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■020725断想集





   落伍者のポジティヴな意味を掘り起こせ      2002/7/25.


 われわれの社会は強迫的な至上主義に追われがちである。労働至上主義とか恋愛至上主義とか、友だち至上主義とか、暗黙に支配するものから落ちこぼれることを強迫的に怖れる。

 みんな怖れるから至上主義に暗黙に従うのだが、やはりどこかに不本意な気持ちがないわけではない。落伍者になるのが恐いから落ちそうな他人を叩き、ずり落ちないように必死に至上価値にしがみつく。でも強迫的な至上主義はどこかおかしいと思っている。それでも落伍者のレッテルを貼られるのが怖いから降りられない。

 学歴の至上主義には不登校児や中退者があふれ、労働の至上主義には無職者やフリーターが増加し、恋愛や友だちの至上主義には孤独な怖れがつきまとう。

 落ちこぼれはじめた者はさいしょのころは病的なレッテルを貼られ、問題視され、なんとか「正常」に復帰するように励まされる。しかしそのような脱落者はじつのところ、至上主義の問題を敏感に感じとっているのではないだろうか。至上主義の意味の喪失や意味のなさを鋭敏にキャッチした結果、かれらは脱落してゆくのである。

 いわば至上主義の反動であり、至上価値への疑問符をつきつけているのである。学歴信仰にしても学校教育の知識の必要性はあまり感じられないし、労働信仰にしても物質的豊かさにあふれたいま、強迫的に働く意味もとうに失われているし、恋愛や友だちの至上主義にしても群れることの弱さや卑小さも露呈している。脱落者はそのシグナルなわけだ。

 しかし至上価値は容易には止まらない。強迫的な価値観というのは暴走列車みたいに止めることができない。みんなは暗黙に強迫的に従ってきたものだから、つまり無意識に従ってきたものだから、意識的に止めることができない。強迫神経症みたいなものだ。強迫的な盲従者はいつ止まることができるのだろうか?

 私がとくに問題にしたいのは、強迫的な労働至上主義だ。戦後の日本社会は労働や経済を神や信仰のように強迫的に祭りあげてしまって、「生産マシーン国家」と揶揄されても、それを止めることも、ゆるめることもできなくなってしまった。働くばかりではなんのために生きているのか、まったくわからなくなる。それでも強迫者は止まることができないのである。

 至上価値にはポジティヴな落伍宣言が効力を発するのだろうか。労働至上主義には無職やフリーターを自ら選択したり、恋愛・友だち至上主義には孤独の効用や意味を高々と掲げたり、といったように至上価値の相対化を図るわけである。落ちこぼれを誇ったり、優越感にひたったり、競争者をバカにできれば至上価値は薄らぐ。しかし自爆テロや殉死者的な面もないわけではないが。

 労働至上主義にはみずからが「だめ連」と名乗る人たちが現われたり、恋愛至上主義には小谷野敦が『もてない男』という本を出して話題になったし、友だち至上主義には諸富祥彦が『孤独になるためのレッスン』といういい本を出している。落伍することのポジティヴな面を強調しているわけである。

 こういう落伍することの相対化という方法は仏教や老荘が古くから行なってきた方法である。人々の競争的な価値観から脱け出し、傍観し、あざ笑うわけである。いまは価値一元化の時代でそういう人々や団体がいないのがひじょうに残念であり、不幸なことであると思う。

 社会は落伍者の社会への復帰を願うばかりではなく、落伍者のポジティヴな意味合いを見つけるべきなのである。かれらは強迫的な競争に対する警告者であり、相対的な視点の持ち主である。ヒート・アップした無意味な競争の傍観者である。

 かれらの視点を社会が共有したとき、強迫的な競争は正常値にもどることができるのかもしれない。社会のホメオスタシス機能といっていいかもしれない。現代の病者が異常に繁殖した社会は正常値にもどることができるのだろうか。自らの競争の異常さにどうやったら気づき、そして正常さに戻ろうと努力するようになるのだろうか。落伍者がゆったりと自然にふるまえるような正常な社会に戻るべきなのである。






   エゴを落とすということ    2002/8/1.


