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 ■060809断想集


 ■お金とは利他行為の強制か           2006/8/9

 こないだから漠然と考えてきて、ちっとも考えがまとまらないのだが、お金の利他的側面とはなんなのだろうなと思う。

 私たちは生活してゆくために他人にサービスをしなければならない。パンをつくったり、服をつくったり、あるいはモノを売ったりと。われわれは他人にサービスをおこなわないと、生活をしてゆくことができない。つまりお金は他人への利他的行為の強制があるわけだ。

 アダム・スミスの説明なんかでは個人は私益を追究すれば、神の見えざる手が働いて経済がうまく回るのだと説明されたりするが、私たちは私益よりか、まずは利他的行為をおこなわなければ私益は手に入らないようになっている。他人に食事をつくったり、服を繕ったり、家をつくったりして、はじめて私たちは自分たちの私益に使えるお金を稼げる。他人のために何かをしなければ、私益なんか追求できないようになっている。

 お金はそういうふうに社会の構成員を利他行為に駆り立てる。他人のためになにかサービスをしたり、貢献しないと、この社会では生きてゆけないのである。私がだれかから新鮮な野菜やおいしい米を手に入れるためには、他人の服をつくったり、パンを焼いたり、または家電製品を組み立てたりしなければならない。そのお返しとして、私たちははじめて他人のサービスを手に入れる権利をもてるのである。お金とは利他行為の強制なのである。

 私たちはお金というしくみがなければ、このように他人のためにサービスをしたり、モノをつくったりしただろうか。一日中他人のためになにかのモノをつくったり、サービスをしつづけるようなことはおこなっただろうか。こんなに疲れる、尋常でない行為に人びとは駆り立てられただろうか。

 私たちはほんとうのところ他人のためにサービスや仕事をしたい存在なのだろうか。人の役に立ったり、人のためになにかをしたいと思うような資質をふんだんにもっているものだろうか。人の喜ぶ顔が見たい、人の喜びが自分の喜びだと思えるような善人ばかりで構成された社会なのだろうか。あるいは分業が進みすぎた社会では、自分の仕事によって人の喜ぶ顔がちょくせつ見れるような仕事もずいぶん減った。

 お金とは他人のために生きる人生を余儀なくさせる装置のようなものである。私はこの社会で生きてゆくために他人のサービスにほとんどの時間を費やす。利他行為ばかりおこなう人生である。こんな人生っていったいなんなのだろうと思う。

 もちろん人の役に立ったり、人のためにおこなう行為はすばらしいものである。お金がなければ、この社会の住人は利他行為にあふれた奇蹟のような人たちの集まりに見えただろう。

 私は思ってきた、仕事ばかりの人生や会社に拘束される人生なんていやだ、自分のために生きたい、自分のための時間がもっとほしいと思ってきた。お金や仕事を利他行為とみる側面から見ると、こういう考え方はずいぶん利己主義である。私は利他行為なんてまっぴらだと思っている、非情で薄情で、利己主義な人間なのだろうか。

 他人のために社会のために生きる人生はすばらしいものなんだろうか。自分のために自分の人生を生きるのは、利己的で、冷酷な生き方なのだろうか。私たちは自分のために、自分の喜びのために、他人のサービスに人生をとられるような生き方から降りることは、人間らしくない生き方なのだろうか。

 お金を利他行為だと捉えるのなら、自分のために生きる人生はずいぶん利己的で分が悪い。まるで自分のことばかり、利益ばかり考えている人間に思える。そうなのだろうか。

 お金はすばらしいものだと捉える人はそう多くはないだろう。お金は汚く、下品で、低俗なものと考える人のほうが多いのではないだろうか。お金を社会の利他行為だけで捉えるのは単純化しすぎているし、ほかの側面を排斥しすぎである。お金はむかしから私益や利益をむさぼる意地汚いものだと思われてきた。利他行為の側面から見られることは少なかったように思う。利他行為から見るのは片手落ちというものである。

