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▼テーマはアンチ労働主義 

 



仕事ばっかりの人生なんてまっぴらだ!
                                    01/3/13編集


 職業中心の人生観は終焉するのか?/労働のなかの自由か、労働からの自由か/エリート幸福論のあとにくるもの/偉くなる人生より、楽しめる人生を/自由競争と立身出世を否定した現代社会/自由と企業の地位序列/「老後恐怖症」の洗脳と拡大/



  職業中心の人生観は終焉するのか?     00/11/26.


 21世紀には今世紀までの職業中心の人生観は崩壊すると大胆にいいきった野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』(PHP新書)をよんだ。

 私は現在のような職業中心の人生なんか生きるに値しないとは思ってきたが、この社会は職業中心社会のままぜんぜん変わらず、あきらめかけていたから、21世紀にそれは崩壊すると宣言したこの本にはおおいに好感と共感をもった。

 かつての近代資本主義の時代では、一定の職業について勤勉に働くことが人生の義務であり、意義であると思われており、また人生の充実と幸福が手に入れられるものだと信じられていた。われわれのオヤジの世代はこういう信念にこり固まっており、その他の「流動的」な生き方は頑迷に否定するのが王道だ。この時代にはたしかにそれなりの見返りと充実が保証される時代経済があったのだろう。

 しかし現在グローバル化と技術革新の波はすさまじく、崩壊する大企業はあとを断たず、安定と計画はのぞむべくもなく、人生は投機性と偶然性のつよいものにならざるをえないものになった。

 このような時代にはかつての職業中心の安定した計画的な人生は立てることもできず、おおぜいの人はパートタイマー的な職業にとどまざるを得ず、したがって勤勉や忍耐が徳目でなくなり、「一億総中流」の時代は終わり、貧富の格差は広がり、貧しいその日暮らしな生活ながらも、人生を楽しむ日常倫理が必要となってくるということだ。

 ふたたび江戸時代の町人のような暮らしがもとめられるわけだ。かれらは貧しいながら、日常生活を楽しむすべを知っていたし、その日暮らしの毎日を悔やむよりか、おおいに楽しんでいた。しかしその代わりにかれには民主政治は与えられていなかったし、階級社会だった。そんな時代が21世紀のわれわれの人生モデルになりそうなのである。

 しかしすでに若者は片足をつっこんでいるといってもおかしくない。政治とか大きな状勢にはまったく無関心だし、刹那的な享楽を求めるし、勤勉な職業観をもっているかはかなりアヤシイ。あとは政治の道具をとりあげられる民主制の権利がなくなることと、貧富の格差とか階級社会という序列制度の経験があるかないかの違いだけだ。

 おおむね私はこういう社会が来るとしても、楽観的に喜んでいるほうだ。職業に人生を捧げる一生なんかまっぴらだと思っているし、もしそれがとりのぞけられるのなら、貧富の拡大とか階級社会くらい大歓迎だと思っている。そのくらいの犠牲を払わないと職業人生からの脱却はのぞめないのであり、逆にいうと、民主制や平等は国家への自己犠牲がないと与えられないものである。二兎を得られない。

 さて、はたして職業中心の社会は崩壊するのだろうか。これまでの勤勉な職業観から脱け出す気楽な人生観が、社会的容認や賛美を得るような時代に早くなってほしいものだ。そのためには貧しさと不安定という生け贄は不可欠だと覚悟しなければならないが。





     労働のなかの自由か、労働からの自由か   99/10/15.


   仕事とのかかわりにおいて自由はふたとおりあると思う。労働の中に自由を求める方向と労働から離れたところに自由があると思う考え方である。

 仕事のなかに自由を求める者は出世して高い立場に立つことによって自由を得られると考えてきた。人に命令される服従ではなく、人に指図し命令する自由である。戦後の人たちはこういうことをめざしてきたのではないだろうか。またこれには消費選択の自由の増大もある。

 近頃の若者に根強いのはやはり「クリエイティヴ」な仕事によって自由を得られると考えることだろう。ものを創造したり、デザインすることによって、機械や組織に使われない自由を得ることができると考えた。3K職種が嫌われたのはなにもキツイやキタナイからだけではないのだろう。

 わたしが思うに出世で得られる自由は外から見れば、どう見ても企業組織という狭い井戸の中での自由でしかないように見える。またポストを得るためにどう見ても隷属としかいいのようのない状態に陥ってしまっている。わたしの自由の選択のなかにこれがないのはとうぜんである。

