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■030922断想集




  男は恋愛をするものではない?     2003/9/22


 世は「恋愛をしなければ人間ではない」といったような恋愛至上主義が席巻しているが、それによって脅えている男たちも多いと思うが、男ってけっこう恋愛を軽蔑する価値観を刷り込まれてきたのではないかと思う。

 「恋愛に溺れるのは女々しいことだ」「恋愛物語を男が読むのは恥かしい」「愛だの恋だのを男が口にするな」といった硬派な価値観は男の中にしずかに根づいている。

 そういう男のルールが女を煽てあげる消費とマスコミの中で見えなくなっているのではないかと思う。おかげで女の価値観、女の人生のルールが、すべての人のルールであるかのように思わされ、恋愛のできない男は脅かされることになる。

 男は恋愛ができないのではなくて、恋愛をしてはならないのである。

 少女コミックを男が手にとるのは恥かしいように、恋愛は女性の専門のジャンルに近いのではないのか。恋愛は男の専門ジャンルではないのである。

 それが女性煽情のマスコミのなかでは恋愛のしない男はヒエラルキーの落第生に位置づけられる。女性の論理の世界に価値観の違う男は都合のいいようにスティグマを烙印されるのである。

 女性の恋愛強迫観念が男の論理をのみこんでしまったのである。たんに消費の王者は女性であるから、女性の恋愛の論理が王手をふっているにすぎないのだろう。

 ミュージシャンは恋愛ソングばかり歌うし、ドラマは恋愛ものばかりだし、マンガも小説も恋愛ばかりだ。世の中は恋愛だけが人生だみたいな様相を呈しているが、消費は女性が主導しているからそうなるのだろう。このカラクリに男はだまされてはならない。

 恋愛は女性にとって強迫観念となっている。彼氏がいなかったり、彼氏いない歴が長ければ、たいそう恐ろしいことである。商業はそういう落ちこぼれる恐怖を利用して消費を煽情する。商業の儲け話に女性たちは脅かされつづけているというわけだ。

 おかげでおそらく女性たちはたくさんの男たちとつきあい、貞操や愛といった倫理観や男の心の痛みといったものを平気でなぎ倒してゆくことになるのだろう。ひとりの男との心のつながりより、愛は消費の選択のような性能や機能を競うものに変化してゆくだろう。男は食いものにされてゆく。

 こういうなかでも男はやはり恋愛は女々しいもの、女の専門ジャンルと思いつづけるだろう。恋愛に没入する男を社会規範はけっして甘くは見ないと思うのだ。男はこれまでの女性がそうであったように「うぶ」になるのではないかと思う。男と女の逆転現象はおこるのだろうか。しかしそれがおこりうるのは経済関係が対等か、逆転するまでは真実にはなりえないのだろう。








   恋愛依存症とは経済役割の結果?         03/10/12


 ひどい相手でも別れられないといった人たちのことを恋愛依存症というそうだ。典型的にはアルコール依存症の相手とか暴力依存の人とかから離れられないのである。

 依存症といえばドラッグとかアルコールがおもいうかぶが、さいきんでは買い物とか人間関係とかにも依存症の範囲がひろげられてきたみたいだ。正常との線引きがひじょうにむずかしい概念だと思うが、違いはその依存によって本人が苦しんでいるかどうかであるそうだ。

 でも恋愛というのは病的や異常であることがほめたたえられる社会風土があるものだ。屈辱や虐待を耐えたり、忍んだりすることがりっぱで深い愛と思われていたりする。愛という言葉は搾取や虐待の正当化に使われたりする。だからそれを依存症という心理概念にのみ押し込められるとひじょうに混乱してしまうが。

 恋愛依存症になってしまうのは幼少期の親からの分離・独立の失敗があるからだという。親に愛されなかった経験を現在のひどい恋人に重ねてしまうから、そのとりかえのきかない相手から離れられなくなってしまうのだそうだ。トラウマを二度と経験したくないのだ。