 お金を利他行為と捉えるのなら、私はずいぶんと利己主義的な人間なのだろう。人のためになにかをしたい、人の喜ぶ顔を見たいといって、仕事にいそしむ人間でない。すこしでも仕事を減らして、自分のための人生、自分のための時間を増やしたいと思っている。私はあまりにも利己主義的な人間なのだろうか。

 人の役に立ちたいといって、他人のサービスにほとんどの時間を捧げつくすような人生がほんとうに良い人生なのだろうか。そう思えることがすぱらしいことなのだろうか。お金を利他行為の強制だと捉える視点からそういう疑問がわいてきたのであった。





 ■安くなったメガネに驚いた。              2006/9/9

 

 私はかなり視力が悪いから、メガネは安いレンズが買えずにいつもメガネには5万円くらいかかっていた。それが今回、スリープライス・ショップで買ったら、たったの一万三千円でメガネ一式が買えて、驚いた。いままでのバカ高い価格はなんだったのかということになる。スリープライスショップというのは五千、七千、九千円のセット価格でメガネが買えるという店だ。

 韓国のメガネが異様に安いことはちらほら聞いていた。7千円くらいでできたそうだ。日本のスリープライスショップの安さの理由は、フレームを中国でつくり、レンズを韓国でつくるからだそうだ。サングラスで千円で売っているのだから、安くできないわけがない。

 いままでメガネ屋は暴利をむさぼっているのだろうか。いままでの店の言い分によると、メガネは医療品だから繊細な技術や経験が必要だとか、職人技が必要だとか宣言している。だけどスリープライスショップの安さの前ではまったく説得性をもたない。ファーストフード方式でできるものだったのである。

 私はモノは安ければ安いほどいい。モノに価値があるとは思えない。自分の貴重な労働の時間を捧げているのである。それに勝るモノなどないと思う。モノの価格によるグレードなんてちっとも信じていない。高ければ自分の価値が高まったとか、まわりが尊重してくれるだのの広告神話なんてアホらしい。モノは私の社会的価値をあらわすのではなくて、あくまでも「機能的な」モノであればいいのである。だからアホらしくて高いものなんて買わない。というかお金がないから買えない(笑)。

 ユニクロもファッションの価格破壊をもたらしたが、たぶんに服に価値はないという宣言をふくんでいるのだと思う。スーパーよりそこそこのセンスがあればいい、ファッションに自分の価値は投影されないということで私はユニクロの安い服を買う。

 メガネはファションであるべきだと前々から思っていた。こんな私でも十代のころは流行にこっていた「ポパイ少年」だったころもあり、メガネは流行を意識してかけてきた。80年代にはセルフレームの丸っぽいボストンタイプや黒ブチの四角いメガネが流行った。90年代にはまん丸や楕円のロイドタイプやオーバルタイプが主流になった。いまは横に細長いメタルフレームが人気だ。TVを見ていると、だいたい流行りのメガネを多くの人がかけているのがわかる。私は老眼鏡のようなメガネをかけたかったので、近いのが見つかってよかった。

 スリープライスショップはメガネのファッション化をもたらすだろう。というか、いままでの高いメガネ屋の値段はなんだったんだと憤慨する。たぶんに日本の円が高くなり、中国などの生産工場が安い価格で急速に発展してきたからだろう。高い値段にあぐらをかいてきた日本のメガネ業界は後進国に衝撃を受けるのである。私たちはこのような中国ショックというものに消費者として恩恵を受け、労働者として打撃を受ける。まちがっても生産者を守る世の中ではなくて、かれらがほかの業種に移りやすい世の中を緊急につくりだすべきであると思う。

 ところで目が悪くなるのは、近くばかり見ているために眼筋が固まってしまったからだと思う。眼球をひっぱる筋肉が硬直して固定してしまったのだ。腕や足の筋肉が緊張したままの状態に近いと思う。だから上下左右の眼球のストレッチが初期には効くと思う。ただし近眼が強くなると、眼球はフットボールのようにふくらんだままで網膜も薄くなっているので、網膜はく離の危険もあるので、慎重さが必要なのがむずかしいところだ。

