バナー
本文へジャンプ  

 


 ■050925断想集 38歳にして原付バイクに乗る

 ■赤目四十八滝の滝の饗宴          2005/9/25

 三重県名張市にある滝の名所。自然はこのような驚くべき彫刻美をつくりだすのです。4qの道のりには数多くの滝や深淵、澄んだ水を見ることができます。私の120枚撮れるデジカメでは収まらないくらい撮りどころがありました。自然の驚異を写真でお楽しみください。

これは不動滝かな。(名称と一致しない場合がありますのでご了承ください。) 深々とした深緑の深淵もきれいです。
このようなごつごつした巨大な、苔むした岩々もごろごろと転がっています。どっから転がってくるのだろう。ここは谷だから、川からではなくて、やっぱり山から?
これはなんという滝だったのかな〜。千手滝なのかな〜。やっぱり滝つぼの緑にも目を奪われます。
これは布曳滝だろう。名称のとおり、一本の筋のような流れが布のようです。滝は美しいけれど、なにかおしっこのほうを連想してしまう。すると滝つぼは象徴的に生と死の境界・異界の入り口?
澄んだ水がたいへんきれいです。
これは姉妹滝。よくもこんな名称をつけたものです。たぶん人が勝手につけた名称なんか大切ではないんでしょう。
雨降滝。上を見上げるとぽつぽつと水が落ちてきます。それにしても、すごい岩肌です。
荷担滝。この滝がいちばんすごいという感じがしました。二段がまえになっていますし、かたちが整っていて、迫力があります。
やっぱり滝つぼのこの深い緑色が山奥の川だな〜という感をもよわせます。
ええっ? 紀伊半島にはオオカミとヤマネコがまだいるのですか? バス停の小屋でみつけたポスター。帰りのバスでは猿が横切りましたが。なんか前も同じような光景を見た気が。。

 ▼リンクとガイドブック
 赤目四十八滝のHP

 関西周辺ハイキング
 






 ■階層化とお金の幸福              2005/9/28

 階層化が新たな社会問題としてクローズアップされ、深刻な問題として懸念されてきたけど、私にはどうも腑に落ちないことがある。だれもが高額所得や、または高い階層をめざしたり、それが幸福だと思ったりするのか、という疑問である。

 だれもが等しく平等に上流階級をめざすのなら階層化は問題だろうけど、みんながみんなトップやエリートをめざしているとはとても思えない。階層というのはなんらかの価値観の一元化がないと、上下の差をつけられないのだけど、みんなの価値観がすべて等しく同じなんてことはありえないだろう。

 お金の多い少ないは端的に上下の順位をつけられるが、たとえば幸福や満足というのはお金のように数値化されない。階層というのは単純に所得のことをいうようだけど、高額所得者がおしなべてすべて幸福で満足しているとはいいきれない。

 階層というのは所得の多さだけで幸福だと決めつける価値観の押しつけのように思える。その位置づけを見て上層にいる人は満足し、下層にいる人は怖れたり、哀れんだりする。

 いわばこの序列順位というのは「もっと金儲けをしろ、働かないと下層階級に落ちるぞ」と脅し、もっと人びとを働かせようとするイデオロギーか、告示板のように思える。金儲け教の天国と地獄の道標なのである。

 このような焚きつけを必要とするのはだれなのだろう? 人々をがむしゃらに働かせようとするのはだれなんだろう?

