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 ■060607断想集 お金の利他主義と利己主義


 ■金儲けをなぜ悪と思うのだろうか。          2006/6/7

 無意識のうちに私の心の中には金儲けを悪いことだと見なしている向きがある。金儲けは利己的で、貪欲で、狡猾であり、お金に固執することは汚いことだと思っている。

 だけどこの世の中はお金がないことには回らないし、日々の生活も住居もままならないことになってしまうだろう。お金がないことには生きてゆけないのだが、またお金を稼ごうとすることにも罪悪感や嫌悪感がある。この相反する気持ちはなぜ私の中にあるのだろう。

 私たちは金持ちや狡猾な企業を嫌ったりするが、かれらは社会に利益をもたらしたからこそたくさんの金が集まったといえるのである。だれも自分の利益や便益に反することにお金を払ったりしない。金持ちや企業は社会に利益をもたらした分だけ、儲けるのである。つまりは社会貢献や個人の利益の分だけ、かれらは金持ちになるのである。どうして私たちはかれらを貪欲で汚いと思ったりするのだろう。

 私は企業を信用していない。人生の多くの時間を企業に奪われることをひじょうにいとわしく思っている。こういう条件で会社に雇われるようないまの時代がはやく終わってほしいと思っている。だけど会社は確実に私の生活や生存を保証しているのである。もうすこし少ない労働で生きられるのではないかといつも思うが、会社は多くの私の時間を拘束するのである。

 仕事というのは客の利益に貢献することによってお金が支払われる。金儲けというのは利己的な金儲けであるが、他人の利益に貢献する利他行為をおこなわなければお金が客から支払われることはない。スーパーやコンビニや家電は私たちの利益に貢献するからこそ儲けたのであって、利己心や貪欲さだけで儲けたのではない。なぜ金儲けは悪といえるのだろうか。

 私たちはその貢献分を見ないで、個人が儲けた分だけ見る。金持ちの資産を見てあくどいことをして儲けたに違いないのだと思う。かれらは泥棒や詐欺や悪徳で儲けたわけではないのだけど。

 金儲けを悪くて貪欲なことだと見なす風潮があるのに、どうしてサラリーマンは勤勉て実直でまじめな社会人だと見なされるのだろう? まともな社会人だといわれても、じつはかれらは利己的で貪欲な金儲けを昼間しているのである。かれらはなぜ悪徳マンと見なされないのだろう?

 私はもしかして社会主義の思想の影響かなと見る。この日本は70年代ころまで社会主義的理想が信じられていた向きがあり、社会主義は資本主義――つまり金儲けは悪いことだと見なしていた。だから国家が富を平等に分配したり、資本家の不正を正さなければならないと思われていた。つまりはこんにちの福祉国家や大きな政府は金儲けのあくどさを是正するために生まれたのである。それで私たちは必要以上に金儲けを悪と思うようになっているのではないかと思う。

 政府がいろんなものを保障してくれる社会は、金儲けは悪いことだという風潮を助長するのである。貪欲に利己的に儲けることは富が平等に分配される社会の敵である。貪欲な資本家や企業家になるより、まじめなサラリーマンになるのがいいという社会になる。つまりは大企業や政府から与えられる仕事と給料で満足する人になりましょうということだ。

 経済学の面からいうと、これは社会のニーズや利益をくみとってゆこうという動きにならない。個人の金儲けの利益は、他者の利益の増進につながっている。客が満足するサービスを見つけたからこそ、かれは金をおおいに儲けるのである。金儲けを悪と見なしていたら、社会の堀りこおされないニーズは放ったらかしにされたままだ。私たちは金儲けのこのような面を無視して悪と見なしてきたのである。

 金儲けというのは利己心と利他心の入り混じったひじょうに複雑な社会的行為である。私たちはその悪い面を多く見がちである。いっぽうではお金がないと私たちは生きてゆけないし、すこしでもお金はほしいと思っているけど、また利己的であくどい人とも思われたくないと思っている。そして社会に貢献しているという要素をすっぽり見落としてしまうのである。

