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■030716断想集





    誘惑する女       2003/7/16


 私が高校のときにはオヤジが女子高生のナマ足に興奮するというのがよくわからなかったが、私も年をとるごとに女性への視線が顔から下に降りてゆくのがわかるようになった。

 若いときにはオッサンみたいに女性の体をじろじろとなめまわすように見つめるのは失礼だと思って身体への視線は控え目にしていたが、いまではオッサンになった私はついつい女性のからだをながめまわすようになったし、女性のほうもそういう視線にはけっこう敏感で、女として認められることにはそんなに不快感をもっていないのではないかと思う。

 いまでは女性のファッションはずいぶんと解放されているようになったと思う。昨今ではチビTで胸のふくらみをぴっちりと強調しているし、おしりもぴったりしたジーンズでその丸々しさをうきあがらせている。性的誇示というものがずいぶんおおっぴらになったものだ。

 男としては女性は自分の女らしいからだを強調するのは恥ずかしくて隠したがるものだと思い込みたいものだから、女性のスカートからのぞく素足やブラウスから透けて見えるブラジャーの線に興奮したのである。性的身体、性的欲望は隠されるこそ少しでもそれがのぞけば、男の興奮を誘ったのである。

 いまは隠そうとしない。かなりおおっぴらに強調している。Tシャツもジーンズも胸とおしりのふくらみをぴっちりと誇示している。もちろんこれらも服によって隠されているわけだから、男の欲望を誘う。いぜんは女性の羞恥心に男は興奮していたが、いまは女性の欲望に欲望するのである。

 女性の夏のファッションがこれほどセクシーに解放されたのはやはりここ十年の話ではないかと思う。バブル期にはからだの線を強調したボディコンのファッションが流行ったが、なんだかあのころの格好は男を誘惑するというよりか、女性同士が肩肘はって競争しているイカツい感じがしたものだ。

 ひところ女性のタンクトップ姿をよく見かけたが、これもけっこう大胆だったと思う。ただまだゆるめだったと思う。キャミソールはいまいち子どもっぽかったっけ。しかし去年はチビTで胸のふくらみがしっかりと誇示されるようになり、スカートは減ってナマ足より、ジーンズのおしりのほうが強調されるようになった。素肌を見せるより女性らしいふくらみが服に隠されつつ薄い素材で強調されている。

 ただこれは女性の性的身体が誇示されているといっても、直接的な男性への性的行為のお誘いというわけではない。ファッションである。カッコよく、洗練された流行のファッションに身を包んでいたいということだけなのだろう。性的欲望というより、社会的承認欲がなせるものなのだろう。

 街中でセクシーな格好をするのはひとりの愛する男だけに見せるわけではなく、不特定多数の人に見られるわけだから、女性として見られる存在になりたい、女として認められたいという気持ちのあらわれなのだろう。女として魅力的な欲望される対象になりたいというわけである。女性は性的快楽よりこちらの欲望が強いのだろうか。

 これだけからだを強調したファッションが流行れば、女性の欲望が解放されたと思いがちだが、ファッションと性欲はちがう。肌をあらわにした女性がすぐにからだを許すわけではないし、イタリアやどこかの外国のように見知らぬ男が女性の美しさに声をかけるわけではもない。日本は愛には解放的でも性ではまだまだ禁欲的なのである。素肌や身体の解放は性の解放ではない。性とはまだまだ経済であり、資産であり、財産であり、所有なのである。

 女性は女としての社会的価値を街なかで誇示している。女の競争は徒党を組んで同じファッションとしての性的競争をくりひろげる。男は女性のそういう身体露出を目で楽しむのだが、グラビア・ページの女性のように手を触れることもできない。

 私たちの社会は欲望を煽る社会である。人々が叶わない欲望に欲求不満になればなるほど経済や社会は活力と成長力にあふれる。女性は消費社会の広告塔みたいなものだ。男は所有できない女のハダカにそそらされて経済の歯車を走りつづける。幸せな社会なのかなあと思う。女たちは娼婦たちよりお高いのである。







