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本文へジャンプ ▼テーマは筋肉と感情 

 


020520断想集
筋肉から感情を解きほぐす




  ストレッチは筋肉だけではなく、心も伸ばす    02/5/20.


 現代人は頭だけで生きていて、たいていは身体を忘れている。言葉と知識がとても重要である。しかし自分の身体の働き方を知らないばかりに私たちはどんなに愚かな目や、身体機能の犠牲者になってきたことか。

 医学というのは身体を機械とそのパーツにしか思っていなくて、身体を心だと見なす知識はほぼもっていない。心理学は心だけを相手にして、身体を無視する。どちらも片方ぬきで片われだけを癒すことなんてできないのだ。

 私は読書好きのスポーツ嫌い、怠惰な人間で、さいわい病気もあまりしなかったおかげで、自分の身体のことはまるで知らなかった。身体のコントロールの仕方を知らないばかりに、身体機能に傷めつけられる目に何度か会ってきた。

 身体が緊張や不安のときにひとりで暴走してしまうのである。身体としてはとうぜんの防衛反応をおこしただけなのだろうが、私はそのような身体反応のブレーキの踏み方を知らないのである。身体の扱い方を知らないばかりに、身体の犠牲者になってしまう愚かな目に会ってきた。だから身体機能と身体のコントロール法を知らなければと思うのである。

 とりあえずは筋肉から知りたいと思う。私は筋肉が緊張したり、硬直したりしたままでも、みずからのその解き方を知らない。継続した筋肉の緊張は疲労を高め、身体機能を損い、心を追い込む。身体を主観的に知るためにはこの筋肉のメカニズムを知りたいと思うのである。

 たまりにたまった緊張を解きほぐすにはストレッチが効く。いまのストレッチはほぼスポーツなどのフィットネスと思われているが、これは心の癒しや解放でもあると思っている。緊張が継続した筋肉はそのまま心のこわばりだと思うからだ。

 足や手が心だとは思えないかもしれないが、やはり間接的には心につながっているはずだ。不安な心は腹や胸などの筋肉を緊張させるし、怒りや怨みは背中の筋肉をこわばらせる。硬い鎧となった筋肉は酸素や血液の流れをとどこおらせ、身体を疲労させ、心を弱らせる。だからストレッチによって心を解放しなければならないのだ。

 とくに首と肩、背中、胸と腹のストレッチは念入りにおこないたい。固まった筋肉は、そのまま心のストレスだと見なすことが必要なんだろう。筋肉をストレッチすることによって、心の緊張やストレスも解きほぐす。

 目の疲れや視力低下も筋肉の緊張が継続しているからだろう。目の緊張はやはり心の緊張や恐れも現わしているのだろう。「目は心の窓」だ。眼筋のリラックスは心のリラックスにも結びつくのだろう。

 口や顔の筋肉もストレッチさせたい。顔というのはけっこう緊張が積み重なるところだ。凝り固まった顔の表情が、私たちにパターン的な感情を味わわさせるのではないだろうか。顔は忘れがちになるが、筋肉で動いている。

 いまのところ、私には筋肉のストレッチが心の癒しや解放そのものだという実感をもつにはいたっていない。筋肉は筋肉で、心とはまた違ったものだという意識がないわけではない。でも筋肉の緊張は心の緊張を現わしているのだと考えるほうが、身体の調子や理解を深めるのによい方法であるのはたしかだろう。身体も心のようにたえず注目し、ていねいにとりあつかうべきなのである。





   しぐさに現れる心と体       02/5/23.


