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▼テーマは古代史と歴史地理 

 



 ■040717断想集



 近江八幡から琵琶湖と田園をながめる       2004/7/17

 今日は近江商人の町・近江八幡に行ってきました。緑の田園風景と八幡掘のながめがすばらしかったです。なんとも癒される風景です。(クリックで拡大してごらんください)


緑が一面にひろがる水田風景が目の醒めるようにきれいでした。田んぼの緑ってなんだか心が落ち着くんだな。
琵琶湖ぞいの長命寺に行くには808段の石段をのぼらなければなりません。ひぇ〜。楽でないからこそお寺はありがたみがあるというものです。
巨大な岩が祭られています。アニミズムや自然崇拝が生きています。近代が未開や呪術的だと断罪しましたが、自然を厳かな気持ちで敬うというのは大切なことだと思います。
こちらは天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という巨岩のご神体です。なにか神話と関係があったのだっけ、または琵琶湖航海の目印になったのかもしれません。
その巨岩から琵琶湖と沖の島がのぞめます。
豊臣秀次の居城がおかれた八幡山から近江八幡の市街地が一望できます。
水郷や田園風景、湖などが、緑と水の広大な景色をかたちづくっています。
手前の山が長命寺があるところで、さいしょにのぼったところです。琵琶湖がひろがり、形の整った田園がならんでいます。
圧倒されました。琵琶湖の壮大なながめです。自然の大きさを感じました。
形の整った田園風景がひろがります。この緑の風景はすばらしい。水田がどこまでもひろがる風景は心を落ち着かせますし、大地とともに生きてきた人の暮らしが実感できます。
集落が田んぼの中にいくつか固まってできています。こういう小さな集落で暮らす人たちというのはやはり都会と違って町の意識が強いのかな、それは好ましいことなのか、わずらわしいことなのか、思わず考えました。
八幡掘の石畳の道です。古い時代を感じさせます。
八幡堀の江戸時代のような風景です。なんだか心が癒されます。
屋形船が堀をめぐります。川が生きている町というのはいいですね。
小学校の校舎らしいです。近江八幡というのは古い江戸時代の街並みがのこっていたり、洋風の建築が建っていたりと、ひじょうにふしぎなところだと思います。和と洋が混在しています。明治のころのたたずまいを残しているわけなのかな。
近江八幡はどうして古い建物をいまにたくさんのこしているんでしょうか。古さがカッコよかったのか、ステータスだったのか、それとも時代にとりのこされたのか。おかげで古い町並みがのこされたのはありがたいことですが。






 子供を生み育てられない企業社会       2004/7/24


 野口やよいの『年収1/2時代の再就職』(中公新書ラクレ)を読んだ。女性が子供を生んでも働きつづけなければならない時代がやってきたという現実をつきつける本である。

『年収1/2時代の再就職』 野口やよい 中公新書ラクレ
 


 妻の収入がなければ家計が破綻するほど夫の収入は頼りのないものになってきている。だから妻はたとえ子供を生もうと収入を絶やすことはできない。せめて小学校入学までは家庭にいたいという女性の願望ももう叶えられないものになりつつある。

 しかし女性の再就職先はほとんどパートか、非正社員しかない。給料は安く、社会保障はなく、解雇の可能性も高い。それでも家計の必要から働かざるを得ない女性たちに選択の余地はない。

 これまで既婚女性たちは家計の補助という名目であったからこそ、低賃金のパートでも我慢できたのだろう。しかしこれからは妻のフルタイム収入は必要不可欠のものになろうとしている。そういう時代に正社員の職は男女ともども少なくなろうとしている。

 女性の賃金や地位が低いのは、家事・育児の負担があるからである。男のようにどこまでも滅私奉公できないから一人前の企業人としてあつかわれない。しかし女性も多くの稼ぎを必要としている。多く稼ごうとすれば、男なみの残業をこなさなければならず、家事や育児ができない。企業というのは人間の再生産を許さないのである。