    発情と同意      2003/7/21


 発情というのは一方的で個人的なものである。異性のからだを見たり、エロティックな雑誌や物語を見たり、あるいはしぜんにからだが熱くなったりして発情するが、対象や相手がいつも同時に発情するわけではない。

 その性欲を満たすためには相手の同意や合意が必要なわけだが、人間の性欲というのはどうもそれを形成する前に完結することが多い。

 性犯罪はそういう一方的な発情と合意のなさから起こる。痴漢、盗撮、下着泥棒、セクシャル・ハラスメント、レイプ、幼児性愛といったものは相手の同意が無視か蹂躪されている。同意があれば犯罪ではなくなるものもあるのだが、幼児性愛は性的同意を求めるのは不可能である。

 どうも人間は求愛のダンスを踊るのがへたなようである。もっといえば、相手の意志や合意を蹂躪することに快楽を覚える向きがあるようだ。拒まれているもの、隠されているもの、秘せられているもの、を蹂躪するのが好きなようである。性自体に相手の意志を尊重しない「犯罪的」なものがふくまれているといえるのかもしれない。

 だれもがご存知と思うが発情を解消する相手を見つけるのはかんたんなことではない。規範もあるし、相手の好き嫌いもあるし、羞恥心や自己体裁もあり、ふさわしくない時と場所もある。

 満たされない性欲はそもそも相手の同意をまったく考慮に入れない盗撮や下着泥棒のような間接的なものに固着するかもしれない。一方的な実力行使におよぶレイプやセクハラに走るかもしれない。

 同意があればいいというわけではない。これらの行為は同意があればその快楽はかなり落ちるだろうからだ。隠れてイケナイことをしたり、禁止された行為を犯すからこそ快楽がある。意志や同意をハナから考慮に入れない快楽なのである。

 性欲とは強いものである。相手の同意や合意をいくつもの段階や方法をへて性欲の解消を得るのはかなりわずらわしいものである。つきあげてくる性欲をどうするか。相手の合意や同意を無視することになったり、相手の尊重を剥奪することに快楽をみいだようになるかもしれない。

 人間はなんでも自分の好きなときに好きなものを手に入れ、自由にし、支配したいものである。モノを買うという行為もそうである。性対象も相手に意志や心があるというよりか、モノや手段であったほうがよりかんたんに手に入れやすい。性欲というのは一方的で個人的なものなのである。

 人間の社会はこの一方的な発情を規範や道徳で抑えようとしてきた。相手の尊重のないものを非難したり犯罪としてきた。しかし発情は個人的なもので相手の発情とかかわりなく発動するもので、発情自体が他者を尊重したものではないのである。

 合意のえたセックスでさえ不倫や禁止された快楽が好まれる。社会規範の尊重の無視や掟破りというのが、性の快楽を増すみたいである。性欲というのは社会の尊重を蹴破ることに快楽があり、それだけ性欲を増すことができ、愛の強さを証明することができるのである。

 社会で尊重されるものが、ぎゃくに快楽を呼び誘うとは皮肉なものである。性欲というのは道徳的たりえるのか。







   子育て、生活、快楽のためのセックス    2003/7/28


 ほぼ推測の域を出ないのだが、セックスを目的別に分けると、子育てのためのセックス、生活のためのセックス、快楽のためのセックスに分けられるのではないかとしよう。

 子育てのセックスは子育ての期間中男をつなぎとめておくためのセックス、生活のためのセックスは扶養されるためのセックス、快楽のためのセックスはただ快楽のみを目的としたセックス。子育てと生活のためのセックスは結婚として重なり合うものである。

 現代日本のセックスは子育てと扶養のための交換条件がおもなものとなっている。セックスは目的ではなく、養われるための手段である。セックスは売買もしくは取り引きされるものとなっている。