 エゴを落せば人生はたいそうラクになるし、神秘家は世界との一体感を感じられるというが、たいがいの人は死にもの狂いでエゴにしがみつく。

 エゴを捨てれば自分が自分でなくなると思っているし、プライドや自尊心がそれを許さないし、世間も考えるエゴをもてと推奨するし、羞恥心も手伝って、人はぜったいにエゴを手放さない。

 でもそういうエゴというのは単なる「いつわり」の自分にしか過ぎない。世間からよく思われたり、人からよく思われたりするためのいつわりの仮面にしか過ぎない。人はそういう世間体や対社会的な関係からタブーをつくりだし、自分をぐるぐるに縛りつける。守ろうとしているのはニセの自分なのにである。

 いつわりの自分を守ろうとして、人生は悲哀や恐怖に満ちることになる。それらをつくりだしたのはいつわりのエゴである。このからくりがわからないために、「よい自分」や「世間に認められる自分」を演じることが正しいと思いこんで、ニセの自分に意地でもしがみつこうとする。

 「考える自分」を手放せないのである。「考える自分」というのは思考がつくりだしたニセモノの「よき自分」にしか過ぎない。ニセモノを演じつづけることで人生は苦痛に満ちたものになる。

 エゴはさまざまな場面に顔を出す。過去や未来の自分に思いを馳せているときはエゴの仕業であるし、プライドや自尊心を守ろうとしてるとき、その裏返しである劣等感にさいなまされているとき、他人への見栄や世間体を気にするときもエゴが働いている。頭の中でイメージの自分を守ろうとしているとき、エゴはいちばん働く。

 われわれはこのようなエゴを落せるだろうか。もちろん落せない。そのために人生は苦痛や悲哀に満ちたものになる。それらを落としたとき、逆説的に心は平安になるということに気づかないし、知らないことだろう。

 心の中でエゴを大切に養い育てることがいまの社会の理想だからだ。滅私奉公や無私の献身による歴史の強烈な反省と悔恨があるからだ。意地でもエゴにしがみつく素地はここにある。

 私も滅私奉公はたいそう嫌いだったから、エゴを必死に守ろうとしてきたが、それはどちらかというと、苦痛と悲哀のほうが大きかったように思う。エゴや思考を捨てることの中に安楽があることを知るようになってだいぶラクになれた。こっちのほうが正解だと思う。

 ただ歴史のあやまちについてだが、これも逆説的に無我だったからではなく、エゴがあるがゆえのあやまちだったと考えられないだろうか。当時の多くの人がエゴを捨てて無我になり、悟れたとはとても考えられない。

 プライドや世間体というエゴのためにかれらは滅私奉公につきすすんだのではないかと思えないだろうか。エゴを捨てるということは、集団や国家などの観念や概念、権威や権力の欲求も捨てるということだからだ。

 エゴを落すということは心が解放されてゆくことである。社会や自分によって条件づけられた心を捨ててゆくことである。われわれはこの条件づけされた心によってがんじがらめにされる。それを落していったとき、心はほんとうの自由を手に入れられるのだと思う。瞑想で心を滅却していったところに、社会からつけられた心のヨゴレがとれてゆくのである。







    心身医学はどこにいったんだろう?    2002/8/2.