 ど近眼のおかげで私は18くらいのころから飛蚊症(ひぶんしょう)と長いつきあいになる。視界に蚊が飛んでいるような黒いものが見える症状のことである。これは仏教のこの世の幻をたとえるのにも使われていた由緒正しい?病気である。だいたいは年をとってから起こる。本を読むにも黒い塊がじゃまになったりする。だいたい視界が暗いとき、つまり気持ちが落ち込んでいたりするときには増えたかなと思う。空や光を直視すると、その多さにへきえきする。

 でもいまではだいぶ気にしないことも覚えたし、網膜はく離の恐れもあると医者に脅されて医者に行ったこともあるが、20年くらいたってもなんともならないのでいまはほとんど心配していない。不便なものなので、みなさんは目の健康に気をつけましょう。





 ■人はお金のために創作するのではない。       2006/9/14

 YouTubeにリンクを貼っていた音楽が著作権違反でどんどん削除されている。私はYouTubeにリンクを貼ることによって、自分の好きな曲や聴いてほしい曲をみんなに知らせることができて、とても楽しい気持ちがしたものだ。かつてない経験であり、たぶんこれまでは自分の選択した曲をみんなに聴かせることができたのはTVやラジオの音楽番組担当者だけだっただろう。

 ふつうは自分の好きな曲を口頭や言葉で知らせることくらいしかできない。友人間ならCDの貸し借りなどができるだろう。でもいっしょに聴けるという機会はそうそうない。YouTubeは私の選択でいますぐみんなに曲を聴かせることができるのである。こんなに便利ですばらしいしくみはこれまでなかった。

 友人間で音楽や書物などの著作物を貸し借りする場合、お金をとる人なんてまず皆無だろう。いい音楽や有益な本などがあれば、人は喜んで友人にそれを貸すだろう。

 音楽や知識というのはもともとはこういう性質のものだ。いいものがあれば、人は喜んでそれを人に与える。知識や音楽はそうやって人のあいだを流通するものである。

 しかしわれわれの社会は貨幣社会である。音楽や書物はお金によって流通する。お金がなければ、流通や製造、販売の手段をもたないのである。友人に貸し借りするような流通手段だけでは、私は生活するためのお金を稼げない。もし音楽や書物を無料で創作・流通していたら、かれはほかに生活の糧を得なければならなくなるだろう。

 だけど音楽や知識というのはいいものがあればみんなと共有したいものであり、もし彼がよいものを創作すれば多くの人に知らせたり聴かせたりして、喜んでもらったり、認めてもらいたいと思うだろう。音楽や書物の創作者はもともとはこういう気持ちから創作していると思う。彼は自分の創作物に喜んでもらったり、認めてもらいたいと思っているのである。知識や情報にしても、人類の多くが有益な知識を知らないでいることも大いなる損失である。

 お金というのはそういう流れを遮断したり、拒否したりするものである。いっぽうでは創作物のなくてはならない流通手段になるのだが、いっぽうではお金のない人を拒絶したり、お金の払わない人には届かないしくみになっている。もし台風情報や津波注意報が有料でお金を払う人にしか得られなかったら、どうなるだろう。げんざいの知識や音楽の流通はこのようなしくみによって遮られているのである。お金は人類の共有財産を隔離したり破壊したりするのである。

 しかしインターネットはお金をかけなくても著作物の流通を可能にした。著作物はいっさい無料でも流通できるようになったのである。パッケージ化や物流、販売などの手間がいっさいなくなり、そしてその障壁のための金銭の支払がいっさい必要でなくなってしまった。著作物にお金を払う障壁がいっさいなくなってしまったのである。

 創作者はほんらいの人に喜んでもらったり、認められたいと思う気持ちに出会うことができるだろう。しかしそれでメシを食う音楽業界や出版業界はたまったものではない。それによって一銭も稼ぐことができなくなるからだ。創作者だって同じことである。