 重要なのは子育である。子どもがとても大事になり、男女関係の中心になっている。男と女は子どものために父親と母親になり、男と女でなくなる。エロスを失い、性的匂いを消去した家庭がよいものとされている。

 子育てと子どもが中心になると、男と女はエロスを失わざるをえない。女がほかの男に色目を使っているようでは子育てから目が削がれるし、男はほかの女に目がくらめば家庭に稼ぎを入れなくなる。マジメでまっとうな家庭にはエロスの匂いはあってはならないのである。

 男と女のエロスより子育てが重要になったのは、教育が重要になったからだろう。社会で大人になるためには高等な教育が必要である。子どもが成人するまで親たちは関係をつづけなければならない。一夫一婦制をキマジメに守りながら長い間に男と女であることをやめてゆく。異性に魅せることをやめたオバサン・オヤジが大量に生産されることになる。

 むかしの早くから子どもが働く社会では男と女は現代のように貞操を守り、エロスを失いながらもともに暮らしつづける必要はあまりなかっただろう。魅力のない異性につなぎとめられる必要はなかったからだ。江戸時代より前の日本は処女も貞操もまるで重んじられなかったそうだが、現代のようにセックスがなんらかの交換条件ではなく、快楽や楽しみとして独立していたからだろう。農作豊穣の意味もあっただろうが。

 国家も他国と経済力や軍事力を競おうとすれば、国民の教育と管理に力を入れようとするものである。子どもにさまざまな負担がかかるようになれば、男と女も長く協力せざるをえない。貞操と一夫一婦制、または近代以前の放埓な性の禁止はそのような理由によって強力に奨励されたのだろう。

 子育てと生活のためのセックスは「愛」とよばれている。快楽のためのセックスは「淫乱」や「「変態」とよばれている。われわれは性欲を恋人や夫婦にしか感じてはならず、街で出会う魅力的な異性には欲情してはならないのである。性は子育てと生活、つまり金と愛が結びついていないと発情してはならないものとなった。

 現代のセックスというのは子育てや生活、金や愛などといろいろ結びついており、交換される財となっている。セックスは金や愛から独立した純粋な快楽や楽しみとして味わわれることはない。セックスは商品であり、取り引きされる財である。セックスとはひじょうに資本主義的であり、市場経済そのものである。

 セックスは金の成る木である。カネである。だれもが性を売り渡し、買い、利益や便益を得ている。それは愛というすばらしい名のもとになぜか実態を隠されている。われわれは強欲になるカネを軽蔑しているから、聖なるオブラートでうやむやにしたいのだろう。

 カネや交換の貫徹した関係が汚いと思うのなら、正直な性欲の関係のほうがよほど純粋に思える。快楽のためのセックスは金も愛も見返りもなにも要求しない。ただ性の快楽を求めるためだけにある。性のモラルというのはほんとうに道徳的なのかわからなくなる。






  重要なお知らせ 2003/7/10
 プロバイダが8/10に終了することになりました。
 よってこのHPも消滅することになりました。
 引っ越し先を探すつもりですが、プロバイダ選びはかなりややこしいようになっているようなので、いつ決まるかもわかりません。データ送信も一からやり直すのはたいへん難作業です。
 でもなるべく早く復活するつもりです。
 もし引っ越し先を知りたい方がおられましたら、メールをいただければ、決まりしだいお知らせすることもできます。
 もちろんサーチ・エンジンで検索することも可能ですよ。





 みなさん、さようなら。
 当HPを永らくご愛顧いただきありかとうございました。

 しばらくブランクをいただきます。
 いつか復活するつもりですが、予定はまだ未定です。
 HPの移転先の連絡を待ってくださる何名かの心優しき人たちのためにも必ず復活したいと思います。

 それまではこのHPはみなさんともお別れです。
 ほんとうに長い間、私の拙い思索につきあってくださいまして、どうもありがとうございました。

                      2003/8/7 うえしん


ご意見、ご感想お待ちしております。
 ueshin@gin.or.jp



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