 これまで子供の出産・育児は女性を労働市場から締め出すことにより解決してきたわけである。男女二人一組で稼ぎと育児を折半し、労働市場の一人としてカウントされてきた。出産・育児はこれで可能になった。そして男は家事や育児のない24時間会社の拘束が可能な労働機械とみなされたのである。男女1ペアになることによって男の労働条件は無限にふくらんだのである。

 一方にこのように滅私奉公できる労働商品があれば、家事・育児の負担がある女性は半人前の労働商品とみなされる。女性やパートの低賃金はこのような理由があるのだろう。しかし賃金の安さから女性の再就職は進み、おそらくは時間内であれば男性と遜色のない仕事をしているはずである。低成長時代に女性は安価な労働商品として増加し、つぎには学生や若者がその低賃金労働商品として労働市場に参入させられるようになった。

 中高年男性は高度成長の恩恵をうけている。収入の伸び率は60年代入社の男性はおおよそ3.5倍になっているが、70年代では1.5倍、95年ではほぼ横ばいとみなすほどになっている。もう若者は給料が上がらないのである。一方、中高年男性は高度成長と労働力不足のため給料が上りつづける恩恵をうけられたのであり、社会保障もしっかりと確保できた時代を生きてこられた。つまりは給料アップや社会保障というのは経済成長が盛んなときだけの「遺物」になろうとしているのである。

 中高年はもうこのまま高待遇を突っ走って食い逃げしてゆくしかないだろう。ただ若者はすでに新しい労働条件を生きてゆかなければならない。賃金は安いし、社会保障も手に入れられないかもしれない。労働と家事の男女一組のペアは不可能になり、男女二人が労働をになわなければ家計が維持できない時代になってゆくのだろう。そのような条件で家事や育児はどう行えば可能になるというのだろう。

 女性は低い賃金や不安定な非正社員の役割をひきうけ、なおかつ家事や育児の負担もあるという苦しい重荷を背負わなければならなくなるのだろうか。働く合間に育児や家事もしなければならず、とてもじゃないけど子供を生み育てることなんてできやしないではないか。専業主婦の存在で可能になった子供の再生産は女性のフルタイム労働が必要不可欠になれば、どのように可能になるというのだろう。子供は保育園で育つのが当たり前の時代になってゆくのだろうか。家庭より人がいっぱいいるところで育つほうが健全とも思えなくはないが。

 女性のフルタイム進出により男性の24時間滅私奉公しなければならない労働条件はどうなるのだろうか。この条件が緩和や禁止されれば、おそらくは女性の給料も男性と均衡がとれてくるだろう。専業主婦のいる男性だったからこそ滅私奉公の労働商品が可能だったのである。このような商品と競合する女性はとうぜん低い賃金に甘んじさせられるだろう。男性には趣味や家事が必要な存在として滅私奉公の労働商品になるのはもうやめてほしいと思うが。

 賃金が減り、正社員が減らされ、社会保障がなくなってゆく時代というのは経済評論家や財界などが予測や指針としてもう10年や20年も前からいってきたことである。そのような時代が現実のものになろうとし、現実の家計を直撃しはじめている。もうわれわれは親のような豊かな時代、恵まれた環境を生きることはできないのだ。

 そうなれば開き直って経済やカネの価値ばかりではなく、自分の趣味や楽しみのために生きる人生を生きてゆこうではないかと私は思う。前の世代は金銭的には恵まれていた分、あまりにも企業戦士やエコノミック・アニマルになりすぎていたのである。恵まれない分、われわれは違った選択をする可能性が生まれたのであり、経済至上主義からの脱却のチャンスだと前向きに捉えたいと私は思う。おカネに恵まれないのなら、ほかの価値を肯定して楽しみながら生きようじゃないかといいたい。他人とカネだけで比べる人生はもうやめようじゃないか。






