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■0305017断想集





   反抗することと近代主義       2003/5/17


 若いときには大人のすることなすことに関して反抗や否定の怒りに燃えていたのだが、いまからして思えばどうしてこう大人のことが気に食わなかったのだろうかと思う。

 サラリーマンなんかなりたくなかったし、かれらの好きな俗っぽい野球とかゴルフなんかも嫌いだったし、酔っ払いサラリーマンも軽蔑していたし、寅さんとかサザエさんとかみんなが好むものも嫌いだった。いろんなものに反抗していた。

 私は人にたいして怒りっぽかったり、グチったりするタイプではなかったのだが、大人やみんなのすることにたいしての反抗心だけはやたら強かった。なぜこんなにいろんなものにたいして反抗していたのだろうか。

 これは流行のメカニズムと似ていると思う。流行というのはだいたい前の世代の流行を否定することによってあらたな流行がつくられる。ファッションではトラディショナルな格好が流行れば、つぎにはカジュアルが流行るといったふうに。前の世代の反抗や否定があたらしい流行をうみだすのである。

 反抗や否定というのは新商品開発のテクニックと同じである。既製品の短所を否定することにより新商品をうみだす。つまり大人への反抗というのは新商品開発意識のめばえであったということだ。

 大きな時代の流れにかんしてもそうで、過去を否定することにより近代主義や進歩主義は進んできたといえる。反抗や否定というのは近代主義の原動力・エンジンなのである。

 ただ、私のばあい、反抗のための反抗、否定のための否定、あるいは反抗や否定こそが自分のアイデンティティと思いこむようなきらいもあった。みんなに反逆することによって「自分は違う。自分は特別だ。みんなとは同じではない」と得意になっていたように思う。まるでコマーシャルみたいな世界だ。反抗は優越感を満足させる。ついでに新商品の購買欲を燃やさせる。

 反抗こそが自分のアイデンティティというのはあまり大人の態度ではないのだろう。主流や大方の人から逸れることが特別というのは、おおぜいの人たちが存在しないと成立しない。永遠の片割れみたいなもので、主流に依存している。自分が特別なのはおおぜいの比較して軽蔑できる順応主義者がいてくれるおかげである。

 子どもは中学くらいになると教師や親に対して反抗をはじめ、不良や非行に走る。従順なほかの生徒にたいして反逆する自分の特別さをアピールする。反逆は自分の優越性のコマーシャルである。ヤンキーは結婚するのが早い。

 青年の反抗期というのは親や家庭からの自立や独立のためには役立つのだろうが、市場のコマーシャリズムにいくぶんかあおられている部分も冷静にながめればあるのだろう。マスコミは大人を叩く。バカにする。子どもはそんな大人になりたくないと思う。そして親よりもっとよい消費を、新商品を購買しようと思う。反抗とはよい商売戦略なのである。近代というのは永遠の反抗期といってもよいのかもしれない。

 近代がとりわけ目の仇にするのは模倣や隷属、服従に屈することである。順応主義や迎合主義は許せないのである。反逆や反抗してくれないと消費も新商品購買意欲もふるわないというわけなのか。

 近代はなぜこうもすべてを政治的見解に収斂させてしまうのだろうか。尊敬や崇拝、権威や畏怖はすべて隷属として忌避される。これも流行や新商品開発の商業戦略なのだろうか。隷属や服従する者はあまりにも消費意欲が低いのか。親や大人、権威に反抗してくれないと、新商品は売れないということなのか。

 反抗や否定というのは他者にたいする態度のみではなくて、自己に対する態度でもある。反抗するものは自分の欠けているところ、悪いところばかりほじくりだし、責めさいなみ、その面ばかりに固着する。つまりはネガティヴ思考や悲観的思考というもののとりこになるわけである。社会や政治にたいする思考の枠組みは自分の上にもとうぜん適用される。かれは自己も拷問にかけつづけるのである。

