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▼テーマは専門化社会批判 

 



■030118断想集
 専門家の恐怖と個人の無能





   いやなことは見ないほうがいい    2003/1/18


 心配事や不安なことはとことん考えつめるべきだとだれがいっていたのだろう。さいきんの心理学では、心配事や不安なことはさっぱり忘れたほうが精神的には健康だといっている。

 考えつづけることに価値をおいていた私はほんとうにそうだと思う。心配事や不安なことを考えつづけると、うつ状態になる。不安や恐れにとらわれつづけることになる。しまいには自分からその恐れをとりのぞけないようになってしまう。

 不安や恐れをシャットアウトするという知恵はちまたでもよく交わされる言葉のはずである。でも私は問題をとことん解決しなければ、問題はのこったままだから、どうするんだ、と思っていた。そうしていつまで考えつづけて、不安や恐れから抜け出せないようになっていた。

 フロイト以降の精神分析も、つらいことを抑圧すると無意識がいつまでも覚えていて、神経症的な病理をひきおこすといってきた。つらい記憶を避けないで直視することが精神的な健康をもたらすといった。

 しかしさいきんの研究では、事実はまったく逆らしい。いやなことやつらいことから目をそらすタイプのほうが精神的には健康的なのだそうである。「精神の健康の主たる機能はポジティヴに歪曲された世界像と自己像を保証することにあると言えよう」というのである。(ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』文春文庫)

 「ふつうの人間は幻想と自己欺瞞という「鎮痛剤」を使って自分の欠点や不完全さをやり過ごしているが、彼ら(うつ病)の脳はいわばこの「鎮痛剤」を作り出す能力を失った状態なのである」

 われわれは事実から目をそらすなとよくいわれる。現実逃避もよくないといわれる。問題があれば、解決するまで考えつづけるべきだといわれる。しかしこれではうつ病患者をつくりだすだけになってしまう。不安や恐れというのは考えれば考えるほど雪だるま式に増えるものなのである。

 不安なことや恐ろしいことはできるだけ考えないほうがいい。つらいことやいやなことも避けたほうがいい。こっちのほうが精神の健康にはぜったいにいい。

 現実逃避がよくないとは思わない。つらい現実からどこまでも目をそらさないことこそ、精神の健康にもっとも悪いことだ。ただし、いやなことは避けつづけろということではなくて、いやなことをしているときは、精神はよそ見をするべきだということである。不安や恐れを見つづけるということは、それを倍加してしまうということなのである。

 精神というのは出来事の後におこるものではなくて、現実をつくりだすものである。現実の後に不安や恐れがわきあがるのではなく、精神こそが不安や恐れに色づけされた現実をつくりだすのである。不安や恐れを見つづけるということは、それをいままさにつくりつづけるということなのだ。

 精神の健康のためには、われわれの精神は不安や恐れからできるだけ目をそらすべきなのである。そうすると、不安や恐れに色づけされた世界は自分から遠いものになる。さらにはいやなこと、つらいことも、できるだけ私の世界から排出してしまうべきなのだ。

 現実というのは私の見方、捉え方ひとつでころりと変わってしまうものだ。さらには頭を空っぽにしたり、まっ白にすることで、不安やネガティヴな感情からも遮断される。私はしごく平穏で、恐れも不安もない満ち足りた気分になる。

 それをウソや欺瞞だというかもしれない。しかし精神の健康というのはそれでしか得られないものである。また現実を無視しているというわけでもない。現実というのはたんにひとつの解釈、ひとつの捉え方にしか過ぎないのだから、精神は最大限に自分に健康をもらたす認識をすべきなのである。正義感に満ちて自分を責めさいなますような行為はおおよそ愚かなことだ。

 フロイト以降の精神分析はつらいことやいなことはとことん直視しないと心の病をもたらすといってきた。しかしこれこそが心の病をひきおこすのではないのか。精神は幻想と自己欺瞞によってしか救われないと開き直るべきだ。

