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011223断想集
頭の中の「私」を超えて





   頭の中の「私」は存在しない    01/12/23.


 たとえば、私たちは人から拒絶されたり、仲間外れにされたりしたら、悲しみや怒りを感じる。そこで必死に守ろうとしているのは、頭の中の「私」である。

 頭の中の「私」というのは、言葉や想像力によって捉えられた「像」や「イメージ」にすぎない。それは「概念」であり、「観念」であり、多くの場合は人間関係における「シミュレーション」の集積にすぎない。

 頭の中で想像された「私像」を、私たちは必死に守るのである。たいがいは人間関係において軽くとりあつかわれたり、蔑まれたりしたときに、強く怒りや悲しみがわきあがる。

 「自我」はそうやって力を増す。頭の中の「私」が低く見られたり、価値観がおとしめられたとき、「私」は優越や認知、称賛をとりかえす方法を頭の中で話しつづけたり、あるいはそれをめざして行動する。

 そうして頭の中の「私」はますます重要になり、それのみに同一化してしまい、もはや「私」はこれ以外の存在ではありえないと思い込むようになる。

 私というのは頭の中だけの存在ではない。やっぱり身体がある。私という存在のあり方は、頭の中だけで捉え切れる存在ではない。そもそも頭の中に捉え切ることはできない。人間のあり方とはそういうものである。

 われわれは頭の中の「私」を私のすべてだと思いこみ、そこから世界をも全部とりこもうとする。これらは全部、「概念」や「観念」、「イメージ」にすぎないのである。だから「私」は存在しないといえるし、頭の中の「私」をすべてないものだと見なすことができる。

 頭の中の「私」はその価値観を守ろうとして、いつも悲しみや怒り、恐れに襲われる原因になるものだ。「想像」され、「観念」された「私」は、いつも他人や外部の出来事に、傷つけられ、痛めつけられ、恐れさせられる。

 なぜなら自我は自分の価値観をおとしめられることに我慢ならないし、それは人間関係における自己の価値観を維持することが自我の発育要因であったからだと思われるし、また想像力によって生まれた「自我」はそれゆえに想像力による恐怖や怒りを倍加させるからである。

 私たちは想像上の「私」のあり方やとりあつかわれ方に悲しんだり、怒ったりするわけである。なるほど古来の賢者が自我の執着をやめさせようとしたり、自我を捨てさせようとした意味がよくわかる。

 でも、そもそも頭の中の「私」など実在の存在ではない。「観念」であり、「概念」であり、「空っぽ」である。頭を抜き去ったものが本来の私のすがたである。

 あとにはなにが残るか。なにも残らないし、頭の中の「私」を守ったり、それによって怒りや悲しみをもつことはないし、あとはもはや言葉や概念を使うことには意味がない。





   他者にとっての自分の価値観が重要になりすぎている     01/12/24.


 われわれは他人が自分がどう見ているか、どうあつかったか、どんな言動をしたかということに、しじゅう頭を悩まされている。思い出しては傷つき、思い出しては腹を立て、ときには喜びに満ちあふれる。そんなくり返しに一日の大半のエネルギーが浪費される。

 われわれは恐ろしいのである、他人に拒絶されたり、嫌われたり、無視されたり、蔑視されたりすることが。だからいちいち過去を再点検してみないと気がすまないし、とりつかれたように他人の一挙一動を思い出さなければ安心できないのである。

 そしてたいていは悲しみや恐れに襲われ、怒りや腹立ちにとらわれ、最悪な気分になるのである。そんな最悪な気分から救われるために、われわれは心の中で自分の正しさや他人がいかに悪いか、まちがった行いをしたか、どんな傷つく言葉をいったか、自分はどんな優秀で優れているか、等々話しまくるのである。

 「自我」は自己の価値観をおとしめられることに我慢ならない。なぜなら頭の中で「想像上」の自分の価値観を守ることが、自我の生まれた理由であり、自我の存続する唯一の目的だからである。

 われわれは子どものころに想像された「自己像」というものを頭の中につくりだす。これは行動や言動の「シミュレーション」であり、頭の中の「予行練習」であり、「マニュアル」であり、他者との対話であり、自己と思われるものの「模造」であり、頭の中の「小人」である。

