の建物は豪華ではなく、公園は廃虚にならず、

     湾岸部は工場に独占されるのではなく、市民に開かれていたかもしれない。

      商品の値段はもっと安く、サービスの悪い機関や古いサービスはなくなり、

     なによりも、企業組織や労働時間といったものは先進国なみになっていたかもしれない。


      保護や保障はわれわれから自由を奪い、

     隷属や拘束のみの多い閉塞社会をつくってしまったのではないだろうか。

      われわれ日本人は、安定か自由かの選択において、

     自由を投げ捨ててきたのではないだろうか。

      そして依存心の強い、自立心のない大人たちを大量に育ててしまった。


      けっきょく、この激しい国際経済のなかで、

     保護や保障はもとめても得られないものなのだろう。

      右肩上がりの経済成長が終わってしまったら、

     たちまち、これまでのかずかずの保障が破綻寸前になってしまった。


      だが、依存心や安定志向の精神を育ててしまったわれわれは、

     はたして、もう一度、独立心や自立心を養えるだろうか。

      大企業や公務員、福利厚生といったものによりかかりつづけたわれわれは、

     はたしてこれから必要とされる自由経済の精神をとりもどせるだろうか。


      けっきょくは、そのような競争のなかに投げ込まれるしかない状況が、

     やってくるのは確実なのだから、いやがおうでも、このような精神を

     身につけるしかないだろう。

      そしてその精神が生まれ出るのは、経済の破滅的状況しかないのだろうか。


      老後や将来の安定を計れないことは、恐ろしいことかもしれない。

      だが人類の大半は今日生きることだけに精いっぱいで、

     明日の心配なんかしていられなかったのが、ふつうではなかっただろうか。

      明日や、それも老後のことなんか心配していたら、

     今日を楽しむことなんてできやしないし、人生の楽しみを得ることすらできない。

      やっと「まとも」な時代がやってきたのかもしれない。




                            (終わり)




      このエッセーの発想を思いついたのは、たぶん宮本政於の

     『官僚の官僚による官僚のための日本』(講談社+α文庫)や

     ジョエル・シルバースティン『アメリカから見た日本人』(ごま書房)を

     読んだからだと思う。

      稲垣武の『達人の手の内』(PHP研究所)も参考になった。

      保護や福祉が人々をどんなに骨抜きにしてきたかは、

     ミルトン&ローズ・フリードマンの『選択の自由』(日本経済新聞社)にかなり学んだ。


      日本の中流階級がなぜなにもものを言わないのかと、いぜんから

     不審に思ってきたが、やはり年金や福利厚生、年功序列にあるのではないか、

     とわたしは思ってきた。

      そしてそれらの安定や安心を得るために、若者や大人たちの精神は

     どのように歪み、ふぬけになってしまったのだろうか。

      安定や保障をもとめる気持ちは、自由主義経済のハングリー精神を

     奪ってしまうのではないだろうか。

      そしてその結果生み出されたのが、マザコン男の精神構造だと思う。

      このような精神は社会の多くの人にも共有されていると思われ、

     これが今後の経済にどのような影響をおよぼすことになるか、不安に感じる。

      社会はこの帰結を思い知ることになって、はじめて

     変わろうという気持ちをもつことになるのだろうか。





       戦後日本社会の危機

                                               1997/7.