 われわれは心理学的には恋人に幼少期の親との関係を重ねてしまうのである。親から失われた愛情を恋人からとりもどそうとするのである。親との未消化な関係は恋人に再現されることになる。

 親から愛されなかった人は、親のように愛してくれないひどい人を選び、必要されることにのみに喜びをみいだし、親から要求や期待のみで愛された人は、その束縛の恐怖からひたすら親密な関係を避けるようになる。前者は恋愛依存症になり、後者は回避依存者となる。両者はおたがいのニーズに合うからひきつけあう。

 しかしこの関係は現代の男と女の関係にもすっぽりあてはまる。家事や育児で必要とされる女性、仕事だけで家族とかかわろうとしない男性。まるで経済関係のためにそれぞれの役割になるためのトラウマが埋め込まれるみたいだ。

 男に依存する女、仕事に依存する男。こうなるためにはまずそれぞれ男女に期待の重責と愛の拒否があたえられるのだろうか。男は親密さから逃れ、女は親密さをもとめる。そして男は仕事にのめりこみ、女はむくわれない男にのめりこむ。親密さは拒否されつづけ、それは子どもにゆずりわたされ、かれらは経済の役割分担におさまってゆく。

 依存症という概念はかなりむづかしいものだ。社会や文化、経済の結果ともとれるものが多くふくまれているからだ。本人の心理構造の問題のみに還元してもよいものか疑問がかなりのこるし、適用判断もむづかしい。ましてや心理学用語なんて非難の意味でつかわれやすいものだ。

 恋愛依存症というのは病気なのだろうか。だれかを愛したり、親密になろうという欲求は度を越したり、依存の形態に見えたりしがちだと思うが、これを病気だとジャッジするまなざしというのはますます人とのつながりの遮断や孤立をうながしてはしまわないかと思う。依存症という概念が人間関係の破壊に向かうとするのなら問題である。







   人の恋愛パターンは決まっている?       2003/10/13


 恋愛のかたちは千差万別にみえるものだが、いくつかの基本的なパターンにおさまってしまうとしたらどうだろう。自分の恋愛タイプやめざしているものがより見えやすくなるのではないだろうか。

 ということで恋愛パターンの基本型を提示した三冊の本からぬきだしてみよう。マルシア・ミルマン『セブン・ラブ・アディクション』、秋月菜央『娘の恋愛タイプは母親で決まる』、倉田真由美『だめ恋愛脱出講座』からである。

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 まずは『セブン・ラブ・アディクション』(実業之日本社)からで、著者のマルシア・ミルマンは映画や小説、リポートから七つの基本型をとりだしてみせた。恋愛の目的はパートナーと幸せに暮らすことではなくて、幼少期の親とのトラウマや喪失感を克服する願望がこめられているという。

 初恋型ラブストーリーは親からの自立をめざし、ために親の反対にあう人をわざと選んだりする。ヤンキーの恋愛タイプかもしれない。

 師弟愛型は映画『マイ・フェア・レディ』のような恋愛が師弟のかたちになっているものである。教師に魅かれるようなタイプだろう。

 ストーカー愛型はふられたり見捨てられたりすると憎悪を相手や自分に向けるタイプである。こういう人たちは幼児期の喪失感からわざと見捨てられる相手を選んでしまうそうである。でもこれはタイプというより、愛を強く信じる文化や社会の問題ともいえなくもないと思うが。

 シンデレラ型はご存知、玉の輿にのる話で、『プリティ・ウーマン』や『ジェイン・エア』などに描かれている。尊大な父親に見捨てられた気持ちを味わった娘は、拒絶体験を焼き直すために、カネや力をもつ尊大な男にひかれてゆくのである。

 自己犠牲型は情熱のおもむくままに行動することを怖れるタイプで、実らぬ愛を思い出にしまいこむことに理想をみいだしている。

 救済型は幼児期に親に問題があり、親の面倒をみたり、困った人を救うという役割が身についたために、傷ついた人をとことん愛してしまうというパターンにおちいる人の物語である。傷ついた人は人のたよりが必要なために彼女を見捨てたりしないので安心できるのである。