 「病は気から」というのはだれでも実感としてわかるものだと思う。あるいは心の不調はからだに現れるということも知っていると思う。それなのに現代の医学は心理的要素をほとんど無視している。医学にとって心は迷信にすぎないのだろう。タテマエが乖離しすぎではないかと思う。

 私は心理学の本はよく読んできたが、身体への関心がまるでなかった反省から、感情の身体への影響という点を探ろうとしたのだが、こういう本は驚くほど少ない。心理学は身体感情についてほとんど語らないし、医学はほとんど物質作用しか興味がないみたいだ。

 このあいだを埋める学問が心身症などをあつかう心身医学であるが、あまり注目を集めていないようだ。かつては精神分析が病気の象徴的意味を探っていたらしいが、そういう研究はいまはほとんど本で見かけることはないし、どちらかというとご法度のようだ。

 私はそういう病気の心理的意味ということにたいへん興味があるし、それは身体の心理的関心をひきだす良い契機になると思うのだが、科学的医学はそういう解釈は迷信や迷妄だとしてひじょうに嫌っているようだ。身体医学に心理学は踏み込めないのである。

 ただ現在はひじょうに心理学が盛んな時代である。人々の関心は身体の病気より心の病気のほうにひきつけられている。私も出来事や物事に心理的解釈をほどこすのがたいへん好きだ。経済や政治も心理的要素で見てしまう。しまいには田んぼのかかしにも人間の心を見てしまいそうだ。そういう人間が身体に心理的要素を探し出すのはとうぜんのことだろう。

 科学は目に見える物質しか相手にしないし、哲学や心理学は目に見えない心をあつかうところに、こんにちのエア・ポケットがあるのだろう。医学は哲学のように非科学的になってはならないのである。身体に心理学を導入することは非科学的で、歴史的な宗教と同様な迷妄なのである。

 私としてはものすごく残念だ。病気というのは心のありようや性格がもたらすものだという感が強いし、もしその相関関係がわかれば、病気をもたらすような心の持ち方を私は是正しようとするだろう。その情報さえ、いまはバカ正直な科学的態度のために手に入れにくいのである。

 たしかに身体疾病になんでも心理的要素のレッテルが貼られると、人々はそれを隠したり、否定したりするだろうし、精神主義的な修養を押しつけられたりしたらたまらないだろう。器官異常と診断された方がどんなにラクかわからないというものだ。また物質主義に徹した方が確実に進歩するジャンルがあるのもたしかだ。

 しかしそれよりも身体に感情的要素をまったく認められない認識のありかたのほうが問題と思う。身体というのは私の感情であり、情動ではあるはずだ。その関係を認識できないようでは、われわれは身体の無知のために器官性異常に容易に落ちやすくなるだろうし、自らの身体のコントロールもまったく不可能のままに陥るだろう。

 予防医学のためには身体は心理化すべきなんだと私は思う。身体を物資視しているだけでは、個人は自らの身体疾患を予防できない。医者に体を切り刻まれるまで、手がつけられなくなる。迷妄であったとしても、身体は心理化されるべきなんだろう。

 身体を物質作用のみだと見なしているようでは身体への愛着や興味はなかなか芽生えない。心や感情だと見なすようになれば、身体はわれわれにより身近に親しみやすいものになるものだと思う。病気との心理学的関わり、あるいは心の身体への関わりというものを私は知りたいと思う。






  恋愛と労働の至上主義はどのようにつくられたのか?      020/8/6.


 いまの世の中には「恋愛しなければ若者じゃない」とか「朝から晩まで働かないと大人ではない」といった強迫めいた観念が支配している。そういった価値観の高騰を至上主義という。

 みんなそこからずり落ちないように必死にがんばるのだが、その異常さにはどうも気づかないようだ。そこからずり降ちたら劣等感を感じたり、非難されたりして、人間「以下」の屈辱や恐怖を味わわなければならない。至上主義からはだれも降りられないし、だれも止められないのである。

 至上主義というのはいったいだれがつくりだし、だれがプロパガンダし、だれが協賛し、だれが広告・販売・宣伝し、だれが購買・消費し、口コミで広げ、だれが恐怖を煽り、だれがトクするのだろうか。強迫めいた「人間」のレベルはだれが底上げするのだろう。

