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020430断想集
筋肉から感情は解けるか




   身体から感情を解きほぐせるか     02/4/30.


 感情というのは、「ムカツク(胃が)」「胸が痛い」「胸がどきどきする」「腹が立つ」「胃が痛い」といったようにその多くは内臓によって感じられるものである。

 私は前々からこの内臓から感情をとりのぞく方法はないものかとずっと探ってきたのだが、どうもなかなかぴったりした本が見つからない。身体から感情をコントロールする方法はいったいだれが知っているのだろうか。

 片山洋次郎の『整体 楽になる技術』(ちくま新書)は背骨と感情の関係をかなりつっこんで把握しており、私が知りたいことにだいぶ近いかもしれない。増田明の『ボディートーク入門』(創元社)も整体から背骨と感情の関係をひじょうに鋭く考察しており、私が知りたいことはほかの身体技法ではなく、この整体から得られるのだろうかと思う。

 どうも人間のからだというのは、筋肉の縄縛りみたいなものである。ある感情や思考にしたがって筋肉はある部分を締めつける。そのことによって筋肉の鎧で外敵から守ったり、または必要な血液循環を限定したり、必要な部分だけに呼吸をいきわたらせたりする。

 蛇のような筋肉がするすると伸びてきて内臓をしばり、機能増量の部分と機能減少の部分をつくりだす。怒りや悲しみ、恐れの感情はそうやって筋肉の特定部分の緊張と硬直によってつくりだされる。

 筋肉の緊張により、身体のなかに感情環境がつくりだされる。悲しいときには心臓の循環量を減らしたり、怒りのときは背中の筋肉を立てたり、恐れのときは息をつめたり腹を固めたりして、それぞれの感情や情緒環境がうみだされる。

 もちろんこんなものは本人にはまったく無意識である。当人が手にするものはすでに悲しみや恐れ、怒りの身体感情、身体環境である。私たちは感情の波間にふりまわされる哀れな子舟でしかない。

 しかし感情は自分の身体、筋肉がつくりだしているとするのなら、それをコントロールすることはまったく不可能だとはいえないだろう。内臓を縛りつける筋肉の緊張、緩和のテクニックを身につけることができるのなら、それは可能になるだろう。

 感情というのは身体の筋肉がつくりだしている。感情というのはどこか宙や出来事からやってくるのではなく、まさしく自分の身体・筋肉がつくりだしているものである。私たちはそのつくりだした主体を知らず、たんに身体感情の受容者や犠牲者にとどまるのみである。からだの筋肉は無意識に締まり、私たちにそれを動かすことはできないと思っているからである。

 私たちは身体の筋肉をコントロールすることにより、感情をコントロールすることができるのだろうか。内臓のまわりを覆う筋肉はわれわれのコントロールに委ねられることができるのだろうか。

 いまの私に胸や腹の無意識に入る緊張を解きほぐすことはまだムリである。仰向けにそりかえって胸や腹の緊張をのばしてとろうと思っても、なかなか思うようにいかない。胃が痛くなっても、胸が苦しくなっても、それをとりのぞけない。

 深い腹式呼吸によりからだじゅうを緩めるという方法もある。緊張信号の感じる筋肉をリラックスさせるという方法もある。腹や胸の緊張と緩和を覚え込むことによって、緊張を緩和にもってゆくという方法も試みたいとも思う。まあ、内臓の筋肉のコントロールはまだまだこれからだ。





   身体とは心のことである     02/5/1.


 身体とは心そのものといったほうがよいのだろう。私にはまだ身体が心そのものだと見えるまでにはいたっていないが、身体は心のあり方をそのまま現している、あるいは身体こそが心なのだろうと思う。

 心と身体のつながりについて深く考察したつぎの著から、その密接な関係がわかる部分を抜き書きしたい。まずは増田明『ボディートーク入門』(創元社)から。

・怒りの感情は背中の中央を硬くさせ、刺激を受けた神経が腹を立たせる。猫のけんかと同じである。胸椎八番は胃の神経とつながっている。

・失恋や絶望感は胸椎三番に詰まりをつくる。心臓の腰がきゅっと縮められる。

・借金の悩みは首のつけ根を硬くする。「借金で首が回らない」だ。

・胃の上部が硬くなるのはいらだちである。胃の下部が硬くなればくよくよしている。

・人前で話すとき緊張するのは、腕のつけ根と胸の間の一点である。警戒した動物がぱたっととまるときにはそこが緊張する。

・恨みは胸椎九番にしこりをつくる。

・ガンコ者は頚椎一番・二番、首のうしろ側が硬くなる。首の前面が硬くなればガマンのしこりである。

・あがると呼吸筋はみぞおちを中心に収縮し、息はそれより下に降りることができない。息が浅くなると足にまで血が回らなくなる。あわてたときもみぞおちを縮めて息がとまるため、冷静な判断ができなくなる。