 先送り型は恋愛や結婚をさけることで時間の針がとめられると思っている人たちのことである。しかし時は過ぎ去り、ほんとうに人を愛する人だけが真の人生を送ることができるのである。

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 つぎは秋月菜央の『娘の恋愛タイプは母親で決まる』(二見書房)で、まあ母親をお手本にしたり、母との関係が人との関係の基本になるのは当たり前だと思う。六つのタイプがあげられていて、なるほどなとうなる。

 雪女タイプは気持ちを素直に伝えられず、このような子は自我や意志をもぐら叩きのように否定する母親に育てられる。

 足長おじさんを待望する不倫をくりかえす女性は、甘やかす母親に育てられる。依存心が強く自信がもてない大人になり、たえず甘えられるたよれる既婚男にひかれてゆくというわけだ。

 男をつぎつぎと切り捨ててゆくかぐや姫タイプは、自我も個性も呑み尽くすブラックホールのような母親をもち、人を人間性や心ではなく、世間的な評価でしかはかれなくなる。

 つくしたあげくに捨てられる鶴の恩返しタイプは、人の役に立たなければ生きている資格がないと思い込んでいる。控え目な女性の役割を押しつけられて育ったせいである。

 嫉妬と怒りで愛を破壊してしまう西大后タイプは、自分のかわいそうな境遇を娘に嘆きつづける母親への怒りを抑圧したためになってしまう。恋愛関係というのは感情の扉をあける作業のようなもので、彼女は自分のはげしい感情とはじめてつきあうことになるのである。

 マッチ売り少女タイプは母親からの暴力的なおしおきのために愛を信じられなく、愛を試したり、確かめないと気がすまなくなるので、関係を破壊してしまう。

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 さいごは倉田真由美 岩月謙司『だめ恋愛脱出講座』(青春出版社)からで、だめ恋愛におちいる7タイプが紹介されている。

 思い残し症候群タイプは不倫や掠奪愛が多く、これは妻のいる男を魅かれるということは、幼少期の父の愛のとりもどしになるというわけだ。

 DSSタイプは浮気性、借金魔、暴力男など典型的なだめ男に魅かれるタイプで、人質が犯人を好きになるストックホルム・シンドロームにかかっているから、最低の父親のような男にくっついてしまうということである。

 幸せ恐怖症タイプは母親からの嫉妬を避けるために自分の幸福を避けるそうである。

 執着恋愛タイプは独占欲や嫉妬心が強く、セクシーな格好をし、お金や学歴の執着が強い。愛や信頼を信じられず、必要的、道具的な関係しか結べない。

 セックス妄想タイプは幼少期に父からセクハラをうけた可能性があり、男性不信と嫌悪をもっており、セックス依存症か処女のままになる。

 男性改造タイプは世話女房タイプで、アル中などのだめ男につくし、それによって自分が見捨てられないことと、優越感をえているという。

 男性破壊願望タイプは男の幸福を破壊したがり、復讐の対象としている。愛されなかった父への復讐をおこなっているということだ。

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 人の恋愛のかたちはみえないし、自分の恋愛のパターンというものもよく自覚できないものである。こういうタイプでくくられることは見通しをよくする。ただ心理学的というよりか、タイプ占い的な要素もないといえないが。人の恋愛のパターンってそうかんたんにくくれるものか、基本類型からはずれる行為のほうが多いんではないかと思ったりする。

 まあ、頭の中で整理するために恋愛パターンをかんたんにぬきだしてみたが、吟味・検討はこれからじっくりとしてゆくことにしよう。








   恋愛と幼少期・愛の妄想・嫉妬について      2003/11/12


 いまは恋愛に関する本を山ほど読んでいるが、私には語れることはほとんどないし、いつものように謎や疑問を解いてみたいと思うテーマもほとんど思い浮かばない。まあ、ほとんど謙虚に学ぶ以外はない。

