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■030216断想集
 知識を批判してみる





   学校があるからこそ学習しない      2003/2/16


 専門家がいることは便利で効率的に思えるが、逆説的に個人からその専門能力を奪ってしまう。学校があるから、教師に教えてもらうまで学習しなかったり、学校に行かないと学習できないと思ったり、また学校に行かないと学習は完了しないと思ったり。学校はいちばん個人の学習能力を奪ったのである。

 学習というのは自発的に興味をもったものを追究することにいちばんの楽しみと実りがあると思う。学校や教師の存在というのは、いちばんさいしょの興味と自発性を奪うがゆえに、ただのデータを教えるだけのつまらない存在になってしまう。

 知識というのは与えられるだけならつまらない。自分で夢中になって掘らなければおもしろくない。これはネットでも知りたいと思うキーワードを自分で探し出したときにもあてはまるものだと思う。宝探しに通ずるものがある。

 私の読書とエッセイもまさに自分から知りたいと思い、自分から読みたいと思う本を見つけることによって、楽しみや喜びを増していると思う。学校で教えられて与えられる知識ならたぶんこんなにはおもしろくもなく、興味もつづかなかったと思う。

 また学校はイリイチがいっているように人生論や古典をテキストの一部にしてしまい、人生観をゆさぶられることになったかもしれない書物も、ただの味けない教科書にしてしまう。ドストエフスキーもトルストイも、吉田兼好も鴨長明もテストに出る記号だけになってしまい、人生を生きる糧になりえない。

 学校で教えられることは遠い世界の出来事、自分と関係のない外部の出来事に、みごとに化してしまう。これはなんでだろうと思う。当事者としての興味をそそらない、遠い出来事としてその事物を切り離してしまうのである。教師と生徒という役割分担が、教師の独占物は教師しか理解できず、ふれてはならないという不文律をうみだすのだろうか。教師という役割は生徒に無能さを演じさせ、越えてはならない柵をはりめぐらすのだろうか。

 興味が失われると「当事者意識」が欠如してしまう。学習というのはこれがあるかないかで大違いである。書物に書かれてあることを「当事者」のように読むと、その物事は自分の身にしみてわかるようになる。納得して手を打つようになる。しかし当事者意識がない「お客意識」で読むと、その書物はただの意味のない記号の羅列になる。学校というのはこの当事者意識をみごとに打ち砕いてしまうのである。

 教師や学校という存在は、知識を商品として与えるがゆえに、生徒たちをお客様に変えてしまう。お客様は商品から疎外されてしまう。知識を探したり、つくったりといった創造的喜びを独り占めされたお客様は、ただ燃え尽きた興味の残りかすを与えられるだけである。知識は探しているときや謎を解いているときがいちばんおもしろい。

 この社会も専門化や分業化がすすみ、どんどん当事者意識が消え、お客様意識が進行している。当事者として社会や人生を切り開き、生きようとするのではなく、あくまでも会社や政治が切り開いてくれる世界にお客様として身をゆだねようとしている。サラリーマンなんかはお客様意識の代表である。

 お客様はすべての専門産業から疎外されてゆく。学習するのも、モノをつくるのも、料理をするのも、政治をするのも、事業をおこなうこともすべて他人任せになり、自分ひとりで自分だけの力ではなにもできなくなる。

 専門化は個人の無能力を増し、当事者意識も粉砕する。自分で人生を切り開き、生きてゆくという人生の当事者意識もそうとう失われていったのだろう。自分で考え、自分でつくり、判断し、自分のことの多くは自分でまかなうことによる人生の充実感や満足度、大人になったという感覚はわれわれからどんどん失われていっているのだろう。

 人生というのは、数々の問題や難問の連続みたいなものである。そのような問題の解決法を、専門家は商品としていつも用意してくれているわけではない。自前にひとつひとつ解いていかなければならないものが人生というものである。知識や学習というのは、その解き方の一例を学ぶ方法でもあるはずである。知識もお客様意識のまま学ぶなら、問題解決の一手段にもなりえないだろう。

 人々は哲学や人生論の問題を考えないようになった。学問や研究に興味をもつ人も少なくなった。もともとそのような奇特な人たちは社会の少数の人たちだけだったのだろうが、現代はいちじるしい高学歴社会になったはずなのに、そのような人たちが増えた実感は一向にない。