 若者の労働観の変遷や衰退にはおそらくこの金儲けは汚いという意識が横たわっているのだと思う。富を平等に分配しようとする社会は金儲けを忌み嫌い、しまいには若者の勤労意欲を奪ってしまう。労働には社会貢献という面があるのだが、いまの若者にはたぶん仕事の利他行為という要素がまったく見えていないと思う。自分の評価という利己心が強すぎるのである。金儲けというインセンティブを失ってしまっているのである。

 いぜん金儲けはえげつないものだという意識が私から消えることはないと思うのだが、それだけではないことにようやく私も気づきつつある。





 ■読んだ本が文庫になるのはうれしいことだ。     2006/6/15

 読んだことのある単行本が文庫になるのはうれしいことだ。さいきん、新書が文庫になった本も見かけた。

 講談社現代新書から出ていた今村仁司の『現代思想のキイ・ワードが』が文庫になっていた。私にとってドゥルーズやフーコーなどの現代思想の指南書となった新書だが、文庫で再刊されるなんて思いもよらなかった。

 『現代思想のキイ・ワード』
 講談社現代新書
 

 現代思想のキイ・ワード
 ちくま文庫
 


 『「分ける」こと「わかる」こと』坂本賢三という新書も文庫になっていた。「わかる」ということは「分ける」ことだという本書は人間の認識の根本に迫る本で、「分類」とともに重要な問題だと思うが、私はさしたる感興をうけた本ではなかったが。

 『「分ける」こと「わかる」こと』
 講談社現代新書
 『「分ける」こと「わかる」こと』
 講談社学術文庫
 

 新書の名作が文庫になることはこれから増えてゆくのだろうか。新刊がつぎつぎに出版される新書は消えてゆく本も多いのだろう。新書として再出版されるのはインパクトはないが、文庫として出るのならそれなりの評価をうけたということで、再評価の目印になるかもしれない。

 三浦展の『マイホームレス・チャイルド』も文庫になっていた。若者の消費行動を分析していて、とくに私は若者の脱所有の流れに興味をもったのだが、『下流社会』がベストセラーになったのだから、文庫になるのはふつうの流れである。


 『マイホームレス・チャイルド』
 クラブハウス
 

 『マイホームレス・チャイルド』
 文春文庫
 

 ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』は古本でようやく見つけて読んだ本なので、文庫で見かけたときはうれしかった。資本主義の原動力は女性との恋愛や贅沢であるという本書はむかしからの名著であるから文庫になるのはとうぜんとして、生産のための生産、労働のための労働に堕してしまっている日本国にはとくに必要な本だろう。

 『恋愛と贅沢と資本主義』
 論創社
 

 『恋愛と贅沢と資本主義』
 講談社学術文庫
 

 『夜這いの民俗学・性愛論』 赤松啓介はたまたま古本で見つけた『夜這いの性愛論』に世界観を転換させられるようなショックをうけたあとに出たので、出版社の慧眼には感服した。

 『夜這いの性愛論』
 明石書店
 

 『夜這いの民俗学・性愛論』
 ちくま学芸文庫
 

 こういうのも文庫で出ていた。経済学者の人生をたどった本である。経済学者の本が文庫になるのは珍しいから、価値があると思う。というか、経済学の本はなぜいままで文庫として世に流通していなかったのだろう。かなり重要な現代の問題だと思うのだが。

 『世俗の思想家たち』
 HBJ出版局
 
 『世俗の思想家たち』
 ちくま学芸文庫
 

 文庫になる本を先に読んでいたというのは、私も価値ある本を読んでいたんだなという気もちにさせてくれる。書評もUPされていたが、まあ私のHPの影響はまずないだろう。すこしは私のHPの影響もあるといっしゅんは考えたいが。。