 山登りから見えてくる関西         2004/8/2

 大阪平野から京都、琵琶湖の航空写真。(宇宙航空研究開発機構から)


 大阪から山を登ろうとするとたいていは電車で一時間以上かかり、平野や市街地の果てまで行くことになる。山登りとは人の住む市街地の際限を知ることであり、人の交通をさまたげてきた山塊の存在を知ることでもある。

 人はたいてい平野に住む。山にはあまり住まない。山は人の行く手をはばみ、人々の交通を遮断し、人々が住むことを拒んできた。人々は山の合間に存在する平野に固まって暮らすことになる。そういう地形に規定されて生きてきた人の暮らしが、山にじかに登ることによってよくわかるようになった。人は都市では自然を克服したかもしれないが、山や地形を克服したわけではないのである。

 山や平野のあり方によって人々は住む場所を規定されてきた。関西なら大阪平野や奈良盆地、京都盆地といった平地におおくの人が住んできた。山は巨大な壁やへだたりとなって人の住む場所をおさえこんできたのである。

 都市や市街地に住み、おおくの用事を都市のみで果たす人にはこの関西ですらおおくの山地に囲まれていることに気づかないだろう。兵庫にしろ京都にしろ奈良、和歌山のほとんどが山地なのである。都市や市街地がおおくを占めるのではなく、山地がほとんどといったほうがいいのである。関西の大部分が山地なのが現実なのである。都市に暮らしている人はその現実が見えなくなるのではないかと思う。

 人はまずは海辺や川辺に住み、川をさかのぼり、山に行く手をさえぎられ、そこに定着し、あるいは谷や峠をこえて山の向こうにある平野や盆地を見つけ、定着し、またはつぎの歩をすすめただろう。

 大阪は瀬戸内海の行き止まりにあり、2000年前ほどは内陸のほとんどが海がはいりこんでいた。いまの大阪城や住吉大社まで海は迫っていた。にしても大阪には平野があったのだからさいしょの統一王朝が海岸沿いの大阪ではなく、一山越えた奈良で生まれたのはなぜなんだろうという疑問がうかぶ。

 古代から江戸時代にかけて水運はひじょうに重要だった。水運なら奈良につながる大和川より、淀川のほうがひじょうに適していたと思うのだが、なぜ奈良なんだろう。淀川なら琵琶湖まで通じているし、淀川王朝という存在があったのならなぜ全国制覇できなかったのだろう。奈良はうしろを山々に囲まれているから防御が固かったからだろうか。海側を生駒、葛城山脈に守られ、うしろもおおくの山脈に囲まれ、自然の防塞のようになっていたからだろうか。都は大阪にはおちつかず、北上し山々に囲まれた京都盆地に移ったのもやはり防砦面からだろうか。いまではすっかりのどかになった田舎の奈良の山々を登っているとそういう疑問がわき出てくる。

 山登りは風景や自然を楽しむだけではない。コースをたどっているとさまざまな民俗や歴史と自然にふれることになる。祠や石仏、神社や寺などが山にはほとんどいっていいほど見かけられ、一昔前の歴史をさかのぼったり、歴史の冷凍庫をかいまみるようなものである。ハイキング・コースとは歴史をたどるルートでもあり、なぜか市街地の歴史史跡より疑問や興味がわくものである。人里離れた山奥だから神秘性やミステリアスが感じられるからだろうか。

 また関西中の鉄道や町に行くこともできて、ほかに用がなければ立ち止まることもないだろう鉄道や町にも立ち寄ることができる思わぬ楽しみもある。遊びや買い物なら梅田や難波に行けばほとんど用が足せるし、観光地はその当地の見物しかしないだろうし、山登りだけが関西の地理のいくつかの線を結べるようになるものである。土地の全体像を、まったく不完全ではあるけれども、いくらか結べるようになるのが山登りの思わぬ魅力である。鉄道めぐりの魅力と似ているのだろうけど、それは土地の奥まで足で踏み込むことはないだろうし、山の頂上からその土地をながめられることもないだろう。