     現在の閉塞感や長期不況は、経済のみの危機ではなく、

    日本社会の危機を反映したものではないかという、

    佐藤光著『入門・日本の経済改革』(PHP新書)を読んだ。


     日本経済に対する信頼や自信の欠如、社会的規律の弛緩(モラル・ハザード)が

    その原因であるという説は、経済にばかり向きがちだった目を社会に向けさせてくれた。


     この長期に閉塞した現在の状況はまさに、戦後日本社会のひずみや歪みを

    問うものではないだろうか。

     「経済至上主義」や「会社中心主義」、あるいは「金儲け」だけにひた走ってきた

    戦後日本社会の病理がいっせいに噴出しているのではないだろうか。


     オウム真理教事件や神戸小学生殺傷事件、厚生省のトップ逮捕や

    金融業界のトップの逮捕、安田病院問題といった一連の事件は、

    まさに戦後日本社会の病理が生み出したものではないだろうか。


     これらはすべて、「経済至上主義」だけにつっ走ってきたために、

    家族や地域社会、共同体のつながりといったものをまったく崩壊させた

    戦後日本社会のありかたに、その病根があるのではないだろうか。


     企業や自分の属する集団の利益のみを追求ばかりするために、

    社会や共同体の連帯感や絆といったものが破壊された結果、

    「外」の人間や世間にたいする善悪の基準や規律がまったく働かなくなってしまっている。

     自分の属する集団の善悪と規律こそが、すべてであり、「絶対」なのである。

     社会や世間といった中間の存在が、まったくなくなったといっていいかもしれない。


     めいめいが自分の属する集団の利益や規律のみに汲々としてしまい、

    ほかの社会からのチェック機能がまったく働かなくなってしまっている。

     社会や世間の規律や善悪の基準といったものがまったく浸透していないか、

    あるいは存在していないかのどちらかだ。


     社会や共同体がまったく存在しなくなったところに、

    現在の暴走する集団や企業が存在するのではないだろうか。

     つまり現在の社会にあるのは、ただ自集団の利益や規律のみを追求する閉鎖集団が

    なんのつながりもなく、無数にばらばらにあるだけなのである。

     薄ら寒い風景である。


     なぜこんなふうになってしまったのか。

     もちろんこれはいうまでもなく、「経済至上主義」に原因がある。

     企業が人間のすべての時間、人生までを、なにも残らないまで、

    奪ってしまったからだ。


     アメリカではだから、いま必死に「家族」に帰ろうとしている。

     または、ボランティアに精を出そうとしている。

     しかし日本ではなんの試みも行われていないばかりか、

    あいかわらず、企業は人間のすべての人生と時間を奪い去っている。


     日本の企業社会には、人間は企業のみに属するのではなくて、

    社会や共同体のために存在するという考えがまるでない。

     企業がすべて丸抱えにしても、なんの問題もないと思っている。

     だから、結婚しない若者が増えたり、子どもの数がどんどん減ってゆくのだ。

     自社の利益ばかりを考えていると、少子化という、

    社会全体からのしっぺ返しを食らうのだ。

     また世間や共同体の絆を企業が分断した結果、

    世間の規律や善悪の基準をもてない人間がどんどん増加してしまっている。

     企業が、男親だけではなく、母親さえも、家庭や地域から奪い去ってしまったからだ。

     まるで、「本土決戦」みたいなものだ。

     地域社会には、子どもと老人しか残っていない。


     企業は人間の全てを奪い去ってはならないのだ。

     かれは社会に子孫を残せないばかりか、共同体が破壊されてしまった結果、

    規律や善悪の育たない子孫を生み出してしまうことになる。


     もはや企業は自社の利益だけを追求する時代ではない。

     自社のみではなく、社会全体の生態にまで目を向けなければならない。

     社会全体の利益や必要を考えなければならない。

     そうでないと、社会全体の生態からとんでもない仕打ちを食らうことになる。


     企業集団というのは視野がかなり狭くなるようだ。

     自己の利益のみを追求し、自然環境を破壊したり、公害病をまき散らしたり、

    オゾン層を破壊したり、あるいは薬害をつくりだしたりする。

     企業は、社会全体の生態までに考慮しなければならない。

     そうでないとけっきょくは、自社を壊滅させてしまうことになるし、

    その悪影響は社会全体にまでおよぶことになる。


      自然破壊や公害病といったものは、結果としてはわかりやすく、

     因果関係もはっきりしやすいが、人間や社会全体におよぼす悪影響というものは、

     ひじょうにわかりにくい。

      だからいつまでたっても、企業は人間の自然のなかに、公害や環境破壊を

     まき散らしていっても気づかない。


      企業がこの戦後50年のあいだに人間や社会のなかにまき散らしていった

     害悪は計り知れないものがある。


      現在の一流企業や官僚の汚職や不正は、社会や共同体の一員という意識が

     なくなり、一企業・一集団の一員という意識しかもたなくなったから、

     犯されたものではないだろうか。

      社会全体の正義といったものがまったく働かなくなってしまっている。


      企業は男たちを「会社人間」化し、家族や地域社会からひきちぎってしまった。

      また個人の人生や人格を生きる自由を奪い去ってしまった。

      そして女たちは子どもを会社人間化する受験地獄にたたきこみ、

     あるいはパートに出て、ますます地域社会の絆は存在しなくなった。

      企業からリタイヤした老人たちはただ病院に通いづめになるだけだ。


      生まれてから定年になるまで、ただ企業のためだけに捧げ尽くされ、

     親子や家族、地域共同体といったものは、壊滅してしまった。

      この社会には、地域や家族のつながりをなくした、自社利益のみを追求する企業が、

     なんの連関もなく、無数に存在しているだけだ。


      ただ、この企業社会をつくりだしたのはだれかというと、

     やはりわれわれのなかにある物質消費への欲望や、隣より優れたいという

     優越願望が、生み出したものではないだろうか。

      このようなうら寒い企業社会を支持したのは、やはりわれわれのなかにある、

     「豊か」になりたい願望や、「金持ち」になりたい願望ではないだろうか。


      じつのところ、そのような時代は終わってしまった。

      終わってしまったのに終わることができない矛盾に、

     現在のわれわれは悩まされている。

      いつまでも山のような商品に囲まれたり、空しいレジャーに追い立てられたり、

     そんなことをわれわれは死ぬまで追い求めつづけるだろうか。

      いつか切り開くかもしれない科学万能のユートピアなど夢見れるだろうか。

      もうそんなものは終わってしまったのだ。


      だがそのようなバカ騒ぎをやめてしまえば、たちまち経済供給が

     回らなくなってしまう。

      赤ん坊のように「飽きた」からといって、ポイと捨てるわけにはゆかないのだ。

      われわれはこの社会をつづけるために、

     ありあまるモノを買いつづけなければならないのだ。


      現在の長い不況はやはり、もう欲しいモノはない、

     モノばっかりの生活はうんざりだという反応ではないのだろうか。

      多くの商品があるスーパーから、必要最小限の商品だけをとりそろえた

     コンビニに人気が集まるのも、そのひとつの表われではないか。


      いま、われわれに求められているのは、モノまみれになって、

     消費や企業活動だけにつき進んできた「企業=消費社会」からの脱却ではないだろうか。

      企業や労働が、われわれの人生や地域社会の絆をすべて奪い去ってしまう社会から、

     離脱するべき時ではないだろうか。


      企業は、人間や社会という観点から、従業員たちにもっと自由な時間と、

     自由な人生選択を可能にする社会を生み出してゆくべきだ。

      さもないと、大量の人員を抱えたまま、この日本経済は鉛のように

     沈んでゆくだろう。

      経済活動が、自然や生態系を破壊したために洪水や公害に悩まされるのと

     同じように、人間社会という自然から復讐されるのだ。


      けっきょくのところ、戦後社会は、企業活動や経済活動の充実ばかり目指したために、

     人間の活力や創造力といったものを、抹殺する社会をつくりだしてしまったのだ。

      経済活動というのは、文化から生み出されるのではないだろうか。

      近代ヨーロッパは、オリエンタルな文化に憧れることによって、

     近代産業文明を興したのではないか。

      経済活動ばかりを大事にして、ほかのことをおろそかにすると、

     文化や社会は育たず、経済が繁栄する土壌を育むことができない。

      戦後日本社会は固くて重苦しい経済活動のみに偏重しすぎて、

     やわらかな、魅力ある社会を生み出せなかったのだ。

      経済を生み出す養分は文化にあるということに、

     戦後の経済人は気づかなかったのだろうか。


      戦後の日本社会は経済だけに偏重し、

     企業組織のみに帰属する人間を大量に生み出してしまった。

      そして社会や共同体の利益や連帯といったものを失ってしまった。

      わたしにとって大事なことは、いかに欲しいモノを手に入れるか、

     いかに自分の属する会社を儲けさせるかということだけになってしまい、

     社会全体の利益や必要といったものをまったく考えなくなってしまった。


      おそらく消費社会に最適化するシステムとは、そのようなものなのだろう。

      消費社会というのは、究極的には自分の欲しいモノを手に入れるためのシステムだ。

      多くの生産物を家族でまかなうシステムから、ほかの集団に外注化したり、

     分業化するうちに、工場組織や企業組織ができあがった。

      大量生産には家族より、契約集団のほうが適している。


      日本ではこの企業組織が、擬似家族共同体として祭り上げられた。

      そしてこの共同体のために、家族と地域社会、または個人が壊滅してしまった。

      家族はいろいろな生産品を外注化したために、ほとんどの機能を失ってしまった。

      だが家族が成り立たないことには、子どもを再生産することができない。

      企業組織は、人間の存続に必要不可欠である子どもの再生産を

     おこなうことができないがゆえに、家族になることはできない。

      どんなに賃金手当てをつけても、父親の時間を返さないことにその証明にはならない。

      擬似家族共同体なんて、ウソっぱちである。


      しかし、戦後の日本人にとって、家族や子どもを守るより、

     なぜ企業活動のほうが、大事だったのだろうか。

      家族や子どもを守るより、大事な価値観や必要があったのだろう。

      多くのモノを手に入れたり、地位やポストを手に入れるために、

     ほんらいの人間の目的である子孫の存続という目的がないがしろにされた。

      また企業社会のなかにおいても、子孫の存続が貶められ、無視された。

      消費という目的においても、家族や子どもはじゃまものになった。


      この企業活動や消費生活といったものは、とんでもなく、

     人間のほんらいの目的や自然といったものと、抵触するようである。

      子孫の存続をないがしろにする社会というのは、まともではない。

      それほどまでに企業や消費というものは、不自然なものだ。

      このゆがみを暴力的に圧しつけたきたのが、戦後企業社会だ。


      このような不自然な社会を存続させてきたのは――

     つまり企業中心社会をつくりだしてきたのは、

     おそらく政府の産業政策にその根があるのではないかと思う。

      「生産者」保護と生活者無視の政策である。

      企業活動を保護ばかりしたために、家族を守ったり、

     育児をしたりする時間や余裕が、労働者から奪われてしまったのだ。

      これらの役割は専業主婦のみに押しつけられたが、

     父親不在の育児や家族が、うまく機能したとは思われない。

      社会や共同体の存在しない真空地帯で、

     育児や教育がうまくできるわけなどないのだ。


      また、われわれ自身のなかにも、産業保護や経済成長への

     強い要望や願望があったのはたしかだ。

      働けば働くほど儲かる、給料がアップする、地位が上がる、

     テレビや車が買える、マイ・ホームが買える、このような夢を描いて、

     戦後の日本人はがむしゃらに働いてきたのだろう。

      退職金も増える、年金も増える、年功賃金だといって、

     サラリーマンたちはますます企業活動に熱心になった。

      あるいは、退職金や年金を「人質」にとられて、

     仕方なく一企業に釘ヅケにされた面も否めないと思うが。


      だがそのために、この社会の病理面はどんどん蓄積されていった。

      企業共同体に男たちが埋没してしまい、家族が崩壊し、地域社会が壊滅した。

      学校では校内暴力や登校拒否、いじめ、といった問題が噴出した。

      そしてオウム真理教事件や神戸小学生殺人事件、

     官僚や一流会社の汚職や不正――腐るところまで腐ってしまったという感じだ。


      企業活動が、この社会のすべてを覆いつくしてしまった結果と思われるが、

     それだけではなく、戦後の目標――アメリカ的消費生活や経済大国になるという夢が、

     実現されてしまったことにもある。

      つまりは、経済活動の目標や目的がなくなってしまったのだ。

      70年代のはじめにはほぼそのような夢は終わっていたと思われるが、

     なんとか抑えつつもここまで来れたかもしれないが、

     バブル経済のような投機経済がみごとに目的なき経済を露呈させた。


      いったいこの日本社会はどこに漂ってゆこうとしているのだろうか。

      北朝鮮の飢餓やソ連の崩壊といったものは、社会主義ゆえに起こったのではなく、

     この日本にも同じようなことが近いうちに起こることすら考えられる。


      これはもしかして、「消費社会の終焉」を表わしているのだろうか。

      企業活動が家族や地域社会を壊滅させてしまい、

     消費においても、べつにさしたる目標も欲しいモノもなくなって、

     ふんづまりを起こしてしまったのだ。

      つまり消費社会のタネが絶えてしまったのだ。


      これはとんでもないことではないだろうか。

      現在の不況というのは、経済や経営の問題ではなくて、

     もっと大きな地盤――消費の目的というものがなくなったことに

     起因するのではないだろうか。

      豊かさや富といったものが目的ではなくなったのだ。

      社会はなんの意味もなく、漂ってゆくしかない。


      われわれが勤勉に働いたのは、欲しいモノがあったからだ。

      日下公人がはっきりと教えてくれたのだが(『悪魔の予言』講談社)、

     文化の喜びがあってはじめて、人は働くのである。

      自動車とかアメリカ映画とかマイ・ホームとか欲しいモノがあってはじめて、

     人はまじめに働く。


      だが現在そのような働く原動力となるものがまったくなくなってしまった。

      せいぜいクルマやブランド品、カラオケ、アニメやゲーム、海外旅行といった

     ものだけになってしまった。

      日本人はほとんどオリジナルな文化をつくらなかった。

      わたしはいま本がほしいだけであって、どう考えても、長い会社勤めと

     釣り合わないと思っている。

       ほかのクルマやらブランド品なんかまったく眼中にない。


       こういう若者はどんどん増えていっており、

      海外で放浪する若者も多い。

       日下公人はむかしの人のようにラム酒や酒をのめれば、

      あとは働かないといった人たちが、日本人の中にも出てくるといっている。

       大阪には日雇い労働者の西成という町があるが、

      わたしは昼間から酒を飲んでいるかれらにみじめさを感じると同時に、

      昼間からなにものにも拘束されない自由なかれらに憧憬を感じたものだ。

       日本はこれまでの気が違ったような労働社会から、あまり極端になるべきではないが、

      このような、ある意味ではまともな社会に回帰するほうがよいのではないだろうか。


       それには年金や年功賃金などがかなり足カセになる。

       だが、けっきょくのところ、年金という制度は高度成長を維持しないと

      破綻してしまうのだし、その経済の原動力となる文化がもう若者の前にはない。

       緩慢にこの経済は沈下してゆくのか、あるいはとつぜんにクラッシュしてしまうのか、

      わからないが、国民を駆り立てるような文化のヴィジョンを提示しないことには、

      この経済が減速してゆくのは確実である。


       現在の長期不況や閉塞した状況は、ほしいモノがなにもないのに、

      長時間労働や会社に釘付けられる現在の状況に、

      なんとやり切れない気持ちを抱いているからではないだろうか。

       社会はもっと柔軟にわれわれの気持ちに対応するべきではなかったのか。


       世代間において、現実に対する認識はかなり違っており、

      わたしのような若者は、勤勉や長時間労働にものすごいイラ立ちを感じる。

       何十年も前に時間が止まったようなジジイばかりが、

      この社会の行方を決めたり、既得権益をにぎりしめて離さなかったりするからだろうか。


       企業があまりにも人間の自由な時間を拘束しつづけた結果、

      この国には、労働の原動力となる文化をまったく創造できなくしてしまった。

       働く原動力をなくした若者を、むかしの人たちの勤勉労働社会に

      むりやり封じ込めようとしたために、文化や活力が枯渇してしまった。

       つまり企業社会が自社の金儲けのためだけに、若者を囲い込んだ結果、

      次なる経済の原動力となる文化を創造できなくしてしまったのだ。

       子どもを育てる暇はないわ、カネを使ったり、バカンスを楽しんだりする時間はないわ、

      文化や創造力を育むゆとりはないわ、もう最悪である。

       けっきょくこの日本人は、金持ちになる資格もなく、なんのためにカネを使うのか、

      なんのためにカネを稼ぐのかもわからなかったのである。

       スカスカの空洞化した金持ちニッポンだ。


       日本人は金持ちになり、豪遊したり、豊かになる生活をめざしたのではないのだろう。

       ただ、団結した、凝り固まった集団として、

      企業集団のなかで、ひとかたまりになりたかっただけだ。

       カネの使い方や楽しみかたも、ゆとりもわからず、

      あいかわらず、幼稚園児の群れのようにこり固まりつづけている。


       いったいなんのための富だろうか。

       日本人はなんのためにがむしゃらに働いてきたのか。

       せめて経済的にゆとりが出てきたら、社会に自由やゆとりを

      もたせるべきだったのだ。

       そのような自由な社会から、文化や創造力が育ったのではないだろうか。

       すべての男女が産業ロボットのように企業に囲い込まれたら、

      とても文化や創造力の生み出る余裕はない。

       人生を楽しむ暇も、稼いだカネを有効に使う時間すらない。

       時間がない労働者相手にいくら商売をしても、

      新しい産業も文化も育たない。

       そもそも文化を受容するゆとりも教養も育む余裕すらない。

       文化が枯渇して、経済が減速するのはとうぜんである。


       とにかく休みを増やさなければならない。

       企業は従業員をすこしでも長く拘束したほうが利益が上がると考えるよりか、

      従業員の休みを増やし、社会に戻したほうが、けっきょくは自社の利益になると

      考えなければならない。

       いくら商品やサービスを売り出しても、それを買ったり、受けたりする消費者が

      いないことには、利益は上がらない。


       フォードが従業員の給料を破格に設定したり、週休二日にしたりしたのは、

      自動車の購買者層を増やそうとしたからだ。

       日本の企業はあまりにもがめつすぎる。

       少しでも多く従業員を拘束して、利益を生み出さそうとするから、

      けっきょくは、みずからの客を絶滅させているのだ。

       従業員の時間をすべて奪い去ろうとする企業ばかりだから、

      未来の消費者や顧客がぜんぜん育たないのだ。

       企業の利益を生み出すのは従業員だけではなく、

      消費者や顧客の存在であるということに気づかないのだろうか。

       客のいない生産者国家が成り立つわけがない。


       休みが増えてもすることがないというのは、古い世代のサラリーマンばかりだ。

       若い世代はもっと休みを望んでいるし、いくぶんオタク的だが、

      みずからの趣味を大事にする傾向をもっている。

       そのようなオタク的な趣味が、未来のマーケットを広げるのだ。


       旧世代はまた間違って、ゴルフやリゾートのような

      時代遅れのオヤジ向けのレジャーばかりつくりだしてしまう。

       美術館や音楽ホールなどのハコものばかりつくっても、

      それを受容する文化風土がないから、ぜんぜん心が躍らない。

       若い世代はこんなものになんの魅力も感じない。

       みんなが同じようなことをすることにたまらない不快感を感じている。

       個性的で、人とは違ったオタク的な要素に惹かれるのが、現在の若者だ。


       人生の目的を生産から、消費や生活のほうにふり向けなければならない。

       人生を生き、人生の楽しみや豊かさを享受できる生き方が、

      可能になる社会を模索しなければならない。


       この社会は人生を楽しむためにあるのではなく、

      労働や金儲けのためだけの窮屈な社会になり下がってしまっている。

       人生を楽しめる方向に社会を転換してゆかないと、

      この社会は息苦しさや閉塞感のために、窒息死してしまうだろう。


       なぜこの社会はそのように転換できなかったのだろうか。

       明らかに時代遅れになった目標によって、

      社会をがんじがらめにしばりつけている。

       生産至上主義という、戦時下経済に似た体制だ。


       なぜ転換が遅れたのか。

       なぜ時代遅れになった体制によって、若者たちを苦しめているのか。

       生産至上主義という目的が、なぜある程度豊かになった段階で、

      見直されなかったのだろうか。


       社会の変化を見抜けない学識者ばかりいるためなのか、

      それとも社会を変えるシステムがどこにも備わっていなかったからだろうか。


       この社会は老人たちが制度やシステムを決定する社会である。

       あるいは、年齢の高い世代が権力をもつ社会である。

       おそらく若者や若い世代にはなんの決定権もないし、

      若者や子どもの感じる現実というものが、

      社会を決定するシステムになんの反映もされない。

       このような世代間のギャップや、世代による現実認識の違いが、

      若者たちにひじょうに息苦しい社会をつくりだしているのかもしれない。


       たとえば、医学界や学界という世界では、出世やポストを得るためには

      権威ある人や上司にあたる人の推薦や抜擢がなければならない。

       そうであるとすれば、できるだけ彼らの学説に反旗をひるがさないような、

      無難な説を唱えなければならないだろう。

       年老いた人たちの現実認識ばかりが大手をふるうようになり、

      現実の変化を見抜けなくなるだろう。

       こうなってしまえば、現実からますます乖離してしまう。


       このようなことは学界だけではなく、企業や官僚などの組織のなかに

      どこにでもあるものではないだろうか。

       上司や上役が出世や昇進を決定するのなら、

      かれらの現実認識や方法論にかぎりなく、なびかなければならない。

       そうでないと、上のポストには引き上げられないだろう。

       これでは組織があまりにも現実から乖離するのはとうぜんだ。

       組織や社会はこのようにして、現実から遅れをとり、対応を誤るのだろう。

       社会のパラダイムはこのようにして、動脈硬化をおこし、

      ほかの新しい革新の波に洗い流されてゆくのだろう。


       官僚は現実に15年遅れていると堺屋太一はいっている。

       現在、二度のオイル・ショックを乗り切った人たちが、

      現在のトップの座に座っているのだろうか。

       現在、官僚から拡大成長の体質が抜けきっていないそうである。

       こうして大昔の現実認識のまま、政策が決められるのだろうか。


       生産至上主義の社会を、早急に変えなければならない。

       企業や生産者ばかりが存在して、消費者や生活者の存在しない社会が、

      いつまでもつづくわけがない。

       この社会はこのままでは、だれも欲しくない商品をつくりつづける、

      奇妙な生産工場になってしまう。


       生産至上主義が終わるのは、われわれの心のなかにある物質消費主義、

      金儲け主義、超安定・貯蓄志向というものがなくなってからだろう。

       自分たちから商品やカネをいくらでも望みつづける体質をやめるのなら、

      この社会は必然的にペースダウンを起こす。

       もう欲しいモノもめざすべきポストや目的もあまりないのだから、

      モノをつくりつづけても仕方がない。

       生産至上主義を維持する条件がなくなりつつあるのである。


       企業や社会はこのような変化にいち早く気づき、

      そのような社会体勢に変えてゆくべきなのである。

       若者が入った会社をすぐに辞めてゆくのは、欲しいモノもべつにあまりないし、

      既得権益や年功序列がやたらに強い企業に残る魅力がほとんどないからだ。

       年金や退職金がアテにならないのは、中高年のリストラを見ていたら、よくわかる。

       もうこれまでの企業は、昔打ち捨てられた遺跡のようなものになっている。


       がむしゃらに生産しつづけるのではなく、ゆとりや休みをとり戻し、

      そのなかから新しい文化や欲望が育つ土壌を整えなければならない。

       この社会はあまりにも労働や生産に傾斜しすぎて、

      生産を約束する文化や欲望をつくりだせなかったのだ。

       欲しいモノや新しい欲望がない社会に、

      どんな未来が約束されているというのだろうか。


       現在の日本社会が抱えている問題というのは、

      大量消費社会の終焉という事態である。

       社会や人々がめざしてきた目標や目的がなくなってしまったのである。


       われわれはいくぶん貧しくなるかもしれないが、

      企業や金儲けだけに縛られない、ゆるやかな社会をめざすべきかもしれない。

       気違いのような生産者社会から、家族や社会に回帰してゆくべきなのだ。


       そのような転換は、敗戦のような明確なカタストロフィーを経験しないと、

      日本人は気づくことができないのだろうか。

       そこまでの傷を負わないことには、日本社会は変わることはできないのだろうか。

       壊滅状態になるまで戦争をやめれなかったように、

      現代も経済において、同じような惨禍を経験しないことには、

      その過ちに気づかないのだろうか。


       現代の日本社会は変わるためのメカニズムがあまりにも欠如している。

       戦後の復興経済一本槍で、ゆとりや余裕がもてなくなってしまっている。


       経済壊滅のようなあまりにも高い授業料を支払わないことには、

      この社会は変わることはできないのだろうか。


       エドマンド・バークはいっている。(『フランスにおける革命の考察』――
                           (ウィリアム・ブリッジス『ジョブ・シフト』から)


       「なんらかの方法で変化を加える手段をもたない国家は

      自己を維持する能力をもたない。」




                                    (終わり)




     目的なき時代の働く意欲

                                           1997/8.






     ほしいモノもめざすべき目標も、大きなグランド・デザインも、

    ほとんどない時代に突入してしまった。

     アメリカ的消費生活をするとか、経済大国になるとか、科学技術社会になるとか、

    あるいは老後や雇用が確保される計画経済社会を実現するとか、

    そのような目標がことごとく終焉するか、破綻するかになってしまった。

     世界はいったいどこに行こうとしているのだろうか。


     現在の社会はそのような目標をなくして、維持できるのだろうか。

     目標や目的があれば、人々は少々の苦痛や悲惨には耐えてゆける。

     だがそれらがいっさいなくなったとき、人々はなにを支えに生きてゆくのだろうか。

     ほしいモノがないのに、人々はこれまでのように勤勉に働きつづけるだろうか。


     人間というのは愚かなもので、かつて先人たちが築いてきた、

    社会的なインフラというのは、もともと自然にあったものだと思いがちだ。

     つまり人々の苦労と歴史のうえに成り立っているということに気づかない。

     そのような礎の上に立ちながら、その礎をなきものとして感じる。


     そして現在さらに社会を担うべき若者たちの前に、

    なにひとつ魅力ある未来や社会を呈示できずにいる。

     ほしいモノがなにひとつなくなった若者に働く意欲は湧くだろうか。

     働く意欲をなくした社会に、これまでどおりのインフラを維持できるだろうか。


     なによりもこの日本はこれまで嬉々として、この経済大国を運営してきたのではない。

     一般の民衆は、飢餓の恐怖や世間体の恐怖などにより、

    経済を発展させてきたにすぎない。

     食いっぱぐれる恐怖と、少々魅力的なアメリカ的生活にあこがれて、

    勤勉に働いてきたにすぎない。

     わけもわからなく、頭ごなしに政府や世間に、

    勤勉に働くことを強要されてきたのではないだろうか。


     経済成長が急な分だけ、それだけその反動はもっと強いものになるのではないか。

     わけもわからなく、がむしゃらに働いてきた分、目標がなくなれば、

    目を覆わんばかりになるのではないだろうか。

     目標を失った経済は、その基盤をクラッシュさせてしまうのではないだろうか。

     はたして魅力ある未来を描けなくなった社会は、

    これまでのインフラを維持・補修するだけの仕組みを維持しつづけることができるだろうか。


     老朽化した橋を思い浮かべてほしい。

     橋をつくる前は、向こう岸に陸続きの道をつくるのだから、とても楽しいだろう。

     だがそれが完成し、何十年もたち、人々の日常のなかのあたり前の橋として定着し、

    ただ老朽化だけが目立ち、管理や補修だけにやたら手のかかる橋に

    なってしまったらどうだろう。

     若い世代はこの老朽化した橋を維持しつづけるだろうか。

     現在の社会はこのような状態になりかかろうとしているように思われる。

     成熟化社会というよりか、老朽化社会だ。


     自動車や電化製品のような国民をすべてひっぱってゆくような魅力ある商品が

    どんどんなくなりつつある。

     現在では個別的な趣味やオタク的な趣味にひとびとは閉じこもり、

    社会全体をひっぱってゆくようなヴィジョンは失われてしまった。

     最近のヒットといえば、インターネットや携帯電話、「女子高生」といったものだけで、

    国民すべてを吸引するような力をもっていない。


     ほしいモノがなくなった時代に、はたしてこれまでどおりの

    高度生産優位社会を維持しつづけることはできるだろうか。

     勤勉な労働力を確保しつづけることはできるのだろうか。


     単純にいってしまえば、ほしいモノがなくなった人たちに、働く意欲はあるのか。

     テレビや自動車があたり前に手に入る時代に、

    われわれは勤勉な労働意欲をもちつづけることができるだろうか。


     インド人を日本人のように働かせようとしてもむりである。

     それ以上、ほしいモノがもうないからだ。

     ほしいモノがなければ、それ以上働く必要はない。

     日本人もこのような考え方になってゆくのではないだろうか。


     あれもこれもほしい時代は終わってしまった。

     勤勉に働いて給料が増えれば、その分だけほしいモノが増えるような時代は、

    もう終わってしまった。

     80年代は、あたかもほしいモノが増えたように、

    広告やCMに踊らされた時代であった。

     90年代は確実にひとびとのほしいモノがなくなってしまった時代である。


     なぜほしいモノがなくなったこの社会が、これまでどおり維持されているのか、

    ふしぎであるが、もちろん社会はそんなヤワなものではないだろう。

     共通してひとびとをひっぱるような商品や魅力はなくなったかもしれないが、

    個別的な趣味が、ひとびとの牽引力になっている。

     海外旅行やファッション、ゴルフ、オタク的な趣味、車、パソコンなど、

    ひとびとは個人的な趣味を楽しもうとしている。

     社会をひとくくりにして、ひっぱるような時代はもう終わった。


     わたしがふしぎでならないのは、なぜこのような時代に、

    働く時間や勤勉さを、もっと減らそうとする人が現われないのかということだ。

     ほしいモノがなければ、働く必要なんかあまりない。

     極端にいえば、インド人的発想になってもおかしくない。

     それなのになぜ、ほしいモノがたくさんあった時代のように、

    勤勉に働きつづけるのだろうか。


     もちろんこれまでの生活を維持しなければならない。

     家をもったり、電気代を払いつづけたり、テレビや車を維持しつづけるためには、

    これまでどおりの給与が必要である。

     これまでの生活水準を維持するためには、これまでどおり働かなければならない。


     だが新しい魅力あるモノが生まれてこなければ、

    社会は確実にペースダウンしてゆくだろう。

     それは確実に社会を蝕んでゆく。

     このような状態が長く続けば、これまでの生活水準すら維持できないような時代が

    やってくるのではないだろうか。


     ほしいモノがない人のなかには、積極的に捨てる人も現われるかもしれない。

     自動車もテレビなんかべつにいらない、酒さえ飲めればそれでいいという人も

    現れてくるだろう。

     とくにこの日本は、企業社会や労働時間拘束などがあまりにも厳しすぎる。

     そのためにこれを嫌って、これまでの生活水準を捨てる人がたくさん現れるかもしれない。

     そもそもこれまでの生活はあたり前すぎて、もう魅力的ではないからだ。

     その魅力のない生活のために、人々はいやな会社勤めをつづけられるだろうか。


     日本人はなぜこのような極端にはかんたんには走らないのだろうか。

     人なみ志向や横ならび志向、指示待ち体質といったものが強いからだろうか。

     だれかがこうしなさいと言うまで、行儀よく待てをしているのだろうか。

     働くのをやめたら、たちまちホームレスになるからだろうか。

     これまでの生活を手放すことはもうやっぱりできないし、

    世間体といったものを気にするからだろう。


     仕事に関する意識のありかたも、石頭のように固い。

     社会や世界がまるで変わったという象徴的なできごとがまだ起こっていないからだろう。

     いくつかの銀行や証券、保険の倒産だけでは、

    まだあまり一般の人たちにそう強い印象を与えないのだろう。

     これまでの日本を支えてきたトップ企業が倒産でもすれば、

    人々は時代の風向きが変わったことをようやく認識するのかもしれない。


     戦後の日本は幸せだったのかもしれない。

     アメリカ的消費生活だとか、ヨーロッパ近代社会だとか、

    いろいろめざすものがたくさんあった。

     その目標のためにこれまでの社会は精密にかたちづくられた。

     だがその目標が到達されたとき、社会はどこに行こうとするのだろうか。

     これまでの分業社会や生活水準を維持しつづけることはできるのだろうか。


     明確な目標があり、その目標が比較的短期間に達成されるような社会のばあい、

    目標が達成されたあとが問題だ。

     目的追求型社会は、それを達してしまったら、たちまちその根幹が崩壊してしまう。

     戦前の明治以降の日本社会も、二度の戦争に勝ち、

    それまでの目標を失ってしまったのではないだろうか。


     それにたいして、宗教に律せられる社会というのは、

    目標を現世におかなく、容易にそれを達成できない。

     社会は長期において、その制度を維持できる。

     もちろん権力腐敗や支配の暴力化など、さまざまな問題はあるが。


     資本主義につきものとされる恐慌や不況というのは、

    こういう社会目標が一時的に立ち消えになることから起こるのではないだろうか。

     50年周期のコンドラチェフの波などは、

    社会目標のいちおうの終焉から起こるのではないだろうか。

     19世紀は鉄道の敷設、20世紀は自動車といった具合だ。


     今回の社会目標は、自動車や電化製品といったものの大衆化だった。

     アメリカでは50年代の黄金期にそれを達成してしまい、

    日本ではだいたい70年代に終わり、

    社会目標の根幹の腐蝕がゆっくりと進行している。

     大恐慌や戦争などが起こるのは、やはり社会目標の消滅によるのだろう。


     社会目標のタネが尽きてしまうのは、

    あまりにも目標に応じた社会システムが完成されてしまうからだろう。

     つまり目標追求に合致しすぎたシステムがつくられるため、

    ほかの魅力ある目標をつくられなくなったり、余裕がなくなるからだろう。

     システムがうまく働き、力や安定を得られるポジションが固まり、

    人々がそのようなところに向かってしまい、社会の活力を失わせるということもあるのだろう。


     80年代や90年代の若者の特徴はかなり保守化したことであり、

    大企業やブランド企業志向がとくに強くなったことだ。

     かれらはなにか新しいことをつくるより、上から指示される安定した組織に

    好んで入っていったのだ。

     新しい社会目標や魅力をつくる仕事をみずから放棄した。

     社会が安定してしまえば、たしかにそのような道を選ばざるを得ないだろう。


     こうして社会は活力を失い、古い、終わってしまった目標にしがみつくことになり、

    カネが行く場を失うという恐慌のようなひどい目にあうのだろう。

     大不況や戦争のような既成産業が壊滅的になってはじめて、

    新しい社会目標の創造にひとびとの目は向けられるのだろう。


     安定や保守化を多くの若者たちがのぞみ、またそれを与えられるとする社会組織が

    できあがったとき、すでに社会目標は終わってしまっているのだろう。

     ピークは衰退のはじまりなのだが、だれもそれを見抜けない。

     そして社会は新しい目標を立てられないまま、

    これまでの絶頂期の経済からは考えられない経済の故障や失速を経験しながら、

    社会はメルト・ダウンしてゆくのだろう。


     いま現在、若者たちの前にはかつてのような目標やほしいモノは

    ほとんどない。

     目標がないのに、将来のコースや拘束だけが、生涯にわたって待ちつづけている。

     企業社会にたいする批判や軽蔑もなみなみならないものをもっていると思う。

     かれらの家庭には、父親は存在しなかった。

     そんな無の存在である父親に、子どもたちはとてもなりたいとは思わないだろう。

     ブラック・ホールのように父親を呑みこんだ企業に、

    畏怖や憎悪を抱いている。

     企業社会を信用していないのだ。


     しかも最近のエリートや一流企業の不祥事などで、

    これまで目的とされてきた一流のコースがみごとに崩壊してしまった。

     めざすべきものがまったくなくなってしまった。

     社会全体の目標はなくなり、エリートの優秀さの神話も消え去ってしまい、

    それにもとづいてつくられた社会のピラミッドも崩れ去ろうとしている。

     社会全体の構造がいま、未曾有の危機に立たされているのだ。


     目標なき社会、そして優劣価値、あるいはヒエラルキーの崩壊、

    この社会は根本の秩序が溶解してゆこうとしている。

     このままでは、社会秩序は溶けてなくなってしまうのではないだろうか。


     歴史の中にこのような優劣価値や至上価値といったものが、

    ことごとく溶解した社会や国家はあっただろうか。

     ひとつの目標を設定し、それに向かってすべてがヒエラルキーづけられるような社会が、

    崩壊してしまうような時代はあっただろうか。

     おそらく歴史とはこのような社会秩序の崩壊と構築のくり返しであったと思う。

     歴史のなかの戦国時代というのは、そういう時代だったのかもしれない。


     これからこの社会はどのように溶けてゆき、

    そして騒乱のなかから、どのような社会秩序を打ち立ててゆくのだろうか。


     だが、この社会はそんなにかんたんには溶け去ってはしまわないだろう。

     社会のたいていの人は、目標や目的がなくとも、

    働きつづけるだろうし、その虚しさに耐えながら生きてゆく。

     たいがいの人は、これまでどおりの生活や社会を維持してゆくだろう。

     これまでの社会の動きのなさを見ていて、わたしはそう思う。


     しかしこれから、社会の表面はそうとうの変動を経験するのではないかとわたしは思う。

     社会が目標や目的をもたなくなり、エリートや至上価値の崩壊や魅力のなさは、

    それに代わるなにかを見つけないかぎり、社会秩序の崩壊をもたらすだろう。

     社会が優劣の価値をもたず、それにヒエラルキーづけられた社会を形成できないと

    するのなら、社会の根幹はぐらぐらと揺れつづけるだろう。

     社会の背骨になる価値観がなくなれば、さまざまな価値観が相争うことになり、

    収拾がつかなくなるのではないだろうか。


     社会とはそんなに極端に変わるものではないと、

    これまでの安定してきた社会を見ていて、自然に思い込むようになっている。

     わたしのまわりの社会を見ていても、

    そんな大きな変動がやってくるようにはとても思えないほど、ふだんどおりである。

     社会は、わたしのいくぶん大げさな予測を裏切って、

    これまでとほぼ変わらない社会を維持しつづけるのだろうか。


     予測というのは、たいがい当たらない。

     とくにバブル期の未来予測はバラ色一色で、

    ものすごく楽観的な未来を描いていたものだ。

     平成不況になるとがらりと変わって、大恐慌がやってくるだとか、

    超悲観論が目白押しだ。

     予測というのは、その時代の気分を少しくらい差し引かなければならないのかもしれない。


     願望としては、この経済社会はあまりにも経済価値に偏りすぎたので、

    大きな反省を迫られるような転機を迎えてほしいとわたしは思っている。

     これまで富や安定を築いてきた人にはたまらないことかもしれないが、

    この社会はあまりにも歪みや偏りが大きくなりすぎ、

    若者や子どもたちに多大な犠牲を押しつけすぎている。

     それを是正することもできなかった社会に問題があるのだ。


     今世紀というのは、政府や官僚にあまりにも期待しすぎたと思う。

     年金やら健康保険制度、産業保護など、あまりにも政府の力を過信しすぎた。

     そのために企業や個人は活力を失ってしまい、

    未来への希望を創造するより、未来への安定のために拘束されるようになってしまった。

     自由や活力より、奴隷の安定をのぞんだのである。


     未来をつくるより、時間がとまることを期待したもののようだ。

     新しい未来を夢見ることができなくなってしまったのだ。

     そして中古品の安全な人生を送ろうとしたが、

    そのような試みはぎゃくに、未来の先細りを招いてしまった。

     振り子は極端にふれすぎたので、すこし戻らなければならない。


     社会は新しい目標をつくれるだろうか。

     車や電化製品を国民レベルで求めたり、ヨーロッパの近代国家をめざしたり、

    そんな大きな目標をふたたびみいだすことができるだろうか。


     いまのところ、そんな目標はとんとないように思える。

     科学技術はもうかつてのような夢を描けなくなっている。

     コンピュータやインターネットがこれからの社会のすべての人の目標になるような、

    なにかを提供してくれるとは、いまのところ思えない。


     あるいはけっきょくは、技術や科学の問題ではなく、

    人々の活力や冒険心の問題なのかもしれない。

     このようなフロンティア精神があってはじめて、技術や科学は、

    魅力ある未来を創造するのかもしれない。


     現在の社会はあまりにも新しいことや創造力にたいする渇望を失ってしまった。

     若者は安定と、マスコミやだれかからの指示や命令だけを待っている。

     これでは社会は活力を失い、迷走してしまうだろう。


     活力や冒険心が生まれる世の中――それは皮肉なことに、

    かなりの惨劇や壊滅が起こらないと、生まれ出てこないのかもしれない。

     安定や保身の確保できる社会には、そんなものは必要ないからだ。

     こんな世の中はそんなに望みたいものではないが、

    そこから船出しないことには、未来はないのかもしれない。




                                      (終わり)




       全自動分業社会の虚しさ


                                              1997/9.