 クリエイティヴのなかに自由があると思うのはわたしの中にもあるのだが、どうもたいがいの仕事はクライエントの意のままに従わなければならなかったり、ちっぽけな需要や要望を満たすためだけの仕事であったり、ここに自由があるかはだいぶ怪しい。趣味に逃げたほうが賢いかもしれない。

 で、わたしは労働からの自由を求めたわけだが、ここにはとうぜん貧窮と不安定と不自由がある。さげずまれたり、みじめだと思われたり、身分的差別をうけたり、下請的待遇をうけたりする。この自由は社会的承認をうけていないから、よけい精神上にも悪い。

 社会は労働からの自由をほとんど希求していなし、あるいは若者に現れるそのような現象を理解すらしていないから、法的保護や規制がほとんど行なわれず、政府の網の目からぼろぼろともれ落ちる行動を若者がおこす結果になってしまっている。

 ひところ余暇論やレジャー論が騒がれたが、おかげで気違いじみた集団強制と強制的レジャーがまきおこった。平成不況はこれとは無縁ではない。自由への希望がとんでもない隷属、不自由に逆転してしまったことに恐れているのだろう。

 自由に憧れた者は後ろ向きに落ちてゆきながら、労働からの自由に足をふみいれつつある。たとえば登校拒否やひきこもり、フリーター、失業、リストラによって、あまり褒められない自由を享受しつつある。これまでの常識では落ちこぼれと見なされたもののなかに、世間がポジティヴな自由を見出せるようになるのはいつのことだろうか。   





    「エリート幸福論」のあとにくるもの   99.10.8.


   エリートになれば幸福になるといった神話の崩壊がしきりにささやかれているが、ひじょうにつくり事めいて聞こえる。すでに崩壊して久しいものを事後確認しているようなものだ。

 ではそのあとになにがくるのかといえば、明確ではない。「有名人幸福論」といったものが世間では強そうだが、これに与かれる人はひじょうに少なくて、ひそかに不幸の蔓延を招いていたのかもしれない。われわれにできることは有名人の着ているファッションを身につけたり、動作や口調をまねたり、カラオケで歌ったりすることで満足してきた。

 「有名人幸福論」を大衆化するためにひじょうに都合のよい技術がやはりできあがった。インターネットである。

 エリート幸福論ができあがったとき、人々が学歴に殺到し、学校の義務教育化・大衆化がおこなわれたように有名人幸福論もその大衆化があとからやってくるのだろう。

 しかしエリート幸福論が虚構であったように有名人幸福論もただの幻想である。その夢が醒めるまで有名になろうとする衝動はいつまでも覚めやらないのだろう。

 われわれにほんとうに必要な幸福論というのは市井のなんにもない、ごくふつうの日常生活のなかに求められるべきなんだろう。そういった無名の人のなかに幸福を見出す技術をつくりださないと、「何々」になれないから不幸だという気持ちは拭い去れない。

 無名のなんでもない人たちのなかに幸福を見出すということはひじょうに大切である。そういう人生の先輩としてひじょうに身近なところに親がいるのだが、われわれのたいがいは親を軽蔑して、親のようにだけは生きたくないと思い込むようになっている。

 それがエリート幸福論や有名人幸福論の原動力や進歩主義のエネルギーになってきたのだが、おかげでわれわれはいつも不満と自己非難ばかりつづけて幸福になれない。




      偉くなる人生より、楽しめる人生を   99/12/17.


 戦後の教育の最大の失敗は、だれでもかれでも「偉くなれ」といってきたことにあると思う。「偉くなる」人生はいつも目的を先送りにし、多くの人を競争にまきこみ、偉くなれなかった百人中の99人を不幸と不遇に落としこんでしまう。

 人生の価値と目的を狭いものにしたら、とうぜん多くの人はそこから漏れることになるのは当たり前のことだ。偉くなることを刷り込まれた多くの人たちは自らを慰める術をみいだせずに人生を不遇に過ごすことになる。

 偉くなる必要なんかないのである。人生を楽しみ、大過なく過ごせれば、それで人生はハッピーというものだ。エリートになれなくたって、落ちこぼれたって、貧乏であれ、劣位や下層階級とよばれるものであっても、ただ生きていることだけ、存在していることだけに自分の価値があると思えれば、ほとんどの人はハッピーである。