 ニーチェは現実は虚構にすぎないのだから自分の権力意識をもたらす認識をつくるべきだといったが、そこまで極端にいわなくても、不安や恐れ、悲しみをもたらす認識はできるだけ心の世界から排除すべきだと私は思う。正確な現実というものを信じて、わざわざ自分を犠牲にするような認識をもつことは愚かすぎるというものだ。







    商業化がもたらす個人の零落と孤立      2003/1/21


 さまざまなモノやサービスがお金で買えることはラクで便利なことである。しかしこの商業化や分業化が、進歩や繁栄ばかりではなく、深刻な病をもたらすことを見逃してはならない。

 人々のつながりをお金やビジネスだけの関係にしてしまい、非情でドライなものにし、人々を孤立にみちびていることを忘れてはならない。われわれは人とのつながり、絆、愛情や思いやり、助け合い、といったものをますますまわりから消し去ろうとしているのである。それらをカネに売り払おうとしている。

 われわれはカネさえあればなんでも手に入る社会にいるが、カネさえなければまったく救いようがない社会に生きている。ことばどおりのカネの切れ目が縁の切れ目の社会に生きている。安心ややすらぎはあるだろうか。

 ぎゃくに、経済や商業が発達していない社会は人々とのつながりが密であり、助け合いや思いやり、といったものがはるかに多い。カネがなく、貧乏であるけれども、人々にかこまれて安心ややすらぎは、豊かな国よりはるかに満ちているという逆説がある。

 人々のつながりが分断されて不安だからますますカネとモノにしがみつくという悪循環にわれわれは囚われている。カネと商売が掘り崩す地点というのは、人々が密につながり、助け合い、思いやるといった人々の絆や連帯にほかならないのである。人々の紐帯を切り崩すものこそ商業や経済といったものなのだ。

 たとえば家族はすでに孤立化しているが、これを進めたのは、家事や育児の外注化、サービス化ではなかったのか。食べ物がコンビニやファミレスですませられるのなら母親の役割は希薄なものにならざるをえないし、教育が学校にすべて委託されるようになれば親が教えることもなくなるし、このように家族のさまざまな機能は商業化されて、その絆は立ち消えになっている。

 親子は無条件のつながりに結びつけられているが、商業化されたつながりはカネだけのつながりである。カネがなくなればそれらのサービスに見向きもされない。家族はそんなことに関わりなく助けてくれる。われわれは家族という無条件のやすらぎの舟さえ見捨てようとしているのである。近隣や地域のつながりといったものもいうまでもない。

 商業化やカネのつながりだけにおきかえるということは、われわれのカネではない親密さや人情、恩情、といったものをすべて切り捨ててゆくことである。人々は商業化によって孤立し、人としてのつながり、絆、あたたかみ、といったものをますます失ってしまったのである。

 また商業化を進めるということは専門家をうみだし、個人の無力さを増大させることである。医者はわれわれの身体の知恵といったものを忘れさせたし、教師や学者はわれわれの自前の知識や知恵といったものを駆逐させてきたし、マスコミはわれわれのまわりの情報や噂のネットワークの力を奪いとり、個人のパフォーマンス能力や話すことの楽しみといったものなどを小さなものにした。

 むかしはひとりひとりにさまざまな生きてゆく力や知恵があり、それぞれの発想や工夫があり、独特の人格やたちふるまいがあったはずである。そのような個人の歴史や知恵の蓄積があり、われわれはそれを求めて人に会いに行ったり、話を楽しみにしたものだと思うのである。商業化や、とくにマスコミの力は、個人の価値といったものをそうとう零落させたにちがいないのである。個人の価値というものは風前の灯火である。

 われわれはまわりの身近な人とのつながりからますます分断され、企業やメーカー、ショップ、マスコミ、専門家、モノやサービスとつながるようになっている。個人は重要性やおもしろみ、つながりの必要性を零落させ、知識や伝聞、伝承といったものは個人間でつたわらず、人々はますます孤立し、閉じこめられるようになっている。

