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 ■060416断想集



 ■飛鳥の桜                    2006/4/16

 奈良の名所をバックに桜を撮りたかったのですが、もうほとんど散りかけで、ピークに撮れなかったのが残念です。飛鳥は緑の多い山里風景が魅力でもあるのですが、ぎゃくにかつての王朝の栄華との落差が驚かされます。

 
 石舞台のまわりには華麗な桜がとりかこんでいます。
 
 私としては石舞台の山側の景色のほうがよかったです。
 
 神武天皇稜です。九州から大和入りした初代天皇ですが、実在が疑われています。



 ■ああ、日本の暮らし。           2006/4/22

 

 こういう山を背景にわれわれ日本人の暮らしは何千年もつづいてきたのだと思います。都市に爆発的に住むようになったのは戦後の高度成長いこうだと思われます。たしか能勢あたりの風景だと思いますが、手前の家がわら葺屋根だったらもっと雰囲気が出たのにと思います。

 

 山がほんのりと桜に染まっていました。兵庫県川西市あたりの山だったかな〜。とちゅうに通った箕面の猿を撮りたかったのですが、日光の凶悪化する猿を思い出して、バイクを止めることができませんでした。




 ■NHK『就職 4年目の私』の感想。          2006/4/30

 

 NHKのETV特集『就職 4年目の私』をみた。大卒離職率が35%、週60時間以上働く若者やフリーター、ニートが増えている中、ディレクターの宮本麻衣子が就職4年目の卒業生を追ったドキュメンタリーである。

 宮本麻衣子さんはエライ。働くことはなんなのだろうと違和感や疑問を真正面から問おうとしていたからだ。しかし討論会のゲストの顔ぶれをみると、経営者や派遣会社の連中であり、たんなる自己啓発セミナーに宿命的に終わるしかない。若者は甘い、忍耐のあとにやりがいや充実が待っているという話だ(一理はあるけど)。

 社会改革や労働争議の道筋がまったくない。個人の選択の問題に帰せられて、社会全体の問題としてほかの選択肢が考えられることはない。「就職したら人生終わりだと思っている」という学生の気分があらわすように、社会は労働が人生を収奪してしまういまのシステムを終わらせてしまうべきなのだ。その道筋を真正面からとらえないかぎり、若者はずるずると崩れ落ちてゆくだけだろう。

 かつては貧しさゆえに会社を辞めるということは難しかった。いまは豊かになり、会社を辞めるというオプションも可能になった。そんな時代に人生の多くの時間を奪う会社や労働時間のあり方に拘束される切迫感はないのである。若者が耐える問題ではなくて、社会のほうが変わるべき問題なのである。

 社会はなぜこの問題を真正面から向き合おうとしないのだろう。なぜ労働が人生を奪うシステムは存続しつづけるのだろう。労働と会社のみに拘束される人生がまともな社会人という社会意識は、てこでも動こうとしないのだろう。そういう方向から若者の離職率やフリーター・ニートを考えないかぎり、若者は「まともな人生」から脱落しつづけるばかりである。労働に人生を奪われるサラリーマンのほうが「まとも」なのか。常識を疑う。

 

 おなじくNHKで『一期一会キミにききたい』という番組をみた。就職活動中の自分に自信がまったくもてない女子大生と学生企業家に出会うというエピソードである。いやぁ〜、私もその気持ちがよくわかる。

 学生が企業社会に自信をもてるわけなどないのだ。学校という企業や大人社会から閉鎖されてきた学生が、いきなり就職活動で対等に渡り歩けるわけがない。カン違いのうぬぼれで自分をだますしかないだろう。誠実に自信のなさを客観視することはいまのシステムの責任を自分ひとりの肩に背負うことである。

 若者が学卒一括採用というこれまでのシステムが機能しなくなったところで、ひとり自分の自信を失うという不備に落ち込みつつある。本田由紀の本でも読んだら気持ちが楽になるかも。問題は自分の自信のなさではなくて、企業が若者の労働力をかつての金の卵といったように欲しがらなくなったところにある。

 それにしても大学は彼女らの置かれている状況を説明してやらないのだろうか。社会の変動をもろにかぶっている若者に必要な情報を提供しているのかおおいに疑問だ。






 ■熊野川の美しさと驚きの十津川村            2006/5/5

 この三日ほど、原付で野宿ツーリングをやってきました。大阪から出て三重県の津で一泊、伊勢神宮をめぐって熊野浦で一泊、新宮から熊野本宮大社をへて大阪に帰ってまいりました。なによりも熊野川の美しさには魅入られました。また十津川村の山の斜面にへばりつくような居住群には驚きました。