 音楽や知識はインターネットによってみんなで去有されるしくみがつくられた。もともと音楽や知識はみんなの共有財産として存在すべきものである。とくに知識なんて多くの人と共有しないことには人類の損失であり、流通を助けるお金がいっぽうでは遮断する役割も果たすというのは流通手段の失敗である。

 お金は分業と協同の社会をつくった。みんながそれぞれの分担業務をおこなうことによって、すばらしい高度な分業社会をつくった。しかしお金は最高の協同システムを築けるというわけではない。ほんらいは人類が共有すべき知識や情報を遮断、分断している。お金はみんなが共有すべき知識や情報の流通に適さないようである。

 インターネットは知識の共有にはもっとも適したかたちだろう。だけどすべてが無料になるのなら、創作者にはお金が回ってこない。しかし知識や情報はタダで回るようになったのである。私たちはお金による知識の分断から解放されたすばらしいシステムをもったのである。これは知識の革命である。

 しかし著作物関係者はお金を稼ぐができない。私たちはお金という流通、協同社会をどうにかできないものだろうか。それともせっかくの知識や情報の共有を手放してでも、お金による知識の遮断・分断をめざすべきなのだろうか。協同社会のあたらしい流通手段はないものだろうかと考える時期にきているのかもしれない。





 ■企業は社会保障の廃止をめざすのか          2006/9/16

 関西しかやっていないだろうけど、『雇用破壊〜格差社会にもの申す』(アンカーSP)という報道番組を14日深夜にみた。おもに製造業の偽装請負や非正規雇用の問題をとりあげていた。宮崎哲弥や片山さつき、仙谷由人、小島典明(阪大)、脇田滋(龍谷大)、雨宮処凛といった人たちが出ていた。

 派遣というのは一年後に直接雇用に移行しなければならないから、偽装請負が横行しているという違法行為が叩かれていた。請負というのは派遣先の正社員から指示・命令をうけてはならないらしい。実態は派遣であり、企業は直接雇用をどこまでも避けたいらしい。

 工場などの製造業は派遣や請負がどんどん進行している。派遣や請負はそこの会社に属してながら、よそ者のような気持ちを味わわせるものである。そして給与は社員の半額程度であり、昇進もないし、社会保険が支払われることもめったにない。つまりは非正規雇用であり、アルバイトである。不安定雇用であり、使い捨て労働であり、結婚も子どもも持つことがむずかしいだろう。

 いまの日本企業は従業員に生活や人生の保証をするといった温情主義・家族主義的な、かつての日本企業のイメージをどんどん捨てつつある。まだ多くの人はそうであろうけど、企業は生涯を保障してくれるというあたたかくて、やさしいイメージを抱きつづけているのだろう。

 だからこそ、かつての日本人は企業に忠誠心をつくし、愛社精神をもち、長時間残業をいとわず、企業につくしてきたのである。滅私奉公には見返りがあった、もしくはそう好都合に考えてきたのである。そして会社人間や社畜とよばれるものになった。

 そんな都合のいい話があるわけがない。企業は経済論理で動く。好調なときにはそのような約束はできるが、、調子が悪くなるとたちまちその約束は捨てられる。それが経済やお金というものである。それなのに日本人は企業に聖人君子のような温情主義を期待してきたのである。この異常な観念の源泉には、年金や健康保険によって人生が保障されるというメルヘン的な依存心の育成があるのだろう。

 企業はこのメルヘン的な人生保障の約束をどんどん反故にしつつある。そのメルヘンは大企業や専業主婦、または多くの日本人の脳裏の中にのこっているのだろう。現実には非正規雇用の急激な伸びによってそのメルヘンがどんどんつき崩されているのだが、おおくの日本人はまだまだその現実を認めようとしないのである。

 企業は従業員の生涯保障なんてしたくないのである。必要なときだけ雇用したいのが企業というものであり、経済論理である。たとえば私たちは住まなくなった家の家賃を払いつづけるわけなどないし、乗らなくなった電車の定期券を買いつづけるわけなどない。企業も同じである。これが当たり前すぎる当たり前のことなのだが、どうも日本人は人間は違うといって、住まない家賃や乗らない定期券を払いつづけることを正当なことだと、人間の権利やとうぜんの保障だと思い込んできたようである。企業に生涯の保障を抱え込ませて、有利さを企業の長期雇用にあるようにひっぱってきた。労働市場を育てることのほうが重要だと思うのだが。