 商業化や経済が発達することはたいへん好ましいことだと思われてきたが、商業化やカネは家族や人間関係まで解体してゆくことになるのである。はたしてわれわれはそんな社会にやすらぎや安心、人々のあたたかなつながりといったものを感じられるだろうか。孤立し、閉じこ込められ、恐れや不安が増大してゆくばかりで、ますます商業化や専門家に依存してゆくことにならないだろうか。

 商業化の進展に希望ばかり見るのではなく、その害悪部分にも目を向けてゆく必要があるようである。失ったものは目に見えにくく、それだけ被害は深甚だといえそうである。







   専門家は恐怖を煽って市場を拡大する    2003/1/25


 いかなる知識や学問といえども商売である。客のいない商売はつぶれるだけである。知識が商売で儲けるためには人々の恐怖を煽るのがいちばんである。人々は競って教えを乞いにくる。

 ある分野の専門家が大活躍している時代というのはその分野が恐怖に満ちているか、あるいは専門家がうまく恐怖を喧伝したかのどちらかだ。恐怖は知識のスポンジとなる。そして専門家は大活躍し、大儲けする。

 かれらは真実を捉えているのだろうか、あるいは金儲けのため、みずからの社会的地位向上や名誉心のために、われわれを恐怖におとしいれる知識をでっちあげるのだろうか。

 専門家であるから疑うのも意をとなえるのもむずかしいが、かれらも名誉がほしい人間であるし(とくに)、専門分野がひっぱりだこになってほしい商売人であること、かれらの活躍とわれわれの恐怖には相関関係があることを覚えておくべきだ。権威ある学説やみんなに信じられている知識だからといってうのみにするのはやっぱりキケンである。

 心理学者やセラピストは90年代になってどこからもひっぱりだこになり、アダルト・チルドレンやトラウマなどの言葉がふつうの人の耳にも聞こえるようになったが、私たちは90年代に入ってとつぜん心の病を発症するようになったのだろうか。やっぱり心理学者の宣伝や啓蒙が大きかったのだろう。

 とくにTVによる犯罪者の心理分析がよく効いた。われわれは犯罪者の心理傾向に自分の性格を見ないわけにはゆかなかった。自分の異常さに脅えるわれわれは心理学者のことばへと誘い込まれていったのである。

 心理学者が儲ける方法はすべての人をマーケットの客にすることである。だれもが病者であり、異常であると喧伝すれば、お客は倍増する。

 とくに原因の帰結をほかの分野にわたさず、自分の分野に限定すれば、より多くの顧客がみこめる。専門家はそんな貪欲な下心ははもたない見識ある人たちだと思うが、現代の限定された学問分野のなかでは、原因を自分たちの分野にしか見つけられないのである。

 犯罪を貧しさのせいにできた時代は終わった。心理学が犯罪を個人の心のせいに押しこめるようになった。社会や経済、文化が原因でおこる犯罪はこの時代になっていっきょに消滅したのだろうか。ある専門分野は自分たちの分野にしかその原因を見いだせないのである。心理学者は社会や経済のなかに犯罪の原因を見つけだせない。

 こんにちの心理学者のような躍進を、経済学者も1930年代以降に経験したようである。それまで経済学はなにを問われても「わからない」と答えていた謙虚な学問だったそうだが、大恐慌に応えてとつぜん答えを見出したようだ。それからは経済学者は政府のお抱えブレーンとなった。世界大恐慌という恐怖が経済学者の大躍進をもたらしたのである。

 恐慌の再来や景気の悪化、生計の見通しが立たなくなると予測されれば、人は恐怖から経済学にその状況に耳をかたむけ、あるいは振興策をさぐろうとするだろう。こうして経済学者は1300年代のキリスト教神学者なみに増加したのである。