      われわれの生活はとても便利なものになっている。

      のどが乾けば、自動販売機でジュースを買えるし、

     どこか遠くに行きたければ、電車や車が運んでくれるし、

     食べ物はスーパーがとり揃えてくれているし、

     われわれの欲求のほとんどは、かんたんに満たすことができる。


      だが、このような社会はわれわれにとてつもない虚しさと価値のなさを味わわせる。

      欲求がかんたんに満たされるのは、人生にとっては、あまりにも虚しすぎるのか。

      また人々の欲求を満たすための職業に従事することは、

     われわれに虚しさや自己の卑小さ、無価値さを味わわせる。

      自分の人生は、ただ人にモノを売ったり、モノをつくったり、ネジをはめたり、

     モノを運んだり、これだけの価値にすぎないのかと愕然とさせられる。


      この「全自動分業社会」は強烈に自己の無価値さを味わわせる。


      なぜ、ひとつの職業につくことは、こんなに価値のないことに思えてしまうのだろう。

      われわれはなにを得られれば、満足するのだろうか。

      人間にとって、価値の充実感を味わわせるものはいったいなんなのだろうか。

      満足や充足感はなにによって得られるのだろうか。


      現在の職業生活は、なぜか価値や誇りを見つけにくい。

      だれも評価したり、称賛したりすることがほとんどない、あたり前のことと

     されているからだろうか。

      われわれは人生のどんな場面でも、評価や認知を求めているのだろうか。

      評価や認知をもとめて、若者たちはカッコイイ職種やブランド企業なんかに、

     殺到するのではないのか。

      人は、「ほめられる」ことを目標にしているのだろうか。


      もしそうだとするのなら、たいていの職種では人から評価されたり、

     認知されたりすることはない。

      ましてや企業内ならともかく、一般の人たちに認められるということはまずない。

      製造業や運送業、小売業、土建・建築業――ほとんどの職種は、

     だれにも称賛されることはないし、拍手されることなんてまずない。

      こういったことに、職業の虚しさといったものがあるのかもしれない。


      自分の名前が売れるような職種――芸能界や文学界、スポーツ界、

     といったものには、多くの称賛や評価が集まる。

      だが、たいていの――ほとんどはそうだが――職種には、

     このような評価や称賛はまったくない。

      ただ仕事をしているだけであり、あたり前のことであり、だれも見向きもしない。

      この全自動分業社会では、そのような職種があってこそ、成り立っているものだ。

      だれも認めない。

      インフラ的な仕事は、虚しさが蓄積する一方だ。


      またほとんどの必要や用途が、産業や商売によってまかなわれる社会は、

     人々の関係をビジネス・ライクのようなひじょうに薄情なものにしてしまい、

     われわれにますます虚しさや疎外感を蓄積させてしまう。

      街に出れば、ロボットのように接する店員ばかりに出会う。

      この高度に発達した分業社会は、人間をみんな、

     役割だけを果たすロボットのようにしてしまうのではないだろうか。

      人間らしいつながりはどんどん失われてゆく。

      まるでこの社会は、自分の欲求を満たすためのシステム機械のようだ。


      われわれはほんとうに、このようなうら寒い社会システムを求めているのだろうか。

      社会の成員はすべて、自分の欲求を満たすための道具になり、

     あたたかみややさしさのつながりのない関係になる。


      たしかにこの社会システムはとても便利だ。

      ほしい車や電化製品、本や音楽などはすぐに手に入れることができるし、

     食べたい食事やほしい飲み物もすぐに得られる。

      ひじょうに便利だし、機能的であり、もう手放せはしないだろう。


      だが、孤独感や空虚さは心の底で増す一方であるし、

     社会システムの一部品にしかすぎない職業も、虚しさのみをつのらせる。

      とくに仕事の価値というのが見えなくなってきている。

      自分の仕事が社会に役に立っているのかわからないし、

     意味があるのかすらわからないし、、

     自分の存在の価値とはなんなのか、見出せなくなってしまう。

      機能的で便利すぎる社会は、われわれの生きる意味を奪いとってしまう。


      われわれはこの全自動機械のような社会システムを求めているのだろうか。

      われわれは自分の欲求や欲望がすぐに満たされる社会が、

     最高の社会だとほんとうに信じているのだろうか。

      人間は欲求や欲望の充足のみに生きているのだろうか。

      そしてその欲望は――産業社会に与えられる欲望は、

     果たしてほんとうにわれわれが求めているものなのだろうか。

      われわれは車や電化製品や趣味や、そんなものだけを求めているのだろうか。

      人生の意味とはそのようなものなのだろうか。

      人間の生涯はそのようなものだけを求めるためにあるのだろうか。


      人間はいったいなにを求めて生きているのだろうか。

      現在の社会システムはわれわれの社会的欲望を満たすと同時に、

     食糧や生存のための道具を流通・分配するために存在すると考えられる。

      食糧を社会全般に行き渡らせるためには、人々の欲望を媒介にして、

     その流通を可能にさせるのである。

      欲望を喚起させることによって、食糧は社会全体に回ってゆく。


      これまでの社会は、ほしいモノや欲望が多くあったから、

     その食糧の分配は、うまく回ってきたといえる。

      だが、先進国のなかでも欲望のネタが尽きてきた現在、

     はたしてこの仕組みをいつまでもつづけてゆくことができるだろうか。

      わたしは拡大や進歩が魅力的なときだけ、

     このような仕組みは継続することができると思うのだが、杞憂にすぎないのだろうか。

      拡大や進歩がとまってしまったとき、つまり魅力が失われたとき、

     このような分業社会は成り立つのだろうか。

      欲望やほしいモノがなくなったとき、

     ただこの分業社会の維持機能だけが、注目されることになってしまう。

      つまり重荷だけが目立つことになってしまう。

      こうなれば、われわれ――とくに若者たちはこの全自動分業社会を

     継続してゆく苦労を背負いつづけられるだろうか。



      高機能分業社会。

      われわれは他の人のための食糧を生産する人だけになり、それを運ぶ人になり、

     管理し、売る人になり、自動車や家電をつくる人になり、配送する人になり、

     それを売る人になる。

      この広大の社会ではわれわれ個人のできることや行うことはますます細分化され、

     微少で卑小な役割だけになり、ますます自分の存在の価値が喪われていってしまう。

      わたしはこの社会では、ただネジを締めるだけの価値になり、

     モノをピストン運動のように配送するだけの価値になり、

     店で商品を売るだけの存在価値になってしまう。

      ひじょうに微少で微妙な意味や価値しか、この高機能分業社会では果たせない。


      人生の価値や意味がどんどん認められなくなっている。

      こんな個人の価値や意味が見出せない社会に、

     われわれは人生のどんな意味をもとめればいいのだろうか。

      われわれは、ネジを締めたり、売り上げを伸ばすだけの人生に、

     どんな生きがいや価値観を見出せばいいのだろうか。


      分業が高度化、機能化すればするほど、

     社会的関係はますます道具的になり、機能的になり、希薄になる。

      わたしはただだれかの欲望を満たすための道具になり、

     他人はわたしの欲望を満たすための道具だけになる。

      他人はただわたしのために食糧や製品をつくり売ることによってのみ価値をもち、

     わたしはただ他人にとって、商品をつくり売るだけの価値でしかない。

      あまりにも機能的・役に立つだけの関係になってしまった。

      わたしは他人にとって、ただ機能的な役割を果たしてのみ、

     価値のある存在になってしまったのである。


      高機能分業社会――つまり欲しいモノがすぐに手に入り、

     欲しいモノがいつでもどこでも手近にある社会とは、

     そのような帰結を示してしまうのである。

      つまりわたし以外の他人をすべて、機械のような存在にしてしまうのである。


      ほしいモノがすぐに手に入れられる社会はとてもすばらしいだろう。

      自分の趣味や必要なモノがいくらでも充実している社会は、

     夢のような生活を送れるだろう。


      だが、われわれは消費者としてだけ生きるのではなく、

     生産者・労働者として、大半の人生を過ごさなければならない。

      つまりわれわれの大半の人生は、モノを運んだり、売ったりする、

     たいして価値も意味も見出せない仕事に押しつぶされてしまうのである。


      かぎりなく便利で機能的な社会のコインの裏面は、

     かぎりなく無意味で無価値に感じられる労働がついて回るのである。


      わたしは消費者として、便利で機能的な生活を享受しようとすれば、

     かぎりなく虚しい労働時間を大量に費やさなければならないのである。

      消費者だけを選択することはできない。

      生産者としての時間を費やさないことには、

     消費者になるためのカネを得ることはできない。


      果たしてことの高機能分業社会は、

     ほんとうに効率的な生活を送れているのだろうか。

      たとえばある程度の距離のあるところに行こうとすれば、

     鉄道などの交通費が必要になり、働かなければならない。

      歩いていけば、目的地にはすでに着いているのだが。


      この社会にはそのようなパラドックスがついて回る。

      われわれはさまざまな、尽きることのない欲望をもってしまったために、

     その欲望を満たすために、はるかに多くの時間を、

     労働に費やさなければならなくなっている。

      欲望を満たすためには、長大な準備が必要なのである。

      それも、虚しく、価値も意味も認められない準備にである。


      科学者や技術者がつくりだす商品やサービスはとても魅力的だ。

      われわれはこれらを享受したいと思うから、働く。

      だが、このような商品やサービスはほんとうに必要なものだろうか。

      とくに現代のように売買されるものが、趣味や娯楽・レジャーに変わってきたとき、

     それらを享受するために、長大な時間を労働に費やさなければならないのだろうか。

       趣味や娯楽のために、われわれは意味や価値の認められない労働に、

      多くの時間を費やすことができるだろうか。


       他人のつくる商品やサービスをほしいと思えば、

      われわれはますます多く働かなければならない。

       そうするとますますわれわれは自分の時間をもてなくなるし、

      自分の人生を他人のために捧げ尽くさなければならない。

       王様になりたいと思ったがために、奴隷の時間の方が長すぎたといった具合だ。

       われわれはみんな王様のように豊かな消費生活を送りたいと夢見たが、

      モルモットのようにただ車輪を回りつづけているようなものではないだろうか。


       他人のつくったモノを得ようとして、大半の時間を労働に奪われるか、

      それとも他人のサービスをあきらめて、自分の時間をたいせつにするか。


       これまでの時代は、アメリカ的消費生活に代表されるように、

      他人のつくった車や家電がとても魅力的だったから、

      それらの目標のために働くことができた。

       だがこれらの目標がほぼ全家庭に行き渡った現在、

      ただ労働や自己の無価値さだけが目立つようになってしまった。

       あれもこれも欲しいと欲張った社会は、

      ものすごく高密度な労働社会を置き去りにしていったのである。


       われわれは王様のつもりでアメリカ消費生活を手に入れたが、

      気づいてみたら、ただ産業奴隷の毎日が、

      自分自身の人生を奪いとってしまっただけではないのだろうか。


       あれもこれもほしいという欲望の肥大化は、

      あれもこれもしなければならないという、

      高密度な労働社会をもたらしたのではないだろうか。

       つまりほしいモノがすぐに手に入る分業社会は、

      人生の大半はその果実を得ることより、

      労働に費やす時間のほうが多いのである。


       これではまるでほしいモノの奴隷ではないのか。

       われわれがモノを所有し、支配しているというよりか、

      ほしいモノに支配されてしまって、振り回されているに等しい。

       つまりわれわれは欲望を支配しているのではなく、欲望に支配されているのだ。


       われわれはこのような状態から脱しなければならない。

       モノに支配されのではなく、モノを支配しなければならない。

      生産や企業に支配されるのではなく、それらを人間が支配しなければならない。

       本末転倒である。


       われわれはこれから、あれもこれもほしいと欲望を燃え上がらせて、

      人生の大半を生産や労働に費やす人生を送りつづけるほうがよいのか、

      それとも、欲望の数を減らして、自分の人生をとりもどしたほうがよいのか。


       もちろん、自分の人生を自分の手のうちにとりもどすに越したことはない。


       自分の人生をとりもどすに従い、現代社会の機能的だけの関係から、

      そうでない部分もとりもどせるだろう。

       なぜなら、あれもこれもほしいと欲望するわれわれの心が、

      この機能だけに特化した社会を生み出してきたからだ。


       機能だけに特化した社会はとてもぎすぎすしていて、薄情で、よそよそしい。

       たとえば機能的に機械化された工場なんて、

      とてもあたたかみのある場所とは思えないし、

      スーパーやコンビニの機能的な店員も、よそよそしくてとてもさみしい。

       機能的で合理的すぎる会社の人間たちは、やはりとてもドライだし、

      家族が経済的な機能だけでつながっていたとしたら、残酷すぎる。

       機能的でない関係はすべて排斥されるからだ。

       ムダや余剰な関係は、すべてカットされる。

       そのような関係は、人間らしさを失った、損得だけの間柄をつくりだしてしまう。


       このような機能的な関係は、ほしいモノがすぐに手に入る便利な分業社会を、

      われわれが求めたからではないだろうか。

       われわれはこの便利さとひきかえに、人間のつながりやあたたかみ、

      機能的でない、ムダやゆとり、役に立たない部分を切り捨ててきたのではないだろうか。

       機能的すぎる社会は、人間の心の豊かさを、

      極限まで奪いとってしまうのである。


       われわれはこの便利な社会の、このようなコインの裏面を

      反省してみるべきではないだろうか。


       これからは機能的でないもの――ムダなものや余剰なもの、役に立たないもの、

      といったものをおおいに、この社会にとりもどしてゆくべきではないだろうか。


       さもないと人々の心のつながりはますます失われてゆき、

      人々の心の中から、社会の規範や規律、道徳心といったものが失われてゆくだろう。

       人々は人間を道具や利用的価値からしかながめられない社会にますます嫌気をさし、

      この価値観に反逆するかたちとして、犯罪が多くなるだろう。

       人々の精神は荒廃してゆき、すっぽりと社会のなかのつながりが抜け落ち、

      無秩序状態が現れてくることになる。


       ほしいモノがすぐに手に入る機能的な分業社会は、

      一面ではとても便利ですばらしい社会のようにも思えるが、

      人間を道具や機械のような存在にしてしまうので、

      社会的関係をぶちぶちに分断してしまうのである。


       社会のなかの成員ひとりひとりがその一体感を失ったとき、

      社会的機能はもはや維持することはできなくなるだろう。




                                      (終わり)





    会社はなぜこんなにつまらないのか?
             ――親のようには生きたくない――


                                             1997/9/24.