 人間は無意識のうちに体のさまざまな箇所に手をやっているが、なぜその箇所なのだろうか。たとえば「困ったな」というときには首のうしろに手をやるが、なぜその箇所が「困った」という感情と結びつくのだろうか。困るときにはほんとうに首が緊張し、手によって緩めようとするからだろうか。

 こう考えるなら、ある気もちを表わすときに手が接触する箇所というのは、その感情と緊張になんらかの結びつきがあると考えることができる。

 人は考えに行きつまったとき、頭をかいたり、かきむしったりする。頭に新鮮な血液を送り込んで、新たな発想を導くためだろうか。歩き回ったりするのも、全身の血流をよくするためだろう。考えに行きつまるとは頭が硬くなり、血流がゆきわたらなくなることなのだろうか。

 照れたときなんかはこめかみあたりをぽりぽりかく。ジェスチャーの要素が強いが、照れの感情はこめかみあたりをこそばいものにするのだろうか。

 よくスーパーで見かけるおばちゃんのほおやアゴに手を触れるしぐさ。彼女たちは食事を選ぶという行為にプレッシャーを感じて、ほおやアゴを緊張させて、手によってそれを緩めようとしているのだろうか。

 なにげないときにアゴをさすっていたりする。手の接触によって自分を慰めているわけだが、アゴというのは心配や不安のときに緊張する箇所なのだろうか。

 自慢を感じたりしたとき、鼻をかいたり、ふれたりする。自慢というのは鼻を敏感にするようだ。

 唇をさするという行為もたまにする。唇が緊張するときというのは、おそらくウソや隠したいことがあるからだろう。

 気分が落ち込んでいたり、内気な人は背を丸めるように、胸や腹を腕でかばうような姿勢になる。腹や胸が無防備に感じるような状況におかれているからだろう。

 自信があるときは胸をはって背筋をのばして歩く。胸や腹を守らなくていいということである。この姿勢は呼吸や血液のためにはよい姿勢であるし、考え方も自信に満ちたものにするのだろう。

 怒っているときは怒り肩になる。肩を怒らせて大きく見せるためである。怒りを心理的にしか捉えられない人は、肩凝りや腰痛がこの緊張からきていることに気づかない。

 このようにしぐさや姿勢はその人の心や感情を表わす。ぎゃくから考えれば、体のある部位はある感情をあらわしたり、緊張したり、敏感になったりすることを知るための手がかりになる。う〜ん、なるほど、ある感情は体のこういうところに現れるのかとわかるということである。






   依存のよい面を見つける     02/5/25.


 依存なんか情けないことで、自立こそがめざすべき最高の価値だと私はつっ走ってきたが、本屋で精神科医の和田秀樹が『成熟した甘え』という本を出しているのを見かけて、眼からうろこが落ちる気がした。

 甘えや依存も成熟した心には必要であるという主旨であったと思う。そんなことを露とも考えてもみなかった。

 自立をうながすテキストは事欠かない。社会学や哲学の本では、集団や群集を批判することで、それらが嫌いになり、距離をおき、自立を自然に刷り込ませるものばかりであったと思う。私自身もそういうものを好む傾向があったのは否めないが。

 自立ばかりめざせば、人とのつきあいが断たれてくる。愛情も友情も、集団も組織もすべて遠ざけようという気もちになってくる。それはそれで立派で、好ましいものかもしれない。

 しかし人から断たれた人間がほんとうに人間の最高像だと考えてよいか疑問だし、依存を排斥しすぎれば人づき合いに失敗することも増えてくると思う。自立はめざされるべき目標かもしれないが、それと同じくらい人に依存したり、甘えたりする能力も必要ではないのかと思う。その能力が発達しないと、人や組織とうまく関われなくなるのである。私はこの能力を排斥しすぎたのかもしれない。

 「他人のふり見てわがふり直せ」――この言葉は説得力があるものであるが、警戒も必要なのではないかと思う。依存を嫌い、依存を徹底的に排斥しようとすると、人から孤立し、人とうまくつき合えなくなってしまう。

 いちばん危険なことは、自分の自然な欲求や本心を抑圧してしまうことだ。むりやり依存心を排斥しようとすると、人の依存心に目くじらばかり立てるようになり、そしてじっさいは自分の依存心は克服できない。かれは依存心を自然に消えるまでに育たなかったから、人の依存心が感情的にひっかかるわけである。

