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011103断想集
孤独を責めない心をつくる




   孤独であることを肯定する       01/11/3.


 トランスパーソナル心理学者の諸富祥彦が『孤独であるためのレッスン』(NHKブックス)という本を出した。同調しすぎるこの日本社会で、ひとりで生きられる能力を擁護した本である。

 まったくそうである。この社会は孤独であることをちっとも認めない。かわりに友達をもつこと、人と仲良くすること、みんなといっしょにいることばかり奨められ、ときには無言の強制圧力を感じる。人から嫌われたり、仲間外れにされたり、ひとりぽつんといることにとつてもない恐怖を感じる世の中である。だから孤独を肯定したこの本にとても意義を感じた。

 仲間集団にいるとたえず同調や画一化の力がかかってくるから、いつわりの仮面や人格を演じなければならないし、人と違うこともできないし、考えることすらできないし、人の評価や基準に隷属して、奴隷のようにならざるをえない。そんなしがらみから自由になりたいと思っても、孤独を恐れる社会だ。苦しさを抱えながら、集団や仲間内に舞い戻るしかない。

 孤独やひとりになれない社会、孤独を許さない、白眼視する社会なのである。日本は集団やひとつの空間内でひとりになれない社会である。ほかの文化圏ではひとつの空間内でもひとりになる余地があるところもあるみたいだが、日本は空間で仕切られないと、安心したひとりになれない。日本のひきこもりはそんなところに関係があるのだろう。

 なぜ日本はこんなに孤独を許さない社会、自分になれない社会になったのだろう。たえず職場や学校の友達、家族、恋人とつるみ、群れなければならない社会になったのだろう。群れることは大人の証しというよりか、よほど子どもや弱い人間のすることに思えるのだが、この社会ではなぜか孤立のほうがもっと悪いことに思われている。

 単純に企業社会の要請だったのだろう。工場や会社で仲間とうまくやり、仕事を遂行するための能力、それがわれわれの孤独恐怖社会をつくったのだろう。工業社会の代替可能な規格品になるためには集団内においても、だれとでもうまく接合し、結合する能力が必要になる。学校という空間も、集団で同調する技術を長年にわたってしこませる訓練機構である。こうして市場経済の要請からわれわれは群れることや同調の技術を過剰にたたきこまれてきたのだろう。

 しかし戦後50年、同調社会からぽろぽろ漏れる人があらわれだした。登校拒否やひきこもり、フリーター、晩婚、離婚などの片親家族。過剰な仲良しゴッコ社会がみんな耐えられなくなっているのだ。富の蓄積や豊かさがそういうことを可能にしたこともあるのだろうが、群れ社会から逃走する人が、この同調社会を維持できないほどに増加しつつある。

 孤独はこれからの知識情報社会といわれる独創、創造力をつちかうさいには不可欠となる環境である。仲間とつるみ、仲間の基準が神となるような人たちにはおよそ不可能な事柄である。かれらはかれらで楽しい思いをしているのだろうが、ほかの人を楽しませたり、感動させたりする技術や創造力をもたないし、だいいち人に合せてばかりいるので自分がない。創造社会においては孤独の意味が見直されるだろう。

 とはいえ、まだまだ孤独が認められない子どもじみた社会である。孤独が耐えられなくなるのは、物理的にひとりでいることではなくて、孤独を悪やみじめだと責めさいなます自分のなかにある他者の声なのである。孤独な人はだいたいこの自分を否定する言葉に終始責められてしまうのである。だから孤独であっても解放や自由を感じることよりか、仲間とつるんで隷属している人より、自責や否定の念が強いといえるかもしれない。

 私たちはこの言葉を否定的なものから肯定的なものに書き替えたり、孤独の意義や役割をたたえる本を読んだり、あるいは孤独を責める内在化された他者の声を消したり、捨て去る訓練をして、すでに身体化されてしまった孤独恐怖体質から脱皮することができるのだろう。

 かんたんなことでないだろうが、人は孤独であることに強くなれてはじめて、流されたり隷属したりすることのない、自立した大人になれるのだろうと私は思う。





  孤独を責めない自分の心をつくる     01/11/4.