伊勢神宮の天照大神を祀っているところです。それにしても太陽が日本のいちばんの神だなんて、原初的?
二日とも海岸にテントを張りました。不安もありましたが、飛び出るような星の数々と、朝日を拝めたのが感動的でした。
熊野川の景色には魅了されました。山が落ち込んだところに広い熊野川が流れ、広大な景観をかたちづくっていました。たまりませんでした。
広大な砂州を形成し、たいへん広がりのある景観が開かれていました。
江戸時代に蟻の熊野詣といわれたそうですが、このすばらしい景観を見にきたのではないかと思うくらいです。
熊野本宮大社です。なんか伊勢神宮にしろ、建物を拝みにきただけって感じもしないでもありません。
山の斜面にへばりつくように十津川村の数々の居住群は築かれていました。「よくこんなところに住んだな」って思いました。すばらしい景観です。
切り立った山の間を十津川が流れていきます。この広大な景観が川や水の重要性を伝えているのでしょう。
真ん中の一本線が吊り橋です。かなり怖いでしょう。




 ■ニート、人の勝手でしょ。           2006/5/25

 報道特捜プロジェクト ニート特集

 http://www.youtube.com/watch?v=OqzItpNiVCk
 http://www.youtube.com/watch?v=iHPcRqlWtNY
 http://www.youtube.com/watch?v=DvrPhM0yfUI

 id:rahoraho(鈴木さん)自らがYouTubeにアップしたそうである。

 人の勝手である。好きなように生きて人にとやかく言われる筋合いはない。メシが食えるのなら働く必要なんてない。

 私も自分の好きなことだけして生きたい。本を読んだり、HPをつくったり、ぶらぶら野外を散策したりしたい。毎日労働の日々なんかに拘束なんかされたくない。できないのは社会に通用しない労働力になることを恐れているからだけだ。職探しでいままでなにやってたんだと人に詰問されるのはツライ。

 そもそも人はなぜ働かない若者を非難するのか。嫉妬だけである。嫉妬の正当化がおこなわれてよいものか。そんなことをするくらいなら、矛先を自分に向けて、なぜ自分が毎日労働に拘束されなければならないのか、ニートの若者を非難するくらい自答するべきだ。みずからが労働の日々をつくっているのだ。自分を責められない弱さを他人への非難に転嫁するな。そのからくりを見抜くべきだ。制度にもたれかかる人間は制度に利用されるだけなのである。

 ただニートはいつかメシの食えないときが来る。働き口を見つけるのはかんたんではないだろう。ただしいつの世もなかなか求人の集まらない人気のない会社はあるので、そういうところにもぐりこめばいいのだ。好況のときならなおさら仕事は見つけやすいだろう。仕事のキツさやひどさはソートーなものだろうが。あるいはネットで稼ぐ方法を見つけるか。

 労働して毎日会社に拘束される人生がマトモだという感覚自体が問われる必要があるとあらためて思ったしだいである。





 ■社会の方向性と人生の満足       2006/5/26

 内田樹がいぜんに「フリーターが危ない」という文章を書いていた。昇進をすすめられて辞めた若者や正社員の申し出を断るフリーターがたくさんいるとのこと。

 一方ではフリーターは正社員になりたいけどなれないという話もよく聞く。若者は機能的な仕事を避けたがるけど、つかざるをえない「いいわけ」をフリーターという立場で保留するのである。

 つまりは全人格的に捧げざるを得ないと思っている「正社員」において、こんな職業につきたくないと思っているわけである。「私はこの程度の人間ではない」という表示をフリーターという立場によっておこなっているのである。

 われわれの時代というのはサブカルチャーや頭脳に価値がおかれる時代である。そういう価値においてヒエラルキーの上位をめざしたり、称賛されることをのぞむ時代であり、社会やマスコミをそれを宣伝・教育・洗脳しつづけている。だから社会の機能的な仕事――モノをつくったり、運んだり、売ったりする仕事に何の価値もないと思ってしまうようになっている。

 このことは重要なポイントなのだろう。われわれの社会はたいそう文化に価値をおいている。しかしわれわれが現実につける仕事いうのはそういうものではなくて、機能的な仕事ばかりである。そういう人生に価値も意味も見い出せない若者が漂流するのはとうぜんの帰結というものである。