 なによりも山はその地形や大地とともに生きてきた人の暮らしや営みを目に見える形であらわしてくれる。谷沿いに発達した田んぼや町並み、すり鉢上の谷間にできあがった棚田、頂上から見られる山あいに発達した田園や家並み。その土地独特の地形によりそうように人の暮らしや営みはおこなわれてきたのである。そういう風景を見ていると人は自然の中にこじんまりと住まわせてもらっているという感じがして人間の小ささやかわいさを感じるのである。

 関西のたくさんの山を登り、奈良や神戸、京都、滋賀へと行動距離をひろげてゆくと、この町や村はどのように発展し、なぜそこはそのように発展したのか、という歴史が知りたくなってきた。そういう資料は多そうでもあり、なかなか見つからなかったりもする。水運というものが町や村の発展の大きな鍵をにぎっているのではないかと私はにらむのだが、そういう本でも見つけて想像の翼をひろげるのをこれからの私の楽しみとしたい。






 大阪の水運の歴史に注目したい        2004/8/15


 ある土地になじみがあったり、行ったことがあれば、好奇心や愛着がわき、その土地についてなにかを知りたくなる。それはいったいどんなことなのだろう。風景のここちよさを感じさせる原因であったり、その土地の文化風土であったり、または産業、歴史になったりするかもしれない。

 土地への興味はどんな知識がいちばん満足させられるのだろうか。この問いにいまの私は四苦八苦している。書物を探しているのだが、風景論はあまりにも貧弱だし、よくある手としては歴史だが、はたして私の求めている問いはこれで正しいのか、土地の歴史を知ることに果たして意味はあるのか、という疑問がきざす。

 土地の歴史を知ることになんの意味があるのだろうか。なじみのある土地はとくに歴史を知りたくなるものである。でも知ったとしても「はあ、そうですか」で終わってしまう気がする。

 思索を趣味とする私としては知るだけの楽しみではあまりにも物足らない気がするし、疑問を解こうとしてもあまりにも知識量が貧弱すぎるからできない。地理歴史についてはただ写すことしかできないから、記述するだけの文か、感嘆文しか書けない。これでは私の思索の名目がたたない。

 まあ、とにかく大阪の歴史について私が知りえた範囲の興味のわく事柄をピックアップしてみよう。あくまでも感想文ベースです。

 大阪というのは大昔までは平野のほとんどに海が入り込んでいて、上町台地が陸に上っていただけだった。天王寺や谷町線、帝塚山を西に行くと大きな坂があるが、ここを境に海に面していたわけである。住吉大社が海に面していたというのは意外だが、祭っているのは海の神であり、いまでもまわりの地名も海に関係する浜や江、津などがのこっているのである。

 五世紀ころには海の名残は淡水域となるが、生駒山や天王寺あたりまでの湖になる。一山越えた奈良盆地に大和朝廷が生まれるのは納得できないわけではないが、堺や和泉のほうにはなぜ王朝はうまれなかったのか。地図をみると和泉のほうはため池だらけである。肥沃な土地ではなかったからだろうか。行基の関係する橋や池が多いが、この人は仏教者だったのか、社会事業家だったのか、不思議な存在である。役行者も千年の時をへだてて大阪付近の山岳に名を散見するが、活躍の全貌を知りたいものだ。

 古代から江戸時代までは水運がひじょうに重要だったから、河川の存在は村や町の栄える大きな要因になったと思われる。淀川や大和川は現在の鉄道や高速道路のような輸送のための重要な道だったのである。モノやヒト、情報は河川によって運ばれてきたのである。