 本好きな方は単行本で読んだ本が文庫になるうれしさを経験したことはありませんか。小説が文庫になるのはパターンだが、人文書はそうとはかぎらない。そういう本の楽しみ方もあるかもれませんね。





 ■金儲けと利己主義               2006/7/9

 こないだから散発的に考えている金儲けについてだが、まったく考えがまとまらないばかりか、どのような問いをしたいのかも自分でよくわからない。そういうときにはむやみに書くしかない。

 「金儲け」という言葉はたいてい非難するときにつかわれる。自己の利益のみを追求して、他者の迷惑や損害にまったく考慮がおよんでいないという非難だ。それは儲かっている人や金持ちに向けられる。

 いっぽうでは、われわれは金儲けをしなければ生きてゆけない世の中に住んでいる。家を追い出されても、食べ物を買うお金がポケットに数十円しかなくても、私は断固として金儲けのような汚いことはしないと断行できる人間は存在しないだろう。

 私たちは金儲けをしょっちゅう非難しておきながら、毎日金儲けの活動に費やしているし、内心ではすこしでも多くの金を稼ぎたいと思っているし、いつも心の中で高級品や贅沢品をもっとほしいと思っている。思いっきり矛盾である。ケッペキな私は人を金儲けで批判するのなら、自分自身は金儲けをやめられるのかといいたくなる。

 世間というのは利己的な人間をいくらでもたたいてよいという不文律がある。金をたくさん儲ける人は自分の利益しか追求しない、他者への配慮が欠如した人間だと思われている。だから金儲けという言葉はそれだけで非難の言葉になる。

 金儲けは人から奪ったり、功利的にだましたり、自分のためだけにおこなわれるものだと思われている。しかし他者の利益や喜びに奉仕しないサービスや商品をいくら売っても、金儲けで成功するわけがない。コンビニでも、百円ショップやドンキホーテ、または車やIT産業はわれわれに便利さや喜び・楽しみを与えるから、多く儲かるのである。金儲けというのは「利他主義」でしか儲からないものなのである。

 金持ちが利己的や貪欲だと罵られるのは、自分だけが多く儲けていると思われているからだろう。一度手に入ったお金はその人の自由になるし、他者の利益ではなく自己の利益につかわれることになる。金儲けの最初は利他行為であるが、お金が蓄財されると、こんどは利己主義につかわれるのみになる。

 日本では金持ちが慈善事業に寄付したという話はあまり聞かない。イメージとしては豪邸に住み、高級車を乗り回し、高級品を数多く所有しているといったものだ。これは世間がバッシングしてよい免罪符となる利己主義だ。金持ちは人を助けることのできるお金をたくさん所有しているのだから、その分社会にお返ししなければならないと思われている。それをいまは政府がかれらから累進課税でこっぴどく高額な税金をとるから、つまり政府が手柄を横取りするから、かれらは社会に還元しようという気持ちをなくすのかもしれない。

 金持ちは社会に多くの利他行為の喜びを与えたからかれは金持ちになる。お金は利他行為を与えたことにより、自分に与えられる利己主義に使ってよいクーポンである。利他行為の貢献量である。あまり裕福ではないサラリーマンは市場によって効用のある利他行為を与えたと見なされないから、収入が少ない。おまけに会社ではポストのある者の裁量により恣意的に給料は分配される。もちろん売り上げがゼロだったからその月は給料が支払われないという危機はないのだが。

 金儲けを非難する者は、かれがもし誠実な人間だったら、かれは金儲けを自重するだろう。じつのところ、非難の強い者ほど、その非難が自分にいちばんあてはまるというのが事実なのだが。いったら、かれは利己主義者だから、人の利己主義に目が向き、叩きたくなるものである。人は自分にあるものしか見えない。かれは金儲けの与える面より、奪う面ばかりに目が奪われるから、かれは金儲けを非難して、そして自分の仕事でも与える面を見ない。かれは自分を守り、奪うことしか考えないのだろう。金儲けを非難する人は自分の利己的傾向に反省する必要があるのかもしれない。

