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■020113断想集





  チャネリングはどこまで採り入れられるか     2002/1/13.

 
 ほんとうの自己というのは、精神でも身体でもなく、それは知覚でも感覚でもわからないものだと神秘思想家はいう。知覚でも感覚でもわからないものをどうやって知り得るというのだろうか。神秘思想家や宗教者はその方法は教えてくれるが、その先の世界については多くを語らない。

 そこで宇宙の存在や霊、神などなどのかなり怪しいチャネリングの本を読んでみた。多くのチャネリングの本は読むに耐えないワードがならんでいるのだが、いくらかは鋭い心理学的考察や意識の拡大をもたらしてくれるものもあった。つまらない個人的制約をかんたんに飛び越えてくれるよさもある。

 少ない本しか読んでいないが、チャネリングはどうも人間は霊魂であるという説を共通して唱えているようだ。人間は霊魂であり、宇宙や神と一体であり、同一の存在であり、人間の中に神が宿り、そして魂は人間の肉体を借りて何度も輪廻転生するといっている。つまり古来の宗教となんら変わりはないことをいっている。

 私としては神秘思想の癒しの要素だけをとりいれたいのであり、こういうオカルト的な世界観はできれば無視して通りたかった。神秘思想や宗教というのは、その心理学的要素だけをピックアップすれば、じつに深い利用価値をもつものだと思うが、神や霊の世界観になると現代人としてはこれはタブーだという気もちになる。

 禅や仏教修行、神秘思想などは心理学的な方法だけをのべ、神秘体験以後のことはあまり語らないことが多い。これなら安心して読める。私はその先の世界は暗黙のうちに無視してきた。しかしどうもめざす先が霊魂の世界らしいことに私はかなりとまどっている。

 私はもちろん霊魂も霊界も輪廻転生も信じてこなかった。そんなものは科学で否定されてきたし、世間もマスコミもそんなのを信じるのは病気か変人だけだと告げてきた。だから私はちゃんと世間のいうとおり、いっさい信じていない。

 いぜん、たまたまブライアン・ワイスの『前世療法』を読んで、輪廻というのは、「物語り」としてはものすごくおもしろいと思ったが、やっぱり信じるわけにはゆかない。それから何冊か西欧の科学的といわれる輪廻転生の本を読んでみたが、結論としては、私個人に判断をすることはまったく不可能であるとしかいいようがないと思った。

 神秘思想や仏教は心理的な苦悩からの解決法を破格に教えてくれた。しかしその先のめざす世界が霊界や輪廻であるとしたのなら、私は進むべきか、とどまるべきかわからなくなる。

 これらの宇宙観は日常に縛られた狭い個人的制約や限界をたしかに破ってはくれる。われわれは大人になるに従って、どんなに狭い日常的常識や世俗的世界に制約され、縛られてゆくか、考えてみたらなさけなくなるほどだ。日常の世界はいっさいの非日常世界のことをタブーにしてゆく。

 宇宙の大きさから考えれば地球の地上なんかものすごく狭い世界なのに、われわれにとってはそれが宇宙のすべてなのである。宇宙の神秘のことを考えれば、かなり尋常でないことでも当たり前であると考えることもできる。

 ただ私は心理学だけをとりいれたい気もちが強い。霊魂や霊界の話になると、癒しの要素はあまりなくなってくる。そもそも言語で捉えることはすべて空想だ。またチャネリングの中にはまったく既成宗教と変わらないことをいっていることが多く、愛や自分を愛することを説く話が多くなってくる。

 禅や仏教では、言葉や空想、自我をとり去る方法がとられている。しかし愛を説く宗教――典型的にはキリスト教だが、この方法なら下手をしたら自我の拡大や空想の肥大ばかり招いてしまわないかと思う。

 また私たちは愛や思いやりなどの言葉がウソっぽくて拒絶反応を感ずるだろうし、鳥肌がたつ思いがすることだろう。私個人もほんとに愛という言葉に強い拒否感をもっている。でも愛ばかりを説く宗教的な内容の本を読んでいると、拒絶や利己心ばかりのエゴを溶かそうとしようとしているのがかすかにはわかる。

 愛という言葉に強い拒否感をもつ人ほど、エゴの牢獄に閉じ込められ、オリから出るためには愛という一体感の気もちが必要なんだろうと思う。ポジティヴ思考が嫌いな人ほど、より多く前向きな思考が欠如し、悲観主義が支配しているように。

 しかし愛を説く宗教の意味がわかるのは、エゴによる拒絶と悲観による痛みが極限まで達するときまでは、理解されることがないのだろう。人というのはいくら人にいわれても、自分で気づくまではわからないものだし、理解もしたくないものなのである。







    「自我」と「空想」の死       02/1/14.


