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■020627断想集
精神活動としての筋肉





  内臓は身体から鍛えられる?     2002/6/27.


 『内臓を強くするスポーツトレーニング』(監修野沢秀雄/成美堂出版)という本がある。えっ?、内臓がトレーニングで鍛えられるのかと思うが、内臓は外部からの刺激でも活発になるみたいである。

 たとえば胃を鍛えたいと思えば、そのまわりの筋肉を鍛えたり、刺激を与えたりすると、血のめぐりがよくなったり、活発になる。

 内臓は身体の外側ともつながっており、筋肉への刺激は内臓の刺激にもなる。あるいは外側の筋肉は即内臓の筋肉ともいっていいみたいである。だから内臓をよくしたいと思えば、外側から刺激を与えればいいのである。

 胃を鍛えたいと思ったら、肩甲骨をくっつけるようにしたり、胸をそらせて胃袋に血液を送ったり、ストレスで収縮した血管をゆるめるために手でみぞおちを押したり、胃の痛みがあらわれる背中のコリをほぐしたりする。

 腸が弱い人は多いと思うが、ここを鍛えるためには腹筋を強めたらいいわけだ。ひねりながら上体おこしをしたり、腹痛のところをさすったり、ほぐしたり、背筋と腹筋、下腹部を鍛えて血行をよくしたらいいそうである。

 心臓を強くするには心拍数のあがる運動をしたり、大胸筋を鍛えたり、全身の血管がつまっていたら話にならないので血流がよくなるトレーニングが必要なようである。

 肺は大胸筋を広げたり、広背筋や背筋を鍛えるのがいいみたいである。肝臓は肋骨の下あたりをストレッチする。

 ストレスには手を組んで背伸びしたり、そのまま横に倒したり、前に倒したりしたらいい。筋肉がこわばっているから伸ばしてやり、血行をよくするのである。

 いらいらしたら、頭にのぼった血を降ろすために足指の屈伸をする。血液の流れというのは全身にとってひじょうに大切みたいである。不調なところには刺激を与え、血行をよくし、集まり過ぎれば分散してやり、また関節や筋肉を伸ばしてやることによって血行をよくする。外部からの刺激によっても血液の流れを変えることができるのである。

 私は身体に無知だったため、体の不調の理由やメカニズムもわからなかったし、身体活動にほんろうされることも多かったし、手のつけようもなかった。しかし身体のメカニズムを知ることにより、自分の体は自分の意志や外からの刺激やトレーニングによっていくらかはコントロールできることを知った。「身体の犠牲者」からようやく解放されるかもしれない。







   病気とは心の象徴である      2002/6/27.


 倫理研究所というところが出している『心とからだの健康学入門』(新世書房)という本がある。鮮やかなまでに病気と心の関係を切り開いていて、私は思わず名著だと唸ってしまったのだが、医学書は心身因果関係をはっきりとはとりあつかっていないみたいなので、まあ過信と盲信は慎もう。要諦を簡略にしめそう。

 胆石というのは真面目で正義漢であるため、怒りや不満をため、許せず、石のように頑固な人そのままに石をためてしまうそうである。

 胃潰瘍というのは自分中心で不足不満の心があり、わがままで、精神的消化不良の性質がそのまま胃にあらわれるそうだ。

 糖尿病はひどくなると身体が動かせなくなるみたいだが、自分から動こうとしないのに意のままにしたがる人が象徴的になるみたいである。

 腎臓病は尿が出ず、出るときは必要な蛋白質まで出してしまうが、言いたいことを言えず、心に余分なものを溜め、しまいに爆発する人がなるそうである。

 痔疾はなりゆきに任せられない人が肛門や直腸を収縮させることから起こるということだ。肺結核は胸を閉ざした人がなる。周囲を責め、嫌い、排斥する心の狭さがあらわれる病気だ。

 喘息は人を拒絶する心が気管支を収縮させる。関節リウマチは強情で堅くて他人と強調できない心が関節の痛みとなってあらわれる。

 腰痛はプレッシャーや期待の重圧に押しつぶされた姿、脳卒中はがんばり屋で人に任せられず不信になる人が、怒りで血を頭にのぼらせ、血管を破る。冠状動脈硬化は生命線の硬化であり、つまり親という生命線の断絶があらわれたのだという。低血圧はそのまま低エネルギーな人のあらわれ。