 企業は社会保障をどんどん捨てたい。国家の社会保障は見捨てられたかたちになっている。国民は社会保障にしがみつきたい。企業は給料を下げたい。そのような要求が絡んで、いまの企業の中には正社員や派遣、フリーターといった雇用形態が混在している。その格差は競争やがんばりのモチベーションとして利用可能かもしれないが、そこには年功賃金のような多くの人がしぶしぶ納得するような格差の正当な理由などまったくないのである。同じ仕事をしていて、だれが正社員とフリーターの違いを納得させることができるのだろう。

 なし崩し的に企業の社会保障は人々から奪われている。そして温情主義的な企業関係の中で労働者はすっかりおとなしくなってしまっている。待遇も給料も低くても、社会保障がなくても、フリーターや非正規雇用者はなにもいえず、黙ったままである。社会も政治家も世論も声を上げず、沈黙したままに、この給与ダウンと社会保障の喪失はどんどん進行しつつあるのである。ものすごく大きな日本人の生き方の転換につきあたっているというのに、人々は傍観か、無視しているだけである。

 なにが必要なのか。どうなればいいのだろうか。まずいちばん大事なことは企業と国家は社会保障をどうするのかコンセンサスを得るべきだ。企業は社会保障をどんどん捨てているのに、国家はそれを違法と見なすのか、取り締まるのか、それとも合法か、はっきりすべきだ。国家は企業が社会保障を与えないことを奨励するのか。

 これまでは企業が従業員の社会保障の支払や手続きは肩代わりしてきた。この役割を企業に放棄させることは、事実上の社会保障の廃止に近い。つまりは企業のみならず、国家も社会保障を廃止するのかということだ。非正規雇用の問題とはとどのつまりこのことである。社会保障は廃止なのかということだ。社会保障は一級国民だけのものになるのか、そうすればほかの人たちは税金も払わないし、国家と無関係に生きようとするし、戦争は一級国民だけの義務になる。

 もうひとつは正社員と非正規雇用の格差問題である。給与や生涯賃金で二倍〜四倍ほど格差のある関係はこのまま放置されるべきなのだろうか。もし同一賃金同一待遇をめざすのなら、正社員のレベルが引き落とされるべきなのか、非正規雇用が上げられるべきなのか。正社員が落とせないから非正規が生まれたといえるので、非正規雇用を上げるしかないのだろう。といっても政府にも労働局にも実行力は皆無だろう。このままこの状態はつづき、人手不足がやってこないかぎり、非正規雇用のレベルが上ることはないのだろう。

 私がずっと思ってきたことは企業なんか信用するなということである。いくら生涯が保障される終身雇用が約束されたからといって、全人格的に企業に人生を捧げるなんてまちがっている。私たちは会社で働くためだけに生まれてきたのではない。人生を謳歌するためには必要以上に企業や労働に人生を捧げてはならないのである。

 企業は冷酷で、残酷で、非人情的なものである。それが経済やお金の論理というものである。そういう面から出発して、企業とのつき合い方を決めるべきなのである。メルヘンな終身保障なんて期待して、全人生を企業に捧げるべきではないと思う。ほんらいは非正規雇用の関係が企業とのふつうのあり方くらいに考えるべきなのだろう。そうすると企業とのドライで一面的な関係やつき合い方も見えてくるというものである。企業とは敵対して、闘争する関係なのである。温情的な関係を期待しておとなしくなるべきではないのである。






 ■大和朝廷の太陽の道をゆく            2006/9/24

 『太陽の道』 謎の北緯34度32分 (no,1)
 『太陽の道』 荒俣宏
 磐座みぃ〜つけた新聞
 奈良、太陽信仰の道

 北緯34度32分に古代遺跡や神社がならぶラインがある。春分と秋分の日の日の出と日没が結ばれたラインである。そこには大和の三輪山と二上山が相対峙し、西にいくと日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥となって舞い降りた大鳥大社があり、東にいくと長谷寺、室生寺があり、さらには伊勢神宮の移転元といわれる伊勢斎宮遺跡がある。

