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 ■050302断想集


 ■当サイト ブック・ランキング      2005/3/2

 amazonへのクリック数・ランキングです。いわば関心度のランクです。すばらしい本はたくさんあるのにランキングで切ってしまうなんてくやしいことですが、とりあえずは上位ランキングをお知らせします。

2005/1/1- 2005/3/1 クリック数
1  すでに起こった未来―変化を読む眼
 
 誰かクリックしまくったのかな?
145
2  リチャード・カールソンの楽天主義セラピー
 
 やっぱりおすすめの本です。
15
3  なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか
 
 男らしさが女を傷つける。
15
4  自由という服従
 
 タイトル負けしているからオススメしないよ。
9
5  整体 楽になる技術
 
 整体と現代思想の合体。
9
6  日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
 
 日本文化論の名著がわかる。
8
7  捨てて強くなる―ひらき直りの人生論
 
 愚かさという賢さや偉さと違う道。
8
8  孤独であるためのレッスン
 
 群れてばかりいるのはやめよう。
8
9  自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
 
 心理学を批判した衝撃の本です。
7
10  この人と結婚していいの?
 
 男と女のすれちがいの理由がわかる。
7
11  感じない男
 
 ロリコンや制服に魅かれる理由。
7
12  模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
 
 日本も文化大国だな。
7
13  フロイト先生のウソ
 
 頭を空っぽにするほうが心にはいい。
6
14  自由からの逃走 新版
 
 いうまでもない名著である。
6
15  若者が『社会的弱者』に転落する
 
 マスコミはいわない若者残酷物語。
6
16  歴史から何を学ぶべきか―教養としての「日本史」の読み方
 
 英雄史観をひっくりかえせ。
6
17  韓国人の日本偽史―日本人はビックリ!
 
 歴史とは浅はかな自慢比べ。
5
18  「宮崎アニメ」秘められたメッセージ―『風の谷のナウシカ』から『ハウルの動く城』まで
 
 物語はどう読むのか。
5
19  どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方 ダイアー博士の「生活哲学」
 
 愚かな心の持ちかたから去るために。
5
20  グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門
 
 心の愚かさを知る名著。
5
21  歴史とはなにか
 
 歴史とは正当化のことか。
5
22  世界の名著 4 老子・荘子 (4)
 
 たぶん現代若者は老荘に近い。
5
23  嗤う日本の「ナショナリズム」
 
 まだ読んでいない。
5
 ▲クリック数の総数は600近くまである。





 ■優秀さを競うために人は殺される      2005/3/3

   平和のために人を殺す『あずみ』

 きのう上戸彩主演の『あずみ』という映画を見た。人が大量に殺され、いかに鮮やかに殺されるか、いかに強く殺すことができるか、いかに華麗に殺されるか、といったシーンばかり見せつけられて、この映画はいったいなんなんだと悶絶した。

 強さに価値をおくのはわかる。だけど殺人や殺戮シーンに美学を見いだすような価値観にはついていけない。人が鮮やかに殺されるシーンが額縁に飾られるような見せ方というのはいったいなんなのだろう?

 われわれは人を殺す物語をしじゅう見ている。マンガや特撮番組からはじまってサスペンスやドラマや映画にいたるまで、人が殺されるシーンばかり見ている。

 人が殺されるのは勧善懲悪やなんらかの殺すべき理由があったり、倫理観にかなった殺人が描かれるのがふつうである。意味や理由もなく殺される物語もたくさんあるけど、つうじょうは倫理的な要請から殺害がおこなわれる。

 でもほんとうは倫理的な正当化なんてタテマエにすぎないのだろう。人が殺されるシーンを人は見たがっているのだ。

 なんで殺人という人間社会にとって最大のタブーが、人間社会の虚構物語に多く描かれるのだろう。人はそれだけ毎日毎日だれかや人を殺したいと念じつづけているからだろうか。

 腹の立つ上司や教師や、ムカつく家族、道ですれちがったうっとうしい人、いいがかりをつけてきた人、金持ち、自分より優れた人、政治家、差別されている人、みんなみんな人はしじゅう殺したいと思っているのだろうか。