 しかし偉くならなければ生きている価値がないと教え込んだ教育と社会はとうぜんのことに大半の人の生きる価値を削ぎ落としてしまうことになる。はじめから人生の価値を局限してしまうわけである。こんな社会はとうぜんのこと、みずからの生きている価値も意味も慰めもみいだせない大量の人を生み出すだけだろう。

 だから社会はただ生きていることだけに価値を見出せるのなら、多くの人は救われるだろうし、ハッピーになることだろう。偉くなれない自分を責めたり、苛んだりすることはないだろう。そういうふうになると社会はもっと生きやすくなる。




      自由競争と立身出世を否定した現代社会   2000/2/20.


 「現代という時代は、巨大な「組織と管理の時代」なんだということができるとおもいます」――これは梅棹忠夫のことばである。(『わたしの生きがい論』)

 「ほんとうに皮肉なことだとおもうのです。自由競争を目ざして立身出世街道を驀進した民衆のエネルギーが、結果としてきずきあげたものはなんであったかというと、まさにそういう自由競争と立身出世を否定するような、巨大な官僚組織であった」

 このことばにはがつんときた。けっきょくのところ、現代社会あるいは現代の組織というのは、明治のころに可能であったり、現実の夢としてあった自由競争や立身出世がまったくできない世の中になりつつある――あるいはもうすでにそのような形に完成してしまったのかもしれないのである。

 これだったら、まるで封建社会の大悪人だった江戸時代とまったく同じ状態に帰り咲いたということになる。つまり現代というのはもう暗黒の江戸時代に片足ばかりか、頭までカンオケにつっこんでいるということだ。

 おまけに現代は歴史で習ったような暗黒の江戸時代とはまったく違うんだというおめでたい認識がまかりとおっているのが現状である。学歴競争でわずかな夢を垣間見ることができると思い込んでいるし、学校ではこの社会は民主主義と自由と平等の社会だ、悪役の江戸時代だとは違うんだと、学校の教師にウソの仮想現実をたたきこまれてわれわれは社会人になる。

 じつは現代は江戸時代よりヒドイ拘束と不自由の社会かもしれないのだ。自由と平等の社会といっても労働と会社に大半の人生を搾りとられるし、会社のなかに平等なんかあるわけない。社長や上司が新人やヒラと平等であるわけがない。江戸時代は身分差別社会だったということだが、会社の中でも会社同士のランクでもしっかりと身分差別制度ができあがっている。

 斬り捨て御免とか圧制とかがあったということだが、現代でも民衆が政治を動かしているとはとても思えない。権力とか利益団体の意のままに操られて、民衆の手の届かないところにあるのが政治だ。現代というのは、歴史の教科書で習った以上の封建主義社会、江戸時代のすがたになっているのかもしれない。

 立身出世だとか自由競争だとか、民主主義、自由と平等の社会という理想的な虚妄の認識をあらためて、この社会は暗黒の江戸時代と同じであると認識したほうがはるかに世の中の仕組みを理解しやすく、妥当であり、生きやすくなるのではないだろうか。

 暗黒の江戸時代という認識から出発して、もう一度立身出世が可能になるような明治レヴォルーションを起こすか、それとも現代社会に適応すべく老荘や仏教の処世術を身につけるべきなのだろうか。

 明治の立身出世をめざすようなものは現在では情報産業などがある。ぽつぽつと大金持ちも夢ではないというような起業家の夢も芽生えはじめている。

 それともあきらめて社会や世の中を変えるより、自分の心の姿勢のみを変えようとする老荘や仏教の現状維持的イデオロギーに身をまかすべきか。ウォルフレンはこれを「敗北者の思想だ」といった。しかし変えようのない社会に憤るより、心の平安と体制順応に暮らすほうがはるかによい生き方ができるかもしれない。

 歴史観も変える必要があるのだろう。われわれの知っている歴史観は革命家や立身出世主義者にとってのご都合歴史イデオロギーである。だから江戸時代は悪役になった。庶民の知恵にとっては江戸時代の怠け者でも、ぼんくらに生きててもよかった時代のほうがよかったのかもしれない。

 えらくなれ、役に立て、という革命家の歴史観は庶民の心を強迫観念や自虐観に駆り立てる。現代はそういう大衆強制と、じつのすがたは封建江戸時代、というどっちつかずの状態だから、われわれはいろいろ苦しんだり、悩んだりしているのだろう。歴史はひと廻りしたのである。どちらのほうがいいのだろうか……