 私は人のおしゃべりが白々しかったり、演技ぽかったりしてあまり好きではないのだが、どういうわけか、頭の中のおしゃべりは大好きである。一日中、頭の中でしゃべりつづけている。他人のおしゃべりのように自分の頭の中のおしゃべりも嫌いになれないものだろうか。沈黙を愛せないものだろうか。

 頭の中のおしゃべりはだいたいは他人に出来事をしゃべったり、他人に自分のことを理解されようとして、ずっと頭の中でしゃべりつづけている。つまり他人に自分の心を共有されたいと思っているわけである。

 これは同時に自分自身に自分を理解させるはたらきももっている。しかし自分自身が自分に理解されなければならないとはヘンな話である。頭の中に「理解させたい私」と「聞いている私」の二人が存在することになる。頭の中のおしゃべりとはいったいだれがだれに理解させようとしているのだろうか? 

 そもそも私は私自身に理解される必要があるということは、自分自身が自分を知らないということだ。そして言語によって「私」は構築される。私は他人に理解されるために私自身に理解されなければならない。

 頭の中のおしゃべりというのは他人の理解のために生まれたといえる。他人の理解を超越したところに、頭のおしゃべりはとまるのかもしれない。それは自分自身を理解させようという気持ちとパラレルである。はたして私は自分自身を理解しようとして、言語で私の「虚像」をつくる必要があるのだろうか。無や沈黙であれ。

 よく賢者は「いま」、「一瞬一瞬」に生きれば、頭の中のおしゃべりはなくなるという。でもそうはいっても、たいがいの人は「空想」の中にひきこまれている。空想というのは頭の中のおしゃべりであったり、過去を思い出したり、失敗や後悔をえんえんと考えるつづけることであり、私は心の活動はすべて空想だといってよいと思っている。

 なぜ空想にいつもひきずりこまれているかというと、やっぱり大人になればだれでも現在は新鮮でなくなり、空想の方が魅力的になるからだろう。子どものころの世界に対する驚嘆や新鮮さは影も形も身をひそめている。かわりに過去と言語という「空想」のとりこになっている。どうやってこの魅力に抗せるというのだろうか。

 私はせいぜい過去の悲嘆から逃れることでしか一瞬に向かえない。そう、私たちは空想によって悲嘆や苦痛を味わい、心にひきずりまわされ、心に傷めつけられる。そして心の奴隷ではなく、コントロール力を手に入れようとする。

 心というのはそれ自身の推進力と自動性をもっている。つまりそれ自身、べつの「生き物」みたいなものだ。それにひきずりまわされて、われわれは途方に暮れる。われわれにある力というのは、「選択」と「注目」のみである。思考は勝手に生まれるが、その中の選択権は自分にある。また注目はたとえそれが拒絶や抵抗であっても、それ自身の力を強める。この二つを使い分けて心を制しなければならない。

 しかし「自我」というものは手強い。いつの間にか自我が私たちの支配者になっている。自我は死を恐れる。自我にとっての死というのは「沈黙」や「無」になることである。頭のおしゃべりや空想のみがそれを生き長らえさせる。

 考えてみたら、われわれが恐れる肉体の死というのは、「思考」にすぎない。想像や空想によってしか肉体の死を捉えることはできない。われわれが死んでいるときにはすでに死んでいるのだから恐れる必要はない。恐れるのは想像や空想を生み出す「自我」のみである。

 足は死を恐れることはない。手は死を知らない。腹も死を知らないし、お尻も死を恐れない。自我のみが死を恐れる。私たちはこの自我に同一化してしまっているから、死を恐れるのである。

 自我の死というのは「沈黙」や「無」になることである。もし自我が無になれば、肉体は死を恐れないし、死を知ることもない。思考や想像力というのは問題を大きく、複雑なものにするばかりである。まったく「過剰で人騒がせな部分」である。自我が死んだところには静けさやと安らぎが待っているのだろう。よく「単純になれ」といわれるが、単純さはすばらしい。






   宗教否定論および機能論     02/1/15.