 たとえば商品広告というのは、人びとの劣等感や不安を焚きつけることによって高級品やブランド品を買わせようとする。消費社会というのはだいたい人びとの怖れを焚きつけることによって売り上げや儲けを増やそうとするものである。

 階層化をはやしたてるのはたいてい知識人である。知識人はほぼオオカミ少年のように人びとを脅して自分の本を売ったり、または学校教師という知識で食う人たちは学歴競争を焚きつけようとする。企業も階層脱落を怖れる人のがむしゃらな働きをうはうはと手に入れられるわけだ。だいたいは自分たちが上位にいると思う人たちに利益が転がりこむ仕組みになっている。

 私はこの豊かな社会になった現代にこれ以上の所得向上のなにが必要なのかと思う。同時代の人たちと比べるといくらでもミジメさを思い浮かべることはできるが、はたして30年前の人たちや100年前の人たちと比べて、いっそう貧困にミジメになったといえるだろうか。

 これ以上なにを求める必要があるというのだろうか。私たちはぎゃくに所得の多さを競うために労働に会社に拘束される人生の悲惨さにもっと目を向けるべきだと思う。労働ばかりの毎日にいったいなんのために生まれてきたのだろうかと思わないだろうか。

 私たちはお金の階層という図表しかもたない。あるいは社会的地位や支配力の図表のみである。そこではその劣位に位置づけられる者はかわいそうで、情けない落ちこぼれなのである。

 フリーターやニートになる人はその価値観とまったく逆の図表をもっているはずである。ホームレスだってもしかして自分たちを劣等者におく図表ではなくて、自分たちが最高ランクに位置づけられる独自の図表や階層ランクをもっているのかもしれない。ただそれを図表にしたり、知識人のようにうまく階層表にして広告できないだけなんだろう。かれらはそれを「乞食は三日やったらやめられない」といってきただけなのかしもれない。

 たしかに所得が多ければ多いほど幸福を感じるようにデータでは表わされているばあいもある。所得が少なければ不幸だ、悲惨だ、と思うようにイン・プリンティングされているからだろう。それはこの社会がお金がたくさんあれば幸福だ、お金がなければ不幸だ、という図式を信憑しているからであり、または教育されているからだろう。

 現代にこれ以上のなにが必要なんだろうと思う。階層化の怖れを煽る人には、まだそんなにほしいものがあるのか〜と憐れんでやりたい。


 ▼「世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。」
 洪自誠『菜根譚』 岩波文庫
 





 ■「愛と死」の物語は反則だ。          2005/10/1

  「セカチュー」の映画とドラマ版

 さいきん増えたと思っていたんだ。愛する人が死んでしまうという映画やドラマが。

 そりゃあ、愛する人が死んでしまうのは悲しみや感動を誘うのだけれど、これは「反則」だと私の世代は思ってしまうのである。うわついたトレンディドラマばかり見ていた私たちの世代は、若者が死んでしまうということがまずありえないと思ってしまう。

 だから愛する人の死を登場させて、お涙ちょうだいの物語をつくるのはルール違反だというお約束があったような気がする。むかしそういう物語がたくさんあって、いまはそんな悲壮な時代ではないというアンチ的な雰囲気もあったのだろう。

 『世界の中心で、愛をさけぶ』が出てきたとき、私はそのような反発を感じた。いまの若者がだまされている、食い物にされていると思った。だけど人が死ぬという「神聖」な物語に、作り手の姿勢を問うという態度は、「冒涜」と見なされるんじゃないかと懸念ものこったのである。

 まあ、だけど、『世界の中心で、愛をさけぶ』のTVドラマは、半分あきれながらも見ていました。十数年も前の愛した人の死にいつまでもめそめそしている現在の主人公には驚嘆しました。古びた不治の病という設定に、いまの十代は大マジメにこのドラマにかじりついているだろうかと恐る恐るみていました。

 映画のほうは現在の主人公はだいぶさっぱりしていて、いくぶん救われた。白い制服のピュアな恋愛物語が、イノセントな青春時代を思いださせるところがとてもよかった。TVドラマのエンディングも8ミリの映像っぽい演出をしていて、これはかなり好きだった。ただ、回想や思い出から若くして青春を捉える思考法って、なんか人生まちがっていると思うんだけどなぁ。そりゃあ、老人の人生だ。