 つぎは片山洋次郎『整体 楽になる技術』(ちくま新書)から。

・どきどきしたり、胸が詰まるときは、胸中央部を緊張させている。ストレスはこの部分に現れる。ここが免疫系、自律神経系の調整の焦点になっているからだ。

・腰椎五番は呼吸に関係が深く、眠りと結びついている。

・目の疲れは首の横の緊張に現れる。目の奥が痛いとか重いときは首の後ろ側が緊張している。

・腰椎二番が硬くなるとみぞおちも硬くなり、胃腸のはたらきが悪くなる。

・あくびは顎−前頭部の緊張をゆるめる。目の疲れもとれる。口を閉じたまま顎を大きく開けるとあくびは出る。

・消化管は脳内と同じ分泌物質を生産している。消化管も脳といっしょに考えている。胃はストレスに敏感で、腰椎二番・三番に関係している。

・胸椎四番は食道のはたらきと関係し、この緊張が強いと食べられなくなる。愛と悲しみが高ぶるとここが硬くなる。

・みぞおちが緩んでおれば下腹部に力が入りやすい。この部分はお互いにシーソーの関係になっている。






   筋肉感情論リサーチ中     02/5/6.


 身体から感情を解きほぐす方法をさぐっているのだが、なぜかこの方法を本格的に追究した本はない。いぜんもこのことについて考えていたが、すぐに壁にぶちあたった。心理学から身体を感情として捉える本というのはそうないのである。

 ボディーワークとしてはローウェンやアレクサンダー、フェルデンクライスといった人たちがいるが、いまいち身体を感情として捉えていないのか、心の底から納得するまでにいたらなくて、ネタ切れですぐに追究できなくなった。

 そんななかで前出の増田明『ボディートーク入門』と片山洋次郎の『整体 楽になる技術』はかなり学ぶところがあった。感情と身体の関係についてかなりつっこんで考えている。

 これらに啓発されるところがあったので、今回はもうすこし歩を進めて、健康医学とかトレーニングの方面からも身体を捉えてみようと思うようになった。

 さすがに健康医学は病気の諸症状から身体を捉えており、感情との関係、あるいは感情と臓器の関係はさらっと触れられているていどで、密接な因果関係につっこむまでにはいたっていない。

 なぜ身体や筋肉を、心や感情そのものだと捉えないのだろう。トレーニングにいたるとさらに感情との関係は希薄で、まったくからだを鍛えるためのテクニックになってしまっているが、筋肉=心の緊張を解く方法としてはかなり使えるのではないかと思う。

 まあ、とにかく、感情というのはからだのどこかの筋肉の緊張だから、それを自己の意志で解けるようになるのが私の目標だ。

 だから筋肉の緊張を解くストレッチはだいぶ参考になるが、なぜ身体やある筋肉はある感情にしたがって緊張したり硬直したりするのか、その理由がつかめないのが惜しいところだ。

 人間というのは不安や恐れに襲われると、なぜか腹や胸を緊張させて息をつめる。腹は胸のように肋骨のようなガードがなく、腹の皮一枚に守られているだけだから、不安は腹を緊張防備させようとするのだろうか。

 息をつめるのはなぜだろうか。腹を硬め、胸を閉じるのだから息はできなくなるのが当然かもしれないが、なんの効果があるのだろう。手足の末端には息も血液もゆきわたらなくなるが、その分、心臓に血液がたくわえられ、つぎなる逃走に必要な機能だけを使うためということになるのだろうか。

 胸や腹の緊張を解きほぐすにはあおむけにそりかえったり、肩をうしろにひき、胸をつきだしてそりかえってのばそうとすると、かなり緊張が伸びるのが感じられて、気持ちいい。これまでの不安や恐れの感情が、いかに胸や腹の筋肉を縮め、硬直させていたことか。

 筋肉の緊張を解くのはストレッチのように筋肉を伸ばすだけではなく、マクギーガンの『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)も私にはかなりの重宝する本である。緊張は伸ばすだけではなく、そこに感覚を集中させ、リラックスさせ、無感覚にもってゆくことがいちばんの弛緩法なのである。筋が抜けたり、のび切るような安楽感が得られる。

 怒りというのは肩や背中の筋肉を立たせる。増田明によると猫がケンカのとき背中を立たせるのと同じで、人間も怒りのときは大きく見せようとして肩と背を立てるのである。だから怒りがずっと解けないと肩背腰と、筋肉は硬直したままである。やっぱりこれらの緊張には腕を前に伸ばしたり、背中、腰をのばすようなストレッチが効く。

