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 ■040523断想集




 日本の幽霊とは罪の意識のことである         2004/5/23


 さいきん若者のあいだで流行っている怪談話があるという。要約するとこういうものである。

 マンションの4階に住む若い男がメリーさんという女の子をはねて逃走した。その女の子が死亡したという新聞記事を読んだあと、電話がかかる。
「もしもし、わたし、メリーさんよ。あなたのマンションの前の電話ボックスからかけているの」
 次の日、「あなたのマンションの一階にいるの」といって電話は切れる。次の日も電話があり、じょじょに「二階」「三階」とあがってくる。
 「四階」にいるという電話の後、男はドアの外に飛び出したが、だれもいない。部屋の中で電話が鳴り、「どこにいるんだ!」と聞くと、「あなたのうしろにいるの」。

 この話はたいへん恐ろしいが、ひき逃げ犯の罪の意識や良心の呵責を刺激しているわけである。この指摘をしているのは長野晃子の『日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか』(草思社)である。この本では日本人の罪の罰し手を内面に持つ心のありかたが、罰し手を外側にもつ西洋人の罪悪感のありようと比較されている。

 私はこれを読んで映画の『リング』をすぐさま思い出した。『リング』は呪いのビデオを見ることにより何日か後に死が約束されてしまうスリラーであるが、ほかの人にそのビデオを見せると死をまぬがれるかもしれないという情報があり、母はビデオを見た息子のために両親にそのビデオを見せる。

 不幸の手紙とよく似ている。これは日本人の「他人に迷惑をかけるな」という道徳律とひっかかることから、罪の意識を発動させるのだろう。その罪悪感が幽霊という具象をとってわれわれの心を恐怖におとしいれるのだ。

 長野晃子の指摘はなるほどなと思った。日本人は罪の意識を幽霊の恐怖とともに植え込むのである。日本人は悪いことをすれば、良心の呵責にせめさいなまれる。その恐怖の母体になるものは、幽霊の恐怖なのである。

 われわれは子供のとき悪いことをすれば、親に物置に入れられたり、外に追い出されたりした。罪悪感をもつようにしつけられたわけである。その恐怖の祖形は、幽霊の恐怖とともにわれわれの心に深く刻み込まれる。悪いことをすれば、恐怖とともに罪悪感が刺激されるというわけである。

 むかしの民話にも金持ちを殺して立派な家をたてた男が、ある夜子供の小便につきそい、「ちょうどこのような夜だったな」と殺された男の顔になったという話があったりする。お岩さんの怪談も妻を火傷させ、殺した罪の意識、良心の呵責が幽霊になったものだとも見なせる。われわれ日本人は幽霊の恐怖とともに罪の意識を深奥に刻み込む、あるいは訓育されるといってもいいのである。

 悪いことをしていなければ幽霊なんて怖くないという言葉や、幽霊が怖いのはやましさや邪心をもっているからだと聞いたことがあるだろう。幽霊とは罪の意識なのである。

 この罪の意識の刷り込みは日本の犯罪率低下にひじょうに役に立っているのはたしかなのだろうが、恐怖を刺激させられるわれわれにはたいへん迷惑な話である。心の平安を乱す卑怯な刷り込みであるし、恐怖から従わされる不快な部分もある。

 そういえば、日本人はむかしから怨霊や幽霊をたいへん恐ろしがってきた歴史があり、その怖れは一国の政治すら動かしてきたことすらあり、そのために神や仏を拝んできたのだが、こうやって日本人は道徳や治安を守ってきたという面があるのだろう。

 しかしこれは人の心を平穏を破るものだし、パブロフの犬のような反応をさせるという意味で、論理や言葉によって道徳を守れると自負できる者は、こういう恐怖に訓育されないこと、恐怖を払拭することがぜひ必要だと思う。

 精神の安定、成長には恐怖の根を根絶することがぜひ必要なのだが、この幽霊と罪の恐怖のしくみを知ることにより、われわれは恐怖というものの客観性や傍観的態度を身につけることができるようになるだろう。(なれるかな)。恐怖をまったくなくすことが、精神の安定と成長、つまり悟りにいたる道なのである。





