ツブツブツブツブツブツブツヤキ断想集
怠け者の不覚/社会の片隅と中心/ペルソナとアニマ・アニムス/「感情商品」とマスメディア/悪役と投影/攻撃欲と投影/感情の読み違い、心の線引き/他人の感情は自分の感情/
怠け者の不覚 01/2/2.
私はほんと怠け者だと思う。ちょっと休みがあったら、ふとんにもぐりこんだまま何時間でもだらけていられる。あ〜、こういう時間がいつまでもつづくのならば幸せなのにと思ってしまう。
現代というのは「怠けること」が禁止された世の中である。たぶん人々の怠け者に対する憎悪や憤懣というのは相当なものである。じつは憎悪なんて近親憎悪か、怠けられない自分に対する怒りにほかならないわけだけど。自分にフタをしているがゆえに他人にもフタをしないと気がすまないというやつだ。
日本人というのはいつからか強迫的に怠けることを禁欲してきた。もうほとんどキョーハク観念である。地球上の多くの土地では電車が何十分も何時間も遅れる国があるということすら思いもつかない。そういうおおらかで、社会全体で怠けているような国はいくらでもあるのにである。
ヨーロッパが工業化するときには貧民救済という美名のもとに怠け者を収容所に送りこんだ。怠け者は路上にたむろするような貧困者だったからだ。ヨーロッパは怠け者を強制的に排除しないと、奇怪な鉄ブリキ帝国を築けなかったわけだ。
日本人はなぜだかヒジョーに勤勉な人間になった。幕末の日本人は西洋人の目からみるとなんてのろのろしているんだと牛のように見えたそうである。たぶん日本人は西欧文明の魅力にとりつかれてしまったのだろう。みんなが西欧のモノやカネを見せびらかすようになると、稼ぎの悪い怠け者は淘汰されていったのだろう。女には見向きもされない。
多くの日本人が地方や農家から都市に出てきてサラリーマンになってゆくころには欲しいモノがたくさんあった。自動車にTVにマイホームにといった具合に。ほしいモノがたくさんあったから馬車馬のように勤勉に働いた。
ふっと気がついたらほしいモノがなにもなくなっていた。消費なんかつまらないものになっていた。だから80年代にはブランド品や高級品に人々が群がった。バブルが弾けると、もとの時代に戻っただけだ。
それなのにカイシャと仕事だけは勤勉の倫理をずっと押しつけている。ひとまわり時代が遅れている。経営者や管理者にとってはコキ使う方がオトクだからだろう。だからわれわれも勤勉の牢獄のなかにずっと閉じ込められなければならない。
じつはわれわれは怠けたいのではないかと思う。でもあまりにも長く抑圧され、禁欲されたものであるから、それを名づけることも、明確に意識することもできなくなってしまっているのではないだろうか。生活リズムや生活スタイルがあまりにも勤勉な時間割に慣らされてしまったため、ゆったりと怠けるという時間リズムさえ思い出せないのだ。
ほしいモノがないのなら働く必要はない。でもガッコを卒業したら就職しなければならないという常識からなかなか頭を抜け出せない。マジメに働かないと、老後保障や健康保険、ローンを払う金がなくなると、あとから追加されたゼイタク品のために、身動きがとれなくなってしまっている。
また金持ちと貧乏人のヒエラルキーや蔑視、権力者と下層民の恐れなどがついてきて、てんで強迫多忙社会から降りられない。
勤勉に働かせたい者たちはもっとほしいモノや必要不可欠のものを増やして、エサでわれわれを釣ろうとするだろう。そこで怠け者は気づかなければならない。ほしいモノをたくさん手に入れるより、もっとだらだら怠けていたいだけなんだと。
将来の不安をエサにして、人々はもっと働かせようとするだろう。怠け者は知らなければならない。怠け者は貧乏が必然であり、カネもモノも保証もないんだということに。さもないと怠け者はいつまでたっても、郷愁のふるさとには帰れない! 怠け者は人生観も死生観もごっそり入れ替える必要がある。
社会の片隅と中心 01/2/3.