 からだの緊張というのはことごとく感情と関係がある。感情とは筋肉の緊張といってもよいくらいだ。身体とは心のことであり、思考そのものなのである。

 なぜか現代の人は身体と心のつながりを無視しがちだ。身体はクレーンか車、パワーショベル、歩行機械かなにかのようにしか思っていないようだ。身体は道具であり、手段であり、機械にしかすぎないのである。身体を心そのものだと思う視点は、心理学にも医学にも欠落しているようだ。医者は結果である病状を治すことにしか関心がないのである。

 ともかく私は腹と胸の緊張にいちばん敏感でありたいと思う。感情の多くはこの緊張と呼吸のとめかたに関わりがあると思うからだ。私はいつ、どのようにして腹を緊張させ、胸を硬直させて息をつめているのだろうか、この無意識におこなう不随筋の活動に気づきたいと思う。

 じつは腹や胸というのは自分で緊張させ、弛緩させることができる。随意筋であるはずである。ところが不安や緊張のときにはしらずしらずのうちに自分の腹と胸を縛り、息を殺してしまっている。そのことを露とも知らない自分は、息ができないためますますせっぱ詰まった思考と不安に襲われることになる。

 自分で苦しくしておきながら、自分でそれを知らず、解けもしないという情けない結果に陥る。無意識に緊張する腹と胸の緊張に気づく必要があるわけである。

 からだの緊張や硬直、しこりはそのまま自分の心の緊張である。筋肉がのびず、伸ばすと痛がる筋肉は自分の強張った心そのものである。解けない心の緊張の記憶と蓄積である。このような理解のもとに身体の緊張に気づき、解きほぐしてゆくことが、心を癒すためには肝要なことなのだろう。





   腹と胸、背中の筋肉感覚に鋭くなる     02/5/10.


 腹と胸の筋肉感覚について私はほとんどわかっていない。感情とのかかわりやメカニズムを明確にしめした本もなかなかみつからない。ある感情にしたがって身体はどう動くのかということがなぜ解明されていないのだろう。知識界の信じられない欠落だ。

 自分の腹と胸をつかってみて究明するしかない。気づいたことは、腹の筋肉というのはほとんどが随意筋だということだ。自分で締めることができるし、ひっこませることもできる。

 それなのにふだんわれわれは不安や緊張に襲われたとき、腹の筋肉を固めているということに気づかない。たぶん頭や心の感覚に精いっぱいで、そこまで感覚が廻らないのだろう。おかげで私は胸だけで呼吸することになり、息が苦しくなり、酸素や血液は下半身や全身に回らなくなる。

 腹の筋肉は肛門や睾丸あたりの筋肉を締めるところから、下腹部の筋肉、中腹あたりの筋肉、みぞおちのあたりの筋肉を締めることができる。筋肉を締めると息がつまり、しぼりだされるような息がはき出される。不安や緊張のときには無意識にこのようなことがおこなわれているのだろう。

 肛門の筋肉というのは最初に筋肉のコントロールを覚え込まされるところだ。うんちをガマンすることを強いられる。したがって成人になってもガマンすることは、微妙に肛門筋の緊張と結びつく。腰の筋肉もぎゅっと固められるか? ガマンはアゴの筋肉も硬直させる。

 不安や恐れのときはどうして腹を固めるんだろうか。腹は皮一枚で腸や胃が守られている弱いところだからだろうか。恐れている人は腹や胸を腕で守るような前かがみの姿勢になる。そういう姿勢で筋肉が硬直してくると、心臓や胃は押さえつけられ、締めつけられ、息もできなくなり、血のめぐりも悪くなり、栄養もゆきわたらなくなる。

 怒りっぽい人は「怒り肩」といわれるように肩をいからせ、背中を立て、首筋を固める。全身を大きく見せようと筋肉が立つ。背面を固める習慣は首や肩のこり、腰痛などをひきおこすものと考えられる。

 逆に小心な者はからだの前面を固めてガードする。息も苦しくなり、血も回らない。心の姿勢はからだの姿勢に現れるのである。からだを前に丸める恐れの人は、肩をうしろにひき、胸をつきだした姿勢で呼吸が楽になる道をつくってやらなければならないし、すぐに縮こまる性質の胸と腹の筋肉を背伸びやストレッチなどで伸ばしてやらなければならない。脇も硬くなるので伸ばすことだ。

