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010520断想集
進化論に憐れみを!



 40、50代で仕事がなくなる将来/適者生存と資本主義/子孫存続と人生の意味/「貧者は死ね」VS「貧者を救え」/無欲と禁欲の進化論/




   40、50代で仕事がなくなる将来      01/5/20.


 リストラされた人たちの迫真のルポ、『こんな人が「解雇」になる』夕刊フジ特別取材班(角川oneテーマ21)を読んだ。いままさにこんなひどいことがこの日本のどこかで進行していると思ったら、暗澹たる気もちになる。

 40代になると化石として捨てられるコンピューター業界、非情なリストラ担当者が気がつけば自分の番だったり、塾講師も若者人気でリストラ、ファミレスのバイトで「リストラおじん死ね」とイジメられたり、物置小屋に押し込められたりと、この世のものと思えないほどの悲惨な現況がつたえられている。

 こんなリストラ流行りでは会社のなかの人間関係はどうなってしまうんだろうと思う。信頼も信用もなくなるだろうし、いたわりややさしさも消えるだろうし、かつての家族主義とか恩情主義とかのたまっていた会社のバケの皮がはがれたら、いったいあとには何が残るというのか。

 なによりも明白なことは、40、50代になると会社内でも会社外でも必要なくなるということだ。年をとるとリストラを迫られ、外の企業も同じように中高年は受けつけない。年をとるだけで罰や罪を背負ってしまうというのか。

 こんな将来しかない若者はどうやって生きればいいというのだろうか。40、50代になるとお払い箱の将来が待っているのだ。希望や夢をもてるか。生き残る戦略なんか立てれるのか。年をとれば自動的にお払い箱なら、若いうちに後半生の貯蓄を貯めておくことなんか可能なのか。

 いまは過渡期だから将来変わるのだろうか。中高年は給料が高い。長く勤めれば給料が上がったからだ。だから逆にそれは重荷になり、中高年からのクビ切りになった。この年功賃金のしくみが企業内からなくなれば、年齢制限は弱められてゆくのだろうか。年功序列やそういった意識がなくなれば、中高年の門戸も広げられるのだろうか。そんなときまで待っていられるだろうか。

 中高年になればリストラと転職先なしの世の中でどう生きていったらいいのだろうか。ただ漫然とその年が来るまで祈っているしか仕方がないのか。忠誠心や会社のためにがむしゃらに働いても報われない。それはいやというほど見せつけられてきたはずだ。しかし好成績を上げないことには企業には残れない。このジレンマのあいだで仕事量をどのくらいに調整したらいいのだろうか。

 最初から企業に期待せず、力を抜くフリーターという選択もある。しかしこれは当然低賃金で、安定も保障もなく、中高年の姥捨て年齢までなんの手の打ちようもなくなる。低賃金だから雇われやすいという有利さはある。生活レベルをこの水準に合せて生きるという方法もある。

 いわばフリーターは価格破壊のようなデフレ戦略ともいえる。逆に高給サラリーマンは右肩上がり時代に成功したインフレ戦略で、デフレ時代の曲がり角において、見事にその突出分が仇になったわけである。

 40、50代になると確実に仕事がなくなる年齢に一歩一歩近づいてゆく。生き残る戦略なんてあるのだろうか。青テントのホームレスは完全に高齢者問題である。企業や市場の姥捨てが老齢期よりはるか先に前倒しされているのである。見殺しにされる中高年の年齢にどんどん近づいてゆくばかりである。






     適者生存と資本主義     01/5/22.


 進化論が反発を生むのは、淘汰という考え方があるからだろう。繁殖や生き残りに失敗したものはこの世になにも残さず、消えて去ってゆくだけの運命にあると断罪する。生きる望みを断ってしまう。

 進化論は市場経済や企業戦略などの考え方にずいぶん転換された。逆にこれは自然界のことではなく、企業戦略の考え方から出てきた思想だといえなくもない。ビジネス社会の一種のルールの基盤であり、正当化のための信念体系でもあるのだろう。

 自然界が企業淘汰を正当化するのなら、人間社会はこの淘汰をそのまま習うべきなのだろうか。経済や生計に失敗したものはそのまま見捨てられてしかるべきなのか。

 ビジネス界では当然こういったシビアで非情な決断がまかりとおる。必要なきものは去れ、である。この世界で恩情や慈善を期待するのはお門違いであり、絶望と怨恨を生むだけである。この期待を過剰にかけたのが戦後日本の会社であり、日本人の生き方であり、そもそも根本から失敗するのが目に見えていた。

 しかしこれはあくまでも経済界のルールである。残念ながら人間社会および人間の心理はそのようになっていない。善意や利他心からそうなっているというより、利他行為をおこなったほうが利益に叶うのである。

 貧困に陥ったものは疫病や伝染病という富者にも貧者にも平等におとずれる危機をまねくこともあるだろうし、ひとり勝ちの富者は殺人や略奪、破壊、社会的非難の危険もみちびいてしまうだろう。人間の種内においては利他行為をおこなったほうが、見捨てるより、利益があると考えられる。