 反抗や否定というのは自己を呪い、世界を怨むことである。対象に対する態度というのは自己に対する態度である。それは自己固有の世界像であり、自己のことである。反抗する者は自己を受け入れることができず、愛することもできない。かれはなにごとも許すことができず、受け入れられないのである。

 世界をありのまま受容する者は近代の反逆者にとっては盲従や服従の敗北の烙印を押される者である。屈辱的な者なのである。そういうふうに宣告された者は自己の欠如感を新商品購買によっておぎなおうとし、そして世界の欠点ばかりを見つめるようになり、りっぱな不満たらたらの近代消費主義者、ネガティヴィストとなる。

 幸福なことなのだろうか。世の中を怨まず、嘆かず、悲しまず、ただ受け入れる態度というのはこの近代経済社会にとっては育ててはいけないのだろうか。反抗と否定のイデオロギー、いやコマーシャリズムは私たちを幸せにするのか警戒すべきである。







   欲望の否定主義は幸福か       2003/6/1


 知識人やとくに聖人とよばれる人は他人の欲望が嫌いである。欲望を否定し、非難し、蔑視し、壊滅させようとする。

 他人の性欲や金銭欲、消費欲、名誉欲、支配欲、同調欲などをとにかく徹底的にたたく。それらを否定すればたしかに賢者になれるのかもしれないが、本人は幸せになれるのかなと思う。

 たしかにそれらは幻滅や不幸を最終的にもたらすものかもしれない。しかしハナから人間の欲望や自然さを否定することは虚構の理想論にしか過ぎないのではないか。

 人間の愚かさや醜さを否定することはたんなる個人の好悪感情ではないのか。もし他人の憎悪や嫌悪から理想がうみだされているとしたのなら、あまり立派な賢者とはいえないだろう。怒りに凝り固まった潔癖主義者にしか過ぎない。

 人間は他人の欲望が嫌いなんだろう。とくに成就した欲望が。そこに他人の醜さをみた私は自分の欲望を否定して愚かさから脱却しようとする。人からは評価されるかもしれないが、自己の自然さを排斥しようとする私は幸せなのだろうか。

 道徳は他人の欲望嫌いからうみだされるものなのだろうか。醜い他人の欲望を抑えなければならないということなのか。

 他人の欲望を否定した者は自分の欲望も否定する。愚かさや醜さからは超越して名誉欲は満足させられるかもしれないが、かれはみずからの醜さや愚かさ、欲望という自然さも排斥しなければならない。自己の否定がおこなわれるわけだ。

 かれは自分を嫌いにならないか。自分に憎悪を燃やせないか。欲望や醜さ、愚かさをもった自分に愛想をつかさないか。ありのままや自然さの否定は自己への憎しみを生むのである。

 憎しみに満ちた人間は賢者とよばれるものだろうか。欲望や自然さを否定した人間は幸せなのだろうか。

 世界はありのままで肯定し、受容することが大切である。認め、許し、うけいれることでわれわれは自分を愛することができ、容認することができる。自己の否定は幸福の破壊である。

 ハナから欲望や醜さを否定するのはよくないのだろう。それらの存在を自分にもあることを認めることが大切である。

 ただそのあと欲望を無条件に肯定するほうがよいのか私にはよくわからない。他者や自己の欲望を否定しないことが肝要としかいえない。それは世界への憎悪を生み出すだけだからだ。

 私は他者の欲望嫌悪から自己への憎悪に向かわないことを願うだけである。

 欲望の否定は人を賢人にみせかけるかもしれないが、欲望のまったくの拒絶は自己や世界の憎悪に転化してしまうかもしれないのである。自分を愛せず、他人の欲望に憎悪を燃やす人が幸福になれるのだろうか。