 ▼いくつか考えたいことがあるとすれば、まずは恋愛とは幼少期の親の喪失感やトラウマを克服する試みであるかということである。

 幼少期にわれわれは親に愛されて全能感をもつわけだが、それが欠損していたり、大きくなるにしたがって失われたそれをとりもどす試みが恋愛であるというのだ。もし親から愛されなかったり、ゆがんだ愛しか与えられないと、その子はその愛のかたちを反復強迫することになる。大人のうまくいかない恋愛にはこのような原因が潜んでいるのだという。

 たしかに愛の関係や人間関係の基礎は親との関係から生まれてくるものだろう。人に接する態度も親との関係が原型にあるのは納得できる。愛を拒否されたり、ゆがんだ愛しか与えられなければ、その子どもは大人になって同じ行動か関係をくり返す怖れがある。

 愛情というのは無意識の感情であるから、理性のコントロールの効きにくいところにある。恋愛の関係には無意識に親との関係がくり返されている可能性があるわけである。もし大人になって同じ失敗ばかりくり返す恋愛パターンに陥っているとするのなら、親との失敗した関係を疑ってみるべきなのだろう。

 私は女性を好きになって目と目が通じ合うようになってもぜんぜん誘う勇気が出てこないという悔恨を何度もくりかえした。たんなる臆病者とか根性なしなのだろうが、友だち関係でも受け身的な性格だったので、これは親との関係からつくられたのだろうか。親から束縛されたり、のみこまれたりする怖れが強く、恋愛関係にしり込みするのだろうか。

 私がいま好きになった女性は好意のある誘惑をしておきながら私が好意をもって近づくと拒絶して私をつきおとすという恋愛パターンをもっているようで私はたいへん痛い想いをしている。親に愛をもって近づくと拒絶される体験をくりかえしたのか、それともそのような男性との失恋体験があるのか、私の謎は深まるばかりである。たぶん私の愛情表現が足りないために彼女は不満と怒りだらけになって私を拒絶するのだろう。


 ▼もうひとつ恋愛に関して気にかかっていることは、人は恋すると好きな人のことや過去のことをあれこれと思い巡らすことになるのだが、思考や過去の反芻の習慣は、人を不幸に陥れないかということだ。

 禅や仏教の考え方によると、人が不幸なのは思考や過去という幻想を現実にあるものだと見なしてしまうからだという。この考え方にならうと思考や過去や感情にぐちゃぐちゃにふりまわされる恋愛感情というのはずいぶんと苦しいものにならざるをえない。もちろん楽しく最高にハッピーな回想もできるわけだが、どちらかといえば、心配や不安のほうが多い場合もある。

 恋愛しているときはいま目の前に存在しない愛する人のことを想わなければ恋愛しているとはいえない。また愛する人との過去や行動を反芻して喜んだり不安になったりするのが恋愛というものだ。

 禅や仏教の「妄想を排して、いま、この瞬間のみを生きる」という心の平安とは程遠いところに恋愛はあるといえる。心を捨てて恋愛はできるのだろうか、と私は迷ったのだが、とりあえずは妄想と過去の反芻を選んでしまいたいと思うのが人情というものだろう。


 ▼あと一点、嫉妬について考えてみたい。いまは女性の貞操観念がほとんど問われなくなって複数の男性とつき合うことが当たり前の時代になり、男は女性の貞操を信じられる時代から一気に疑惑と嫉妬の時代につきおとされたといえるのであり、これから男は嫉妬という感情にうまくつきあっていかなければならなくなったわけである。

 愛している女性がいぜんほかの男と愛し合ったり、セックスしていたと思い浮かべることはたいそうツライことである。愛している妻がほかの男と不倫に陥っていると想像することはかなり痛いことだろう。

 このような疑惑は「浮気は男の甲斐性」といわれ、女性のみが我慢していた時代から、男女双方が背負わなければならない痛みとなったわけである。いまだって離婚のいちばん大きい理由は夫の浮気である。浮気はとてつもない心痛をもたらすものであることはいまもむかしも変わらない。