 この物語は愛する人の死によって、愛することの大切さや命がけの愛があぶり出されるわけなのだが、私はどうもドラマという虚構に、死という壮絶さはいまいちフィットしないと感じるというか、虚構の死には没頭できないようになっている。われわれは「虚構の埋没」を笑った世代である。愛の別れはせいぜい空港どまりだった。いまの世代は虚構に埋没して、冷めた距離をおかなくなっているのだろうか。

 『黄泉がえり』は愛する人たちが甦る映画であり、死による愛の喪失や大切さがうたわれており、『いま、会いにゆきます』も死の別れによる家族の愛の重要さが語りかけられている。死は喪失の悲しみや失われた愛の重要さを痛切に胸に打ちこむわけだが、さいきんまではタブーだった、虚構に没頭してはならないという訓戒が、私にはどうもひっかかるのだけどなぁ。。

 愛する人と死によって別れるというドラマは、山口百恵の『赤い疑惑』(75年)で一大ブームをまきおこした。1960年代には『愛と死をみつめて』という書簡集がベストセラーになったそうである。後の時代はこのくそマジメさに嫌気がさして、軽薄短小の時代をつっ走ったはずである。ドラマのおもしろさを追求した韓流ブームの影響もこの愛と死のテーマの復活にくみしたのだろう。

 愛と死というテーマは物語に深刻さや真剣さをつけくわえる。死を笑ってはならないという神聖不可侵性を、物語にあたえるのである。たしかに軽薄で、深みのない物語はもうたくさんだという気もするのだけど、感動をつくれるからといって、死を乱発するのも問題だろう。物語のなかの死に免疫をもっていない若者が、これらの物語とどう距離をとっているのか気になるところである。








 ■38歳の原付免許               2005/10/4

 原付免許はとれたのだが、ちょっとだけユーウツ。原付免許って高校生のためのものなのか。試験と講習をうけていたのはほとんど高校生っぽい若者ばかりだった。38歳の私は場違いな気もちを抑圧しつつ、試験と講習をうけてきた。私は年齢より、いまの自分の必要を重視するから、どうもこういうことになってしまうようだ。

 自分の中では高校生はそんな遠くの話ではないように思えるのだが、私は彼らのひとまわり多く生きているのである。へたすれば、私の子どもの年齢であってもおかしくない。私から見れば、高校生はきゃしゃに見える。結婚していない私は、二十代以降の時間の速さに茫然とするしかないのである。

 浦島太郎ってこの年齢の過ぎ方をいっていたのだとあらためて「発見」したしだいである。この年になって浦島太郎の気持ちがあっさりとわかったのである。

 原付試験は落ちるのは恥だといわれているが、私は問題集をやっているときはたいへん難しいと感じた。一冊まるまる問題集をやっても、一回しか合格点(9割)に達しなかったのだ。私って本はよく読むけど、てんで頭ワルイと思った。ていうか、学生のときからベンキョーは得意じゃなかった。

 とっぴなことをいうけど、原付試験の問題は20世紀言語学の祖「ソシュール」の思想だと思った。言葉のように差異や違いをもとめるのである。ある対象はこれとこれとどう違うのか、言葉はそれによって成り立つ。どう違うのかを際立たせるのが言葉であり、また原付の問題集であると思った。交差点の駐車禁止は5mか、10mか、その違いを答えなければならないわけだが、その違いがあるからこそ、言葉は成り立つのである。原付免許は「言語学」であると私はひとり悦に入った。

 物事を理解するとき、これとあれはどう違うのかとはふつう思わない。原付免許にかぎらず、テストはこれとあれはどう違うのかを問う。「洗濯機は時計ではないか、カバンではないか」、テストはそのようなことを問い、言葉もそうやって成り立っている。ふつう物事を理解するときにはわざわざこれとあれはどう違うのかを考えたりしない。言葉では無意識にやっている根本的な作業を、テストは垣間見せるわけである。似たものを排除して、はじめて事物は言語づけられるのである。じつはこの「排除」という言葉の作用が、人間の多くの問題をうみだしていると思えるのだけど。