     会社というものはものすごくつまらない――若いころのわたしはそう思っていたし、

    いまの若者はもっと強く、潜在的に思っているだろう。


     現在のわたしはもう30歳過ぎで、さすがにそんなことは言ってられなくなってきたが、

    なぜなら現実問題として、食べてゆくことができないからだ。

     ただこれからの若者たちはもっと企業を嫌ってゆくと思うし、

    サラリーマンの親たちを軽蔑しながら育ってゆくだろう。

     豊かになればなるほど、牢獄に閉じ込められるようなサラリーマン生活に

    嫌気をさすのは確実だろう。


     若者や学生たちは企業やサラリーマンを嫌い、

    企業に首輪をかけられた親の二の舞になることをとても恐れている。

     だから大人になりたくないと思っているし、親をとても軽蔑している。


     わたしは20代をそのような気持ちで過ごしたが、

    だけど、食べてゆくためにはそんなことを言っておれない。

     いまは生活や将来のためにサラリーマンを全面的に否定することはできないが、

    (生活の糧を得るのは、企業に就職するしかないのだから)、

    これからの若者たちがいまのような、つまらない企業社会に呑み込まれてゆくことは、

    なんとかして避けるようにすることが、先行世代のせめてもの努めだと思う。

     このままでは子どもたちがあまりにもかわいそうだ。


     企業社会を批判し、反省し、人間や社会がいきいきと生きれるような、

    楽しい、豊かな社会を、われわれは切り開いてゆくべきだ。

     そのためにはなぜ企業社会はこんなにつまらなく、おぞましく、

    恐ろしいのか、分析してみるべきだと思う。


     企業というのはなぜ、こんなにもつまらないのだろうか。


     わたしが学生のころ、もっていた会社にたいするイメージというのは、

    大人たちをロボット集団や羊の集団のように盲従させるところだというものだった。

     つまり人間を統制のとれた奴隷にしてしまうところだと思っていたのだ。

     これはテレビや写真などでよく写される通勤ラッシュのサラリーマンの姿から、たぶんに、

    思い浮かべていたところもあるだろう。

     大人たちを宗教信者のように盲従させてしまい、

    そんなところに呑み込まれてしまうしかない自分の将来をわたしは怖れた。


     いまから思えば、このようなサラリーマンにたいするイメージというのは、

    あまりにもステレオ・タイプ的で、実際を知らなかったともいえるかもしれない。

     なにしろ、学生というのは一般社会から隔離されており、

    つまり塀のなかの刑務所に閉じ込められているようなもので、

    マスコミからしか、じっさいの経済社会の様子を知ることができないからだ。

     たとえていうなら、学生にとって、企業社会というのは外国のようなものだったのだ。

     塀のなかから、こわごわと奴隷のようにこき使われている異国の人たちを

    ながめるような感じで、サラリーマンたちを見ていたのだ。


     だいたいマスコミから与えられる情報というのは、否定的なものばかりで、

    サラリーマンの悪い面や悪い行いなどが露出されがちだ。

     企業犯罪や過酷な労働条件、残酷なノルマ、そういったものばかり、

    マスコミに与えられて、脅えない子どもたちはいないだろう。

     われわれはこのような親の状況をみて、なぜかれらは黙々と会社勤めに通い、

    なにも言わず、じっと耐えつづけるのか、ふしぎでならなかった。

     ふしぎを通り越して、奴隷のような境遇に埋没する親たちにいらだちを覚え、

    そのふがいなさにあきれかえり、軽蔑した。

     子どもたちが親をバカにするのは、このような去勢された姿があるからだろう。


     ほかに子どもたちが影響されるものに、ロックがある。

     たいがいのロックの歌手は、サラリーマン社会をぼろクソにバカにしているし、

    あんな人生には生きがいがないと叫んでいる。

     代表的なところでは、尾崎豊や浜田省吾などがいる。

     かれらの叫びにはものすごく共感するところがあるのだが、

    若者向けのみのマーケットになっているからか、社会を変えるような力はほとんどない。

     どうして大人たちはあんなつまらない人生を送れるのだろうかと、

    子どもたちはふしぎに思わずにはいられないだろう。


     ワイド・ショーなどの宗教パッシングもある意味では、

    企業社会との類似性を感じさせる。

     教祖に洗脳されたり、盲従したりする信者の姿はものすごくおぞましいのだが、

    このような批判のまなざしはとうぜん、この形態とよく似たかたちの企業に向かうだろう。

     なにからなにまでそっくりで、「会社教」に洗脳されることを

    若者たちがなんとか避けようとするのはとうぜんだろう。

     むかしの人は企業成長に夢を託すことができたのだろうが、

    いまの若者にとってはそのような夢のパイがずいぶん小さくなったから、

    ただ支配−服従の関係だけが浮きあがって見えてしまうことになるのだ。


     企業と個人の利益がぴったりと重なるという時代も終わってしまった。

     国家と個人の利益も同様だ。

     国や企業が富めば、自分も富み、幸せになれるという幻想は破産した。

     カネやモノを際限なくほしがった時代は終わり、

    若者たちは自分の時間や趣味を大事にするようになったのである。

     利益が重ならないから、企業はただ個人の幸福を収奪する存在にしか、

    見えない時代になったのである。

     この大きな変化に企業や経営者は気づかなければならない。


     このように塀のなかの子どもたちは、大人たちの企業社会を、

    どこか異国のおぞましい世界としか見ていない。

     学校教育の期間が長引きすぎ、じっさいの経済社会との接点が

    あまりにもなさすぎるから、必要以上に企業活動を嫌ってしまう、

    というところがあるのかもしれない。


     わたし自身は企業社会をかなり嫌って、サラリーマンになることにためらいを感じており、

    ほかの友人たちもてっきりそのような気持ちを抱いているものだと思っていたが、

    社会に出るときにはみんなあっさりと就職していったことには少々驚いた。

     なんのためらいも嫌悪感も抱いていないのだろうかと思った。

     ただ入社してもすぐに辞める若者たちが急増しており、頼もしいかぎりだ。

     若者たちはもっと反骨精神をもち、これまでの腐った企業社会を変え、

    人間らしい社会を、自分の人生と後続世代のために、構築してゆく努力をすべきだ。

     どうも親の世代には、若者たちのこのようなつもりにつもった不満が

    見えないのかもしれないが、世代によって認識する環境がかなり違うことを

    理解してもらいたい。

     もうがむしゃらな労働に生きがいがあるような時代ではないのだ。

     それは奴隷の人生にしか見えないのだ。


     なぜ若い世代と中高年の世代にこれほどの違いがあるかというと、

    やはり貧しい時代と豊かな時代に生まれ育った環境の違いだろう。

     豊かな時代に育った若者たちは、旧世代のような勤勉に働く必要もないし、

    だいいち、物質的豊かさが達成された現在、目標や価値観は変わらざるをえない。

     物質的な豊かさを手に入れるという目標は終わってしまったのだ。

     そのような目標がないのに、旧世代のように若者を長時間労働に縛りつけることは、

    まず不可能といっていいだろう。

     働く必要がないのである。


     これまでの世代の人は、働くことに生きがいを見出せたかもしれない。

     われわれ若者は働くことに生きがいなどまるで求めないし、

    自分の時間や人生、交遊、趣味などを大事にする。

     どちらかといえば、仕事や会社に生きがいをもとめる人を軽蔑している。

     ひとつの会社に忠誠心を捧げて、朝から晩まで仕事、

    家に帰れば、空っぽで、自分がなにもない人生――われわれはそのような親の姿を見て、

    怖れおののき、嫌悪してきた。


     だから仕事や会社に生きがいをもとめる生き方というのは、まるで理解できないのだ。

     そんなのは、自分の人生を捨てるに等しいのだ。

     われわれがもう何十年か早く生まれていたら、そのような勤勉な生き方も

    じゅうぶん理解できたかもしれないが、生まれ育った時代環境がまるで違う。

     仕事が人生の目的であるような段階はもうすでに過ぎ、

    仕事は人生を楽しむための、あくまでも手段にしかすぎない段階にきているのである。


     社会が経済的に成熟すれば、そのような段階に意識が進むのは当然だ。

     だが、この企業社会はなぜか、前段階にとどまりつづけている。

     貧しい時代の経済体制・企業体質のまま、時間がとまってしまっている。

     年金や退職金を鼻の先にぶらさげられて、サラリーマンがあまりにも

    おとなしくなったからか、それとも企業社会を矯正するようなシステムが、

    政治や社会世論のなかにまるで育たなかったからだろうか。


     このような歪みは、貿易黒字や貯蓄ばかりが貯まる国民性、

    働いてもなにも使うことがない日本人といった姿に表われている。


     なんのためにカネを稼ぐのか、なんのために働くのか、

    といったいちばん肝心な問いが、日本人のなかからすっぽり抜け落ちている。


     日本人は金持ちになって人生を楽しもうとしたのではなく、

    ただ働いたり、会社を大きくすることだけを目的にしてしまったのである。

     食事を楽しむより、獲物を追うことばかりに熱中し、

    食べることを忘れてしまった哀れな日本人の姿がここにある。

     これでは、個人は幸せになれないし、人生を楽しむこともできない。

     自国民の消費マーケットが成熟しないから、とうぜん経済活動も冷めてしまう。


     われわれ若者たちは自分の人生を大事にする生き方を志向している。

     それなのにあいかわらず企業社会は、われわれから人生を奪いとろうとしている。

     親のような自分がない人生を怖れているのに、

    そのような人生を生きなければならないわれわれは、将来をたいそう悲観している。

     子どもたちの鬱積した不満は、このようなところにある。


     子どもたちは将来の生活の安定のため、早くから一流大学の入学、

    一流企業の就職をめざして、受験勉強がおこなわれる。

     だが、そのような過当な競争も、はたして子ども自身がほんとうに望む人生なのか、

    はたしてかれらが成人し、あるいは中高年になったとき、

    このようなコースがほんとうに成功した人生となるのか、

    といった問いが不問のまま、受験競争がおこなわれている。


     今日の花形産業が、明日には衰退しているのが、経済というものであり、

    親たちは何十年も前の成功体験を子どもたちに押しつけている。

     何十年か先のことを予測して、子どもの将来のことを考えているのだろうか。


     子どもたちはほんとうにかわいそうだ。

     一流企業に就職したからといって、ほんとうに幸せな人生を送れるかわからないし、

    自分が定年退職するころには、入社したころ一流だった企業も、

    リストラをおこなうほど、衰退しているかもしれないのだ。

     なぜ母親たちは子どもたちを受験戦争に放り込むのだろうか。

     学歴こそが、将来の人生を幸福にしてくれる唯一のパスポートと信じているのだろうか。


     子どもたちは一流企業に就職するために、少年期の大半を勉強に費やす。

     そういうコースしか、人生の勝利者になる道はないと思いつめて、

    必死に将来に備えての勉強をする。

     そういうコースから一歩でも踏み外すことを極端に怖れる。

     人生のいちばん好奇心に満ちた時代を、未来のプレッシャーのために、

    台なしにしてしまうのである。

     かれらは未来を怖れすぎた親たちの犠牲者なのかもしれない。

     そしてよい大学、よい企業に入ったからといって、

    一生安泰に暮らせるとは限らないのだが。


     親たちは安定企業や公務員などになれと、

    子どもたちに安定志向をひじょうに押しつけてくる。

     わたしはそのような親を、依存ばかりして、しみったれているように思えた。

     なぜ、依存とか安定とか、そんな情けない生き方を、

    さも正当な生き方のように、親たちは押しつけてくるのだろうか。


     親たちは企業を営利団体というよりか、福祉団体のように捉えているところがある。

     安定企業に入れば、一生食べさせてくれるという親心からだろうが、

    そのような精神が企業を衰退させることにつながるのではないかとわたしは思っている。

     活力やフロンティア精神が失われてしまうのだ。

     貧困が激しすぎる社会は悲惨だが、あまり守られすぎる社会も、

    人々は新しいことや革新に手を出せなくなり、経済が停滞してしまうことになる。


     親たちがこのようなことを言うようになったのは、

    大きな企業こそが、福利厚生などの保障面を充実させてきたからだろう。

     企業が福祉面をどんどんつけ足してゆくから、

    そのようなところで企業を判断するようになった。

     福利厚生がしっかりしている企業が、よい企業になったのだ。

     企業が生涯の面倒をみるという姿勢を表わしたから、

    多くのサラリーマンは会社人間になり、滅私奉公してきたのだろうが、

    残念ながら、企業活動は経済にほかならず、何十年も先のことまで保障できない。

     とくに現在のように多くの市場が成熟化してしまった転換期には、

    企業は終身雇用も年金も保障できなくなってしまった。


     それなのにこれまでの人たちは企業に人生を奪われ、

    それを許してきた。

     なぜかれらは奴隷のようになってしまったのか。

     けっきょくは、年金や退職金を「人質」にとられていたからということになるだろうか。

     定年まで勤めないことには、大金を手に入れることができない。

     そういうことでサラリーマンたちは、もの言わぬ羊になったのだろうか。

     子どもたちにはこのようなところが見えないから、

    去勢されたような大人たちの姿にいらだちを覚えたのである。


     むかしの人はほんとうに企業や仕事に生きがいを求められたのかもしれない。

     終身雇用を約束されているのなら、サラリーマンはがむしゃらに恩のある企業に

    報いようとするだろう。

     だが、いまの若者から見える彼らの姿は、ただの企業の奴隷集団だ。

     北朝鮮のマインド・コントロールされたような集団と同じに見える。


     時代が変わってしまったのである。

     あるいは価値観が変わってしまったのである。

     企業は魅力あるところでなくなり、人生を収奪する場になってしまった。

     利益が、個人と企業とのあいだで、まっぷたつに分かれてしまったからだ。

     もう個人と企業の利益がぴったりと重なるような幸福な時代は終わってしまったのだ。


     これから個人と企業の対立する時代が始まるのかもしれない。

     まだまだ不満の臨界点には達してはいないのだろうが、

    企業が雇用者にたいして、なんの社会保障もできなくなるような時代がくれば、

    その対立は表面化し、噴出するだろう。


     ただ、われわれは企業に就職しないことには生活の糧を得ることができない。

     企業と対立ばかりしていても、メシを食えるわけではない。

     利益が重ならない時代に、個人と企業は妥協点をどこいらに求めるだろうか。


     戦後50年、社会の価値観はどんどん変化している。

     人々は国家と自分の幸福は同じだという幻想の崩壊を見、

    いま人々は、企業と自分の幸福の食い違いを垣間見ようとしている。

     企業はけっして温情的な家族でもないし、われわれに幸福を与えるものでもない。

     企業はわたしの生涯を保障してくれる場ではなく、

    企業にとってのわたしとは、ただ使い捨てられる商品にしかすぎないのだ。

     それが経済や営利企業というものであり、

    生涯を保障する企業という幻想から、目を醒まさなければならないのではないだろうか。


      企業が化けの皮をはがすとき、われわれはいま一度、

     この企業という存在を冷静に見つめ直すべきである。

      企業はわれわれの生涯を保障したというよりか、

     われわれの人生を幻想によって収奪してきたのではないだろうか。

      そして社会的つながりを断絶させ、社会的規律やモラルを崩壊させたのではないか。

      自然環境を収奪したように、人間の内なる自然も、

     ――出生率の低下に見られるように――収奪されてきたのではないだろうか。


      企業は社会的存在として、その責任を果たさなければならない。

      個人や地域社会、育児を収奪するような行為は、

     社会的存在としての責任を果たしているとはいえない。

      社会の一員としての自戒ある行動が求められる。

      企業は人間のためにあるのであって、人間を支配し、収奪してはならない。


      企業への忠誠心という幻想から醒めたとき、

     人々ははじめて、企業の社会的役割を公平に見られるようになるのではないだろうか。


      企業はもうそこに幸福をもとめる場ではない。

      若者たちはもっとほかの場所にそれをもとめようと模索しはじめている。

      物質的満足が達成された現在、人々はつぎの段階に歩を進めたのである。


      まだそれがどのようなものかわかっていない。

      つぎの段階に進むために、企業は収奪してきた人間を解放しなければならない。

      企業は社会の住人として、社会への貢献をなすべきである。

      社会への貢献とは、人間の人生と時間をかれらに返すことである。

      生涯の保障という幻想のカーテンはもう通用しないのである。



       さてここまで、会社はなぜつまらないのかということを検討してきたが、

      会社がこれほどまでつまらなくなったのは、いつの時代もそうだったのか、

      それとも産業革命以降、とうとう企業が新しい物質的な夢を

      創造できなくなったからだろうか。

       企業というのは工業化時代に適応した役割を終え、

      なんらかの変貌をとげようとしているのだろうか。


       物質消費社会は大きな曲がり角にさしかかっている。

       会社のつまらなさはこのような点に起因しているのだろうか。


       わたしにはよくわからない。

       ただこの社会は生産至上主義の時代を脱し、

      生活者優位の社会に変えてゆくべきだと思う。

       このままではあまりにも人生がつまらないし、人々は幸福にはなれない。


       決められた人生、決められたコースしか生きられない社会は、

      活力や生きる気力を奪い去ってしまい、経済の停滞――

      もしくは社会の衰退を招くだろう。

       現在の心理不況とよばれるものは、人々の生きる気力の衰退にも、

      その原因があるのではないだろうか。


       人生があまりにもつまらなさすぎるのだ。

       このようにつまらなくしているものは、企業であり、

      企業や経済でしか、価値が測られないこの社会に問題があると思う。


       つまり幼年期から、企業があまりにも人間の人生を拘束しすぎているのだ。

       いまにも窒息しそうな人々が、活力ある社会を創造するのは不可能だ。


       活力をとりもどすには、企業の力をもっと弱めるべきではないだろうか。

       われわれはあまりにも企業に拘束されるから、

      人生がつまらなくなってしまうのではないだろうか。


       なんとかして、この企業専制国家――もしくは企業の恐怖政治から、

      われわれは脱け出すべきではないだろうか。

       さもないと、われわれは人生を幸福に生きられないだろうし、

      子どもたちや孫の世代は、ますます生きる気力を失ってしまうだろう。


       物質的豊かさを手に入れた現在、

      社会はそのような大きな転換を必要としているのではないだろうか。



                               (終わり)







   暴力と騒乱の時代がやってくるのか

           ――鈴木啓功『国家の終焉 国民の逆襲』を読んで――

                                             1997/10/5.





     鈴木啓功という人は1956年生まれの経営コンサルタント。

     この人が書いた『国家の終焉 国民の逆襲』という本は、

    「超サイクル理論」という理論をつかって、大胆に未来を予測した本である。

     国会議事堂が爆破されたり、サラリーマンが反乱をおこしたりと、

    常識では考えられないような物騒な予測がされている。


     たしかにそういう時代がやってくるのかもしれない。

     これからの時代は、昨日までの安定した、秩序の保たれた時代が、

    延長されて存続できる時代とは、限らないからだ。

     これからも、いままでのような秩序のたもたれた時代がつづくはずだと思いがちだが、

    そんな貧困な想像力では、これからの時代は読めないのかもしれない。


     歴史の教科書でしか見たことがないような、

    暴力や騒乱の時代がやってくるのかもしれない。


     著者によると、歴史は180年のサイクルによって動いているという。

     最初の90年は大構築の上昇の時代、残りの90年は大逆転の下降の時代。

     各90年はそれぞれ30年単位で、社会、経済、政治を構築してゆく、

    もしくは順番に政治、経済、社会が大逆転(崩壊)してゆく時代にあたるという。


     現代日本は明治以降から大構築の時代に入り、

    その構築されたものが崩壊してゆく大逆転の時代に1960年の安保闘争から入り、

    30年間で政治が崩壊し、90年代から経済の崩壊してゆく時代に入ったという。

     最後には2020年から社会が崩壊してゆく時代に入り、

    2050年には明治以降構築してきた社会体制が崩壊してしまうということだ。


     著者は現代の大逆転してゆく時代と共通した時代を、

    江戸幕府のおこった1603年からの時代と、

    1781年からの幕末に求めて、それぞれの時代に起こった事件を参照して、

    未来に起こるであろう事件や事柄を予測している。


     このようなサイクルがほんとうに歴史とぴったりとあてはまるのか疑問であるが、

    現在のような混沌とした時代には、自分たちのいる場所や位置をたしかめるという点で、

    この超サイクル理論はなんらかの手がかりを与えてくれるだろう。

     なにせ、経済成長だとか消費拡大という目的を失ってしまった時代は、

    進むべき方向も行方もまるで見えないからだ。

     地図がなにもないよりか、少しでも参考になるような地図があるほうが、

    気休め程度にはなる。

     もちろんこの超サイクル理論が絶対確実なものだとは思わないが。


     これからは経済だけを視野に入れた未来予測は不可能になるかもしれない。

     そういった意味でこの本は暴動や内戦などを視野に入れた予測として、

    とっぴに過ぎるかもしれないが、重要な示唆を与えていると思われる。


     これまでの時代はあまりにも予定調和的に安定しすぎていた。

     会社勤めやサラリーマンとしての将来を計算するだけで、

    人生設計は事足りていた。

     経済や景気だけを視野に入れておれば、ある程度将来のことは予測できた。


     だが、そのような安定した社会はもう終わってしまうのかもしれない。

     人生のまっすぐなコースはなくなってしまい、

    道端のあちこちから横ヤリを投げられるような人生になってしまうのかもしれない。

     毎日が同じことのくり返しの「終らない日常」はたまらなく息苦しかったが、

    そういう時代がうらやましくなる時代がやってくるのかもしれない。


     現代と共通する経済が崩壊する時代にあたっていた室町時代には、

    京都で土一揆がおこったり、応仁の乱がおこっている。

     応仁の乱というのはそれまでの日本人を断絶させるほど、

    大きな変化をひきおこしたものである。

     近い将来(2007年)にこれまでの日本人を断絶させるような、

    大きな変化がおこるのだろうか。

     著者によるとこの年には国民の怒りが沸点に達し、内戦がおこり、

    2025年には国民の反乱がはじまるといっている。


     2025年というのは、精神医学者の稲村博のとなえた、

    若者のアパシー化による80年周期説で予測されたカタストロフィー的状況の年と

    偶然にも重なっている。

     この説によれば、80年サイクルで社会は構築され、崩壊するとみているわけだが、

    ちょうどその中間の40年目あたりから、登校拒否や無気力な若者たちが

    急増しだすといっている。

     明治のころのアパシーは夏目漱石の小説に「高等遊民」として現れているが、

    現在のアパシーはその比ではない急増ぶりである。

     明治から昭和の敗戦までちょうど80年、そして敗戦から2025年までが

    ちょうど80年目にあたるわけだ。

     現在、将来の社会を担ってゆく若者たちの精神の無気力化が、

    じょじょに進行しつつある。


     わたしはこの点に関してはまったく非難する気はないが、

    なぜなら社会が構築されてゆく時代と違って、

    社会が完成された時代はもう目標や夢がジリ貧になってゆくから仕方がないと思うのだ。

     もはや欠点や弊害ばかりが目立ちはじめ、

    若者たちはその体制に情熱や意欲を注げなくなる。

     どちらかといえば、祖父や親のつみあげてきた積み木を、

    嫌悪するほど、ブチ壊したくなっている。

     自分たちがつみあげられず、ただできあがってしまった積み木を

    壊さないよう守り続けるだけの役割は、あまりにも不満のエネルギーが蓄積され過ぎる。

     社会はこうして崩壊に向かうのだろうか。


     鈴木啓功の話にもどると、現代と共通した大逆転の時代のもうひとつのサイクルは、

    江戸幕末であり、天明絹騒動や大塩平八郎の乱、ペリー来航などがおこっている。

     つまりは民衆の暴動や政府の崩壊などがおこるというわけだ。

     現在の政府や役人のモラルはかなり目を覆うほどになっているが、

    このまま役人のしたい放題がつづけば、これまでの時代では予想もできなかった、

    暴動や反政府活動がおこるかもしれない。


     これまでの日本人はものすごくおとなしかった。

     沈黙の民であった。

     なぜここまでおとなしかったのか、なぜここまでなにもものを言わないのか、

    不思議であったが、それは不満のエネルギーが経済成長や安定に、

    転嫁されていたからだと思いたい。

     もしそうでなければ、ただ奴隷として訓化されすぎたと考えるしかなくなってしまう。

     日本人は骨の髄まで、不満や批判を失った奴隷になり下がってしまったのだろうか。


     ただこれからの時代は経済はますます悪くなってゆくと思われるし、

    生活や経済が安定できるとは限らない。

     そのような時代にはこれまでどおりの、おとなしい、体制順応の日本人ばかりが、

    生産されるとは考えられない。

     経済や生活が安定できなくなると、人々の精神は荒廃し、

    多くの不満や批判が噴出し、あるいは犯罪が多発するだろう。

     モラルが低下するというよりか、生活を維持できない人間は、

    犯罪でも犯すしか仕方がない状態に追い込まれる。


     日本人がおとなしかったのはやはり大部分がサラリーマンだったからだと思うが、     

    著者によると、1960年から30年ごとに日本株式会社が崩壊し、日本的経営が崩壊し、

    最後にサラリーマンが反乱をおこすという。

     国家総動員法による「日本株式会社」は1990年までに崩壊し、

    それから30年、日本的経営はどんどん崩壊してゆくことになる。


     このような時代になると、サラリーマンはこれまでどおり、おとなしくしてるとは限らない。

     上司や親会社の人がブスリと刺される物騒な時代になるかもしれない。

     江戸時代におこったような豪商の打ち壊し騒動や、

    暴動がおこらないとも限らない。


     ほんとうにこれまでのサラリーマンはおとなしすぎた。

     なぜ自分の人生を奪われてもおとなくしているのか、

    なぜ長時間労働や滅私奉公を押しつけられても黙々と従ってきたのか、

    不思議でならなかったが、これからは会社が従業員の生活を保障するとは限らないので、

    一筋ならぬ物騒な時代がやってくるかもしれない。


     どちらかといえば、そのほうがわたしはまだ健常ではないかと思っている。

     平和や秩序がたもたれないことは悲しむべきことであるが、

    不満や批判がまったく表わされない時代はあまりにも異常過ぎる。

     そういった意味でわたしは少々物騒な時代でも、

    不満や批判が表出されるのは、まともではないかと思う。

     それらを全部呑みこんで秩序立てられた社会や企業は、

    異常であり、病的なものであると思う。


     これまでこの社会はそんな異常な時代がずっとつづいてきた。

     いわば親の言うことをよく聞く「いい子」ばかりが育ってきた。

     だが、親のしつけや約束に反発や反乱をおこす人が増えてくるだろう。

     なぜなら、国家や企業が人々の生活や安定を保障できなくなってきたからだ。

     そういった権威にそっぽを向くのは時間の問題だろう。


     経済がうまくいき、生活や安定を保障できるときには、

    人々は国家や企業に唯々諾々と従ってきたのだろうが、

    これがうまくいかなくなると、さまざまな不満や対立が噴出しだすだろう。


     わたしはそういったことを期待している。

     いままでの社会、とくに企業社会は腐敗し、疲弊し、

    人間を幸福に生きられない社会をつくりあげてしまったし、

    時代の精神とあまりにもかけ離れすぎている。


     個人と社会の方向があまりにもズレすぎてしまったのだ。

     制度と個人がそこまで乖離してしまったのは、

    おそらく国家総動員法などによる「経済軍国化」の役割がすでに終わってしまったのに、

    それをとめることも、やめることもできないからだ。


     われわれは軍人のように企業戦士化し、生活や個人を喪失してしまった。

     そのような生き方は、貧しい時代や国家全体が豊かにならなければならない時代、

    企業が富めば個人も富むと信じられていた時代には、功を奏した方法なのだろう。


     だが、いまの時代はまったくそうではない。

     すでに豊かさを実現し、モノあまりや目的なきつぎの段階に達してしまっている。

     われわれは次なる時代の豊かさを求めなければならないステップに踏み入れているのだ。


     それなのに、国家や企業はあいかわらず国家総動員法の時代のまま、

    この戦闘体勢をそのまま存続しつづけようとしている。


     このような大幅な乖離はどうして生まれてしまったのだろうか。

     これまでの体制のなかに、官僚や政治家、財界に、

    大きな利益や既得権益ができあがってしまったからではないだろうか。

     かれらはこのウマ味を手放せず、ますます国民と乖離しつづける。


     こうして国家や企業と、個人とのあいだに深いミゾができあがり、

    対立が――かつての歴史に現れてきたように――激化してゆくのだろうか。


     このままでは、歴史のような民衆暴動や反乱がおこってもおかしくない

    状況になってしまう。

     これまでの日本人では考えられないくらい、日本人は変貌してしまうかもしれない。

     国や企業のいうとおり、おとなしく従ってきた日本人は、

    ついに武器を手に持って立ち上がりはじめるかもしれない。


     経済的な豊かさを手に入れる目的がなくなり、

    経済的な右肩下がりの時代のために、

    企業や国家が社会保障を保証できなくなる時代になり、

    多くの人の生活が困窮するような事態にたちいれば、

    これまでおとなしかった人たちもさすがに怒りが爆発するだろう。


     現在の官僚、政治家、企業のトップのモラルの低下を見ていると、

    国民の生活を真摯に考えようとする姿勢はまるで存在しない。

     国民が信頼してきた役人や経営者たちの腐敗が目に余るようになれば、

    国民たちはついにその信頼の絆を放棄してしまうだろう。


     そのときには、暴力や騒乱の時代がやってくるのだ。


     もうこれまでのような、物質的豊かさを追い求める時代は終わってしまった。

     かつて戦前の日本は、先進国がとうに放棄してしまった植民地化を、

    いつまでも継続させて、先進国から非難された。

     現在の日本も、戦前と同じように経済軍国化を手放せずにいる。


     大きな方向転換が必要なときに、あいかわらず

    過去の成功体験をくり返してしまうのだ。

     いま必要なのは、国家総動員法による経済軍国化の体制をとくことだ。

     これをやめないかぎり、国家と国民の利益はますます乖離しつづけるだろうし、

    個人は企業や国家に搾取されたまま、幸福な生活を送れない。


     時代にそぐわなくなったものは、経済至上主義なのだ。

     これをやめないかぎり、歴史にたびたび現れてきたような、

    国民の暴動や反乱という事態が、現実のものになってしまうだろう。


     だが、いまの官僚や政治家、経営者たちは、

    とてもこの方向転換をできるとは思われない。


     鈴木啓功が指摘するような愚かな歴史のサイクルは、

    ふたたびくり返されるのだろうか。

     われわれは歴史から学ぶことはできないのだろうか。




                              1997/10/11.. (終わり)




     消費マインドの落ち込み


                                           1997/10/19.