 さいきん私はチャネリングとか輪廻とか宗教的な本ばかり読んでいて、危うくその世界にずぶずぶとひきずりこまれそうなので、ここらでひとつ懐疑的な観点からも考察してみるべきだと思う。

 宗教といえば、死後の世界を思い浮かべるが、現代人の多くは死後の世界はないと思っている。死んでしまったらおしまいである。死は恐怖のなにものでもない。それに対して死後の世界を信じるものは死後の生を信じることができるので死後の恐怖は薄らぐ。

 宗教というのはその世界観の真偽にかかわりなく、人々に安らぎをもたらすという機能をもっている。その世界観が大ウソであろうと、機能的には大きなヒーリング効果をもっている。宗教とはこういう観点で見るべきなのかもしれない。つまり認知療法でいう悲しみや苦しみをもたらす思考でなく、安らぎや喜びをもたらす思考や世界観をもっているということである。

 人間の最大の恐怖は死である。もし死をまぬがれることができるのなら、だれだってそうありたいと願うものだろう。死後の世界は願望であるかもしれないが、生きている間はすくなくとも死の恐怖を味わわないですむ方法論を、宗教は世界観として呈示しているのである。

 死後の世界を証明するような臨死体験はたしかに脳内現象と考えることができる。臨死体験はかなりのリアリティをもつようだが、外界の感覚が遮断されて意識のみになったばあい、そのリアリティは夢のような迫真性をもつことは可能である。夢を見ているときにはその夢が事実そのものに思えるように。

 輪廻はさいきん催眠療法などでその確証性を高めているように思えるが、やはり幼少時代の卓越した記憶力や物語の創作能力と関わりがあるのかもしれない。人間は人間にとって測りしれない才能や技能をもつものである。

 輪廻という物語は人になにを与えたか。死の恐怖をとりのぞいたのはもちろんだが、これは人々に他者への感情移入の力を与えたのだと思う。あらゆる時代、あらゆる人々に生まれ変わるのなら、自分はどんな境遇の人にも生まれ変わることも考えられる。他者をわがことのように大切にするだろう。輪廻の物語はエゴに固まりがちなわれわれに他者を思いやる優れたレッスンをほどこしたのである。

 他者を愛せよという教えもむろんエゴから脱け出す方法だが、同時に自己中心的な観点からも利益になる話である。他者を憎んだり、怒ったりするということは自分を憎むことと同じである。他者というのは自分の心の中に属するからである。他者を思うということは自分の心の中のことであり、他者を自分の心の外部だと思っているようでは永遠に平安は訪れない。

 現代人にとって神という存在ほど信じられないものはない。人はなぜ神を信じ、神という存在しないものを創出したのだろうか。神という観点をもてば、われわれは思いのほか自己中心の観点から抜け出せる。われわれはこの自己中心の観点――自己を守り、自己を崇めるがゆえに外部の出来事や他人と衝突し、傷つき、苦しむことになる。

 神や天という自己から対照的な観点を想定し、それに同一化するのなら、われわれは自己中心の弊害からおおいに守られることだろう。われわれは自己中心主義から脱け出すためには神という実体化された偶像を必要としたわけである。神というのは脱=自己中心主義であり、それによってわれわれは自己を守るという苦しみや悲しみを体験しなくてすむのである。神というのは優れて認知療法だと思う。

 われわれはこういう仕組みを理解せずにただ宗教を批判する。神はあまりにも荘厳に神秘的に粉飾され、装飾されて、それだけでも近づく気になれないだろう。死後の世界や霊魂も科学によって否定された。宗教の政治システムも民主制から徹底的に批判され、われわれの宗教嫌いはたいがいこの宗教の政治システム面から来ている。われわれは宗教の支配システムが大嫌いなので、宗教のすべての面も同じようにしか見えないのである。

 宗教はあらゆる面から骨抜きにされているわけである。ただ宗教に代わる心理学的癒しの歴史はフロイトからせいぜい百年程度だ。心理学的知識や癒しの機能は二千年の歴史をもつ宗教にはとてもかなわない。機能的なヒーリング部分は宗教から学ぶべきなのである。

 さて宗教がめざしてきた世界との一体感や至福を感じる悟り・神秘体験というのは、脳内麻薬現象と考えることができるだろうか。宗教家というのはじっさいには神や宇宙と一体化したのではなく、ただ脳内麻薬によって最高の至福感を感じただけなのだろうか。たとえそうであったとしても、本人にはたえがたい至福感や幸福感を感じることができたので、それはそれでハッピーなことではないかと思う。事の真偽に関わりなく幸福感を維持できるのなら宗教の目的はかなったといえるのではないかと思う。

 宗教の世界観を批判的に考察してきたが、このように宗教には機能的なヒーリング部分が備わっていたと考えることができる。宗教の否定的な外殻ではなく、機能的な知恵には学ぶべきなのである。ただ、偽りを信じることにヒーリング効果があったとしても、それがウソとわかったときのショックはどうなるのかと思うが。たしかに現実とは選択できるひとつの解釈にしか過ぎないが。

 死後や霊魂、神を否定して考察してきたが、私の中には少しはこれらがほんとうにあるかもしれない、あったらいいのになという気もちもある。ときにはずぶずぶと信じる気もちにひきこまれてゆくときもある。というわけで思わずうたた寝にひきこまれないように宗教否定観をのべたしだいである。






   抵抗とは、相手を強めることである      01/1/20.