 経済学者がそれだけ食い扶持を稼げる時代というのは、われわれの常識もかなり経済学に染め上げられていること、およびなんでもかんでも経済の原因に帰する考え方ができあがっていることだろう。われわれが不幸なのは経済のせい、治安が悪いのは経済のせい、家庭の不和は経済のせい、夫が出世しないのは経済のせい、すべて経済が悪いとなる。社会学者や心理学者の出る幕がないということは、原因がそれらに属するとは考えられないということだ。

 現代の心理学者の大躍進はすべて個人の心のせいにされる時代であり、社会変革や経済変革の希望が断たれた時代であるということだ。みんな個人の心が悪く、社会の現状は正しく、聖化されて、個人はそこに適応するか、さもなくば矯正されるしかなくなった。権力にたてつくまえにその根をつみとられるという専制君主制より恐ろしい時代になったともいえるだろう。

 専門家は自分たちの分野に地雷をみつけ、お客にほうりこんで大躍進し、人々の常識や知識をその分野よりにゆがめる。かつての宗教は死後の恐怖をうえこみ、大躍進し、仏教は怨霊の恐怖により世にひろがった。常識や世界観はその専門家の色にまったく染め上げられるのである。

 一般の人が専門家に伍してその真偽をたしかめるのはむずかしいし、ものの見方がその還元分野に傾いてゆくことを自覚するのも困難だろう。われわれは権威や常識といったものにひじょうに弱く、社会の知識のゆがみに自覚的であるのもたいへんにむずかしい。

 医者ももちろん商売である。われわれは病気の恐怖をもって医者に駆けつける。TVや雑誌などで病気の恐怖を感じたことがない人はいないだろう。恐怖を煽ることが医者の大躍進に結びつくのである。もちろん医学は良心的であるという神話、あるいは信頼を抜きにすることなんかできないが、医学も商売であり、それがなりたつには病気の恐怖と予防策をいくぶんかは注射しないと、お客は遠い存在になるだけである。

 保険業界はわれわれにどんな恐怖や常識をうえつけたのだろうか。将来、病気になること、夫が亡くなること、老後の生活がなりたたくなること、業界はこのような恐怖を煽り、そしてその将来像をわれわれの頭のなかに固定的なものにしたのである。

 専門家は恐怖なしにはなりたたないのだろう。知識にかかわる商売は恐怖の座席のうえに立つ。汚染されないよう気をつけるためにはわれわれはせいぜい専門家も商売人であること、自分の分野に問題をぜんぶ帰してしまうクセがあることを覚えておくほかないだろう。「そんなのおかしい」といった常識的判断もけっこう頼りになるのかもしれない。






   「心の時代」は少年犯罪者を生み出しただけ    03/2/2


 90年代は心理学者が大儲けした時代であり、商売のヒケツはお客の恐怖心を煽ることである。心理学はもともと病者を癒す学問であり、業界用語は異常心理に満ちている。それが一般人にも拡大されるとふつうの人も恐怖心を煽られないわけにはゆかず、そして心理学者も大儲けできるというわけである。

 そういう目で見ると、90年代の心理学ブームというのは異常者カテゴリーの拡大であり、異常者探しのゲームだったとも見なせるだろう。心理学者の大躍進とはふつうの人の異常者恐怖と一体だったのである。

 心理学が流行るようになりだしたのはいつのことだろうか。かつて精神病といえば狂人のイメージであり、実態は精神病院の壁の向こうに隠されていた。人々の心が内面に向かい出したのは80年代に「ネアカ/ネクラ」のブームがあり、非社交性の不安が煽られたことがブームの下地になったのだろうか。このときに儲けたのはいまにつづくたけしやさんま、タモリなどの漫才師たちである。

 89年の連続幼女殺人事件の宮崎被告はオタク少年たちの恐怖心を煽った。いぜんからオタクは気持ち悪がられていたが、この事件は決定打になった。オタクは犯罪者同然になった。しかしマンガのマーケットは拡大をつづけており、少年の心にこの事件はどのような影を落としたのだろうか。