    精神的な愛と肉体的な欲      2003/6/7


 精神的な愛が称揚され、肉体的な欲が軽蔑されているが、精神的な愛とはそんなにすばらしいもので、肉欲は人間のあるまじき欲望なのか。

 愛と性欲の分け方は近代西洋のお得意ワザである。文明と野蛮、理性と本能、知性と無知、その他もろもろ。近代西洋はそうやって知性や文明を肯定し、本能や性を否定して侮蔑してきた。そういう二元論にひれふすのが後進国日本の文明開化だったわけだ。

 知性や言葉というのはとにかく肯定するものと否定するものを分節化するのが好きらしい。文明と動物的なものを分け、未分化なものを貶める。そういうヒエラルキーの中で尻をたたかれる。

 精神的な愛、ひとりの人を愛しつづける終身愛がすばらしいものだとされているが、人間の性欲や欲望というのはそんなキレイ事ですむものかと思う。精神的な愛とか恋愛というのはウソっぽくて、欺瞞ぽくはないか。

 人間はただやりたいだけとはいえないか。精神的な愛とか恋愛というのは性欲の欺瞞ぽいオブラートではないのか。性欲や性にそんな理屈や物語は必要なのだろうか。性はなぜ否定され、愛という物語が必要になったのだろうか。

 精神的な愛というのは肉体的な欲望の否定である。セックスの禁止である。文明や知性というのは制御・管理の拡大だから、動物的・本能的なものを排除しなければならない。言葉や知性のコントロール欲の延長に精神愛の肯定と性の否定があるのだろう。

 おそらく経済的要因もあるはずである。性の快楽や相手も所有されることになった。有料化になったのである。子どもが直接労働力にならない生業がふえるにしたがって産児制限の必要から性は所有化や有料化されていったのだろうか。

 女性は処女が価値あるものになり、貞節を誓うものになった。性は所有されるものになり、男に扶養義務がともなうことから、有料のものになった。精神的な愛というのは、おそらく処女と貞操のための商品装備なのだろう。

 ちかごろの女性は処女であることを恥かしいと思い、経験人数を競うようになってきたが、人気のバロメーター表示を欲しているようである。マスコミに「脅迫」されたり、恋愛産業に煽情されたりして、貞操は風前の灯火である。文明は「進歩」したのだろうか、「退歩」したのだろうか、あるいは崩壊寸前?

 処女の商品価値はどうなったのだろう? 精神的な愛や終身愛のイデオロギーは女性市場のなかでまだ盛んに流されているはずである。終身婚をのぞむ女性も多い。貞操のタガのはずれた女性という表象はマスコミの煽情なのか。分明と野蛮は二極分化しているのか。

 ぎゃくに男のほうが貞操にこだわる者が多かったりする。処女願望は男の貞操を守らせるのである。また男には経済的負担や責任がともない、男はますます性交渉相手から遠ざかりそうである。文明の砦は男に保守されるのみになるのか。

 男には文明の問い直しが必要なのかもしれない。精神の愛や人格の思慕、経済的責任といった文明の至上のイデオロギーを投げ捨てて、貶めてきた性欲や野蛮の肯定からはじめなければならないのかもしれない。女はとっくにポスト・モダンし、男だけが幻想の文明の砦にとりのこされているのかもしれない。







   人格愛なんていらない?       2003/6/21


 ひとりの人を愛し、人格を深く思慕することがよいことだとされているが、これはあまり性欲と結びつかない。人格愛というのは性の対象となりにくい。「神」になってしまう。触れてはならないもの、壊れやすいもの、汚してはならないものとなってしまう。

 ひとりの人を愛すればするほど性的な対象から遠ざかる。十代のころといえば性衝動のかたまりみたいなものだが、人格愛はその水路を遮断してしまう。人格愛という恋愛観は不自然なイデオロギーだと思う。

 男には責任がつきまとう。経済的責任や生活保障、ときには幸福の責任まで背負わされる。ひとりの女を愛すれば愛するほどその責任の重さに男は恐れをなして女から逃げる。

 いまの男は人格愛や経済的責任を背負えば背負うほど、性のハケ口を見出せなくなっているのではないかと思う。人に対してまじめであればあるほど性欲を満たされないのである。

 男は人格愛と結婚によってかなりの重荷に縛られているのではないか。女ばかりではない。男は精神とカネの重みでつぶされようとしている。もちろん男の中にはそれをバネにがんばる者もいるし、そんなことに拘泥しない者も多いのだろう。

 男にとって人格愛と経済的責任のくびきから解放されればどんなにラクなことだろう。こんなイデオロギーや道徳感、責任感を守らせているものとはいったいなんなのだろう?