 他人の利己心が嫌いな人がいる。かれはだから自分の利己心を抑えるような立派なことをしてきた。しかしかれは自分の利己心を克服できないばかりか、おそらく自分を愛することも楽しませる能力も欠如することだろう。かれは利己的な観点を嫌うあまり、自分の利己的な面さえ否定しまうからである。

 思うのだけど、人の悪い面の中にはよい一面も含まれている。全面的に悪などなくて、その中には必要で欠かすことができない善良な一面もあるのだろう。そのよい一面まで、毒といっしょに洗い流しては元も子もない。

 人の中に悪い面を見つけたら排斥ばかりしようとするのではなく、その中にかれがそれに憩おうとするよい一面を見つけなければならないのだろう。そして排斥したいなにかは自分の中にきっとあるはずである。でなければ、いちいち排斥したいとは思わない。

 排斥したいと思ったものは排斥できない。なぜならかれは他人の中のそれを嫌わなければ、排斥できないからだ。嫌うというのは、排斥できないからこそ、嫌わなければならないのである。その感情が自然に消え、無視でき、感情にもひっかからなくなったとき、かれはその感情を克服したといえると思う。嫌ったり、感情的に反応しているようでは、かれはまだその感情を克服していないのである。





   頑固な首、こらえるアゴ、恐れる眼       02/5/27.


 筋肉はからだを支えたり動かしたりするだけではなく、心も守る。筋肉の鎧によって、弱く痛々しい心を外敵やストレスから守ろうとしているかのようだ。

 からだの各部所は私たちの感情である。ある感情を感じれば、特定の筋肉が緊張する。もしある感情を長時間感じつづけるようなことがあれば、その感情につながる筋肉はずっと緊張したままになる。重いものをもちつづけた腕が硬直してとれないように、その感情の筋肉も凝り固まったまま、緊張が解けることはない。

 こうして私たちの筋肉は緊張が継続したままになり、エネルギーを燃焼させる酸素は届かなくなり、疲労物質は排出されなくなり、さまざまな弊害や障害をもたらすことになる。

 私たちは精神と身体を分けて考える。精神的ストレスを感じても身体のリラックスから解きほぐすことに考えはおよばないし、運動やスポーツは学校教育の画一的強制から嫌いになった人も多いだろうし、怠けることや休息することで疲れがとれると思っている人もいると思うが、長時間のストレスによる緊張は容易に解けるものではない。

 緊張の継続は心をますます頑なにする。固定された首は頭を固いものにし、石頭はますます首をギブス固定のようにする。そして酸素も栄養も頭にゆきわたらなく、疲労物質も頭から去ることはない。柔軟な心も新鮮な発想もできなくなって、ますます頑なになるばかりである。

 アゴというのはさまざまな感情をこらえるダムのようなものである。泣くのをこらえるときもアゴを使うし、怒りをぐっとガマンするときも、悲しみや不安を抑えるときにも、アゴで食いしばろうとする。

 アゴは感情奔流の一大ダム拠点のようなものである。あふれ出ようとする感情を抑えるためにアゴにはますますの緊張が加えられることになる。このような緊張の継続が休息でとれることはない。スポーツで緊張しきった手足の筋肉をストレッチするように、アゴの緊張も伸ばしてやらないと、緊張が弛緩することはないのだろう。

 眼ももちろん筋肉で動いている。眼筋はピント合せだけではなく、おそらくいろいろな感情も演出しているのだと思う。怒りのときの眼、恐れのときの眼、好奇心いっぱいのときの眼、それぞれの感情にしたがって眼筋の緊張は使い分けられているのだろう。われわれは人の目のなかにその人の心をかんたんに見出すことができる。

 眼筋もストレスやある感情が長引くようなら、その緊張はずっと継続したままになる。緊張は血流を悪くし、栄養不良や疲労物質の蓄積をもたらす。視力低下は眼の酷使ばかりではなく、おそらく心の疲労、つまり眼筋の硬直からもおこっているのだろう。