 近視は苦しいことを見たくない、見られたくないという心の象徴である。見えなくなることは心の防衛反応である。生きる空間が狭小化された人がなる。

 ガンはそれぞれ疎外感や社会的断絶を感じている人、怒りや攻撃心を抑圧し、過剰適応した人、勝ち気で負けん気が強く、頼れない人がなるそうである。子宮ガンになる人は性的嫌悪や女性嫌悪があるみたいである。

 神経症は親の愛を感じなかったり、拒否する人がなる。それは与えられた環境を拒否する心につながる。

 なるほどと思う。心のありようがそのまま身体にあらわれ、病気としてあらわれるのである。心と病気は並行しており、そのまま象徴しているといえる。ここまで性格と病気は相関しているのかと驚きである。

 健康になるためには親や人に感謝し、愛をそそぐこと、いつも心に何も残さず、思いもとどめないようにし、前向きな言葉を用い、人の長所と労をねぎらうことが必要だといっている。

 この本の中の自分の病気の原因となった性格の歪みを知り、心を改め、治癒してゆくエピソードは感動的である。病気やからだが不調になったときは、その原因となった自分の心の歪みを知れということである。






   今回のドラマ評 『天国への階段』ほか      2002/7/1.


 今回のドラマの中では『天国への階段』がいちばんよかった。北海道の農場を奪われた父のための復讐という、いまごろ何故こんなドラマがという時代がかった設定だったが、ドライで非情な男たちの行動が、ハードボイルド風でかっこよく、ゆいいつオトナ向けのドラマだと感銘した。

 このドラマは父と彼女を奪った政治家にたいする憎悪と復讐に生きる佐藤浩一が主役なのだが、いちばん感動したシーンはかれを慕い、命まで忠誠を誓う加藤雅也が死を覚悟して、最期の別れにたばこを一服もらうシーンだった。涙がぼろぼろ出てきた。久しぶりに泣けたドラマだ。名作だと思った。ここがラストになったほうがよかったと思わなくはない。

 佐藤浩一は復讐を誓うさなかに自分が知らないうちにふたりの子どもをつくっており、そのうちのひとりの息子からは養父の殺害の怨みを買い、一方の娘からは愛されるという関係になっていた。また加藤雅也からは命を賭すまでの厚い信頼を寄せられていた。

 かれは復讐と憎悪に生きてきたが、実の息子からは自分と同じような復讐を誓われ、たくさんの人たちからは愛され、慕われていた。復讐を誓う男がじつの息子の復讐の対象になり、復讐に目がくらんでいたかれはたくさんの愛し慕う人たちの存在に気づかず、かれらを傷つけ、失うさまは圧巻であった。

 ラストシーンは南の島で佐藤浩一は笑いつづけていたが、かれは復讐を捨てることができたのだろう。憎悪と愛が複雑に絡み合い、巧妙にいりくんだ様はひじょうに感嘆させられたドラマだった。いいドラマだった。

 復讐と愛といえば、『眠れぬ夜を抱いて』も同じようなテーマをあつかっていたと思う。このドラマの場合は、家族がメインテーマになっていた。妻は、子どもは、家庭は、男の復讐心を愛で溶かせることができるかというテーマであったように思う。自分の家族がつくられた理由が、復讐を誓う家族に近づくための偽装であったかもしれないという疑惑は、見せかけの家族を装っているかもしれないわれわれに対する痛烈な批判であったのかもしれない。

 『夢のカリフォルニア』は社会に出ることのとまどいが描かれたドラマで、リストラ親父や職場のうっぷん、売れないモデル、リストラ彼氏、バックパッカーなど、身近な題材に共感を覚えた。でも主人公の性格どおり優柔不断のドラマだった。どうせ迷うならもっと反逆的なヒーローを創出してほしいと思うのだが、みんな穏やかで平和的で順応的に終わった。「この先いいことなんか何もない」と自殺した友人みたいに大きな光も希望も見えなく感じられたが。