     自動車やパソコン、電化製品、百貨店、スーパーなどのモノが

    ぜんぜん売れなくなっているようである。


     わたしは「ざまあみろ!」とほくそえんでいる。

     なぜなら、バブル時代に強迫的な「高級品志向」とか「ブランド品志向」を

    押しつけられた経験をもっているからだ。

     だからいまの消費低迷は、好ましく思っている。

     マスコミやまわりの人にむりやり押しつけられて、

    モノを買わなければならないのはたまらない。


     これは案外、わたしひとりだけの心情ではなく、

    バブル時代に購買意欲をそそのかされた多くの人たちの気持ちではないだろうか。

     だから、いまの人は消費にそっぽを向いてしまっているのである。


     ほしいモノがなくなったというのが、いちばん大きな要因だ。

     自動車やら電化製品やら、ブランド品などもうほとんどの家庭に行き渡ってしまった。

     消費が低迷するのはとうぜんである。


     消費市場が大きな転換に立たされているのである。

     だが、これまでのような製品のなかから、高度成長期のときのテレビや車のような、

    人々をわくわく、うきうきさせるような商品が生まれ出てくるとはとても思えない。

     もうほしいモノがなにもない。


     ほしいモノがなければ、なにもモノを買う必要はないのだが、

    それで商売をしている者たちにとっては、ひと事ではない。

     なにかを売らなければ、メシを食えないのだから、たまらない。


     でも、ほしいモノがなにもない。

     わたしの場合、本さえ買えればよいのであって、ほかはほとんどなにもいらない。

     自動車もいらないし、ブランド品の服もバッグもいらないし、旅行にはあまり興味がないし、

    酒もそんなに飲まなくてもいいし、レジャーもあまりしなくていい。

     これでは経済が回らない。


     一時期、わたしもブランド品などを買っていた時期もあったが、

    そんなものに大金をはたくのはアホらしいと思って、買うのをやめてしまった。

     それからバブルが崩壊して、消費低迷がつづいているわけだが、

    ショッピング街のモノにあふれた店を見ていると、

    まだこんなにたくさんのモノを買う人がいるのかと驚いてしまう。


     わたしにとっては、モノやファッションの魅力というものの、

    化けの皮がはがれてしまって、なんの魅力も感じないから、

    あいかわらずモノにあふれた店を見ていると、げんなりしてしまう。


     モノやらブランド品などが、「ステータス」や「優越」を表わされる時代は、

    もう終わってしまった。

     もう、モノにそのような「物語」が付与されなくなってしまった。

     これまでのモノにはさまざまな良いシンボルが象徴されていたわけだが、

    そのようなシンボルはありふれて、手に届くものになり、そして魅力を失った。

     物語のあるモノは脱色されて、ただの機能的道具に戻ってしまったのだ。


     モノがあいかわらず魅力的で、ステータスや物語が付与されているように感じられるのは、

    世間知らずの高校生やら若者たちだけであって、バカみたいである。

     モノや消費に踊らされるのは、OLやら女子大生と年齢が下がってきて、

    とうとう女子高生だけになってしまった。

     さいきんでは、中学生のロック・グループなんかが出ているが、

    なんだか、大人たちの操り人形のようで、かわいそうだ。

     もうバカな子どもから搾取するしかないほど、

    生産者側の魂胆は見抜かれているのだろうか。


     物質消費の時代は終わってしまった。

     では、どうすれば、経済は回り、

    どうやれば、われわれは生活の糧を得られるのだろうか。


     一時期、インターネットによる未来社会がやってくると喧伝されていた。

     わたしは多くの人が作家や画家、映像家、音楽家などの芸術家になり、

    それでメシが食えるような夢ある社会になるのではないかと思っていたが、

    いまのところそのような動きは現実にはない。

     どこか企業に勤めるしか、生活の糧を得ることはできない。


     その企業もいまはもうボロボロである。

     10月の株価なんか見ていると200円割れの上場企業がぼろぼろあるし、

    さいきん、わたしの身の回りの店も閉店が目立ってきた。

     政府の景気対策で減税とかいろいろ言われているようだが、

    わたしは勉強不足でよくわからないのだが、このような景気対策が

    ほんとうに景気をよくすることができるのか疑問に思う。

     消費が落ち込んでいるのは、ほしいモノがもうあまりないということだから、

    いくらフトコロが暖かくなったとしても、さして購買意欲がわくとは思えない。


     もっと商品や消費を魅力あるものにしなければならないと思うのだが、

    だけど、アメリカン・ライフ・スタイルが完成した現在、

    これから魅力ある商品や生活スタイルを創造するのはなみたいていではないだろう。


     これまでの時代は終わってしまったのである。

     新しい時代の、新しい魅力や目的を創出することができるだろうか。

     いまのところ、な〜んにもない。

     せいぜい、インターネットがかすかな光を投げかけているが、

    それも遠い先の話のようである。


     なんだか絶望的である。

     将来の光がぜんぜん射してこないし、

    将来のヴィジョンや夢がぜんぜん見えてこない。

     もう後は落ちてゆくしかないのだろうか。


     ただ、こういう大きな展望にたいして希望がないとしても、

    社会はなんだかんだいっても、堅実に継続してゆく部分ももっている。

     カタストロフィーやハルマゲドンのような状況はたんに観念的なものであって、

    実際どのようなことがあろうと、共同体は堅実に継続してゆくものだ。


     それに人間の場合、そのような絶望的観測が、ぎゃくに契機となって、

    思わぬ底力を垣間見せたりするものだ。

     絶望的観測が、新しい未来や社会を創造してゆくのだ。


     でもそうなるにはかなりの辛酸と、長い時間を経なければならないのかもしれない。


     このわたしの悲観的な予測がはずれ、

    けろっとしてふたたび消費の意欲がわき、景気が回復するとも、なきにしもあらずだ。

     正直なところ、わたしの中にはいままでの物質消費や企業中心社会にたいする、

    嫌悪感やら不快感をもっているから、この社会が壊滅的状況に陥ってほしいという願望を、

    もっていないとはいえない。

     だからこの不況が長引き、物質消費社会がぼろぼろになってしまえという破滅願望がある。

     もしかしてほかの多くの人もこういう心情を潜在的にもっていて、

    だから、これほど景気が悪くなっても消費を盛り上げようとしないのかもしれない。

     生活者、あるいは人間としての不買行動という側面があるのだろうか。

     モノを買わないということは、その後ろに控えている企業にたいする、

    無言の抵抗や反乱が潜んでいるのかもしれない。


     現在の不況は、企業社会や消費社会にたいする人々の嫌悪感や不快感が、

    ひきおこしているとするのなら、社会はこの方向転換を迫られるまで、困窮することだろう。


     われわれは物質消費や企業社会にたいする反省を迫られているのかもしれない。


     この社会から脱け出すにはいったいどうしたらいいのだろうか。

     現代のだれかがこれを考え出さなければならないのではないだろうか。


     モノをつくって人々の欲望を煽ることによってしか、生活の糧を得られない社会から、

    なんとか脱け出さなければならないのかもしれない。

     あるいは、貨幣経済からの脱出だろうか。


     わたしにはこれ以上のことは考えられない。




                              (終わり)




    日本人はこれからなにをめざすのか


                                              1997/10/27.




    これからの日本人はいったいなにを目標に生きてゆくのだろうか。

    先がまるでみえない。

    どのようなことに価値をおき、どのような生き方をしてゆくのか、まるでわからない。


    車や家電を手に入れる消費の時代はとっくに終わってしまった。

    そのあとに来るべき時代――目標がまるで見えない。

    これは世界的な流れだ。

    このままでは、世界的な大不況になるのは必至だ。


    車や家電の消費社会のつぎに来るものはいったいなんなのか。

    この問題にわたしはずっと頭を悩ませてきたが、まるで答えが出ない。


    インターネット上で、学術や芸術などの文化が花開くかもしれないと思ったときもあるが、

   まだ実用的な段階ではない。

    しかし、わたしはそういう時代が来てほしいと思うし、

   モノの消費から内面の豊かさに向かうのは、好ましいことだと思う。


    ただ、よくいわれる心の豊かさとはいったいなんなのか、よくわからない。

    芸術やら学術やらを楽しむことが、心の豊かさなのだろうか。


    この日本では、ヨーロッパの高級芸術を受容しようとしてもむりだ。

    新しい時代には新しい芸術が受け入れられる。

    それはやはり現在のサブ・カルチャー――マンガやテレビ・ゲーム、ロックなどから、

   現れてくるのではないだろうか。

    いまでこそ、それらは若者向けのものと思われているかもしれないが、

   いつか必ず、活字文化や絵画芸術を凌駕するときがくる。

    どんなメディアも、幼稚な時代をへて、高級なものとして

   受け入れられてゆくのではないだろうか。

    現代の高級芸術――クラシックや絵画といったものも(推測でしかないが)、

   最初は子供向けのものから始まったのではないかとわたしは思う。


    ただこれからこのようなマンガやゲーム、ロックだけを楽しむだけに、

   人々は生きてゆくのだろうか。

    これだけでは、社会の成員は満足しないかもしれない。


    もっと大きな目標や勇気のあるものを人々は求めてゆくのではないだろうか。

    あまり考えたくないが、やはり軍人的なメンタリティが求められてゆくのではないだろうか。


    戦後の時代は生産・消費拡大という夢があり、

   多くの人の情熱や熱意はそこにそそがれた。

    だが、それらの消費計画が完成してしまったら、

   人々の情熱はどこにその出口を求め出すだろうか。


    人間は目標や情熱の対象をたえず求めつづける。

    幸運なことに、今世紀には車や家電、会社のような情熱の対象があった。


    しかしいまはそんなものはどこにもない。

    人々は夢の喪失した状態に意気消沈している。


    だれかがなにか、将来のわくわく、うきうきするような、心踊るものを創造しなければならない。

    さもないと情熱の対象を見つけられずに人々はどんどん意気消沈し、

   情熱のほとばしる出口をなんとかどこかに見つけ出そうとするだろう。


    15世紀のヨーロッパなら、木綿や金銀を求めての大航海という夢があった。

    あるいは中世なら、神の救済という至上の目的があったかもしれない。

    日本の戦国時代では、天下取りの壮大な夢があった。


    現代にはそういう大きな夢がまるでない。

    タネが尽きてしまった。


    そして経済が不況に落ち込み、生産や消費の機構がうまく機能しなくなる。

    そうなるとどうなるか。


    アメリカでは貧困層の犯罪の増加が目立つが、

   国や共同体レベルにそれを移行してみると、

   他人の富を略奪するという方向に進むのではないだろうか。


    ちょうど、情熱のそそぎこむ対象のないところに、

   国家の略奪を正当化する思想が、とうぜん現われる。

    消費や会社という情熱の穴のあいたところに、

   正当化された戦争という、壮大な情熱が現われる。

    生産や消費の情熱の空白に、そういう対象は入りこんでくるのではないだろうか。


    そうならないためには、われわれは血まなこになって、

   新しい平和な情熱の対象を創造しなければならないのではないだろうか。

    だれかが大衆や国民を魅了し、ひっぱるような壮大な夢を、

   創造しなければならない。


    ヨーロッパの経済の中心は、ヴェネチア、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークと、

   移り変わっている。

    新しい経済の中心はそれぞれ、文化やライフスタイルの魅力を

   ひっさげて登場してくる。

    たとえば、イスラムのハーレムや豪華な商人たち、イタリアのルネッサンス文化、

   オランダ風の高級住宅、イギリスのジェントルマンやティー・タイム、といったものだ。

    人々はそれをめがけて、いっせいに走り出す。


    いまでは東南アジアの人たちが、アメリカや日本のライフスタイルをめざしてまっしぐらだ。

    自動車や家電、マクドナルドやハリウッド映画、あるいはカラオケ、マンガ、ファミコン。


    もしかしてアメリカや日本が文化の魅力をつくる時代はもう終わってしまって、

   つぎなる時代の魅力はこれらアジア諸国がつくりだす時代に移行してしまったのかもしれない。

    われわれが後進諸国と思っている国々から、新しい魅力はつくられてゆくのかもしれない。


    経済の中心の移行とは、高度成長をおこなっているときがじつは絶頂期で、

   あとは衰退でしかないのだが、この時期がいちばん繁栄しているように見えるのかもしれない。

    じじつ、アメリカや日本の若者の勤労観はかなり怠慢や保守的になってきているし、

   アメリカでは中産階級の没落や貧困層の犯罪がかなり目立っている。


    新しい金持ちの魅力は東南アジアから生み出されてゆくのだろうか。


    身近な例では、ファッションの流行なんかは若者がつくりだすが、

   ある程度の年をとってしまったら、とても突飛な格好はできない。

    そうして、若者の流行が順々に年上に浸透してゆく。

    日本はすでに流行をつくりだすほど、若くないのかもしれない。


    ただ、年をとってしまった国や社会は、知識は生み出しやすいかもしれない。

    文明でもその衰退期には、多くの文化的遺産をのこすものだ。


    東南アジアは新しい文化的魅力を創造してゆくのだろうか。

    ヨーロッパの文化とアジアの文化が合体したら、おもしろいものが生み出されるかもしれない。

    しかし日本から生み出された商品はほとんど文化的臭いを脱色されたものばかりだ。


    だが、これまでのような物質商品のなかから、魅力あるものを創造できるだろうか。

    われわれ日本人は一応の物質消費時代を終えてしまって、

   新たな物質商品に魅力を見出せるだろうか。


    これからの時代、いったい日本人はなにをめざすのだろうか。

    未来の萌芽は、現在もうすでに生まれ出ているのだろうか。


    文化や芸術、ソフトといったものが、われわれの生活の重心を占めるような、

   高級な時代がやってくるのだろうか。

    あるいは物質消費時代から、精神や心が重視された中世のような、

   宗教的社会が形成されるのだろうか。

    宗教的物語がこれからの人間に信じられるとはあまり思われないのだが。


    いくら頭を悩ませても、わたしにはその手がかりがつかめない。

    これからいったいどのような時代がやってくるのだろうか。


    わたしの望みとしては、物質商品によって地位やステータスを表わす時代は終わって、

   テレビや書物、ビデオ、音楽、ゲームなどのメディアによる、

   心の内面を重視する時代になってほしいと思う。


    われわれはテレビや書物のようなメディアにたいそう魅力を感じてきた。

    それに比べて、モノをつくったり、売ったりする会社や店はたいそう見劣りした。

    インターネットによって、個人がこのような情報を発信できる時代になった。

    それは大きな可能性をもたらすものであると思う。

    この世界がもっと拡大し、魅力あるものになり、多くの者を惹きつけ、

   なおかつ、これで生計が立てられるような時代になればいいと思う。


    そのような時代は近いうちにやってくるのだろうか。

    ともかく新しい魅力をつくれないでいると、

   この世界は二度の世界大戦をへなければならなかった20世紀の時代を

   くり返さなければならないのかもしれない。




                               (終わり)




        カッコいい人がいなくなった
                     ――カッコよさから未来を探る――


                                            1997/11/3.





      稚拙に聞こえるかもしれないが、人間はカッコよさをめざす。

      人や社会からカッコいいと思われる行動や格好を見せびらかすことが、

     これまでの人間の歴史や社会をつくりだしてきたといっても、過言ではない。

      カッコよさをめざして、社会は動いてきた。


      今世紀では、車を乗り回したり、電化製品をたくさんもっていたり、

     器用に操ることが、カッコよかった。

      人々はそんなカッコよさに憧れて、がむしゃらに働き、それを手に入れようと努力してきた。


      だが、人々の大半がそれらをもち、使いこなすようになると、

     なんのカッコよさも憧れも感じなくなる。

      そんなカッコよさは打ち捨てられ、せいぜい未開民族たちの驚きをバカにできるだけだ。


      カッコよさとは、男にとっては女にモテることであり、

     女にとっては男にモテることであり、あるいはそれぞれ、同性に羨望されることである。

      異性獲得の戦略といっていいかもしれない。

      人間社会あるいは文化は、異性獲得の戦略が極度に肥大した結果、

     できあがった産物ともいえる。

      人間行動のほとんどを性に帰することは、いやな印象を与えてしまうものだが、

     それがあちこちに顔を出していることは、やはり否定できないことではないだろうか。


      現在、カッコいい、憧れるような人がいなくなった。

      それは消費社会が新しいライフ・スタイルを提示できなくなったことにその一因がある。


      最近、出てきたパソコンやインターネットに興じる人というのは、

     人々の強迫観念を駆り立ててはいるが、よだれが出るほど、カッコいいというわけではない。

      携帯電話は、街中で人々に見せびらかすことができるという点で、

     これまでのカッコよさの延長線上にあり、憧れる人も多いのだろうが、

     そんなにあちこちに用事があることがそんなにカッコいいのか、疑問である。


      これまでの社会は、車や家電をもつことがカッコよかった。

      アメリカや日本では、車がないことには女性をデートに誘うことはできなかったし、

     テレビやエアコン、洗濯機、冷蔵庫などをもつことも、いまではなにも感じないだろうが、

     当時はカッコよく、女性たちの憧れの的になったことだろう。

      女性たちはそんなライフ・スタイルをもつことができる月給制のサラリーマンに憧れ、

     かれらの妻となり、団地やマンションの中に入っていった。


      最近までは、女性たちはサラリーマンのなかでも、とくに高学歴や大企業に

     属するブランド人間をカッコいいと思い、そのような相手を結婚相手にもとめた。

      だが、結婚してみるとそのようなサラリーマンはただ会社の奴隷のような存在であり、

     保守的でなんの気概もなく、マザコンであることに驚いた。

      しかも現在、大企業のトップの犯罪がぼろぼろと噴出しており、

     また大企業の市場は成熟化しており、これからさらなる成長が見込まれるとは思われない。

      つまりサラリーマンは落ち目なのである。


      サラリーマンはもうモテなくなると日下公人はいっている。(『これからの10年』PHP)