社会の片隅に埋もれてゆく人生が恐ろしくて、むなしいことだと思ってきた。中心になりたいという気持ちと裏腹に、社会の片隅にどんどん埋もれてゆくジレンマに悩まされてきた。
なぜ自分はこんなに社会の片隅に埋もれるのが怖いんだろうと思ってきた。たぶんこういう気持ちに悩まされる人は多いのだと思う。有名になりたい人やタレントに憧れる人というのは、このマスコミ社会ではそうとういると思われるからだ。
どうやら存在の二重性がその原因にありそうである。つまりこの世界というのは自分が存在してはじめて意識できるものであり、自分が死んでしまったらこの世界は消滅してしまう。自分はこの世界の主役であり、中心であり、自分がいなければこの世界は存在しない、かけがえのない存在である。
しかし他人にとっては自分はただの見知ラヌ人であり、生きようが死のうがまったく関わりがないちっぽけな存在である。他者にとっての自分は無意味で、無価値で、顧みるに値しない存在なのである。
この落差と断絶が根源的不安となって、他人に認められたり、有名になって人に知られようとする認知欲望を生み出すのである。つまり他者の認識世界においても自己の存在が無ではなく、中心でないと耐えられないというわけだ。(瀬古浩爾『わたしを認めよ!』洋泉社新書)
う〜む、自我の世界と他者や社会の世界が錯綜しているというコトか。自分の世界での中心としての自分と、社会のなかでのポジションの中心の同一性を願ってしまうというワケだ。
これは世界が混乱しているということになるのだろうか。自己が認識する世界と社会が認識する世界の混同である。自己世界においては自分は中心かつ絶対根拠にほかならないわけだが、社会のほかの人々にとっては無に等しい。この世界の二重のあり方がどうも納得できていないというか、どうしても承認できないのである。
認識の失敗なのかもしれない。自己の認識と他者の認識が同一視されている。つまり自分が認識しているものは他者も同じに認識しているはずだという思いこみがあるのかもしれない。
自己と他者の認識の分離や隔離ができていない。そのために他者の認識においても、自分は中心に座らなければならないというわけか。(この自我問題はここで腰を折る。これ以上やったら無謀な断言をしそうだから。ただこの認識問題をきっちりと理解しないことには片隅の恐れはかんたんには去らないだろう)
不安を遠ざける方法を提示してみたいが、他者から無意味や無価値と思われることに耐える、あるいは慣れることである。他人にとっては自分はちっぽけで、とりに足らぬ存在であるのは当たり前であり、それが人間の認識の構造の常態であると理解することだ。
人間は自分が認識する世界しか認識できない。他人は永久にこの世界の主観や意識として現われることはない。不可能なのである。他者にとって自己は無意味や無価値でしかありえないのである。どうやら他者にとっての自己の無価値さというものにじっくりと馴染み、たっぷりと身に染みて理解することしか、不安から解き放たれることはないのだろう。
それは同時に他者に認知されないでも十分に安らかになれる自分の発見でもある。
ペルソナとアニマ・アニムス 01/2/8.
ペルソナというのは社会的な役割や立場の仮面であり、この仮面を被っているとき、人は真に個性的な存在とはいえず、集合的な存在となり、社会の期待に合せて生きているといえる。
そういう仮面をつちかうさいに削ぎ落としてきた側面――男ならとくに女性性、女なら男性性を――それぞれアニマ・アニムスという。
人はそれを生身の異性に投影する。映画『ぼくの美しい人だから』(アメリカ90年)はその対比を見事にうきぼりにしている。ハンサムで高収入な男が、16も年上のどうしようもない堕落した女に魅かれる話である。この男は成功する途上において、自分のそのようなだらしのないアニマを切り落としてこなければならなかったわけだ。(山中康裕『シネマのなかの臨床心理学』有斐閣ブックス)
この本のおかげでユングのいっていたアニマ・アニムスにひじょうに興味を魅かれた。さいきん私が興味を魅かれた映画というのも、中年になって女性に夢中になり、それまでの成功や地位を投げ捨てる話だった。これはまさにペルソナとアニマ・アニムスの関係を語っているということに気づいた。
映画では生身の異性に魅かれる表面的にはただの第二の恋の話になっているが、ユングのテーマである無意識の影やアニマ・アニムスとの統合を試みているのだと読むことができる。