 私たちは眼を動かさないほうが疲労回復にはよいとは思っていないだろうか。しかし硬直した眼筋は休息だけでは解きほぐすことができない。眼筋のストレッチや鍛練が必要になるのだろう。あまり強度の鍛練は危険だろうが、眼筋の弛緩は心の解放や弛緩にもつながってくると思われるのである。

 長時間のストレスによる筋肉の緊張は休息だけではとりのぞくことができない。現代の恐れや怒りはわれわれの思考力により長時間つづくことが当たり前であり、そのあいだ緊張しつづけている筋肉はかんたんに解きほぐすことはできない。運動によるさっぱりした筋肉疲労とはわけが違うのである。

 心の疲労は休息やストレス発散だけではなく、筋肉のストレッチや鍛練の方面から解きほぐさなければならない、ということをわれわれは知らなければならないのかもしれない。





   心理学はなぜ身体を無視するんだろう?      02/6/2.


 心理学に身体に関する記述はごく少ない。心の問題のみをあつかっている。しかし身体なしの心がありえないように、心の問題は身体に現われる問題でもあるはずである。身体そのものの問題といっていいかもしれない。

 心は心のみの知識と療法さえあればいいと思っているようだ。心は身体を離れ、身体と別個に存在するかのようだ。そんな幽霊のような心なんてほんとうにあるのだろうか。身体なしで心は存在できるのか。まるで霊魂観のようだ。

 心とは身体によって生み出されているのではないか。身体の筋肉や呼吸、内臓感覚などによって感じられるものではないのか。脳や意識のみの感覚なのだろうか。

 われわれは「胸が苦しい」とか「胃が痛い」、「胃がムカつく」といった言葉のように、身体感覚を心として捉えているはずだ。それなのになぜ心理学は身体をあつかわない?

 われわれが陥る心理的な問題というのは、もし身体のことを知っておれば、いくらかは防げたものであるかもしれない。身体のメカニズムや機能を知っておれば、それを癒したり、なんらかの対処法を考え出せたかもしれない。

 身体は心に従って、その身体環境を変える。怒りは背中をたてたり、恐れは腹を固めたり、悲しみは胸を詰めたりしたり、そして呼吸はとめられたり、血管は収縮したり、心臓はどきどきと早く打ったり、感情によってそのありようを変化させる。

 心理学は心に従ったこのような身体の感情変化のメカニズムを教えようとしないし、医学のほうでもとりあつかおうとしない。われわれは自分の身体のことをまるで知らない。そして緊張は継続したままになり、血管は酸素や疲労物質を送り届けられなくなり、蓄積した疲労はしまいには症状や病気となって本人を打ちのめす。せめて自分の身体のメカニズムを知っていたらと思っても後の祭りだ。

 われわれが自分の身体のことをまるで知ろうとしないのは、たぶん医者がいるからだ。専門家が存在するためには、われわれは無知でいなければならない。自分の身体を専門家に分業してしまったために、自分の身体にまるで無知なままで過ごさなければならなくなった。そして病気になって医者にあわてて駆け込んで、ごっそりとその部分を切りとられる。

 われわれは自分の身体を知るべきだ。それも客観的な知識ではなくて、自分の身体から直接に感じられる身体感覚から知らなければならない。言葉や図としての身体ではなく、自分の身体感覚としての知である。

 自分が怒っているとき、悲しんでいるとき、身体はどうなっており、内臓はどのような感覚になり、それはどのようなメカニズムでなっており、自分の身体からどのようにすれば、それを癒したり、治めたりすることができるのかということがわかるようにならなければならないと思う。

 そういう身体や内臓感覚から自分の身体メカニズムを理解できるようになれば、われわれはもっと賢明な身体や心のとりあつかいかたを行えるようになるのだろう。



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