 犯罪者の心に心理分析がおこなわれるようになったのはいつのことだったのだろうか。異常な犯罪がおこるたび、心理学者のコメントが付されるようになった。オウム真理教事件はふつうの人にはわからない異常な心理の人たちがこの日本にいることを知らしめたし、このことからワイドショー的好奇心に火がついた。福島章や小田晋、町沢静夫といったタレント精神科医が生まれる。その影響からか、猟奇殺人者の心理分析や多重人格者、快楽殺人者の耽美的物語が流行ったりした。『羊たちの沈黙』や「冬彦さん」が話題になった。

 このブームを支えたのは女性たちだったと思うが、なぜ女性たちは異常心理に心をひかれるようになったのだろうか。彼女たちが犯罪をおかす確率はかなり低いと思われるが、自分たちの心の奥底に異常な部分を見つけたのだろうか。それだけ異常者の心理が広範に見出されるようになったのだろう。

 アダルト・チルドレンやトラウマのことばが話題になり、犯罪者の心理分析は日増しにふえ、「ストーカー」とよばれるマスコミ先行型と思われるような犯罪まであらわれた。じっさいに殺人までおこなわれたが、この事件はマスコミが煽ったために生まれたとしか私には見えなかった。人々やマスコミは異常な犯罪をいまかいまかと待ち構えるようになった。

 神戸の小学生殺傷事件をきっかけに少年犯罪に火がついた。このころ異常犯罪者にはかならず生い立ちからエピソード、心理分析がおこなわれるのは当たり前になっており、一種のマスコミがうみだす「成功者」のようになっていた。

 まるでニュースの「話題賞」に応募するようなものである。犯罪という高い代価を払いながら、かれらは異常心理部門に採用されたのである。入賞者には過去の履歴と心理分析が、うやうやしく紹介された。

 異常者の心理分析という好奇心がマスコミや人々にあるために、少年たちはそのスポットライトのなかで踊らされたようなものである。この前にはずっと「女子高生ブーム」というものがあり、マスコミやファッション誌に女子高生たちがたえずとりあげられる時代があり、その影に隠れて男子高校生は影の薄い存在だった。そのルサンチマンからか、かれらは「犯罪少年ブーム」をつくりだしてゆく。17歳が中心的存在である。

 げんざいのところはウソのように沈静化している。思えば心理学ブームというのは異常者をあぶり出し、ついにはマスコミと結託するような犯罪少年ブームを生み出して終わったという感がする。皮肉なことに「心の時代」とよばれる時代は異常犯罪者を扇動しただけともいえるのである。

 心理学者はなぜそのような趨勢を生み出すことに加担したのだろうか。心への興味が異常心理へ水路づけられるのは、病者のための学問である心理学の必然だろう。異常者のレッテル貼りの乱発は、狂気のロマンティシズムを誘発したのである。犯罪をおかせば、かれはマスコミと心理学者が待ち構えている心理分析の格好の材料となってくれる。心への興味は皮肉なことに異常犯罪者というマスコミの幻影とパフォーマンスをつくりだして終わったのである。

 心理学者の大躍進はわれわれの心理学的知識を深め賢明にしたというよりか、異常犯罪者とその分析される材料を必要とし、その猿芝居の役者をじっさいに生み出しただけなのである。そして心理学者はスクール・カウンセラーなどで採用されることとなり、その活躍の場をおおいに広げたのである。 

 心理学者の拡大と活躍はわれわれの知識を悲惨なまでに歪めたようである。心の賢明な知識を得たのではなく、たんに異常心理者の「ショータイム」を演出しただけのようである。心理学者はわたしたちにはたして賢明な知恵や健康な心身を授ける役割をはたしたのだろうか、それとも世情を撹乱し、人間観や世界観をゆがめただけなのだろうか。

 われわれは心理学という専門家のゆがんだフィルターを拡大した世界観のなかに生きている。経済変革も政治変革も望みが断たれた現在、われわれは心理変革に望みを託すほか希望がなくっている。これから心理学知識が躍進してゆくのはまちがいがないだろう。