 ここで疑問に浮かぶのが奈良への大和川より、京都や琵琶湖への淀川のほうが水運としてはひじょうに適していたと思うのだが、どうして大和川のほうが繁栄したのだろうか。都は平城京から難波京にも移ったことがあるが(港に近すぎるのはダメだったわけだ)、京都の平安京に千年以上とどまったわけである。時代を先駆けた大和川流域と淀川流域の違いはなんだったのだろうか。

 げんざいのわれわれは鉄道や車によって陸路が物資の輸送の主役だと思いがちだが、昔の人にとっては水路のほうがかなり重要であったと発想の転換をしなければならない。河川や海、港、島は漁民のものだけではなく、多くの日本人にとってひじょうに重要な主要な交通路だったと考えることが必要だと思う。海や川からの日本の歴史や町の発展を考えなければならない。山やご神体は航海者のランドマークだったとの説もある。

 大阪が発展したのは「水の都」といわれたように河川や水路が発達していたからである。江戸時代には日本中の貨物が大阪に一度はあつまってきた。大阪は河川や堀をじょうずにつなげることによって全国の物資のターミナルとなり、発展したわけである。

 安治川や八軒家は三十石船や菱垣廻船、樽廻船で埋め尽くされたという。川辺は蔵や商家、飲食屋や宿屋でにぎわったことだろう。淀川や中之島、道頓堀などにたくさんの船が行き交った往時のすがたを見てみたいものである。いまの大阪の河川には見る影もない。だんじりや祭りをするのなら、大阪の河川じゅうに船をいっぱいめぐらせたほうが壮大で歴史が楽しめると思うのだが。

 げんざいの大阪の河川は埋め立てられて土地に橋や堀の名をわずかにとどめていたり、高速道路の下によどんだ水をたたえていたり、ビルのために人の目から遠ざけられていたり、だれも見向きもしないものになっている。私は川が船でにぎわい、人々が物見遊山に出かけたような時代がとてもうらやましく思う。川はもっと人の愛されるべき場所であっていいのではないかと思うのだが、役に立たなくなったものはまったく見向きもしない機能性重視のつまらなさを思う。風景を楽しむという高雅な江戸時代の精神はまったく失われてしまったのか。

 大阪の海岸線はどんどん伸び、埋め立てられ、コンビナートがつくられ、いまでは自然の海浜のすがたをしのぶこともまったくできなくなっている。まったく陸になってしまった難波津や住吉津のすがたを見ることはできないし、かつては砂浜や松などの樹木がしげった海の様を、現在の海岸線からはほぼ想像もできないようになっている。機能性や経済性ばかりの思想は、こんな貧困な風景にあらわれ出ているのである。

 私が水運に注目するのは、河川や港の歴史をつなげれば大阪や関西の全体像がつかめるのではないかという期待からである。鉄道や道路が現在の街の繁栄を規定づけているように、水運がむかしの日本の街や港の繁栄や発展を規定づけてきたのではないかと思うのである。そこから歴史がよりつかみやすくなるのではないかと思うのだが、地理史というか、郷土史というのは資料が多いのか、少ないのかよくわからない。図書館には多くても、ふつうの書店にはあまり見つからない。探しあぐねている状態である。

 さいごに律令制下の大阪府区分について記しておきたい。げんざいの大阪市内は西成郡、東生郡、住吉郡の三つからなりたっていた。西成が大きく、難波や大坂の地名はない。摂津国にふくまれていた。堺はほぼ大鳥郡とよばれ、ゆらいは大鳥大社であったと思われる。堺=境のゆらいは仁徳天皇陵のある三国ヶ丘から摂津、河内、和泉が見渡せたとの話である。和泉国にふくまれた。河内国には渋川郡、若江郡、河内郡、茨田郡、交野郡、石川郡などげんざいにも地名をのこす名称がある。



 ■参考文献
『難波京の風景』 小笠原好彦 文英堂
 


『図説大坂 天下の台所・大坂』 脇田修 GAKKEN
 



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