 人々は学校に学習しにいっているのではなくて、ただ企業に入るためのパスポートを欲しているだけで、学問はその道具に利用されているだけである。学校が欲したのか知らないが、学問がその興味のない人たちに満たされるのは残念である。

 学問というのは勉強やおカタイものではなくて、ほんらいは趣味や娯楽ではないのかと私は思う。映画をみたり、情報番組をみたりする知的好奇心となんらは変わりはないと思う。そういう楽しみを教えることに学校はてんで貢献していないばかりか、ぎゃくに楽しみを奪っているように思える。

 たぶん問う楽しみより、楽しみの終わってしまった解決を与えてしまうから、おもしろくなくなるのだろう。知識というのは完成品より、未完のほうがおもしろい。解けないナゾだからこそ説く楽しみがあるのであり、ナゾのないところに人の興味は向かない。UFOや心霊現象はナゾだから人々の興味をひくのである。ナゾを解く楽しみをみいだしたとき、人は知識の楽しみを知るのである。そういうことを学校にいく人たちに知ってもらいたいものである。







   知識は損害か、有益か     2003/2/23


 心理学者や医者は人々の恐怖を煽れば儲かることができる。経済学や政治学もその例にもれないだろうし、宗教者も死後や怨霊の恐怖を煽って自分たちの地位を向上させてきた歴史がある。

 知識とはオオカミ少年のようなところがあり、その不安に煽られる私たちは専門知識を無条件に信頼してよいものだろうかという懐疑をもたなければならないと思う。専門知識の権威に従ってそれを無条件に信じてしまえば、われわれは暗闇の中を恐怖に駆られて走り回らなければならくなる。

 私もこの十数年、自分の好奇心にしたがって読書をずっとつづけてきたが、自分のうちでもこの読書経験はよいことだったのか、悪いことだったのかよくわからずじまいである。役にたったような気もするし、まるで役に立っていないような気もする。

 私は思想を読みはじめたころ、大衆社会論にとりわけ感銘したのだが、これらの書は画一化する集団を批判しており、私は心の奥深くに集団忌避の感情をもったのだが、おかげで会社集団に適応するのにずいぶん骨を折らなければならなかった。生きづらさを増したように思うのだ。

 批判は知識の真骨頂である。批判がなければ知識はおもしろくないだろうし、だいいち現状維持では学ぶ必要もない。しかし批判は社会順応をむずかしくする。自分が適応しなければならない社会をたえず批判の目で見るからだ。

 現代思想や政治学、社会学、経済学などは批判の学問である。だれかが悪い、社会が悪い、階層が悪いと、外部を責める学問である。ジャーナリズムもそうだろう。批判してだから直さなければならないと口やかましくいい、それはそれで納得できて同感の気持ちを強くするのだが、社会というのはテコでも動かないように堅く、その社会に適応しなければならない無力な個人は批判と適応の板ばさみの中で苦しい思いをしなければならない。

 批判の知識を知らなければ人生もっとラクにむじゃ気に生きられたのになという正直な気持ちがないわけでもない。近代の思想というのは権力に服従しない自立した個人がひじょうに理想とされてきたが、こういう知識をそそぎこまれた無力な個人は、権力にのみこまれて生きるしかない現実のなかで、かなりの矛盾に苦しむことになる。

 賢い小市民たちはそういう批判的知識をさっさと捨てて、家族的幸福にさっさとひきこもってしまった。TVやマンガ、パチンコに競馬にうつつを抜かす人たちというのはある意味では賢明な選択だといえるかもしれない。無力な個人が社会や政治に批判的意識をもって挑もうとしても、この社会はテコでも動かないことをおそらく知り抜いているのだろう。

 政治イデオロギーや学問知識の批判性の危険性も知っているから、活字教養の放棄も自覚的におこなってきたのかもしれない。思想や社会学などを読めば、知らず知らずのうちに批判的知識を増し、社会順応はむずかしいものになる。危険な知識は知らないほうが身のためというものだ。

 といっても批判的知識はジャーナリズムを通して知らず知らずのうちに私たちに蓄積されて、批判的生き方はカッコイイとされて、社会順応はむずかしくなることもあるのだろう。マスコミはなぜ批判をそんなに好むのだろう。その批判される当の歪んだ社会に順応しなければならない私たちに生きやすさを提供してくれたのだろうか。