ユング心理学のいっていたことはこういうことなのかとはじめてわかった気がする。ペルソナが削ぎ落としてこなければならなかったほんらいの自分――男ならアニマを統合しようとする心の成長を試みていたというわけだ。
しかし私には自分の中にそのようなアニマ像があるのかわからないし、感じたこともない。それに私はあまり男らしい男ともいえないし、男らしくありたいともほとんど思わないし、男の社会的役割を嫌っているようなところもある。そういう人間にはまたそういうタイプの逆の影やアニマ像があるんだろうな。
いったいどんなのだろうと思う。影とかアニマというのは、意識に現れる自分とまったく正反対の人格と考えればいいのだろうか。狂暴で凶悪で、また女性的である自分が、無意識のなかに生きられなかった自分としてうごめいているのだろうか。
無意識なんかわからない。言葉であまりにも「無意識」という枠組みを与えられたために頭でしか無意識を理解していないし、そのような知識のうえではやはり無意識の存在自体が怪しいものに感じられてしまう。
ともかくおかげでユング心理学の導入部がつかめた。ユングってどうも神話とか神秘的な側面が前に表に立ちふさがってどうも読み進む気になれなかった。私はその先のトランス・パーソナル心理学にはだいぶ興味を魅かれていたのにである。
私にとってのそれへの興味は、意識上における思考や感情、認識のとりあつかいにあった。つまり意識内の問題である。これで無意識を探る必要性というものにようやく気づいたのだが、無意識とかアニマ・アニムスってほんとうにあるのかなぁ。。。
「感情商品」とマスメディア 01/2/12.
自分の感情や感じ方というのは自分の思い通りにならないことがままある。ときには自分の思っていることを裏切って、不安や悲しみに射すくめられてしまうこともある。
ではこのような感情や感じ方をかたちづくったのは何かというと、やはり子どものころに見たマスメディアが大きく作用しているのだと思う。私の感情の反応の仕方を大半影響づけているのはおそらくこれらのマスメディアだろう。
だから子どものころに見たマスメディアを見直すということは、自分を規定づけているものとふたたび対峙し直すということになるだろう。あるいは「他人によってつくられた自分の感情」をとりもどすきっかけになるかもしれない。
現代のマスメディア社会において感情はすでに「感情商品」や「中古品の感情」として大量に出回っている。われわれはすっかりその感情商品のパターンにはまり、無条件に反応づけられてしまっているというワケだ。
子どものころに見たマンガやTV、映画は自分にどのような作用を及ぼしているのだろうか。たとえば私にとって印象深いのは『ポセイドン・アドベンチャー』や『エアポート××』といった一連のパニック映画である。これらでは極限状況における自己犠牲を描いていて私はえらく感動したものだが、思いやりといった感情はこんなところでつくられたのではないか。
私には人より優越しようと見せたり、上下関係を誇示したりする気持ちに抑制が強いが、TVアニメなんかではけっこうエラそうにする人を批判するような場面があったように思う。冷酷であったり、鼻持ちならない役柄として叩かれていた。
逆にどんくさくて、デキが悪いほうがみんなの主人公である方が多く、はたしてこのような道徳律を組み込まれたわれわれは、この競争社会で足カセになるのではないかと思わなくもない。デキの悪い、ダメな人間の方が愛らしいが、そんな人間により同一化してきたことはよいことだったのだろうか。
自分の感情に抗えない最たるものは恋愛感情である。われわれは恋愛感情こそ自分の自分たるゆえんだと思っているが、はたしてそうなのか。「感情商品」によって刷り込まれたものではないのか。
この社会では「恋愛感情の商品」にはまず事欠かない。音楽であれ、マンガであれ、TV、映画、これらはほぼ恋愛感情を大量に売っている。この商品は今世紀の陰の最大のヒットだろう。はたしてこの恋愛感情の起源は子どものころに見た恋愛もののマンガではなかったのではないか。思い出せば、『キャンディ・キャンディ』――。
スポ根ものや学園ものはどのような感情や規範をわれわれに組み込んでいったのだろうか。『巨人の星』や『あしたのジョー』、『ゆうひが丘の総理大臣』『俺たちの旅』。情熱や感動――? あるいはカイシャでガムシャラに扱き使われるためのバッテリーみたいなものか?