      女性に好まれるのは実業家やデザイナー、コンサルタント、巧なしとげたフリーターなどに、

     移り変わっているといっている。

      たしかにサラリーマンはもうカッコよくないだろう。

      たんに会社にこき使われるだけのなんの反骨精神ももたないような、

     ふにゃけた従順な人間が、とても女性にモテるとは思われない。

      これまでのサラリーマンは驚くほど、おとなしく、奴隷的になりすぎた。      

      たしかに将来や老後のことを考えてかなり堅実に生活しているのだろうが、

     これならおもしろ味もなん魅力もないばかりか、ただ貧弱すぎるだけである。

      男に魅力がなくなったのである。

      こんな情けない男が、女にモテるわけがない。


      じじつ、女たちも腹を立てている。

      キャリア・ウーマンの夢もしぼんでしまったし、結婚して所帯のなかに入れば、

     退屈でよどんだ家庭と地域社会が待っているだけであり、なんの夢もない。

      夢のない生活に彼女たちが、不倫に熱狂するのはとうぜんである。

      毎日同じような日々がつづく男の会社生活もとても退屈だが、

     女性の家庭生活も想像以上に退屈で息詰まるようだ。

      若い女性たちは、やはり母親の家庭に釘づけられ、父の言いなりになった生涯を、

     たいそう軽蔑しており、そんな人生を送りたくないと思っている。

      だからキャリア・ウーマンが憧れられたり、結婚年齢が遅くなっているのだろう。


      カッコいい人も、憧れるような行動もなくなってしまった。

      若者たちはファッションを着飾ることに熱中しており、

     そのようなことがカッコいいと思っているようだ。

      だけど、表面的なことをそんなにとりつくろったとしても、

     たんに演技したり、カッコいいように演出しているだけで、

     ほんとうのカッコよさがそこからにじみ出ているわけではない。

      ファッションを着飾るということは、中身は空っぽであると表明しているようなものだ。


      現代人のなかには社会体制に反抗するものや、反骨精神をもったものは、

     表面的にはほぼいなくなってしまった。

      既存の社会体制や権力構造に異議をとなえ、果敢に挑戦していった人は、

     とてもカッコよかっただろうし、ヒーローだっただろう。

      ヨーロッパにはロビン・フッドとか、権力に挑戦するヒーローがいた。

      だが、いまの日本人にはまったくいない。

      ふぬけた、権力や体制に盲従する家畜ばかりが、

     ぼうふらのように大量に発生している。

      カッコいいわけがないし、子どもたちが大人や社会に魅力を感じないのはとうぜんだ。


      長い歴史のなかでは、カッコいい男とは、軍人ではなかったのではないか。

      アレクサンダー大王とかナポレオンとか、チンギス・ハーンとか、

     広大な大地を侵略するものが、英雄ともてはやされた。

      今世紀は多くの残虐な戦争の歴史から、平和を切望したり、

     あるいはサラリーマンや商業に従事する人が多くなったから、

     そういう暴力的な英雄は、水面下に抑えこめられたのだろう。

      だがこれからそういう荒くれ者のカッコよさがいつ復活してくるかもしれないし、

     人間とは、残念ながら、そういう暴力性を抱えもっている存在なのかもしれない。

      それに現代はあまりにも従順な者ばかりが増えてしまい、

     息がつまりそうだ。

      極端におとなしくなりすぎたから、ゆり戻しもそれだけ極端になるかもしれない。


      知的であることが、カッコいいという時代でもない。

      かつては私小説であるとか、哲学することがとてもカッコいい時代もあったのだろうが、

     いまはあまりカッコよくない。

      むかしは夏目漱石や芥川龍之介、太宰治、川端康成などがカッコよかったのだろうか。

      サルトルやマルクスがカッコよかった時代があったのだろうか。

      テレビ・メディアのような目に見えるもので判断されるような時代になったから、

     知的で、抽象的、会話的なものは、あまり人の目を惹きつけはしないし、

     カッコよくも映らないのだろう。

      現在は人前でなにか目立つパフォーマンスをするほうが、カッコいいようである。


      わたしは読書が好きであり、知的なものを好むが、

     やはり大勢の人を惹きつけるカッコよさは、もうこのジャンルにはないのだろう。

      村上春樹はカッコよかったが、ほかにそのようなカッコいい人はなかなかいないし、

     立花隆や司馬遼太郎という人たちはとてもカッコよくはない。

      一時期、わたしはフーコーであるとか、ドゥルーズ、ニーチェなどの現代思想家を

     カッコいいと思っていたときもあったが、この人たちが一般受けすることはない。

      ドストエフスキーやトルストイ、ゲーテなどの世界文学や教養主義がかつてのように、

     カッコいいということはまずないだろう。

      読書を趣味とするわたしは残念であるが、ただこれからの時代、混沌と模索の時代が、

     やってくると思われるので、知的なことに株が上がる可能性もある。

      思想や哲学がふたたび若者のカッコいいものになるだろうか。


      いまの若者や子どもはマンガやアニメをとても好む。

      でも、マンガはカッコよくない。

      マンガは「オタク」と軽蔑され、気持ち悪がられ、ときには犯罪者呼ばわりされる。

      しかしいっぽうではものすごい熱中を呼んでおり、だからこそ、

     このジャンルは忌避されるのだろう。

      あまりにも魅惑がありすぎるから、ほかの人たちはそれを恐れているともいえる。

      もしかしてこの構造は、新興宗教と社会に近いものがあるのかもしれない。


      自動車というのはいまでこそ一般大衆のものになっているが、

     はじめのころは車オタクと金持ち連中の道楽でしかなかった。

      これはマンガと社会の関係にも当てはまるのではないだろうか。

      それをフォードが大量規格生産により、一般大衆のものにした。

      産業革命の数々の発明も、はじめはマンガ・オタクのような忌避の段階をへて、

     一般大衆にその恩恵が受け入れられていったのではないだろうか。

      それまでの手工業産業の既得権や権力をもっていた人たちには、

     それは脅威にしか見えなかったかもしれないが、歴史はかれらを押し流していった。

      マンガはこれからの時代、どれだけの力をもつようになるのだろうか。

      アジアやヨーロッパでは、日本のマンガはそうとう受け入れられているようである。


      ロックはカッコいい。

      だけど、ロック歌手は子どもや若者向けのみに限られており、

     大人になるにつれ、その熱中度を失うようである。

      ロックはゆいいつ、若者の悩みやイラ立ちを代弁する内容をもち、

     支持されるのだろうが、年をとっても支持する人は少ない。

      子供向けばかりであり、あるいは恋愛ばかり歌って、

     その殻から卒業しようともしない。

      なぜロックは大人にならないのだろうか。

      大人になると、その意義を失ってしまうのだろうか。

      ロックは子どものカッコよさは体現するが、大人のカッコよさは体現しない。

      ただ、子どもや若者の絶大の支持を誇っている。


      タレントはカッコいいのだろうか。

      映画ではカッコいい人はかなり少なくなった。

      むかしはヤクザ映画とか、トラック野郎とか、(寅さんも?)、

     生き方やライフ・スタイルを提示するようなカッコいい人はいたのだろうが、

     現在のところ、アーノルド・シュワルツェネッガーとかブルース・ウィリスとか、

     アクション映画の非現実的なことばかり流行っている。


      テレビ・ドラマではトレンディ・ドラマとかで、

     おしゃれな関係とかが提示されているのだろうが、

     じっさいのところ、どれほど本気にそれらを若者がカッコいいと思っているか疑問だ。

      ひじょうに造られた、演じられたものだという感じがするのだが、

     いまの若者たちは彼らを本気でカッコいい、真似したいと思っているのだろうか。


      お笑いのタレントなんかも、いまはスマートで、なかなかカッコいい。

      みんなと楽しくするという技術は、ともだち関係や職場のなかで求められたりするから、

     かれらはかつてなく支持されるのだろう。


      テレビに出てくるような人はほとんどカッコよさを体現している。

      われわれはほとんど、テレビのなかからカッコよさを見つけ出してくるくらいだ。

      若者たちはテレビ・タレントのカッコよさに憧れたり、真似したりする。      

      男性ファッション雑誌ではスタイルのカッコよさ、女性誌では生き方のカッコよさまで、

     指導してくれている。

      われわれは表面的な飾りつけのカッコよさを限りなく追求しているといえる。

      テレビや写真時代には、「見かけ」が必要以上に大事なのだ。


      日常の中ではほとんどカッコいい人が見つけられず、

     ただテレビ・メディアや雑誌だけが、そのカッコよさを示してくれる。

      そのために若者たちはかなりテレビや雑誌メディアの言いなりになっている。

      このようなマス・メディアの操り人形のような若者たちを、

     わたしはひじょうになさけなく思うが、メディアはそれだけ魅力的なのだろう。


      メディアのなかにはカッコいい人だらけなのに、

     日常や現実のなかを見れば、色褪せた人間ばかりに見えてしまう。

      とくに親なんか、流行やメディアからまったくとり残されており、

     みっともらしく思えるのだが、メディアの提示するカッコよさにも疑問を呈するべきだろう。


      日常のまわりで見る人はカッコ悪い人ばかりに見えてしまう。

      会社のサラリーマンのなかでカッコいい人なんかほとんどいないし、

     社長や部課長がカッコよく見えるわけでもない。

      かつては経営者のなかでも、松下幸之助とか本田宗一郎とかヒーローがいたのだろうが、

     いま、そんな人たちに憧れるのはかなり少なくなっているのではないだろうか。

      政治家をカッコいいと思う人はまず皆無だろう。


      いま、カッコいい人はほとんどメディアが独占状態だ。

      なぜ、マス・メディアに出てくる人はこんなにカッコいいのだろうか。

      虚像であるし、カッコいいところだけを見せる、カッコいいように見せかけるのが、

     メディアなのだろうが、これでは現実があまりにも色褪せてしまうし、

     また自己主張のないメディアの操り人形のような人間だけが生まれてしまう。


      メディアのなかの人たちはたしかにカッコいい。

      だが、いまはもう人々をひきつれて、消費のリーダーとなるには、

     あまりにも神話的魔力が褪せてしまった。

      かつては自動車や電化製品の神話的魔力というバック・ボーンがあったから、

     国民はひとつにまとまり、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、ジェームス・ディーン、

     ビートルズ、石原裕次郎、美空ひばりのような国民的ヒーローが生まれたのだろう。

      だが、いまはもうそのような国民的ヒーローは皆無だ。

      それだけ国民や社会をひとつのまとめるような夢は失われてしまったのだろう。


      カッコいい、真似したいような人がいなくなったとき、

     消費が落ち込み、世界的に景気が悪くなるのはとうぜんである。

      新しいカッコよさを提示できなくなったとき、社会は全般的に沈下する。

      この社会はすさまじいばかりにカッコよさをなくし、均一化してしまった。

      かつてのカッコよさには、神秘的で未知な、

     自分たちの手には届かないという憧れがあったと思う。

      そのような神秘的、あるいは未知なるもののカッコよさをふたたびもたらさないことには、

     この生産−消費分業社会は成り立たないだろう。


      もうアメリカを向いていても、このようなカッコよさはやってこないのかもしれない。

      日本ももしかして、ビデオやらファミコン、カラオケ、ウォークマン、

     マンガなどを生み出しながら、ついにその最盛期を通り過ぎたのかもしれない。

      これからカッコいいライフ・スタイルはアジアから生み出されてゆくのだろうか。

      もう前から学ぶ時期ではなく、後進のものから学ぶ時期なのかもしれない。


      いつの時代も金持ちの国から、文化は生み出されてゆくものだ。

      イスラムしかり、イギリスしかり、アメリカしかりだ。

      われわれは金持ちの提灯にたまらなく食いつくようだ。

      金持ちというのは、モノやヒトを多く持ち、自由に操っているようにみえる。

      人々はそれを見て、おこぼれや威信に少しでもあやかろうと、その猿まねをする。

      こうして経済の覇権は、イスラム、イタリア、オランダ、イギリス、アメリカと、

     ぐるぐると世界中をめぐり回ってゆく。


      だが、そのモノを多くもつという金持ちはその威信を失ってしまうかもしれない。

      物質消費社会は、環境や資源問題からその限界に近づきつつある。

      金持ちが憧れられなくなるというのは、

     物質消費社会のひとつのバロメーターかもしれない。


      インターネットのなかの文化や知識が、尊重されるような時代がやってくるのだろうか。

      それをカッコいいとみんなが思うような時代になるのだろうか。


      鉄道や車というのは、モノを最大限に遠距離まで運ぶための道具である。

      進歩はある時点まで、遠くの空間を縮める方向に進んでいた。

      モノを大量に所有するためにはそのような仕組みが必要だったのだ。


      しかし電話やテレビ、インターネットはその空間の短縮をないものにしてしまった。

      情報が居ながらに向こうからやってくる時代になった。

      こんどはこの情報空間のなかでの進歩が進んでゆくものと思われる。

      そこは文化や芸術、音楽などの知識や情報が花開く場所である。

      これらのなかにカッコよさを見出す人が増え、

     この世界を中心に人々の生活は回ってゆくようになるだろうか。

      モノの多寡によって、地位やヒエラルキーが測られる時代は終わり、

     これらの知識や文化によって、その社会的地位が測られるような時代になるだろうか。


      わたしはそのような時代はとても魅力的だと思うし、

     そのような時代がきてほしいと思う。

      文化や芸術が花開くことはとても高級であり、

     モノの多寡で人間が測られていた時代より、よほどすばらしいことだと思う。


      だが、はたしてこのようなことに人はカッコよいと思うだろうか。

      われわれがメディアに感じる魅力というのはすごいものがあるので、

     この延長線上に未来があるのはたしかかもしれない。

      いまのところ、このインターネットのなかからヒーローは生まれていない。

      もしインターネットのなかからヒーローが生まれれば、

     このメディアは新しいカッコよさを人々に提示できることになるだろう。




                                         (終わり)




         Help Me! Heavy Bad Company

      サイアクの職場環境から

                                            1997/11/9.





    わたしは20代をフリーターとして過ごし、30歳を機に正社員の仕事に就職した。

    そしてその職場が長時間労働のサイテーの職場だったのだ。


    わたしも20代ならすぐに辞めていただろうが、

   いまはもう30歳、手に職のないわたしはそうどこにでも転職できるというわけではない。

    だいいち、フリーターを長くやっているうちに、

   職業能力に少しばかり自信を失ってしまっている。


    もちろんこの職場は現在、繁忙期だから、この時期が過ぎたら、

   身のふり方は考えるつもりでいる。


    この繁忙期というのがすさまじい。

    わたしは車の免許をもっていないので、終電のある11時までには帰れるが、

   ほかの人は自動車通勤なので、夜中の1、2時まで残業して、

   しかもつぎの朝は8時から仕事だ。

    眠れるだけでマシなのかもしれない。

    一日中ブッ通しで仕事をしつづけ、昼過ぎに仕事しながらときどき眠りこけている。

    そしてダウンして、休憩室のソファなどで眠ったりする。

    そんな毎日が、返上されるかもしれない休日まで、一週間つづく。

    残業時間が10時間というのは、いったいどういうことかわからなくなる。

    異常なまでにスサマジイ!


    朝、連絡なしでだれかが出勤してこないとなると、

   会社の者が自宅に電話し、つながらないと自宅まで押しかける。

    もうほとんど脅迫まがいだ。


    これではとてもこっそりと行かなくなって辞めるというわけにはいかない。

    しかも給料は手渡しで、銀行振込というわけではなく、

   辞めようとしたら一悶着ありそうだ。

    繁忙期は年末までらしいので、そこまでなんとか乗り切るしかない。


    こんなヒサンな職場が野放しになっているなんて、どうかしていると思うが、

   これがゲンジツなのだろう。

    どこかに告発しようとしても、やっぱりだれが密告したかバレるわけだし、

   職場にだって居づらくなるに決まっている。

    どこかで週40時間制が実施されたという話だが、

   ほんとうにそんなものに実行力があるわけがない。

    どこかの資料でかなりの企業が40時間を実施しているという話だそうだが、

   どこのだれがそんなウソっぱちを信じるのか。

    この国では、だれも企業から守られないのだ。

    法律では残業をしっかりと拒否できるという話だが、

   だれも守ってくれる人のいない職場のなかで、どうやって声をあげれるというのか。

    ほんとうにヒサンだ。

    個人としての無力さを感じる。


    正社員になれば、2、3時間の残業はガマンしなければならないと

   覚悟していたが、いくらなんでもここまでスサマジイとは思わなかった。

    誤算である。

    テレビを見る時間はないわ、本を読む時間も、

   楽しみな仕事終わりの書店通いもできないわ、そればかりか睡眠時間さえ削られる。

    もう頭を空っぽにして、なんの不満も感じないようにするしか、

   この期間を、健康的に過ごす術はない。

    貯金もそんなにないから、すぐには転職先を探すこともできないのである。


    この会社に入ったとき、やはり最近入った人が多く、

   新入社員がつぎつぎと入ってくるから、かなり劣悪な職場なのだろうと思ったが、

   これほど残業時間が多ければ、みんな辞めてゆくだろう。

    睡眠時間さえ満足に保証できない会社にだれが残るというのだ?

    そもそもこんな会社が野放しになっていること自体、

   この社会は企業に対して、なんの歯止めももたないということなのだ。


    こういう会社はどのようにこのような最悪な労働条件になったのだろうか。

    いぜん、わたしは派遣のアルバイトで、沈みかけた船のような職場に

   勤めていたことがあるが、そこは電気製造会社の下請けだった。

    職場の人間はたがいがささくれ立っていて、

   だれかがどこかでクビだクビだとのちうち回っていた。

    けっきょく、そのような会社はいくら給料がよくても、

   すぐ人は辞めてゆき、悪循環的に最悪の職場環境になる。

    わたしはその会社を、親会社が円高で打撃をうけ、仕事が激減し、派遣を打ち切られた。

    いつか辞めるつもりだったので、なんの感慨も抱かなかった。


    ヒサンな職場にクギつけられていたら、

   こんなヒドイ環境でほかに耐えている人もいるのだろうかと探したくなる。

    そうしたら見つかった。

    『はみ出し銀行マン』シリーズ(角川文庫)の横田濱夫だ。

    やっぱり銀行員も夜11時ごろまで残業して、しかもそれは無銭労働だ。

    しかも腹が減ってもメシを食わないというマゾ的な風習があるらしく、

   夜中になってしかメシが食えないらしい。

    長時間労働に拘束されれば、ウップンがたまり、

   ひじょうに攻撃的な気持ちが出てくるが、それが自分に向かうのかもしれない。


    銀行もスサマジイばかり、ヒサンらしい。

    わたしは自分だけがこんなヒサンな目にあっているわけではないと知ってほっと安心した。

    それにしても、銀行の内情というのはスサマジイらしい。

    オムツをして出勤する人や、精神的にまいってしまった人を座敷牢に閉じこめたり、

   自殺者を外部にもれないようにしたりと、イカレまくっている。

    そういえば、わたしの友人の銀行員は夜遅くまで帰ってこなかったし、

   オウム事件かと疑われた銀行員のハイジャックの事件も、

   これでその理由がわかるというものだ。


    この横田濱夫の『はみ出し銀行マンシリーズ』はとてもおもしろい。

    なぐさめられる。

    文章も勢いよい語り口で、ひじょうにサマになっている。

    ぜひこれからも会社のヒサンな実態を、オモシロオカシク暴いてほしいと思う。

    これからいろんな業界からもこんな会社のバクロ本が出れば、

   このカイシャ天国のイジョウさが少しは露見するかもしれない。


    だいたいわれわれはほとんどカイシャの実態や実情を知らずに就職する。

    雇われる側のホンネがほとんどわからないまま、

   われわれはまんまとカイシャの毒牙に絡みとられてしまう。

    そういうホンネで語られるカイシャ情報というのがまるでないのだ。

    カイシャの情報はほとんど雇う側のキレイごとばかりだ。

    これではどれだけヒサンな職場なのか、どれだけ人使いが荒いカイシャなのか、

   わからないまま、そのカイシャに就職しなければならない。

    職場のホンネをもっとわたしは知りたいと思う。


    わたしはフリーターとしていくつもの会社で仕事をしたことがあるが、

   こんな長時間労働の職場は、ほとんど定時で帰っていたこともあってあまり知らない。

    だけど正社員たちはバイトが帰ったあとも、何時間も残業していたのだろう。

    バイトが正社員といっしょに帰れるような職場は、

   わたしが経験した職場のうち、一社しかなく、そこは百貨店の物流センターで、

   仕事の量が少なく、社員の人たちはほとんどヤル気のない人ばかりだった。

    新入社員も給料が安いといって、早くも何人か辞めていた。

    ただ一度だけ、催し物の会場のセットを手伝ったときには、

   夜中の2、3時まで仕事をさせられたのは参った。


    ちょっと参考までにわたしがどんなアルバイトをしてきたか、紹介することにする。

    ちなみにこれは大阪の職場の話である。


    求人情報誌のアルバイトをやったことがあるが、毎日残業ばかりで、

   みんなかなりウップンがたまっていて、ピリピリしていて、わたしはすぐに辞めた。

    雑誌の編集だが、できあがった原稿を切り貼りするだけのツマらない仕事だった。


    アパレル・メーカーの出荷の仕事をしたことがあるが、

   ここもかなりカコクな職場らしく、みんなピリピリしていて、

   仲良く楽しくという職場ではなく、かなりヒサンだったと思う。

    人間関係がスサんでいる会社というのは、それだけ人使いが荒い会社ともいえると思う。


    それに比べて大阪の船場の卸の職場というのは、

   なごやかで、ひじょうに楽しい思いができた。

    若いころだったから、友だちがたくさんできたし、女性がかなり多かったのもよかった。

    人と話しやすい、よい職場だったが、

   これから卸の運命がどのようになってゆくのか、ちょっと心配だ。


    ある大きな新聞社で、通称「ボウヤ」とよばれる運び屋のバイトをしたこともある。

    ファックスやゲラをただ運ぶだけの、恐ろしくラクな仕事で

   ほとんどの時間、読書やマンガの時間にあてていてもよかった。

    ほかの職場に移るには、「リハビリ」が必要だなと友達と冗談をいうくらいだった。

    いつまでもバイトは「ボウヤ」とか「ボク」ばかり呼ばれるので、

   わたしはネーム・プレートを「ボク」と書き替えた。

    社員の人は朝刊の仕事が夜中の2時くらいで終わるので、交代制と思うが、

   やっぱり過労がたまるのだろう、よくいつも口をあけて昼寝をしていた人が、

   ぽっかりと逝ってしまったことがあった。


    わたしは絶対ライン作業なんかしたくないと思っていたが、

   一度短期バイトでライン作業をしてみようと、試してみたことがある。

    やっぱり想像以上にキツかった。

    2、3ヶ月だけつづけたが、真冬の沈うつな通勤風景が思い出される。

    だが、かつての高度成長を支えた労働者というのは、

   このライン作業をこなしてきたのではないだろうか。

    コピー機の組み立てで、ネジをさしこむ仕事だったが、

   えんえんとつづくライン作業にぞーっとしたものだ。

    職場の雰囲気はやっぱりかなり悪く、暴れて辞めていった女性や、

   休憩中にガイジンさんが欲求不満で叫んでいたり、

   ツラいことばかりと嘆くパートのオバちゃんや、ある宗教にゾッコンの人などいろいろだった。

    そこの社長がまた天皇陛下みたいに見回るのはムカついた。


    シンク・タンクでバイトをしたこともある。

    そこはほとんどほかの部署との会話がほとんどなく、それだけで驚いたが、

   ある意味では日本的な仲良しゴッコをしなくてもいいわけだが、

   ちょっとわたしにはこのような冷たい職場はつらすぎた。

    雑誌の編集のアシスタントだったが、官公庁や企業などに、

   資料をくれというぶしつけな電話ばかりしなければならかったので、

   気の弱いわたしはとても神経がつらかった。

    しかもこのあたりはオフィス街で、昼飯の席の確保がひじょうにむつかしかった。

    昼食戦争にはかなわない。


    ホテルの配膳係のバイトはすぐに辞めたが、

   あっちこっちのホテルに人数分を投入するさまはめまぐるしいばかりで、

   安定をのぞんでいたわたしはすぐに見切りをつけた。

    結婚式場でほとんど仕事の知識がないまま、

   ステーキを皿にもったりするのは、ちょっと困惑した。


    運送会社で、ビル内のテナントを回って商品の集配もしたことがある。

    このとき、20代の半ば近くで、先にいた学生アルバイトに

   敬語を使わなければならないことが屈辱でやめた。

    年下に仕事の指示をされるのはとてもツラいものがあるが、

   しょっちゅう職場を変えるわたしは、年下でも客相手の商売だと割り切るようにしている。

    それでもやっぱり複雑な気持ちだが、こんなことを気にしていれば、

   ほかの職場に移ることができないし、これからの社会ではこのような目にあうことは、

   かなり多くなると思うので、気にしてなんかいられない。


    高校のときには、百貨店、スーパー、ファミリー・レストラン、

   皿洗い、プールの監視員、すしの製造、といろいろやった。

    スーパーでは前の日付の商品を今日の日付に変えることを知ったし、

   道頓堀のある食堂では、串を洗ってもう一度使ったり、

   記憶は定かではないが、手をつけていない食べ物はもう一度出されたような記憶がある。


    ファミリー・レストランでは厨房の仕事をしたが、

   夏のあまりの暑さに鼻血を二度ほど出した。

    社員とか店長はかなり長時間働いているらしく、

   学生だったわたしは大変だなと思った。

    おとなしいわたしは、ゲンキな人におじ気づいて、人間関係はひじょうに疲れた。


    プールのバイトというのは、監視と休憩が順々にある仕事だった。

    まあ子どもの数は7月だけたくさんいて、あとはかなり少なくなる。

    小さな市民プールだから、あまり溺れる心配もない。

    みんなとボーリングに行ったり、呑んだりと、いろいろ遊んでいた。

    チカンをする男の子や、ませた女の子達が事務所によく遊びにきていた。


    まあわたしはいろいろな仕事をしてきたわけだが、

   フリーターをやってきたわけは、やはり「カイシャ人間」になりたくなかった、

   というのがある。

    つぎつぎと職を変えるのは、ひとつのカイシャにしがみつくのはみっともない、

   依存するのはなさけないという考えがあったのだが、

   年功序列や年功賃金などいろいろ不利になることはわかっていたのだが、

   そんなことはたいして重要ではなかった。

    そんなものにツラレるからこそ、サラリーマンは「社畜」になったのだという怒りがあった。


    働くことやカイシャに埋没することなど、強烈な疑問をわたしはもっていたのだが、

   一生をフリー・アルバイターとして暮らしたヘンリー・ソーローの『森の生活』を読んで、

   カネを際限なくほしがらなかったら、そんなに働くことはないのだと悟って、

   そこそこの給料で生活をするようになった。

    ただカネの余裕のない生活はさすがに不安になるものだ。


    20代後半になるとさすがにアルバイトとしてやってゆくことが恥ずかしくなるし、

   条件的にもむづかしくなってゆく。

    また年金や健康保険もないものだから、ちょっと心配になる。

    こんなものに依存するから、社会や人間はいろんなところで、

   ゆがんでしまうのだという考えがないわけではないが、

   これらに加入してなかったら、ちょっと落ちこぼれのような気分がすこしある。

    いずれも破綻してしまうかもしれないが、やはり不安である。


    ということでわたしはフリーター生活から足を洗った。

    フリーターは現在のところ、やはり30歳くらいまでに足を洗っていると思うが、

   じっさい、ほかの人がどうなのか、よくわからない。

    会社や仕事より趣味のほうを大事にしたいという一本気な人は、

   フリーターとしてやっているのかもしれないが、わたしにはそこまで度胸はない。

    ほかのフリーターがどのように生きようとしているのか、ひじょうに知りたいところだ。


    とにもかくも、一生を会社と仕事に奪われるような人生とはオサラバしたい。

    だが、ゲンジツはそうなってはいない。

    みんななんでここまでおとなしいのか、なぜ自分の人生が会社に奪われても平気なのか、

   まったくもって理解に苦しむが、生きてゆくためにはシカタガナイのだろうか。

    たしかに、カイシャに人生の多くの時間を捧げなければ、

   食ってゆくことができないのだ。

    妻や子どもがいるのなら、なおさら自分を捨てなければならない。


    こうしてカイシャと仕事人間だけがやたら肥大化した、

   個人の幸福のない企業中心社会はつづいてゆくのだろうか。

    歯止めがまったくない、逃げ道のまるでない労働社会は、

   このままどこまでもつづいてゆくのだろうか。


    仕事をしなかったり、転職をくりかえしたり、海外放浪をしたりする、

   自由な生活を送ろうとすると、履歴書に残ってしまい、就職が容易ではない。

    しかたなく一生をカイシャの仕事に釘づけられなくてはならない。

    ほんとうにこのニホンの社会はサイアクだと思う。

    カイシャがあまりにも力をもちすぎて、「自由」という要素がまったく欠落していると思う。


    だから現在の大不況はおこっているのだとわたしは思う。

    このままこんなクソったれ経済至上社会は、大恐慌の奈落の底に落ち込んでしまえ、

   とわたしはほんとうに願うし、ほかの人の心の中にもこんな願望が潜んでいるかもしれない。

    この現在の経済体制をつづけている人はヒサンな目にあえばいいのだ、

   バチが当たったのだ、ざまあみろと思う。

    企業や経済という人間でないものを、個人の人間よりもっと大事にする社会は、

   異常な暴走をつづけているのだ。


    経済破綻というカタストロフィーを経験した社会は、

   この会社中心主義という「ビョーキ」を克服して、新しい社会をつくり治さなければならない。

    戦後の日本が「軍国主義」というビョーキを葬り去ったように。


    もうすでに大量生産の工業社会は終わっているのであり、

   これに適応させた不自由で規格的な社会は解体しなければならない。


    つぎなる社会の目標は、経済の至上価値を落とした、

   「自由」をもとめるべきではないだろうか。


    自由とはカイシャと仕事から、人生をとりもどすことである。


    われわれは若者や子孫のためにそのような幸せな社会を、

   構築してゆくべきではないだろうか。

    いまのジジイや大人たちが子どもたちにどんな不幸な世の中を置き去りにしてきたのか、

   じっくりと反省するべきだ。






       勤勉と享楽と経済的繁栄


                                           1997/12/7/SUN.