 問題集を二巡目するところからようやく合格点に達するようになり、難しい問題が出たら一発でアウトだと思っていたのだが、じっさいの試験問題はチョーカンタンなものばかりだった。拍子抜けした。問題集が難しすぎたのだ。ていうか、なんだろう。。知らない問題ばかり出ているように思えて面喰ったのである。参考書と問題集の目のつけるところは違うから、参考書を問題集のように読めなかったのだろう。

 試験問題を見るまで原付試験ってものすごく難しいと思ったのだが、みんななぜカンタンだというのかと絶望しかかったが、試験問題はレベルはかなり低い。それでも落ちる人は3人ほどいたから、ある程度は勉強しなければ受かるレベルではないと思う。

 なんだか原付はやっぱり高校生の乗り物だという気がして、気持ちが萎えてしまったが、どうしようかな〜、やっぱりバイクは買おうか。スクーターはぜったいに好きではないから除外。YAMAHAのYB-1 FOURしかないかなと思っている。MAGNA50はさいしょ気に入ったけど、小っこすぎるし、ああいうカッコつけはいやだ。

 バイク・ショップめぐりにはげみたいと思う。でもなんかバイク・ショップってスーパーみたいにドライな量販店がないし、べたべたした八百屋レベルに近いし、公道デビューはコワイなぁ。。 野宿ツーリングの夢を果たせるようがんばろう。

  YAMAHAのYB-1 FOUR





 ■人生を語るドラマはいいなぁ
 ――『ハルとナツ 〜届かなかった手紙』       2005/10/6

   期待に胸躍らせたブラジル移民たち

 ぼろぼろと泣いた。NHKの放送80周年記念・橋田寿賀子ドラマ『ハルとナツ 〜届かなかった手紙』。人生を語るドラマはやっぱいいなぁと思った。心の底からこみあげるような涙や感動を味わった。

 ブラジル移民と日本にとりのこされた妹の話で、私はいぜんからブラジル移民の日本人には興味をもってきた。なぜなら、げんざいサラリーマンになるしか生きる道のない日本人が、かつてはブラジルに移住するという壮大な夢をもつことができたのである。そのようなスケールの大きい生き方のできたかつての日本人をとても羨ましくおもうのだ。

 ブラジルと日本にひきさかれた姉は、儲けのまったく出ないコーヒー農園でこきつかわれ、一方、日本にとりのこされた妹のほうはいじめられる本家から家出し、牛飼いの男と暮らすことになる。姉と妹がひきさかれる船のシーンには泣いたし、コーヒー農園の奴隷のような暮らしには胸がひきさかれる思いがしたし、妹を育ててくれた徳じいが死ぬシーンには涙でぬれた。最終回の移民船でわかれた男たちが何十年かぶりに出逢うシーンは無言ながらものすごく情感が出ていた。

 人生を語る名作ってほんとうに出逢うことがないものだ。こういう深いドラマがもっと多くつくられてほしいものである。現代は時代が平穏すぎて、激動の人生を描けないということもあるだろう。平穏すぎる時代は人生をも語れないのである。というか、人生を生きていないのである。

 大家族に囲まれるブラジルの姉と、息子たちを見限り、不動産バブルで会社を手放す孤独な妹は、そのままブラジルと日本の現代の状況を写している。日本は金と会社しかない、人や家族も信じられない世の中になってしまったのである。貧しいながらも助け合ったブラジル移民のすがたに、金と会社しかない孤立した日本人の姿が対比されるのである。橋田寿賀子は貧しさは幸せにつながるものだと、現代の孤立した日本人を見てそういうのである。

 移民の物語で思い出すのはアメリカでの『ストロベリー・ロード』という映画で、捨てた子どもが富豪になって掘っ立て小屋に住む父の元に帰ってくるのだが、その父は息子などいないといいはった姿がとても印象に残っている。北杜夫の『輝ける碧き空の下で』もブラジル移民の話を克明につづっていて、リアルに体験することができる。入植者の悲惨な経過が描かれているのだが、ジャングルの奥地でゴム需要で金持ちになる男の話がギャンブルみたいでかなりおもしろかった。