 たとえば恋愛の至上主義はいったいいつから始まったのだろう? いまは若者向けの音楽にしろ、映画にしろ、マンガにしろ、TV番組にしろ、恋愛だらけである。だれも異常と思わないし、とうぜんのように受け入れている。このような状況はいつから始まったのだろうか。

 戦後の恋愛婚が見合い婚を抜いたときから始まり出したのだろうか。それ以前は恋愛のために結婚するのではなく、家のために結婚していたし、それが常識だった。恋愛が過剰に生産され、消費され、「人間の条件」になったのは比較的最近のことだと思う。恋愛が強迫的になりだしたのはバブリー期以降のことではないのか。

 至上主義が強烈に広まるのはおそらくTVの影響があるのだろう。情報をすぐに一元化・集約化してしまって、過剰にそれをプロパガンダする。一挙に広まるそれからだれも逃れられない。価値観の一元化だ。その一面の上で過剰な競争がくりひろげられ、「人間であること」のレベルも一挙にひきあげられる。至上価値のヒートアップには落ちこぼれる恐怖がつきものである。恐怖からの逃走がある。

 恋愛が過剰になったのは男が働き、女が家を守るといった男女役割があるからだろう。女は自立しては生きていけない。男という経済力に必死にすがるよりないだろう。恋愛の至上主義というのは食っていけなくなる恐怖が根底にあるのだろう。

 労働の至上主義はいつ、どのように始まったのだろうか。国民や民衆はこんにちのような働き過ぎの社会、過密労働社会をはじめから望んでいたのだろうか。労働に多くの希望や人生を託すような人生観は、労働者みずからがつくりだし、望み、受け入れていったのだろうか。

 私には国家の強制力が生み出したとしか思いようがない。政官財のトライアングルが国民をそのように駆り立てたのだ。政府は労働条件を厳しいものにすえおき、一方では健康保険や老後保障のアメを与え、女性の社会進出を抑え、家計の責任を男ひとりに背負わせれば、男は過剰に働かざるをえなくなる。

 男を経済の奴隷に追い込んだのである。男は労働至上主義に疑問を感じるより、仕方なく責任とプライドをもち、女性の独占権を手に入れ、過剰に賛同するようになるだろう。

 しかしこれがうまくいったのは高度成長期とバブル期までだろう。右肩上がりと成長確実の時代までだ。豊かさを感じて育ってきた若者には利益より損失のほうが大きい。男はあまり働きたくないと思っているし、女は家庭に閉じ込められるのはいやだと思っている。

 しかし現在でも恋愛の至上主義は加熱する一方だし、労働の至上主義は一向に是正される兆しはない。システムはなかなか変わらないということだろうか。男女平等になったといってもあいかわらず社会の男女役割のしくみは根強い。もしこの性別役割が是正されるようになれば、人々を苦しめてきた恋愛と労働の至上主義は終焉に向かうようになるのだろうか。これらの至上主義はジェンダーのあだ花だったのだろうか。

 男女の役割に疑問がさしはさまれるとき、ようやく労働の至上主義は終わりに向かうのだろうか。私としては「早く人間になりたい」ではなくて、早く「人間らしく」生きられる社会になってほしいものだ。







  フリーターに社会保障はなぜないのか?      2002/8/8.


 学校を卒業しても就職しないでフリーターになったり、たまにバイトしてぶらぶらしている若者はどんどん増えているわけだが、これは若者の職業観の変化と、企業が安い労働力に抑えたいという思惑が重なったところにあるのだろう。

 企業は正社員を減らしてコストの安いアルバイトを使いたいと思っている。コンビニやファミレス、接客業などのあらゆる産業の多くはアルバイトでまかなわれるようになっている。バイトなしでは世の中が回らなくなっている。