 精神分析家なら殺人シーンというのは、自分の内なる悪や凶暴性を丸め込めるための方法論だというだろう。つまりじっさいの人を殺しているのではなく、われわれの心の内部では、それら殺される人はみずからの悪や凶暴性が象徴されたものだというのである。だから徹底的に丸め込める残虐さが必要だというのである。

 人が殺されるのではない。私の中のその人のような部分が殺されるのである。そういった正統的な理由なら殺人シーンも無益なものではないだろう。童話が残酷なのはその意味で必要なのである。

 われわれは子どものころからマンガや特撮映画などで人を殺すシーンばかり見てきた。悪役も人間と見なすのなら、人間が殺される物語ばかり見てきたことになる。まさかこの社会は殺人を奨励する社会であるはずがないだろう。

 人が殺されるのは相手が悪や敵であったり、または主人公の優越や勝利を得るためだったりする。そのためには人は殺されても仕方がないというか、奨励されることなのである。

 主人公が優れたり、勝ったりするためには相手を負かさなければならない。そういう競争的価値観のなかで主人公は人を殺す。優越や勝利の目印として人は殺されるのである。主人公はそこで勝利や金メダルを得たことになるのである。殺害とは主人公が優秀であることの承認である。

 優れることや正しいことはわれわれの社会の多くの人がめざす価値観である。その至上価値をめざして、人は闘い、人を倒し、そして殺す。優秀さや正義に向かって人は争い、そのために人は殺されるのである。

 人が殺されるくらいなら優秀さや正義を競うことをやめさせるべきだろうが、自分が優れている、正しいと思いたい人がこの地上から消え去ることは決してないだろう。そして物語の中で人は殺されなければならないのである、私の優秀さや正義のために。

 子どもの物語では自分の優秀さが競われる話ばかりたたきこまれる。私は優れなければならない、称賛されなければならない、勝たなければならない、――そうでないと私の人生には意味がない。そうして私の優秀さの犠牲として人は殺されてゆくのである。

 優秀さに駆り立てられる病というものが現代を殺戮映画だらけにしているのだろう。偽善者ぶって殺人シーンを規制したってはじまらない。残酷シーンを規制しようとする正義漢や優秀さのアピールこそが問題なのである。


 ■参考文献 
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
 

 「もしわれわれが賢者に力をもたせることをやめるならば、人民のあいだの競争はなくなるだろう」――老子










 ■優秀さをめざす病      2005/3/6

 まえの断想集で優秀さをめざすがゆえに人が殺されるマンガや物語が多くつくられるのだという考えを提出した。人が殺されるのは主人公が強かったり、優秀であることの証左なのである。

 この社会は優秀さがかなり誉めたてられる世の中である。おそらく優秀さを批判したり、悪者あつかいする意見はまず耳にすることはないだろう。無条件に受け入れられているといってもいいと思う。

 歴史を見れば、とくに人気のある時代を見れば、一目瞭然である。日本を天下統一した戦国武将たち、日本を近代化した幕末志士たち、西欧に目を転じれば、大帝国を築いたローマ帝国や先進文化を誇ったギリシャ文明、文明の草創期をつくったメソポタミヤやエジプトなどの四大文明。すべて優秀さの刻印を押された時代や文明ばかりである。

 歴史はわれわれの価値観や目標を写す鏡なのである。われわれの時代の偉大さや優秀さの価値観が投影されたものにすぎない。はたしてわれわれは歴史の事実を見ているといえるのだろうか。

 人間としては優秀さをめざすのはとうぜんだと思えるだろう。偉人や賢者がいなければ文明や文化は発展しなかっただろうし、よりよい社会に貢献する人物を失ってしまうと思われるだろう。

 国家内においても優秀な人物がいなければ他国に撃ち落されるだろうし、経済競争においても優秀さをめざさないと企業からリストラされると不安になるだろうし、優秀な成績をおさめないとよい大学にもよい企業にも入れないと怖れるだろう。

 優秀さはわれわれの生存の不安から生まれたのだから、とうぜんの欲求だといえる。その防衛本能を抜きとるなんてことは可能なのだろうか。不利益のほうが多いように思われる。

 だが、優秀さの競争が過剰になったとき、デメリットがまったくないとは言い切れないだろう。はじめにいったように優秀さをめざす闘いが物語においてたくさんの殺人を見せるようになっているのである。人を殺す強さや優秀さが誉めたたえられるまでして優秀さは競われるべきものなのだろうか?

