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011008断想集
豊かさの苦しみを見よ



 欲望とは束縛のワナである/豊かさの束縛と重荷と責苦/山里の風景にはほっとするね/クソまじめな安定・堅実の苦しみ/安定とは依存のことである/依存を恥と感じる社会に!/




    欲望とは束縛のワナである      01/10/8.


 まったく皮肉なことだが、欲望は大きければ大きいほどそれに拘束されて自由が奪われてしまう。これは欲望にかんする覚えておくべきいちばん基本的な法則である。

 戦後の人たちはほしいモノをたくさん手に入れること、夢を叶えることが幸福なことだとみんなで信じてきた。物欲の拡大、欲望の成就を、われわれのめざすべき最大の目標であり、幸福だと信じてきた。

 だれもがそれが束縛や自由の喪失に転化するなどとは思ってもみなかった。欲望を叶えること、豊かになることは幸福のなにものでもないと思い込んでいたからだ。

 豊かさは大きな束縛である。モノや欲望は人をどこまでも拘束し、自由を奪い、重荷となる。豊かさの中で大半の人はこれは幸福だと思い込んでいるから、豊かさのなんともいえない束縛や重荷に気づかずにいる。

 われわれはたくさんのモノを手に入れるために会社や労働にどこまでも縛りつけられた。家電や車を買うために一日の大半を仕事に奪われることになったし、マイホームのローンを払いこむために生涯働かなければならなくなった。ほしいモノしか見えないためにじわじわと束縛の範囲網が狭められていたことに気づかない。

 モノのつぎにはレジャーや旅行のために労働に束縛されたし、さらには健康保険や国民年金のためにまたまたカネと会社に束縛されることになった。欲望は会社や国家という束縛力をますます強大なものにし、われわれを縛りつけたのである。

 欲望は大きくなればなるほどそれに縛りつけられることになってしまう。カネや物欲は会社や国家という怪物を肥えたものにし、われわれの自由や安寧を破壊した。ほしいものができると弱みをつくることになり、ますますわれわれは弱い立場になり、身動きができなくなってしまう。マイホームローンをかかえた男が会社になにもいえなくなり、辞めることさえできないことと同じだ。

 物欲やカネのためにわれわれは会社や労働という人生の剥奪と自由の喪失に身をゆだねることになった。だから欲望の愚かさに気づき、自由をとりもどしたいと思うのなら、われわれは欲望をできるだけミニマムなものにしてゆくべきなのである。縛りつけられていたモノを捨てていけば、われわれはなんて身軽で自由なんだと気づくことになるだろう。

 酒さえ呑めればあとは働かないといったインド人はなんて自由なんだと思う。古来の賢者たちもやっぱりなにももたない、のぞまないことを理想とした。なるほど、欲望の愚かさに気づけば、とうぜんのことをしたまでのことだ。日本のサラリーマンたちはみずからの愚かさや過ちにいつ気づくことができるのだろう。





   豊かさの束縛と重荷と責苦        01/10/11.


 豊かさとはタダでは手に入らない。豊かさの代償には、会社と労働による人生の剥奪がまっている。得るためにはなにかを失わなければならない。

 かといって明日の命や食べ物に事欠く生活も恐ろしいことである。だれだってカネに困らない生活をしたいと思うことだろう。

 そして人々は豊かさを手に入れた。得るものだけに目を奪われ、失うものには目をつぶってきた。生活と老後の安泰が約束されているのだから、少々の犠牲もいとわないと思ってきたことだろう。

 欲望はあれもほしい、これもほしいとどんどんふくらむ。そして犠牲にするもの、重荷、束縛もそれにつれて肥大する。手に入れたものが多くなればなるほど、失う恐れも大きくなる。

 そしてわれわれは立ちすくむ。幸福を手に入れたはずなのに、この息苦しさや重苦しさはいったいなんなのだろうかと。しかし豊かさと老後の安泰を手に入れたのだから、ここから降りることも、逃げ出すことも、壊すこともできない。苦しさの中で日々を過ごすしかない。

 まるでいつか人間に食べられるために生きさせられている牛や豚の家畜のようなものだ。かれらはつかの間の生と食を手に入れられたのだから幸福なのだろうか。豊かさというのはただ生きるためだけの牢獄のようなものである。

 われわれはまさしく欲望のワナにひっかかってしまった。豊かさや老後のために会社や労働に拘束され、自由や人間の本性といったものが奪われることになった。身動きひとつとれずに欲望の監獄のなかで生きつづけるしかない。

 まるで穴の中のキャンディーをつかんで手が抜けなくなったサル状態である。キャンディーを離せば手は抜けるのだが、サルはキャンディーを失いたくない。ギャーギャーわめきながら、キャンディーをとるか手をとるかと悶絶しつづける。

 人間サマはキャンディーを手放せるだろうか。それとも欲望のキャンディーをつかんだまま、束縛されつづけるのだろうか。人々が描いた幸福や豊かさというのは、そのハッピーさと裏腹に、束縛と苦しみという支払いをわれわれにつきつけているのである。タダではない。幸福の維持費と労力はべらぼうに高すぎる!