 人格愛というのは幼少のころからのマンガやドラマ、映画、音楽の刷り込みの影響がかなり大きい。なぜどいつもこいつもバカのひとつ覚えみたいに「恋愛教」を流布するのだろう。人間の強い性衝動を排他的な私的所有のワクに押し込めるためなのだろうか。要は所有権の大切さをうたっているのか。

 人格愛というのは経済保障のことである。愛のないセックスは快楽の充足があるだけで経済的見返りがない。つまり愛というのは長期的なカネの見返りがあるのかないのかということである。恋愛教はカネの関係を否定するが、残念ながらカネの関係が貫徹しているのは丸見えである。

 近代のシステムは性交の相手を経済保障というカネのある者だけに限定した。通勤電車と企業の誕生のおかげで、女性は生産の現場から切りはなされ、男の所有物になるしか生活の糧がなくなった。それで女性の性は夫専門に限定され、愛はその関係の増強神話なのだろう。

 女性の性は受動的なものとなり、夫婦に限定される近代的な規範がつづいたが、近年ではその逆転や崩壊がおこりだしている。もちろんこれは女性が収入の格差はかなり大きいにしろいくらかは稼げるようになったことと関係しているのだろう。

 女性は不自由で窮屈な性規範から、性の主体となりはじめている。つまりカネの関係で性が縛られる必要がなくなってきたということだ。性的自由を謳歌したい女性にはけっこうなことであろうし、経済的重荷にあえぐ男にとっても同じことだ。ただ経済的縛りを必要とする専業主婦的な性関係にとっては大きな脅威にうつることだろうが。

 人格愛という観念の虚構は消え去るだろうか? これはカネのない本能的性向は否定するという思想である。つまり性関係は売春にしろ夫婦にしろカネのかかわらない欲望充足の性関係は否定されるということである。このカネが関わることによって、われわれの性や愛といったものはどんなに歪み、迂遠されたものだろうか?

 もし近代的な意味での人格愛がなくなったとしても、性は暴力だけで満たされるわけではないだろう。愛がなくても性交自体にもいたわりや思いやりがあり、相手へのそれなしの快楽はないだろうからだ。

 カネの関係がしっかりと貫徹する人格愛より、快楽充足の性関係のほうがまだまともで自然なことではないかと思う。性や肉体、愛は経済的取引の手段であってはあまりにも下劣なことである。だから人格愛なんて信用できない。だがすべての女性に経済的自立がそなわっているわけなどないので、人格愛は早急に否定されるべきものでもないのだろう。






   性を汚らしいと思うのはなぜか     2003/6/29


 性は汚らしく、恥かしいもので、隠すものだと思われている。性欲のない人間は存在しないのに性はずいぶんと日陰者の存在だ。なぜ性は汚らしいものと刷り込みされているのか。

 子どものときに汚い物は手を触らないように教えられる。汚い物は自分と他人を分ける境界になる。たとえば他人の食器とか下着を使うことに汚らしさを感じるように自他の区別は汚さからうまれる。汚いという感情は所有の意識の原初である。

 性は他人との混交であり、融合である。所有が入り交じり、自他の区別ができなくなってしまう。汚いという感情を喚起することによって、性の所有の明確化を図らなければならないのだろう。とくに一夫一婦制の所有関係では他人の性を汚く思わなければならない。