 つぎの時代には心理学者たちは異常者探索という危ないわだちをもう一度くりかえすことになるのだろうか。それともマスコミのセンセーショナリズムに煽られない冷静で批判的な判断をおこなうことができるようになっているだろうか。心理学者たちはこの心理至上主義の時代を批判的におおいに反省すべきなのである。

 そしてわれわれ一般の人間も専門家信仰をゆるやかなものにし、かれらの異常者煽情主義をおおいに警戒すべきなのである。かれらは恐怖を煽り、それでみずからの知識と生計の道をひろげる。専門家は絶対ではない。かれらは異常者がふえればふえるほど社会的地位も儲けもふえる商売の世界に生きている。つまりみんな病者にしてしまえば、マーケットは極大化できる。意図しないでも、そういう商売の世界に生きている以上、かれらはそのような道に踏み入れてゆくことだろう。カウンセラーになりたい人がふえるということは、おのずと病者をひろげる活動をもよおすことになる。

 だからわれわれはかれらの病者の線を割り引いて考えなければならない。自分が異常者であると思われようと、その心配はなるべく弱いものにしなければならない。人間の心というのはほとんどプラシーボ(自己暗示)の世界だ。悪いと思えば悪くなる。専門家依存の道にひきいれられるまえに、かれらの商売のロジックにおおいに警戒すべきなのである。







  専門家はわれわれからなにを奪ったか    2003/2/9


 専門家は個人や共同体の無能力を強化する。われわれの自前でやる能力、知恵や知識の蓄積、行動力や行為力といったものを奪った。専門家が成立するためには、われわれはその能力にたいして「無能」でなければならない。そして専門家に依存すれば、その能力を得られたように勘違いし、ますます依存の度合は高まる。

 専門家が社会で浸透するためには、恐怖が煽られる。90年代の心理学のように、だれもかれもが「異常者」であると煽られると、専門家の知識に頼らざるをえなくなる。心を安らげる知恵は個人やまわりの人たち、家族から奪われ、専門家はその必要性を高め、ますます個人や共同体の力は失われる。

 現代は経済学の時代である。経済学はもはや宗教である。経済さえよくなれば幸福になれると人は思っている。老後や医療の経済的保障さえあれば人生は安泰だと思っている。ぎゃくに経済が悪化し、企業が倒産し、将来の計画が立てれなくなると、人生はもうおしまいだと思う。宗教はアヘンである。経済に人生の全幸福を賭けるようになったのは、やはり専門家の活躍以外に考えられないだろう。専門家は世界観をその色に染めあげてしまう。

 現代の経済学者は中世の神学者なみにいるそうだが、かつて宗教は死後や霊魂の恐怖を煽り、その活躍の場をひろげ、死後と現世の幸福と安泰を約束した。そのことによって宗教者は強力な権力と支配の力を握ることになった。宗教は医療や政治や経済、教育などのさまざまな独占の力をもったのだろう。

 現代の教育は学校がになっているが、学校は人々から教える権利を奪い、自分で学ぶ機会を奪い、学校に行くことで教育が完了したと勘違いするようになった。教え、学ぶという個人の力を学校が奪ったのである。学校制度以外の学習や知識は信用されなくなった。ハコものと証書のみが重要になり、人々の評価力や学習力はどんどん無能になってゆく。

 専門化は人々を賢明にするよりか、個人や共同体の力を骨抜きにしてゆくばかりである。専門化はいちばん重要な中身を奪いとり、かたちや外側の充実のみをめざす逆転がおこり、その機能や内実低下をもたらす。

 病院もそこに行くことによって健康になれると勘違いする逆転がおこっているが、ほんらいは自分の健康管理や健康の知恵、自然治癒力といったものがもっと重要であったはずだ。医療の専門充実化はハコものの重要性を増し、個人の健康知識を警戒させ、無能力と専門家依存を増しただけなのである。