 金儲けを嫌う人は自分の仕事でもお客に与えるサービスや会社への貢献より、自分の取り分や利益のことばかり考えてしまう人間なのだろう。かれは自分を守り、自分の得になるように考えているだけである。しかしかれは金儲けを利己主義のしくみだと考えたばかりに、かれが社会に与える利他行為は少なくなるばかりである。かれは利他行為を減らしたほうが自分の利益になると考えてしまうからである。

 この貨幣社会では多く与えた者ほど多く得ることができるしくみになっていると気づいたときに、かれは自分の貧乏な理由を悟ることができるのだろう。金儲けとは利他主義のことなのである。






 ■かやぶき屋根の美山町はじつにすばらしい      2006/7/16

 かやぶき屋根が多くのこった京都府の美山町はじつにすばらしい。大阪付近にもかやぶき屋根がのこった民家は何軒かあるのですが、ふつうは一軒だけがぼつんとあるのですが、この美山町の北村集落は、何軒も群居していて、圧倒されました。じつに美しい。全国三位の多さだそうです。

 かやぶき屋根というのは、古き日本の原風景を思わせて、癒されます。緑の田園や青々とした山々にとりかこまれたわらぶき屋根はじつにまわりの景観にとけこんでいます。癒しのご褒美をまとめて喰らったみたいな気持ちです。日本の農村や山村もわらぶき屋根にふきかえたら、農村回帰がおこるかもしれませんね。

 大阪からは原付で迷いながらですが約6時間ほどかかりました。京都府の真ん中、若狭湾に近いところに位置し、あたりには電車がまったく走っていないので、まずは行けないとあきらめていましたが、やっぱりバイクを私有することの意味は大きいですね。

50軒のうち38軒がかやぶきです。目を疑いましたね。認識するのにだいぶ時間がかかりました。
坂をのぼってゆくと、集落の展望が開けてきます。
家屋の多くは江戸時代後半にたてられたそうです。丹後と京都をむすぶ鯖街道が、鉄道におされて衰退してゆく時代と軌を一にしているのでしょうか。
宮本常一と柳田国男の本を片手に古き日本人を思ってみるのもいいかもしれませんね。赤松啓介の夜這い論も。。

 ▼リンク
 美山町 ウィキペディア
 かやぶきの里 北村
 京都・美山ナビ





 ■友人間での金のやりとりが嫌われるのなぜか      2006/7/17

 私たちはお金とビジネスの世の中に生きているが、友人間や男女間では金のやりとりは嫌われる。だれかに親切にしてもらったり、助けてもらったり、うれしいことをしてもらったときに、金を差し出したりなんかしたら、ぎゃくに非難されるだろう。

 なぜなんだろう。私たちが人になにかサービスや行為をするときは、たいがいお金が絡んだ仕事やビジネスにおいてだ。お金をもらわないことには、たいがいの仕事――パンをつくったり、売ったり、モノをつくったり、売ったりする仕事はしないだろう。

 なぜ仕事は無償でないのだろうか。ぎゃくに友人間ではなぜ無償でなければならないのか。

 その分かれ目は「見返り」を要求するか、しないのかの違いではないかと思う。ビジネスにおいてはサービスを与えますから、代わりにお金という見返りをもらいますよというルールがある。

 反対に友人間においては行為は、「見返り」を要求してはならないというルールがある。つまりお金や自己利益のためにあなたに親切や優しさを与えたのではないということだ。ここでお金が払われるということは、無償でやった親切や優しさに自己利益という見返りのためにやったのだという侮辱を与えることになる。友人間においては、たとえお金のような互酬性がはたらいていたとしても、見返りをあからさまに返すのは、自己利益のためにやったのだという非難を与えることになる。