『ウルトラマン』や『仮面ライダー』、『ガッチャマン』『ガンダム』のような勧善懲悪的なものはどうなんだろうか。ユング派によるとどうも「悪」は「自我」がなりたつために必要な過程であったといわれているが、われわれはおかげで立派な自我をもつにいたったのだろうか。
感情というのは自分独自のほかにはありえないものという感が強いが、じつは大半はマスメディアによってインプリンティング(刷り込み)されたものだといえる。ハイジャックされたようなものである。そしてそんなことをつゆとも知らず、刷り込まれた感情を自分独自のものと思いこみ、人生の判断をおこない、暮らしているともいえるのである。
マスメディアに操縦された感情のまま生きるのもそれはそれでいいだろう。それは商品であっても自分の好き嫌いで選びとってきたこと事実もあるからだ。
ただ自分の考えが変わったのに気持ちや感情がついてこないと感じたときには、自分のつちかわれてきた感情の起源や生成要因といったものを検討してみなければならないのだろう。慣習や規範、過去のメディアのドレイになるか、自由になるかは、自分の判断しだいだ。(そんなにかんたんには刷り込まれた感情や規範から自由になれるとは思わないが)
悪役と投影 01/2/15.
悪役とはどうも自分のなかの悪い性質が投影されたもののようである。それは自分のなかの攻撃性であり、不安であり、欲望であり、その他社会規範などに抵触するものなどもろもろの悪い性質がひとまとめにされたものである。
子どもマンガに出てきた怪獣なり悪役なりというのは、自分のなかのそのような部分というワケである。だから子どもたちはその悪役をこてんぱんにやっつけ、そして勝たなければならないのである。憐れんでやったりしたら、悪に呑みこまれてしまう。
しかしやっかいなことに多くの人はオトナになっても同じ機構から抜け出せない。他人を叩いたり、嫌いたり、攻撃したりする。それがもしかして自分の中にある性質を投影しているということに気づかずに。
私はかろうじて母への反抗期のときに非難している言葉がそのまま自分のことじゃないかと気づくことができた。批判する構図がそのまま自分にあてはまることに気づいたときに、「あ、こりゃあ、口に出していうのも恥かしい」と思った。
といっても、「投影」はむずかしい。現実と投影の区別なんかなかなかできるものではない。ぜんぶ投影だったら、現実や外界のことはなにひとつ分からずじまいだ。もしかして人間なんて自分の心の投影でしか物事を見れないのかもしれないな。しかも自分の悪い部分はぜんぶ他人に押しつけてしまったりして。
他人のある所が嫌いになったり、不快になったり、腹立たしくなったりしたら、たぶんそれは自分の中にある共通の部分に向けられているということである。他人のことじゃないよ、アンタ自身のことだよ。ということだ。
自分と他人の区別ができていないのである。といっても主観のなかでは自分と他人の区別なんかできない。並行している。あるいはごちゃごちゃである。自分のいやな部分は、他人の行動によってよりいっそうはっきりと見えるだけだ。だから他人を叩く。
それが自分の中の心だと気づいた人はどうしたらいいのか。悪や敵はまるごと愛したり、肯定したりはしないほうがいいそうである。自我の価値体系が崩壊してしまうそうだからだ。
まあまったく排斥せずに悪の居場所を見つけてやることが、ユングのいう「統合」であったり、「個性化」であるということである。
なんだかどういうことかよくわかりかねるが、他人の悪が自分の中にあるとあると気づくことは人格の成長でもある。いやな部分、嫌いな部分は他人ではなくて、自分にもあるんだと気づくことができたのなら、まあ自分の中のそのような部分とのつき合い方を新たに模索できるだろう。
子どものときにはともかく悪役は排斥するばかりでよかったかもしれないが、いい大人になったのなら、自分の心は自分の問題として処理すべきである。悪い、いやな部分はどんな善人やいい人にも含まれているものである。それにフタをするばかりでは解決しない。自分のものとしてふたたび統合しなおすことが必要だということである。
攻撃欲と投影 01/2/17.