 私は心理学も好んで読んできたが、精神分析系の知識というのは自分の「異常者意識」の不安を強く煽られることが強かったのではないかと今では思っている。精神分析は病者を選別したり、排除しようとする闇の力をもっている。不安を煽られれば、その知識は必要不可欠のものになる。さっこんの心理学ブームは犯罪報道と手を結んで人々の恐怖を煽り、専門家の地位と儲けを増やした。この社会排斥の不安を煽られるような知識はあまり信用しないほうがいいと思う。

 といっても心理学のなかでも私はトランスパーソナル心理学や自己啓発などの怪しかったり、エセ心理学とよばれるものには強く心を癒されたと思っている。これらに学んだのは一言で言うと、思考や心を消す技術――つまり忘れることだが、こんなカンタンなことに気づくのにずいぶん遠回りをしたものだと思う。

 考えること、知識を増やすことに価値をおいていた私は、情報をマイナスにしてゆく意味をまったくつかめなかったのである。情報をプラスにしてゆくことはある意味では苦しみを増やすことでもある。さっぱり引き算にしてしまえば、苦しみはなにもなくなる。情報や言葉というのはいらぬ心配や不安をなにもないところに「創造」してしまうのである。こういった情報の引き算に安らかさを見出してきたのは、ローマのストア哲学や仏教、禅、老荘などである。知識の無益さに気づく必要があるのかもしれないと私に思わせる契機になった。

 でもこのようなことはやはり多くの知識に当たってから気づいたことであり、まったく知識の森に分け入らなければ知り得なかったことでもある。だから知識はまったく損害や有害だけとは見なせない。

 知識とはむずかしいのである。損害を与えると思えば、有益なものになり、損害の解消に役立つことになると思えば、あらたに損害をつくっているばあいもあるだろう。

 遮断できる情報や知識もあるし、放っておいても耳に入ってくる情報も知識もある。本を読まないで遮断できた有害な情報も、TVや新聞、人の口によって知らされることもあるだろうし、その汚染された情報を解毒する意味でも、学問の批判性が必要になるばあいもあるだろう。まったく情報や知識というのは入り組んでいる。

 まあ、かんたんにはどちらかに断罪するのはむずかしいということだ。情報が少なければ愚かな目に会うかもしれず、知識が多ければよけいな労苦を背負うことになるかもしれない。いまのところいえるのは、情報をマイナスにする幸せもあること、恐怖や不安を煽る専門家の知識に警戒しろということだけだろうか。







   知識批判は知を愛する者の義務だろう
   03/3/8.


 知識を貯めこむことが無条件に善であるかのような一般的な見解があるが、知識が無条件に善であるわけがない。人間のもろもろの性質とおなじく――たとえば戦争や犯罪、いざこざが人間にあるように、多くの欠点や危険性をもっているはずだ。

 知識人が知識批判の本をあまり出していないことが気にかかる。政治や社会を批判する度合いとおなじくらいに自分たちの知を批判、反省するべきだと思われるのに。かれらは知を無条件に善だと信じているのだろうか。

 ありきたりになるが、科学の進歩では大量殺戮兵器や環境破壊をひきおこしてきた。科学はけっこう目に見える被害を残すからわかりやすいが、知識というのものは目に見えるものでも、さわれるものでもないから、その影響や結果はあまり測られることがない。だからといって無責任に知の垂れ流しが許されていいわけがない。

 知識はわれわれに多大な損害や被害をもたらしてきたはずである。マルクス主義や民主主義運動は人々のいさかいや殺戮をもたらしてきたし、優生思想なんかもそれにひと役買ってきたし、精神病の知識は人々の差別と排除の意識をつちかってきたことだろう。

 知識は発見されるのはよいことかもしれないが、その影響や結果の配慮があまりにも欠け過ぎていたのかもしれない。知識は知られたときから、人々にいさかいや対立、抗争、差別や排除の「権力」を身につけはじめるものであると考えるべきなのだ。