 『<美少女>の現代史』を読んで        2004/5/25


 まんが・アニメの美少女像の変遷をえがいたササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』(講談社現代新書)を読んだ。そうだよな、なぜ現代の男たちはこれほどまでにまんが・アニメの美少女に魅かれてきたのだろうかと考えたら特異なことである。

 男の本能や性であるのはまちがいないのだが、まんが(以下アニメも含む)への美少女への熱狂や熱中は尋常ならざるものがあるというか、一種独特のものがある。現実の、なま身の女性を凌駕する、あるいはまったく異なった種類の愛慕ができあがってしまっている。

 男たちはなぜこうもまんがの美少女に魅かれてきたのか。ササキバラはこの本の中で、70年代前半に男たちは生きる目標や価値を見失い、最後に残った唯一の価値が女性への愛だったからだといっている。命がけで守るものが女性だけになってしまったのである。

 70年代前半に男たちは政治や国家、会社などの大きな希望や物語が崩壊する危機に立たされた。その代入に女性を選んだのである。この指摘にはなるほどなと思ったし、国家や会社の命がけの後釜が女性とはがっくりときたものだ。たしかに『愛と誠』では「きみのためなら死ねる」とギャグみたいなセリフをシリアスに吐いているし、『デビルマン』もガードフレンドを守るために闘い続けていた。いいのか、こんなことでと私は思った。

 きたる80年代、たしかにバカみたいなアイドル・ブームがやってきて中学生だった私はずいぶんなさけない思いをしたものだが、前哨史としてそういう歴史があったとは再確認した気分だ。男たちは国家や会社という大きな希望を捨てて、アイドルや美少女という「大きな物語」に鞍替え、あるいは急転落したのである。

 男たちは果たして女性たちに大きな物語をたくしのたか。やっぱりそうではないと思う。オタクに見られるようになま身の女性よりアニメの女性を愛好する傾向が見られるからだ。個人としての女性ではなく、アニメやTVアイドルといったみんなの「共通項」に男たちは大きな物語をたくしたのである。男たちはみんなで同じ「神輿」をかつぎたかったのだ。個人としての女性にそれほどの価値があるとは男たちも信じてはいないだろう。みんなで同じものを――かつての国家や会社のように――かつげるからアニメやTVアイドルに男たちは熱狂したのである。

 美少女は『ルバン三世』の峰不二子のような豊満な肉体を誇示する女性ではなく、性的要素を排除したかわいらしさ=ロリータ顔として描かれる。少年たちはかつてのオヤジたちのエロ男むきだしの欲望や女との関係性を排除したかったのだ。顔はいきおいロリコンになる。男たちはそこに恋愛の要素や女性の側に立つという思いをたくしたつもりなのである。しかし女性は性的対象であることをまぬがれないから、ロリコン顔と性的身体の合成物ができあがってきたとササキバラはいう。

 私も中学のころまではまんがを熱狂的に愛好した。しかししまいにかわいい子やエッチなほうばかりに引かれてゆく嗜好に嫌気がさして見なくなっていったように思う。エロしか興味のないようなオヤジにはなりたくなかったのだろう。いまでもやっぱり恋愛や交友にしか頼るものがない人間にはなりたくないという気持ちはもっているし。

 かわいい顔は少女がよく連発する「かわいい」という価値観を共有することによる男の女性への歩み寄りのつもりである。ここにはエロ・オヤジ的な性的女性への強奪がない。エロ・オヤジの性的感受性とは肉体も顔もハードな劇画で描かれるようなポルノである。美少女まんがはそういう関係性への拒否である。といっても首から下はどんどんエロティックに立体的に写実的になっているが。

 私もまんがを読んでいるころはたしかにまんがの美少女に萌えてきた。『カリオスロの城』のクラリスはかわいかったと思うし、『マクロス』も見たし、『みゆき』も『タッチ』も愛読してきた。弓月光『エリート狂想曲』には恋愛や女性をいとおしむことを学んだと思う。でもたぶんまんがやTVアイドルを熱狂的に崇拝する姿勢や態度はとれなかった。なぜかはわからないが、たぶんエロ・オヤジ的になるのがいやだったのだろう。女やエロばっかりになるのは避けたかったのだと思う。