 激動の人生は壮絶で悲惨だけど、人生を生きてきたという思いをのこす。それに比べて、安定して豊かにに暮らせる現代の人生は、まるで家畜の生のように安全で平穏だが、人生について語るものをなにももたない。これで人生を生きているといえるのだろうか。


 





 ■バイク屋めぐりはもういいです。          2005/10/9

 50ccバイクを買うためにバイク屋をたくさんめぐろうと思ったのだけど、どこもかしこもハイエナみたいな店員ばかりでいやになった。

 私はスーパーやコンビニみたいに店員に干渉されずにじっくり比較検討して選びたかったのだけど、バイク屋の店員はそんなことは許してくれない。一歩店先に足を踏みいれたとたん、集中攻撃である。一軒だけならそういう店もあるかなで我慢できるんだが、どこの店にいっても判を押したように同じ接客態度だ。なんかスーパー以前の小売形態に逆行したみたいな気分だ。

 できるだけ大きな量販店を探そうと思って、ここ大阪にある松屋町筋のバイク通りにいってみたのだが、どこの店もハイエナみたいな店員ばかりで、へきえきした。いかに目当てのバイクを目で探しつつ、店を素通りできるか、がんばるしかなかった。

 こういう喰いつくような接客態度は阿倍野の靴屋で体験した覚えがある。いかにも「売らんかな」という姿勢にいっぺんにその店で買う気をなくした。しばらくしてその店はつぶれていた。だからバイク屋もキビシい状況にあるのかなと思った。それも多くの店がそういう態度なのである。

 私は店員からあれこれ指図を受ける店はきらいだ。あんたに教えてもらわなくても自分の好みで選ぶといいたくなるし、雑誌やカタログで検討するほうがよほどためになる。私は選択する迷いや知識を検討する時間のほうを楽しみたいのだ。これを「プロセス消費」というそうだが、「売らんかな」という姿勢の店は、この楽しみをブチ壊してくれるのである。

 松屋町のとなりの日本橋の電気街もけっこうべとべとまとわりつく店が多いが、バイク屋とくらべるとこっちの店員はいかにもふつうの店員だけど、バイク屋はちがう。なんかヤンキーっぽいニーチャンがムリして商売してますという感じなのだ。小心な私はそれだけで怖じ気づいてしまう。ライダーたちの独特のカルチャーに違和感をひしひしと感じてしまったのである。ネクタイを締めた店員がのほうが安心すると思うけど、それじゃあ、ライダーたちがぎゃくにそっぽを向きそうである。

 東大阪にある大きな店に行っても同じような接客態度だったので、もう比較検討の楽しみをあきらめることにした。早く買ってしまおうという気になった。YAMAHAのYB-1にだいたいは決めていたのだが、ほかのバイクに触手を動かすのをやめた。バイク屋ってこのままでやっていけるのかな〜っていらない心配をしてしまったよ、ホント。大型店のレッドバロンにもいってみたが、ここはあっさりしたところで拍子抜けしたが、ぎゃくに冷たいと感じるのは自分勝手?

 きょうは「Goo Bike」で目をつけていた店で買うことにした。もう「走れば、なんだっていいや」という心構えにした。タンク部分にキズがかなり多くついていたから塗装してもらうことと、シートが薄っぺらいやつだったので換えてもらうことにした。あとはべつに問題はないだろう。しめて13万円。

 来週とりにいくことになったが、家まで5qはあるからどうやって帰ろーかといまから戦々恐々である。ミッション車だからアクセルとブレーキをうまく使えるかすらアヤシイ。やっぱりクラッチの操作がどうも感覚をつかみにくそうだ。できるだけ大きな道は使いたくない。まあ、それまでしっかりと頭で操作方法をシミュレーションしておこう。