 専門化は個人の自前でやりぬく能力をどんどん奪ってゆく。制度や学問に頼れば能力が上がると思っているが、その中身より制度に頼ることが重要になり、必要とした能力はますます失われる悪循環におちいる。

 専門家はまた個人と共同体の能力の破壊も促進する。かれらが活躍するためは、個人や家族、共同体が無能でなければならないわけで、専門家はそれらの機能を批判し、ヤリ玉にあげることによって、みずからの必要性を増す。個人や家族、共同体の能力や絆は解体してゆくばかりなのである。

 生活や健康、老後の福祉が政府にになわれるにつれ、家族や共同体の解体はすすんでゆく。個人が孤立してゆくのは、福祉を家族やまわりの人たちから奪っていったからである。福祉を個人や家族から奪えば、その強力な絆はかんたんにほころびる。政府が福祉をになうことは果たしてわれわれに幸福や安泰をもたらしたのだろうか。

 現代は専門分業化の時代であり、個人の自前でやる能力はどんどん失われてゆく。家を建てたり修繕したり、服をつくったり繕ったり、料理をつくったり、自分たちで娯楽をつくったり、といった自分でやる能力はどんどん専門家に奪われてゆく。個人はどんどん骨抜きや丸裸にされてゆくばかりである。個人の生活能力の解体はわれわれにどんな危機をもたらすのだろうか。

 能力も知恵も、行為力も専門家に奪われてゆく。専門家は恐怖を煽り、われわれの無能力をあげつらい、自分たちの重要性や必要性をとなえ、われわれの知識や世界観をゆがめてゆく。解体されてゆくのは個人や共同体の能力、絆である。

 われわれに必要なのは専門家をチェックする判断力や選択力なのだろう。専門家を盲目的に信仰すれば、われわれは中世の宗教信仰者となんら変わりはなくなるだろう。専門家は商売や人の常として恐怖を煽り、その支配力や権力を強めようとするだろう。われわれはその知識を盲目に信仰するのではなく、恐怖を割り引いて考えなければならない。専門家を判断する力がわれわれには必要とされるのである。







   専門家は「恐怖症」産業である     2003/2/11


 専門家は恐怖を煽って市場を拡大する。不安に煽られたわれわれはまるで「恐怖症」のようになる。「創られた」恐怖のためにわれわれは専門家にすがりつくよりほかなくなっている。

 90年代は心理学が恐怖を煽った時代のサンプルになる。心理学者は犯罪報道と手を結び、人々の異常不安と排斥恐怖を煽り、そのマーケットと知識を広げた。専門家が活躍するときには恐怖が煽られるのは常套手段のようである。

 そういう目で見てみると、医者の恐怖煽情というのも長い歴史を誇っていてことに気づく。病気というのはたいへん恐ろしいものである。病気の恐怖を煽られれば、だれだって医者と健康の渇望を抱くだろう。

 さいきん「健康ブーム」というものが問い直されているが、異常に健康に固執する人というのは、医者によって「恐怖症」にされてしまった人たちなのだろう。マスコミにガンや生活習慣病に効くと報道されるとたちまち専門家の処方箋や健康法が飛ぶように売れる。まるで催眠術にかかった人か、パニック行動みたいなものである。

 ほんらいは病気を治す人たちが病気の恐怖を過剰宣伝し、その必要性と儲けを増やすというのは皮肉なものである。医者が「病気恐怖症」やさまざまな「病名」をつくりだしているのである。さらには恐怖はプラシーボ(自己暗示)を誘発し、じっさいに病気になる人もいることだろう。医者は病気を治すより、「つくる」ほうが多いんじゃないかと勘ぐりたくなる。情報化社会では結果が原因を誘発するのである。

 子育てや育児も専門家によって不安を煽られているのだろう。「育児ノイローゼ」とよばれたものは、じつはその専門家こそが基準や落第点を設け、ノイローゼをつくりだした張本人ではないのかと思う。