 知識はその影響や結果があまりにも考慮されなさすぎる。知識があまりにも無条件に善だと信じられている結果なのだろう。知識が独占されるのは権力面からして問題にされるのだろうが、かといって知識の無条件の公開が社会に善と幸福をもたらす場合ばかりとはいえないだろう。新しい知によって困った事態に追われる人も多数いると思われるのである。

 知識の無条件の信頼は反省すべきなのである。知識もけっきょくはこの社会において所有の欲望や進歩主義、優越や権力の欲望を色濃く染み込ませているのだろう。あるいはその原動力や根底にあるものなのかもしれない。知を断てば、これら人間のあやまちも少なくなるものだったりするのだろうか。

 カネがほしいカネがほしいモノがほしいモノがほしいという欲望社会は、知識がほしい知識がほしいという欲望と同じものなのだろう。知識や情報が優越や権力、進歩や競争へと人間を駆り立てる根本のものかもしれない。知をこのような側面から見るとき、はたして無条件で善とよべるものなのだろうか。

 歯止めや放棄はどこでおこなわれるべきなのだろうか。知識はどこからが善で、どこからが悪だと線を引けるものなのだろうか。知識の善悪論は考えてゆくべきなのだろう。

 ニュースやワイドショーといったものは人々のプライバシーを暴く。暴かれる人にとってはとてつもない悪だろうが、知を欲する人には知の歯止めはなく際限なく知りたがる。このような知識にタブーや道徳はさしはさめないものなのだろうか。

 心理学や社会学といったものも人々の行動や内面の意味を暴き、裸にするような側面のある学問である。「高級なワイドショー」といったたぐいのものといっていいかもしれない。人々の心をえぐりだすような知が果たして無条件に善なのかあらためて考えてみるべきなのだろう。

 人文社会科学の知識というのは道徳や倫理と抵触するものなのだろう。知識は道徳面からその暴走性の歯止めを考えるべきである。しかし学問は科学の客観主義に影響されて主観的な道徳や倫理がどんどん語れなくなっている。こんな歯止めのない知識は人間にとってほんとうに善なのだろうか。

 知識を全面的に悪だと見なす気はないし、これからも私は知識の追究をおこなうだろうが、反省なき知識もまた危険だと思うのである。知の暗黒面を見つめることは知を愛する者の義務にするべきだと考えたいと思うのである。








  知識の影響と弊害を考えてみる     2003/3/15


 知識はものごとの捉え方や考え方を変え、行動を変える。そのことがよいことなのか、悪いことに転がるのか、あまり考えたことがなかった。視野狭窄的に知識の狩猟だけに満足するのはおおいに問題だろう。知の結果も知識の責任の一端をになうものである。

 知識というものはけっこう視野が狭くなる。断片的な知識でものごとを決めがちになる。ほかの連関やつながりがどうも断ち切られるような気がするし、反対意見も希薄になり、学者の権威もてつだって思い込みや決めつけが激しくなりがちだ。世界はもっと流動的で、固定的ではないはずだ。

 私の読書の経験のなかで、ある知識がどのような影響を与えたのか批判的に考えてみたいと思う。

 大衆社会論は画一化、規格化する大衆を批判しているのだが、おかげで私は集団やグループというものが嫌いになり、孤立したり集団になじむのがかなり難しくなった。またこの知識はインテリの優越心をそそるものだが、私はそんな高慢な自我はもてなかった。けっきょくのところ、画一化の批判は高級消費の論理をつくるだけではないのか。

 共同幻想論は認識の虚構性を理解させてくれて、「絶対」を信じなくなったのはよいことだったと思う。「絶対」を信じる人はマルクス主義やナショナリズムのように危険になる。ただ絶対を信じれない人間は主義主張が声高に発せられなくなるから弱くなるとは思うけど。

 心理学や精神分析は差別と排除の権力を暗黙に支持しているものだと思う。精神異常者の排除の力は私の心を不安におとしいれたと思う。また交流分析などの親への批判は現在の問題を過去になすりつける問題の多いものだと思う。

 これらは人間の理解を助けてくれたが、精神の健康にはあまり役にたつものではなくて、自己啓発やトランスパーソナル心理学などの思考を捨てる知恵のほうが心の安定には役立った。心の知識には「理解」よりか、「How To」のほうが必要なのだと思う。