 かつての人たちは日の沈むところに死者に国を思い浮かべ、日の昇るところに再生を願った。二上山は死の山であり、その西麓にはたくさんの墳墓がつくられ、そして日の昇る三輪山は聖なる山、神のご神体として崇め祭られた。そして季節の変わり目も生命の盛衰を司るものとして、その交差点に神社や神が祭られた。

 その太陽の道を大鳥大社から三輪山までめぐってみました。古代の人たちはどのような思いでこの太陽の道をながめたのでしょうね。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥となって舞い降りたといわれる大鳥大社です。太陽が沈むところの暗喩だったのでしょうか。
堺には日置荘とよばれる地名がのこっており、日置部といった人たちは自然暦を司った。そこにある萩原天神です。
二上山の麓には當麻寺(たいまじ)があります。死者の国への入り口だったのでしょうか。
奈良から見た二上山です。ふたつコブの山が特徴的です。この山の向こうにはおびただしい墳墓がつくられました。
太陽の道に位置する多神社です。その線上には三輪山と二上山があり、その南北の鏡作神社と畝傍山から夏至と冬至の日の出が三輪山から昇ります。
卑弥呼の墓といわれる箸墓です。むこうの山は三輪山です。
神として崇められる三輪山です。大和の人たちはこの山のあらゆる方向から日の出をなかめたのでしょう。再生を司る神でもあったのでしょう。
三輪山の麓にある大神神社です。この神が伊勢神宮にうつったといわれています。
暗くなってしまいましたが、三輪山の麓から畝傍山や耳成山の突起が見えます。むこうは葛城・金剛山脈です。
秋分の日から一日たってしまいましたが、日が沈むところ。葛城山のほうに沈んでいますが、場所が悪かったのでしょうか。

  あまり役立たない地図だと思いますが、大神神社にリンクしています。



 ■巨岩と夕日を祭る神社              2006/10/1

 奈良県吉野川上流あたりに圧倒される神社をみつけました。高台にある神社と巨岩の大きさにおどろきました。そのような自然の驚異に感嘆する気持ちが神や神社の原初にあるのだということをあらわしているように思われました。

川をはさんだ高台に神社がありました。なんでこんな高いところにあるのだろうと思いました。御霊神社といいます。
その堂からは山の向こうに夕日が沈みます。この神社は夕日を祭る神社ではないかと思いました。ちょうど夕日を浴びているのでぴんときました。
下をながめると、かなり急な階段であることがわかります。太陽の影もこちらに向かって、通り道のようになっています。
もうすこし吉野川を下ると、岩神神社があります。巨岩の大きさにただ圧倒されます。そして巨岩を祭り、神として崇めた人たちの気持ちがまだ生きていることを感じました。
明らかにこの巨岩が祭られているとわかる神社です。全国の神社はこのような自然崇拝の上に、天皇家や祟る人たちの神格化がつみかさねられたのだと思います。
吉野川上流の風景です。川に開けた山々や村の風景ってどこかしら心を和ませるものがありますね。

  東吉野村の赤+印あたりだったかな〜?




 ■村上春樹ノーベル賞受賞ならず、残念。       2006/10/14

 

 ひそかに期待していたのだが、村上春樹のノーベル賞受賞にはいたらなかったようだ。カフカ賞とオコナー賞をもらい、近いところまで来ていたのに残念。

 ノーベル文学賞 村上春樹氏受賞ならず 報道ステーション
 村上春樹氏ノーベル賞逃す…今年日本人受賞なし
 村上春樹がノーベル文学賞候補? カフカ賞受賞で。
 「村上春樹氏は受賞できない」優勢
 村上春樹の英語圏での評判
 村上春樹 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 春樹 なぜ  海外で読まれるか