 企業がこんなにアルバイトを使い、若者たちに社会保障を与えないようなったら、この先社会保障はどうなるのかと思う。社会保障の負担が若者のところでどんどん腐蝕しはじめているのに、高齢化社会で社会保障費は増えてゆくばかりなのに、企業や政府はどう考えているのかと思う。いまでも年金受給者は2700万人で、労働人口は6000万人だという。このバランスの悪さには驚くほかない。

 どうも企業は従業員の社会保障費を払いたくないみたいだ。正社員なみの労働時間や仕事で働かせていても、社会保障費は払わない。企業は政府が率先している社会保障をどうも負担したくないというか、放り出したいみたいである。政府はこのような現状をどう考えているのだろうか。

 企業の政府にたいする裏切りや反逆ではないのか。おかげで若者は社会保障費を払えないし、将来の計画や安心もほとんど手に入れられない。社会保障や若者の将来、老後はいったいどうなってしまうのかと思う。国民の健康と老後を支える社会保障はあったほうがいいのか、それともないほうがいいのか、わからなくなる。

 若者が就職しないでフリーターになるのは企業のアルバイト需要が正社員より多いからである。若者の勤労意欲が低くなったこともあるが、やはり企業側の論理である。若者の勤労意欲を非難するのは酷というものだ。企業は高度成長期のように正社員を必要としていないのである。そして社会保障も与えない。世間の親たちも安定した正社員になれというが、その親たちが構成する企業は正社員を減らしたいのである。

 そのような条件のうえに若者の勤労意欲の低さがある。長時間労働の正社員のように働く意欲も切迫性も豊かさゆえに感じられないし、とりあえずは親の経済力に頼ればなんとかなるし、アルバイトでもいちおう食えるし、だいいち若者は職業や労働の意味がすっかりわからなくなっている。

 学校というのは労働の現場や労働の意味合いというものからどんどん遠ざかってきた。生徒は工業地帯から切り離された住宅街で育ち、学歴は職業から離れた抽象性のほうばかりに価値をおくようになったし、教師も実社会の職業経験をもたないし、いまの職業に必要な社交力の育て方も知らないし、父親は長時間労働だし、母親も実世界を知らない。生徒の職業観が育たないのはとうぜんだ。

 企業もちょうど中高年の上昇する人件費でパンク寸前だし、したがって職業観のない若者に安い人件費と社会保障のカットをしわ寄せする。中高年は既得権益の安定を得ようと必死である。おかげで若者は職業力が育たないし、社会保障も払えないし、つまりそれはみずから未来の産業の力と社会保障の財源を破壊しているということだ。未来への最悪の構図である。この国は最低の組み合わせがかなり好きみたいである。

 早く社会保障のケリをつけなければならないのだろう。オランダのように正社員の給料を下げてフリーターもすべて社会保障に参加させるか、あるいは定年制度を全廃して生涯働ける社会をつくってゆくかだ。たぶん定年と年金をやめたほうがよりよい健全な社会がつくれるのだと思う。

 国による社会保障というのはいろいろな歪みや不公平をつくりだす。破綻しかけの社会保障にしがみつくより、年をとっても働ける社会にしたほうが安心だし、ムリな労働もしなくてすむというものだろう。あ〜あ、私も将来がコワイ。。






  尊大な自己とみじめな仕事     02/8/21


 たくさんの書物、難解な知識をひもとくことができれば、あたかも自分の価値観が上がったように思いがちである。しかし私に与えられる仕事、私ができる仕事は社会の片隅のどうでもいい仕事ばかりである。

 内面の偉大さと社会でのちっぽけな存在。この矛盾のために社会での仕事のたいがいが卑小でするに値しないものに見えてしまう。内面の偉大さをかこつと、社会での仕事の多くはつまらないものに見えてしまう。

 どうもこの社会は教養の価値観に失敗したみたいである。社会で必要な価値観は社会で生きる力である。カネを稼いだり、カネを儲けたり、社会的地位を得る、といった職業にかかわることが多くの人にとって必要な価値観だ。