 トランスパーソナルやニューエイジ、仏教などの知識は、神や霊、信仰という現代ではタブーの領域にもふれているが、そういう世界を信じることはもはや私にはできなかった。癒しや心の安定の原理をそこから抽出するのみにとどめた。この世界を信じ、知人たちに話すと、かれは社会への適応を拒まれることになるのだろう。知識の受容と選別は社会適応の条件である。

 精神分析や社会学は人の心の内面を暴く「高級なワイドショー」のようなところがある。私はこれらの知識に「やましさ」を感じていたが、人の心を暴いてしまう後ろめたさがあったからだろう。人間の深層を暴いてゆくということは、モラルや道徳面としては許されてよいものなのだろうか。だから知識には教養への敬遠があるというよりか、暗黙のタブーがあるのかもしれない。

 ひところ私はビジネス書をよく読んだが、大恐慌再来論という恐怖にあおられたからである。大恐慌という恐怖は経済や文明への興味と「逃走」させたのである。いまではこのオオカミ少年はほとんど信じていない。ビジネス書は「理解」を助けてくれたが、経済的なことで実践的に活かせたということはほとんどなかった。私がHow Toモノを読まなかったということもあるが。

 西欧の知識には全般に権力を批判して自立した個人になることが理想とされているが、これは新聞やメディアによってしょっちゅう頭に叩きこまれるが、はたして批判や自立が世の中の生きやすさを加えてくれたかは疑問である。

 「反」適応をめざした知識が、たとえ進歩や向上をめざすという「大義名分」があるにせよ、社会に適応しなければならない無力な個人にそそぎこまれるのはあまりよい薬ではないのかもしれない。無力な民衆には高邁すぎる理想であり、分をわきまえた知が必要とされるかもしれない。メディアという安全地帯にいる人たちだけの特権だといえるのである。

 情報や知識を商売にする人たちは知識に責任を負わされるということほとんどない。知の弊害や汚染といったものは目に見えない。人を裁くという大それたことも報道機関では当たり前におこなわれるようになっている。メディアの人たちはなぜ自分がそこまで偉いのか、人や社会を批判する自分はそこまで優れているのか、責任を負えるのか、といったことにまったく無反省のように思える。たしかに言葉や知識という目に見えないものは神の地点から見下ろすことができるのかもしれないが、現実の関係のなかではそこまで強大な権力と裁く力をもった個人は存在しないだろう。

 知識や言葉というのは後にはなにも残さないからその影響や結果が反省されるということがほとんどない。しかし人の考え方や行動を変える力はかなり大きいのである。ある知識が人々にどのような行動の結果をもたらすのか、ということまで知識は考慮にいれるべきではないかと思う。そうしてその知識、説明体系は優れているものなのか、劣っているものなのか、人々によい影響よい行動、あるいはその逆をもたらしたものなのか、も考えてみるべきなのだと思う。知識の拡大や蓄積が無条件に善だなどという盲信はもうやめるべきなのだろう。








   知識と欲望とモラル      2003/3/21


 知識は無条件に善であるわけがなくて、やはり欲望の塊である。人より優れたい、勝ちたいという欲望と同じものである。金持ちや権力者になりたい、モノをもっともちたいという競争をひきだす欲望となんら変わりはしない。ただ学歴、頭脳信仰というべきものがあるから、批判の表舞台から隠れていられるだけである。

 知識ももちろん商品である。商品は売らなければならない。売れるためにはいろいろな仕掛けや戦略が必要になる。知識は不安や恐れを煽ったところにいちばん需要がある。

 医者は病気の恐怖を煽り、心理学者は正常と異常の選別不安を煽り、経済学者は大恐慌の不安を煽り、政治学者は奴隷の不安を煽り、教育者は無学歴の不安を煽る。不安にとりつかれた人たちは専門家に盲信するというわけである。知識産業は恐怖で儲ける「恐怖症産業」なのである。

 知識人は社会や政治の批判は山のようにするが、みずからの知識に対しての批判は驚くほどしない。商品は決してけなさない。かわりに「もたない者」の恐怖や侮蔑は煽りまくる。自社製品の批判を決して許さない企業と同じである。立派な産業者である。知識は絶対的な正義でも、公平中立の立場に立っているわけなどない。