 これは結婚やつきあうことが愛情という感情におかれていることに痛みの大きな原因があるのだろう。たとえば結婚が政略結婚や完全な経済的理由のみからなされるものであったり、つきあうことが性欲のみの解消であったとするのなら、浮気や不倫はそんなに痛手とはならないはずである。愛するとはほかの異性と関係を結ばないという約束であり、浮気はその信頼を裏切るからつらいのである。愛という約束が自分を傷つけるのである。

 「愛に生きる」という恋愛至上主義の時代が、一夫一婦制の愛情観――つまり一生ひとりの人を愛しつづけるという愛のありかたを傷つけているのである。人は結婚してもほかの人を愛してしまうのは人の性のようである。もし終身婚を守り通すことより、恋愛感情のほうが大事であるという観念が支配的になると、生涯愛というのはかんたんに吹き飛ばされてしまうだろう。恋愛至上主義がひとつの愛を駆逐してしまうのである。

 これから愛のために愛する人をつぎつぎと変えてしまうような時代になってゆくのだろうか。だとしたらわれわれの愛は疑惑と嫉妬のかたまりと化すことだろう。

 嫉妬の地獄のような苦しみを味わいたくなかったら、われわれはせいぜい諦念するしかないだろう。心や愛情というものは「所有」し、つなぎとめておくことはできないこと、愛情というのはいつも変わらずひとりに向かいつづけることは少ないということ、などいろいろ対応策が考えられるだろう。愛についての永遠に近い期待はかえって自分に向ける刃となりかねないのである。

 それでは愛を信じてはならないのだろうか。せいぜい限定期間つきの愛、愛している瞬間のみを大切にする、といったものにしか信をおくしかないのかもしれない。男と女の遺伝子的戦略を解明する社会生物学なんかも、嫉妬の諦念をいさめてくれるかもしれない。

 われわれは恋愛の自由競争の時代において疑惑や嫉妬の苦しみより、心の平安を選ぶべきなのである。疑惑や嫉妬というのはどこにも存在しない妄想のことである。


 ▼愛と憎しみは一体のものだといわれるが、なぜだかわかった。愛しているがゆえに憎しみは生まれる。

 愛しているからこそ心配が大きくなる、愛しているから期待がふくらみ失望や幻滅を感じる、愛しているがゆえに嫉妬に苦しみ、憎しみに変わる。

 愛は相手に過剰な期待や親密さを要求し、依存を生み出す。したがってそれは失望や幻滅をかならず生み出すことになり、憎しみに転化する。

 過剰な期待をやめよといってもムリな話だろう。愛しているものにそんな言葉は通じないだろう。そして愛は憎しみに変わり、愛は終わる。






 みなさん、おひさしぶりです。またははじめまして。
 このHPは1997年12月からはじめられ、ことしの8月からプロバイダー消滅のため、3ヶ月のブランクをいただいたあと、帰ってまいりました。

 お待ちになってくださった方には(少ないと思われますが)、たいへんながらくお待たせしましてどーもスミマセン。HPアドレス変更やメール・アドレス変更などたいへんご迷惑をおかけします。

 このHPは社会や心理についてのエッセイや書評をメインにしております。過去の文章量は膨大なものになっておりますが、あなたの関心と合致したものが見つかれば幸いです。

 これからもゆっくりとしたテンポで更新してゆきたいと思いますが、この『考えるための断想集』をよろしくお願いします。

うえしん 2003/11/3


あなたのご意見・ご感想ぜひお待ちしております!
   ues@leo.interq.or.jp

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『セブン・ラブ・アディクション』 マルシア・ミルマン 実業之日本社セブン・ラブ・アディクション―なぜ失恋はクセになるのか









『娘の恋愛タイプは母親で決まる』 秋月菜央 二見書房
娘の恋愛タイプは母親で決まる




『くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座』 青春出版社
くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座



『マイ・フェア・レディ』



『プリティ・ウーマン』




『ジェイン・エア』 集英社文庫
ジェイン・エア
   
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