 背面を固める怒りの人は、祈りのポーズなんかが背中の筋肉をのばすのだろう。首の筋肉はとうぜん重い頭を抱えているので、そうとう筋肉の負担がかかっている。ガンコ者はますます首のうしろを固める。首は脳や神経につながる重要なところなので、ここの流れをよくしてやらないと、脳や目などに血液がゆきわたらなく、障害をおこす。頭を前に倒し、組んだ腕で押さえつけてやると、私の首筋はかなりの緊張をしめして、びっくりしたくらいだ。

 筋肉の緊張やこりはただの運動不足のせいではない。それは心の緊張であり、怒りや恐れ、悲しみのための緊張なのである。持続した緊張は酸素や血液、栄養の流れを阻害する。そして痛みや病気をひきおこす。

 やわらかくすることだ。緊張をのばし、硬直をゆるめなければならない。そしてやはり自分の感情が身体をどのように収縮・緊張させているのか、そのメカニズムも把握することが必要なんだろう。その部位の緊張を知ることにより、自分の無意識の緊張を知ることができるし、またよけいな緊張を防いだり、ほかとの部位のバランスで緊張をゆるめたりすることができるのだろう。

 身体をすべて自分の心や感情だと捉えること。そしてその感情がどの筋肉を緊張させるのか知らなければならない。身体という心、筋肉という感情の制御能力はそこから生まれてくるのだろう。





   利他心に一滴の利己心も混じってはならない?      02/5/13.


 愛や善の道徳的な言葉にうさんくささを感じる人は多いだろう。ものすごくスバラしくて聖なる言葉の割には、その根本には、当人の利己心や利害心がひそんでいることが感づかれるからだ。

 だから多くの人は善や愛を信じなくなる。私もそのスバラしい顔をしたツラの皮をはぎとることに熱中した。善人には当人の名誉欲や認知欲という利己心を見出したし、愛を多く口走る人たちのなかには、経済的な利益や報酬をもとめる打算や利害の心を見つけた。

 もう利他心なんてまったく信じられなくなっていた。利他行為もおこなえなくなっていた。善や愛という言葉や行為を遠ざけたのである。

 じつはこういう気もちの裏腹には最高の利他心を求めてやまない心があることにようやく気づいた。「利他心には一滴の利己心も混じってはならない」、と思い込んでいたのである。最高、最善のものを求めるがゆえに、いっさいの利他心が信じられなくなっていたのである。利他心の希求が利他心の不信をつくるとは、逆説的な皮肉である。

 エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊國屋書店)には、利他的で自己犠牲的な人の病理的な心が指摘されている。かれは他人のために自己を犠牲にできる英雄的行為にほこりをもっている。しかしかれは人を愛することもできないし、、楽しむこともできないし、自分が不幸であることにとまどっている。

 かれは自己を否定したから自分を愛せないし、他人をも愛せないのである。自分を含まない人間という概念はどこにもない。かれは自分を否定したから他人をも否定してしまうのである。かれは愛も喜びも楽しみも自己愛も否定してしまったから、それらいっさいを失ったのである。

 自己犠牲的な利他心とは恐ろしいものである。皮肉な逆説に囚われてしまう。他人のために自分を否定しまうということは、自分の喜びや楽しみ、愛さえ否定してしまうということである。かれは有徳な人であるかもしれないが、自分は不幸で、人を愛することさえできないのである。自分を否定したうえでの他人への愛などおこなえないのである。

 近代の人間というのは道徳を説くキリスト教会の利己心や利害の不信から出発している。利他心の不信はさらなる利他心の水準を高めたのではないか。自己犠牲、自己否定が最高の道徳になり、その結果、人も愛せない、自分も愛せない、自分を楽しめない大量の人たちをうみだすことにならなかっただろうか。

 私自身も愚かな袋小路にはまっていたように思う。利他心のなかに一滴の利己心も混じってはならないと思うあまり、自分の愛や楽しみさえ否定してきたのではないかと思う。それは利己心ではなく、自分を愛するということであり、これがおこなえないと他人を愛することも、利他行為もおこなえないのである。

 利己心と自己愛は違うのだということに気づかなければならないのかもしれない。私は自分を愛するということを、利己心という衣のなかに押し込めてきた中から、救い出さなければならないのかもしれない。

 自分を愛するということは、すべての人を自分と同じように愛するということであり、世界を愛するということである。利己心と混同してはならない。




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 020504書評集 聖地と霊魂の民俗学 02/5/4


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『整体 楽になる技術』 片山洋次郎 ちくま新書

















































『ボディートーク入門』 増田明 創元社































































































『リラックスの科学』 マクギーガン ブルーバックス




























































































































『愛するということ』 エーリッヒ・フロム 紀伊國屋書店
   
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