 ここからお金やビジネスが貪欲で汚いと嫌われるのは、見返りや自己利益のためにやっているという前提とメッセージがあるからとわかる。自分の利益のためにあなたにサービスを与えているのですよ、無償ではあなたにサービスをだれが与えるかとメッセージしていることになる。

 しかしビジネスでカン違いしてはならないのは、金儲けがいくら自己利益のためだからといって、客から奪いとったり、利益のみを得ようと思うのなら、まず儲からないだろう。ビジネスの基本は友人と同じように人に喜びや楽しみをさいしょに与えないことには、だれもお金という見返りを与えようとは思わないだろう。

 ビジネスは優れて利他行為である。友人間の関係と同じである。ただ違うのはさいしょから金という「見返り」を要求するか、しないかの違いがある。見返りがさいしょから返されるという前提があるのがお金のビジネスである。友人間においては、見返りは要求しないばかりか、ぎゃくにそれは侮辱になる。もちろん暗黙にはお金と似た互酬性が成立しないことには長続きするわけなどないのだが。

 ビジネスは利他行為である。見返りはあからさまに要求されるが、利他行為の喜びやうれしさを与えないことにはビジネスは成功しない。ビジネスには自己利益のためにやっているという非難が強いが、利他行為が社会にヒットしたからこそそのビジネスは儲かったのである。自己利益のためだけにやっている非難は当たらないように思うのだが。

 この利己行為か、利他行為かの線引きはむずかしい。お金という自己利益がなかったら、だれが利他行為に生涯を費やすというのだろう。労働強制キャンプにだれが喜んで入るというのだろう。ボランティアは金銭という見返りは要求しないが、おそらくはビジネスが覆った社会への異議申し立てなのだろう。

 私は労働を少なくして、自分の人生の時間を増やしたいとずっと思ってきた。仕事だけが人生じゃないと思ってきた。たぶんに自分勝手というわけではないと思いたいが、他人のために自分の人生を費やすのはいやだと思っているのだろう。だけど社会のサービスを手に入れるためには自分もたくさん社会にサービスを与えないことにはお金が手に入らない。

 お金の世の中というのは、自分のために生きようと思って、他人のためばかりに生きなければならない世の中だと思う。人がつくる魅力的なサービスやモノに幻惑されて、ますます自分のために生きられないドツボにはまる。利他行為がお金という自己利益でないと成立しないように、人は利他行為ばかりに生きたいとは思っていないだろう。

 貨幣のない世の中で生きたいものだが、それなら現代の消費分業社会も生まれなかっただろう。私は自分のために生きているのだろうか、それとも社会のために生かされているのだろうか。





 ■NHKスペシャル『ワーキングプア』を見た。       2006/7/24

 

 きのう、NHKスペシャルの『ワーキングプア』を見た。働いても生活保護水準以下の貧困層のことをいう。400万世帯あるともいわれ、正確には把握されていない。

 感想はむずかしい。私ももしかして生活保護ていどしか稼いでいないかもしれないが、私はもともと会社に拘束される人生にずっと反発を抱いてきたから、とうぜんの収入レベルだと思っている。それに二十代のフリーターのときにお金を使わない生活にすっかり慣れたので生活が苦しいということはない。ただ朝から晩まで働かなければならない生活からは抜け出せていない。結婚してもみじめになるかなと思っている。

 この番組を見て思ったのは、このワーキングプアという問題はいぜんからあった貧困とどう違うのか、新しい貧困のかたちなのか、そこらへんがはっきりしないと思った。もうひとつ、こういう貧困層がくくられてピックアップされるのはやはり市場主義化への異議申し立てからなのかということだ。私はどうも福祉国家の精神的軟弱さが好きではない。

 30代のホームレスの男性がふたり登場していたが、若者切り捨ての現場はここまできたかという感じだ。50代のガソリンスタンドでバイトする男性も出てきたが、日本社会は基本的に20代までの労働市場しかない。その欠陥が強烈にあらわれていると思った。成功した年功序列社会が、路線から外れる人を強烈にはねつけるのだ。