 ひとりでいることが問題なのではなく、その状態を責める心が私たちを苦しめる。そのため人に隷属したり、不自由な目にあったり、苦痛を味わわなければならなくなる。

 私たちは孤独を責める心からぜひとも解放されなければならないと思う。人はだれだってひとりになりたいときもあるだろうし、いつも楽しいフリなんかしたくないだろう。孤独の恐れから自由になれないと、私たちは他人の奴隷になり、自由になんかなれないのである。

 孤独を恐れる心は学校や会社でたっぷりしこまれる。もうすっかり習い性になり、自動化されてしまうほどになる。孤独を恐れる心を断ち切るにはどうしたらいいのだろうか。

 認知療法では孤独を恐れる考え方を書き換えさせる方法がとられるだろう。私たちは孤独や仲間外れになることの批判や非難の言葉をたっぷりともっていることだろう。この他者に向かう非難の声がそのまま自分に向い、自分を傷つける両刃になってしまう。

 だから孤独を恐れる前の自分の考え方やつぶやきに気づくことが必要になる。そしてその言葉をネガティヴなものから、ポジティヴで元気なものに書き替えるのである。

 諸富祥彦は、「わかり合えない人とはわかり合えないままでいい」「みんなから理解されたいという気持ちを捨てること」「自分だけは自分の味方であれ」「こんな面倒臭い人間関係にエネルギーを消耗してしまうくらいなら、誰からも理解されなくても、わかってもらえなくてもかまわない」などの孤独を勇気づける言葉を奨めている。

 孤独を非難する言葉をできるだけ他人にも自分にも向けないようにすることが肝要なのである。もし傷つけるような言葉を心の中でささやいたのなら、「ひとりでいられるのは強いことだ」とか「自分の時間を楽しんでいるんだ」、「自分の世界をもっているんだ」などのプラスの言葉に言い換えるべきである。

 私たちは他人の承認をあまりにも期待しすぎているのである。だから他人や仲間の奴隷になってしまったり、他人の一言一言に心の平安を乱されてしまう。心の安らぎを他人の言葉や仲間のつながりなんかに求めてはならないのである。そんなものはいつかは嫌われたり、疎遠になったり、裏切られたりするものである。これを当たり前のことだと見なし、心をかき乱されないようにしておくべきなのである。人を当てにしすぎるべきではない。自分の感情すら当てにならないのだから。

 孤独を悪やみじめなことだと見なす視線や言葉はマスコミや友人、職場や学校などのあらゆるところで聞かれる。その言葉を自分の中にとりいれたり、真に受けたり、反芻したりするのはやめておいたほうがいい。できれば、孤独に関するいっさいの言葉や非難は頭を通過させるにとどめておいたほうがいい。

 孤独を感じてつらくなるようなら、頭を空っぽにする方法がいちばん効果的だろう。なにも考えなければ、なにも恐ろしいことはない。孤独に関する言葉やつぶやきが出るたび出るたびにそのつど消してゆくのである。孤独を責める気もちはだいぶ薄められることだろう。

 私たちの心の中から孤独を恐れる気持ちがとりのぞかれたのなら、われわれはもっと自由に、自然な気もちで、人々との適切な関係が築けることだろう。いまの日本は孤独を恐れる気持ちからムリな人間関係、集団関係を強制させられることが多すぎる。ワラにもすがる気もちでしがみつく人間関係なんかやっぱり不自由で、不自然なものだ。

 日本人は孤独を恐れる気持ちを払拭しないと、自由にはなれないし、自立も成長もできないのだろう。こんなひとりであることを許さない社会なんてガマンならないと思いませんか。







  孤独嫌悪社会の生成要因      01/11/5.


 現代ほど友人をもつことや集団であることを強制された時代はないのではないかと思う。社交がこれほどまでに重視され、他者とべったりの関係が押し進められた時代はかつてなかったのではないかと思う。

 もちろん未開民族の集団でも孤独には悪霊がのりうつると流布するなどの孤独を禁じる掟はある。しかしたとえば狩猟や漁業、農業などを生業にしてきた人たちは、もっと個人としての単位で活動し、働く機会が多かったはずだし、広大な土地を相手にしていればかなり孤独な作業だったと思われるし、孤人でいることが大半なばあいもあっただろう。

 そもそも人類は狩猟採集時代にはいつも集団として暮らしていたのか、それとも個体として活動していたのかどちらなのだろうか。サルの仲間ではオラウータンなどが個体で暮らしているし、クマもたいてい一頭単位で活動する。人類にもこのような活動生態がそなわっていてもおかしくない。歴史で習う集団の狩猟生活はたいてい現代の信念の反映に過ぎないばあいが多い。

 現代に社交がこれほど強制されるのはもちろん集団で生産をおこなう必要があるからだ。人と同じ時間を守り、他人と協同して生産をおこなうためには、かなりの同調技術が必要になる。そういった規律の技術は、はじめは修道院や軍隊で発明され、監獄で強制され、学校で幼少のころから徹底されることになる。集団で規律を守らせる根本には、孤独を好む性質を排斥する必要があるのはとうぜんのことだろう。

 山間や広大な土地に広がっていたルーズで時間を守らなく、協同作業を知らず個人のリズムをもっていた人たちは、都市や工場のなかで、同調技術や規律、孤独を恐れる気持ちを身につけさせられていったわけである。