 中学のころまでは私はまんが好きを自認していたと思うのだが、なぜか『ガンダム』も『うる星やつら』もほとんど好きになれなかった。なぜなんだろう。『ガンダム』はあんな軟弱で卑屈な主人公に感情移入する気にはなれなかったし、『うる星やつら』はあんなパロディみたいな話を見るなんて時間のむだに近いと思っていたのかもしれない。宮崎駿はかなりロリコンっぽい視線があると思うのだが、どうして国民的人気になったり、子供に不滅の人気をたもつのか、私には少々不思議である。

 時間の関係であまり考えをまとめることもできずに感想を書いたが、このササキバラ・ゴウの『<美少女>の現代史』はまんがを読んできた人や美少女に萌えたことのある人には一見の価値はある本だと思う。350万部も売れたという養老孟司の『バカの壁』よりよっぽど価値があると思う。






 年金のもとにある思想を考える         2004/6/6


 年金について思いついたまま書こうと思う。年金についての根底にある思想や歴史を問いかけた魅力的な本が見つからないのもあるし、ネットで資料にあたるのもめんどくさいということで、思いついたことだけを書きたい。

 年金というのは人間の歴史の中で大半は存在しなかった。老後の生活を心配する、もしくは計画するという豪勢な憂慮はできない人が大半だったろうからだ。おそらくは農業なら死ぬまで働いただろうし、息子などとも分業ができたりしただろう。

 人は死ぬまで働くのがふつうだっただろうし、豪勢な隠居生活などめぐまれた一部の人だけだろう。食い扶持が稼げなければ姥捨てのような運命もあったのだろうが、おそらくそれは後世の人がおもしろがったり、めぐまれた優越心を満足するための極端な話だろう。

 働けなければ生きてゆけない、もしくは家族が養ってゆくという形態が人類の大半だったと思う。

 国家が国民の老後を保障するという思想はルソーの民主制思想やマルクスの社会主義思想からうまれた。

 それまでの国家の役割とはなんだったのだろう。国民から税を納められるかわりに他国からの侵略や強奪から守ったりする軍隊の役割や、インフラ整備をになってきたと思われる。人の生き死ににはかかわりなかったと思う。国家が国民を守るのは公共に害がおよぶはなはだしき貧困や伝染病のときだけだったのだろう。国家は国民の生き死ににかかわりをしなかっただろうし、人は勝手に放っておいても生きようとするし、勝手に死んでゆくものである。

 国家が国民の生活を保障するようになったのは、他国との戦争や競争が激しくなってからだ。戦争に負けないためには国民の総力が必要になってくる。国民が国家の戦争に全面的に協力するのは国民の生命や人生が国家に全面的に保障される、もしくは同一化されたときだけだ。

 つまり国家が多くの利益を提供しないと国民は協力しない。戦争が国民総力戦を必要とする時代になったとき、人々に民主制や社会保障などの権利がどんどん与えられていった。つまりえさを与えられたわけだ。国家が国民の全人生を保障するとなれば、国民は全人生のかかった国家を死ぬまで守ろうとするだろう。

 民主制や社会保障は国民の権利のために与えられたのではない。国家間戦争のための利益と交換条件にすこぶる合致したからだ。学校の教科書で教えられたように人々が闘争して自由や平等の権利が認められたり、勝ちとられたわけではなくて、国家は新たな国民の巧妙な利用法を開発しただけである。このような国際条件がなくなったとき、ギリシャで民主性が長くつづかなったように民主制も社会保障も崩れ去るだろう。

 日本でも現在の厚生年金のはじまりとなったものは国民総動員時代の昭和17年からだ。つまり戦争のさなか、国民の戦力高揚のために老齢年金は利用されたのである。現在の経済も1940年代体制といわれるように国民総動員時代からはじまったシステムがつづいており、戦後の国民は民主制や社会保障が与えられる代わりに国家の経済戦争に全力に貢献してきたわけである。