 この日本社会はいまふたつの給料体系ができあがっている。社会保障と年功賃金のある正社員と、基本的にそれらのいっさいない非正規雇用だ。非正規雇用や賃金の削減の影響をもろに受けているのが若者たちだ。そして三十代までに安定した職につけなければ、ホームレスにさえなってしまう社会になってしまったのである。

 これは小泉改革や橋本改革が生み出したものではない。おそらくは大量生産の工業社会が終わったり、製造業がなくなったせいだ。専門知識の必要のないだれにでもつける仕事が減ったのだ。それからモノへの欲望や需要も減ったから仕事の絶対量も減ったのだろう。

 仕事があるときにだけ雇用する短期雇用も増えた。大量生産の時代なら仕事が継続的にあり、従業員は会社にストックしておくほうが得であったが、仕事の増減やモデルチェンジが増えると、必要なときだけ雇用したほうが得になる。むかしから建築はこういう注文請負であったが、その業種が増えたのだ。会社にストックされない人たちは明日の計画もたてれず、安定した暮らしができない。若者は会社に守られた旧世代と違って、こういう時代を生きはじめているのである。

 こういう人たちの惨状を見ると、だれだって政府に福祉を要求するだろう。しかしそれはだれのカネなのか。政府はかれらをほんとうに救えるのか。私は一度政府に福祉を要求するという発想は捨てるべきだと思う。福祉というのは経済論理をぶち壊してしまうからだ。たとえば最低賃金を上げれば、企業は高い給料で人を雇う気をなくし、失業者をひとり増やしてしまう。福祉は安いものを高く買わせようとして、いつも失敗するのだ。

 といっても市場原理がちゃんと働く底値のところまで人は我慢しなければならないのかといったら、人は生きていけないかもしれない。市場原理を唱える人はそこらへんの窮状をどう説明するのだろう。

 たぶんに人材の値下げ競争、価格破壊がおこっているのだろう。若者はその波をもろにかぶっている。いっぽうでは会社に正規雇用された人たちはこれまでと変わらない中流の安定した暮らしを営める。この二極化が進行しており、いっぽうはいっぽうの実情をまったく知らないという状況がおこっているのだろう。

 市場原理社会ではだれが貧しい人たちを助けるのだろう。政府がやることは、市場の流れの逆行をつくりだしてしまい、失敗するという説明がいまは言論界を牛耳っている。底値まで貧しい人たちは放っておかれた方がいいのだろうか。価格が上昇するまで貧しい人は待てるのだろうか。

 ここでひとつ問いたいのは、私たち個人は政府の力ではなく、自分の力で貧しい人たちを助けられるかということだ。自分のお金や行動でホームレスや貧しい人たちを助けることができるかということだ。たいがいの人は自分のことで精いっぱいで他人のことなど助けられないだろう。

 社会とか世間とかはもともとそういうものではないのか。私たちは非力で無力である。誰も助けられないし、救えない。こういう人たちの集まりの中で、どうして政府だけが人を助けたり、救ったりすることができるのだろうか。政府にばかりどうかしろというのは、自分の責任や行動を回避したいがためという気がする。そういう人たちの集まりなら、なおさら政府の福祉もうまくいかない。

 政府に問題を棚上げできる時代は断ち切られようとしている。自分個人で他人を助けられるかという問題から考えなければならないのかもしれない。私たちは自分の身のまわりに相互扶助や慈善の機会をとりもどす時期にきているのかもしれない。政府になんでもかんでものの時代は政府の管理や横暴を許す時代でもあったのだ。