 学校はよく自分たちの判断基準を国民に押しつけ、みごとに自分たちの支配力を強めたものだと思う。国語や数学や社会といった教科知識で、人の基準や価値を選別するという暴挙を、国民に納得させて浸透させたものだと思う。知識は神棚に祭り上げられるものだったからなのか。

 知識崇拝社会では知識がまっこうから批判されることはない。知識の蓄積が無条件の善である。金儲けやモノの欲望と変わりはしない。知識を批判することは表現や言論の自由を奪うことであり、つまり商売の邪魔を妨げるなということである。

 知識に制限を加えてはならないというのは欲望の無制限主義――自由主義と同じものであり、つまり産業主義と市場主義のことである。金儲けに歯止めをつけくわえるなという欲望の自由主義である。

 知識の無条件な信仰というのは、欲望の自由主義と競争、そして産業社会の下支えをしているのである。知識は広告に端的にあらわれるように欠如と欠陥の不安を煽ることにより、欲望と市場の拡大を喚起する基礎となっているものである。

 知識の無制限主義というのは欲望の自由主義と同じものである。欲望に歯止めをかけてしまえば、商売が成り立たなくなる。ということで社会から欲望を阻害する道徳や倫理、宗教というものがとりはらわれ、それらは煙たいもの、ウソっぽいもの、隷属させるもの、というレッテルが貼られるようになった。それらはおもに政治、権力の地平からの見方である。

 知識の新商品開発というのは批判にあたるのだろう。古いものを批判することにより「新商品」を開発する。そうして知識はモデル・チェンジをくりかえし、ただひとつの「真理」という中古品を捨て去ってきたのだろう。新商品は早くポンコツにすればするほど儲かる。

 知識の欲望が開花し、知識の蓄積や進歩が進むことは、われわれにとってより多くの幸福をもたらしたのだろうか。欠如と欠陥の不安を煽られて知識にすがりつき、知識の優劣や所有の競争を強いられ、また不安にさらされるという循環におちいったわれわれは果たして前時代より平安や幸福になれたといえるだろうか。

 また欲望が煽られることは幸福だといえるのだろうか。知識やモノを所有することは幸福といえるかもしれないが、欠如を知らない無知のほうが幸福のばあいもあるだろう。知識は「存在しない不幸」を新たに何度でも「創造」できるのである。

 欲望の自由主義だといっても、社会のモラルや倫理と衝突しないわけはない。ポルノ、暴力描写、殺人報道、芸能人のゴシップ、事件、事故を知ることはわれわれの興味をそそるが、暴走した知識欲は多くの人を傷つけ、暴力にさらしてきたことだろう。知識は善のみであらず、暴力でもある。道徳なき欲望の自由社会であっても、全面的に欲望が肯定されることは絶対にないのである。

 欲望の自由主義は人としての道徳や倫理と衝突するものである。それはとりわけ、フィクションやジャーナリズムでは顕著に目立つようになっている。知識というものは人々の倫理と抵触するものであるという自覚が必要なのだろう。また欠如や欠陥を煽る産業としての面にも、知識のモラルが問われるべきなのだろう。

 知識の無条件信仰という無邪気な態度はやめにして、倫理面から考えてゆく必要があるのだろう。もちろん幸福と平安という面からも考えなおされるべきである。反省なき知識信仰は知を愛する者の自己否定である。








    教養のカンチガイ      2003/3/22


 この高学歴の日本において教養がないことは恥かしいことでも、恐ろしいことでもなくなった。教養がないのはふつうのことで、教養をふりまわす人もいないし、教養がなければ友人の話題についていけないということもない。教養はほとんど権威も、権力もなくなった。

 過去や歴史と断ち切られたサブ・カルチャーがうけいれられるばかりである。新製品や進歩がもてはやされる社会では、歴史や伝統の重みをもった教養はひとむかしは先進的だった団地みたいに古ぼけたものに映るのだろう。

 この日本では教養は記憶力やものしりのことだとカンチガイする人がじつに多い。クイズ番組の答えなんかなんの役に立つ? これは学校教育の受験テスト方式にによるものだろう。暗記や記憶力の優れたことが頭のいいことだと思っている人がじつに多いが、そんなものは電話帳を丸暗記しているようなものでまるで役に立たない。