  グリーンのYB-1を購入。





 ■豊かな社会の再分配              2005/10/15

 現代は過剰にモノにあふれかえった時代になっている。ショッピングモールや専門店にはたくさんの商品があふれかえり、私たちの欲望や所有欲を楽しませる。

 しかしこんなにモノをたくさん買う必要がわれわれにはあるのか。モノをたくさん買いあつめることは、われわれの人生にとって意味あることなのだろうか。なによりも、私たちはたくさんのモノを買うため、または収入を増やすため、人生の多くの時間を労働や会社に捧げなければならない。こんにちの労働に人生の深い意味を見いだせるだろうか。

 私たちはこの社会で生きてゆくためにはとにかく仕事をつくらなければならならい。ほんのわずかな違いの商品であったり、新奇さを競う新製品であったり。そして新しい商品をもっていないためにバカにされたり、みじめだと思わせる価値観をつくりだしたりして、消費者の口にごりごりとモノを押しこめるのである。

 どんなに豊かになっても、新しい商品を買う人や収入が増える人がいる限り、多くの人はみじめでありつづけるのである。

 貨幣経済とはよくできたしくみだと思うが、なぜなら人にサービスをおこなわなければメシが食えないしくみを強制的につくりだすからであるが、一方では、機械的な労働に人生の意味を見いだせるとはとても思えない。人のためにサービスをおこなう人生は利他主義的観点からいえばすばらしいものかもしれないが、巨大化した産業労働にその意味を見いだすのはむずかしいし、自分の人生を生きているという感じがまったくしない。

 貨幣経済のほかに食料やモノが人びとに分配される方法はないものだろうか。私たちはこれらを手に入れるために過剰で無意味な生産や労働をやめられないのである。貨幣の根本的なしくみが、われわれを物質的過剰の社会へと導き入れるのである。貨幣でしか、人類は食料を分配させる方法を見いだせないのものなのだろうか。

 過剰で無意味な人生を送っていると思わせる豊かな社会は、どんどんと生産や労働の根幹の意味を消失させてゆく。無意味さの増大が若者から働く意欲を失わせる。

 そしてどんなにモノにあふれかえろうが、どんなに収入を増やそうが、みじめであわれだと思わせる社会はつづいてゆく。「おまえはもっていない」、「おまえは守られていない」、「おまえはふつうの暮らしを手に入れていない」――社会はいつも新しい基準をつくって人びとを脅しつづける。新自由主義や階層化、パートタイム化で脅しつづけるしか、人々は働く意欲を見いだせないからである。この過剰な社会にこれ以上のなにが必要だというのだろう? 百年前や貧しい途上国と比べたら、われわれはどんなに豊かで贅沢な暮らしをしていることだろう。

 意味ある、価値ある人生とはどんなものなのだろう? 私たちは無意味な労働に駆り立てられ、もっと多くのモノをこれでもかこれでもかと買いつづけなければならない。この生産消費社会で、われわれは意味ある人生を送れているといえるだろうか?

 少ない労働で、少ないモノで満足できる社会に、私たちは方向を見いだせないものだろうか。モノであふれかえり、まだまだカネが足りないと思う社会は、どうも方向を間違っている気がするのである。





 ■信号待ちでオール・エンスト。            2005/10/16

 きょうは購入したバイクをとりにいったのだが、ほとほと疲れ果てた。目がばりばりに乾いた。

 ミッション車だからお店の人が親切にレクチャーしてくれたのだが、家まで帰るさい、信号待ちの再発進で、ほぼすべてエンストした。エンジンをかけたあとのクラッチはうまくつながったのだが、一度とまって再発進しようとするとまったくエンジンがかからない。