 『First Love』は教師と生徒ゆえの実らない愛がメインだと思っていたのだが、どうも親に愛されない長女の恨みがメインであったのかな。まあ、ずるずると見つづけたが、あまり見ていても仕方がなかったのかもしれない。

 『空から降る一億の星』はキムタクに女心を操る神秘的な悪役をやらせたかっただけのドラマだったのかなと思う。あまり怖くもないし、魅力的でもなかった。むかしのつながりそうな殺人のナゾもひっぱりすぎだ。それにしても、エルビス・コステロって『She』以降ものすごくとろけそうな甘い唄を歌っているが、むかしからこんな甘かったけ。

 『ビッグマネー!』は冷酷無比な銀行マンの原田泰造の演技がスゴかったので、これだけに魅きつけられて見ていた。銀行はずいぶん悪役になっていたが、人間的な道徳心が経済に勝つなんてことは夢のまた夢ではないのかと思った。私たちだってつぶれそうな個人商店より、安売りチェーン店に駆け込むではないか。強者には道徳心を説くより、ノブリス・オブリージュ(高貴なるものの責務)と放蕩散財を説いたほうがいいかも。






   心臓の喜び、肺の悲しみ、肝臓の怒り    02/7/12.


 整体師の寺門琢己の『かわいいこころ』(メディアファクトリー)という本には、臓器によって異なる性格タイプが紹介されている。

 肝臓タイプは怒りが行動の原動力でシャープ、心臓タイプは喜びと行動派、肺臓タイプは悲しみとクール、脾臓は憂いと頭脳労働、腎臓は恐怖とスマート、といった具合である。

 臓器がなんで感情と結びつくのか、しかもなぜある感情を司るのかということがものすごく疑問だし、どうしてそんなことがわかるのかと思った。われわれの感情は果たしてそれらの臓器でほんとうに感じているのだろうか。

 これはもともと東洋医学の古典的な名著『黄帝内経』などで語られてきたようである。「喜は心を傷つける。怒は肝を傷つける。思は脾を傷つける。憂は肺を傷つける。恐は腎を傷つける」

 タイ出身のアメリカの気功指導者・謝明徳(マンタク・チァ)もいっている。「肝臓の怒り、心臓の憎悪・残酷・焦り、脾臓の悩み・不安、肺の悲しみと憂うつ、腎臓の恐れ」――津村喬『疲労回復の本』(同朋社)から引用。

 それにしてもなぜある臓器はある感情を司るのだろうか。心臓が喜びを司るというのは容易にわかる。ドキドキワクワクは心臓の鼓動によって感じられるものだ。喜びはたしかに心臓で感じられる。でも驚きも恐怖も心臓のどっきんどっきんという鼓動でも感じられるはずだ。分量の問題なのかな。

 肺は悲しみだ。呼吸を司る臓器がどうして悲しみと結びつくのだろうか。連想からかつての文学者たちは肺結核をわずらっていたことが思い浮かぶ。この連想なら納得だが、呼吸と悲しみの関係がどうも結びつかない。悲しみは息を少なくするということだろうか。

 肺臓タイプというのは肺を活発に使いたいタイプのようである。それが叶わないとき、息苦しさから悲しみに陥るそうである。悲しみに落ち込むとき人は首をうなだれ、肩をすぼめる。息苦しくなる。それで肺の障害をおこす。このタイプは心を閉ざす性格にぴったりである。

 肝臓は怒りと結びつくとされるが、肝臓というのはアルコールの解毒などをおこなう臓器である。なぜ肝臓が怒りなのかと思うが、肝臓は筋肉をコントロールするところでもあるらしい。怒りというのは筋肉でばりばりに固めるものである。この結びつきでなら納得できる。肝臓タイプは筋肉エネルギーを発散したいのである。

 脾臓が憂いと結びつくのはかなりわからない。そもそも脾臓の存在すら知らない。脾臓というのは血液やリンパ液のコントロールや胃や十二指腸のコントロールをおこなっている臓器だ。胃が関係しているといことで憂いとなんとなくつながりそうだし、失恋によって免疫であるリンパ球がどっと減ることからもつながっていそうだ。

 でも脾臓で憂いを感じることができるだろうか。そもそも脾臓ってどこにある? 脾臓は左肋骨の下あたりにあるみたいだ。こんなところで憂いを感じている? 