  山里の風景にはほっとするね       01/10/14.


 山里の風景にはなぜ心をほっとさせるものがあるのだろうか。私は大阪郊外育ちだから、山里の風景を幼少のころに見ていたというわけではない。住宅街と点在する田んぼを見て育った。最近山登りするようになって、あらためて「再発見」したというしだいである。

 記憶としては、子どものころに見た『日本昔ばなし』の山里の風景があるだけである。それでも現実に山あいに囲まれた田園の風景に出会うと、ものすごく気もちがなごむ。

 山あいの村落に出会ったら、どこでも気に入るというわけではない。やっぱりなんにも感じない山里もあるし、ん、なんだかわからないがこの村落はとても心地いいなと感じられるところがいろいろある。

 山里の風景はいろいろなヴァリエーションがあり、また出会いかたもかなり異なる。厳しい山登りから降りてきたところにばっと広がる山あいの村落がものすごく気もちよかったり、暗がりの山道や道に迷ったかなと思ったときにあらわれる村落はものすごく頼もしいものに感じられたり、じょじょに広がり、山間の村落の全貌が一望できるようなところでも気に入らなかったり、まあ千差万別だ。出てくる場所の心理状態によっても変わってくるみたいだ。

 都会育ちの者にとってまったくわからないのが、そういう奥深い山奥に住むということがどういう感覚なのかまるでわからないことだ。都会の人間にとってまわりは住居に囲まれ、どこまでいっても道路や電車がつづいており、人の住む地帯がどこまで広がっているという感覚があたりまえに染み込んでいる。

 しかし山里にとっては一歩先には人の踏み入れることのあまりない山林が広がっており、あるいは人の住まいと断絶した自然が人々の家々を覆い包んでいる。こんな環境に暮らす人にはどんな感覚が芽生えるのか、まったく見当もつかない。こんな奥深い山奥にも人が暮らしてきたんだということが、私にとっては大きな驚きなのである。

 どちらかというと最近までこういう山間に暮らしてきたのが大半の日本人だったはずだ。平野や都市に暮らすようになったのは、昭和の高度成長期以降だと思う。そういう日本人のDNAが私に山里の快さを感じさせるのかもしれない。ちなみに私の本名には「谷」がついているから、ご先祖さまは山で暮らしていたのかもしれない。

 山里の風景というのは、ちょっとやそっとの観光地以上の魅力をもっていると思う。都市の道路や河川整備などの都市化をもちこまないでいただきたい。ただ、そこが観光地になってしまえばもうごみごみした都会と変わらなくなってしまう危うい均衡のうえに立っているといえる。

 まあ、いまのところ辺ぴな山奥に魅力を感じているのは中高年のハイカーだけである。山で見かけるのはおばちゃん数人連れと熟年夫婦くらいであり、私はちょっと同世代とかけはなれたことをしているのかなと思う。若者はまず見かけない。

 若者は都市と消費に魅きつけられている。ハイキングというのはある意味では「脱消費」の活動である。山に入るというのは、消費とまったく関係ない。交通費という消費活動をしなければならないのは腹立たしいが、消費や都市に飽きたものには山や山里の魅力を再発見してみてもいいんじゃないかと思う。

 山を登ったついでにお気に入りの山里風景に出会えるのはそう多くはない。私の住む関西近辺で今のところ気に入った山里風景は、柳生街道の誓多林町あたり、能勢町三草山の美濃谷・千枚田あたり、犬鳴山の下山時に迷ったときに出た山里風景くらいが思い浮かぶ。

 奈良あたりには昔なつかしいような風景に出会える気がするが、神戸はまずだめだ。あそこらへんは信じられないくらい高いところにも新興住宅地が屹立しており、興醒めだ。

 ハイキング・コースを外れたところにはもっと気もちのよい山里風景があると思うのだが、まず私には与かり知ることができない。もし大阪近辺にあるのなら、教えていただきたいと思う。






   クソまじめな安定・堅実の苦しみ      01/10/15.