 貧者を平等に経済的にも政治的にもひきあげたほうが、地域や集団において自集団たちを強めることができるだろうし、じじつ、平等で民主制の国家は自己破壊的な戦力を国民すべてから徴集することができるのだ。経済淘汰が激しい分裂・対立の国には考えられないことだろう。

 適者生存、自然淘汰はあくまでも企業間のルールであり、人間の社会すべてには適用できない。慈善的な行為はかつては宗教がおこない、現代では国家がとりおこなっている。その断絶期には市場淘汰が激しくなり、慈善をになう宗教のかわりに国家が富をあつめる社会主義が勃興した。

 いまはふたたび経済淘汰の力を借りようとしている時期である。国家の富の分配の方法がどうもうまく働かなくなってきたようだ。こういう断絶の時代には慈善を国家や宗教に一括してまかせるのではなく、富者や有力者がおこなうべきなのかもしれない。

 けっきょく、攻撃されたり、危機が迫るのは自分たちであり、身近なものたちが慈善をおこなうほうがより自然に近いかたちなのだろう。われわれ個々人も国家にまかせて、あまりにも慈善心を失いすぎた。利他心が国家に棚上げされたままなら、私たちはたんに利己主義の醜い塊に過ぎない。





   子孫存続と人生の意味     01/5/23.


 進化論によれば、子孫存続に失敗したものは生きた価値がないことになる。私のような独身者にとってはたいそう気を滅入らせる思想である。また現代の少子化、晩婚化、自分主義の時代にはあまり適合的でないように感じる思想である。

 進化論によれば、血縁の繁栄に手を貸せば報われるからいいのだとか、こんにち人類はミームという文化的遺伝子に操られているということになっているそうだ。なんだか自分で考え直さないことにはいまいち納得しない。

 子孫存続をしなかった人間は意味がないのだろうか。子どもを残さなかった人間は進化論的には失敗で生きた価値がないのだろうか。遺伝子や進化論の考えを極端にすれば、こういう考え方が導かれるのは防ぎようがない。

 進化論がこんな冷厳な選択を告げておきながら、あるいは子孫繁栄が歴史のなかの民衆の願いであったにかかわらず、現代はおそろしく子孫存続をないがしろにしている。

 進化論はこんにちの少子化、晩婚化、自分主義をどう説明するのだろうか。文化や科学があまりにも重要になった人種は子孫存続より、こちらのほうが子孫繁栄に手を貸すことになるからだろうか。「遊び」や「創造」のほうが自集団の利益に叶うからだろうか。ミームは遺伝子存続により貢献するのか。

 われわれの時代のヒーローはあまり子どもを残さない。哲学者もそうだし、芸術家にあまり子どもは似合わない。社会の風潮からして子どもを育てることの気もちが薄れている。

 皮肉なことに「豊かな」先進国ほど、育児の環境や費用は悪くなる一方だし、親が生き残る環境も厳しい。ますますカネがかかり、より多く労働しなければならなくなっている。子どもが息をしやすい環境からかけ離れてゆく一方だ。豊かさは子孫存続という点ではどこかボタンをかけ違えている。

 人口抑制のブレーキがかかったのか、それともほかの個体の存続抑制の策略でも働いているのか、あるいは遊びや多様性の模索期でもあるのだろうか。ともかく現代人は子孫存続にあまり興味を示さない。

 どうしてなのかはよくわからないが、そういう者にたいして進化論の子孫第一主義はあまりにも手厳しい。意味や価値を創造できる価値判断が必要だと思う。人間の知性なんてたかが知れているから、全部の真理を知ることなんて不可能だと思うから、せめて生きる意味を与える思想が必要だと思う。あるいは子孫存続を第一に考える思想体系にもどったほうがよいのだろうか。






   「貧者は死ね」VS「貧者を救え」      01/5/25.


 エドワード・ウィルソンの本におもしろい指摘がある。中世に魔女裁判がおこったのは「貧者を救え」という教えと「働かざるもの食うべからず」という教義が衝突したためだというのである。明確な方針を失った社会がその罪の意識を魔女裁判によって正当化したのである。

 これはキリスト教と資本主義の衝突だともいえるだろう。貧者を救えといってきたキリスト教は、新しく勃興してきた貧者を見捨てる資本主義の力に打つ手を見出せなかったのである。

 「適者生存」「自然淘汰」「弱肉強食」の進化論はとうぜん資本主義のパワーに貢献したのはいうまでもない。貧者や劣者、敗者は自然が淘汰するという思想はすこぶるビジネス的である。この思想が暴走すると優生思想や差別がおこる。

 これに対してキリスト教の衣鉢をつぐのが社会主義であり、平等思想であり、福祉国家なのだろう。「貧者を救え」という伝統を継承したためだろう、社会主義はすこぶる強烈な宗教的な様相をもつ。

 「貧者を救え」という教義はひじょうに憐憫や良心に訴える。人間は弱いものに憐れみをかけ、助けようという同情や正義感をもつものである。これこそ人間たる由縁だと思いこみたいところだ。