 また性欲というのは強い衝動であり、利己的なものである。利己的なものは金儲けにしろ出世にしろ世間や他人から嫌われるものである。汚いやつと世間からののしられる。富にしろ地位にしろ性にしろ強欲なやつは他のものの利害や利益まで奪ってしまうと考えられるのだろう。性には汚らしさの網がかけられる。

 性欲のままにっ走る人間にはエロオヤジやパンパン(売女)、淫乱、公衆便所などの蔑称によって非難される。本能的なもの、利己的なものの突出が批判され、抑制が求められるのである。

 といっても人間の性は皮肉なことに禁止されたものを破ることによりおおくの快楽を感じるようになっている。禁断の愛、不倫、タブー。逆に禁止があるから性欲がある、燃え上がるといったほうがいいくらいだ。新たな禁止は快楽の塀を高くするのである。

 汚らしい性にも快楽はあるわけだ。隠すこと、羞恥心を暴くことにもずいぶん快楽がある。人間は禁止や隠蔽、蔑視により、よりおおくの観念の性の快楽を手に入れたのである。禁欲の果ての快楽に人類は痺れるようになったのだ。

 でもわれわれの意識にそういう回りくどい快楽の図式は目にみえない。性は汚く、恥かしいものという意識はどこかにあるし、羞恥や禁止の恐れにとらわれている。そういう禁断の網にはりめぐらされた性を救い出すのは愛という概念である。

 汚くいやらしい性に対して愛は神聖ですばらしいものと考えられている。していることは同じなのにである。特定の人とだけの性交は神聖なものになり、不特定の性交は貶められるものとなった。一組のカップルでいつづけてくれることは私有財産とぶつからない安全なルールなのだろう。

 しかし昨今では愛という観念は多数との性交の免罪符となっている。愛があるからセックスしてもよいというふうに性的快楽の論理に転化している。愛という名のもとの性は汚らしい性を駆逐したのである。しかし直情的な肉体関係は禁断の観念の快楽を増したとは思えないが。

 といっても性に汚らしさのイメージや羞恥がなくなったわけではない。われわれは社会での人格から性の面貌を拭い去らなければならない。性ばかり追いかけていたら物質的生産性が上がらなくなってしまうのだろう。文明というのは性や動物的なものを貶めたいものなのである。

 ただ性を否定するということは人間の生や命、人生を肯定していないといえる。性の侮蔑は人間性や生命の否定でもある。知性や頭脳は観念の帝国をつくりたがるものかもしれないが、生命や自然性を否定するのは幸福な考え方とはいえない。性を肯定して救い出す必要があるのかもしれない。







  性と愛の現在はどうなっているのか     2003/7/7


 さいきんセクシュアリティ関係の本ばかり読んでいるが、なにを問いたいのかも自分でもよくわからない。フェミニズム関係の本は多いが、社会学的分析の本はいまいち少ないのが呆気にとられる。てんで自分でも確信はもてないのだが、性愛の現在について暗中模索してみようと思う。

 マスメディアでは恋愛至上主義が席巻していると思うのだが、いっぽうでは処女嫌悪の風潮もあり、援助交際もあり、レディースコミックなど女性のポルノもふえてきた。プラトニックラブとか貞操とか一夫一婦制はどうなったのかと思う。

 困ったことに性に関する情報というのはAVやポルノばかりで、これらの産業は欲望を煽ることにあるのだからおおよそ冷静でも客観的でもない。それを標準だとか基準だか見なす人も出てくるわけで混乱もはなはだしい。

 欲望や基準が棚上げされれば、そこに劣等感や落ちこぼれ感が巣食うから人は意地でも上に行こうとする。AVやポルノのような淫乱女が現実の人の基準になるわけだ。ついでにファッション産業や化粧産業ももてない恐怖を煽れば儲かるわけだからそこに便乗する。メディアや広告に底上げされた女は淫乱街道まっしぐらに落ちる。