 学校は当たり前の存在になっているが、この教育専門家も人々の恐怖を煽り、その必要性を高めた歴史があったのだろうか。学歴がなければどの企業も雇ってくれない、浮浪者になると宣伝されれば、多くの親を脅かすに足るだろう。じじつ、いまでは高学歴がないと雇い入れない大企業も多い。

 しかしもはや学校は学習の機能をもたず、選別の機能しかもたず、個人の学習能力の無能を高めるだけになっている。ハコモノの滞在期間だけで学習能力が測られるようになり、ほんらいの目的である学習はまるで問われなくなった。学校は教育資格の独占をもつがゆえに親と大人の教育能力を奪い、学習能力の無能化を増した。ハコモノに依存するほど個人は無能になる。

 病院もそこに通えば健康になったと思い、自分の健康の知恵や経験が無能な人たちを生み出したが、専門家は制度の依存を目的の完成と勘違いし、中身をすっとばしてしまうのが、法則のようである。

 健康の不安をもつ人も多いが、老後の不安をもつ人はもっと多いだろう。この「老後恐怖症」とよばれてもよいものはいったいだれがつくりだしたのだろうと思う。保険業界や政府の年金システム、あるいは保障を与えて見返りを期待する企業なのだろうか。おかげで人生は老後の備えと計画のために大きく束縛されることになったが、歴史上の大半の人類は今日の糧を確保するだけで精いっぱいだったはずだ。いわんや野生動物が老後の備えをたくわえたりするだろうか。

 老後だけでなく、経済の将来の不安も大きい。ほかの国にくらべてかなり豊かな国のはずだが、それでもわれわれの不安は去らない。リストラ、倒産、不況、大恐慌と、恐怖を煽って儲けるのはだれだろうか。やはりわれわれは経済学者の恐怖煽情にかなり煽られているのだろう。大恐慌が再来すると脅かされるとわれわれは経済学者にすがりつかざるをえなくなる。処方箋があるといわれればなおさらだ。不況と恐慌のたびに経済学者の地位と儲けは増え、ウハウハだったのではないだろうか。

 経済学者の活躍とともにわれわれの頭も経済化されて、人生の幸福も安泰もすべて経済に帰結すると「信仰」するようになってしまった。現代の不幸は景気が悪いからではなくて、人生の幸福を経済にすべて還元する結果ではないのかと思う。原因をひとつの専門分野に帰結させてしまうのは、大きな過ちである。

 専門家は恐怖を煽って儲ける。恐怖や不安は際限がない。どこまでも膨らむから専門家はいくらでも儲けられるし、新しい不安を専門家はいくらでもつくれる。想像力の産業であり、「クリエイティヴ」な産業なのだから、恐怖の創造と展開はいくらでも可能である。

 われわれはそういう消費社会に生きている。欲望と不安は広告によっていくらでもクリエイティヴされる。だからわれわれはその法則をあらかじめ理解したうえで、恐怖を緩和するなり、割り引いて考えるレッスンをほどこす必要がある。

 専門家が煽る不安は信用しないことだ。新しい商売の手だと見なすことだ。さもないとわれわれは苦労の労働の成果をむしりとられるうえ、心身の健康を損われ、人生の大半を砂上の楼閣のために狂わされるかもしれないのだ。専門家はオオカミ少年か、恐怖の宣伝屋くらいに見なすのがいいのかもしれない。そのくらい警戒しないと、権威あり学識ある専門家にわれわれはころりと騙されてしまうものである。不安や恐怖にかんたんに煽られない心をもつ必要があるのだろう。





 ■心理学者・専門家を批判した本
 『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーケン 文春文庫
 『心の専門家はいらない』 小沢牧子 洋泉社新書
 『自己コントロールの檻』 森真一 講談社メチエ
 『ナルシシズムの時代』 クリストファー・ラッシュ ナツメ社
 『脱学校の社会』 イヴァン・イリイチ 東京創元社


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『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーゲン 文春文庫


















































イリイチ














































『心の専門家はいらない』











































































   
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