 他人との衝突や社会とのあつれきの回避から、頭の中でわれわれは行動や言動のシミュレーションをしてからじっさいの行動にうつる必要があるわけである。そしてそのうちに頭の中の自我が「唯一の私」、「全存在」となってしまい、この「想像上の私」の価値観を守るためにわれわれは必死になるのである。

 この自我にとっていちばん重要なことは、他者にとっての自分の価値観を高めることである。まずは親から拒絶されることは生命の危機であるから親にとっての自己の価値観を高めることが必要であったからだろうし、学校でも同じように居場所を保持するためには友人に認められる必要があったからだろう。会社や社会も同じことである。

 こうして自我にとって他者から拒絶されたり、無視されたり、蔑視されたり、劣悪視されたりすることがいちばん恐ろしく、回避される重要なことになる。だから自我は他者の行動、言動のチェックに余念がない。自我のほとんどの活動はこれがすべてといってもいいかもしれず、われわれはこの考慮にほとんど「同一化」しているわけである。

 はっきりいってこの状態は地獄である。悲しみや恐れにとらわれ、怒りや腹立ちに心安まるときはない。われわれはこの恐れから逃れうるために他者の称賛や尊敬を勝ち得ればよいと思いがちだが、成功も栄光もここからの完全な離脱を許してくれない。なぜなら他者の行動や言動、思考や感情などが一定して自分を称賛してくれることなんて絶対にあり得ないことだからだ。

 この「自我の悪夢」から逃れるただひとつの道は他者の拒絶や無視、無価値、蔑視の恐怖を受け入れることである。それをはねのけようとすると自我はますます強化されるだけである。

 われわれは他者の拒絶や蔑視が「虚構」の出来事に属することを知らなければならない。われわれが守ろうとしているのは「想像上の私」、「頭の中の私」にすぎないことを知らなければならない。これらはすべて頭で描いた「解釈」「現実」にすぎないのである。

 すべては存在しない、「実体」のない、「絵空事」なのである。これらは消し去ればいい。捨て去ればいいのである。そんなものは元からなかったものなのだ。そのことを実感できたのなら、われわれは「自我の悪夢」から解放されるのだろう。





  宗教が嫌われる深層の理由      01/12/29.


 私もみんなが「教育」されたと同じように宗教は嫌いである。神や仏に盲従する姿勢が我慢ならないし、魂やあの世の存在など信じられない。

 しかし自我が幻想であるということや、われわれの思考や世界が虚構であるという知識を教えてくれるのは西洋心理学ではなく、そのいかがわしい宗教や神秘思想しかないのである。外面的なものではなく、宗教の核心部分は認識論的・心理学的にますます学ぶべきものがあると私は感じている。

 ではなぜ宗教は遠ざけられるのだろうか。まずひとつめはわれわれの社会は民主政治だからである。民主制は民衆が社会を支配するシステムであり、権力者が上から民衆を支配するシステムではない。したがって権力者――宗教者や国王、軍隊などが専有的に民衆を支配する形態は徹底的に嫌われるのである。

 科学はときの権力に奉仕しているにすぎない。科学は世界観や物理観を提示はできるが、人生観や人生の意味は提示できない。宗教はどちらかといえば後者のことを語っており、科学とあまり衝突するものではない。科学は目に見えない、実証できないものは語れないのである。

 宗教が遠ざけられるもうひとつは、この理由が密かに大きいのだろうが、社会や文化は人の心を安定させたくはないのである。社会は人を不安や恐怖に釘づけておいたほうがはるかに支配しやすく、統御しやすい。子どものとき、われわれは親に不安や恐怖を利用されて従わされた経験を何度も思い出すことができるだろう。

 宗教というのは、その核心部分は、社会や文化にいくえにも塗り固められた不安や恐怖をはぎとってゆくプロセスである。心の安定や自由というのは、これらの心的要素を拭い去ったところにあるものなのである。

 社会は人々の不安や恐怖を煽ることによって、いまある社会権力や社会形態に奉仕するように仕向けてゆく。大人になると社会の禁止コードに近づくだけで、かれは恐怖に駆られるようになる。たとえば「貧困」「仲間外れ」「孤独」「異常者」「失敗者」など。そして社会の「優等生」や「成功者」、「正常者」になることを完璧にマスターするようになるというわけだ。恐怖に対するパブロフの犬みたいなものだ。