 私はさいきんの村上春樹には興味をなくしているが、初期の村上春樹は大好きだった。シニカルで、ニヒリスティックな醒めた姿勢がとてもカッコよかった。そういう面が薄れてきた90年代からは読まなくなった。というか、私の興味は人文学のほうに興味の軸をうつした。

 村上春樹といっても知らない人もたくさんいると思う。音楽やTVの話題の人は知っていても、作家を知らない人というのはさっこんではかなりいると思う。有名な作家の名を国民的に共有するという時代ではないのである。そういう作家がマイナーな時代にノーベル賞を受賞すれば、村上春樹や作家たちは知名度の共有はあがると期待したのだが。

 村上春樹ってかなり現代的で、ポップカルチャーをふんだんにとりいれた同時代性をおおくもっているから、火がついたら大江健三郎と比べようもないくらい多くの人に読まれると思うんだけどな。

 村上春樹は世界30カ国で翻訳され、アメリカやヨーロッパ、または中国でも人気が高いようだ。なんでこんなに評価が高くなったかというと、私が思うには初期のシニカルさが消費=生産社会の無意味感にマッチしたからかな〜とも思う。基本的には金持ちの国の文化はいつの時代も憧れられる。それだけのことだ。やれやれ。(笑)

 ちなみに私は87年の『ノルウェイの森』ブームから読み出したクチである。20才まで活字を読めなかった私はこのブームによって読書の楽しみを教えてもらったので、人文書ばかり読むようになったいまでも村上春樹は私の読書の楽しみの原点にあたる人なので感謝は忘れない。『風の歌を聴け』のシニカルさ、『羊をめぐる冒険』の比喩の楽しさ、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のポップ性、そして『ノルウェイの森』の孤独な生き方、どれもこれも好きだった。

 アメリカ文学や世界文学への傾倒を生み出してくれたのも村上春樹であって、私の読書界への水先案内人となってくれた。村上春樹は現代ではうち捨てられてしまった読書ワールドを再発見させてくれるフロンティアでもあったのである。村上春樹はそのような模倣や伝染をもたらした。ただし、村上春樹を超えたポップ性や現代性をもった作家には、村上春樹をおいてほかにはいなかったが。

 日本では川端康成と大江健三郎がノーベル文学賞を受賞しているが、安部公房や三島由紀夫もノーベル賞候補に近いところにいた。川端は日本的エキゾチズムでウケた作家だと思うが、大江は個人的にはまったく理解したいとも読みたいとも思わない作家だ。安部や三島は現代でもすらすらと読める作家なので、日本的なものが海外にウケた時代の早すぎた現代的な作家だといえるので残念なことである。

 

 こんかいは受賞を逃したが、村上春樹はいつかはノーベル賞をとるのではないかと思う。といっても村上春樹は一般受けやマスコミ受けする名誉をめざしている人なのかは、むかしの印象では希薄に感じたが。孤独な自分の楽しみを知ってる人にそういう栄誉は他人の汗や体熱がまとわりつかされるようなウザイことだと思うんだか。読書や自分の楽しみに感応しない人に喜ばれたところで迷惑なだけである。とくにナショナリズムだけで喜ぶ人を名誉と思える人なのだろうか。けれども小説という評価や名声をめざす生業をいとなんでいるのだから、最終目的にノーベル賞の栄誉をおいてもなんの矛盾もないだろう。

 





 ■現代思想のはぐれ方                2006/10/19

 
 左からドゥルーズ、デリダ、フーコー、レヴィ=ストロース、アルチュセール

 文庫になって思わず買ってしまったドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』。6、7千円する高い本なのでなんども手にとっては読むのをあきらめていた本。内容も理解できないのではないかという思いもなくはなかった。じじつ、読み出してかなり難渋している(笑)。

 ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』はポスト構造主義を代表する現代思想書。フランスの思想ではフッサールやメルロ=ポンティの現象学、サルトルの実存主義という流れがあって、60年代前後からレヴィ=ストロース、アルチュセール、フーコー、バルトといった人たちによる構造主義がはじまった。そのあとにきたのがデリダやドゥルーズのポスト構造主義である。