 うしろに車がとまるのが恐くなった。とまったらひたすら歩道によけて、先に行くようにうながした。そして、エンストである。ギアが悪いのかとニュートラルにいちいち戻してみたりした。車が多い大きな道はできるだけ避けて、細い路地を必死に探しながら、ほうほうのていで帰ってきた。バスで2、30分で行けるところを2時間くらいかけて帰ってきた。

 家に着くとさっそくインターネットで検索した。バイク選びにはほんとうにネットにお世話になった。免許の試験場から、車種選び、その車種のインプレッション、はじめてのバイクの経験や失敗談――ネットはこれがなかったらてんで集まらない情報を私たちに見せてくれる、改めて役に立つメディアだと思った。従来の友達や知人だけの話ではバイクのことなんて、なんにもわからなかったことだろう。

 ただ、バイク選びのさい、中古車情報誌の一覧性には負けているなと思った。雑誌はぱらぱらとページを見わたせるが、ネットはいちいちクリックがめんどくさいところがある。それにしてもバイクの初心者向け運転テクニックの本や雑誌はなぜ見当たらないのだろう。いまの出版状況では免許をとったり、バイクは選べても、公道が走れないではないか。

 ▼参考になったサイト
 I'm Rider (Turn on the igunition)
 
 プロバイク・ライディング・テクニックのページ
 安全運転講座

 なぜエンストするのかと調べたら、どうやらクラッチがうまくつながっていなかったようである。「女性のためのバイクとLove Loveになる方法/第四章 上手な発進、上手な停止」でよくわかった。アクセルを回転しつづけなかったから、クラッチにつながらなかったのである。アクセルが閉じてしまったら、クラッチにつながらない。この方法をためしてみたらウソのようにエンストしなくなった。ネットと作者の方に感謝です。

 ただ、憂鬱な感触はのこったなぁ。公道やうしろから迫る車が恐ろしくなった。うしろの車まで気が回らず、大丈夫かなと思った。「やっかいな恐ろしい乗り物を買ってしまったなぁ」、という感慨がないわけではない。

 あらためて自転車の安全さを思ったしだいである。自転車なら歩道をわがもの顔で疾走できるし、うしろの自転車に気がねすることもない。まだしばらくは自転車で通勤するほうが安全なようである。





 ■日記才人アクセス1000 / 帰ってきたGoogle検索ヒット            2005/10/17

 日記才人からのアクセスが1000を超えました。ぱちぱち。たしか去年の年末あたりから登録したと思われるが、多いのやら少ないのやら。

 日記才人のいいところは更新した内容を知らせられることと、その日のアクセス数がわかることだ。新しいものを書けば人に読んでもらいたいと思うし、どんなタイトルで登録すれば、どのくらいのアクセスがあったのか一目瞭然である。だから重宝している。ただ過去ログを参照できないのが残念であるが。

 だいたい私のサイトは「書評・文学」を中心に登録していて、一けたのアクセスがあればいいほうである。それでも多い少ないがわかって参考になる。さいきん20アクセスくらいあったのは、「女王の教室」と「なぜ安アパートに住んでポルシェに乗るのか」でタイトル報告した日である。読者の方の興味がわかっておもしろいと思うのである。どんな内容がウケないのかもわかって参考になる。

 あるサイトの訪れ方というのは、いぜん私はディレクトリ・エンジンの登録内容から訪れて、ブックマークから来るものとばかり思っていたのだが、アクセス解析をやってみてはじめて、検索から訪れる人のほうが多いことを知った。私はいつも検索したい内容があるわけではないので、できれば更新報告サイトから読みたい内容を知らせてくれるほうがいい。みんないつも検索したい内容をもっているんだなと感心する。

 日記才人の更新報告を見ていていつも興味ある内容ばかりとは限らないが、まあ、興味があれば、ぼちぼち見させてもらっている。ところで日記才人って純粋な読者の方より、書き手が読者になるほうが多いと思うのだが、そういうものではないだろうか。書きたい人がほかの人の書いていることがいちばん気になるのである。