 生産だけではなく、消費においても孤独を嫌う性質は植えつけられてゆく。消費というのは、社交においていちばん華々しく浪費される。みせびらかし消費や優越するための消費、また贈与や交換は、おおぜいの観客や他者と比較することによってもっと増進する。だから消費社会においては、市場経済の要請から、孤独は嫌悪され、社交はどんどん強制させられるというわけである。

 消費社会は孤独を禁止し、社交をもっと奨める仕掛けもつくる。正月や盆などの連休、クリスマスといった人々が集う日をつくり、消費をもっと増進させようとする。孤独でいてはならない日をつくることにより、人が集うことの消費、贈与をもっと盛んにさせようという企みである。

 人が集まれば商売は潤う。恋人たちは華々しい消費をするのはもちろんだし、友人たちは楽しむために消費をおこない、家族はカネを落とす。女性たちは人と会うために着飾る洋服を必要とする。消費というのは、ほとんど社交によって成り立っているようなものだ。人は他人と楽しみ、比べ、負けまいとするから、消費や贈与をどんどんつりあげる。

 もちろん孤独な人もコレクションやマニアなどの消費趣味をもつが、他人との比較競争が働かないことにはかれらの消費は微々たるものにとどまるに過ぎない。

 いまの社会は生産と消費のふたつの要請から孤独が嫌悪され、社交が強制される要因が働いているわけである。そして情報社会の到来により、人々は携帯電話や電子メールでますます他人とつながり、他人とべったりになり、どんどん社交的にかつ他者との距離感を失い、孤独から遠ざかろうとしているのである。

 現代の孤独嫌悪はこのような生産や消費の論理から働いているものだと考えられる。私たちは主観的に孤独はいやだとか恐ろしいだとかと思ってやみくもに孤独から逃れようとするのではなく、孤独を恐れる要因も探ってみなければならない。さもないとピエロや操り人形として、自分の人生を他人に奪われて終えることになってしまう。







   仲間外れに強くなる     01/11/9.


 われわれは仲間外れや人から嫌われることをたいそう恐れる。その恐れに駈られて人に媚び、他人と群れ、自分の本心を抑圧し、他人の期待や思惑通りに生きざるをえなくなる。

 この恐怖に首根っこをつかまれているために私たちはどんなに不自由で、不自然な生き方を強要されているかはかりしれない。仲間外れを防ぐためだけにわれわれはどんなにエネルギーを消耗し、人生を無益に費やしていることか。もしかして自分の全人格はこのためだけにつくられているのかもしれない。

 われわれは孤独に強くならなければならないのである。孤立も仲間外れも、人から嫌われることも、恐れない気持ちをもたなければならない。

 孤立や仲間外れは私たちにとって壮絶な恐怖である。そのような状態になると他人のあわれみや冷たい視線に凍りつき、さらには自動的に自分で自分を責めさいなむ地獄に落ちこむ。

 この自動的にわきあがる恐怖を断ち切らないかぎり、われわれの心は自由になることはないだろう。恐怖は刃向かっては勝てない。不穏な気もちを継続させることにますます力を貸すだけである。

 恐怖を断ち切るには、恐怖を生み出す考え方のもとを断ち切らなければならない。恐怖自身に立ち向かおうとすると、のれんを押すだけになってしまい、よけいなところにムダな力が費やされるだけである。恐怖とは亡霊なのである。

 恐怖をつくりだすのは、仲間外れや孤立は恐ろしい、人格的に欠陥があるとか、許されないと思いこむ自分自身の偏見や考え方なのである。レッテルが恐怖をつくりだすのである。

 傷口には孤独を肯定する考え方をたっぷりと塗り込まなければならない。人と仲違いするのは当然のことだし、たまたま自分の属する集団と合わないことはかなりの確立でありうることだろうし、ある人から嫌われたとしてもきゅうりやトマトが嫌いな人がいることと同じくらいに考えればいいし、個人の評価はたんにクセのあるかたよった超個人的な基準にしか過ぎないし、他人や集団と合わないことが人格の欠陥と考えることなんてあまりにもかけ離れた事柄などなどと考えればよい。

 われわれはあまりにも人間関係を重要視しすぎているのである。孤立の恐怖に駈られて人生の全エネルギーを費やしてしまう人よりか、孤立してしまう人のほうがはるかに自由で余裕のある大人だと見なせるだろう。

 孤立を恐れるようでは、たぶん他人の期待や思惑の奴隷となってしまい、自分のための人生、自分の生きたいと思う人生を絶対に生きられることはないだろう。

 われわれの世界とは、自分が思ったことが「世界そのもの」になる。孤立を欠陥だと見なせば欠陥になり、孤立を勇気ある自立だと見なせばそのとおりになる。考え方や信念があなたの世界なのである。したがって心の自由を手に入れるためには、自分を恐れさせたり、責めさいなむ世界観はもつべきではないのはわかりきったことだろう。




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