      勤勉に働かなければ、生産性はあがらない。

      享楽的な生活をおくらないことには、経済は繁栄しない。


      このふたつの矛盾はひじょうにむつかしい問題だ。

      ひとつの人格のなかにこのふたつの傾向が同居することはかなりむつかしい。


      わたしはかなり怠け者の心性をもっている。

      長時間労働に拘束されたり、親の世代のような会社だけの人生を忌み嫌っているし、

     サラリーマン的奴隷根性をひじょうに嫌っている。

      朝仕事に行かなければならないとき、まっ青の空をみあげて、

     きょう一日がすべて自分の自由であったら、どんなにすばらしいかとため息をつく。

      わたしは金銭的富より、時間的自由と自由な人生をのぞむ。

      もちろんそれでは生活できないから、心を抑えて働くしかない。


      わたしはこういう気持ちを抱えたまま、20代をフリーターとして過ごし、

     この自分の望みがなぜ叶わないのかと疑問を呈しながら、働いてきた。

      なぜこの社会は勤勉だけに価値をおき、

     遊びや怠慢に価値をおかないのだろうかと、ずっと疑問を感じてきた。

      わたしは30歳だが、現在の若者はもっと怠け者の心性をもっているように思うのだが、

     表面的にはこの日本的勤勉社会に呑み込まれているように見える。


      わたしはなぜもっと労働や企業に拘束されない人生を送れないのだろうかと

     ずっと模索してきたが、いくつかの要因が考えられる。


      ひとつはサラリーマンの年功賃金、退職金、国民年金といった、

     会社勤めを長く勤めれば勤めるほど有利になる制度が複合的にあるからだと思われる。

      退職金や年金といったものはひとつの会社に長く勤勉に勤めないことには、

     その大金を手に入れることができない。

      そのために日本のサラリーマンはものすごく勤勉になり、

     おとなしい、もの言わぬ従順な奴隷になった。

      現在の若者はこれら将来の巨大なアメのために、

     幼少時代からその人生を台なしにし、その安心を手に入れられない巨大な恐怖に駆られて、

     日本的勤勉社会に巻き込まれてゆく。


      もうひとつは、政府の供給者保護の政策も、

     このガチガチの勤勉社会をつくりだしていると思われる。

      個人に金が集まらず、企業に金がプールされるような仕組みができあがっている。

      または個人より、企業のほうが守られる政策が多くとられている。

      国家の富が目的だった高度成長期まではこの政策は功を奏したのだろうが、

     現在は個人の暮らしを苦しめ、幸福を収奪する政策にしかなっていない。

      企業があまりにも力をもちすぎ、個人は企業という、暴力的なまでに横暴な

     「宗教団体」にむちゃくちゃに蹂躪されているといったすがたが、

     現在の個人のありかただ。


      そしてもうひとつはわれわれ一般の人たちが、

     物質消費への限りない欲望、科学技術社会への期待と望み、

     富や社会的地位の向上、将来や老後の安定といったものを、

     かぎりなく求めたからだろう。

      このような一般の人たちの押しとどめられない、人生を安定・向上させようとする欲望が、

     現在の供給者保護、企業至上社会、経済至上社会をつくりだしたといえるだろう。

      われわれ自身がこの、個人が幸福に生きられない社会を、

     期せずして擁護していたということになるだろう。


      これら消費や富の欲望はそれを得ようとすれば、反面で、

     かぎりない生産への勤勉さを必要とするのである。


      この問題はひじょうにむつかしい。

      一方では勤勉な労働が要求されるし、一方ではギャンブル的な、

     あるいは富を散財するような享楽的な価値観も必要となってくる。

      なぜなら金持ちが金をたくさん使わないことには仕事は生まれないし、

     経済は繁栄しないし、金が回らない。

      一方では勤勉な労働観をもたないことには、富をもつことができない。


      わたしは労働に拘束されない自由な生活を得ようと、

     ヘンリー・ソーローの労働観に影響をうけて、カネで買えるものをあまり多く

     欲しがらなければ、そんなに働く必要はないのだと悟って、

     「省エネ」で生活していたことがある。

      カネで買えるものをあまり欲しがらなければ、

     われわれはそんなに働く必要はないのである。


      たとえばマイ・ホームなんか買おうとも思わない、賃貸で充分じゃないかとか、

     マスコミに煽られてブランド品を買ったり、海外旅行なんかしなければいい、

     そういう余分なものを捨てれば、生活費はそんなに必要ではないのである。


       だけどギリギリの生活費の生活は、やはり年金やら健康保険などが――

      破綻寸前であるけれども――なければ、やはり不安になるものだ。

       老後の不安といったものも、若いうちから背負わされているし、

      とてもじゃないけど妻子を養うことなんかできない。

       職業生活においても、キャリア的なものは蓄積されない。


       われわれはこのサラリーマン社会において、自由な生活を送れない。

       就職・転職するにも、過去の経歴というものに拘束されているし、

      年金や退職金といった老後の不安にも拘束されて、

      この勤勉な会社生活に釘づけられている。


       生涯にわたってこんなにも人生を拘束されておれば、

      すこしでもこの人生のコースから踏み外すことはできない。

       若者のなかにはこの日本社会をさまざまな理由で嫌って、

      イギリスやアメリカの若者のように、世界中を旅してまわる人たちがいるが、

      かれらはこの人生設計の不安からどのように逃れられているのだろうか。


       過去と未来にわたって人生をこんなに拘束されておれば、

      自由や放浪をとても望みたくなるのはわかる。

       アメリカでは60年代にヒッピー・ムーヴメントが起こり、

      ハーレーでアメリカ中を旅し、あるいはインドやチベットにおいて仏教やヒンドゥーを学んだ。

       映画ではフーテンの寅さんが日本中を旅し、

      『裸の大将放浪記』の山下清も放浪し、『木枯らし紋次郎』もあちこちをさまよい、

      『マッド・マックス』は荒野をひとりでさまよった。

       「猿岩石」がユーラシア大陸をヒッチハイク横断し、

      「ドロンズ」が南北アメリカ大陸を横断している。

       沢木耕太郎の『深夜特急』は旅のバイブルになっている。

       仏陀にしろ、キリストにしろ、達磨にせよ、空海にせよ、みんな放浪している。

       漂泊と放浪の人生はわれわれの憧れをたまらなく駆り立てる。

       だがわれわれ日本人はこぢんまりとひとつの会社や地域に閉じ込められて、

      農耕民のように、一生をせこせこと終えることになるだろう。


       放浪や自由な生活はわれわれの憧れでもあるが、

      マクロ的な経済からみれば、このような生活は経済を回さない。

       この現代の資本主義社会というのは、モノやサービスをつくり、

      それによってカネと経済が回るものだ。

       多くの人がサイフのひもを閉め、カネを使わなくなったら、

      たちまち不況になるし、経済が回らなくなる。


        現代の日本はモノをつくる勤勉な人間は数多く産出されてきたが、

       享楽的にカネを使いまわるような――つまり経済を繁栄させるような価値観を

       あまりもつことができなかった。

        平等政策により、ダントツの金持ちといったものが存在しない。

        よって均一的な人間のなかから、金を散財するような憧れの対象は生まれないし、

       そしてそれは消費の衰退をもたらす。

        勤勉の価値観だけに一本化された日本は、生産をとめることができず、

       海外に集中豪雨的に輸出して、海外から非難される。

        この日本は享楽や散財といった、経済を回す根本的な価値観を、

       社会的に醸成・容認することができなかったのだ。


        金持ちが経済を回す。

        享楽や奢侈の価値観が、われわれに仕事をもたらす。

        だが日本では勤勉の価値観しか育たず、享楽や怠慢の価値観を容認できず、

       せいぜい毛のはえたていどの消費やレジャーだけが許されている。

        これではなんのための人生かわからない。


        勤勉だけの価値観では、需要はうまれない。

        供給者がモノばかりつくっても、買うものがいなければ、まったくのムダ骨だ。

        経済を繁栄させ、回すには、金をもったものがおおいに散財し、

       多くのところに金を落とすことを容認する世の中にならなければならない。

        金をおおいに使うものが人々の憧れをつくり、その模倣のために、

       技術や知識は進歩してゆき、経済は回ってゆく。


        もちろん享楽や酒池肉林の価値観はとても容認できないという方もいるだろう。

        だが現実はこれらの価値観によって経済は回り、社会や国は発展し、

       多くの貧乏人たちの稼ぎ口をつくりだしてきた。

        このような享楽の価値観を嫌うということは、

       われわれの奥深くに勤勉の価値観が根強く巣食っているということだ。

        勤勉さに価値をおいているから、享楽が許せないのだ。

        だが、この享楽の価値観を容認しないことには、経済は成長しないのである。


        ただ、わたしとしては望むことは勤勉でも享楽でもなく、怠情である。

        労働や会社に縛られない、だけどカネをつかう享楽にも縛られたくない。

        もっと自由な時間、自由な選択のできる人生といったものが、

       可能になってほしいと思う。

        一日のうち半日だけ労働についやし、あとの半分は遊んで暮らせるような、

       江戸時代の町人のようなのんびりとした暮らしをしたい。

        一日の大半を労働に奪われるような人生は、

       いったいなんのための人生かわからなくなる。

        ただ食べるためだけに生きているのでは、ケダモノ以下だ。


        これからの日本はどのような道を選ぶのだろうか。

        経済至上主義、勤勉の価値観だけの社会はもはや不可能だろう。

        若者はこんな価値観をもう支持しないだろうし、

       自動車や家電のような大量生産のマーケットももう成熟化している。


        ではなにによって、カネや食糧は回ってゆくのだろうか。

        ヨーロッパ中世のような物欲にあまり関心を抱かない社会は、

       なにによって経済は回ってきたのだろうか。

        自給自足経済にわれわれはふたたび回帰することができるのだろうか。


        日本の歴史は、堺屋太一『日本とは何か』によると、

       飛鳥・奈良時代に物欲の強い時代を経験し、

       平安時代には物欲にあまり関心の抱かない、主観的美意識の世界――

       つまりヨーロッパの中世のような時代になったという。


        そして戦国時代には信長、秀吉の下劣なまでの物欲の時代を得て、

       元禄の時代以降、急激な下り坂を経験する。


        それ以降、金持ちの享楽を容認しない価値観が強くなり、

       享保の大不況、大飢饉へと転がり落ちてゆく。

        資産の蓄積を容認しない社会が訪れると、

       商人はなんのために勤勉に働くのかといった疑問を呈するようになる。

        地中海や中国の人々はこのジレンマに西暦3世紀から5世紀にかけて、

       ぶちあたり、内面的充実をはかる宗教と流れていったのである。


        現代日本、あるいはヨーロッパ、アメリカ社会もこのようなジレンマに、

       いままさにぶちあたろうとしている。

        物欲や消費の時代が終わり、なんのための勤勉かといった問題が、

       われわれの眼前に立ちはだかっている。

        人々の物欲を媒介にして、カネを回すような仕組みも、

       物欲がたち切れになってしまえば、うまく機能しなくなってしまう。

        生活の糧をみいだせない人たちを大量に生み出すことになるだろう。


        これまでの経済の仕組みというのは、自動車や家電といった

       大量規格製品を人々に行き渡らせるためのシステムである。

        それによって大量の人が生活の糧を得て、

       中流階級をやしなってきた経済的基盤である。

        この物欲が喚起されなくなったとき、われわれはいったいなにによって、

       生活の糧を得ようとするのだろうか。

        広告やマーケティングによって欲望を煽るような方法は、

       バブル時代にみごとにその化けの皮をはがされた。

        この経済の基盤自体がいまやもはや、用のないものになろうとしている。


        われわれはいったいなにによって、生活の糧を得ようとするのだろうか。

        物欲ではない、主観的美意識の世界、精神鍛練といった世界に、

       流れてゆくのだろうか。


        もはやわれわれは自給自足経済にはもどれない。

        自動車や家電の物欲の時代もとっくに終焉してしまった。

        ただ行き場を失った資産だけが、大量に日本人の貯蓄のなかに残されてしまった。

        それも目減りしてゆく一方である。

        日本人は一生懸命働いたが、貯めた金の使い道もわからず、

       そのうちにその蓄積すら消滅させてしまうのだろうか。

        
        これからわれわれはなにによって生活費を稼ぐのだろうか。


        物欲が薄れるということは、生産性の向上があまり必要なくなるということであり、

       勤勉な生活もいらないということで、かなり時間的余裕のうまれる社会が

       やってくる可能性もある。

        だがそのような社会は多くの人の生活の糧をうみだせない、

       超困窮社会かもしれないのだ。

        そのような経済にはその経済に見合った人口しか必要としない。

        われわれはこの経済の激動過程に生き残れるだろうか。


        現在、日本の10年先を行くと言われるアメリカは好況を経験している。

        日本もこの金融不良債権問題が片づいたら、

       アメリカのような景気がよくなるかもしれない。

        しかし長期的にはこの物欲の停滞という現象にかならずぶち当たる。


        そのときにわれわれは物欲に代わる、

       経済循環の媒介をなにか見出しているだろうか。

        あるいは飢饉や戦争のような最悪のシナリオを経験しているのだろうか。


        歴史はまさにいま転換期にある。

        日本人はこのことにたいする認識がひじょうに弱い。

        山一証券といった日本の巨大な会社が倒産しても、

       深刻な現状認識といったものが芽生えていないように思える。


        なぜこんなに危機意識が薄いのだろうか。

        われわれの最大の情報機関であるTVがいつもとなんの変わりもなく、

       明るいCMや羽目をはずしたテレビ番組を流しつづけているからだろうか。

        まあそんなに深刻になることはないのだが、

       いったいこれはなんなのかと疑問に思う。


        激動の時代がやってくると思われるのに、

       多くの人、とくに中高年の人たちの失業・ローン問題が深刻になってゆくはずなのに、

       この社会はいつもとかわらずあいかわらず通常に機能している。

        新聞やマスコミでつたわってくる恐慌不安は、

       ふだんの生活からはあまり垣間見ることはない。

        まだまだみんなこれまで蓄積した富をもっているからなのだろうか。


        後ろからふいに頭を殴られるようなショックを、

       われわれは覚悟しておくべきではないだろうか。


        そのときには日本人は大きな価値観の転換を図らなければならなくなる。

        日本人は会社に忠誠心を誓って、このまま勤勉なまま生きてゆくのか、

       それとも経済的繁栄を投げ捨てて、あらたなる価値観の模索をはじめるのだろうか。


        わたしは会社に忠誠心を捧げ、人生と家庭を投げ捨てたような価値観は

       絶対に捨てるべきだと思う。

        さもないとまたもや同じ過ちをくり返してしまうことになる。


        日本は戦前に戦争、戦後には経済という、

       価値一元化の同じような過ちを犯してしまった。

        われわれはこの結果を招来させた日本的体質、日本社会の性質といったものを、

       ぜったいに解明しなければならない。

        さもないとまたもや、日本国民をひとつの価値観で強迫的に駆り立てて、

       その結果によるカタストロフィーを経験することになるだろう。


        これから日本人は経済至上主義、供給者保護を捨てて、

       もっとゆるやかな個人が文化的に心理的に豊かにいきられる社会をつくるべきだ。


        日本人には価値観の転換が迫られている。

        だが多くの日本人は頭を殴られ、からだじゅうをひきずり回されるような目にあって、

       はじめてこれまでの価値観の崩壊を知ることになるのだろうか。


        捨てるべきは、勤勉と会社という至上価値である。




                                          (終わり)





      ちょっと勤勉と享楽の価値観、経済の繁栄、のんびりした生き方といった、

     いろいろな要素がこんがらがって、うまく整理できていないところがあると思います。

      またいつか、きちんと整理づけたいと思いますので、次回に期待しておいてください。



      このエッセーに関するご意見、ご感想をお待ちしております。

      みなさまの感想が聞けないと、ほかの人はどう考えているのかまるでわかりませんので、

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   Thinking Essays


    のんびりした、ゆたかな社会の実現


                                             1997/12/13.