 ただ性的自由を享楽したいのは男女双方変わりはないだろう。男も女も性欲には違いはない。経済的格差による抑圧と神話があっただけだ。しかし双方が性欲の主体となったとき、これまでの男が買い、女が売る性関係はどうなるんだろうと思う。

 女の欲望が開花するのなら、男が養うという図式も崩れなければならない。性欲のない乙女だったからこそ男は欲望の代償を支払わなければならなかったからだ。女が欲望を解き放ち、なおかつプレゼントと扶養の義務を強要するというのは虫がよすぎる話だ。女が欲望を解放するということは、扶養される特権を捨て去ることだ。

 女はほんとうにこの特権を捨ててもよいと思っているのだろうか。女の結婚と主婦の願望はまだまだ根強いと思うのだが。いっぽうでは性的享楽の道も進んでおり、このあたりの倫理とか道徳はどうなっているのかと思う。

 男は愛と性を分けられるといわれてきたが、女もそのようになるのだろうか。愛する人と性欲をべつべつに捉えるわけである。そうすれば愛する人への思いと、性的欲望を割り切って考えることができる。結婚の安定と性的快楽が、旧来の男とおなじように両方手に入れることができる。

 女のこれまでの愛というのは生活保障のとりひきのことだった。愛や性的快楽のかわりに生活を養ってもらうという経済交換のことだった。これは愛ではない。経済取引である。

 なぜこれが愛とよばれ、信じることができたのだろう。おたがいの利益と受益が同等と錯覚できた幸福な時期があったのだろう。バブルのときには女のプレゼント高騰がおこり、露骨な金銭関係が露呈した。援助交際の女子高生も親がしているようにカネで買われてなぜ悪いと思ったのだろう。彼女たちのほうが正直であるともいえる。

 この交換が可能だったのは女が貞操を守ろうとし、社会の規範も厳しかったからだ。規範が厳しく、抑圧された欲望があるということは、商売のニーズがあるということだ。ポルノやAVというのはその間隙にうまれたものだろう。禁止や抑圧はまことに商売の生みの親である。

 ボルノやAVはすべて虚構の媒体である。つまり実体験や体感ではなく、観念や頭脳による興奮を売っている。本や社会計画、都市建造物のような観念や頭脳が重要になる文明では、性欲動すら脳みそを迂回しなければならないのである。セックスは五感や体感で感じるものではなく、脳で観念するものになった。知性に価値をおいた文明では観念によるセックス、またはオナニーのほうに価値がおかれるのである。

 抑圧された欲望はポルノ産業を生み、性欲は解放されてゆき、禁欲されたそれはふたたび解放されたものになってゆく。性が解放されたものになれば、観念の欲望はおしまいになるのか。いや、やはり観念の欲望は生身の快楽を上回ったままと考えるべきだろう。

 ポルノやAVの消費が膨大なものになるということはじっさいの性体験が疎外されているか、あるいは観念の快楽が優るということである。性は思われているほどそんなに解放されたものではないのだろう。

 恋愛至上主義は性の抑圧でもあるし、性を隠し立てし、恥かしいものとして斥ける風潮もあいかわらず強い。なによりも異性の所有の観念は強いものであるし、都市での見知らぬ人への接触はかなり強いタブーである。欲情させるためのポルノ産業が実態を覆い隠しているのだろうか。

 われわれの社会は性を全面的に公式に肯定しているわけではない。いつでも蔑視され、隠蔽され、羞恥されている。知性が肯定される社会では性は貶められる。性を人生や生命の肯定と捉える社会意識もない。そういった社会の中で欲情を煽るポルノ情報が実態を覆い隠している。私には現在の性関係は解放されているのか、保守化しているのか、男女の地位、金銭関係はどうなっているのか、かなりわからない。




■英文の迷惑メールが一週間に70通も入るようになりました。アメリカのネットビジネスはお盛んだなと思いますが、即削除するだけからどうにかならないかな〜、ホント。


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