 女は男に安定をもとめる。世間や親も安定と堅実をもとめる。けれど、安定と堅実ほど苦しいものはない。毎日同じ生活に縛られ、そこから逃げ出すことも、壊すこともできないからだ。まるで監獄か家畜の人生である。

 安定と堅実を得る代償に、男は人生を会社や労働に売り払う。安定と堅実を得るためには人生を犠牲にしなければならないのである。

 多くの人は安定と堅実を好むゆえに人生を犠牲にしているとは思わない。それは世間や女性がほめてくれるように、りっぱで、のぞましく、めざすべきものだと思っている。

 しかし人間はそんなりっぱで、マジメで、優秀な生き方だけを心の底から切望しているものなんだろうかと思う。もっといい加減に好き勝手に自由にいきあたりばったりに生きたいものではないだろうか。安定という鋳型や監獄みたいな生き方を、はたして男のすべてはのぞむというのだろうか。

 いまの世の中はどうしてこうクソまじめに優等生ばっかりになってしまったのだろうか。もっと本性のおもむくまま、野生的に野蛮に生きようとしてもいいと思うんだが、みんな死ぬほどつまらないクソまじめな人生と生活を送っているように思えてならない。いったい現代人の保守性・堅実性はなんなのだろうか。

 ほしいものや守るべきものがあまりにも多くなりすぎたために、人生は一歩も身動きのとれないものになったのである。豊かさや欲望は、守るものや失う恐ればかり肥大させたのである。そうして人生はがんじがらめになった。

 豊かさは人生の束縛と重荷と隷属化をもたらした。人々の性格はまじめで堅実で優等生的なものばかりになった。豊かさや欲望を追い求めるということは一方では幸福や快楽の達成でありながら、かつ一方では、束縛と拘束と人間の萎縮化をもたらすものなのである。人生はひじょうに退屈でつまらないものになったし、人間は人形か家畜のようになってしまった。

 豊かさや安定、堅実はなにひとつ欠点のない、疑うもののない幸福や目標に見えるのはたしかだ。しかしその裏面でじわじわと人間の本性はむしばまれる。苦しさややり切れなさの正体は見えない。幸福や目標の陰にかくれて、つかみどころがないものだからだ。そうしてわれわれは閉塞感や苦しみをどこでか抱えつつも、豊かさや安定を切望しつづける。

 われわれはどんなにすばらしく、善や理想的にみえるタームであっても、そこには必ず代償や犠牲にするもの、失うものがあることに気づくべきなのだろう。世の中タダで手に入るものなんかない。「豊かさ」や「安定」、「幸福」といったものも例外ではないのである。なにかを得るためにはなにかを支払わなければならない。われわれが得ようとしたものは、はたして失ったものの価値を代償できるものであったのだろうか。





   安定とは依存のことである      01/10/20.


 安定と聞くといつも反発を感じていた。安定とは「会社の監獄」をも意味するものだからだと思っていたが、山田昌弘のパラサイト・シングルの議論をよんでいると(『家族というリスク』勁草書房)、それは「依存」のことだからだとわかった。

 山田昌弘によると現代日本には依存するほうが得で、ラクだという状況があるのだという。だから若者は親のリッチな生活に依存して、パラサイト・シングルとなる。逆に自立したり、家庭をもてば、経済的にも仕事や家事的にももっとしんどい、損な目にあわなければならない。だから自立も結婚も出産もどんどん遅れるのである。

 依存したほうが得でラクという意識はパラサイト・シングルだけの問題ではなくて、まさしく日本社会全体がこの意識をつくりだし、おしすすめてきたことに目をふさいではならない。

 日本社会がめざしてきた安定や中流の生活というのは、会社や国家、夫に依存することのなにものでもない。業界保護や社会保障、福祉制度というのも、社会正義や公正という仮面をかむってはいるが、依存することなのである。

 戦後日本というのは、依存をよしとする、恥と感じない社会をせっせとつくりだしてきたようだ。親によく言われる「安定をめざしなさい」は、「依存」しなさいと同義だったのである。それが正義で、正当な奨励であったというのは、日本社会はなんて腐りきった世の中だったのかと思う。

 依存の芽は、社会主義や福祉国家思想のなかにふくまれていた。国民の生活を平等に豊かに貧困におちいることなくといった社会政策は、依存の奨励やススメをおしすすめることになったのである。国や会社が面倒をみてくれるとなったら、それをつっぱねて損をするより、依存したほうがトクになるだろう。

 こうして人々は大企業や安定企業、公務員をめざし、安定という依存のなかに喜んで入っていった。女性の安定願望もこの一環である。自立せずに親もとに同居するパラサイト・シングルはまさしく日本社会の依存する姿の鏡であり、またそれを恥としない社会風潮の反映のなにものでもない。業界の護送船団方式は、民間ではパラサイト・シングルとして花開いたのである。

 お得なものならなんでもありがたくいただくのはべつにふつうのことである。損や苦しみをみずから選ぶというのもおかしい。ただ、保護や依存のなかには人間の尊厳や自由、選択の自由といったものを奪うものがたくさんある。安定や依存のなかには屈辱や恥ずかしさがあり、生活や生き方を指示され、命令され、決めつけられる苦しさや不自由感がある。干渉しすぎる親と同じである。