 そう、優秀さをめざす目標からはたくさんの闘いや争いが生み出され、憎しみや恨みや怖れの原因になっているのである。優秀さを競って人を蹴落とし、人を打ち負かし、物語では優秀さのために人が多く殺され、国家間においては争いや戦争の原因になっているのである。

 人殺しは大げさとしても、優秀さを誉めたたえる社会というのは落ちこぼれる恐怖を増大させる社会のことである。おおよそ心の安定からはほど遠い日々や人生を送らされているわけである。

 優秀さという無条件に善と思われるものも、はたして手放しで称賛されてよいものだろうか。

 優秀さをめざさない民族や社会もどこかにあったはずである。結果として文明や国家を築かなかった未開民族にそれはあったのではないかと思う。アボリジニやイヌイット、マサイなんかその結果ではないかと思うのだ。かれらの歴史も法外な偉大さをもたないものであると思う。人類には可能であったはずなのである。

 きょうも人が殺されるマンガやドラマ、映画をたくさん見ている「優秀」な先進文明は果たして褒め称えられるべきものなのだろうか。。。


 ■参考文献
 優秀さの解毒剤は中国思想や隠遁思想、仏教に多い。
 『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
 


 『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
 


 ■私の関連考察
 「なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか」 99/4/30.
 「階級意識と恐れ」 99/4/5.
 「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.
 人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.




 ■マスメディアは早く終わってほしい       2005/3/8

 ライブドアの堀江貴文が「テレビはなくなる」とかいったとかいわないとかいろいろいわれているようだが、私は現在のような一方向のマスメディアは早く終わってほしいと思っている。

 マスメディアなんて異常なありかただと思う。少数の人間がおおぜいの大衆に一方的に語りつづける装置なんてものは、カリスマ宗教家に洗脳される信者と変わりはしない。

 そういう異常なありかたに気づかないのは、テレビを見るという行為が個室に閉じ込められるからだろう。もしそういう状況が劇場で毎日くりかえされれば、異常さに気づいてゆくだろう。

 テレビや新聞や雑誌という媒体がなかったとき、人はどのような情報の伝え方をしたか。一対一のコミュニケーションで、または一対おおぜいで、人から人へ直接目で見え、耳で聞こえる範囲でおこなわれるしかなかっただろう。情報の力はこの範囲を越えないものだったのだ。そしてげんざいのものしか見ることも聞くこともできなかった。

 テレビやマスメディアはこういう情報の力をはるかに越えて、少数の者だけが情報を発信しつづけるという異常な情報不均衡の装置をつくりだした。メディアを送れる者だけが、自分たちの考えのもとに、自分たちの思いや感じ方だけを一方的に流しつづけることができたのである。

 そういうメディアの力をもたない多数の人たちは原始的な井戸端会議や、教室や会社の中での会話でとどまるしかなかったのだ。情報を発信する力は一方的にマスメディアに握られている。

 私は十代や二十代のころ、マスメディアの圧倒的な力や強制力にずいぶんと腹をたてたものだ。「マスメディアがこういっているからこうしなければならない」、「マスメディアがいっているから正しい」――といったような強制力にたびたび出会い、怒りをつのらせた。マスメディアは流行や正義や道徳の強制力を、それが正しいとはかぎらないのに、ファシズムのようにもっていたのだ。

 三十代になるとふしぎなことにあまり感じなくなったが。雑誌や映画や流行に興味がなくなってきたからか、それともメディアはそういう力をバブル以降もたなくなったのだろうか。若くてマスメディアに影響を受けやすい世代はまだまだこの強制力のまっ只中にいると思うのだが。