 しかしこの社会は教養の価値観や学歴の価値観をもちあげすぎた。教養の価値をあげれば、学歴さえあれば、社会で生きていけるような錯覚をおこした。育ったのは誇大な自己と職業の蔑視だけである。社会的無能力だけである。教養がどんなにあっても、カネを稼ぐ能力がなければ、この社会では生きてゆけない。

 教養の価値観がひとり歩きして尊大な自己をつくっただけのように思う。職業的能力、職業的価値観といったものをひきはなし、蔑視してきただけのように思う。社会の片隅で、モノをつくったり、モノを売ったり、カネを稼ぐ、といったことの軽視がおこなわれてきただけだと思う。

 われわれに必要なのは教養や知識を高めることではない。カネを稼ぐ能力、仕事を遂行する能力、毎日のルーティンをこなす能力、社会での片隅や底辺とよばれるところであっても地道に仕事を愛する能力、こういった職業意識が必要なのではないだろうか。労働を蔑視せず、愛する能力が必要だと思う。教養というのはどうも労働と周辺の蔑視をつくりがちだ。

 教養のほかに消費も自分のおとしめられた価値観をひきあげようとする試みである。消費や趣味というのは、虐げられた労働者たちが自分の価値観をとりもどすためのささやかな試みだといえるのである。労働でのちっぽけな自分の価値観をとりもどすために、われわれは高い車を買ったり、高価なブランド品を身につけたり、高級な書物や映画を鑑賞するのである。

 高級品を消費することによって自分の価値観を高くひきあげるのである。車やブランド品、映画などにはそれぞれグレードや階層がある。それらを消費することによってわれわれは自分の価値観があがったと思いこむ。消費というのは自分の価値観をひきあげる試みである。

 高くひきあげられた自分の価値観は、実社会での低い地位、ささいでつまらない仕事とぶつかり合う。社会に出る前に親の豊富な財力によって自己の価値観をインフレさせた若者にとって職業というのはたいへんな苦痛と屈辱である。王様から奴隷への転落のようなものだ。

 われわれはこの転落をのりこえる必要があるのだと思う。尊大な自己価値というものをそのまま維持しようとするか、それとも捨てる必要に迫られることになるだろう。維持は消費や趣味の価値観で生産能力を身につけることであり、それが叶わなければインフレした自尊心を捨てるほかないだろう。

 いずれにせよ内面の偉大さは捨てるに越したことはないのだろう。自分を偉大だと思いつづけると、必ず現実と衝突し、現実から痛い目を会わされる。自分の偉大さを満たさない社会的環境をすべて拒絶してしまうことになるからだ。そんな世界はどこにもないネバー・ランドだ。自分の高い価値観を捨てなければならないときは必ずくる。また価値観を捨てたほうがラクだと思う。

 この社会は自分の価値観を高めてくれる消費や商品に事欠かないだろう。しかしこの価値観によって現実との苦痛に満ちた衝突を導くのなら、価値観を捨てたほうがよほどラクというものだ。いずれにせよ、そんな価値観はまやかしである。だまされているだけである。

 カネによってかんたんに得られた価値観にだまされずに、われわれは地道に社会で生きる必要があると思う。これが消費社会での堅実な生きかただ。われわれは社会での卑小でちっぽけな存在から出発する必要がある。

 そこから価値観をとりもどすのではなく、卑小な存在であるという価値観や認識を落とす必要があるのだろう。劣等や劣位という価値観やものさしから離れることができたときのみ、われわれは卑小さやちっぽけさから自由になれる。

 卑小さを生むとき、われわれは優越の価値観をつくってしまい、そのトンネルから逃れられなくなる。偉い自分になろうとする心の底には、必ずみじめな自分がはりついている。卑小さを悲しまなくなったとき、われわれは自分の価値観というワナにはまらずに、ほんとうの自信と自由をとりもどすことができるのだろう。





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