 しかしこのような博愛社会では、ほんらいの人間の競争心や優越心が発揮されず、経済や社会は停滞・沈滞するという考えが最近ではかなり強くなってきた。「貧者は足をひっぱるな」というのが現代の「トレンド」である。

 人類は利己主義と利他主義のあいだをずいぶん揺れ動いてきたようである。人としては貧者を救いたい、しかしそれでは経済を発展させる優越や競争が働かない。振り子は極端から極端にゆり戻されるようである。

 このような時代背景に生まれてきた進化論は自然界の真実を語っているというよりか、もろ資本主義や経済社会のイデオロギーである。目線はちゃんと自然界まで届いているのかと懐疑するくらいだ。「利潤」や「利益」を遺伝子といいまちがえていないか。

 進化論はヒジョ〜にひとでなしの思想である。繁殖や生存に失敗した個体、あるいは遺伝子は生の意味や価値を否定される。キリスト教が反発したのは当然である。そもそも宗教は繁殖や生存に敗北することから出発し、権力を得てきた勢力なのだから。

 宗教は敗者の利他主義というシステムを完遂させたのである。資本主義は経済的勝者による自然的利他主義を含んでいる。つまり金持ちがまわりまわって社会を潤し、貧者に仕事を与えるだ。社会主義や福祉国家はそれを国家が代替する。

 経済的利己心がまわりまわって貧者を救うのか。それとも利他的な国家が富者のカネにより貧者を救うのか。資本主義とキリスト教の亡霊はどちらが社会に受け入れられることになるのだろうか。

 資本主義のルールを「抜き書き」したような進化論は冷厳である。ムダや無意味、遊びを許さない。人に「やさしい」思想でもないし、すべての人に勇気や希望を与えるわけではない。「共同幻想論」の立場をとる私としては人間に希望を与える思想のほうが人間にとっては健全で健康であると思うが、もちろん科学的探究心を否定するものでもない。






    無欲と禁欲の進化論       01/5/27.


 繁殖と遺伝子が人間にとっていちばん大切だとするのなら、宗教はなぜ無欲や禁欲を奨めてきたのだろうか。どうして繁殖にまったく貢献しない性的禁止の教えを広めてきたのだろう。

 宗教によると人間に苦しみをもたらすのは愛欲や生存欲であるから、それを断ち切れば苦しみから解放されるといっている。逆説である。しかしそれによってかれは苦悩から解放されたかもしれないが、繁殖と進化の絆からも解放されてしまうのである。進化論からすればまったく意味不明である。

 よく似た行為に利他行為や自己犠牲があるが、進化論は血縁の繁栄を利するから、それは損失をおぎなうと説明されている。

 自己犠牲を無私の善意や英雄行為からおこなわれたと好意的に盲信するつもりはないが、この説明はなんだか説得性がない。人間は繁殖の道筋をはなれて、頭のなかの「自尊心」や「虚栄心」のために死ぬことができるという隘路に迷い込んでしまっているからである。

 あるいはそれすら自集団の有利さを導くからだろうか。科学や芸術に秀でたものは自集団の有利さをもたらし、ひいては血縁の生存を高める。自尊心や虚栄心はちゃんと進化論に適った心の進化なのか。

 こんにちでは自己の子孫を増やすことよりか、社会に貢献し、評価されたもののほうが価値ある高き生だとされている。科学や芸術、経済、芸能に優れたものが繁殖に優ると評価される。禁欲主義の宗教も社会的評価のルーツのようなものだ。こんにちの社会システムは繁殖より、評価を第一においている。

 人間の社会は繁殖を下等なものとし、脳を高等なものに祭り上げている。脳に快楽や安楽をもたらすものが至上のものなのである。進化論や遺伝子の考え方とは明らかに相違する。

 これはいったいどういうことなのだろう? 繁殖は貶められ、ときには禁止されるのである。地上に残すものは子孫ではなく、脳内の評価や安楽であることを推奨されるのである。断種すらほめたたえられる。

 しかし宗教のために滅んだ人種がないことから、必ずしも宗教は人種滅亡を企図したものではないことがわかる。脳はときには暴走し、個体や子孫の滅亡を謀ることがあっても、完全な死滅をめざしているわけではないのだろう。

 社会的評価は人間の順位を決するものである。順位や地位の増大は繁殖に利するから、この競争が盛んになってきたと考えられる。繁殖のディスプレイが脳の競争にすりかわっているのである。

 無欲や禁欲は逆説的に生の安楽をもたらすものだが、生存や繁殖にかんしても同じことがいえるのだろうか。生存や繁殖に激しく固執すればするほど苦しみが大きくなり、生が困難になる。執着から離れれば、生や繁殖に利することになるのだろうか。これは逆説的な教えなのか。

 人間は脳に描いた世界観によって極端に人生を左右される。繁殖より、脳内の評価や快楽に重みをおいた現代社会は正しい道、まちがった道のどちらを歩んでいるのだろうか。軍配をあげるのは遺伝子の増大なのか。





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モニター故障はなんとか免れています。
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『こんな人が「解雇(クビ)」になる』 夕刊フジ 角川oneテーマ21





















































































































































『人間の本性について』 エドワード・ウィルソン ちくま学芸文庫

   
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