 腎臓は恐れである。腎臓は小便などの身体の水分調節を司っているが、どうして恐怖と結びつくのだろうか。人間は水分を枯渇すると死にいたるから恐怖と結びつくとされているが、空気も食物もなくなってしまえば死にいたる。肺や胃は恐怖と結びつかないのだろうかと思うが。まあ、体の全細胞には海から生まれたがゆえに水がとても重要であるということである。

 腎臓タイプは恐怖から知識を収集し、恐怖によって感情を発散させることを好むそうである。腎臓は脇腹のやや後ろ寄りに対にある。う〜ん、恐怖は脇腹でぞくぞく感じたいもの?





   精神活動としての筋肉      2002/7/16


 筋肉は運動のためにあると一般に思われているが、精神活動のためにあると考え直すべきである。筋肉を精神活動と思わないと、知らない間に筋肉の緊張は精神的不安定と病気をもたらすからだ。

 まったく筋肉の精神活動としての役割がすっぽりと忘れ去られている。筋肉による身体の感情というものがすっかりと抜け落ちている。おかげでわれわれは感情や身体のノン・コントロール状態に苦しまなければならないし、こりや痛みをほぐすマッサージ師に頼らなければならないし、さらには臓器異常をわずらって医師の厄介にならなければならない。

 筋肉というのはわれわれの心であり、感情であり、精神活動なのである。心理学の項目のひとつに筋肉をぜひとも入れてもらいたいものだ。筋肉とは精神である。

 こういうことにいちばんよく気づいているのは筋肉のこりや痛みをほぐす整体師やマッサージ師だろう。かれらは首や肩、胸や腹、背中や腰の緊張や痛みから、心の心配や不安、怒りなどを察することができる。それらはからだの各箇所の筋肉の緊張やこりとなってあらわれるのである。

 しかし整体やマッサージというのは事後処理である。本人が緊張をおこす瞬間の対処やゆるめ方を教えるわけではない。できれば、緊張を自らが防げる方法を知りたいものである。

 筋肉とはやっかいである。自分で筋肉を固めておきながら、自分でそれをゆるめることもできない。さらに筋肉の緊張はすでに自動化されており、瞬間的なものであり、それはすでにパターンやスタイルとして定着してしまっている。かつて自分がつくった緊張パターンは自分でほどくことも、ゆるめることもできないのである。

 精神活動としての筋肉はいくつかの役割があると思う。ひとつは純粋に感情を感じるための筋肉緊張である。怒りは肩や腕を、恐れや不安は胸や腹を、といった具合に筋肉を固める。この緊張の傾向がパターン化されると、その人の精神傾向すらパターン化してしまうことになる。同じ考えをぐるぐる回る場合というのはこういう筋肉の固形化があるのだろう。

 また筋肉の緊張は人との壁をつくるために用いられるときもあるだろうし、人や世界から守ろうとする城壁の役割も果たしたり、不都合な感情を抑えるときにも用いられる。たとえば人との壁は胸の緊張に集中し、城壁は首をすくめることによって果たされたり、不都合な感情はアゴで食いしばられたりする。こうして緊張はこりや痛みとなり、精神をひとつのパターンにはめこみ、さらには病気にいたる。

 われわれは無意識におこる筋肉の緊張を防ぐことができるのだろうか。そのためには自分の筋肉の緊張のパターンに気づく必要があるのだろう。われわれはからだのどこかの筋肉が緊張しているなどまるで知らないのだ。これでは制御することすら不可能だ。

 さらには緊張をゆるめたり、リラックスさせることもかなりむずかしい。せいぜい後処理としてストレッチや体操、ヨガができるくらいだ。緊張をその瞬間からゆるめるには、筋肉を弛緩させる心の平安や愛の感情に満たされる必要がある。といってもそんなことができないからこそ、われわれは筋肉を硬直させるのだが。

 まあ、われわれはストレスが集中する頭や胸などの上半身に意識をあわせるのではなく、なるべく心の安定をもたらすと思われる腹や足などの下半身に意識をもってくるのがよいようである。頭に意識を集中させるとやはり筋肉も緊張する。ときほぐすには焦点をずらす必要があるわけである。筋肉とはやっかいなものである。






    感情にまつわる筋肉のナゾ      2002/7/24.