投影ってわかりにくい。たとえば、他人の恐れは自分の敵意だとか、人からの拒否は自分の拒否する気持ちのすりかえだとか、自意識過剰は自分の他人への強い興味だとか、逆転した関係が示唆されている。
いまいち納得しづらかったのだが、投影に関してのよい本を見つけられないこともあって、そのままにしておいたのだが、さいきん童話分析とかユング心理学に近づく機会があって、ちょっと理解が進んだ。
敵意とか攻撃、拒否とか批判とかいうのは意識上では受け入れにくい。自分はそんな攻撃的な人間ではないと思いこみたい人はとくにそうだ。そういう攻撃欲が否定されるには、ぜんぶ他人のせいにしてしまえばよい。子どもマンガが自分の悪い部分をぜんぶ怪獣や悪魔などの悪役に背負わせたように。
でもその他人のせいは、なぜか自分のほうに矢面を向けてくるんだな、コレがおかしなことに。怒りや否定や拒否が、ぜんぶ自分めがけてふりかかってくるのである。なぜなんだろう。
まあ単純に感情のベクトルは自分と他人しかいないからだろう。自分ではないのなら、他人から向ってくるしかいない。ほんとに単純な二分法だ。攻撃のベクトルは自分に向ってきているものだと思いこむだろう。
浮遊する否定された攻撃欲は、頭を失って、他人という頭を得て、自分めがけて攻撃をしかけてくるように思えるというわけだ。自分の攻撃欲を否定したばかりに、他人から総攻撃を食らってしまったように思うというのは、なんとも皮肉な話だ。
意識が拒否したばかりに攻撃欲は復讐するのである。受け入れたくない自分の一面は排斥したり、拒否したいものだし、社会や親もそれを期待するだろう。それは怪獣や悪魔、身近な友人や他人などになすりつければいいものだ。
しかしそれがうまく立ち行かなくなったときに、不安や恐れ、悲しみなどの負の感情に押しつぶされることになってしまう。たいがいの人は他人や悪人のせいにして叩けば、すむみたいだが、それを失敗した人は神経症とかに悩むことになる。
そういう人は仮面と影の分裂から統合の機会が訪れているということである。つまり投影のとりもどしである。悪役の統合である。悪役は他人ではなく、自分の一部であるということを自覚する段階に達したというわけである。かつては自我を形成するさい、必要だった切り離された悪をもういちど統合する時期にきたということである。
注意深く他人の感情と思われているものを照合することだ。これは自分の感情なのである。自分の心のなかのことである。悪役や否定された感情・他人の性格は、たいては自分の否定したい一面だろう。他人の仮面をかむっているだけだ。
自分の感情として引き受けること。それは他人やまわりの感情ではなく、自分の心であり、頭をすげかえられた自分の感情である。自分に向ってくる怒りや攻撃や否定は、抑圧された自分の一面かもしれない。他人の感情と思われていたものを統合したときに心はひとまわり成長することになるのだろう。
――参考文献 ケン・ウィルバー『無境界』(平河出版社)「7 仮面のレベル/発見のはじまり」
感情の読み違い、心の線引き 01/2/18.
投影とか影の問題というのは感情の読み違いなのだろう。たとえば不安は興奮であり、恐れは自分の敵意であり、悲しみは怒りであり、引っこみ思案は他人の拒否といったように。(ケン・ウィルバー『無境界』平河出版社)
自分のほんとうの感情を否定するがゆえに他者からの敵意や攻撃に必要以上にさいなまされていると感じるのである。それは他人が攻撃しているのではなく、自分の攻撃欲がブーメランのように自分めがけて返ってきているだけである。
怒りや敵意、攻撃欲はとうぜん回避しなければならないだろう。それを回避するには悪役や敵役になすりつければいい。心の線引きを狭く引くわけである。
それに失敗すると他者からの脅威にさらされることになる。自分の否定された攻撃欲は他者からの攻撃になってしまう。
ということで投影のとりもどしには心の線引きをふたたび広げなければならないわけだ。悪役になすりつけていた悪感情を自分のもとして引き受けることだ。
他人の感情と思っていたものは、じつは自分の感情なのである。あるいは模造である。これはすべて自分の心の中のことである。全部自分の心である。他人ではない。
他人やまわりの人の感情と思っていたものは、自分の心にほかならない。心の片割れや投影が、もっともらしく他人の顔をしているだけである。自分の感情である。そもそも他人の感情などいちども感じたことはないのだから、自分の感情の推測や投影でしかありえない。
他人の感情は私の感情である。そして私自身が感じていた感情はその対立や片割れとしての感情である。だから他人におあずけされた敵意や怒りは、自分の恐れや悲しみとなって返ってくるわけである。ひとつの心がふたつに分けられると対立のメカニズムが働き、強い敵意は自己役に勝るわけである。
同じ自分の心を、他人役とか自己役にふりわけるのである。そして折半された自己役の感情は見たくないものを他人役になすりつけるかわりに、他人役からの脅威に脅かされるということである。
他人の感情と思っていたものは自分のものとして引き受けるのが必要なのだろう。全部自分の心の中のことだ。他人の悪意は自分のものとして確かめる必要がある。そうして折半としての自分の感情の読み違いも改めることができるのだろう。まだまだわからないこともたくさんあるけど。
他人の感情は自分の感情 01/2/19.