 80年代あたりに「ニューアカデミズム・ブーム」というのがあったそうである。浅田彰や中沢新一、栗本慎一郎といった人が立役者になった。このころから精神世界もひそかにブームになり、話題になることもあったのだが、けれども現代思想が表舞台にあらわれることはなかったと思う。

 いまの私は現代思想を読むことはほとんどなくなったが、90年代は遅れてきた哲学青年として(死語だな)、現代思想にはばりばりに興味をもっていた。有名な思想家の一冊や二冊は読んだと思う。(「現代思想はなにを語っているのか」)

 なぜ、いまは読まなくなったのか。私の読書というのは「テーマ読書」であるからである。「なぜこれはこうなっているんだろうか」とか「これはどういうことなんだろう」という疑問のもとに本は読まれる。

 いっぽう、現代思想というのは「有名人読み」である。「この人はすごい」とか「この人はエラい」という評価のもとに読まれる。フーコーはどうだとか、デリダはどうだという名のもとに読まれる。私の興味や疑問のもとに読まれるテーマはどうもなかなか現代思想のテーマと合致しないようなのである。だから私は現代思想からはぐれた。

 学問の名著とよばれる評判本も、おおくをカバーしたわけではまったくないけど、いちおうそういう読み方の時期は過ぎてしまった。だから有名人読みの読書がなかなかできないのである。

 現代思想のテーマってなかなか私の興味のひくものにならない。有名人はかなり「スゴイこと」を語っているらしいのだが、私の興味の射程がとどかない。現代思想のいちばんのテーマというのは「真理はわかるのか」あたりだと思うので、べつに私はそんなことにはあまり興味がない。そして私の知りたいこと、考えたいことは長いあいだ、現代思想とクロスすることはなくなった。

 「有名人語り」ってしてみたいんだよな。フーコーがどうだとか、バルトやラカンはどのうのこうのと。でももう私はテーマや興味を度外視しての、「有名人読み」のような冒険はもうできない。なんせ、現代思想って難解で、理解できない代物も多く、興味のない最中にそんな本を読んでもますます文脈は霧の中である。

 現代思想について「人はどうしてそんな思考の中に突入できるのか」みたいなことを瀬古浩爾がいっていたが、まさしくそんな気分である。思い出せば、ハイデガーの『存在と時間』は氷の上をつるつるとすべるようにほぼわからなかったし(以下、笑)、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』は知覚のことを語っておりながらなぜここまでわからないのかと不可解に思えたし、デリダの『グラマトロジー』なんかいったいどこのなにについて語られているのかさっぱりわからなかった。ヘーゲルの『小論理学』は絶望の淵に立たされたし、カントは不可能だと思って薄い本でも手を出せなかった。有名人だからといって、まったくわからない本を最後まで読み通すのはもういやである(笑)。

 私が哲学を読みはじめてものすごく興味をもてたのが「大衆社会論」である。フロム『自由からの逃走』やオルテガ『大衆の反逆』、リースマン『孤独な群集』、ミル『自由論』、ニーチェ『道徳の系譜』などである。これらはほんとに興味をもてたし、貪るように読んだ。思想や哲学というよりか、社会学である。私には理解できるものとできにくいもの、相性というものがあるのだということがよくわかった。そして自分の興味にしたがって読んだほうが有益で、ためになることもわかった。そうして現代思想の「有名人読み」の用途は失われていったというわけである。このHPの97年からのアーカイヴはそういう一皮向けてからの記録である。

 しかし有名人読みができる時代というのは幸せなときだと思う。知的好奇心や探究心があふれだして、なんでもかんでも知の頂点とよばれものを読んでみたいと思う時期なのである。こんなに好奇心が「発情」する時期というのは、後にも先にも「有名人読み」をしてみたいときだけである。そんな無邪気な時期があったんだなと、すっかり自分の興味のみに読書や思考がおさまったいまの私は回顧するのである。

 ▼私の現代思想の勉強本。(たぶん古い)
 





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