 国家が国民の生活を保障するという考えは国家というものをたいそう崇拝するに値するものだと思われただろう。しかし国家が老後を保障するとき、家族は親の扶助義務を免除されたように思い、家族の紐帯はうすれ、家族の崩壊に寄与したことだろう。家族も利益集団である。老後や生活の保障という交換条件がなくなったとき、人は家族や夫婦の紐帯をかんたんに断ち切るだろう。国家は家族を崩壊させたのである。もちろん家族が崩壊したのは家族で農地をたがやす利益の共同体から、会社に生計の場をうつした形態の関係もあるのだろう。

 年金という老後のあり方は、おそらく人々の人生の捉え方をかなり変えたと思う。人はいつごろから老後の暮らし方やあり方を考えるようになるのだろう。老後の計画や青写真を若いうちから考えたりするだろうか。

 年金は若者の行動や計画を保守的に堅実なものにした。若いうちから老後の人生を憂慮しなければならない人生をつくったのである。青年の時期に冒険や探索ができないような社会は早晩衰退するにちがいないと私は思うのだが。魅力も楽しみもない人間と社会になるだけである。人は明日も知れない身だからこそ冒険や成長ができると思うのだが。

 国家に保障されるとはふしぎなもので、その恩恵に属せない者をずいぶんみじめな思いにする。年金とは特権や利権のパスポートみたいなものである。むかし国鉄民営化のとき民営化される人たちはずいぶん反対したものだが、国家に属するということはずいぶんと人の気持ちを高揚させたり不安定にさせたりするものである。「選ばれし者」と「選らばれざる者」を国家は強烈に人に印象づけるみたいだ。

 それにしても私は保険というものはずいぶん愚かなものだと思う。健康保険なんか毎月払っているけど、てんで病院に行かないのにずいぶん損だと思っている。現金で行ったほうがよほどトクに思える。保険なんか取り越し苦労のかたまりみたいなものだ。相互扶助なんていうけど、利益がまったく感じられない扶助なんてできるものか。

 この保険という思想はほんとクセものだ。20世紀というのは消費でも民主制の時代でなくて、保険の時代だといえるかもしれない。人は老後や健康にそうとうの心配をほどこしたのである。こういう不安や恐怖を大きくさせたのはいったいだれなんだろう。国家が国民の貢献を大きくするために過剰にプロパガンダしたのだろうか。キリストや釈迦の「明日のことを思い煩うな」という教えは現代ほど必要な時代はないだろう。

 さて年金は少子化と高齢化による人口逆ピラミッドによりほぼ不可能になりつつある。そもそも社会とは働かない人をどのくらい多く養えるものなのだろうか。現在で6000万人が働いていて、3000万人の年金生活者がいるそうだ。もうすでにめちゃくちゃな数字だ。ひとつの田んぼに9人いてそのうちの3人は働いていないのだ。もし収入の少ない田んぼだったら、若い働き手はその老人たちをどうしていたことだろう。国家は目に見えないスケールで展開するからこそ、不自然なことでもつづいてしまうわけだから、人間の目のスケールに近づけることはとても大事である。(ハイエクを読もう)

 そもそも会社の定年制はなぜできあがったのだろう。定年制が先だったのか、年金が先だったのか、働けない人たちをうみだしたのが問題である。死ぬまで働ける会社社会になればいいと思うのだが、年金がある人たちには定年はありがたい制度だろう。

 年金はこれからどうなるのだろうか。数々の年金問題を解決するなんてできるのだろうか。私は年金なんてやめればいいと思う。これからとられる額は増える一方だし、払えない人もとうぜん多く出てくるし、会社も社会保障逃れの非正社員を増やす一方だし、受給額も減るし、受給年齢もつりあがる。終わってますよ。私は学生でも20歳からとられるようになったとき、もう終わったと思いました。収入のない人からとるなんてめちゃくちゃだ。

 年金はその根底や思想を問うことがとても大事だと思う。もちろん年金生活者や既得権のある人にはまちがってもそんなことは考えたくないだろうけど。人生観や生命観を捉えなおす必要もあるのかもしれない。年をとって若い人に頼るつらさとかを考える必要があるだろう。年金は生き方として、人のあり方として、必要あるものなんだろうかと考え直す時期に来ているのかもしれない。