 社会機能に人生の満足を見い出せなくなっているのである。それを自立できないだとか、社会貢献しなさいだとか、大人になれないというのは、レベルの低い非難である。人はそれぞれ人生の満足をめざし、納得のできる人生を生きたいとのぞむのは、だれだって認めたい生き方だろう。それをはぎとろうとする人たちは、自分のように社会機能に生きた不幸な人生のわだちを踏めといっているようなものである。ともかくメシを食うためだけに社会機能に生きる人生は、新しい段階の若者には忍耐すべき事項に思えないのだろう。

 人生の満足という点から見ると、われわれの多くが生活のためにつかざるを得ない仕事は、人生の多くの時間を奪われるに値しないものなのである。そこで若者はフリーターやニートになったりする。人生の満足を模索した結果なのである。

 これまでの社会というのはともかくメシの食える社会にすればいい、みんなの働き口がある社会や富が平等に分配される社会にすればいいというシステムでやってきた。食えればいいというレベルの話で、人生の満足は二の次だった。社会機能や社会分配があまりにも重視されすぎた社会は、人生の満足をおきざりにしてきた。そこで若者はこの機能社会から降りざるを得ないのである。いったら高いレベルをめざしたのだが、社会はそこまでついてきていないということなのである。

 これからの人生の満足という点では、安定した会社勤めも評判のいい大企業も、世間でのその会社の地位も社内のポストも魅力のあるものではない。これはすでに人生の満足をもたらすものではない。もう終わってしまったものである。カネや安定をむりやりほしいだろうといって口に押し込めるのはもうまちがっている。若者は文化的な価値において評価や価値をほしいと思っているのである。たぶんにいつの世の若者もそうであって、現実のわだちにのみこまれざるをえなかっただけだと思うけど。

 文化的な価値を高めること。政府は公共事業にカネをつぎこむのではなくて、せめて若者の文化的活動をバックアップするインフラを提供するのがいいだろう。働き口も大事なのは変わりはないが、それ以上に人生の満足が重要になっている時代なのである。マンガにアニメにロックに映画にファッションに趣味に、人生の多くを捧げられるようになれば、この国の若者の人生の満足もだいぶ大きなものになるだろう。





 ■バイクでパンク転倒しました。            2006/5/28

  吉野の宮滝です。

 きのう、ついにパンクで転倒しました。吉野まで足をのばした帰りに、支線とかの分かれ道にあるキャッツアイとかいう三角の突起に乗りあげてしまい、そのまま走っていたら急にハンドルの制御が効かなくなってド転倒。

 さいきん速度違反で捕まってからなるべくは40qののんびり運転に抑えるようにしているのですが、車が追い抜きやすいように左のほうに寄るのですが、そのおかげでキャッツアイにひっかかってしまったではないか。この突起は犯罪なみの悪意に近いと思う。

 バックミラーが割れ、ブレーキ・レバーの先が折れ、地下道の真ん中に転倒。倒れる瞬間はもうどうしようもないですね。さいわい、うしろの車は止まってくれましたが、そのうしろの原付が急ブレーキにクラクションを鳴らしていました。

 とりあえずは狭い地下道を必死にひっぱりつづけました。ゲカのほうはひざの皮が真っ赤にめくれあがっていましたが、痛みはほとんどなく、ひじと腰あたりにも軽いすり傷をつくっていた程度でよかったです。長袖を着ることと、破けていたけど手袋をするのは大事だと思いました。リュックも意外と体のクッションになってくれる。

 場所は家から10q近く。はじめてのパンクですから自分では直せないし、バイクショップがどこにあるのかも見当もつかない。もう夜でしたのであたりを探してみて電車で帰ることにしました。

 ネットでバイクショップを探してみたのですが、いまいち近くにめぼしい店が見つからない。タウンページて探すのがいちばんだったかなと思います。次の日にあたりを探してみました。バイクに乗っている人に聞いてみようとも思ったのですが、つかまりませんでした。意外と近くにガレージの店を見つけられて、大ラッキーでした。

 一時はバイクがつぶれたのではないか、もう捨てて帰ろうかなともへこみましたが、解決すれば何事もなく平穏な気持ちに戻れました。痛みと失敗をくり返して、成長してゆくのだと思いたいです。





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