 □封建社会をみなおすブックガイド
   呉智英『封建主義者かく語りき』双葉文庫
   石川英輔『大江戸生活事情』講談社文庫
   中川八洋『正当の哲学 異端の思想』徳間書店



       自由と企業の地位序列      99/12/31
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 自由には憧れるのだが、職場での地位が低い人を軽蔑して見てしまう。サラリーマンにはなりたくないと思っていたのだが、まじめにきちんと働いてきた人を評価してしまう。服従や隷従する人たちを軽蔑してきたのに、まじめな勤め人はエライと思ってしまう。過去になにをしてきたかわからない人や仕事があまりできない人は低く見てしまう価値基準が自分のなかにはある。

 つまり自由な生き方の基準より、企業の人間評価のほうが優っているということである。企業のなかで人と出会うと決まって企業内評価と同じまなざしで人を評価し、見下してしまう目が自分のなかに根をおろしているというわけだ。

 愕然としてしまう。自由な生き方をしてきた人はとうぜん企業内では評価も低く、劣等な地位におかれることになるのだが、自由に憧れる自分もそういう企業内評価のまなざしで人を序列づけているのである。自由な人というのは、きちんとした企業ではとうぜん軽蔑して見られる。そういうまなざしが抜きんがたく自分のなかに定着している。

 わたしは服従や隷属を嫌い、自由な生き方をのぞんできたはずなのだが、サラリーマンの人物評価がしっかりと自分のなかに根をおろしてしまっている。企業内評価の低い人を軽蔑して見てしまう自分には驚くと同時に自分のモノサシの甘さには愕然としてしまう。

 軽蔑するのは自由なのである。そしてそれは仕事ができないことや、あるいは仕事に定着しないこと、社内で低く見られることなのである。裏返せば、これは人間としての自由をもちあわせていることになるのだが、そういう自由を軽蔑してしまっている自分がいるわけだ。

 これでは自由の息の根をとめているのと同じだ。企業での低い立場の人を軽蔑して見るということは、自由を抹殺していることと同じだ。一方では自由をほめ、その裏では自由の首を絞めているようでは、とうぜん自由なんかにはなれない。

 こういうまなざし、評価基準には警戒することにしよう。自由と地位の低さはコインの表裏なのである。地位の低い人を軽蔑して見れば、自由を否定することになる。企業での低い立場にいる人を軽蔑して見るようなまなざしに訓化されるようなことは避けたいと思う。そのような評価基準で人々を判断してしまう反射性を警戒しよう。

 自由のモノサシは企業のモノサシとまったくひっくり返るものだ。企業での低い評価は、自由のモノサシでは高い価値をもつものである。この転倒を忘れるようでは、みずからの自由の首を絞めているようなものだ。

 ただ企業の集団の力というのは強い。弱いところにはいじめのような構造がかかる。だから人はそれを恐れて集団内での価値基準を自分のものにしてしまう。こういう力の構造があるから、人はこぞって企業の評価をみずからの内にとりこんでしまう。自由というのは、集団の力との闘いかもしれない。






    「老後恐怖症」の洗脳と拡大    01/1/14.


 あえて「老後恐怖症」と意地悪に命名させてもらおう、なんでも「ビョーキ」にしたがる心理学者みたいに。

 われわれはみんな「老後恐怖症」にかかっている。就職や結婚をすすめるさい、だれもが「老後はどうするんだ」とか「老後一人はさみしい」だとかいって、不安からそれらを強制する。十代や二十代の若者からして、あと三十年も四十年も先の老後から現在の選択を迫られているのである。かなりイジョ〜でビョ〜的な事態である。

 たしかにこれはしごくもっともな「心配」かもしれない。「現実」に懸念されるものである。現実には存在しないと思われる恐怖に囚われる「恐怖症」の範疇とは違うものかもしれない。

 しかし何十年も先のことがだれにも予測できないように、老後のことも予測できるわけがない。目の前に現存する不安や心配と違うことからして、過剰でオーバーな恐怖ともいえる。

 これまでは「予定調和」の時代だった。学校を卒業して就職して課長部長と出世して定年退職を迎えるといった人生が、ある程度無難に送れると予測できた時代だ。だからいまの若者も人生のはじめから老後と現在をセットにする考え方を植え込まれていた。