 このカンチガイがまだ学生だけならいいが、いいトシをした大人までが暗記力を教養だとカンチガイしているのはマズイ。教養というのは文化や歴史など生きた知識や経験を現実のなかで生かせることではないのかと思うのだが。電話帳みたいな記憶は社会や文化のなかでなんの役にもたたない。

 新聞やニュースの時事問題を教養だと思っている人も多いが、あれは教養だとは思わない。たんなるヤジウマ根性と烏合の衆にすぎないと思う。事件事故がおこれば下世話な興味で見物しにきて、終わればさーっと蜘蛛の子みたいに散ってしまう。これは教養というよりか、サーカスや大道芸の見物人にちかい。

 しまいにはニュースに新奇性をもとめて、人の不幸や事件を期待するようになり、センセーショナルで衝撃的な事件を待ちのぞむようになってしまう。大きく衝撃的であればあるほどうれしい、楽しい、興奮するという転倒した事態になってしまう。新聞やニュースが教養な社会は、事件事故をお祭りとスペクタルにしてしまう恐ろしく転倒した社会である。

 私はもっと日常や毎日の社会のなかに疑問や問題を感じることが教養の力だと思いたいが、これはあくまでも私の個人的な興味の方向にすぎなく、教養のすべてとはいえないだろう。私の興味の範囲はかなり狭く、芸術も物理学も数学も国際情勢も歴史も入ってこないから、私の教養はかなり欠けたものである。

 世間一般の人がもっと学問や研究に興味をもつことが教養のあることだと思うが、この日本では学問の暗記は賛美されるが、学問研究を実践することはほぼ称賛も関心も集めることはない。学問は人々の視界から消え去り、学校での暗記能力を測る基準とのみ使用され、学問は世間一般に知られることはほぼなくなった。

 学問はほんらい教養の中核をなすもので、社会での知恵や実践に役だたされることが学問の使命ではないのかと思うのだが。学問と世間の分断はなにによってひきおこされたのだろうか。世間が暗記力を教養だとカンチガイしたためか、それとも学問が世間の役にもたたない無用の産物になってしまったからだろうか。

 ドゥルーズやデリダ、フーコー、サルトルなどの思想家はカッコイイが、あまり世間で生きるための知恵にはなりえない。これはどちらかというと、舶来モノを見せびらかす人や輸入高級ブランドをもてはやす人とあまり違いはないのだろう。高級消費の流行である。しかも一般大衆には難解すぎて馬に念仏になってしまうから、むかしの外国語を唱えた坊さんみたいに役に立たない。

 一般の人たちが好きなものといえば、映画にJ-POPにマンガにテレビというサブ・カルチャーになるのだろうけど、これらももちろん教養である。今日的な教養である。生きる知恵や勇気、癒し、伝統や文化を教えたり、情報を伝えたり、といった教養の役割をまるで果たしていないというわけではない。

 ただこれらの教養には批判能力や言語構築能力が決定的に不足していると思う。社会を全体的に批判的に見るという能力はつちかわれないし、言葉や思考を強靭に粘り強くつなげてゆくという能力もつくれない。

 映像文化にはそれなりの魅力と必要性はあると思うのたが、言語−思考能力が欠けてしまうのは否めない事実である。教養は言語・思考能力に多くを負っているものである。やはり思考能力は読書と文章作成からうまれるものである。また映像文化には物語が多いが、物語と演技の陶酔性をつくってしまい、客観性の養成には問題があると思う。

 批判や思考能力を養うことは、消費産業にだまされたり、踊らされたりしない堅実な人をつくるのに役立つ。サブ・カルチャーの一方的享受になるだけなら、無批判の踊らされる愚かな人になるだけである。産業の戦略に乗せられていい気になる人を生むだけである。教養はそういうことを峻別できる能力を人々につちかってほしいものである。

 教養というのはただ物知りなだけではなく、やはり倫理や道徳、人格の優れた者になることが理想であってほしいと思う。教養は人格を磨くためにあると考えたいものである。

 ただこういう教養主義はウソっぼくて、欺瞞である懐疑がつきまとう。人格の優れた人は名誉や称賛がほしい強欲な人であることが見抜かれてしまうからだ。そういった名誉欲をのりこえられることに教養は役立ってほしいものである。





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