 したがって心が自由になるためにはこれらの不安や恐怖の条件づけから解放されることが必要になる。これはある意味では社会の圧力を超越することであり、社会の常識や見解をうけいれないことであり、社会の不安や恐怖を見破るということであり、社会の既成勢力にとっては恐ろしいことである。これは社会に反抗することではなくて、心の条件づけをとりはずすということである。宗教が嫌われるのは故なきことではない。

 しかし社会の既成勢力はまず心配することはないのだろう。人は容易に心の自由を手に入れようとは思わないし、ましてやそれに気づくこともほとんどないし、形骸化した宗教はちゃんと支配の条件づけシステムを十分に発達させてきた。人々はこれまでどおり不安と恐怖に駆られてしっかりと社会に奉仕しつづけるだろう。

 しかし人の心が安心したり安定してはならない社会というのはなんということなんだろう? 人の心が不安や恐怖で支配されるのではなくて、自由や安定があったほうがよほどよい社会や人々のおこないが得られると思うのだが。恐怖によって支配したものは恐怖によって報いられる。





  「大いなる一」の世界観      2002/1/2.


 神秘思想や宗教的伝統ではたいがいあなたは肉体でも精神でもないという。肉体と精神はほんらいの自分の全体性のなかのほんのひとかけらにすぎないという。

 では、ほんとうの私とは何かというと、「大いなる一」であり、「大いなる叡智」であるという。それは過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しているという。あなたの頭は星々のあいだにあり、足は宇宙空間のかなたに下りている広大無辺な存在であるという。

 ひじょうに魅惑的な世界観であるが、肉体や精神が自己そのものの限界と思っているわれわれには信じがたい話である。宗教もなかなかこういう世界観をあからさまにはしないが、修行者がめざしてきた世界とはこのようなものだったのだろう。

 われわれはもちろん五感や肉体を超えた世界を知らない。それ以外の世界は当然のことに信じられない。五感や肉体を超えた世界をどうやって知り得るというのだろうか。

 われわれはふつう「頭の中の私」や「言葉の世界」を現実のものや実体あるものとして暮らしている。この幻想から解き放たれるのがまず最初だろう。そして肉体や五感も幻影であること、それを消すことによってこの世界から離脱できるようだが、私は体験的にそれを知らない。

 「対象と見られるものは自己ではない」と賢者たちがいってきたが、そうするとたしかに心や肉体は対象として見られるものである。対象として見られないものがほんらいの自己だとするのなら、それは永遠に見られないというパラドックスにぶちあたる。

 「「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることができない。なぜなら「存在のすべて」――あるのはそれだけで、ほかには何もないから」――これはニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』(サンマーク出版)の一節である。

 存在のすべては自らを体験したいと思ったが、比較対照するものがないと自らを体験できない。自らを分割し、その部分から全体を振り返れば、そのすばらしさを知ることができるだろう。こうして人間である霊がつくられたのは神自身を知るためだったという。

 物質的な宇宙で自らを体験するために霊は自らの記憶を捨てた。忘れることで自らが何者であるかを知ることができるからだ。だからこの世界で人間の仕事は自分が何者かであることを学ぶのではなく、思い出すことであるという。

 よく仏教的な世界観で物質界になんども転生するのではなく、早く解脱することが人生の目的だという話があるが、これで理解をつなげることができた。

 もちろん私はこれらの世界観を頭から信じるわけにはゆかない。懐疑精神と批判精神はたえずもつべきだと思っているし、私は宗教の信者でもない。ま、いちおう、こういう世界観があり、神秘思想や伝統的宗教はこういう境地をめざしてきたという理解でとどめておきたいと思う。

 一部では魅惑的であり、精神に同一化する愚かさを教えてくれたのはこれらの知識であるが、五感や肉体を超えた世界の体験を知り得ないがゆえにこれらの世界観をかんたんに信用するわけにもゆかない。でもこれらのアブナイ世界観をもうすこし検証はしてみたいと思う。




愛と憐れみによる励ましとお便りお待ちしております。 
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