 未来や将来から逆算する人生計画が当たり前のようにわれわれの頭に根づいた。これは国民年金や企業年金、健康保険などの老後保障が生まれたときからあったせいである。

 むかしの日本人や現在の世界の大半の人々は「今日食うや食わず」の生活をしており、明日の心配や保障なんかできないのが当たり前だった。

 200年前の産業革命、100年前のマルクス主義から事情は変わる。国家や企業が老後を保障するという思想と制度ができはじめる。人生は生誕のときから老後を守られ、計画されるものとなり、同時に人生は老後から束縛され、拘束されるものになった。

 食うや食わずの人に将来の保障がないわけではなかった。家族や親類、地域社会などの福祉があった。しかしその福祉を国家や企業が担うことにより、家族福祉は崩壊してゆくことになる。

 ソビエトでの社会主義が崩壊したようにこれから世界での社会主義的発想というものもどんどん崩壊してゆくものと思われる。ふたたび市場主義の発想に戻りつつあり、しかし豊かさは以前と比べて破格に高くなった時代であるが、エスカレート式の市場拡大が見込めた時代は終わろうとしている。

 このような時代の老後逆算の人生はどのような運命をこうむることになるのだろうか。生まれたときから老後を守られていた若者は、逆に老後から拘束される人生を嫌う者も増えてきた。

 計画人生はこのまま延長することができるのだろうか、それともどこかでぽっきりとハシゴを折られることになるのだろうか。老後保障は少子高齢化によって財政的に破綻しつつあるし、市場の変貌はかつての計画人生を不可能なものにしつつある。

 このような時代に老後から発想する人生はただの「老後恐怖症」で終わることになるのか、それとも堅実な人生計画としてまっとうできるのかは今のところわからない。

 ただ気分としては、現在を老後から発想する逆算法はどうもフツーではない気がする。人生は老後を守るためだけに存在しているというのはどうもおかしすぎる。




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■フリーターを考える
20冊の本

脱労働社会の可能性を探る。

『ウォールデン 森で生きる』 ソーロー ちくま学芸文庫

アンチ労働のバイブル。

『旅へ―新・放浪記〈1〉』 野田知佑 文春文庫

フリーターのバイブルたりえる野田青年の放浪記。

『だめ連宣言!』 作品社

働かない人たちはどこへ行ったのか。

『ハマータウンの野郎ども』 ウィリス ちくま学芸文庫 
労働を忌避するイギリス労働者階級。

『二十一世紀をどう生きるか』 野田宣雄 PHP新書

職業中心の人生観は崩壊する。

『若者が<社会的弱者>に転落する』 宮本みち子 洋泉社新書y

若者はすでに弱者である。

『何のために働くか』 オバタカズユキ 幻冬舎文庫 
働く意味を考えない人が多すぎる。だから日本はアホになる。

『ホーボー』 フェイエッド 晶文社

鉄道を渡り歩いたアメリカ対抗文化のヒーローたち。

『無能の人』 つげ義春 新潮文庫

役に立つだけが人生ではない。

『清貧の思想』 中野孝次 文春文庫

欲を捨てた生き方を選んだかつての日本人たち。

『山頭火句集〈1〉』 山頭火文庫

漂泊に生きた俳人。

『生業の歴史』 宮本常一 未来社

たくましくもしたたかに生きてきたかつての日本人の生きざま。

『陶淵明全集〈上〉』 岩波文庫

栄達を捨てて脱俗に生きた詩人。

『その日ぐらし 江戸っ子人生のすすめ』 高橋克彦・杉浦日向子PHP文庫
「宵越しの金はもたねぇ」

『人間を幸福にしない日本というシステム』  ウォルフレン 新潮OH!文庫

生産マシーン国家。

『近代の労働観』 今村仁司 岩波新書

虚栄心の狂気が人を労働に駆り立てる。

『生きがいの周辺 1』 加藤秀俊 文春文庫

30年前も若者は仕事に悩んだ。

『新しい幸福への12章』 日下公人 PHP

金や地位を否定した幸福もある。

『モラトリアム人間の時代』 小此木啓吾 中公文庫 
30年前のやる気のない若者の出現。

『若者・アパシーの時代』 稲村博 NHKブックス 
40年周期で無気力な若者が発生するという予言の書。



   
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