 あとひとつ、貧しさには貧しさの知恵というものがあったはずだ。むかしの人は少ないお金でもやりくりしたり、楽しく暮らす知恵というものをもっていはずだ。お金が少ないからといって、即悲惨だと考えるのはまちがっていると思う。お金がなくとも、明日の計画が立てられなくとも、そんなことが当たり前な時代を長く生きてきたはずだ。貧しいからこそ、明日が見えないからこそ、今日を楽しむという発想もできると思う。明日が決まりきった社会を「終わりなき日常」といって、その息苦しさをずっと感じてきたのではないのか。貧しさを自慢話や笑い話に変えられる強さをもちたいものだ。





 ■バイクでめざすのはひたすら関西の山村        2006/7/30

 去年十月にとった原付免許だけど、私がバイクでめざすのはひたすら緑のある山の中だということがはっきりしてきた。とくに山の向こうにも山深くの中にも、人びとの暮らしや集落があるのを見つけると、なんとも気持ちが和むのを知った。

  
 大塔村とちゅうの山里風景     高野山系の山なみ

 私は大阪に住んでいるけど、関西の町や風景がどのようになっているのかまったく知らないのである。大阪の町並みはいやというほど見てきたけど、周辺の奈良や和歌山、京都の風景や町がどのようになっているかまったく知らないし、ましてやいまだに山の奥深くにも人々の暮らしや営みがあるなんて想像すらもできなかった。

 つまり人は大阪のような都市や市街地にしか住んでいないとすっかり思い込んでいたのであった。だから山の奥にも人びとの暮らしがあることにカルチャーショックを覚えるのである。

 市街地に住んでいるものには山奥の暮らしがどんなものなのか想像すらできない。山々に囲まれ、山の向こうにはどんな土地があるのかと想像するような暮らしとはどんなものなのだろうと思うのである。

  
 天川村の山に霧がかかる     和泉山系の山なみ

 大阪に住んでおれば、電車でこういけばあの町があり、こういう風景になっていると想像できる。ぜんぶ電車や道路、町でつながっていることがわかる。でも奥深い山々でつながりが分断された山奥の暮らしではどうなっているんだろうと思う。子どもの時にはこの山々の向こうにどんな世界があるんだろうと思ったりするのだろうか。

 まあ、私は自分の住んでいる大阪という町しか知らなかったということだ。ほとんどの日本人は都市部に住むと習った覚えがあるから、山間部には人は住んでいないと無意識に思っていたのだろう。とんでもない。山の向こうにも山のあなたにもげんざい、たくさんの人たちが暮らしている。そして私には市街地の風景より、魅かれるものを感じるのである。

 「離れ里」や「隠れ里」といった風景で暮らす生き方とはどのようなものだろうと思うのである。どこまでいっても家と町と道路がある大阪とちがって、山々に分断された暮らしはどのようなものなんだろうと思うのである。

  
 名張川に暮らす集落       熊野の山なみにも人々の営みがあります

 いまはそういう自分の空白の関西を埋めるために四方八方の山々の中に潜り込んでいるわけだ。ハイキングマップを片手にきょうは奈良、きょうは和歌山、または北摂をめざそうと思いをめぐらす。

 こういう山中のツーリングに来ているのはたいがいドデかいバイクで、いくらミッションといえ原付で走る私は恥ずかしい(笑)。でも60qを走ればじゅうぶんである。マウンテンバイクに慣れた私にはペダルをこがないでも勝手に走ってくれるだけでうれしいのである。車が追い抜けない狭い道では車に申し訳ないが、とくにトンネルなんかあせるが、私は走り屋でも飛ばし屋でもないのである。ガソリンも4リットルしか入らないから、山中でガス欠になったらどうしようかとひやひやものである。

 都市の暮らしというのは便利である。たくさんのモノを、好みのモノを、細分化する趣味を満たしてくれるのは都市でしかありえない。職業だってたくさんあるだろう。でも風景や自然という贅沢な贈り物は都市にない。バイクで走っていてもすこしでも早く市街地から抜け出して、山の中に潜り込みたいと思う。気分が爽快になり、気持ちが和む。私はきょうもどこかに山里のいい風景がないかとバイクを走らせるのである。





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