晴れた日に六甲山系から大阪湾を望む        2004/6/13

 今日は六甲山系の東お多福山に登ってきました。台風一過のため、頂上からの展望ははるか大阪湾一帯を見渡せるほど明瞭でした。たぶん私が山登りした中でいちばん視界がくっきりしていた日だったと思います。こんなにすばらしい展望ははじめてです。

 でも写真に撮って見るとやっっぱりそのすばらしさはぜんぜん画像に写しとられていません。スケールが違いすぎるんでしょうね。この小さな画像ですみませんが、展望のすばらしさをすこしでも味わってみてください。(クリックで拡大表示できます)



山を登ってゆくと芦屋市や神戸市の市街地、大阪湾が見渡せました。
手前に神戸の湾岸線が見え、かなたには大阪の泉州沖が見渡せます。写真ではぼんやりしていますが、肉眼では泉州のコンビナートまではっきり見えました。
これは神戸の西のほうを望んでいます。ポートアイランドや淡路島の山影が見えているんでしょう。
ここはおそらく宝塚や伊丹から大阪平野を望んでいます。肉眼ではもっとくっきり見えましたよ。
六甲山系から見た大阪平野一望です。右手のほうに小さく梅田の高層ビル群が写っています。巨大な人間の棲家。
右手のほうに大阪湾が青く写っています。大阪平野が広がっています。大昔は海や池がげんざいの平野部まで覆っていた名残のようなものが感じられました。





 思想はオタッキーな趣味の世界に帰るべきだ       2004/6/14


 勢古浩爾の『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)を読んだ。ある程度は興味深く読めた。

 でも「思想なんかいらない」という前に、ほとんどの人が「思想なんてなくても困らない」と思っているだろうから、そんなことすらいう必要もない。

 思想をカッコイイと思ってハマった人のみが「思想なんて自分には必要ない」と悟る必要があるだけであって、最初からほとんどの人にとっては「思想なんか知らない」である。

 もう日本人のたいがいの人にとって「思想なんか存在しない」も同然だろう。いちまつの興味もわかないだろうし、だれかにバカにされたり、共通の話題についていけないということもない。TVや音楽、映画やマンガを知っていれば十分な時代なのである。

 嘆くべきでもないし、悲しむこともない。思想なんてそれを楽しめる人のみのオタッキーな趣味にしておけばいいのだ。まちがって興味ない人に強制したり、知のヒエラルキーに巻き込んでバカにすべきではない。鉄道の趣味やフィギィアの趣味のような奇特な人たちの楽しみに閉じ込めておくべきなのだ。出版業界が欲をもって購買層を増やそうと無知や序列の恐怖を煽るような愚かな真似をするべきではない。新興宗教に対するような反発を食らうだけである。

 思想なんか役に立つとか日常生活に使えるなどといわないほうがいい。私は十年以上読んできてほとんど役に立たなかったぞ。自己啓発のほうがよっぽど役に立った。思想は私を偏屈に意固地に歪ませただけだと思う。奇妙な自尊心を支えてくれたかもしれないが、中には人を軽蔑する人を生み出しただろうし、選民意識をつちかったりするかわいそうな人をつくりだしたかもしれない。優越と軽蔑を育むような思想の扱い方は、懸命な知者になろうと思うのなら、おおいに警戒すべきなのである。

 現代思想なんて知識の優越心を満たすのみしか現在は役に立っていないのではないかと思う。ファッションやブランドと変わりがない。フーコーとかドゥルーズなんて生きてゆく術のなんの役にも立たない。ぎゃくに社会を批判するから世の中を生きにくくするだけだ。

 私にとっての思想の大きな効用はやはりひそかに自尊心や優越心を満足させることではなかったのかと思う。会社社会ではうまく渡ってゆく自信はないし、企業ヒエラルキーの底に位置づけられるし、スポーツや社交で抜群の楽しみを見出せるわけでもない。たまたま思想が自分の頭にすんなりと入ってくるから、どんどんその森の中に入って行っただけだ。