 まったく理解しにくいことだが、抵抗するということは相手を強めることである。抵抗すれば対象をなくしたり、弱いものにできると思い込んでいるが、これは無益なあがきを永久にくり返すことになるだけである。

 たとえば怒りや悲しみなどの感情をなくそうとするが、逆にそれは強める結果に終わってしまう。私たちの意識の内では感情をなくそうとすればそれは去るものだと思っているが、もう少し広い視野で見れば、これは「注目」と「エネルギー」をそそぎこむことと同じである。じっさいのところ、なくそうと努力することは意識の意図とは裏腹にそれを強めるだけなのである。

 このことには気づきにくい。なくそうとしたり、弱めようとすることが、逆にそれを強めるというメカニズムは、私たちにはそうとう理解しにくい。たぶんこれはモノや物体の性質から勘違いしているのだろう。物体は力を強めることで動かしたり、強力な力で破壊したりすることができる。しかし人間の心理となるとそうはいかない。物体がそうだからといって、人間の心も同じとはまったく限らない。

 心はなくそうとすれば、よけいに強まる。それは心を注目することであり、注目するということはその心を強めることである。ますますエネルギーがそそがれるだけである。心というのはじつは「実体」がないものである。はっきりといって、存在しないものといっていい。心は自分が考えたり、思ったりする時点において同時に「創造」されてゆくものである。

 この自分で創造している部分が自分で気づかれないがゆえに、心を「実体」のあるもの、「現実感」のあるものとして勘違いされてしまう。それは「虚構」と「空想」によって成り立っている。この「絵空事」である心を「実体」あるものと勘違いして、その結果である感情に逆らおうとすれば、「なにもないもの」に向って力を、ますます強い力を込めてゆくことになる。押しても押してもなくならないということは、その感情はとても強いものだと思い込んでしまう。

 原因と結果を見極めなければならない。感情は思考の結果であって、感情はなくしたり、追いやったりするものではない。もうすでに創り終えられたものなのである。原因というのは、思考である。思考というのは「虚構」であり、「空想」である。「なにもないもの」である。私たちはこの思考を選択したり、無視したり、流したりして、はじめて感情はコントロールできるものになるのである。この原因と結果をまちがえると、ドンキホーテよろしくなにもないものに戦いを挑んで、変なところに筋力を使ったりして疲労こんばいすることになる。

 社会とはいろいろな感情を統制するものである。怒りや憎悪、悲しみや恐れを表に出してはならない、感じてはならない、といった社会規制をはりめぐらすものである。私たちはあわてて感情を物体のように力でなくそうとするが、抵抗が強めるというメカニズムに囚われて、自分の感情の哀れな被害者になってしまうのである。私たちが統制すべきは思考であって、思考は選択もできるし、ただの「虚構」にすぎないことを知ることはとても大切だと思う。

 目を転じると、抵抗は相手を強めるというからくりは社会批判にも当てはまる。批判や反対しているものがますます強くなるという現象はいくらでも目にすることができる。たとえば学歴競争批判もそうだったし、働き過ぎ批判もそうであり、世のオカルト批判も、批判や反対すればするほど、それらは力を強めたものである。戦争批判や平和志向もじつはこういうカラクリに囚われているのかもしれない。

 なんでかなとずっと思ってきたが、たぶん反対すればするほど、その強力な力がうきぼりになり、賛同する人やなびく人が逆に増えるという結果に陥るのだと思う。抵抗され、注目されるということは、それだけ強大な力や魅力をもつということを衆目に知らしめることになる。反対が大きければ大きいほどその重要性を示すことになるのである。結果、抵抗は相手をますます強めるだけに終わってしまうのである。不思議なものである。

 これにはパラダイム変換みたいなものが必要になるのだろう。批判より、どこかべつのところにポジティヴな世界があることを示すことによって、長所による吸引力が、その批判形態を知らない間につき崩してゆく方法が必要なんだろう。

 これは日常の人々のいさかいやケンカにも当てはまり、批判や非難がますます相手の怒りや争いを誘い出す結果に陥ってしまうことはとてもよくあることだ。人を変えようとしたり、直したりしようとする試みは、対立や衝突をいっそう激しい、すさまじいものにしてゆくばかりなのである。

 この解決は、聖者たちがいったように人が変わるのではなく、自分の心を変えることによってしか解決できないのだろう。怒りや憎しみは人を変えることはできない。ますます相手の抵抗を強めるばかりである。「北風と太陽」という話は思い出すたびにとても感嘆するのだが、旅人は強い北風によってはコートを脱がず、あたたかい太陽だけがそれを脱がすことができるのである。理想論に響くかもしれないが、それしか方法はないのである。




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