      江戸時代の町人は一日に、たったの4時間くらいしか働かなかったという。

      宵越しのカネはもてねえ、とタンカを切るくらいだから、

     奥さんにコメが切れたと注意されるまで、働きに出なかった。

      それほどまでに江戸の町人は、のんびり、あくせくせずに生きていた。


      わずか100年ちょっと前までは、当時のヨーロッパ人を驚かせたほど、

     不動の牛のように、日本人はスローリー・テンポで生きていたのだ。


      それが現代の経済大国になったはずの日本社会は、

     朝から夜中まで働きつづけ、一年中、会社に釘づけられ、

     果てはマイホーム・ローンの返済や一流企業や社会的ステータスを

     得るための競争のために一生を棒にふるといっても過言ではない。


      われわれはいつからこんな貧困な、悲惨な生き方しかできなくなったのだろうか。

      なぜ日本人はこんなふうに強迫的な蓄積志向の生き方しかできなくなったのだろうか。


      ヨーロッパ的な、近代的な文明というのは、

     豊かな社会を実現すると思われてきたのに、

     われわれの理想とまったく逆の、超貧困社会になってしまった。

      近代文明というのは、鉄道やら車やらさまざまな外観的魅力をもった文明であるが、

     その機能を維持するためには、個人の全生命を賭してまで――、

     つまり個人の生涯を「人柱」にしないと成り立たない経済システムなのだ。


      このショッピング・センター社会というのは、理想とは裏腹に、

     すべての成員を超過密労働に奉仕させないと成り立たないのだ。

      それほどまでに過酷な前提をうけいれたうえで、

     われわれはこのショッピング・センター社会を

     維持しつづけてゆくほうがいいのだろうか。

      それほどまでに、マイホームやら鉄道やら車、電化製品といったものは、

     享受するに値するものなんだろうか。

      自分の人生を捨ててまで、そんなものを得ても、

     はたしてわれわれは幸福なのか。

      天国ではじめてマイホーム・ローンを払いきったとしても、

     本人はおシャカになっているのだから、なんにもならないではないか。


      未開民族は一日に4、5時間しか働かない。

      それも狩猟生活なら、なおさらのんびりした生活を送ることになる。

      たいがいの毎日は昼寝したり、話し合ったり、踊ったりして、

     毎日を暮らしている。

      太陽と雲とともにゆったりと生き、季節に合せて生活は流れ、

     星や月とともにやすらぎの一日を終える。

      人生は青い、大きな空とともに自由で、ゆったりと流れる。


      だが、われわれは未開民族や後進国を貧しい、

     悲惨な社会だ思いこんでいる。

      それはおそらく、車やら電化製品をもっているか/もっていないかという

     尺度の中での、手前勝手な判断でしかない。

      戦後の日本が貧しい貧しいといってきた基準というのは、

     じつはモノをとなりの家並みにもっているか、社会的ステータスを保っているか、

     という一点にしか尽きないのである。


      われわれは爪の先からどっぷりと、物質文明の価値観に染まりきっている。

      その価値観の前では、先進国以外みんな貧しいのである。

      ヨーロッパ人はそういう基準を頭から信じて、アフリカ人やらアジア人たちを

     動物以下の奴隷として、こき使う正当性を自分のものにした。

      物質文明の価値観のなかでは、モノをもたない生活者は、

     軽蔑すべき、ケダモノ以下の存在として思い込まれてしまうのである。


      だが、この物質的に富んでいる/貧しいだけの価値観で、

     われわれの生き方、幸福、満足度などを測れるだろうか。

      現在われわれは物質の富に囲まれた生活を送っているわけだから、

     物質的富がかならずしも幸福をもたらさないことを知っているはずだ。

      ブランド品をいくらもったところで、車がどんなに優れたものであったとしても、

     やはりいつかは飽きてしまうものだし、つまらなくなってしまう。

      人生を物質の多寡だけで測れるわけなどないのだ。


      あるいは日本人はステータスを幸福の指標と思いこんでしまったから、

     こんなにも貧困な人生しか送れなくなってしまったのかもしれない。

      一流企業の会社員というステータス、あるいは一流大学出身者というステータス、

     マイホームのステータス、高級車のユーザー、ブランド品というステータス、

     そういったことばかりを追い求めたために、ほんらいの人生や生活の質が、

     ものすごく削りとられてしまったのだ。

      われわれはステータスに夢中で、自分の人生や生涯が、

     どんなに貧困化してしまっているかということに気づかない。


      ステータスのために幼少期から受験戦争に自分の人生の豊かさを失い、

     マイホームやら社会的ポスト獲得のための競争に、

     自分の人生と時間を置き去りにしてしまう。

      そのような目標のために人生をものすごく多忙に走りすぎてしまうのである。

      目標があれば、ジェット機のように走り過ぎるのもそれはそれでいいだろう。


      だがそのようなステータスをなんともおもわない、

     あるいは嫌っている世代がどんどん増えつつある。

      流行にしろ、新しい世代にしろ、たいがいかれらは、

     前の世代の流行や生き方に反発しながら、社会の前面に登場してくる。

      「あんたらのやり方はもうオレたちには通用しないんだ」という、

     腹にイチモツをもちながら、権力をもつ前の世代の仲間入りをしてゆく。

      ファッションや商品の流行は社会的強制が比較的ゆるいから、

     どんどんおかしな、キミョーな格好を若者たちはしてゆくが、

     生き方や働き方はかなり融通が利かないらしく、前の世代に従うしかない。


      古い世代のステータスは捨てられてゆく。

      そして新しい世代のステータスが生まれ育ってゆく。


      長い目でみれば、そのようになると思うのだが、

     この社会は古い世代のステータスをなかなか変えられないし、終えられない。

      なぜこんなにわたしの思っている旧世代へのステータスの反発が、

     ほかの社会の人たちにも共有されていないのか、

     わたしにはよくわからないが、なかなかこのステータスは崩壊しない。


      わたしにとってはこれまでの、ステータス獲得の気違いじみた

     「労働強迫症」は、とうてい理解することができないのだ。

      なぜもっと、のんびりした、豊かな社会を、社会全体で構築しようと思わないのか、

     わたしにはとうてい理解できない。

      なぜこんな朝から晩まで会社に拘束される人生や社会を

     継続しつづけようとするのか、わたしにはとんと理解できない。

      やはりこれまでの金持ちブランドのステータスを捨てられないから、

     ガチガチのサラリーマン生活を継続するしかないのだろうか。

      あるいはステータス生活を送れないことは、

     人生の死より恐ろしいことだ、そんなことになれば生きてゆけない、

     と思い込んでいるのだろうか。


      われわれはこのステータスを失ってしまえば、

     食ってゆけないと思いこんではいないだろうか。

      べつに豪華なマイホームも高級車もゴルフもカラオケもなくても、

     人間はなんとしてでも食ってゆけるのだが、

     金持ちステータス思考にイカレてしまった人は、

     そのような貧しい、ヒサンな生活がものすごく恐ろしいようだ。

      だけどキリスト教でいわれていることは、

     「恐れていたことがわが身にふりかかる」のだ。


      自分のステータスというアイデンティティに固執しつづけたせいで、

     ことのほかこのアイデンティティの喪失が必要以上に恐ろしくなったのだ。


      いま、企業社会のリストラや倒産などで、

     そのようなステータスに目がくらんでイカレてしまった、

     中高年たちに受難が襲いはじめている。

      景気がのびない不況期ではまず年功賃金の高い中高年が、

     リストラのターゲットにされる。

      カネがないときには高いものは買わない、それは市場のとうぜんの原理だ。


      アメリカでは10年前にこのような中高年のリストラが産業界を襲い、

     中産階級の没落や貧富の格差が二極化しているという話を聞いたことがある。

      ふつうの格好をしている人がホームレスになったり、

     アルバイトのジョブにしかありつけないといったありさまだ。

      日本にもそのような波が押し寄せてきたが、

     げんざいの転職市場はだいたい35歳くらいまでだ。

      かれらはステータスをもとめつづけるか、

     それとも安い給料に甘んじて、新しい生き方を模索しはじめるか。


      わたしはこのような人たちにこれまでのステータスを捨てるような、

     新しい生き方を社会に提示してほしいと思う。

      ヒサンで、サイアクの人生隘路に落ち込んでしまったと捉えるのではなく、

     ゆとりとゆるやかさのなかで生きているんだという姿勢を、

     自信をもって提示してくれるのなら、このステータスにイカレた社会も目を醒ますだろう。

      そしてわれわれ後続世代のために、ステータスや会社に拘束されない、

     生き方と社会を押し開いてゆくような先導者になってほしいと思う。

      すくなくとも40歳以上の転職市場は開かれてゆくだろう。


      山一証券の倒産で、その社員の奥さんがテレビのインタービューに答えていた。

      「ブランド品も海外旅行も必要ないんだ。

      ただあたり前の生活があるだけでしあわせなんだ」と――。


      日本人はほんとうにこんなにイタイ目にあってはじめて、

     われわれはなんてイカレた、気違いじみた生活を送ってきたのだろうと、

     気づくことになるのだろう。

      山一證券の倒産は戦後の日本社会の崩壊を象徴する事件になったが、

     おおくの日本人はまだまだほんとうに「ショック療法」となるような経験をしていない。

      目を醒ますまでには、まだまだもっとイタイ目に遭わなければ、

     気がつかないようである。

      日本人にはもっともっとイタ〜イお灸が必要なようである。

      わたし自身もブランドものにイカレていた時期もあったが、

     ちょっとした信頼喪失というイタ〜イ目にあって、回心した。


      そのときにはステータスと一生を労働と会社で終わるような生き方の、

     猛反省をおこなわなければならない。

      日本人ははじめてこのときに、自分のこれまでの人生や生き方を反省するのだろうか。

      敗戦のときのそれまでの軍国主義への反省とまるで同じように――。


      のんびりした、豊かな社会を構築するべきだ。

      仕事は昼間の半分だけ、あとはのんびり昼寝したり、遊んだりして、

     暮らせれれば、最高だろう。

      そのような社会は若者にとってもとても魅力のあるものになるだろうし、

     商品やソフトだけではなく、軽蔑されていたライフ・スタイルも海外から憧れられる、

     真に尊敬に値する社会だと認められるようになるだろう。

      そしてわれわれ日本人も幸福に生きられるだろうし、

     生活も潤いやゆとり、豊かさを真にとりもどすだろう。


      もう会社と仕事だけに人生を浪費する人生なんて、たくさんだ。

      これまでの日本社会はたくさんの精神的殉死者――つまり戦死者を生み出しながら、

     つっ走ってきたわけだが、もうそのような気違いじみた社会は終わりにすべきだ。


      ふたたび、のんびりした、ゆるやかなスロー・テンポの社会を、

     われわれの手の中にとりもどそうではないか。

      ステータスのために一生を過酷な労働や受験に

     忙殺させてしまうのをやめようではないか。

    
      だが、ただひとつ気がかりがある。

      のんびりした、豊かな社会ははたしてこの社会のすべての人の

     食いぶちを用意することができるかということだ。

      これまで狂的な物質量でこの産業界とひとびとの収入口を養ってきたわけだが、

     はたしてのんびりとした社会はわれわれの雇用を確保することができるだろうか。


      のんびりした、時間的に豊かな社会は、

     これまでのような機能社会を維持することはできないだろう。

      それらの大半はムダであったり、要らないものなのになければ死ぬと

     思いこまされていたり、必要以上に過剰なものばかりだったかもしれない。

      だけど、このおかげでわれわれの大半はメシをくうことができたのだということもできる。


      それが多くの人があまりマジメに働かない、のんびりした社会を構築しようとすると、

     物質商品量も減るだろうし、サービスの量も減ってゆくだろう。

      それはわれわれの雇用口の減少と直接に結びつく。

      金持ちがカネをおおいに散財しないことにはメシを食えない。


      なんらかの方法があるだろう。

      全体のパイが小さくなれば、小さいなりに細々と社会の成員に

     行き渡らせる方法があるはずだ。

      そういう社会では過剰な労働は人々の害になる。

      行き渡るはずのカネや食糧が回ってこなくなるからだ。

      日本がアメリカに働き過ぎだと非難されたのも、

     同じような構図でアメリカ国民の生活を破壊するからだ。

      ひとりシャカリキになって働かれたら、カネが回ってこなくなるのだ。


      過剰な労働、勤勉な労働が、「社会的悪」になる時代がやってくればいい。

      それは貧しく、物質的にまたは機能的にあまり豊かな社会ではないかもしれないが、

     時間的な、ゆったりした豊かさをもつ社会になれることだろう。


      便利な機能的な社会は、われわれを過酷な労働時間に放りこむ。

      火を燃やすためには薪を投げ入れつづけなければならないのだ。

      もうそんな生活はまっぴらだ。


      われわれ日本人は、気違いじみた勤勉社会から、

     のんびしりた、ゆとりある生活テンポをもった大人の社会に進むべきだ。

      そのためには過剰労働の原動力であった

     ステータスやら物質消費の夢や魅力を断絶しなければならない。


      これらの魅力がわれわれの人生を台なしにし、幸福を収奪してきたのだと、

     心の底からうなるような気づきの体験をしたとき、

     われわれ日本人は進むべき方向を、もう見誤りはしないだろう。




                                        (終わり)




      のんびりした社会の実現は、どのようにすれば実現できるのか、

     方法などを考えてメールを送ってくれれば、うれしいです。


           クリックしてください。




   Goodbye Little DADDYS's Town
          ――社会批判と迷いの浜田省吾論



                                             1997/12/28.





     わたしは浜田省吾が好きである。

     18、9才のときから聴いているから、もうほぼ10年いじょうは聴きつづけている。


     やっぱりメロディがしぜんによくなじむのだろう。

     ふと想い出したように、浜田省吾のあのアルバムを聴きたいという気分になる。

     あるときには『誰がために鐘は鳴る』が聴きたくなったり、

    『Promised Land』を聴こうとか、フィーリングに合ったアルバムを選んでいる。


     ハマショーの曲には、だいたい大きく分けると3つのタイプに分かれる。

     ラブ・ソングと社会批判と人生の迷いの曲である。

     6割いじょうはラブ・ソングが占めるわけだが、

    はじめのころはわたしはこれにハマったが、いまはあまり心情的に傾斜する気はない。

     もちろん、メロディ的にはとても気持ちが癒されるが。


     わたしがいま気に入っているのはやはり社会批判と人生の迷いを唄うハマショーであり、

    その気持ちはいつ聴いてもとても共感する。


     このエッセーでは、どのような社会批判や迷いを歌っているのか、とりあげることにする。

     それをわたしはどう思うかといったことを書き連ねてゆきたい思っている。

     インターネットでは、著作権がどうのこうのといろいろうるさいと思うので、

    きょくりょく、歌詞をそのまま引用するようなことはさし控えたいと思う。


     社会批判色が強いアルバムというのは、

    デビュー・アルバムの『生まれたところを遠く離れて』と、

    『Promised Land〜約束の地』、『Down By The Mainstreet』、

    『J.BOY』、『Father's Son』、『誰がために鐘は鳴る』ということになるだろうか。


     とくに『Promised Land〜約束の地』のなかの『マイホームタウン』という曲は、

    ハマショーの社会批判の集大成のような曲である。

     みんな同じような夢を見て、同じようなニュータウンの家に住み、

    毎日毎日、むなしい仕事だけに追われつづけている、

    だれもがいつかこの街から出てゆくことを夢見ている、といった歌詞だ。


     わたしは毎日が仕事で追われて空しくなったら、この曲を聴いてウサを晴らす。

     ハマショーがこういうことを歌ってくれているだけでも、

    仕事だけのがさがさの日々にほんの少しの潤いを与えてくれる。


     画一化した人間と、仕事だけの毎日と人生。

     この「終わりなき日常」はいったいいつまでつづき、

    われわれの人生から幸福を収奪するのだろうか。

     いったいいつになったら、われわれはこの空しい機械のような毎日を、

    みんなでやめよう、捨てよう、という気持ちになるのだろうか。

     なぜだれもこの会社だけの毎日から逃げ出したいと思わないのだろうか。

     なぜ、みんなこの退屈で窒息しそうな毎日に憤りや反感を表明しないのだろうか。

     いったいだれがこんな息苦しい、人間のためでない社会の仕組みを、

    存続しつづけようとしているのだろうか。


     わたしにとっては不思議でならないこの社会を、

    だれもがつづけているのはいったいなぜなのだろうか。

     いったいだれのために、なんのために、こんな毎日をつづけているのか。

     ほんとうにだれのためなんだろうか。


     ハマショーのこの曲はわたしのこのような気持ちを代弁してくれている。

     だからとても好きだ。


     80年代にトレーシー・チャップマンというアメリカの黒人シンガーが、

    この街から早い車にのっていつか出て行こうという『ファースト・カー』という唄を

    唄っていたが、とてもせつないメロディが好きだった。

     街から出て行こうというのは、この資本主義システムから脱け出そうということを

    象徴していると思うのだが、どの街に逃げ出しても、

    けっきょくは、この資本主義社会からは逃げ出せない。

     どこかにこんな苦しい毎日がつづかない街があると夢想するだけで、

    われわれは慰められるしか仕方がないのだろうか。


     なお、ハマショーの『マイホーム・タウン』の曲のあとには、

    『パーキング・メーターに気をつけろ』という殺人を犯した者の気持ちが唄われていて、

    ほかのロック歌手がそんな唄を唄えるだろうか。

     かれは一日10時間働きつづけて、疲れ果てていて、

    想っているコに冷たくあしらわれて、犯行に及んだというストーリーである。

     80年代に「豊か」だとさんざんいわれた社会でこのザマだ。

     救いがない。

     豊かさのモノサシがまちがっていたのだ。


     『J.Boy』という曲はその豊かだといわれた日本社会の現実を唄っている。

     仕事が終わって解放されると、怒りで叫びたくなるのが、

    われわれ日本人の毎日のウソ偽らずのすがただ。

     掲げていた理想は遠く、守るべき誇りも失った日本の少年。

     勝つためのサバイバル・ゲームは果てしなくつづく、限りなく豊かなこの国で、

    いったい何を賭け、なにを夢見たらいいのか――、

    ハマショーはそう唄っている。


     われわれは「失われた世代」だと思う。

     アメリカの1920年代のヘミングウェイやフィッツジェラルドのように、

    社会的には前の世代の夢や目標が実現されたのだが、

    そのために若者たちの夢や目標があらかじめ失われてしまっている。

     いまの日本の若者はそれとうりふたつの状況におかれている。

     しかも若者の世代にとっては、負の遺産ばかりが重たくのしかかっている。


     若者はなんの夢も目標もないまま、途方に暮れている。

     しかも大人たちがつくったマスコミや企業に踊らされる、

    消費者としてのカモの役割しか担わされていない。

     若者たちはそれが自分たちの楽しみだ、カッコイイ生き方だと思い込んでいるのだろうが、

    たんに大人たちのつくりあげた産業戦略に踊らされているだけだ。

     自分たちがほんとうにこれは楽しい、なにものにも変えがたいと思っているのなら、

    べつにそれはそれでいいのだが、ふとこのことに気づいたときのショックは

    なみたいていのものではないと思う。

     踊らされ、バカにされていた自分の姿を垣間見せられたときのショックは、

    そうとう酷なものがある。

     若者たちはこのまま、危うい「バカ殿」のまま、人生を全うできるのだろうか。


     かつてはOLたちが「バカ姫」として、マスコミなどにおだてあげられていた。

     「キャリア・アップ」や「ブランド品」、「海外旅行」に群がっていた彼女たちは、

    このリストラ時代にハシゴをはずされて、どのような生き方を選択するのだろうか。

     あいかわらずブランド品とかファッションに着飾った女性たちが主流のようだが、

    現在の悲惨な状況の産業界と、かなりズレているように思える。

     彼女たちは大きな潮流の転換を、まだまだ肌で感じていないようである。


     『Daddy's Town』という唄は、タールとパルプのにおいのする、

    工業地帯の親父の街から出ていくという唄だ。

     われわれの親の世代は、このような工業地帯の街で生きてきた。

     そのような親父の象徴である街を捨てて、

    われわれはほかのもっとましな街に出てゆきたいと思っている。

     それは工業社会に生きてきた日本人への訣別の言葉であり、

    これまでの日本人の生き方にたいする別れの宣言である。

     われわれはアブラにまみれて生きた親父たちの生き方を、

    軽蔑して、なんとか越え出たいと願っている。

     この曲にはそのような気持ちがこめられている。


     ハマショーの曲には、サラリーマンの日常の苦悩や怒りが唄われている唄が多い。

     通勤ラッシュにもまれる姿や上司にぺこぺこする姿、クビにされたり、

    こころもからだも病んで切り捨てられたり、心を隠して朝の地下鉄に乗ったり、

    仕事から解放されて彼女とメイク・ラブするだけが楽しみだといった歌詞が、

    随所に見受けられる。

     それがまたいいのだ。

     このサラリーマン、会社勤めのやり切れなさが唄われているのが心にグッとくる。


     いくぶんステレオ・タイプ的、イメージ的なサラリーマン像であるが、

    ハマショー本人はサラリーマン生活をいくらか送ったことがあるのだろうか。

     サラリーマン生活に反発してきたから、ロック歌手になったのかもしれない。

     そのような人たちはやはりわたしのまわりにも多くいて、

    サラリーマン生活から逃れようとする人はとりあえず、ミュージシャンをめざす。

     ハード・ロックのカッコをしたフリーターはどこにでもいる。


     いまのような音楽だけではなく、サラリーマン生活に反発した人たちの道が、

    もっと開かれていたらいいととても思う。

     いまではアジアやヨーロッパなどに海外放浪する道も開かれているのかもしれない。

     企業家になる人や店を持ちたいという人はそんなに多くないだろう。

     フリーターというのは、けっきょくはサラリーマンとほとんど変わりはない。

     すぐ辞める、ひとつの会社にしがみつかないといった点では、

    旧来のサラリーマンの価値観にアンチを唱えているわけだが、

    金銭面や待遇面ではかなり不利な条件を背負わされている。

     ただそんなことを求めれば、ほんとうにそのままサラリーマン社畜になってしまうのだが。


     もっと多数の選択ができる世の中をつくってゆくべきなのだ。

     さもないとサラリーマンをめざした、幼少期からの学歴競争の牢獄に閉じ込められた、

    人生コースを歩まなければならなくなる。

     これではあまりにも悲惨だし、人生があまりにも貧困すぎる。

     サラリーマン以外の道を開いてゆくことが急務であると思う。

     それはわれわれ若者たちのこれからの、

    そして将来の子どものための課題ではないだろうか。


     『Money』という唄はとても迫力あるイントロで、

    自分の生まれ育ったさびれた街を高校卒業と同時に出てゆく、といったことが唄われてゆく。

     金は人を狂わせる、

     金はだれもかれをも変える、

     いつかビッグ・マネーを金持ちの前に叩きつけてやると叫んでいる。


     ノリのいい唄なのでつい唄い出したくなるが、

    個人的には金持ちを怨んで、大金を手に入れたいとはわたしは思わない。

     そんなことをめざせば、牛のように働かなければならないのは目に見えている。

     わたしはそんな志向性をもたない。

     あくまでも、持たない、のぞまない、のんびりした生活を求める。


     デビューアルバム『生まれたところを遠く離れて』には、

    フォークのような、弾き語りのような唄い口で、

    この社会への怒りが唄われていて、とても好きなアルバムだ。

     仕事だけの毎日に鬱憤がたまってきたら、このアルバムを聴きたくなる。


     『壁に向かって』という曲では、こんなにみじめな暮らしの中でさえ愛想笑い、

    脅えている、もうやめようぜ、というフレーズがとても心に残る。

     『HIGH SCHOOL ROCK&ROLL』では、

    親父の望みはひたすらひとり息子の出世だけ、

    学校のやることはひとつ覚えの大学、

    インチキ学校を辞めて、バイトをしていたが、いきなりクビになり、

    「おっかー、もうこれ以上、ガマンできねぇ」とハマショーは叫んでいる。

     さいごにカネと力がなければどうにもならねえ、と怒りを結んでいる。

     『とらわれの貧しい心』という曲はほんとに名曲で、

    脅えながら暮らす都会では、あやしげなイカサマ師たちも

    同じような悲しみにとらわれて生きているといったフレーズがとても心にくる。


     わたしがサラリーマンの生き方を嫌うようになったのは、

    ハマショーの曲からだけではない。

     ほかにももっと多くのロック歌手たちが、かれらを侮蔑した唄を唄っていたと思う。

     どんな唄があったのかいまはよく思い出せないが、

    尾崎豊は中学のとき(わたしより2つ年上だから高校のときかな?)によく聴いていたし、

    いささか古いが、「就職が決まって髪を切ったとき、もう若くはないさと言い訳したね」

    の『いちご白書をもう一度』にも心をじーんとさせた。

     爆風スランプの「わたしの青春を返せー」と叫ぶ中年サラリーマンを唄った、

    『45歳の地図』も笑えて心にのこっている。


     われわれ若者たちは心のなかでこんなにサラリーマン社会を嫌っているのに、

    なぜこの企業社会はまったく変わらないのだろうか。

     なぜ若者たちはそんなに反発する企業社会のなかに、

    ものを言わずにすんなりと溶け込んでいってしまうのだろうか。

     現実問題として、メシを食ってゆくためにそうするしかないわけだろうか。

     われわれはそのために自分たちの望む社会づくりを放棄しているのである。

     これはわれわれと同じように後の子どもたちまで苦しめることを意味する。

     なにもできないわれわれの世代の責任でもあるのだ。

     …………


     さて、これまでは社会批判としての浜田省吾を語ってきたが、

    少しだけ、迷いの浜田省吾をとりあげたいと思う。


     『ミッドナイト・ブルートレイン』という唄だが、旅から旅へのコンサートツアーに疲れて、

    ハマショーがどこに行くのかも、なにをしているのかもときどきわからなくなるよ、

    と心情を吐露した唄で、哀切をさそうメロディがとても好きだ。

     時は瞬く間に過ぎてゆき、描いた夢と叶った夢がまるで違うのにやり直せもしない、

    なにもかも投げ出して帰りたくなる、でもいったいどこへ……

    と泣きそうになる歌詞をハマショーは唄う。

     ただ走りつづけることだけが生きることだ、ハマショーはいう。


     『SILENCE』という唄は、同じような家と家庭を手に入れてもなにか心が満たされない、

    わからないよ、いまもなにを求めてこの心、さまようのか、

    と迷いを唄った唄である。

     なにをしても、なにをやっても、われわれの心は満足することはない。

     ハマショーはわれわれの心の迷いを代弁してくれている。


     さいごに『誰がために鐘は鳴る』というアルバムから『夏の終わり』をとりあげる。

     この曲もアルバムもいまでもとても好きで、よく聴きつづけているアルバムだ。

     汚れた悲しいメロディが身を切るようにくり返す、もうだれの心も傷つけることはない、

     車もギターも売り払い、海辺の街で潮風と波の音を枕にひとり静かに暮らそう、

     といった諦観の境地を唄った唄だ。

      人の心を傷つけたり、毎日の生活に疲れて、

     われわれはこの生活からなんとか逃れたいと思う。

      そんな気持ちをハマショーはこの唄で唄っている。

      現実にはそんな生き方はできないとしても、このような心のオアシスをもつだけでも、

     いっときだけでも、慰められはするだろう。


      このほかにもハマショーの曲には名曲がたんまりとある。

      ラブ・ソングは心をやさしい、あたたかい気持ちにさせてくれる。

      社会へのメッセージを唄った唄もたくさんある。


      これからもわたしはハマショーの擦り切れたテープとCDを回しつづけるだろう。



                                          <終わり>



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