 たいていの人は怒りや恐れなどの感情が起こるとき、体の筋肉が緊張していることに気がついていないと思う。気づいているのは整体師くらいで、本人はその緊張をコントロールすることも緩めることもできないし、緊張が過剰になると身体がコントロールできなくなったり、こりや痛み、さらには病気までひき起こすことも多くの人に気づかれていないと思う。

 そもそも感情を身体で起こるものとして捉えている人も少ない。感情を心の問題としてのみ捉え、身体の問題として捉えることもない。感情が身体にどのような状態をもたらしているのかと問う医者や心理学者もひじょうに少ない。身体感情の延長が病気とも考えられるのにである。これはいったいどうしたことかと思う。

 筋肉の存在が人々の視野からすっかり抜け落ちている。筋肉というのは運動を司るだけではなく、感情も司っていると知るべきだ。運動のための筋肉だけではなく、「感情筋」という存在を認めてもいいと思うくらいだ。

 感情筋というのはほとんど随意筋ではなく、不随意筋だ。怒れば肩や背の筋肉が立つし、不安や恐れは胸や腹の筋肉を固めるし、さらに恐怖には背筋をぞーっと立てるし、頭皮の筋肉もきゅっと縮められることもある。われわれはたまに気づいているのだが、なぜかその知識を集めてなにかに役立てようとしない。

 この筋肉がやっかいなところは、自分の知らないところで勝手に緊張し、その緊張状態が長くつづくと、運動で疲労した筋肉と同じくこりや痛みをもたらすし、緊張はひとりでに緩まることもなく持続し、しまいには血液やリンパ液の滞留をもたらし、その箇所が病気になると思われるのだ。

 つまりストレスが解かれないということだ。ストレスというのは感情筋の緊張と継続といってもいいのだろうか。解かれない筋肉の緊張は身体不調の原因となり、さらには器官性の病気になったりする。われわれはこの感情筋のストレッチや弛緩法を自分のものにできないものだろうか。あるいは運動系のストレッチでそれはとき解すことができるのだろうか。

 感情筋が緊張するのは身体の防御のためである。怒りや恐れは自分の体を筋肉の鎧で守ろうとする反応である。だからこういう感情の反応をよくする人は感情筋の緊張を継続しがちだ。それは血液やリンパ液の滞留をもたらし、内臓のはたらきを低下させ、病気になる。敵から守ろうとした身体は内部から力尽きてゆくのである。

 だからわれわれは筋肉の鎧をもたらすような心理反応はすべきではなく、つまり筋肉の弛緩をもたらすような世界や他人への信頼や愛、喜びが必要になると思われるのだが、それが叶わないのなら、せめて感情筋の緊張の不要さを知り、リラックスと弛緩のほうが力をもたらすことを知るべきである。現代社会に緊張の鎧はまず必要ないのである。緊張に気づいたのなら、なるべく筋肉を弛緩するに越したことはない。

 われわれは現代社会において原始人のような筋肉の鎧を用いているのである。不快な感情というのはおそらく体のどこかの緊張を招いているはずだ。たとえば首であったり、アゴであったり、肩や背中、腹であったりする。だからわれわれは緊張を解いたり、リラックスしたり、弛緩したりするテクニックを身につけておくべきだろう。さもないと休息したり睡眠したりしない身体は、疲労を蓄積してゆく一方なのである。

 それにしても、どうして感情にまつわる筋肉の存在は無視されつづけてきたのだろう。ちょうど医学と心理学の谷間のエア・ポケットだったからだろうか。みなさんは感情の身体変化にどれだけ気づいていましたか?




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『内臓を強くするスポーツトレーニング』 監修野沢秀雄/成美堂出版





































































































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