 少数の者だけが毎日情報を送れるという装置自体が異常なのである。そういう装置がほかのおおぜいの人の手に渡るようになってはじめて尋常なしくみができあがるというものだ。井戸端会議でしゃべるしかなかった人もテレビで話せるようになる装置がないと、公平や平等にはなりえない。この情報発信の不公平さは、選挙権みたいに問題とならなかったのがふしぎだ。

 インターネットはその情報発信の不公平さを突き崩す装置になるはずである。そしてテレビや雑誌のような独占権力の構造も崩してゆかなければならない。だれもが公平に情報発信や影響力の装置をもてるようにするべきなのである。

 もちろん個人の情報発信力はひじょうに弱いものだし、情報を有効に広範囲に拡げる術もわれわれはもたないだろう。われわれはこの力の格差にまだまだ鈍感すぎるのである。情報や影響力がどのような力をもつかと気づいたときに、われわれはマスメディアとの異常な格差というものを思い知ることになるのだろう。かれらもわれわれと同じふつうの人間であり、個人ゆえの偏ったり、歪んだものの考え方しかできないものである。

 だからネットでHPやブログを開いている人はがんばってほしいと思う。マスメディアの尋常あらざる構造をつき崩していってほしいと思う。マスメディアはわれわれの手で終わらせるべきなのだと私は思う。






 ■私の貢献は何もないのに日本の栄光に同一化できる私     2005/3/12

 この世の中で私が私と思っているものに同一化できるものはたいへん少ない。私の働く会社や家族や地域にわずかながらの「私」のつながりを感じる程度だ。ほかのたいていのものは「私」ではないし、私とつながりすらない。

 私は世界から隔絶され、孤立しているのではないかとおもうくらいだ。私のものといえるものは家の中にあるわずかなものだけで、この世の中にはほとんどない。

 人が私の範囲とよべるものはこのように狭いものだといえるのに、「日本国」や「日本文化」、「日本人の歴史」となったりすると、たちまちそれは「私」のものになりえる。私の範囲は孤立した状態からいっきょに巨大なものになるのである。

 身近な街を見渡してみたら、「私」とよべるものはほとんどなかったはずである。世間は同一化できないものがほとんどである。

 私はソニーの社員でもないからソニーが私であるとはいえないし、たとえば日産の車をもっていたとしても私は日産の社員であるとはいえない。でも「日本国」や「日本文化」となるとそれが許されるのだ。国家はどこかの会社員のように排他的な顔をしていない。

 私は日本のGNPが上るとうれしいと思うが、私は私が勤める小さな会社の従業員のみである。ソニーや日産のように大企業の社員でもないのに、日本国の経済繁栄をわがことのように思う。ソニーや日産の利益が上ったからといって、社員でも株主でもない私に喜ぶいわれはない。それよりもっと大きな日本規模になると「私」の喜びになるのである。

 私がソニーや日産の製品を買うと、それらの会社は「私」のことのように思うことができる。私たちは買うことによって、企業の威信や権威を身にまとうことができる。ブランド品を買うことによって私の価値が上ったように思う。

 私は日本国を買ったわけではない。税金を払っている。そのわずかな金額を出資しているから私は「日本国」に同一化できるのだろうか。より大きな出資をしている人はより「日本国」である資格があるのだろうか。

 私は日本文化にほとんど貢献したことはない。信長や秀吉みたいに歴史の舞台を駈けめぐったこともない。それでも海外で日本文化が評価されると自慢に思うし、歴史の英雄を理想化して同一化することもできる。

 私は地域の短歌や和歌をやるカルチャーセンターに通ったこともないのだが、そこの評価が高いからといって自分の鼻が高くなると思うことはない。日本文化となると、私のかかわりや貢献はかぎりなくゼロである。それでも評価される日本文化は私の自慢である。カルチャーセンターの業績を横どりしているかのようである。

 私はライブドアの社長やドンキホーテの社長となんの関係もない。地域の政治家ともいっさいかかわりがない。まったく赤の他人である。現代の偉い人たちとの関係がそうであるのに、歴史上の人物となるとなぜかわがことのように親近感が抱ける。愛着を抱くほど「私」のように感じることができる。