 思想を自分の優越心のための軽蔑や蔑視の道具にしてはならない。つい思想がわかるからといってそれを理解しない人やわからない人を軽蔑のまなざしで見るべきではない。思想がそういう扱いをされるようになったら、知識はなんの役にも立っていないと見なすべきだ。優越や軽蔑を乗り越えることが知の貢献であるべきなのに、その道具にされるのは知識が劣っているとしかいいようがない。

 思想とは私にとっては知ることの楽しみ以外のなにものでもない。ものの見方、考え方、切りとり方を楽しませてもらうのだ。世界の見え方が変わるような思想と出会うのがいちばんの楽しみである。現代の思想が世の中を変えうるとは思わないし、多くの人が読まなければならないとは思わない。知ることの楽しみだけで十分だ。

 出版界が知の序列や軽蔑の戦略をつかってすべての人に思想を読ませようなんかすると、ますます反発を食らうだけだ。純粋に楽しめたり、喜べたりする人が多くいなければ、脅迫のマーケットはいつか狭まるのだろう。学問だって学校システムの全員への強制がなければ、知識をもっと楽しめる人もたくさん増えたかもしれない。知のヒエラルキーをつくり、序列や階級をつくるから、知識ほんらいの楽しみを多くの人から剥奪したのだと思う。

 思想や学問というのは必要のない人にとってはまったく必要のないものだ。興味や必要がなければ、わかることも知ることも必要がまったくない。思想や知識とはそういうものだと思う。興味のないものはいくら読まされても頭に入らないし、ぎゃくに興味があればいくらでも貪欲に吸収したくなるものだ。知識のそういう性質を、人は軽視し過ぎだ。すべての人に知識を強制しても不可能であるばかりか、反発と怨念をつのらされるだけだ。

 知識というのは自分に合うものと合わないものがかなり分かれると思う。いくらでも吸収できる知識とまったく絶理解の知識がある。だれもがフロイトやマルクスを理解できるとは思わない。心に興味あるものはフロイトを理解できるがマルクスがまったくわからなかったり、社会経済に興味があればマルクスをどんどん読みたくなるが、フロイトはまったくと思うかもしれない。それでいいのだと思う。

 すべて等しく理解しなければならないと押さえつけられるから、興味は逸散してしまうのである。興味は一事を掘ってそこから広がってゆくものだと思う。一事も掘らなければ、おそらくどこも掘る気は起こらないだろう。

 だから思想なんて多くが理解できなくていいと思う。フーコーもレヴィナスもウィトゲンシュタインも理解できなくてもいい。ただひとりだけ、たとえばフッサールがおもしろいと思えば十分なのだ。そこから世界は広がるかもしれないし、または広がらないかもしれない。そこで終わるのなら知識は自分にはまだ必要ないか、欲していないのであって、必要のないものは捨てるべきなのである。満腹した腹に食べ物は必要ない。むりやり口につっこもうとするのが教育や知識人である。

 今の世の中は学歴によってヒエラルキーづけられる社会である。知識人が権力の中枢を握る社会である。いや、経済の権力の人的選別を担っているといったほうがいいかもしれない。その選別権を知識が握っているから知識業はその恐怖を煽ってマーケットと権力の拡大をもくろむのである。だから知識には優越や劣等の意識がいやでもまといつき、いやらしい序列感を漂わせるのである。

 優越や劣等感、序列やヒエラルキーがなくなったところにほんとうの知識の楽しみがあると思う。自分の好きなこと、おもしろいことが純粋に追究できるようになるだろう。知識がほんとうに好きなのだったら、そういう世界のほうが楽しいとは思わないだろうか。

 まあ、でも人間から階級や序列をとりさるのはまず不可能だろう。せいぜいそういう序列意識にとらわれない知識を楽しみたいものである。思想もオタクの趣味となんら変わりはないと割り切ったほうが、自然で謙虚な気持ちで知識を楽しめるだろうと私は思う。





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『〈美少女〉の現代史』 
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『思想なんかいらない生活』
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