 私の日課は仕事から帰ってきたら必ずアクセス解析を見るようにしている。どのくらいのアクセスがあったか、どこからアクセスされたか、どんな検索内容で来たのか、気になるのである。きょうも私のサイトを見に来てくれている人がいるんだと思うと、うれしくなるのである。なにかの傾向や対策がつかめたらいいのだが、いまのところサイト向上のための役に立ったとはいいがたいと思うが。

 ところで七月ころからGoogleの検索にひっかからなくなって、アクセスの数が半減したのだが、さいきんになってまたGoogleの検索にひっかかるようになってきた。なにがあったんでしょうか。まったくわかりません。まあ、読者の数が増えることはうれしいことである。読んでくれる人の役に立ったり、なにかの知恵になったりするものが書けるよう、がんばりたいと思う。





 ■バイク、はじめての遠出         2005/10/22

  私のYB-1です。

 バイクを買って一週間、夜な夜な、あるいは明け方に、車の通らない道路でバイクの練習をしていたのだが、ブレーキや徐行あとのエンストがどうも多い。止まったりしたらそのままアクセルをふかせるのか、半クラッチでアクセルをふかせるのかよくわからない。止まるたびにニュートラルに戻すなんてことも知らなかった。走行中にニュートラルに入れてしまい、エンジンがうなることはしょっちゅう。

 きょうは休みということもあって思い切って公道での遠出である。車がうしろにつくのが恐い。大きい道路と右折が恐い。なんせエンストという障害をまだ完全に克服していないからだ。とちゅうでエンストしてしまえば、うしろの車に大迷惑である。

 私は大阪の住吉に住んでいるが、奈良まで行きたいと思ったのだが、奈良は越えられなかった。マウンテンバイクでは5qくらいで、往復になるとへろへろになる。最高では大和川に沿って、生駒山麓までがだいたい私の行動範囲であった。おおよそ10qていど。自転車と比べるとどれだけラクか知りたかった。

 大きな道や右折が恐いので、かなり紆余曲折することになってしまって、だいぶ疲れてしまった。右折のように止まったり、徐行したりすると、再発進のエンストが恐い。渋滞でののろのろ運転でもエンストしたりした。すかさず歩道に逃げた。

 車との関係はどうなっているのかと不安だったけど、車はスムーズに原チャリを追い抜いてくれるようだった。原チャリはできるだけ車に追い抜かれやすいように歩道に寄るのがマナーなのかもしれない。ただ、原チャリが車一台分のスペースをとるのは申し訳ないことなのかとも思ったが、それくらいの権利意識は必要なのだろう。

 私の安全運転を抜いてゆく原チャリが何台かいたが、私はまったく気にならなかった。どうぞ追い抜いてくださいという感じだった。原チャリは40qくらいで止めておくほうが賢明なのだろう。速いスピードを楽しめないという点もあったが、街乗りでは高速は危険だろう。30qを出せる自転車とはあまり違わない感じもするが、ペダルは長くこぐとさすがに疲れる。

 YB-1は原付ということもあって、さすがに小さい。ふつうの大きなバイクのように迫力とか威圧感がてんでない。自転車より車高が低いのではないかと思う。なんかカッコ悪いのかなあと思う。カブと同じなじくらいの高さである。まあ、いい。あくまでも自転車に変わるラクな乗り物を必要としていたということである。

 ミッション車ってなんでこんなめんどさくい仕組みが必要なのかと思う。オートマのほうがよほどいい。でもスクーターのデザインってどうにかならないかなと思う。動く「電動イス」みたいでどうもカッコよくないのだな。ふつうのバイクのようなデザインはできないものなのか。

 それにしてもバイクの運転術の本がなぜ見つからないのだろうか。クラッチの操作とか道路での運転術とかを貪るように知りたいのだけど。






Google
WWW を検索 サイト内検索

ご意見、ご感想お待ちしております。
 ues@leo.interq.or.jp


   
inserted by FC2 system