 同じような例として、自分の出身校だけが母校である。ほかの学校を卒業したことにすれば詐称罪に問われる。卒業していないのに、同じ地域という理由だけで応援されるのが高校野球である。「私」とはそこに住む範囲まで含まれるのか。「私」とは身体のみではなく、土地まで「私」なのだろうか。大家や家主のものではないのか。

 私はどこかのスポーツ・チームに属したこともないし、優秀な成績も収めたこともない。近所のスポーツクラブが勝利したからといって、私はうれしくもならないし、自慢にもならない。それを横取りして自分の手柄のように誇れば、そのスポーツクラブにひんしゅくを買うだろう。それがプロ野球やオリンピックになれば許されるばかりか、おおいに推奨される。私に何の関係があるのだろう?

 「私」の範囲とはおかしなものである。近くのものや同時代なものは私とまったく関わりのない隔絶された他人事であるはずなのに、「日本国」や「日本文化」、「日本歴史」となると「私」のことのようになる。

 ものすごい違和感を感じる。会員制のクラブが大きくなるごとに会員制でなくなって、だれでも入れるようになってゆくのである。できれば、私はこのおかしな感覚を大切にして、大きなものを「私」と見なす錯覚には警戒したいと思う。






 ■古代、上町台地から海が見えた。      2005/3/13

 きょうは上町台地の有名な坂道を歩いてきました。海が間近まで迫っていたそうです。いまはビルしか見えませんが、かつては高台から町並みや海がのぞめて、さぞかし絶景だったのでしょう。台地は石山本願寺や大阪城、仁徳天皇の高津宮があったり、げんざいも官公庁街があり、大坂の中心でありつづけました。

高津宮で巫女さんがなにかお祓いをおこなっておりました。仁徳天皇の高津宮がおかれたところだと思われますが、もとは大阪城付近にあったそうです。
北前船の模型が飾ってありました。大坂から瀬戸内海、北海道まで物資の輸送に大活躍した船です。大坂の発展はこの船がなければ、ありえなかったわけです。
仁徳天皇はこのあたりから庶民の町に煙が立たないのを見て課役を三年やめたといわれています。でも皇室が書いた歴史資料しかのこっていません。日本一デカい古墳をつくった人が苦役を課さなかったといえるのか?
石畳と石垣がのこる源聖寺坂です。なんか有名みたいなんですが、それなりに味わいがあるのはわかりますが、そんなに魅力的なのかな。。
こちらは口縄坂です。高台からははかつて海が見えたと思うと、感無量です。いまは海の方角に電気街日本橋や歓楽街ミナミがあります。
清水坂です。石垣の坂道が異国情緒をかもしだしています。木造が多かった日本の町並みにはそうありえない風景ですね。
近くの天王寺駅にはダンボールで眠る人たちが列をなしています。哀れなのか、自由なのか、政府がどうかするべきなのか。人間も動物のように生きる尊厳もあってしかるべきなのかな。。
大阪城です。天守閣は西洋の教会を模してつくられたといわれます。戦国時代からすでに西洋化はおこなわれていたわけですね。

  高津宮あたりの地図です。




 ■「若年無業者」の実情と支援を考えるフォーラム 大阪    2005/3/18

 参加してみますか。こういうフォーラムっていったことがないのですが、著名な方がふたり来るのでどんなことを話すのか見てみたいと思います。


 日 時:平成17年4月16日(土) 午前11時30分〜午後4時※開場10時30分
 場 所:エル・シアター(エル・おおさか内)
 定 員:800名(先着順)
 受講料:無料
 対 象:若年者やその家族、労働・教育・福祉関係者など若年者の雇用に関心のある方
 内 容:
   (1)基調講演
    「働くことに希望が持てない若者たちと企業の役割」
     玄田有史(東京大学助教授)
    「ひきこもり高齢化社会の到来と親の役割」
     斎藤環(爽風会佐々木病院精神科医)
    「教育から労働市場へ 〜移行支援の必要性と学校の役割〜」
     小杉礼子((独)労働政策研究・研修機構副総括研究員)
   (2)対談
    「働けない若者たちの課題」
     玄田有史、斎藤環
   (3)パネルディスカッション
    「若年無業者の実情と支援 私たちは何をすべきか」
     玄田有史、小杉礼子
     川又直(NPO法人北陸青少年自立援助センター理事長)
     田中俊英(NPO法人淡路プラッツ代表)
     工藤啓(NPO法人「育て上げ」ネット理事長)