影や投影ってわからないことがまだたくさんあるが、他人の感情は自分の感情であると認めればわかりやすいのではないかと思う。自分と他人の関係をひっくり返してしまうのである。つまり他人の感情や世間からの目といったものはぜんぶ自分の感情であると見なせば理解しやすい。
ふつう他人の感情と自分は切り離して考えられるけど、これは切り離すことができない。それはあくまでも自分の感情で推測したものであったり、敷衍したり、あてはめたりするものである。つまり自分の感情のネガである。
私たちはじっさいにいちども他人の心の中をのぞけたわけではないので、他人は自分の感情やその経験によって推測するしかない。しかしいつの間にか、その解釈を「現実」だとか「絶対」だと思いはじめて、他人と自分を切り離すようになる。自分の「外」のものになるのである。
その解釈はある程度は当たっているかもしれないし、現実に近いものであるかもしれない。だが、やっぱり「自分の感情」なのである。
したがって感情の読み違いなんてものはしょっちゅうである。私たちはそれをたしかめないで、ひとり合点して、悩んだり、悲しんだりしてしまうのである。
やっかいなのは影の投影である。自分のいやなところを他人や悪役に押しつけて自我を形成するプロセスがわれわれにはあるみたいで、こうなったら他人の人格は実際を離れてとんでもない人格像となってしまう。
攻撃欲や怒りが他人や世間に投影されると、これまた困ったことになる。その人は必要以上に他人や世間に責め立てられ、脅かされているように思えてしまうことになる。恐怖症や被害妄想にはこのようなメカニズムが働くのだろう。
他人や世間がやたらコワイという人は、自分の攻撃欲や怒りが投影されたり、または自分の感情によって推測された他者の怒りに脅かされているわけだ。ほんとうは他人や世間が怒っているのではなく、自分が怒っていることを見たくない、見られなくなっているだけだ。
他人や世間が自分に思っていることというのは、じつは自分自身の思いにほかならないということだ。他人と自分を切り離してしまったから、他人の思いというものが、自分の心中や、感情だということになかなか気づかなくなる。
なんだ、他人や世間の思いっていうのは、自分自身がつくりだしたものなんだ。てっきり他人や世間が思っているものだと思い込んでいたけど、じつは自分が推測したり、敷衍した思いや感情にほかならないわけだ。
他人や世間の思いや感情を、自分の心の中のことだとしてとりもどすこと。それは自分の心であり、感情なのである。そうすれば、不必要に脅かされたり、悩まされたりすることはすこしは減ることだろう。自分のものだとわかるようになれば、それをコントロールすることも容易になるだろうからだ。
他人の感情は自分の感情であり、心なのである。他人がじっさいに思ったり、ほんとうに感じているように思えるかもしれないが、あくまでも自分の心や感情がつくりだし、推測したものにほかならない。しばらくは他人やまわりの人の思いや感情をじっくりと観察・検討してみる必要があるな。
ご意見、ご感想お待ちしております。
ues@leo.interq.or.jp
前の断想集「時代とサブ・カルチャー」
2001年冬の書評集「サブカルチャー分析ほか」
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