 おおかたの人はこの安定と依存のぬるま湯を手ばなしたくないようである。官僚や業界団体の既得権益と同じである。官僚や業界の依存体質はたたかれるが、いっぱんの人たちの依存体質はまるで問題にされない。社会の体質がすっかり変わり、依存が恥となる社会にならないと、官僚や業界が変わることはないだろう。問題を招いているのはわれわれ自身の依存をよしとする意識なのである。

 山田昌弘がいうように自立が尊重され、努力することが報われる世の中にならないと、この依存をよしとする風潮は容易にはなくならないだろう。若者は安定のなかにある監獄や不自由、屈辱を見て、ぜひともそこから自立と自由の芽を育てていってほしいものである。






   依存を恥と感じる社会に!    01/10/21.


 山田昌弘のいうパラサイト・シングルをうみだす日本社会の土壌――依存が得で、自立が損な社会という指摘にえらく感銘してしまった。

 まったく日本社会は一流企業や官公庁に入ったり、女はそこに勤めるエリート君と結婚したいという、大きなものや安定したものに依存することばかり目指している。

 情けないとか恥かしいと感じないのかと思うが、現実問題としては相当におトクな話なのだから、仕方がない。それにしてもいくらおトクだからといって、依存意識まるだしで生きることに少しは屈辱や羞恥を感じてほしいものだ。自分の実力や業績によって得られたものでないものにしがみつくことが、そんなに幸福で自尊心を満たすことなのだろうかと思う。

 たしかにこれまでは時代背景が違っていた。欧米の手本があり、キャッチアップの時代であったから、国家や企業の指示・命令どおりに生きるのが賢明であったし、それらは富と安定を約束できた。

 また国や企業が国民を平等に富ませること、企業・業界を保護すること、社会保障や老後保障を与えることが正義であり、善であった。しかしこれらが長らくつづと、依存することがラクで、おトクだという社会意識だけを増長させてしまった。国や安定企業にやたら依存する、依存して生きるのがいちばん賢明だという人々のメンタリティを育むことになってしまった。

 男は安定企業や官公庁に依存することばかり欲し、自立や革新を忘れ、超保守化し、女はそこに属する安定男にぶらさがって専業主婦になるという甘い汁ばかり吸うことを欲する。みんなで国や企業に依存して、ラクでトクなことばかり求めるようになった。一億総依存である。富や社会保障というのは恐ろしいものである。

 これでは社会は閉塞・停滞し、若者のやる気が削がれるのは当たり前である。自立したり革新したりすることがリスクや損を背負うことなら、依存しておトクでラクな道を選んだほうがよほどマシである。依存が正当で、国や企業から得られるおトクなものはもらわなければ損で、依存が恥とならない社会風潮のなかで、だれが自立や革新をめざそうとするというのか。

 おかげで社会はすっかり停滞社会になってしまった。安定企業や国家、安定男に依存するがよいというメンタリティを育んでしまった社会は、新しい道も違った道も新しい可能性もなにひとつくれずじまいに、何十年も前に迎えただろう時代の曲がり角に、方向転換するのを失敗してしまったのである。

 自立や革新が生まれる世の中にするには依存が恥で、自立がカッコよく、憧れられるという社会風潮にならなければならない。自由化とか市場主義化、自助努力というだけではわかりにくい。国家や安定企業に依存することがカッコ悪い、恥だという社会風潮にならないかぎり、自立や革新は生み出されないのだろう。

 安定企業や国家、福祉制度にぶら下がることがカッコ悪くて、恥だという意識はなかなか育まれないだろう。それがラクでおトクでマトモで正当だという意識が根強く人々のなかにあるからだ。経済が右肩下がりになっても、ゼロ成長になっても、大企業が倒産・リストラ盛りになっても、人々は安定と保護という過去のものにしがみつくだろう。けれど泣く泣く依存体質を手放さざるを得ない時はもう間近に迫っているのだろう。そういうときに依存が恥で屈辱であるという一面があることを思い出して、乗り切ってほしいと思う。






 ■速読本舗が日本経済新聞社などから訴えられたそうだ。速読本舗はビジネス書を要約紹介する有料のメルマガである。たしかに刊行書がなければ成り立たないものだが、わずか数十行に要約されているからとても著作権に触れるとは思われないし(広告や書評と考えてもよい)、インターネットのメルマガが大のマスコミの利益を奪うまで大きなものとも考えられないと思う。



 ■さいきん、英文のダイレクト・メールがやたら多く届く。一日に何通も入っていることがある。これが読者の方からのメールなら、とてもうれしいんだけどなぁ。ということでご感想メールの催促してしまいました。


ご意見、ご感想お待ちしております。
    ues@leo.interq.or.jp



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▲近江八幡あたりの山里風景





















































































































『家族というリスク』 山田昌弘 勁草書房


   
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