 ≪上記イベント・セミナーについてのお問合せ・お申込み先≫
 A’ワ-ク創造館 TEL 06-6562-0410 詳細・申込みはこちらから





 ■『グラディエイター』――大衆政治は正しいのか?    2005/3/19

   

 ローマ帝国五賢帝の180年ごろを描いたリドリー・スコットの作品である。絢爛豪華なローマ時代、迫力ある剣闘士を描いており、西欧の原初的自慢話、男らしさの迫力をたたえるといった前触れだけで見る気をなくしたが、きのうTVでやっていたのでスペクタル大作としては楽しめると思い見た。

 最後の五賢帝マルクス・アウレーリウスが出ていたのは、「おおーっ」と思った。アウレーリウス『自省録』はいまでも手に入り、私の愛読書でもあるからだ。名誉心を戒める内容やストア哲学の心のコントロール法は一読の価値があると思う。

 皇帝の時代から共和制(民主制)がほめたたえられる時代を背景としていたが、古代の知識人はあまり民主制は評価していなかった。パンとサーカスで代表される衆愚政治におちいるとされていたし、寡頭政治をまねくともいわれていたからだ。かれらは比較の視点をもっていたのである。学校の教科書ではこういうことは習ったのだろうか。

 民主制をほめたたえるテーマがあり、アメリカのプロパガンダ映画になっていたわけである。イラク戦争の自由と民主制の大義名分がメッセージされていたわけだ。この映画を見て何の疑いももたずに民主政治を最高だとみんなはみなすのだろうか。この映画は民主性がはじまる時代の期待感を描いていただけである。大衆政治がなぜすばらしいのか語っていない。

 それにしてもアメリカ人自身もほんとうに民主政治を最高の制度だと本気で思っているのだろうか。その国にいるからこそ欠点も汚濁も見えると思うのだが、よくこんな映画を恥ずかしげもなくつくれるものだと思う。宗教信者も自集団の教説をなんの疑念もなく説けるわけだから、両者は似ているのかもしれない。

 この作品の中では「大衆」という言葉がひんぱんに出ていた。大衆の心をつかむことが、たとえ奴隷の剣闘士のように笑いものになる存在であっても、権力をもつ皇帝より力をもつことができるのだというメッセージを発していた。

 それは政治評と見ることもできたし、映画評とも見ることができた。どちらかといえば、映画の影響力は政治の権力より強いというリドリー・スコットのメッセージが強いように思われた。たしかにベルリンの壁はメディアによって壊されたというように影響力は圧倒的なものがある。でも大衆に支持されるものがいつでも正しいとはまったく思えないのだが。

 大衆が政治に力をおよぼすのはいいことだされるが、私たち大衆がいちばんかかわり、生存の道を握っているのは企業である。なぜ政治ばかり語られて、企業の政治や権力は目をつぶらされるのかいつも不思議に思う。国家や政治が問題にされるより、企業が問題にされなければならないといつも思うのだが、政治ってわれわれのパンとサーカスなのか。

 この映画は民主制ははるか二千年前西洋から始まっていたという西洋の大自慢話なのであるが、われわれはたんじゅんに賛同する見方をするだけはよくないと思う。たとえばその後のローマ帝国の政治経緯を跡づけたり、民主制を検討する本を読んだりして、民主政治の欠点と長所を見極めるためのはじまりにしてほしいものである。

 私たちも学校で民主政治はすばらしく、江戸時代までの民衆は虐げられた暗黒の時代だったと教えられるのだが、それはいまの政府のプロパガンダにすぎないのである。明治からの政府は長州や薩摩からの地方志士たちの革命政府なのであって、前の政府のほうがよかったといわれては困る。だから子どもには前の時代を徹底的に悪かったと教えられなければならないのである。

 「歴史とは都合のよい現在」であることを覚えておいてほしい。





さいきん来ないご意見・ご感想お待ちしております。 
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